はじめに
人間はいつ言葉を話し始めたか
人間の進化を解釈する
心の進化
人間はどれだけ特殊なのか
新説 人間の心と体の進化
おわりに
追加
追加 その2
追加 その3
追加 その4
追加 その5
で、今回の内容は、「人類の祖先についての最近のお話」と比べるとだいぶ大きく違っています。はい。たった数年でこれほどまで大きく変わるとは、という感じがしますが、今回の話、結構おもしろいと思います。
きっかけとなったのは、テレンス・ディーコン著「ヒトはいかにして人となったか」という本を読んでからです。原著は1997年にかかれ、1999年には日本語版も出ているのですが、まあ、1990年代後半にかかれた本だということです。この本は、人間の言語というものがいかに特殊なものであるか、という点について、かなり詳しく書いているし、また、そのような言語をもつのには、進化の上でかなり長い時間がかかっただろうということも書いています。非常に読みにくい本ですので、あまりおすすめできないし、また、ある程度知識がないと、言っていることの意味が分かりにくい部分もあります。
さて、この本で述べていることは、人間が言語を使うにあたって、生死に関わるような重大な呼吸というものを、随意的にコントロールできる必要がある、ということを述べているわけです。呼吸が止まれば死にます。だから、呼吸はできるだけ止まらないようにしなければならないし、そうするには、心臓と同じように呼吸しつづけるようになっているべきであり、ほとんどの動物では、呼吸はそういうふうになっているらしい。ところが人間は呼吸を意識的に止めることができるし、また、呼吸そのものをいろいろコントロールできるわけです。音声言語を話すには、呼吸をはなそうとする音声にあわせて、いろいろ変化させる必要がある、ということになります。以前の話でも、ホモ・エルタスターのナリオコトメ・ボーイ(ツルカナ・ボーイとも呼ばれる)の脊髄の神経が現代人よりも少ないことをもって呼吸のコントロールが現代人なみにできない、ということは、音声言語ができなかったのではないか、とういう話がありましたけど、まあ、それはさておき、呼吸が随意的にコントロールできないなら音声言語はもてない、ということになりそうです。呼吸だけでなく、喉頭のコントロールも随意的でないと声がでません。声帯を閉じたり緊張させたりして、いろいろな声を出すわけです。が一方、声帯をコントロールするのを間違えば、呼吸困難になるわけだし、そこも随意的コントロールよりも自動的な制御にまかせたほうがよろしい。
実際のところ、人間は、音声言語のために、このあたりの呼吸困難になるリスクをおかしても、言語を発達させている、ってことになりそうで、喉にものをつかえさせて死んだりする人がいるのも、実際、言語がはなせることによってひきおこされた生命の危険ともいえる。そんだけリスクをおかしているわけです。
でも、人間だけじゃなくて、他の動物も声はだすじゃあないか、というわけです。犬は吠えるし、猿だって、いろいろな声を出します。ところが、このような声は、鳴き声、吠え声などは、その制御が脳幹に近い、脳の中心部分でコントロールされたものらしい。随意的ではないそうです。吠えるべき、あるいは鳴くべきときというのは、感情がたかぶっているとか、強い覚醒状態のときとか、あるいは、餌を見つけたとき、あるいは、敵をみつけたとき、などの生死とからんだ基本的な状況において、吠えたり鳴いたりする、というのが、他の動物の声なのだ、というわけです。
人間に一番近いチンパンジーの場合も、たとえば、食べ物をみるとフードコールという独自の声を出すようです。ところがこれはある一人のチンパンジーが食べ物を見つけると、フードコールを出し、それを聞いた他のチンパンジーは、それにつられてフードコールを出し、反射神経的に伝搬して、みなが食べ物に群がるようになる、というたぐいのものらしい。だから、賢いチンパンジーで、食べ物を回りのチンパンジーにとられたくない、というやつの場合は、なんとフードコールしそうになったときに口を手で押さえて、声がでないようにしていた、という目撃情報もあるらしいです。
同じようなことは、ベルベットモンキーの敵に対する情報もそれで、たしかに、ベルベットモンキーは、鷲が来たか蛇がきたかジャガーが来たか、によって違う吠え声をだして、警告するわけですが、これは、周囲の仲間全体に伝染して、一斉にその声をだして、それぞれの敵にたいしてふさわしい逃げ方をする、ということらしい。
このような脳の基本的な部分から出ている声というのは、脳の基本的な状態に対応して出る声なので、随意的ではなく、また、多くの場合、その声は周りの仲間に伝染して、仲間もまた同じ声を出すようになる、ということなわけです。で、人間の場合、これに近いのが、笑いだそうです。笑いは、本当におかしいと思ったときには、つい吹き出してしまって、こらえるのは難しい。つまり、笑いは随意的ではないのです。嘘の笑いも訓練すればできますが、本来の笑いとは別の仕組みで出ているってことなのかもしれません。で、笑いは、伝染性があるので、一人が笑い出すと、周りの人も笑い出します。
人間の「泣き」も伝染性があり、またかなり脳の深い基本的なところから出ているもののようで、涙を伴いますが、これもあまり随意的でなく、俳優などでも泣くのはかなり訓練が必要です。
ようするに、多くの動物の声っていうのは、人間の笑いとか泣きとかと対応するものであって、言語に対応するものではない、というのが、テレンス・ディーコンのいっていることです。でも、人間以外の動物で、例外的に、音声を随意的に操れるものがいます。
一つは、鳥類の多く。オウムが人間の声をまねしたりしますし、また、鳴鳥の類は、複雑な文法構造といってよいものをもった鳴き方で雌をひきつけたりする求愛をしたりします。鳥が随意的に声を出せる理由は、彼らが飛ぶことと関係がありそうだといいます。ほとんどの動物は、移動についてはかなり随意的な行動ができるようになっていて、よって、哺乳類の多くは四肢については、随意的に動かせるわけです。鳥の場合は、飛び方を変えるために、もちろん翼を自由に動かせるのはもちろんですが、他に、呼吸もかなり随意的でないとうまく飛べないのでは、というわけです。どっちにせよ、鳥は呼吸を自由に随意的にあやつることができるし、またそれによって声を自由に出すことができ、いろいろな音声をあやつります。
もう一つはクジラ類で、イルカも含みます。海にもどった哺乳類です。彼らの声は、鼻が発達したものらしく、他の哺乳類のような声帯を使うものと違うようですが、これまた、潮吹きと関係して、移動のためと呼吸とが関連するために、呼吸が随意的でないといけないらしい。ザトウクジラの歌などは有名だし、またイルカが、仲間と声でやりとりしているらしいことも知られています。
とまあ、ヒトと鳥とクジラ類というふうにかいてありますが、そういえば、コウモリは超音波で鳴くんですよね。うーん、これは随意的ではないのだろうか、、、。
まあ、とにかく、そういうわけで、随意的に声が出せるということは、随意的な呼吸と、随意的な喉頭の運動制御ということがあって、これは、チンパンジーはできないし、他の霊長類もできない、というわけで、チンパンジーにいくら話言葉を教えようとしても、まったくだめ、なので、手話とかいう実験が行われているわけですが、、。
で、そういうことだとすると、チンパンジーと人間は、ミトコンドリアDNAなどの話からして、600万年くらい前の共通祖先から別れたことになっていますが、この面倒な音声言語を身につけるためには、かなり長い進化の道筋があったと思われるので、音声言語は、実はかなり早い段階から、だんだんと発達してきたのではないか、というのがテレンス・ディーコンの結論であって、で、そうなると、例のナリオコトメ・ボーイの脊髄の神経の話はちょっと面倒ですが、まあ、肺の神経系はまだ未熟だったから、あまり複雑な音声はつかえなかったかもしれないが、しかし、音声言語はもうこの段階から使い始めていたのではないか、という結論になるわけです。
で、私的にはなるほど、、です。でも、もちろん、誰もが思うように、音声が随意的であることと、我々の言語と同じものをしゃべっていたということとは、違うわけで、人間以外の、たとえば、鳴鳥の類、ザトウクジラなどの音声が、我々の言語とは全く違うのと同じように、初期の人類も、音声を随意的にできるように、進化させるだけの理由はあったが、その音声は、我々の言語とはずいぶん違っていたのではないか、という考えも成り立ちます。つまり、人間は、現在の音声言語のようなものを使い始める前に、音声をつかったなんらかのコミュニケーションをしていて、で、そのコミュニケーションは、鳥の求愛のための歌のようなものだったかもしれない。で、こういう求愛行動などにからむものは、進化においては、非常に大きな淘汰圧になるので、孔雀の尾羽根のりっぱなもの、みたいな感じで、どんどん進化する可能性がある。つまり、より巧みに音声が使えるヒトが進化した、というようなものです。あり得ない話ではない。
前に書いたように、デレク・ビッカートンは、言語以前に原言語というものを考えていましたが、どうやら、それよりも前に、音声によるコミュニケーションがあって、それは、現在の我々の言語とは機能的にも異なるものだったのではないか、というわけです。前言語とでもいいましょうか。今回の記事を書くきっかけは、このあたりの話と深い関係があるわけです。
さて、テレンス・ディーコンは、本の中で、人間が進化する上で、音声言語がかなり早い段階で成立し、さらに、その言語は、記号をもつものだ、として、記号について、なにやらすごい難しい定義をしていて、あーだこーだと書いています。そこで、彼は、人間は、ホモ・シンボリックスである、とかいう。で、その理由として、人間の脳の中でも、前頭葉では、非常に高度な記号処理がなされているはずで、人間が少なくとも、ホモ・ハビリスの段階から、シンボルを操れるように強い進化圧がかかり、そして、脳が発達してきたのだ、というようなことを書いています。
私的には、うーん、この本を読んだときには、そうかもしれない、と思ったのですが、ところが一方、どうしても腑に落ちないのが、後期旧石器時代における人間の創造性爆発みたいなものです。記号処理を高度に行える抽象表現ができるような人間が、なぜ数百万年にわたって、ずっと同じ石器を使い続け、それがどうして4万年くらい前に突然創造性を爆発させて、非常に早いペースでの進歩をすることができるようになったのか、このあたりは、ディーコンの本からはあまりはっきりとでてこないわけです。
もっと良い考え方がありそうに思います。
ミトコンドリアDNAなどの解析から、ヒトとチンパンジーが分かれたのが、600万年くらい前だろう、って話になってきたのは、前回と同じです。最近あっちゃこっちゃから、その年代かもっと古い年代のもので、人類の祖先じゃあないか、という化石が発見されています。もっとも、これらについては、まだまだ怪しい部分があるのでなんともいえませんが、400万年くらい前の化石については、ごく最近南アメリカから、全身骨が発見されていて、どうやら、直立していたらしい、ということがわかっています。この化石は、1996年ごろに発見されていたのですが、最初は、300万年前のもの、と思われていました。が、最近、いろいろな年代の測定法が発達して、400万年前という結論が出た、とごくごく最近報道されました(2003年5月段階)。
不思議なことは、チンパンジーの祖先だ、という化石が全く出てないことです。人類の祖先らしきものの化石は、かなり出てきているわけで、古いものでは、600万年前だとか、確実なものでも、400万年前、あるいは、350万年前ごろのルーシーとかも含めて、そのうちのいくつかは、直立歩行していたことがかなり明確にわかる化石が出ていますが、チンパンジー君の化石は出ていません。不思議です。共通祖先の化石らしきものも出ていません。直立歩行していたかどうかは、直接的には、腰の骨でわかるし、大腿骨の骨でもわかるでしょうが、間接的には、頭蓋骨だけでも、脊髄の通る穴が、どういう方向か、ということで、頭が首に対して上にのるような方向か、そうでなくて、横方向か、というのでわかるようです。でまあ、頭蓋骨の骨が出た場合は、その顔面が結構平らっぽいし、人間的だなーというようなことと、直立歩行っぽい脊髄のくっつきかただなあということからチンパンジーの祖先ではない、と結論されるようです。
というわけで、チンパンジーの祖先の化石がみつかっていない、という疑問は残るけど、まあ、それはおいといて、どうやら、600万年前ごろ、人類の祖先はチンパンジーの祖先と別れて、どっちかというと、アフリカの東側から南にかけて住むようになったということです。最近では、オロリンとかいう種、あるいはラミダス猿人だのが最初の人類だとか、いろいろ議論されていますけど。
でぇ、直立二足歩行を始めたのは、現在までわかっている感じでは、400万年前のもののようです。ルーシーは有名ですが、これが、350万年前ですから、そのころまでには、ある程度直立二足歩行が確立していたんでしょう。ただし、ルーシーの手の骨などから、ルーシーは、二足歩行だけでなく、木登りも上手だったようで、森林での生活と、草原での生活の双方ができたらしい。300万年前ごろになると、例の足跡化石までありますので、人間はこのころに、しっかりと大地を踏みしめて二足歩行が可能になったということになります。
で、問題なのは、次でして、直立二足歩行が可能になったあと、どうやら、適応放散というか、いろいろな種が登場したようです。一応、それらを一括して、アウストラロピテクス類としていて、その中に、頑丈型と華奢型があって、頑丈型は、後に、パラントロプス類に進化し、ようするに、クルミ割り人形のように、なんでも噛める頑丈な歯と顎をもち、おもに木の堅い実などを食べるようになった種であり、後のヒト類(ホミニド類)につながったのは華奢型だろうと。
ちょっと前までは、その華奢型の中からホモ・ハビリスが登場し、これが、石器を作るようになったという話でしたが、最近は、同じ時代か、もうすこし前から存在していた、ホモ・ルドルフェンシスとホモ・ハビリスが同種であるという議論があって、さらに、ホモ・ハビリスの化石は脳の容積などもばらつきが大きく、また、その特徴が、後のヒト類につながらないのでは、っていうか、どうも、ホモ・ハビリスというのがあやしくなってきました。石器自体は、250万年前くらいのものがあって、この石器を実際につかっていたのが、どういう種なのか、まだわからない、という話があります。
まあ、なんであれ、石器は、250万年前からで、その石器の作り方は、オルドバイ式といいます。私の理解では、石器の文化は、250万年前から始まり、一部では、ずっと後まで使われていたオルドバイ式と、150万年くらい前に始まったハンドアックス(握り斧)を特徴とするアシュール式と、そして、主として、ネアンデルタール人や、初期のホモ・サピエンス(後期旧石器時代になる前の)が使っていたムスティエ式の三種類がある、ということです。で、これらの区別について、私なりの理解を書くと、オルドバイ式は、石に、石をぶつけて、薄片を作る技術で、石の形をみて、その中から薄片がとれそうな場所にもう一つの石をぶつけて、石を割る方法です。使うのは薄片で、これがナイフとして使えるわけです。肉食動物の食べ残しの腐肉などをあさるときに、骨にへばりついた肉をはぎ取ったり、厚い皮で覆われた動物の皮を裂いたりするのに、使われたと思われます。もちろん、薄片をとりさったあとの石も、鈍角の角をもっているので、これで骨をたたきわって中から骨髄を取り出す、などもやっていたらしい。こっちは、石核といいます。一つの石からは、場合によっては複数の薄片がとれますから、石核のほうも、多数の割れた面と、角をもつようになるわけです。最初は、こっちが石器だといわれていましたが、最近の石器の表面の電子顕微鏡写真などによる分析で、使われていたのは、主に薄片であったということがわかってきました。ようするに、オルドバイ式というのは、主に薄片を一発の打撃で作り出す方法、ということになります。
