足立区民文学賞受賞者「嶋 圭」投稿
伊興歴史散歩
観光バスの来ない観光地 (第一回)
あまり知られていませんがじつは伊奥地域は、区内はもちろん、都内でも有数
の「歴史の宝庫」なのです。
14年前に開館した伊興遺跡公園・展示館(東伊興1-13-1)ご存じですか。
伊興遺跡公園―竪穴式住居跡 竪穴式住居―模型人形
あそこに行きますと、毛長川沿岸地帯の遺跡群のほぼ中央にある伊興遺跡
(遺跡公園・氷川神社周辺)から、弥生時代後期から、古墳時代までの集落
遺跡、祭記(さいし)道構、上器や遺物が多数出土しているんだということ
が判ります。
また、近くには白旗塚などの古墳跡も多く、五世紀から七世紀にかけての
約二百年間、この辺に大集落があったことが、ここ四十年来の調査で明らかに
なっています。
さらに、それ以前の縄文時代後期(約四千年前)、古墳時代初期(約千五百
年前)の出土品もありますから、伊興地域は東京二十三区内でも、もっとも
早くから文明の開けたところと言えるでしょう。
また、伊興には都指定文化財「木造観世音菩薩立像」のある実相院や「星兜」
の出土した応現寺、十六世紀初頭の下総千葉氏二十三代千葉次郎勝胤の墓が
寺域にある長勝寺があります。さらに、関東大震災後、浅革地域などの由結
ある十二寺院が移転してきました。それらの寺には御深草天皇、桂昌院(五代
将軍網吉の母)、花川戸助六、塩原太助、安藤広重、河村瑞軒、林家三平ら多く
の著名人の墓や牡丹灯寵の碑(三遊亭円朝)などがあります。板碑(中世の石
の塔婆)も、伊興は足立区出土例の一割を占め、高価な大型板碑は同じく半数
が伊興に集中しています。
このように伊興は、ホテルも旅館も土産物店もない、観光バスも来ない静かな
知られざる観光地なのです。そして、心ある人びとが心ゆくまで、拝観料も
入場料も払わずに見てまわれる、古代の遺跡時代から中近世の歴史時代に至る
までの一大野外歴史博物館でもあるのです。
では、みなさんを歴史の宝庫にご案内しましょう。
出発地点は白旗塚史跡公園です。ご期待ください。
伊興歴史散歩−2−
白幡塚史跡公園 (第2回)
面影はるか伊興古墳群
伊興地域の東北の隅、ゴミ焼き場近くの線路際にある白旗塚公園内にある
白旗塚は、直径12メートル、高さ2.5メートルの円墳(円形の古墳)
です。毛長川沿岸のこの付近にはかつて擂鉢(すりばち)塚、甲(かぶと)塚、
金(かね)塚、舟山塚、聖(ひじり)塚など、五〜六世紀のこの辺の支配層の
墳墓と推定される「伊興古墳群」がありました。しかし、現在、原形の面影を
いくらかでも留めているのはこの白旗塚だけで、「聖」だけは「聖一の橋」
など信号機の地名表示に残っていますが、他の塚は影も形もなく、正確な跡地
さえどこなのかわかりません。
徳川幕府地誌編纂取調所が1830年に編纂した『新編武蔵風土記稿』には、
この白旗塚の話が書いてあります。
合戦があったとされる白旗塚(現在は公園中央) 合戦で使用した白旗
――源義家が奥州の反政府勢力の武力弾圧に向かったとき(約九百四十年前)、
この辺で野武士数百名?の抵抗を受け苦戦したが、この塚に源氏の白旗をなびか
かせて戦い、勝利したので白旗塚というようになった。ここに近寄ると祟りが
あると言われていたが、あるとき大風が吹き、松の樹が倒れ、根元に埋められて
いた武器が露出、それを家に持ち帰った村民が大病にかかった。慌てて元の所
に埋め戻し松の樹二本を植えたので、ここを二本松と言うようになった云々と
いうものです。
一九二〇年代のころまで、この辺は見渡す限りの稲田や葦の小沼ばかりで、
人家は皆無でした。そのころも伊興では「六本杉(一九二〇〜五○年代、
白旗塚の伊興での通称)に近寄ると崇りがある」と言われていました。
江戸時代の通称は「二本松」でしたが、一九二〇年代後半には「半ば枯れた
巨木が四本」、 一九八〇年頃は「八本の松と一本のヌルデ」が生えていた
という証言があります。白旗塚史跡公園は、形状保全のための最小限の現状
変更を加えて、 一九八七年四月に開園しました。約三〇〇〇uの広さ。
