第7回 東陽寺   

立志伝を生きた塩原多助 (第7回)

 

 万年山東陽寺は曹洞宗で、本尊は釈迦牟尼仏。 1611年8月、江戸京橋

八丁堀寺町に創建されました。

 1835年5月、火災により浅草手向野町(現台東区寿町三丁目)に移転.

 1923年9月、関東大震災で二度目の火災に通い全焼しました。五年後の

一九二八年五月、伊興に移転してきました。

●「塩原太助の墓」

「本所(ほんじょ)に過ぎたるものが二つあり津軽大名炭屋?塩原」と、弘前

城主十万石と並べて歌われた本所相生町(墨田区)の豪商。

太助は一七四二年、群馬県利根郡新治村に生まれ、幼名を彦七と言いました。

1816年没.

 1876年以降、三遊亭円朝が『塩原多助一代記』を執筆、□演してから、

太助は有名人になり、戦前、立志伝型人物の一典型として一時期小学校読本

(国語教科書)にも登場しました。

 

 東岳寺(のち安藤広重の墓)

 

『塩原多助一代記』のあらすじは――百姓角右衛門の養子多助は角右衛門の後

妻おかめと女房お栄が、村の悪党どもと共謀して、自分に危害を加えようと

しているのを知り、愛馬あおと別れをつげて家を出ました。多助は江戸に出て

神田の薪炭商山□屋善右衛門に助けられ、身を粉にして働き、やがて独立して

大商人になりました。そして、多助は、かつて自分に危害を加えようとまで

した継母おかめを引き取って、終生世話をしました。

 以上は円朝の創作ですが、実人生も大筋では似たようなものです。村を出た

事情はわかりませんが、上京後は日本橋伝間町の味噌屋や神日佐久間町の薪炭

間屋山□屋善右衛門方に奉公しました。山□屋の援助で本所相生町に独立して

薪炭業を営み、巨財を築きました。そして、道路改修や上州赤谷川などの治氷

工事にも多くの私財を投じました。

 講談『塩原多助一代記』は小学校教科書にのることによって、明治初期の資本

主義的発展にむかって庶民を動員する思想的武器として利用されたのです。

 

 第8回 伊興歴史散歩― 東陽寺

 

振袖火事で一旗あげた男  (第8回)

 

●「河村瑞軒の墓」

  本名瑞賢。江戸初期の材木商。三重県渡会(わたらい)群の貧家に1617

年生れました。

13歳で江戸の親戚に養われ、26歳で結婚。家計が成り立たず、大阪に旅立

つ途中、品川海岸に打ち上げられたお盆の精霊流しのナスやキュウリを拾い、

漬物屋を開いて成功。大名屋敷の建築現場に出入りしているうちに土木知識

を身につけました。

  明暦の大火(1657年二月「振袖火事」)で、自宅が燃えるのも構わず、

木曽福島に飛んで木材を買い占め復興を請け負って巨利を得、その財力をバック

に山形最上地方の天領租米を江戸に回送するための航路を開き、淀川治水工事

にも貢献しました。

 1699年6月16日、江戸霊岸島で没。

 

 

1911年6月、朝廷がその功を追美して正五位を贈り、東陽寺に策命使(贈位

の文書を読み上げる使者)を派遣したとの記録があります。本墓は鎌倉建長寺

金剛院にあります。生前、別邸を建長寺付近に持ち、禅宗の篤い信者でもあり

ました。

●「戸日茂睡の手向野(たむけの)の碑」

 戸田茂睡は1629年、駿府国府中(静岡市)に生まれた、江戸前期の歌学者

で国学の先覚者です。名は恭光、通称茂右衛間、別号は梨本。渡辺忠の子ですが

、伯父の戸田家を継ぎ、岡崎藩本多氏に仕え三百石を与えられました。のち江戸

浅草に上り、浪人して、古典や歌学の研究にうちこみました。42歳の頃から

歌学の著述を発表、それまでの古今伝授(古今和歌集の丸飲み)を排し、新風を

唱えました。 1706年没。

 茂睡は18歳のこがなくなったときに強を立て、手向かい野と彫り、和歌(風邪

の男家のしずくも天地の絶えぬ御法(のり)の手向けにはして 茂睡」を

記しました。 1682年建立の碑は大震災で上部を取損、

1991年5月16日、新碑が再建されました。

●付記 伊興遺跡研究家故

西垣隆雄氏(元足立区中学校教員)は当寺の出身です。

 