次のアシュール式というのは、オルドバイ式とは逆に、石核のほうを使うもので、石から、余分な部分をどんどん薄片の形で取り去り、使いやすい形の石器に仕上げるものです。とがったくさび型の形をしているハンドアックスが有名です。これは、ほとんど万能の石器で、鋭い刃があるので、ものを削ることもできるし、もちろん、薄片よりも大きいので、力をいれて仕事もできるわけです。この石器の場合、作るには、十数回かそれ以上の打撃を繰り返して、最終的な形に仕上げますので、作っていた初期人類は、かなり計画的な能力がないといけない、という話になります。
さて、最後のムスティエ式は、私の理解では、もとの石から何回か薄片をとりさって形を調整しておいて、その後で、うまい打撃を一発加えて、最終的な薄片を取り出すという技術です。ハンドアックスのようなものから、さらにぱこんと一発わって、薄いとがった刃を作り出すというものでしょう。これだと、槍先のようなものが作れることになります。
結局のところ、それぞれの石器の作り方は、目標までの到達の段階がどれだけ多いか、でだいたい区別できます。一発の打撃で作れるのがオルドバイ式の薄片。何回も打撃を繰り返すが、そのたびごとに、最終的な形に近づいていくのがアシュール式のハンドアックス。最終的な形が最後までわからず、その下準備で薄片を取り除いて整形してから、最後の打撃で、目的の石器を作るのがムスティエ式。ようするに計画性とかそういうのがどれだけ複雑か、ということになるんですが、ところで、このムスティエ式は、今、石器を実際に作って技術をためしたりしている実践考古学の人々の中でも、この技法をきちんと使ってネアンデルタール人なみの精巧なムスティエ式石器が作れるのは、世界に20人といないらしいです。非常に難しい。むしろ、後期旧石器時代以降の石器のほうが、ずっと単純に作れるということがあるらしい。
ところで、石器はよいのですが、最近の話では、木器もかなり使われていたらしい、ということがわかってきました。ハンドアックスなどがあれば、木を削ることができるので、実際にみつかっているのは、ドイツで発見された80万年前のもののようですが、当時のドイツといえば、一応、ホモ・エレクトス相当の人々が住んでいたと思われるので、彼らがかなり高度な木工技術をもっていた、と考えられるようです。木器は、化石として残り難い都合、あまりたくさんは発見されていませんが、どうも、かなり初期から使われていた可能性がある、というふうに最近の論調が変わってきました。
とまあちょっと石器の話に踏み込みましたが、まあ、最初の石器が250万年前ごろ。で、それを使っていたのは、ホモ・ハビリスというけれど、これがあまりはっきりしないので、最近では、アウストラロピテクス類にされてしまいそうです。
で、ホモ・エルガスターに至ると、これは、本格的な人間、って感じになります。ナリオコトメ・ボーイの全身骨格をみれば、これが猿だとはだれも思わない、って感じです。身長も180センチ以上。すばらしい脚をもっていて、現代人以上に敏捷に走り回ることができた彼らは、もうすっかり人間です。脳の容積については、900CC程度。多くのアウストラロピテクス類が、チンパンジーやゴリラなみの500CC程度。はっきりしないまでも、ホモ・ハビリスは、600CCから、800CC程度というわけですが、ホモ・エルガスターは、かなり大きい。もう木の上で生活していた可能性はほとんどなく(もちろん、現代でもターザンみたいな生活はあり得るのですけど)、本格的に大地を走り回っていた感じがします。ただし、使っていた石器は、どうやらオルドバイ式のようです。で、このホモ・エルガスターは、最近、グルジアのドマニシというところから発見されていて、だいたい180万年前です。使っていた石器はやっぱりオルドバイ式石器でした。有名なジャワ原人の古いものも、だいたい180万年くらい前の化石とされていますので、ようするに、ホモ・エルガスターは、場合によっては、250万年前ごろに登場して、それが、200万年前ごろには、全世界にむかってアフリカから出ていった、ということになります。で、そのうちのアジア方面にいったものは、ホモ・エレクトスとなり、その最後のほうは、数万年前まで続いたようです。不思議なのは、アフリカや中近東、ヨーロッパなどでは、ホモ・エレクトス(あるいはエルガスター)は、140万年前ごろに、アシュール式石器を使い始めるのですが、アジアでは、ジャワ原人(ホモ・エレクトス)は最後までオルドバイ式石器を使い続けた、ということで、彼らは、石器はあまり発達させず、竹細工をしていたんじゃあないか、とかいう説があります。
私的な解釈は、多少先走りではありますが、実際に石器を使い始めたのは、脳の容積が十分大きくなったホモ・エルガスターであり、彼らは、実際には、250万年前か、もうすこし前にすでに存在していて、ホモ・ハビリスとかホモ・ルドルフェンシスというのは、アウストラロピテクス類の生き残りであった、ということになるんじゃあないかと思います。
脳容量からすると、ホモ・エルガスター(あるいはホモ・エレクトス)は、ゆっくりですが、だんだんと大きな脳をもつようになっていって、100万年前から50万年前ごろになると、現代人の脳容量の範囲の中に入る1200CC程度まで発達します。これは、全世界的にそうなのであって、彼らはかなり脳をつかって生活していた、ってことにはなります。火を使い始めたのも彼らだということになります。
ところで、ホモ・エルガスターとホモ・エレクトスの区別は、まだ学界内でも揺れているようですが、基本的には、ホモ・エレクトスは、アジアの直立原人であり、アフリカのものは、ホモ・エルガスターということになっているようです。
で、このような中で、ホモ・エルガスターのアフリカにいたものの中から、脳容積などの上で、現代人と同じくらいで、解剖学的にみれば、ほとんど現代人かも、と思えるものがでてきます。古代型ホモ・サピエンスとか、あるいはこれはホモ・サピエンスそのものといってよいのかもしれません。一方、ヨーロッパでは、20万年前ごろから、はっきりとネアンデルタール人らしき人々が登場します。で、ネアンデルタール人の脳容積は、現代人を上回ります。もちろん、ホモ・サピエンスも、初期、あるいは後期旧石器時代のほうが現代人よりも大きく、1500CC以上だったりします(現代人は、1300から1400CCあたりが普通らしい)。
では、脳の拡大はどういう理由だったのか、なんてあたりがわからないところです。たしかに、石器などは脳容積に合わせて精巧な作りになるようです。ホモ・エルガスターの初期型は250万年くらい前に現れて、たぶん、脳容積は800CCから900CC程度。で、オルドバイ式石器を作る。で、この種は、200万年前かもっと前には、アフリカから出て、全世界(陸続きで歩いていける範囲なら)に進出していったわけで、気候の変化などにも対応できる柔軟な知能があったことがわかります。でも、石器としては、オルドバイ式石器を使い続けると。150万年くらい前になって、脳容積が1000CC以上になってくると、石器は、アシュール式になってくる。さらに、このあたりで精巧な木器が使われるようになってきた証拠もある。大規模な狩りなどが行われていた可能性もありそうです。でもって、1500CCを越える脳をもつネアンデルタール人や初期のホモ・サピエンスは、っていうと、複雑なムスティエ式石器を作っていたし、毛皮を利用したり、死者を埋葬するなんていうこともしている、けど、文化は変化せず、10万年以上にわたって、文化的な停滞があったことも事実です。
ところが、このムスティエ式石器をつかっていた初期ホモ・サピエンスは、解剖学的にみると、現代人とほとんど同じわけで、しかも、ミトコンドリアDNAから考えて、現代人の祖先となるいわゆるイブの年代は、15万年か20万年前だということになるのですが、この時代は、初期ホモ・サピエンスの時代であって、まだムスティエ式石器などが中心の時代です。後期旧石器時代がやってくるのは、世界の多くの場所で4万年前。さかのぼっても、オーストラリアへの移住などの6万年まえ。アフリカで、多少なりとも、後期旧石器時代的な文化とみえるHP文化などが現れるのが10万年前です。でも、現代人は、どのような民族であっても、後期旧石器文化よりは進んだ文化をもっているわけだから、進化論的な意味では、現代人は、15万年前には十分に現代人と同じ能力がある人々が登場していて、そこから、全世界にむかって、いわゆる「アウトオブアフリカ」をやってのけた、ってことになります。でも、彼らは、後期旧石器文化をもっていたわけではなかったらしい。後期旧石器文化が始まるのは、それぞれの地域で、個別に発生していて、ヨーロッパでは、4万年前。オーストラリアへの移住は船をつかったらしく、またオーストラリアの壁画などの存在から、6万年前ごろに後期旧石器文化をもった人がオーストラリアへ移住したらしいし、アフリカでも本格的な後期旧石器文化になってきたのは、やっぱり5万年前とかそれくらいです。でも、現代人の中で、後期旧石器文化になっていなかった人々はいない。
もう一方で、後期旧石器文化の中でも、特異なシャテルペロン文化は、明白にネアンデルタール人の文化であることがわかっていて、彼らも、後期旧石器文化をもつことはかろうじてできた、あるいは潜在的にそういう能力がかなり以前に備わっていた、ということになります。一般的には、シャテルペロン文化は、ヨーロッパにクロマニョン人などのような後期旧石器文化をもつホモ・サピエンスが現れてから、その影響ではじまったとされていますが、極端な話、チンパンジーはいくら教えても、後期旧石器文化にはならないので、影響があったにせよ、それを受容する能力がなければ、受容できなかったはずです。その意味で、シャテルペロン文化は、同じ時代のクロマニョン人の文化にくらべて、貧弱だとかいうけれど、まぎれもない後期旧石器文化なのですから、そういう能力をもつネアンデルタール人がいたこともたしかなわけです。混血説もありますが。
とすると、知能などの上では、後期旧石器文化にいたるだけの能力がありながら、そうならずに、ムスティエ式石器をつくりつづけていた、初期ホモ・サピエンスやネアンデルタール人と現代人はどこがどう違っているのか、っていうのが、一番不思議な問題になる。それと、最初に述べた、言語の問題。言語の発達、とくに音声言語の発達は、どう考えても、数百万年単位の時間がかかっているはずだ、とすれば、すくなくとも、ホモ・エルガスターの段階で、音声をつかったコミュニケーションははじまっていたはずで、それは、一貫して、脳の発達ともからんでいて、脳はどんどん大きくなっていった。けど、後期旧石器文化になるまでは、人間の創造性のようなものはみられない。石器作りが、オルドバイ式から、アシュール式を経て、ムスティエ式にいたるまでにたしかに、どんどん知能が発達したことはわかるけど、それは進化の速度と対応して知能の発達がみられるだけで、本当の人間の創造性とは、やっぱり後期旧石器時代に入っていこうの爆発的な進歩というものではないか。言語ももっていたのに、そして大きな脳をもっていたのに、生活面でほとんど進歩しない、ホモ・エルガスター後期型とかホモ・エレクトスとか、初期型ホモ・サピエンスとかネアンデルタール人とか、そういうのは、どういう精神構造をしていたんだろう、っていうのが疑問になるわけです。
このあたりは、テレンス・ディーコンの「ヒトはいかにして人となったか」からは、出てこない話なんです。
この「心の先史時代」という本では、進化社会学や、チンパンジーの行動の観察、そのほかもろもろを考慮して話は進み、そこから、後期旧石器文化(この本では、一般的な名称として上部石器時代文化と呼んでいる)に至るまでの心の進化を扱っています。
まず、チンパンジーの知能や行動が、人類とチンパンジーとの共通祖先に近いという仮説のもとで考えると、チンパンジーの行動、知能が人類とどう違うのかということから、人類がどう進化してきたのか、が見えるだろうというわけです。まず、彼らの言語能力。たしかにカンジという名のボノボ(チンパンジーの亜種)は、かなり言語をあやつることができるとかいうけれど、その内容が非常に限定されている、なんていうことがあるそうです。単純な要求とかはできるが、そうじゃないものは難しいとか。そこで、基本的に言語能力はないとみなされています。最近の本では、一時非常にさわがれたチンパンジーの言語能力が、どっちかっていうと低く見ている本が多いです。それから、チンパンジーは、猿真似ができない、なんていう話があります。たとえば、チンパンジーは、仲間どうしでも、人間に対するときでも、人がやったことをそのまま真似をすることはせず、人(あるいは他のチンパンジー)の行動をヒントにするけれど、その行動自体は、自分で学習して獲得する、というわけです。たとえば、この間は、日本のほこる優秀なチンパンジーアイ(愛)ちゃんとその息子のアユム(歩)君の番組を見ましたが、たしかにその通り。蜂蜜の入ったビニールの瓶を壁につけておいて、そこに穴があいていて、穴から、紐をとおして、蜂蜜をつけてひっぱると、蜂蜜がなめられるようになっている、ってときに、親(アイちゃん)がやっているのをアユム君がみて、同じことをしようとするけれど、真似をするのは、穴から「なにか」をつっこんで、取り出すところまでで、なにをつっこむか、その場合の手の使い方はどうするか、というようなことは、真似できず、自分でそうとう苦労して試行錯誤する。で、実際、その他のチンパンジーも、みなそれぞれ別のものをつかって自分なりの方法を学習する、獲得する、ということらしい。つっこむのも紐だったりプラスチックの棒だったりゴムチューブだったり。人間であれば、一番うまいことやっている人のを見て、それをそのまま真似する方法をとるけれど、チンパンジーはそうはしないし、また、うまくできないでもがいている息子に対して、アイちゃんが教えてあげることもしない。これは、野生のチンパンジーでもそういうことらしい。
ところが一方で、チンパンジーは、ものすごい社会生活があります。チンパンジーに限らず、高等な猿類の社会は非常に複雑で、まず、群があると、群の中での順位がきまっていて、順位の低い猿は高い猿に対して、挨拶のしかたも決まっているとか。で、順位の低い猿は、それに満足しているわけでもなく、勢力争いとか、騙し合いとか、さまざまな手段で、順位を上げて、ボスになろうとねらっているとか。こういう社会的な文脈における猿の行動は、そうとう狡猾で、ものすごい複雑なことをするし、相手の手を読んで、自分はその先回りをするとか、さらに、自分の派閥をつくって、その派閥の力で、喧嘩をしかけて、などなど、いわゆる人間社会の「政治的かけひき」の類をいくらでもやっているのが猿の社会である、ってことになります。ここでは、仮説推論などもつかわれているし、願望達成のためのさまざまな手段が使われていて、非常に高度な知能をもっているように思われるわけです。
また、チンパンジーなどは、博物学的な能力もあって、どこにいけばどのような餌があるか、また、その餌(果実)は、どの時期(季節)なのか、などもわかっているようです。おなかが痛いときにかじる草はどれがよい、などという知識も備えている。そういう意味では、かなりの知能があるように見える。
さて、そこで、スティーヴン・ミズンは、このような知能などを、モジュールとして考え、スイス・アーミーナイフという考えかたをします。スイス・アーミーナイフとは、折り畳んだ状態ではなんだかわからないけど、ひっぱりだすとはさみもあれば、ナイフもあれば、爪切りもあれば、いろいろなものが折り畳んであるナイフのことです。