万葉集ゆかりの樹木や、池には「大賀ハス」が植えこまれています。
伊興歴史散歩-3-
鎮守の森に千古の歴史 (第3回)
伊興氷川神社―東伊興2−12
伊興氷川神社は別名「淵の宮」、前方後円墳の跡だと言われています。かつて
は淵江領四十二ヵ村(足立の大半を占めた)の総鎮守でしたが、のち伊輿・
竹の塚・保木間の三ヵ村の鎮守となり、さらに一八七二年からは伊興村だけ
の鎮守になりました。
現在の社殿は一八七九年十一月の造宮ですが、そもそもの創建の時期は不明
です。三千四百数十年前の創記といわれる大宮の氷川神社(武蔵一の宮)の
分霊ですが、伊興遺跡の発掘を指揮した国学院大学の故大場磐雄教授は、
それよりもさらに数千年も以前の伊興遺跡における祭記遺跡に結びつけて、
その発生の可能性を示唆しています。
伊興氷川神社の入り口 伊興氷川神社の境内
淵之宮の語源は『南足立郡誌』 (一九二六年二月、東京府南足立郡教育会)
に、 「往昔社殿の北方埼玉県北足立郡新郷村八幡山に至る間一帶の泥江に
して渡船にて往末を通ぜしといふ意なりしを以て淵の字を充てしと 同社の
西方に舟山と稱する地名あり。営時舟を繁ぎし所なりと傳ふ」とあります。
事実、この辺一帯からは漁網のおもりである土鍾が多数出上しています。
また、参道の石段に三ノ輪某寄進と刻した石があり、この辺にニノ輪という
地名があったことを示しています。三ノ輪は水の輪、「岬の先端を川が
巡っている」という意味です。
伊興では「氷川様」と呼ばれ、毎年九月二十九日が本祭、前夜は「夜宮」
でした。両日とも境内は出店で賑わい、お囃子グルーブによる笛や大鼓の
祭り囃子が終日村中に響きわたりました。その日は赤飯を炊き、重箱に詰め、
南天の葉をのせて早朝親類などに配ったものです。このため庭先に南天を
数株それ用に栽培していた家が多<ありました。
アジア・太平洋戦争の頃は出征兵士の武運長久を祈る行進の終着点で、
社殿近くの沿道には彼岸花が群生し、まるで祭壇の飾り花のようでした。
境内には日露戦争で伊奥村から出征した三十四名の人たちを顕彰する
大石碑が立っています。
伊興遺跡公園・展示館-4-
東国の玄関で港町だった (第4回)
●「展示館」
「水辺の祭記と伊興遺跡」「毛長川と伊興遺跡」「伊興遺跡の出現前夜」
「古墳時代の祭祀」「古墳時代のくらしと文化」「古墳時代以後の伊興遺跡」
の各テーマで出土物や復元模型、写真などを展示しています。
縄文時代後期の上器片や古墳時代の上器、珍しい特大の子持勾玉(問鋼位)
や漁網用の土錘などがあります。また、須恵器は古墳時代中期(約千五百年
前)のもので、渡来人による高度の技術で制作され大和政権の管理下で出荷
された高級品です。たぶん関西からは海路を舟で伊興まで運ばれてきたので
しょう。また、この須恵器は、関東地方の出土例の大半がこの伊興遺跡から
だそうです。
伊興は関東あるいは東国の表玄関にあたる港町だったのでしょうか。
古墳時代の毛長川沿岸地帯集落のパノラマ模型は、掲示されているメモの
指示どおりしゃがんで眺めたら、あたかも数百年前の伊興のムラの一面の
車の茂みのなかに迷いこんだような錯覚がおき、思わず胸がときめきました。
そのほか、古墳時代以後の火葬墓やこの公園のある所で発掘された平安時代
の井戸跡などもかなリリアルです。大規模な遺跡のわりには控えめで小規模
な展示ですが、けっこう楽しめる内容です。
伊興歴史散歩で説明する嶋 圭さん
●「遺跡公園」
広々とした庭のあちこうに出土した住居遺構や墳墓遺構の復元模型が建って
います。その一つ「竪穴式住居」は中には入れませんが、内部は十分に覗く
ことができます。タ食前の親子四人の様子が、人物模型と食器などの家財
道具を配して表現されています。
けっこう広く、住みやすそうな住まいのようです。伊興遺跡公園・展示館は、
1992年10月1日の開設。総面積二七一六u、展示館は延べ床面積三十一
・四五u、鉄骨三階建て。入館料・入園料は無料なのに、入場者は意外と