伊興歴史散歩―常福時真宗大谷派、仏名山玉川院で、本専は何弥陀仏。

 

努力と人情の人 林家三平  第9回)

 

 

●古墳時代の遺構など 1973年、境内の発掘で5〜7世紀の大集落の遺構ガ

確認され、勾玉、管玉(くだたま)や土鍾など多数が出土しました。管玉は

竹筒状の玉で装身具に使われました。

5ミリから3センチ前後の大きさで、多くは碧色です。

●「林家三平(海老名家)の墓」

 落語家。 1925年11月25日、根岸(台東区)に生まれ、 1980年9月

20日没。本名海老名奏一郎。七代目林家正蔵の長男。奥さんは現役の

エッセイスト海老名香葉子さん。

「どうもすいません」 「うちのヨシ子さん」を連発するなど、下町の庶民の笑い

をたえず、巻き起こした独特の話り□で、 一躍演芸界の人気者になった林家三平は

1979年1月、突然脳血栓で倒れました。

 幸い命はとりとめたものの、半身不随、言語障害、正座ができなくなるなど、

噺家にとって致命傷の後遺症が残りました。

  三平は、母親の海老名歌さんや妻の香葉子さんに助けられ、中伊豆リハビリ

テーションで必死の療養と機能訓練に励みました。 「なんとしてでも復帰したい」

という一心もさることながら、再起したら新作の古典落語をやりたいという芸に

かける執念もすさまじいものがあったようです。

療養の合間はそのための準備に没頭しました。

 こうして発作からわずか9ヵ月後の1979年10月、新作古典「三平源氏物語」

を演じて、念願の復帰を実現することができました。

 「奇跡の高座」としてマスコミでも称賛のニュースを流しました。しかし、褒め

られた三平は、「客に負けたんです」と照れ臭そうに言うだけでした。

  三平は翌年7月、再び倒れます。再発ではなく、こんどは肝臓ガンでした。

再起への願いも空しく、9月7日鈴本での高座を最後に、13日後の20日、

54歳の若さで惜しまれて亡くなりました。

 

 

  伊興歴史散歩 

第10回  易行院(伊興町狭間八七〇)

歌舞伎狂言助六縁江戸桜 第10回

 

日照山不退寺易行院(いざよういん)は浄土宗、もと浅草清川町にありました

が、関東大震災後の1928年に伊興に移転してきました。開山は易道和尚、

本尊は座像阿弥陀如来金銅仏です。

 

●花川戸助六と揚巻の墓

 

1653年2月11日没と記録にある侠客花川戸助六と愛人揚巻の墓が本堂の

前にあります。七代目団十郎が建てた「助六の塚」の碑も並んでいます。

歌舞伎狂言「助六縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」は歌舞伎十八番

(おはこ)の一で、市川家代々の当たり狂言です。碑は1812年に七代目が、

助六百六十年忌の法要の際に寄進したものといわれています。

 

               

 

助六は京都の男伊連(おとこだて=侠客) 6万屋助六で、京都島原遊郭の遊女

「揚巻」と心中した事件で有名になり、歌舞伎や浄瑠璃に脚色上演されたもの。

 1716年から主人公は江戸花川戸(浅草北部)の助六になりました。

実像は不明ですが、文化年間のものという当院の過去帳によると、俗名戸澤助六、

戒名「西入浄心信士」で「承応二歳葵己(1653年)2月1日去ス.縁誉揚巻

逆修也千時」、また、「縁誉禎三信女、志厚之有施主、七代目市川団十郎、

無縁ヲ吊、墓所造立シ、永追福経営施主」とあるそうです。

元禄(十七世紀後半)のころ、厄難排除に効験あらたとの噂が巻に広まり、何回

も取り締まったが、人日を盗んで墓石を削り取る者が絶えなかったといいます。

墓は足立区登録「有形民俗文化財」

 

●「円楽の墓」

 

円楽とは三遊亭円楽。もちろん只今れっきとした現役で活躍中の落語家です。

墓石に朱文字でこう刻み込んだ粋な彼は、じつはこの寺の出身なのです。

円楽こと吉川君は伊興小学校の卒業生。戦時中の集団登校の集合場所(伊興四丁目

 狩野米店前)に、遠いためかよく遅れてきたことを思い出します。

現在中野区在住.

 

 

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