で、まず、チンパンジーには、社会的文脈に対する心のモジュールがあって、これは、もっぱら社会的な文脈に対応できるようになっていると。つまり、社会的文脈においては、どう行動すべきか、どうすれば相手を出し抜けるか、などを考える知能をもっている、能力をもっている。つまり、社会モジュール。しかも、高等な猿や類人猿の多くは、自分と同じ種の猿が、自分と同じ心をもっていることを知っているので、社会モジュールにおいては、相手の行動を、自分ならどうするか、を考えて、仮説をたて、それに対して、先手を打とうとするなどの高度な働きがある、というわけです。群社会の中において、群の構成メンバーをすべて把握し、それらの順位も把握し、自分の位置づけも行い、かつ、自分が相手の立場のときの行動を考えて、それを相手の行動として仮説をたてる、かなり高度な知能を持っている、というわけです。ただし、これは社会的文脈でのみの話だ、というわけです。
次に、博物学的な文脈での記憶、マップというものも備えていて、これは、これでこの文脈で使われる能力であって、どこでいつ餌が手にはいるか、などを認識し、記憶し、利用する能力です。ところが、これは社会的文脈とは無関係なので、たとえば、ある猿が、特定の場所で特定の果実がとれることがわかっていたとして、それを別の猿に教える(つれていくだけでも教えることになるでしょう)、ということはしないし、また、そのような教える行為によって、相手の猿に利益を与えることで、逆に自分の社会的立場を強化する、というようなことにも使わない、というわけです。あるいは、餌として果実の有る場所を教えないまでも、果実をもってきて、他の猿に与えて、それによって、自分の地位を向上させるようなこともしない、というわけです。そこで、完全に切れている。
さて、ほかに、チンパンジーには、一般的な知能というのがあって、複雑な問題で、アーミーナイフのようなそれぞれのモジュールでは対応できないことを深く考えてやるための知能、認識の仕組みで、複雑な問題を解決しようとする場合に使われるモジュールだというわけです。で、ミズンは、これまでの多くのチンパンジーの実験などでは、もっぱらこの一般知能のモジュールの能力を見てきたのではないか、といっています。チンパンジーの記号処理、アイちゃんの優れた能力、カンジの言語能力などなども、この一般知能だろうと。
だとすると、ここから、先史時代の、つまり、後期旧石器時代になる前の人類の心も、推測できるのではないか、というわけです。
どういうことかというと、チンパンジーが社会的文脈で非常に高度な知能をもち、狡猾で、先読みもして、先手をうってなどもするし、相手の心理状態を読んだりもする、とすれば、初期の人類もこの能力があったはずだ。が、しかし、その能力はその社会的文脈でのみ閉じていて、その高度な先読み、仮説推論などが、たとえば、石器作りなどにはまったく活かされていない状態だというわけです。ホモ・エレクトス(あるいはエルガスター)が、アフリカを出て、旧世界のほとんどに移住することができたのは、高度な博物的認知の能力があったからで、季節の変化にも対応し、それぞれの地域でそれぞれの地域にあった食料をみつけだし、狩りをする能力があったはずであるが、それは、それで、その能力に閉じていて、それが、社会的文脈と関連することはなかったのではないか。餌を大量にもってきたら、その人物が偉いとか、社会的に評価されるとかいうことはなかったと。
で、チンパンジーは、おそらく社会モジュール、博物モジュールと一般知能というものをもつとしたら、初期人類は、その他に、言語モジュールや、石器や木器を作るときのための技術モジュール、あるいは物理モジュールというものをもっていて、言葉をしゃべることも、石器をつくることも、そのモジュール内で閉じていたはずだと。ただし、言語のモジュールは、おそらく、社会モジュールと密接に結びついていたので、言語モジュールは、独立ではなく、社会モジュールの一部であろうと。
ここで、言語の話になるわけです。チンパンジーは、だいたい80人の群をつくるらしい。猿類では、50匹程度で群れを作る、などということで、その群の中の固体の数は、なんと前頭葉の面積に比例する、という説があって、で、その場合、人間の前頭葉の面積からすると、150人くらいの群をつくるのがよいらしい、と。で、そうしてみると、軍隊の中隊の数がそれくらいだとか、いろいろあるそうです。ところで、ここで猿が、あるいはチンパンジーが群れをつくっている場合の固体同士の親睦のはかり方、というのがあって、それは、もっぱら毛繕いなのだそうです。英語ではグルーミング。グルーミングは、一対一でやるので、グルーミングで親睦を図ろうとすると、群の数が大きくなると、難しい。1日のうち、グルーミングは最大時間にして30%ぐらいが限度だろう、ということになると、群のみんなとグルーミングができる限界は、80人程度だそうで、これが限界。じゃあ、人間がかりに前頭葉の大きさからみて150人だとすると、グルーミングよりも効率のよい親睦をはかる方法が必要で、それが言語だというわけです。言語だと、一度に複数の人とおしゃべりができて、効率がよいとか。なんか、ちょっとあまりにもあまりにもなので、後のほうで、私なりに、もっと明快な答えをかんがえておきます。
重要なことは、グルーミングと言語を同じ社会的機能をもつもの、として考えてみる、というわけです。人と人とのコミュニケーションは、その人それぞれの社会における立場をきめ、それで勢力争いをし、喧嘩もし、愛も語り、という、まさに猿の社会では、毛繕いでやっていることを、人は言語でおしゃべりしてやっていると。そういうわけで、じゃあ、我々人間、言葉をなににつかっているか、というと、噂話、ゴシップ、たあいない話、世間話、愚痴、悪口、そういうものが言語を使う場合のかなりの量をしめているだろうと。そうなると、機能的組織である会社などでも、上司の悪口、職場での人間関係などが話題になることが多く、で、偉い管理職の人たちは、組織の作り方、だれをどの部門に据えるか、という人事、どの組織がうまくいっているかという順序付けなどなど、取り引き、陰謀、いろいろ、どれも社会的な文脈じゃあないかと。一方で、技術、物理的文脈は、無言であり、匠の技は口ではつたえず、見て弟子に教えるしかない、とか。
そういうわけで、グルーミングに代わるものとして、言語が選ばれ、言語はもっぱら社会的文脈でのみつかわれていた、としたら、高度な文法構造や高度な表現形式、さらには尊敬や謙譲を表す敬語の類がそろっていても、それらはもっぱら社会的に意味があることではあっても、技術の進歩とは無関係だ、ということも「あり得る」わけです。 もちろん、それらは、博物学的なモジュールともほとんど無関係で、言語によって、どこにどのような食べ物があるとか、そういうことを伝え合おうとすることはなく、また、言語は、技術や物理のモジュールとも無関係で、石器の作り方、「ここのこういう場所に石をあてるともっと鋭い石器ができる」とかいう話をすることもなく、無言で石器をつくり、無言で腐肉漁りや果実採集をして、あるいは狩りをして、で、もっぱら社会的文脈のために、言葉を交わす。これが、先史時代の人々の生活だったのではないか、というわけです。
たぶん、求愛行動とも関係して言語が生まれたのではないか、というのは十分に考えられることで、それは、鳴鳥の求愛行動などからしても、人間がそういうことをしなかったはずはないということになります。
とすれば、150万年くらい前のホモ・エルガスターは、あまり制御できない肺をつかって、母音ばかりで子音の種類の少ないような言語で、もっぱら噂話とか、悪口とか愚痴とか、騙し合いとかそういうことをしていたんじゃあないか、あるいは、だれそれがだれのこと「すっきとか、きらいとか」みたいなそういう話。そういうのをにぎやかにやりつつ、一方で、石器は無言で作るか、そういう井戸端会議をしながら、無意識で石器を作るとか、そういうことだったんじゃあないか。石器の作り方を議論することも、みんなで集団行動すべき狩りの仕方を議論することもなく。
なんかこれもちょっと信じられない部分もあるんですけど、可能性は十分ありかな、と思ったし、これだと、言語能力とはなにか、というのもなんかわかってきたような気がします。
さてこうなると、じゃあ、だいたい4万年前ごろに起こった後期旧石器時代への移行はどういうものだったか、ということになるんですが、まあ、これはつまり、社会モジュールともいうべきものと、自然や動物の行動を理解し認知する博物モジュールと、道具をつくったりに関係する物理モジュールというものが、統合されたということだろうということになります。で、ぶっちゃけていえば、社会モジュールでもっぱらつかわれていて、社会生活の中で重要なコミュニケーション手段だった言語が、他のモジュールにも浸透していったということになるわけです。で、ここにきて初めて、「石器作るのに、こうやって石をあてたら、よく切れる刃ができるなあ」というような会話ができるようになったと。そのときにどういう知能の認知の変化があったかというと、社会モジュールの認知の仕組みを、他のモジュールにも応用した、というわけです。つまり、これまで、自分たち人間のみで通用していた社会というものを、周囲の動物や、さらには自然、モノにまで広げるということで、これはつまり、擬人化であると。
たとえば、それまではは、自分たちの仲間である人間、同じ群の仲間である個体同士に通用させてきた認知の仕組みを、動物に適用して、動物もまた同じ社会の一員だと思うようになると、動物に人間と同じ心を見いだすことになります。動物は姿形は人間とちがっていても、同じようにものを食べ、同じように排泄行為をして、同じように求愛行動をしてなどなど。この擬人化によって動物の心を見いだす能力は、狩猟においては非常に重要で、それまで十分に培われていた博物的な認知で、非常に詳細に動物の行動を見てきた人間にとって、そこに心を見いだせば、動物の行動予測が非常に正確にできるようになります。それまでは脈略なく、「ここにこの時期にいけばこの動物がいる」ということだったのだけど、「雨が降った。動物はこれまでの日照りで喉が乾いているから、水をのみに川の近くにくるだろう」というような予測が可能になります。つまり、動物の行動予測ができることで、狩猟の効率も上がる。同じように自然やモノにも心があると考えることで、それらの変化などについても、社会を自然にまで広げることができるようになり、そこに「自然を動かす神がいる」という概念に結びつくだろうと。
こういう認知の変化、認識の変化は、脳の処理能力としてはなんら変化しているわけではなくて、ようは、モノの見方の変化であることになります。だから、一定の水準にまで知能が発達していた初期のホモ・サピエンスはある時、そのようなモノの見方ができるようになると、それは文化として伝わり、周囲の人々もそのものの見方ができるようになる。だから、能力としては15万年前くらいにそれだけの能力をもっていたが、その能力を発現させたのは、4万年前くらいだろうと。
ミズンは、スイス・アーミーナイフのような心と、一般知能というものを考えているわけですが、人間においては、主として社会モジュールが一般知能と融合して、他のモジュールも巻き込んで超知能のようなものを生んだと考えています。で、それが今の人間の心なのだと。
非常に納得できる話でした。
これまで一般的にいわれてきたことは、進化というものは、淘汰によって起こるが、人間の場合は、医療の進歩によって、淘汰がほとんど起こらなくなったので、選択されることもなく、場合によっては生存に不利益をもたらずような突然変異があっても、医療の力で克服されてしまう。よって、人間は進化しない、というものでした。ところが、まず、この本では、淘汰はかなり行われているということを述べていて、受精から受胎して、出産までの間に、半数以上が淘汰されるということを述べています。別に中絶とかではなくて、実際には受精卵のかなりが着床しないのだ、などということと、また、ほとんど気がつかないうちに流産している例も多く、そこでの淘汰は相変わらずかなり激しいのだということがあります。
また、進化的な変化と、単純な身体的な適応の違いの例として、同じ高地に住んでいる民族として、考古学的に考えて過去1万年以上にわたって高地に住んでいると思われるチベット人と、過去数千年にわたって高地に住んでいるアンデスの人々との違いについて、その高地への適応の違いを述べています。
ほかにも、鎌形赤血球病とマラリアとの関係やさまざまな例で、人間における進化、しかも遺伝子レベルでの違いというものをわかりやすい形で紹介しています。
こうしたあとで、人類の進化の歴史を振り返り、その進化の速度を見直します。人間にもっとも近いのはチンパンジーであり、ついでゴリラ、そしてオランウータンがいます。ミトコンドリアDNAの違いなどから、人間とチンパンジーがもっとも近縁で、分かれた年代は、600万年前ごろ、とされています。しかし、チンパンジー同士でも、亜主のボノボとチンパンジーと分かれたのは300万年前であり、また、オランウータンでは、スマトラ島とボルネオ島のオランウータンは、やはり200万年以上前に分かれたことがミトコンドリアDNAの違いによっておおむね判明しているようですが、実際、ボノボとチンパンジーの違いは、非常に小さく、また、オランウータンについては、スマトラ島とボルネオ島との違いは、全く区別つかない程度のものでしかないというものです。しかし、人間の場合、300万年前のアウストラロピテクス類、あるいは、200万年前のホモ・エルガスターと現代の人類の違いは非常に明確であるし、また、たった60万年前か場合によっては100万年前に分かれたというネアンデルタール人と現代人との違いも、解剖学的に見てかなり違うといえます。もちろんこういう議論においては、人間同士だと違いがわかりやすいが、チンパンジーだと、どれがどれだか認識しにくいという話があろうということで、これを、体の大きさ、いろいろな部分の計測値のばらつき、さらにはできるかぎり客観的な身体特徴などから割り出していく必要があります。
そこで、ミトコンドリアDNAの違いに基づいて、ゴリラ(マウンテンゴリラとローランドゴリラの二つの亜種を考える)、チンパンジー(ボノボとチンパンジーの違いや、チンパンジーの地域の違いも考える)、オランウータン(ボルネオ、スマトラの違いも考える)とヒトとの違いを見てみるわけです。そうすると、ヒト以外の種の場合におけるDNAの違いに対する身体特徴の違いと、ヒトの場合の違いが非常に明確になります。そこから単純にかんがえていくと、ヒトの進化の速度は、チンパンジーとの共通祖先から考えた場合、ざっとチンパンジーの進化速度の10倍以上になるということになります。実際問題として、これまで差別や偏見のもとになっていた人種的な違いというものも、現在のミトコンドリアDNAでのばらつきを考えるかぎり、せいぜい過去10万年の間に起こったことで、また、ホモ・サピエンスの化石からわかることは、数万年前の人類は、どの地域の人々もみな似ていて、現在の民族の中では、オーストラリアのアボリジニがもっとも祖先型に近いという話もあります。一般に白人の祖先とされるクロマニョン人もおそらく肌の黒いアボリジニのような姿であったのではないかというわけで、これがたかだか5万年とかそういうものです。つまり、人種の違いなどは、せいぜいここ3万年とかそういう間に起こったことであると。チンパンジーはボノボを除いて考えても、地域ごとの違いは、ミトコンドリアDNAの違いからの推定で、数十万年くらい前に分かれたと考えられるわけです。