少ないようです。トイレはありますが、売店はありません。
駐車場は百五十メートル東の道路沿い(無料)
第5回伊興歴史散歩
「牡丹灯篭」の下駄の音―法受寺 (第5回)
普貫山新幡随院法受寺は浄土宗。関東大震災後、下谷三崎(さんさき)町の
法住寺と浅草の照光山安養寺が合併して、 一九二五年、伊興に建立されました。
本尊は阿弥陀如来(法住寺の開祖恵心僧都の作)で、両脇侍に蓮弁を持った
観世音菩薩と合掌した勢至菩薩を従えています。
●「皇統八十九代で北朝―皇祖後深草天皇の僧形の木像と位牌」
終戦の前年一九四四年に当寺に来たもので、当時約八十人の町民が竹の塚駅
まで出迎え像と位牌の前後に行列を組んで寺まで運んだそうです。
もともとは息子の久明親王が、出家した父親の健康を祈って、一九二〇年二月
十五日に武州豊島郡尾久(現荒川区尾久)に当時あった法住寺に納めたものです。
足立区登録文化財。
●墨庵先生の墓
書家、手習い師匠。暮碑銘「晩年学書法者大約数千人文久二年(注 一八六二)
8月24日羅病両死干舎 享年七十三歳葬於安養寺」
怪談「牡丹灯篭」の石碑(法受寺) きくばり地蔵(水子地蔵)
●関口弥太郎の基
弥太郎は関□流柔術の関□弥六右衛門氏心(号は柔心)の第三子。父は柔術を
「やはら(やわら)」と最初に唱えた人として知られています。一七二九年十月没、
九十歳。一説に一七二一年とも。
●「怪談牡丹灯篭の碑」
1995年5月建立。碑には、お露の幽霊姿と牡丹灯篭の妖麗な絵とともに、
三遊亭円朝演述、橘右近書による縁起が彫られています。
谷中に住んでいた円朝は三崎坂の法住寺の荒涼たる風情を見て、ここを舞台
に怪談を創作しようと思ったのだと言います。怪談に出てくる寺の了碩
(りょうせき)和尚は当時実在した住職です。
麹町の旗本飯島平左衛門の娘お露は浪人萩原新二郎に恋したが父に許されず、
こがれ死にして幽霊となり、乳母お米の幽霊を伴い夜ごと牡丹灯寵をさげて
新二郎の許へ通います。三崎坂にカランコロンと響いた幽霊の下駄の書は、
いまは東伊興の法受寺から聞こえてくるのでしょうか。
将軍綱吉を操った陰の女―桂昌院
法受寺 (第6回)
●「桂昌院の墓」
「生類憐れみの令」で悪名が高い五代将軍徳川綱吉の実母の墓がこの寺にあり
ます。
墓碑銘「桂昌院殿従一位仁誉興國恵光大姉寶永貮乙酉(一七〇五年)6月22日寂」
居並ぶ墓石「感応院殿」や「照高院殿」は桂昌院の義父と実母。他にも墓域には笠間
城主本荘宗資(桂昌院の弟)など、 一族の墓が林立しています。 一六九四年六月、
桂昌院の姉瑞光院の葬儀が、住職円求和尚が京の出身で桂昌院の実家本荘家の一族
であったことから快楽院で行われ、 一六九八年二月、快楽院は照光山安養寺と改め、
一九二五年に法住寺と合併したというのが、この寺に桂昌院の墓があるいわれです。
桂昌院は一六三四年、京都堀川通りの八百屋仁右衛間の娘に生まれました。
二条家家巨本庄氏の養女となり鷹司信房の娘が三代将軍家光に嫁するに従って江戸
城に入り、家光の妾となって五代将軍綱吉を産み、家光死後出家して桂昌院と号し、
大奥に勢力をふるいました。〃大公方〃将軍綱吉の「生類憐みの令」は彼女の差し
がねと言われます。
「大類の儀これまでのように無慈悲なる取扱いすべからず、もしこれに背<者あらば
厳罰に致す」との「生類憐みの令」は一六八七年一月二十七日の公布、戦前の治安維持
法と並ぶ日本の二大悪法と言われています。最初は犬だけが対象、その後、生き物全般
に拡大、刑罰は死罪(斬首、切腹)も含み、親の罪は子にも及びました(親が切腹なら
子は遠島など)。例=大を傷つける者あればその町中の過失/捨て犬(馬・牛)禁止/
生魚の売買禁止/牛馬に重荷禁止/魚釣り禁止……なかには守られなかったのか繰り返
し出された禁止令も多い。湯島聖堂建設、古社寺の保護などの善政を施した綱吉も、晩
年は国中にわきおこる怨嵯の声に包まれ、 一七〇九年一月ついに永眠。即刻生類憐れみ
の令廃止。万人が諸手をあげて狂喜したそうです。
ああ、安保や消費税や破防法もぜひ即刻廃上にしたいものですね。