では、人間の進化はどういう方向に向かっているのか、加速していく進化の方向は、というと、それは、適応放散の方向であるというわけです。つまり、人間は新しい生存の場として(地域もさることながら生活パターンなどもふくめて)、非常に広大な領域を得たので、それぞれの地域、生活パターンにあわせてどんどん適応していくと。人類の進化の過去の歴史をみれば、たしかにそのとおりで、直立二足歩行を始めたアウストラロピテクス類も、適応放散ともいえる形で、さまざまな種がアフリカにいて、それぞれが、それぞれの生活の場をもっていたことが判明しつつあります。チンパンジーが600万年の間、おそらくほとんどその生活パターンを変化させず、地域ごとに分かれて遺伝的な意味での交配がなされなくなって以降も、その生活パターン、生活の場を変化させることがなかったのに対して、アウストラロピテクスは、一方では、クルミ割り人形のようなパラントロプス類へ進化したし、また一方では、ホモ・エルガスターへも進化したし、その過程では、一種類の人類と考えてよいのかどうかあやしいさまざまなホモ・ハビリス類を生み出したわけです。
で、パラントロプス類も、けっして失敗した種ではなく、100万年前ごろまで、アフリカではホモ・エルガスターや、かなり進歩的なホモ・サピエンスの一歩手前くらいまでの種と、一緒に生活していたわけです。その意味では最初のパラントロプス類が現れてから、100万年か200万年生息していたわけですから、十分に成功した種だといえましょう。さらに、直立二足歩行を真に確立したホモ・エルガスター(あるいはホモ・エレクトス)は、その生活の場をアフリカだけでなく、旧世界のほとんどの地域に拡大したわけだし、その結果として、それぞれの地域でそれぞれの特殊化をしていったわけです。最近では、ジャワ原人(種としてはホモ・エレクトスの標準型)が東南アジアにおいて、どのように進化していったのか、どのように特殊化していったのかがわかってきました。アフリカから外に出ていったホモ・エルガスターやホモ・エレクトスもまた、それぞれの地域で、百万年以上にわたって、それぞれで進化してきたわけです。かなり成功した種だったのです。
そして、現代人の場合、さらに話は複雑で、一方で適応放散しつつ、さらに、最近では、国際的に混血がなされるようになって、さらにさまざまなタイプの人々が生まれるようになったことで、一層進化の速度が速くなったといえるわけです。また、生活パターンが複雑になり、それぞれ違う能力が要求されるようになると、それぞれで有能な人々が必要とされる。突然変異的に新しい能力をもった人が現れたときに、その人の能力が発揮できる場が世界のどこかに与えられることによって、それら新しい可能性が淘汰されずに残るしその能力を発現する場が与えられるわけです。これが進化の速度をさらに加速するとウィルズは考えているようです。
で重要なことは、人間とチンパンジーで根本的なところはほとんど変わっていないということです。チンパンジーの地域ごとの違いにくらべれば、人種の違いは非常に小さい。だから、脳の中で特別な違いがあるわけではないのです。その意味では、人間もまた、霊長類の一種にすぎず、脳の基本的な配線も、骨の発達もみな基本的には同じです。では、どこが違うかというと、容量が違う、形が違う、ということになりましょうか。チンパンジーと人間は、遺伝子的にみれば、1.6%の違いしかない、ということで、ほとんど同じ。血液などでみれば、チンパンジーも、人間と全く同じABO型がありますし、人間のかかる多くの病気にもかかります。最近では、エボラ出血熱がチンパンジーやゴリラの間でも猛威をふるっていて、個体数が激減しているという話もあります。決定的な違いは、脳の容量とか、体の全体のプロポーションとか、そういうのが違う。
また、ウィルズは、他の種でたいしたことのない遺伝子的な変異が、人間の場合にかぎって、多くの場合、脳の疾患となって現れると語っています。たとえば、チンパンジーの場合、脳の容量の個体差と、脳に至る頸動脈などの太さの個体差はほとんど無相関ですが、人間の場合は、脳の大きさと血管の太さには明確な相関があるので、脳を大きくする遺伝子と血管を太くする遺伝子がそろっていないと、脳疾患が起こることになります。ようするに、チンパンジーであれば、なんの問題もない遺伝子的な変異が、人間の場合は、主として、脳の異常を引き起こし、精神障害や脳発育不全を起こし、これらがその変異をもつ人にとって大きな不利益となるわけです。
種との違いを図るミトコンドリアDNAについても、どうも人間の場合は、ミトコンドリアDNAの変化が他の種より遅いようだ、と言っています。ミトコンドリアは、細胞内で酸素呼吸をつかさどる機関なので、このミトコンドリアにおけるDNAの微少な変異が、酸素呼吸の能力の違いになり、他の生物種では、それが、ほとんど影響がなくても、もっともエネルギー消費の大きい脳への影響が無視できない場合が人間の場合はかなりあるというわけです。そこで、ウィルズは、ミトコンドリアDNAの違いから現在人間の祖先が、およそ15万年前といわれているのも、実際には、50万年くらいにさかのぼってよいのではないか、としています。そうだとしても、現在多くの人が認めるようになった、アウトオブアフリカモデル、つまり、現在の世界の人類は、アフリカにいた種族から始まったとする説について、とくに大きな変更をする必要はありませんし、ネアンデルタール人と人間との混血があったとか、ヨーロッパ人はネアンデルタール人の子孫だと言う話にはなりませんが、しかし、ホモ・サピエンスの年代はもうすこし古く成り得るということになりましょう。
さて、この「プロメテウスの子供たち」というウィルズの本は、非常におもしろいし、ここで紹介しなかったけれどももっともっとおもしろい話がたくさん書かれているのですが、まあ、このあたりでやめておいて、最初のディーコンの「ヒトはいかにして人となったか」と併せてもう一度考えることにします。
繰り返すけれど、ようするに、人間とチンパンジーの違いはたいしたことではない。しかし、その大したことではない違いの多くは、脳の違いであり、ディーコンによれば、それは、人間がホモ・シンボリックスとして、記号処理ができるようになったことであり、そのために大きな前頭葉をもつにいたった、ということだというわけです。最初にはなした、音声を自由に随意的にあやつれるのは、鳥とクジラ類と人間だけ、という話についても、脳の機能の転移ということを使って理解できるといいます。たとえば、ある動物において、脳のAという場所が、体のXという場所を制御しているとします。しかし、胎児として生まれたときには、脳のAという場所は、体のYともZともつながっていて、脳のBという場所も、体のYだけでなく、Xともつながっている。しかし、成長とともに、もっとも強く結合している場所が強化され、ほかの神経接続はどんどん切れるので、最終的に、成長した段階では、脳のAは、体のX,脳のBは体のYと対応するようになると。
自由に声を出すためには、随意性の高い脳の部分、つまり前頭葉に近いところと、肺の筋肉や喉頭の筋肉が神経的にむすびついていなければならない。チンパンジーではその結びつきがなく、結びついているのは、より脳の根幹に近いところだけなので、叫びや、餌をみつけたときのフードコールなどしかできない。しかし、人間はその結びつきがあるので、自由に声を出せる。しかし、胎児の状況ではチンパンジーでも人間でも、同じようにいろいろな結びつきがある。じゃあ、人間の場合は大脳皮質と喉頭や肺の筋肉との結びつきが切れずに強化されるのに、チンパンジーだとなぜ切れるか、ということになるわけで、それは、人間の場合は、脳の中の容量がチンパンジーより大きいからだ、ということになります。容量が大きいと、そこでなんらかの処理をするように発達してしまい、結果として接続が切れない。たんなる雑音処理かもしれないけれど、人間の場合は、1歳になるかならないか、という段階で、その「切れていない」脳の大脳皮質と肺や喉頭の筋肉との結びつきが、無駄な雑音のような形で動作し、あかちゃんに喃語をしゃべらせる。もちろん、その喃語が周囲から無視されれば、当然あかちゃんも喃語をやめてしまい、その結果として、脳の大脳皮質と肺や喉頭とを結ぶ接続は弱くなり切れてしまうかもしれないが、その段階で、親が喃語に反応する。そういうところから、言語学習が始まるのだと。もともと接続はあっても、容量がたりないと、そのような言語学習の発現はないので、チンパンジーはしゃべれないし、随意的に肺の筋肉を動かすこともできないと。
つまり、脳自体の設計変更などはほとんどなく、また、胎児期における脳の基本的な配線などは全く同じであっても、脳の容量が違うと、脳の機能の転移のおこりかたが違ってくるので、その結果として、脳内の最終的な配線がかなり違ってくる。この違いは、遺伝子的な違いではなくて、成長とともに変化するもので、遺伝子的には同じでも、成長のしかたで違ってくるのだというわけです。
とすれば、人間の個性とか、そういうものも、脳の些細な容量の違いによってひきおこされている可能性が高いわけで、それは、頭蓋骨の形とか、そういうのと関係しているともいえる。顔が人それぞれ違うのと同じように、頭蓋骨の形も人それぞれ違うから、その違いは、そこに収まっている脳の各部位の容量の違いになって、それが、それぞれの人の発達や性格の形成に大きな影響をあたえ、人格の違いに結びついていくのだとか、あるいは、能力の違いに結びついていくのだ、と考えられるわけです。で、この顔の違い、骨相の違い、ひいては脳の各部位の容量の微妙な違いというものは、遺伝子的には非常に小さな違いであり、たとえば、プロモータ領域の直前のジャンク領域の長さがちょいと違うとか、そういう個人差に相当するようなもので違ってくるというわけです。
この話と「プロメテウスの子供たち」の中での話を合わせると、まさに、微妙な遺伝子の違いが、非常に多く積み重ねられて、結果として、人間とチンパンジーとの違いが生まれたともいえるかもしれないし、また、それぞれの違いが小さいにも関わらず、人間の場合には、その小さな違いが脳の成長では大きな影響があるので、他の動物では些細なことでも人間ではすぐに脳の発育不全などにつながって、精神病や精神的な疾患につながるし、そこまで至らない小さな違いも、微妙な能力の違いなどにつながるので、人間の場合、知能や、各種能力に対して、個人がかなり違ってくる。で、現在は、その違いがあっても、多くの場合適応できる生活の場が与えられるので、微妙な変異も、有効に利用され、よって進化が加速する、とくに脳にからんだ能力として、というわけです。もちろんこのことは、知能や知的能力に関わるだけでなく、運動能力にも関係します。さまざまなスポーツがあみだされ、それぞれで世界的にすごい人間があつめられ、ということになるわけで、結果としていつまでたっても世界新記録が出続ける、ということになる。
そしてもう一つ、最近になって大規模になってきた人種の混合、多くの人が飛行機などで簡単にどこにでもいけるようになって、世界のいろいろな地域の民族が出会い、そして混血が起こるこの現象そのものも、さらに進化を加速しているという現実があるわけですけど、そこで、よく人種の違いの一番大きな特徴として、肌の色があります。アフリカ人が一般に黒いといわれていても、実際にたった一つの遺伝子で黒くなっているわけではなく、だから、色の白いヨーロッパ人とアフリカ人の間に生まれた子供は、いろいろな色になります。過去数百年にわたって混血が進んでいるブラジルなどでは、どうみてもヨーロッパ系とみえる両親から、突然、かなり色の黒い子供が生まれる例があるわけです。たった数万年の間に起こったこの遺伝子選択による肌の色の違いというのも、実際には細かなちょっとずつ色を違えるような遺伝子の積み重ねで、日光の弱いヨーロッパに移住した人々は、だんだんと色が薄くなり、他の地域ではいわゆるアルビノといわれるような遺伝子変異もあって、白人とよばれるまでに白くなったわけです。その中には、突然変異もあったでしょう。人類がアフリカにずっと居続けたら淘汰されていた可能性のある肌の白い民族が誕生したわけですが、今度は、それがアフリカ人と結婚するなどして、さまざまな中間色の子供が生まれる。そうすると、中間色の子供たちは、親とは違う適応ができることもある。ようするに、適応放散として、それぞれの地域で、それぞれに特化した適応が、今度は混ざることで、さらにさまざまな多様性を生み出すことになります。これがさらなる新しい適応を生み出すことで、また進化が加速します。
人類が二足歩行を始めたときから、ほかの類人猿よりはずっと広い範囲を動き回る類人猿、あるいは猿人という種が生まれ、それぞれがときに混ざり合い、ときに放散して、さまざまな多様性を生んできた中で、一つの系統として、たぶん、20万年かそこら前に、現代人の祖先というべきホモ・サピエンスが登場し、そして、それは、また適応放散と融合、混血を繰り返して、現代の人類へと進化してきたのだ、ということがいえそうです。
というわけで、今回は、まずディーコンの「ヒトはいかにして人となったか」と、ミズンの「心の先史時代」、そして、ウィルズの「プロメテウスの子供たち」の三冊の内容を多少まぜこぜにしつつ紹介しまして、そこから導き出される、人間の進化、そして、人間の知能とはどうして発達してきたのか、ということを、私なりに考えてみたので、それを、次の節から紹介していきたいと思います。
まず最初に考えてみたいのは、人間がなぜ音声言語をもつに至ったか、という問題です。音声を自由にあやつる能力は、鳥類とクジラ類と人間だけが持つ特徴であるとすれば、一般的に鳥やクジラがどのように音声を使っているかを見ることも、この問題を解決する一つの方法であるし、また、もう一つは、人間にとってもっとも近縁なチンパンジーがなぜ音声を使わないか、その理由を考えるのも一つの方法でしょう。第一の見方からすれば、音声というものは、鳥類では、主に求愛行動などに結びついているようだし、クジラ類、イルカなどでは、個体識別に使われているようです。クジラ類は知能も高いというけれど、最近では、霊長類の知能とは別の類のものではないかという方向になってきたようで、以前ほどイルカの知能がどうのこうのという話はなくなってきたように思います。イルカもクジラも群をなすわけで、その場合、ある程度の社会性があるので、個体識別は重要です。ある程度の知能をもった動物の場合、近親交配をさけるためにも、個体識別は重要だといわれています。海という環境で、視覚よりは聴覚が発達し、レーダーのような能力ももつクジラ類の場合、個体識別もまた声で行うというのはかなりあり得ることでしょう。それぞれのクジラの個体は自分だ、ということを主張する声をもっているとか。もちろん、ザトウクジラの場合はもっと長い歌を歌うそうで、そういうのは、求愛行動などとも関係するし、一部、猿などの毛繕いと同じように、親睦を深める手段に使われているのかもしれません。
チンパンジーを含めた霊長類一般は、視覚が非常に発達していますので、個体識別は、ほとんどの場合、顔を見ることでわかる。犬の場合は主として臭いだそうですが。で、チンパンジーの場合はなんといっても、コミュニケーションは、毛繕いです。勢力争いも、毛繕いして親睦をふかめたりすることで行われ、あるいは、喧嘩などもありますが、その場合の敵、味方なども、毛繕いで親睦をふかめたものが仲間となって、というわけです。そうなると、人がなぜ毛繕いをしなくなったかを考える必要があります。
私が思うに、それはもう明らかです。一言「毛がないから」です。チンパンジーと人間を見たときに大きく異なる身体的特徴は、人間が二足歩行をしやすいようになっていることや、背が高いことなどもありますが、なんといっても大きな違いは、人間の場合、毛がほとんど生えていないということです。子供のときから生えているのは、頭髪だけで、他は非常に細かい産毛というべきものだけで、大人になると、股間を中心に陰毛が生え、また、腋にも毛が生えてきます。男性は、顔の主として下半分にも髭が生えます。もちろん、体毛の濃い人は、胸毛もかなりあるし、その他臑毛なども、かなりこくなることがありますが、人間でもっとも毛が濃い人でも、チンパンジーほどではないでしょう(もちろん、病的に異常な場合はそういうこともあるかもしれないけど)。
そう見れば、人間の場合、チンパンジーの毛繕いに対応することは、子供の場合、頭をなでなでするとか、そういうのしかあり得ません。陰毛が大人になって残っているのは、案外、性行為が、そもそも毛繕いと密接に関係があって、そこの毛だけは残しておかないと、性行為が味気なくなるとか、そういう理由があったのかもしれません。髭については、男性を象徴するものとして、性的アピールのために残ったのかもしれません。まあ、なんであれ、現代においても、人に髪の毛をさわらせるとかいうのは、それなりに親しい人間同士でないとできないことで、会社で、男性社員が、若い女性社員の毛を、「きれいな毛だねー」などといって、さわってりなでまわせば、セクハラです。ただ、恋人同士などになると、それなりに相手に髪をさわらせることがあります。さらにいえば、髪をいじくることは、日本の法律では、普通暴行罪になるわけで、人の髪を切るには、理髪師なり美容師なりの免許が必要です。その意味では、人間社会においても、毛繕いをするというのは、親密な関係か特別な契約関係がある間でしかしないことであり、それをする関係にあるのは、それだけ重要なものだといえます。
ちょっと話はそれますが、世界ではいろいろなところでチンパンジー研究者がいて、アフリカではジェーン・グドールが有名ですし、日本では京大霊長類研の松沢氏が有名ですけど、彼らは、たしかにチンパンジーと接していますし、その中で毛繕いが重要であることを指摘したのも彼らですが、私は、彼らが、自ら毛むくじゃらの着ぐるみを着て、一緒に毛繕いをしているところを見たことがないので、彼らがチンパンジーと本当にうまくコミュニケーションがとれているのか、非常に疑問に思います、というと批判めいてしまいますが、ミズンは、本の中で、多くの場合、研究用のチンパンジーは、飼育し、世話をし観察しているチンパンジー研究者を仲間と思っていないのではないか、同じ社会の一員として考えていないのではないか、ということを述べています。つまり、チンパンジー研究者によって観察され、飼育されているチンパンジーにとっては、かれらの知能における社会モジュールが通用するのは、一緒に飼育されているチンパンジーたちだけであって、研究者は、その社会の外にいて、よって社会モジュールでは対応できず、一般知能でのみ対応している、というわけです。これについては、最近、チンパンジーが人間の思っていることを理解するよりも、犬のほうがずっと人間をわかっているという話があります。たとえば、視線によってその方向を見るとかも含めてです。犬は、おそらく1万年以上前から、人間と一緒に暮らしてきたし、中でも、人間のことを理解し、人間にとって良きパートナーであるようなものが、選択されてきたわけで、人間の意図をより正確に把握し、ご主人様にたいして従順なものだけが残されてきたので、ごくごく最近人間と接触するようになったチンパンジーに比べて、ずっと人間の意図が理解できている、というわけです。てなわけで、私としては、チンパンジー研究者のみなさんには、是非是非ふさふさした毛の生えた着ぐるみを着て、一緒に毛繕いをして、チンパンジーと親睦を深めることをお勧めしたいと思います。
さて、で、毛繕いが重要で、毛繕いができなくなったから、音声がそれに変わったという仮説を考えると、一つ考えるべき重要な点は、人間の体毛が無くなったのはいつなのか、ということになる。非常に文化が発達して、毛皮などが利用できるようになったので、体毛がなくなったと考えるならば、それは、かなりあとのことで、50万年前とかになりましょう。あるいは、火を使うようになって、洞窟で体が暖められるから、というなら、ホモ・エルガスターの時代で、150万年前とかあるいは、200万年前とかになりましょうか。
で、どうやら、このあたりはいろいろな研究者が言っていることですが、二足歩行と体毛がなくなったことは関連があるらしい。太陽光線の輻射と、地面からの熱との関係から考えて、二足歩行をして、平原を走り回るようになった段階では、毛が生えているのは不利になるということです。
現代のアフリカのツルカナ湖沿岸などにすむ部族は、非常に背が高く、体の表面積が大きく、熱を放散しやすい体格をしています。で、180万年くらい前のホモ・エルガスターの少年ナリオコトメ・ボーイもこのツルカナ湖の周辺に住んでいたのですけど、彼の体格も、現在のこのあたりの部族と非常ににた体格だったというわけです。毛が生えていたら、熱くてやっていられない。チンパンジーやゴリラは、森林に住み、森の日陰にいることが多いから、毛があってもよいが、赤道に近い領域を含む、古代人のいた地域で、平原で歩き回っていた彼らとしてみれば、現代のアフリカ人の多くと同じく、できるだけ熱を放散するように、毛をなくし、背を高くして、体の表面積を稼ぐようにしていたでしょう。だとしたら、直立二足歩行を確立したホモ・エルガスターの段階で、体毛はほとんど無くなっていたと考えるべきですし、場合によっては、それよりも前、アファール猿人(ルーシー)などのアウストラロピテクス類の段階で、体毛は無くなっていたかもしれません。
私的には、おそらく、直立二足歩行を始めたのが、化石の証拠としては、400万年前くらいで、もっとさかのぼるかもしれませんが、比較的早い段階で、体毛が抜けてきたと考えておきます。たぶん、350万年前とかそれ以前とか。
毛がなくなったら、毛繕いができない。しかし毛繕いは社会生活において非常に重要なコミュニケーションの方法であったとしたら、コミュニケーションそのものは、社会における淘汰圧になるので、そっちのほうが強かったら、いくら熱くても毛が薄いものは淘汰される。だから、直立歩行を始めたアウストラロピテクス類の人々は、かなり困った状況にあったでしょう。そこで、毛がだんだん薄くなるとともに、他の手段でコミュニケーションをするようになる。そして、最初は、たたき合ったり、くすぐったりということをしていたのかもしれませんが、だんだんと、声が使われるようになった、というのが、私の仮説です。
ディーコンは、「ヒトはいかにして人となったか」の中で、人間にとって、基本的な音声は、笑いと泣きであろうということを書いています。どちらも脳の奥底での感情や覚醒状態にそって自然に出てくるもので、随意的ではなく、泣くのをこらえるのも、笑うのをこらえるのも大変であるということを言っています。しかし、チンパンジーが人間によくにた笑いをするのは、くすぐったときぐらいだそうです(松沢らの体験による)。とすると、毛繕いができなくなった人間は、毛繕いと似た行動として、互いにくすぐりあって、げらげら笑うというのが、最初にあったかもしれません。あるいは、叩いて泣かすことが社会的地位の向上と関係していたのかもしれませんが、泣く、笑う、どちらも、人間固有であるにも関わらず、それが脳のかなり奥底から出てくる音声で随意性がほとんどない、とすると、これにからんだことが、毛繕いに変わるコミュニケーションであった可能性は十分にあります。
まあ、ともかく、くすぐって笑ったりして親睦を深めていたのが、やがて、声が使えるようになると、多少離れていても、声をかけることができるようになって、毛繕いでは、一対一でしか親睦がふかめられなかったのが、一度に多数の人たちと親睦がふかめられるようになる。とすれば、それは、かなり有効なので、たぶん、挨拶は初期の段階でかなり重要で、手をあげて「やあ」とかいいつつ、にっこり笑うなんていうのが、非常に重要なコミュニケーションとなってきた可能性があります。特に挨拶は、社会での地位、自分の順位などと関係しているので、声の出し方で、相手を尊敬する態度とか、そういうものが非常に発達したのではないでしょうか。
それで、ある程度声が出せるようになってくると、それが強化されて、おそらく、求愛行動に関係してくるようになったと思います。鳥と同じです。日本の古語の「よばひ」とは、「呼び合い」だそうですが、そういうものです。そうすると、案外、言語より先に、歌があったのかもしれませんね。
なにやらステレオタイプの代表のようなターザンという話では、ターザンが「あーああー」と叫んで森の中を木のツルをつたって飛んでいくのがありましたが、あれが、初期人類のやっていたことではないか。他の人と出会うと、遠くからでも「あーああー」とかいう。かわいい女の子に出会うと、誘うために、鼻歌のようなもので、メロディーを奏でる。案外手拍子とかもとっていたかもしれません。重要なことは、そこで表示されていたのは、親愛の情であり、あるいは、社会的に上位のものに対する畏敬の念であり、そして、下位のものに対する尊厳のようなものです。こうして、声がある程度社会において、あるいは、異性との求愛行動などによって、かなり複雑に発達してくれば、もうすこし別の方面に使えるようになってくるわけです。
おそらく、毛が抜けてしまって、毛繕いができなくなった段階で、声によるコミュニケーションが始まると、それは、まず、毛繕いに対応する機能をもたねばならず、まずは、くすぐって笑うところからはじまり、そして、挨拶、求愛行動などになって、そして、それが人間にとって重要な随意的な音声というものの獲得につながったと考えられるわけです。随意的な音声が獲得されれば、毛繕いよりもずっと便利な音声によるコミュニケーションは、すぐにミズンのいう社会モジュールで有効に使われるようになったと思います。
霊長類の多くが、社会をもっていて、しかも、その社会生活において自分の順位とか、そういうのが重要であり、それが生殖戦略にもからんで、重要だとすれば、その中でのコミュニケーションが音声によってある程度行われるようになったら、その次のステップは、個体識別を音声にすることではないか、と思います。つまり、名前です。集団の中の個体がそれぞれ名前としての短い音声を「社会から指定される」ということです。 そもそも、チンパンジーでもその他の高等な猿でも、社会の中での自分の位置を把握しているわけだし、だとすれば、個体識別はすでにきちんと行われているわけですから、その識別されている個体に対して、特定の音声の名前を与えるというのはそれほど難しいことではないでしょう。とはいえ、挨拶とか、求愛行動、くすぐって笑うという段階と、この個体に名前を与えるというのの間には、なおギャップがあるように思うのですが、そのあたりは、ちょっと難しいですね。ま、そこはおいといて、とりあえず、まず、個体に名前が与えられたとしましょう。そうすると、即座に、個体の名前とその社会的関係を表す表現が生まれてくると思います。
では、社会的な機能をもつ音声コミュニケーションとはどんなものか、ということを考えてみます。チンパンジーの複雑な社会。しかも、順位があり、勢力争いをし、そして、相手を騙したり、帰り撃ちにあわせたり、という高度なことをしているならば、その高度なことに必要な機能をもったコミュニケーション手段が現れるでしょう。それが初期言語ではなかったということになります。まず、社会の成員たる個体に音声による名前が当てはめられる。次に、個体の社会的行動を表すものが登場するでしょう。一番簡単な話は、人間の子供が他の子供と遊んでいて突然なきながら母親のところにきて、「おかーさん、みっちゃんがぶったぁ」というやつです。殴るとか蹴るとか打つとかそういう行動も、もちろん、社会的文脈で起こるもので、よほど深刻でないかぎり殺したり怪我させたりするものではなく、たんに、自分の力をあいてにしらしめて、自分の偉さを誇示するとか、あるいは、相手の行動が気に入らないから、それを阻止するためにする、とかそういうものであり、子供の場合もそうなのですが、この「みっちゃんがぶったぁ」というようなものが、言語としてかなり初期からあったのではないかと思います。個体に名前が与えられ、そしてその個体の社会的行動に名前が与えられ動詞のような振る舞いをする。それともう一つは、個体間の関係です。「あーちゃんはいーちゃんが好き」とか「嫌い」とかそういうものです。勢力争いにおいて、互いの勢力の味方と敵を区別し、それを情報交換することは社会的文脈では非常に重要ですから、そのような情報交換が行えるように初期言語が発達してきたと思われます。
まとめると、まず個体に名前が与えられる。次に、個体の社会的行動に名前が与えられる、例:ぶつ、なぐる、なでる、わらう、こわがる、、など。次に、個体と個体の関係を表すものに名前が与えられる、例:A は B が好き、嫌い;A より B が偉い、強い、怖い、、などなど。こういうことが始まると、毛繕いでは、知り得なかったいろいろな情報交換がなされます。チンパンジーなどでは、群の中での順位はわかるけれど、Aという個体にとって、BとCがどういう関係か、というのは、BとCが直接なんらかの行動をしているところを目撃しないとわかりません。BとCが毛繕いを長いことやっていることを、Aが目撃しすることが頻繁であれば、BとCは仲がいいことが理解でき、政治的に、BとCが共同戦線をはってくる可能性があることが予測できます。しかし、これらは目撃しないといけないわけです。しかし、社会関係が初期言語によって表現できると、目撃しない情報も、不確実性は伴うけれど、いろいろわかります。で、内緒話で、「おーちゃん、最近、むかつくから、こんどたこ殴りにしてやれ」というような陰謀とか、そういうのも始まるわけです。こうなると、ますます言語が重要になり、言語能力が高いものが、社会生活において、非常に有利になります。つまり雄弁で愛想がよく、いろいろなところで友人を作ることができ、敵をうまいこと丸め込む、そういう能力をもつものが、どんどん選択され、その能力をもたないものは淘汰される、という方向に進化が進むわけです。
さて、チンパンジーは、およそ80人ぐらいで群をつくり、比較的小さな領域で共同生活をしています。ところが、これまで発見されている初期人類の遺跡の場合、あまりたくさんの人数で一カ所で生活していたと思わせるものはないようです。洞窟に百人も入ることはなく、数人くらいで暮らしていたのではないかというわけです。しかし、人間の場合、その前頭葉の容量から考えられる一つの群の成員の数は、150人くらいだというおかしな話があります。しかし、社会的な言語というものをもっていれば、この群というのは、ときどき出会う仲間、くらいでもよいことになり、数キロの範囲に薄くちらばっているのでも十分でしょう。ある程度頻繁に出会うもの同士で、情報交換を行い、人間関係を確認して、社会生活をおくればよいのですから。
こういう形で、個体名と社会的行動に関する動詞のような語彙と、そして、社会的関係を表す動詞、あるいは形容詞のような語彙をもつ初期言語は、どんどん発達していき、その発達は、脳の進化にたいしてものすごい淘汰圧をかけることになるわけです。おそらく、この淘汰圧が、ホモ・エルガスターという脳容量900CCにもなる種を生みだしたのではないか、と思われます。そして、一つの部族、あるいは集団が、半径数キロ、あるいは、数十キロの範囲にちらばっても十分に互いのコミュニケーションがとれ、それによって、広い範囲を生活圏にできたことにより、食料採集なども高度になり、より活発に歩き回れるようになった、そして、これが、最初のアウトオブアフリカへつながったということになりそうです。
しかしこの段階の言語は、自分の所属する群、あるいは集団の人数分の古体名の語彙と、そして、その社会的行動を表す語彙、たぶん、数十語と、社会的関係を表す語彙、たぶん、数十語で、固有名である個体名をふくめて、百語から数百語の語彙をもつものだったと思われます。その程度の語彙であれば、数個の母音と、単純な子音が数個あれば十分で、複雑な肺の運動を制御するほどのこともないものだったと思われます。だから、ナリオコトメ・ボーイ(ホモ・エルガスター)は、あまり複雑な神経系を持たなかったのだ、ともいえるし、また、現代人なみの複雑な神経系をもった呼吸機関をもつには、進化的な時間がかかったということになりましょう。
こうして、初期言語をもつようになった初期人類は、どんどんその生活の範囲をひろげて、旧世界全体に広がるまでになりました。そのために、脳を大きくする淘汰圧は相変わらず強く、進化的速度で脳の拡大が起こり、数十万年前までに、現代人と同じ程度の脳容量をもつホモ・エレクトスや、初期ホモ・サピエンスが登場したわけです。しかし、その間に、言語もまたどんどん進化し、より一層社会的な役割を負うようになってきました。高度な文法をもつ待遇表現とか、尊敬表現、多数の個体間の関係を表すようなもの、などなどです。たとえば、「AとBが力を合わせれば、CとDの連合よりも、ずっとつよいので、今度の喧嘩では、A,B側が勝つだろう」なんていう話をしたりできるようになったし、また、伝聞で「AがBに言っていたことは、CがDをぶんなぐって黙らせたということだ。もうDはCには頭が上がらないから、当面は、Cがボスとして君臨するんじゃあないか」なんていう複雑な話です。あるいは、おべっかを使うような表現なども生まれてきて、「いやあ、Aさんご機嫌よさそうで、もうかってまっか」というようなものです。ようするに、社会的文脈という範囲でいえば、ホモ・エルガスター以降、すでに、きわめて複雑な政治的取り引きが行われるような高度な言語が存在し、そして、それによって、非常に複雑で、どろどろとした人間社会というものが実現していた、と考えられるわけです。
しかし、その言語というものは、社会的文脈に閉じていたので、それが、狩猟方法の変化や、石器の進歩にはつながらなかったということです。ただ、その高度な淘汰圧のもとで、脳が大きくなったことは、認知の精緻化や計画的行動の精緻化につながり、それが、一部地域において、オルドバイ式石器から、アシュール式石器への変化をひきおこしたのかもしれません。脳の容積が大きくなるときに、遺伝子的な変化としては、脳のどこか一部の部位のみを大きくするような変化というのはなかなかなくて、言語の発達のために必要な脳容積の増大は、おそらく他の処理をするための脳容積をも変化させて、増大させたでしょう。言語の発達とそれに伴う淘汰圧は、特定の言語中枢だけを大型化しただけでなく、ほかのいろいろな部分も大型化し、より高度な認知能力をもたらしたことになります。認知の仕組みとしての博物モジュールもより精緻になり、さまざまな自然環境に対応できるようになったし、そして、石器の作り方も精緻化して、アシュール式の石器が生み出されたわけです。しかし、極端な話ではありますが、その段階での言語には、自然環境を表す語彙も、そして、石器という語彙もなかったのです。たぶん、普通名詞というものが存在せず、自分たち人間の個体名を表す、固有名詞しかなかった。人間の社会行動や社会的関係を表す動詞や形容詞しかなかった。 だから、待遇表現とか、そういうのでも、「いやあ、今日は良い天気で、」というのは、なく、ただ「ご機嫌よろしそうで」というのはあった、というようなことになろうかと思います。かなりこれは極端な考え方ではありますが。
ディーコンは、本の中で、ホモ・シンボリックスということで、人間は記号が扱えるようになったから進化した、と述べていて、その記号とは、本来学習によって得られるものではない、と言っています。簡単にいえば、人工知能理論などでいう学習とは、一般に、なんらかの分類を行ったりするようなもので、たとえば、犬がたくさんと人間がたくさんいた場合、そこで、それらを区別する属性を学習しておけば、次に犬が現れたときに、それが犬だと認識できる、というのがいわゆる学習です。ここで重要なのは、認識すべきカテゴリーとそのカテゴリーに属するモノのもつ属性との相関的な関係です。
犬と人間ならば、かたほうは二足歩行をするが、もう一方は四足歩行をする、ということが大きな属性の違いであり、その相関はほとんど百パーセントです。つまり、犬と人間しかいないなら、二足歩行をする犬はいないし、四足歩行をする人間もいない、例外はない、と普通は考えられます。しかし、多くの場合、カテゴリーには例外があるので、属性の選び方によっては、判別が難しくなるので、もっともうまく属性を選ぶ方法などが、人工知能の研究では重要です。で、こういうのが機械学習などというわけです。
しかし、ディーコンがいうのは、記号と記号の示す対象との関係は相関から学習されることではない、というわけです。記号は、記号どうしの間で、互いに関連しあっていて、記号が指し示すものとの間には、複数回数の試行や強化学習によって獲得されるのとは違う関係があって、つまり、一発で関係が記憶されなければならないし、また、一度関係ができたら、それは後にその関係を体験することが全くなくなっても消えない永久に記憶されつづける、というようなことをいっています。私も、完全に理解したわけじゃあないんだけど、ディーコンの「ヒトはいかに人となったか」の最初のあたりの章では、この記号とは、というあたりにかなりの紙面を割いて、その記号が扱えるのが人間だ、ということを強調しています。
しかし、私が思うには、人間は記号というものをそう簡単に獲得したわけではない。むしろ、最初に、自分の属する集団の社会的な関係の中における集団内の個体の識別と、個体間の関係というものを扱う能力が先にあったのではないか、と思うようになったわけです。チンパンジーでも、他の高等な霊長類でも、集団内の個体識別はしていて、しかも、その集団内でそれぞれの個体の順位も知っているわけです。従って、認識対象たる、それぞれの個体と、その個体の社会的地位などをふくめた、それぞれの個体のイメージというものは頭の中にしっかりある。そこにきて、もし、個体の名前というものが音声信号によって与えられたとしたら、やるべきことは、その音声信号の標識、つまり、記号を、すでに頭に存在する各個体のイメージにはりつけてやるだけでいい。個体名というのは、その意味で、記号である。で、その記号としての個体名は、たとえば、集団で子供が新たに生まれたときに、新しい名前がつけられる。あるいは、よその集団から、嫁入りしてきた女性は、自分の名前を名乗って、それが集団に認知される、婿入りもあったかもしれない。チンパンジーの社会でも、群の間を主として雌が動き回り、また、雌は、別の群の雄との間で、不倫をすることもあるということだから、同じようなことは、初期人類の間でもあったはずで、そうなると、その個人の名前というものは、一人の初期人類にとっては、その集団内の成員の名前が固定的なのではなく、新入りがいれば(生まれた子供や、嫁入りや婿入りの新入り)、すぐにその個体と、名前との対応を記憶し、使えるようにしないといけない。あるいは、高度な社会であれば、子供から大人になって、あるいは社会的地位の向上とともに、名前を変化させることもあったり、あるいは、待遇表現、尊敬表現との対応で、社会的地位にふさわしい称号や尊称のようなものも発達してきた可能性があるから、一人の個人にとっても、名前は、流動的であり、あるとき「おひろい」だった名前が、「ひでより」に変わるというようなことがあるかもしれない。で、その場合、第三者から見れば、今の「ひでより」は、子供のときは「おひろい」であったという記号間の関係をしっかりとつかんでおく必要がある。こういうことで、固有名詞をベースにした、記号処理というものがだんだんと発達した、それが、やがて、もっと普遍的な記号に発達していった、ということではないかと思います。
まあ、このあたりの話はさっきからかいているようにかなり極端な話にしているわけで、当時の初期言語に、太陽を表す語彙がなかったとか、大地を表す語彙がなかったとかいうのが本当かどうかわかりませんが、でも、石器などが特別に愛着をもって扱われていたわけではないことは事実だから、自分秘蔵の石器みたいなモノによる財産的なものはないわけです。また、死んだ人が埋葬されるのは、初期のホモ・サピエンスや、ネアンデルタール人において行われているけれど、そこに、その個人が使っていた石器が一緒に埋葬されているとか、その個人が狩ったであろう獲物の動物の骨が一緒に埋葬されるというようなことがないということを照らし合わせると、ミズンがいう通り、初期の言語は、やはり、モノや、動物、自然物に対しては使われることなく、もっぱら社会的な文脈でのみ使われていたのだろう、ということになります。
しかしながら、社会的文脈でしか使われない初期言語はまた、社会的文脈でのみ有効であるいろいろな表現をもっていて、さらに高度な文法をもつようにもなったと思われるし、それが、間接的に、石器の進歩や狩りの方法の進歩につながったとするミズンの考え方には同意したいと思います。
ビッカートンのいう単純な文法構造をもった原言語と複雑な構文をもった真の言語との違いは、と言う話(前に書いたほうを参照)はどうなるでしょうか?ミズンなどは、およそ50万年前ごろに、脳の拡大が加速する現象をみて、この時代に、構文言語が生まれたのではないか、というようなことを言っています。あり得るかもしれません。しかし、チンパンジーのもつ複雑な社会生活などを見ると、その内容を社会的文脈で語るためだけでも、かなり複雑な構文言語が必要でしょうから、案外、社会的言語が生まれて早い段階で、そういう複雑な構文をあやつれる言語が生まれた可能性もあります。で、脳の発達は、そういう複雑な言語をあやつり、さらに複雑な社会構造を反映させたものなのかもしれません。人類の進化の歴史を見れば、実際のところ、ホモ・エルガスターが登場してからは、それほど大きな進化的節目というのは見られないというのが最近の印象です。脳容量は、だんだんと時代とともに大きくなり、そして、それは、アジアのホモ・エレクトスの場合も同じです。どこかの種が特別に言語を発達させたとかそういうことではなく、言語は等しくどの初期人類に対しても大きな淘汰圧となって、脳容量の増大という現象を起こしたのでしょう。
で、このような社会的文脈で使われる初期言語というものであっても、現在の多くのメロドラマ(英語ではソープオペラというそうだが)、あるいは、多くの政治家のやっているような駆け引きとか、あるいは、ミステリーのような事件とか、そういうものを表現する能力をもっているものだったと思います。で、この時代の人々は、決して牧歌的でもなく、互いに血みどろの権力争いと、政治的取り引きをしつつ、各自が社会における地位向上をめざし、それによって、より多くの子孫を持とうとしていた、そういう社会に生きていたということになります。
話はそれますが、こうしてみると、昨今の女子高生などの携帯電話でのコミュニケーションというものも、非常に社会的であると思われるわけで、女子高生が携帯電話で、数学について議論するとか、今度発売される新しいラジカセの機能について議論するとか、そういうことに使われているとは思えず、いつ会うか、どこで会うか、誰を誘うか、誰が誰を好きだといったとかいわないとか、そういうことがほとんどで、ようするに、コミュニケーションこそが、親睦をふかめ、互いの気持ちを確認する道具であって、その意味では、毛繕いを電波つかってやっているんだ、という印象を強くもつわけです。
さらにいえば、近代の終わりとともに、環境問題エネルギー問題が重視される昨今では、モノを作ったり、モノを移動したりということを極力さけて、情報を情報通信で移動させることですまそうとする傾向にあるわけで、昔なら、写真をとったら、直接手渡すか、手紙で封書にしておくるしか手段がなかったものを、携帯メールでささっと送り、で、せいぜい、記号として、特定のだれそれと携帯じゃあなくて、本当に会ったということを立証するための、ちっちゃい写真のシールをべたべた貼ってということで、贈り物もモノでなくて、情報へ。情報通信でなんでもできるようにして、という方向にいっているならば、まさに、電波をつかってグルーミング(毛繕い)という時代になりつつあるような印象がありますね。
さて、横道にそれましたが、こういう社会的文脈で使われる初期言語というものが、擬人化という形で、自分たちを取り巻く自然や、周囲の動物、そして、自分たちが扱うモノを、自分たちの社会に取り込んだらどうなるか、ということになります。それまでは、記号としては、個人の名前、固有名詞だけで、それとその社会的行動に名前がつけられていたわけですが、もし、固有名詞だけでやっていると一気に語彙が爆発します。最初はそうだったかもしれません。まあ、一つしかないもの、たとえば、太陽とか、月とかそういうのはよいとして、また、地名なども、自分たちのいく範囲であればよいですが、たとえば、狩猟対象の動物ひとつひとつに個体名をつけていたら、結構大変です。そこで、動物について種ごとに、ひとくくりで固有名詞ではない普通名詞をわりふることになるんだと思います。そうして、初めて、普通名詞というものが生まれ、そこから、自分たちが目にするもの全てに名前をつけるようなことになってくる。そして、その名前が記号として使われるようになる。こうして、本当の言語というものが生まれた、と思います。しかし、その段階までには、すでに高度な文法構造が存在し、ものとものとを関係づけるような方法もいくらでもあったので、脳の処理として文法などの分析処理は新しいものを必要とせず、対応できた。だから、初期のホモ・サピエンスとくらべて、後期旧石器時代以降のホモ・サピエンスの脳が特別に大きくなるわけではなかった。
モノに心を見いだし、動物にも自分たちの心と同じものがあると仮定すれば、動物の行動予測は精緻になり、それは狩猟効率を上げ、さらに、認識していたいろいろなモノの間の関係がわかれば、それらを組み合わせて様々な道具を作ることができるようになり、しかも、それは、非常に速く新しいものを生み出す創造性につながったということになりましょうか。このあたりから先は、ミズンの考え方にある程度同意します。本を読んでください。農業が始まったのも、植物に心を見いだしたからでしょうし、家畜などは、まさに、社会を人間だけの社会から、家畜をふくめた社会へ発展させたことになりましょう。社会を発展させて、愛着のある存在として家畜を飼ったりしても、最後に殺して食べるあたりは、モジュールとしての脳の構造でどってことない、ということになります。つまり、屠殺して食べる段階では、食べ物としてのモジュールで処理されてしまい、社会モジュールでの認識ではなくなってしまうのだと。
神様が登場して、宗教が登場するのも、自分たちを取り巻く自然というものに、心を見いだすからで、それぞれのモノにすべて魂が宿ると考えるのもまさにそれ。擬人化によって、すべてのモノに魂を見いだし、心を見いだし、自分たちにとって予測不可能なものについては、そこに人と同じような性格をもつ神を見いだし、そして、それに祈るということになる。
三冊を読んだ順番としては、最初が、ウィルズの「プロメテウス、、」で、次に、ディーコンの「ヒトは、、」で、最後がミズンの「心の、、」です。が、もちろん、他にもいろいろ読んだのですが、この三冊が本当におもしろかった。
で、その読んだあと、いろいろ考えているうちに、思ったのが、「あ、そうか、毛繕いが言語に変わったとしたら、人間毛がなくなったからじゃん」と思ったのがこの文章を書くきっかけで、で、さらに考えてみると、じゃあ社会的文脈でのみつかわれる言語ってどれくらいの機能をもっているのか、とか思ったら、集団内の個体の固有名詞と、社会的行動を表す動詞、社会的関係を表す動詞や形容詞があればよいことになって、で、それがどれくらい発達するか、というと、それこそ、ビッカートンがいうようなさまざまな言語機能の多くが「あってもよいはず」になる。そうすると、50万年くらい前の、後期ホモ・エレクトスや、ホモ・サピエンスへの一歩手前くらいの古代人は高度な文法をもつ言語をもっていたのではないか、だから、それなりに大きな頭脳をもっていたのではないか、と思うようになって、そうなると、昔の人類も、かなり血みどろの社会権力闘争とかしていて、なかなか大変だったんだなーとか思うようになってきて、いっきに筆をすすめてしまいました。
今回、会社の同僚のM川さん(っていうと該当者が二人いるな、えっと人工知能やっているほうの、、)とはずいぶん議論もしました。人工知能の場合、社会戦略がどうのという話はすでに有るらしいとか。もう一人のM川さんとも議論して、まあ、博識な方なんで、「たしかに、そういう社会的言語というのはありえますなー」とかいってくれました。
この連休(2003年のゴールデンウィーク)は、健康増進、減量のために、直立二足歩行をずいぶんとやってみて、自分の住んでいる関西のとある都市から、隣の都市まで、電車で急行で30分以上かかるところを、歩いてみたりもしました。35キロで、7時間くらいかかりました。休んだ分もいれると、8時間以上です。とはいえ、歩く速度はかなり一定で、たぶん、歩きなれた人なら、1日で、50キロやそこら歩いてしまうんでしょう。江戸時代に、東海道を10日程度で、って話もあるから。そうすると、それくらいか、それ以上の能力を、初期人類ももっていたはず。集団ひきつれて、だと、幼い子供はあんまり歩けないかもしれませんが、まあ、日に10キロや20キロは拠点を移動するなんてことはできたようで、だったら、数万年で、旧世界に広がったかもしれないというホモ・エルガスターの話も納得ですね。
というわけで、まあ、また、なにか思いついたら、いろいろ書き加えることにします。 最後まで読んでくださってありがとうございました。
かなり、広範囲にわたって書かれているので、会社の組織改造に励むようなビジネスマンにもお勧めの本でした。たとえば、会話は4人ですべき、とか、あるいは、合コンのときの会話術などについても、書かれているような、っていうか。
言語の起源として、ひひの言語風の鳴き声について書かれています。個体識別のコールがあったり、いろいろな挨拶に対応する鳴き声があるってことで、私の考えていたことと一部一致します。っていうか、私のここで書いていることのいくつかが、実際の観察からわかったことで強化されるように思います。
どうやら、ディーコン、ダンパーの両説を読んだ上で、ミズンのを読んで、でついでに、ウィルズのを読んで、っていう順番だと、ちょうどおもしろい議論ができるようになるのではないかと思います。
で、それにしても、言語の発達が、そもそも社会生活の文脈であり、集団における個体識別と、個体の間の関係を表すことから始まり、それが擬人化によって一般の事物に展開されて、というのが正しいとすれば、これまで人工知能の研究などで考えてきた言語の機能とか、そういうのがかなり違うんじゃあないかということになるし、また、そうだとすれば、人工知能に心を与えるとはなにか、というのもだいぶ話がちがってきます。このあたりの議論を進めていくことで、今後の人工知能研究、あるいは言語理解の研究などが、違った形ですすめられるし、それが案外、おもしろい方向に向かうのではないか、と思うようになりました。
また、なんか進展があったら、いろいろ書き込むことにします。
たしかにその通りです。なんらかの淘汰圧があったとしても、そのときに優位な突然変異のパターン、つまり選択されうるパターンは複数あり得る。このことは、ウィルズがマラリアに対する対抗手段として、述べていて、その対抗手段の中で、アフリカの人々の間で一般的な鎌形赤血球をつくるものは、あまりよい方法ではない、としていて、それよりは、パプア・ニューギニアなどの対応方法のほうがずっとよい方法だというわけです。
で、このホロビンの主張は、というと、じゃあ、人間に進化してきた際に、実際にどういう突然変異が起こり、それがその後、どうなってきたか、という話が書かれています。非常におもしろいのは、まず、類人猿と人間との違いを「主として、脂肪のつきかたが違う」としている点でしょう。私も、いまトピックスに書いているように減量中ですが、ようするに、人間はちょっと運動不足したりすると、すぐに皮下脂肪、体内脂肪など脂肪がべっとりたまりまして、ぶくぶく太ります。が、これはチンパンジーなどではないことで、むちゃくちゃむりやり大量に食べるのが続いたりすると、さすがに脂肪がたまるらしいけど、そうじゃあない限りにおいて、脂肪が体にたまることがほとんどない。あと、人間の体系として、女性は乳房が膨らんでいるし、また尻は、肛門や性器が隠れるように脂肪がしっかりついているわけです。ところが、チンパンジーには、この乳房の形をみても、うすっぺらく垂れ下がっているだけで、若かろうがなんだろうが、ふっくらと丸いいわゆる「男性からみて魅力的」な乳房がないわけでして、これは人間だけの特徴だというわけです。でぇ、ここからさらにホロビンは、脳もその大部分は特殊なものではあるが、脂肪豊富な場所であるというところに導く。
で、チンパンジーと比べて、人間の脳は体積、重量で考えると3倍程度あるとされているのに、脳神経細胞の数そのものは、実際には多くて5割増し、せいぜい2割増しではないか、と思われるということで、じゃあ、なんで体積、重量が3倍か、というと、一つ一つの神経細胞が、脂肪太りしている、ってことになるんじゃあないかというわけです。
で、つまり、人類の進化の本質は脂肪代謝に関わるものであろうと。で、それが実は彼らの研究チームの観点からすれば、精神分裂病(最近では、統合性失調症というらしいが)と密接に結びつくと。これまで多くの分裂病患者をみてみると、その家系には、かならず天才的な人がいたり、また逆に、世紀の天才といわれるような人々の多くは、家系に分裂病の人を抱えているというのがあって、これはかなり初期から知られていたようですけど。で、精神分裂病は、詳しく調べてみると、どの民族でも、どの地域でも、ほぼ間違いなく1%程度の頻度で発症するらしく、また、遺伝子が全く同じである一卵性双生児の場合でも、一方がなった場合もう一方がなる確率は50%程度だから、その意味では、遺伝的であるが、完全に遺伝だけで決まるわけではなく、環境要因も多少はありそうだ、ということになります。で、この1%という発症率からすると、仮にこの分裂病の遺伝子というものが、3つか4つの異なる遺伝子でなりたつならば、ほぼ全ての人が、一つか二つくらいは分裂病の素質があるんじゃあないか、ということになる。 で、仮に4つの遺伝子が必要だとすると、分裂病になるには、4つ全部が分裂病になる遺伝子だが、そのうち3つ程度がそろうと天才で、だから天才の家系には分裂病も出やすく、またその反対も真なり、というわけだ、と。で、普通の人も一つか二つはもっていると。
で、ここから一気に、人間の最後の進化、後期旧石器時代における認知の仕組みの大爆発は、この分裂病遺伝子に絡んでいるのではないか、しかも、それは脂肪代謝の異常ではないか、という話なんですね。分裂病の人が、幻聴を聞けば、それは神の声に聞こえるだろうし。
で、実際に実験をしてみると、脳に関わる脂肪代謝系の酵素の一部の発現量を増やしたマウスは、なんと知能が5割増しによくなって、スーパーマウスになってしまったということがあり、これと同じような変化が人間の進化の歴史に起こったと考えられ、で、もうすぐ、チンパンジーゲノムとヒトゲノムとの違いから、このあたりが明らかになるだろうという大胆な予言をしています。
うーん、なるほど、そうかもしれない、、。この本もまた魅力的な一冊でして、おもしろい。ただ、若干の難点としては、ホロビンが、人類の進化における水棲説を多少支持している点でしょうか。人間の毛が抜けたのは、水棲だったから、というような。あるいは、脂肪が沈着するようになったのも、水棲だったから、などなど。ところが、この説は大いに否定されているものです。ホロビンの考えでは、「一般に、サバンナを二足歩行する過程で毛が抜けて、発汗するようになったことで、体の効果的な冷却が可能になったというが、発汗には水分が必要で、だったら、初期人類は水辺に住んでいたと考えるべきだ」としているんですが、これについては、ダンバーの本の中で、他の研究者の研究の引用として、「毛がなく、発汗による冷却をするようにした場合、毛が生えているのに比べて、同じ水分で倍以上の距離を移動できる」としているわけです。つまり、毛が抜けて、発汗するようになると、水辺から遠く離れることも可能だ、ということになります。実際に、世の中の動物で、水棲の哺乳類を考えると、そのほとんどが毛がはえていて、あるいは短い毛がびっしりというのが多い。カワウソも、ビーバーも。まあ、寒い地域の場合が多いけど。たしかにカバなんかあんまり毛がないかもしれませんが、そのかわり、分厚い皮膚がありまして、人間のようなモノとは違いますね。
ってことで、ホロビンの説における水棲説の部分については、あまり考えないほうがよいかと思うわけです。うーん。
とまあ、そういうことでいろいろ考えますと、ウィルズの本から始まってディーコン、ミズン、ダンバーそして、ホロビンと読んできてみると、おおむね一つのストーリーが描けそうです。
その基本的な枠組みとしては、ミズンの説が中心的でよさそうで、ある程度モジュール化した認知の仕組みがあって、その中で、社会的認知の部分が霊長類以来の発達をとげ、それにともなって他の認知の仕組みも発達したが、しかし、それぞれの認知の仕組みは、混ざることなく、独立していた。けれども、4万年くらい前に、その認知が混ざるようなことがあって、そこから芸術、宗教、科学がうまれた。で、ホロビンの考えを導入すれば、この認知が混ざり合う過程は、実際には、人類が分裂病の遺伝子を獲得したことにからんでいる、というわけです。で、人類の脳の肥大化現象は、女性の乳房が丸くなったのや、尻が大きくなったのと平行して、皮下脂肪の沈着と関係していて、脂肪代謝が他の類人猿と大きく違うようになり、これこそが、本質的な「突然変異」の正体だ、ということになろうかと思います。
まだ完全にまとまりきっていませんが、この分野、実際に、チンパンジーゲノムのほうも、だんだんとわかりつつあるようですし、案外これから10年以内くらいにかなり詳しくわかるのではないでしょうか。
とにかく、ここで取り上げた書籍の内容は、1990年代の前半とはまるで違うことばかりで、とくに霊長類の社会性、そして、言語の社会的発展などの部分も本当に新しいと思います。この路線で、どんどんいけそうだと思うようになりました。
さて、今回は、上記「天才と分裂病の進化論」におけるホロビンが支持している、人間はもともと、多少なりとも水棲ではなかったか、という話と絡んで、この水棲人間、半漁人こそ人類の元の姿!といきまいて四半世紀というすごい女性ジャーナリストの本を一応読んでみました。「人類半漁人起源説」というと、あまりにもトンデモっぽいので、一般に、「アクア説」と呼ばれているのですが、この説、たとえば、日本における考古学、人類学のジャーナリストとして、河合氏などは、こてんぱんに批判していたので、以前は、アクア説は、完璧トンデモの類だろうと思っていたのすが、私的にはかなり感動して、かつ、おもしろい!って感じのことをいっていた、ホロビンが、それなりに支持するなら、なんらかの真実もあろうかと、そういうわけで、この女性ジャーナリスト エレイン・モーガンによる「アクア説の集大成」という本を読みましたです。題して、「人類の起源論争 アクア説は異端なのか?」ですね。
思ったほど異端っぽくない。それに、アクア説のもとは、けっしてモーガンのオリジナルではないそうで、まあ、モーガンとしては、その説を根拠づける説得力のある材料を多数提供した、というところでしょうか。
ウィルズの「プロメテウスの子供たち」を読んでもしっかり書いてあるように、人類は、近縁の類人猿と、ミトコンドリアDNAからみて、数百万年しかへだたっていないにも関わらず、みたところも、解剖学的にも、大きく違っているって話があって、じゃあ、その違いは、どこに由来するのか、っていうのがあります。ウィルズ自身は、それに対して、明確に進化のきっかけがなんであったかというのを示しているわけではないのですけど、このアクア説では、人類が、一時的に半漁人だった、とはいわないまでも、水辺に暮らし、かつ河川や湖など、あるいは海岸地帯で、半水棲生活をしていたのだ、だから、人間だけが、毛がなく、直立し、かつ、、、という説なのです。
おもしろいことがたくさんあって、人の鼻はチンパンジーやゴリラに比べて、鼻筋がとおっているが、これは、水をかきわけるようなことが目的だった、とか、体毛がなくなったのも、基本的には水棲だったからだ、とか、体毛は完全になくなったわけではなくて、非常に細いものがまばらになったわけだが、その毛の生える方向は、というと、平泳ぎをしたときの水流にそっている、なんていうかなりすごいもの、さらには、鼻の下のくぼみと、唇をつかって、鼻の穴を閉じることができる(私はできませんが)とか、ありとあらゆる人体の特徴を水棲と結びつけています。
まあ、そういうの全部が全部っていうと、なんだかなー、なんですが、ボノボの脚が長いのは、ボノボが水浸しになるような森林に住んでいるからで、ボノボは普通のチンパンジーに比べて、水を怖がらず、水のあるところでは、直立歩行をする、というあたりから、して、人が直立歩行をするようになったのも、水辺で生活していたからであろう、というあたり。それから、ホロビンの指摘にもある、脂肪代謝の問題も水棲とからめていまして、例のアラキドン酸、ドコサヘキサエン酸という脳の中の脂肪代謝で必須脂肪酸が、水棲生物を食べることで得られるというあたりをからめて、水棲生活であった可能性を語っています。
で、私は、それなりに、この説がそれほどへんなことを言っていないのではないかという気がしました。河合氏のホームページではこてんぱんに批判されていますが、基本的に、今回の「人類の起源論争」を読むかぎりにおいては、いわゆるラマルク仮説のような、つまり、進化は始めっから方向性をもって、というような話にはなっていなくて、むしろ、人類が直立二足歩行をするようになり、かつ体毛がなくなった理由となる淘汰圧として、水辺における生活、及び、水辺における潜ったり浅瀬を歩いたりというのがあったのではないか、というような話になっていて、結果としての直立二足歩行の採用と、体毛の喪失になったという形で書いていますので、まあ、かなり妥当な部分もあろうかと思います。
っつうことで、「人類半漁人仮説」ではないかと思って読んだら、案外それほど半漁人を強調することもなく、たんに、ちょこっと人類は水辺に住んでいて、水のなかをじゃぶじゃぶしたりするのが好きだったのさ、という程度の考えかたとしてみると、アクア説はそれほど異端とは思えないし、もし、いままで解明されていない、人体の特徴のいくつかが、この説によって、ある程度根拠なりを説明できるとしたら、それなりに採用してもよいのではないかと思えてきました。もっとも、河合氏の書き方などからすると、当初のアクア説は、まじで「半漁人説」だったのでは、と思わせる節があるので、その意味では、かなり25年間で修正されてきたのかもしれません。
ところで、一つおもしろい現象として、人類の祖先の化石というものは、かなりみつかっていますね。最近も400万年前の化石とか、16万年前のものとか出てきていますけど、つまり、700万年前に人類とチンプが分かれてから、直後かもしれないものが、みつかったり、また、直立二足歩行をしていたアウストラロピテクス類の化石も大量にみつかっている。一応、50万年ごとの人類の進化というのは、かなりおっかけられる程度に見つかっていると思えるのですが、一方で、チンプの化石はちいともみつからないではないですか。たしかに、数が少なかったのかもしれないし、また、化石になる条件がそろっていなかったのかもしれないけど、チンプだって、人類とわかれてから、700万年かそこら、冬眠していたわけでもないのだから、当然のことながら、500万年前のチンパンジーの化石とか、そういうのがあってもよいのでは、と思えるわけですが、一つも、全く一つも見つかっていない、としたら、どう解釈すべきでしょう?素人の私としては、人類の祖先とかアウストラロピテクス類の化石とか言われているものの中に、チンパンジーの祖先の化石がまざっていてもおかしくないと思われます。
一般に、アウストラロピテクス類とか、人類の祖先種やそれと並行して存在していた、ホミニドは、直立二足歩行をしていたが故に、チンパンジーの祖先にはなり得ない、ということになっていますが、案外、ルーシーのような直立二足歩行をしていた動物から、チンパンジーやゴリラが発達した可能性はないんですかね。実は直立二足歩行だったのが、やがて、木登りに対応するために、現在のチンパンジーのような骨盤になったとか。まあ、こういうのは、普通あり得ないというのですが、恐竜と鳥との関係についても、ダイノバード仮説とかいうのがあって、もともと空をとべた鳥(ジュラ紀の始祖鳥など)が、地上におりてきて、ドロマエオサウルス類(ようするに、ジュラシックパークでおなじみのベロキラプトルとかです)に進化したのだ、という説が数年前にはやったわけで、それと同じく、直立二足歩行をしていた類人猿の中から、一部がチンパンジーになって、どんどん直立二足歩行をやめるようになったとかいう可能性はどうでしょう?もちろん、これは、アクア説以上に異端でしょうけどね。逆転の発想です。
で、アクア説っていうのは、最終的には、それ自身が今後大きく変容していって、既存の人類起源論に合流しようとするでしょうし、また、既存の人類起源論のほうもまた、ときには、アクア説のほうから、都合のよい部分はとってきて、ということで、将来的には、いろんな説からのいいとこどりの説が定着するんではないか、という感じですね。ホロビンのいうような分裂病と進化との関係については、数年で解明されると思うし(おもに、チンパンジーゲノムとヒトゲノムとの対応関係から)、ま、そうなったときに、人類水棲適応のことが、ヒトゲノムになんらかの形で残っているなんていうこともあり得ると思うわけですね。ディーコンがいうように、声を自由にコントロールして話すのは、鳥とクジラ類と人間だけ(それにコウモリと一部ベルベットモンキーもはいりそうだけど)というのからすると、人間が声をコントロールできるようになったのは、水棲だったから、というのも、ありえなくはない、っていうかそれもモーガンがすでに言っていますが、、。
あと、多少なりとも考えたいのは、毛がなくなったときの問題です。類人猿の場合も、猿の場合も、生まれたばかりの赤ちゃんというのは、母親の毛にしがみついていて、人間の場合も、赤ちゃんはニギニギにして産まれてくるわけですが、でも、人類の場合、そんなつかめるような毛が生えているわけじゃあないですから、そういうことはできなくて、で、アフリカの狩猟採集民族などをみると、赤ちゃんは、母親の脇にお尻あたりに脚をひっかけるようにしてしがみついていて、母親はそれを支持するっていうことをしています。農耕民族であれば、普通にだっこでよいのですが、このだっこの体制で、毎日歩き続けるなんていう移動生活をしていると、お尻にひっかけるような方法しかないのかもしれません。さて、もし、赤ちゃんがそもそも毛にしがみつくという状況のままで、毛がなくなるような突然変異が起こったら、そりゃ大変で、ほとんどの赤ちゃんは、母親から墜落して死にますので、その前に、だっこの仕方が発達しないといけません。尻が大きくなったのは、そういう理由もあるかもしれませんが、そうなると、毛が抜けるよりも尻が大きくなるのが先で、とかいろいろな順番が見えてくるようにも思える。人間の場合、おんぶにせよ、脇腹にだっこでも、尻があることは重要ですよね。アフリカの民族の中には、尻が以上につきでたいわゆるホッテントット族がいますけど、そういうのも、ある程度あかちゃんのだっこと関連しているかもしれませんね。じゃあ、水棲との関係は?というと、うーん、難しい。毛が抜けたのと水棲は関係ないような気もしなくはないが、、、。
さて、もう一冊は、J・ダイアモンドの「人間はどこまでチンパンジーか」という本です。この本は、まあ、いろんなことがだらーっといろいろ書かれている本ですが、私がこれまで、いろいろな本とか読んできて、だいたい気がついていたとか、知っていたようなことを、圧縮してさっと書いてあるのと、それぞれについて、もうすこしいろいろ深いところまで情報を提供している点で、おもしろかったです。性淘汰の問題とか、人間の行う殺人とかそっちの話、大量殺人・虐殺と社会進化論的な関係についての話などが、著者の、パプア・ニューギニアでの野外活動とからめて、非常におもしろくかいてあります。ここでの議論のベースとなる話がたくさんありますので、是非ごらんください。
あ、ちなみに、この私のホームページには、まだ登場していませんが、一応、言語学に興味がある人間として、ビッカートンのクレオールの話は興味深いところで、それと計算機科学との関係で、オブジェクト指向言語とのからみもおもしろいのですが、この、ダイアモンドの本には、それなりに、クレオールの話が紹介されています。いずれ、時間ができたら、このクレオールの話は書きたいと思います。
ようするに、いろんな知識を詰め込んでも、その知識が本当に身をもって理解しているっていう状態になるのは、その知識を受け入れるだけの基本的な準備ができていないとだめ、っていうことになりましょうか。
この本、ミズンやホロビン、ディーコンなどのいろいろな説を、これらの人の名前を特に出さずに、ずらっとならべていることは事実で、さらに、ダンバーの毛繕いの話は、かなり明確に書かれているわけですが、読んだときには、あんまりよく理解していなかった。また二度目読み直すと、うーん、そうか、という感じがしました。
ところで、最近、「人間が子音を発音することができるようになった原因遺伝子が発見された」という記事が、Bionews のページでありました。子音の発音を特別に苦労してしまう、家族性の病気があって、その病気の人の遺伝子の異常を突き止めたところ、一カ所のSNPが発見されたという話。ところが、このSNPで、この異常をもった人たちは、チンパンジーどころか、ほとんどの霊長類やさらには齧歯類などとも共通の配列で、正常な人間だけが、このSNPを持っている、ということがわかったという話です。つまり、ほかの哺乳類(まあ、霊長類と齧歯類などとして)と、人間との違いの、特に言語能力に関するものが、一つ明らかになった、というわけです。どこまで本当かわかりませんが。その他に、精神分裂病に関わるSNPも発見された、という記事がWEB版のasahi.com かなんかで紹介されていました。ノーベル賞学者の利根川博士のグループがつきとめたそうです。
まあ、そういうわけで、チンパンジーゲノムもだいぶ解明されてきているし、今後数年で、かなりいろいろな遺伝子の解明がなされて、人間の「知の源泉」ということがわかってくるような感じです。
もっとも、チンパンジーと人間との違い、というのは、わかったとしても、その違いが、いつの時点で人間に起こったのか、というのはなかなかわかりません。チンパンジーと人間が別れた600万年前よりも後、ということがわかるだけで、じゃあ、ホモ・エレクトスはいかがなもの?とかネアンデルタール人はどうかしらん?という話はわからない。もっとも、ネアンデルタール人については、ミトコンドリアDNAは抽出されたから、うまくがんばると、核のゲノムも一部わかるかもしれない、というのはありますが、、、。
ま、とにかく、なにはともあれ、後数年のうちに、いろいろなことがわかってくると思いますです。
この本が出たのは、ミズンらの本が出たあとの話なので、ここで紹介した本の多くの内容を受け継いだものになっています。ですから、たとえば、ダンバーの毛繕いの話がでてくれば、その説をほとんど引用したあとで、「だから、性淘汰である」というし、なんでもかんでもこの調子。であるから、結局、これまでわかっていた考古学的な事実と、仮説とのすりあわせの部分でくろうしてきたミズンや、そして、ダンバーらの説を、そのまま踏襲して、「だから、性淘汰」といっているだけなのであって、それだけの本でした。ただ、ここで取り上げる理由は、性淘汰というものの重要性、つまり、雌が雄を選ぶ際の選択、淘汰が種の進化に大きな影響があり、それは、自然淘汰よりも遙かに強力で、高速な進化を実現しているのだ、というのを、考えさせるきっかけにはなると思います。
つまり、まだ説として完結していないんですね。たとえば、人間は愛をささやくために、つまり、女を口説くために、言語を発達させた、というのは、よいとして、同じようなことは、鳴鳥もやっているわけですが、鳴鳥の鳴き声には、人間の言語のような情報伝達というものはなく、ただ、できるだけ魅力的な声で鳴こうとするだけなんですが、じゃあ、なんで、人間の言語は?という部分があるでしょ。それは、人間はそれまでに十分な知能を発達させてきたからだ、というのですが、カラスなんか見ると、道具は使うし、オトナになっても遊ぶし、類人猿と比べて知能が劣っているともいえない部分がある。カラスが言語を発達させなかったのは、なぜなのか、あるいは、鳥類の中で、そういうことがなかったのはなぜなのか、それがわからない。それから、性淘汰は非常に高速だといっておきながら、「男らしさを誇示するため」というアシューリアン石器のハンドアックスが、なぜ100万年も同じ形にとどまったのか、そのあたりが書かれていない。ようするに、都合のよいところは取り上げて、そうじゃなあないところは、目をつぶるというようなやり方ばかりです。だから、上下巻の、上巻で、性淘汰の重要性を語るあたりはおもしろいけれど、それによって、ヒトの過去の進化を記述するところになると、ふにゃふにゃの話しか出てこない。そのあたり、もっと緻密に完成させてほしいと思います。
他に、リチャード・バーン「考えるサル」も読みました。こちらは、いわゆるマキャベリズム的知能についての先験的な本なのですけど、これはおもしろい。ただ、ミズンが、これを取り込んだ上で、さらに、ダンバーのもあるんで、新鮮さはなかったですけど。あと、模倣は人間だけが本格的にできるのだ、というあたりで、サルの模倣らしきものを、実は単純なダーウィニズムで説明できる、なんていうあたりが結構おもしろい。知能とはなにかを、かなりつきつめたところでおもしろいです。
ほかに、木村「人間は何故裸になったのか」というのは、邪馬台国論争と同じく、定年退職後の道楽で本を書くようになった方の本ですが、これは、もうやっぱりトンデモですね。論旨も、多少他の本などを読んでいると、かなりデタラメに近いです。身体から毛がなくなれば、身体の骨格も変わるはず、というのはよいのですが、だったら、一番人間が大きく骨格を変えたのは、猿人から原人へ、というべき、つまり、ホモ・エルガスターの登場の段階であろうと思いますので、私的には、当然そこに毛がなくなった時期をおくべきだとおもいますが、なぜか、ネアンデルタール人の話になって、ネアンデルタール人は実は毛があったのだ、ということになっている。で、ネアンデルタール人の不思議な骨格について、毛があった証拠としているんですが、変。まず、ネアンデルタール人と新人との違いの中で、かなり多くの違いは、実は現代のヨーロッパ人とネアンデルタール人の共通項目でもあるんです。鼻がでかいのも、たぶん、ヨーロッパ人は、現代人の中でもっとも鼻がでかい。幅が広いのは、アボリジニもそうかもしれませんが、高いでかい!というのはいわゆるヨーロッパ系白人です。ネアンデルタール人の生きていたころと、新人がヨーロッパに進出してきた後のヨーロッパの気候の違いはさておいて、ネアンデルタール人は、ヨーロッパにきて、10万年以上、おそらく、30万年か40万年近くかけて、「ヨーロッパの人類」になったわけで、それに対して、現代ヨーロッパ人は、たかだか数万年しかヨーロッパにいないのです。それでも現代ヨーロッパ人は、他の地域の集団にくらべて、もっとも鼻がでかく、また、もっとも毛深く、また、もっとも唇が薄く、ということで、現代の人種の中では、かなり古い先祖帰り的形質を持っているわけだし、ネアンデルタール人に近い形質(とくに、鼻の形)もあるわけです。だから、さらに10万年以上にわたって、ヨーロッパ人が他の集団とあまりまじわらないならば、ネアンデルタール人とさらに似たものになっている可能性はあります。その意味では、ネアンデルタール人は、十分に「毛深い」種であった可能性はあります。しかし、そうだとしても、それは二次的に発達させたものであると考えるほうがずっと妥当です。ヒトが、おおむね現代人と同じ体格をもつようになったのは、ホモ・エルガスターの時代です。骨格の変化から毛を失った時期を考えるなら、当然そのときにすべきでしょう。骨格の頑丈さが重要だというなら、最初のホモ・エルガスターにくらべて、ネアンデルタール人も、アジア型のホモ・エレクトスも、かなり頑丈な身体を発達させています。最初のホモ・エルガスターのほうが、ずっと華奢な骨格なのです。木村氏の考え方からすれば、「またあとから毛が生えたと考えるべき」なのです。
というわけで、題名につられて、ついつい買ってしまいましたが、やっぱり定年退職後の道楽系の本は、トンデモなのだ、それは、邪馬台国論争だろうと、なんだろうとそうなんだ、というふうに思いました。
さて、ついでに、NHKのテレビで、BBC などが制作した、アッテンボローさんのプロデュースの「哺乳類の世界」とかいうのを見ました。最後の、「サルからヒトへ」のところで、チンパンジーが、狩りをする様子。なかなかすごいです。それから、ゲラダヒヒのおしゃべりも結構印象的でした。ボノボやゴリラの中で水際に棲んでいる場合の二足歩行については、どうやら、アクア説がある程度評価されつつある現状を物語っているように思います。
結局、進化の道筋というのは、それぞれの種ごとに特異的なんで、だから、いろいろな種がいるんですが、ヒトに特徴的な言語、二足歩行、大きな頭脳など、どれをとっても、それぞれが、他の生物種で、ある程度説明できる進化の流れがあるように思うわけです。ただ、それが全部そろった場合に、ヒトになったのだ、というふうに考えれば、ヒトの進化の道筋もそれほど特別ではないと思えるようになってきました。言語の発達も、二足歩行も、頭脳が大きくなるのも、全てが同時に起こったなら、それは不思議ですが、そうではない。最初は、チンパンジーとそっくりな顔で、同じくらいの脳容積で、ただ、二足歩行だけを始めた類人猿として、初期のホミニドが登場するわけです。そして、ホモ・ハビリスが現れた250万年前に、ぐぐっと頭が大きくなる。脳の言語野が多少大きくなる。石器を作り始める。で、それから、突然、身体が大きくなる。身長が現代人以上になる。だから、脳もそれに応呼して、大きくなる。たぶん、この段階で、毛も抜ける。そして、活動範囲が広がり、アフリカを出る。でも、この段階でも、ヒトは、野生動物でした。たぶん、ムステリアン石器をつくったネアンデルタール人も野生動物だったんでしょう。本当に人間が人間になったのは、ホモ・サピエンスが登場してから。そこで、がらっと大きく物事がかわった。それは、ホロビンのいうような、とんでもないことなのかもしれません。わかんないけど、かなりいろいろわかってきたんだと思います。
テレンス・W・ディーコン著
「ヒトはいかにして人となったか - 言語と脳の共進化」
金子訳 新曜社 1999年
スティーヴン・ミズン著
「心の先史時代」
松浦、牧野共訳 青土社 1998年
ロビン・ダンバー著
「ことばの起源 - 猿の毛づくろい、人のゴシップ」
松浦、服部共訳 青土社 1998年
デイヴィッド・ホロビン著
「天才と分裂病の進化論」
金沢訳 新潮社 2002年
エレイン・モーガン著
「人類の起源論争 -アクア説は異端なのか?- 思索と論争の25年 アクア説の集大成!」
望月訳 どうぶつ社 1999年
J・ダイアモンド著
「人間はどこまでチンパンジーか? -人類進化の栄光と翳り」
長谷川、長谷川訳 新陽社 1993年
ジーン・エイチスン著
「ことば 始まりと進化の謎を解く」
今井訳 新曜社 1999年
ジェフリー・F・ミラー著
「恋人選びの心 性淘汰と人間性の進化」1,2
長谷川訳 岩波書店 2002年
リチャード・バーン 「考えるサル 知能の進化論」 小山、伊藤訳 大月書店 1998年