Diary 13 Feb. 2001

2001年2月13日

さて、強行軍だったスペイン旅行の疲れもでて、午前中は寝る。 11時ごろ起きて、それからちょっと軽い食事をしてから、ホテルを出る。一応、目的地は、サグラダファミリア。あいにくの曇り空。

さーて、地下鉄を降りて、登ると、いきなりのサグラダファミリア。すごい。たしかにすごい。で、中に入る。やっぱりすごいけど、どうなんだろうか。もう壊れかけている感じもするこの建物。古さと新しさが一緒になって、そして現在も建設中。

いきなりこれもんで登場のサグラダ・ファミリア教会。
どっかんと登場の入口。
やっぱり工事中の新しい部分。
彫刻もなんだかすごいですねー。現代的といえば、、。でも20世紀始めのことだし。
でもって、中にはいって、うーむ、なんか、ディスニーランドと通じるものがあるのかも。
あるいは、岡本太郎?
ね。これは、岡本太郎的な気がするのは、気のせいか。べつにどっちが元祖とかいうつもりはないのだが。
工事中のところは、白とかいろいろな色の石とかコンクリートとか。 でも、向うのほうの、すでにつくってだいぶたったところは、茶色くなっている。
名物のとうもろこしみたいな、塔。
天井もこれもん。ラメ入り。
いろいろな色の石をつかって、ほんのりと暖かさを感じるが、新しいうちだけなのか。
入口と反対側のほうにある入口。この感じは、アルハンブラの天井の幾何学的でこぼこから幾何学を取り除いたような感じがしますね。
このあたりの彫刻は日本人がつくっているはず。
見上げると、こういうかんじ。日本の大阪あたりの派手もののカラオケ屋などとも通じないことはない。おどろおどろしい感じ。
登らせてもらえるなら、登りましょう。
低いめの塔と同じくらいの高さまできたところ。
なんだか、すごい彫刻っていうか。
だいぶ上まできたところ。工事現場っていうか。
これまた、工事現場、という感じ。
さて、降りてきました。博物館のような展示室もあるので、そっちに向かう。
まずは、正面玄関の模型
完成するとこうなるらしい。
どうも、ガウディがこのサグラダ・ファミリアを作るにあたって考えたのは、こういう糸で、錘をつるして、その形のようなもの、ということらしい。
いま、盛んにつくっている部分の模型。
石を切っています。
さーて、こうして、出てきました。ちなみに、サグラダ・ファミリアとは、英語でいえば、Sacred family ですので、「聖家族」です。
ただ、サグラダファミリアはたしかにすごいけれど、やっぱりこれは正統的なヨーロッパというか、地中海沿岸の伝統的な建築物なのではないか、ということ。日本でサグラダファミリアだけを見ると、ガウディはすごい!とかいう感じなんだけれど、昨日の日記にもあるように、やっぱり、ヨーロッパ的というか、アラブ的というか、そういうものの延長線上にあるのが、このサグラダファミリアだと思う。

そこかしこ、すごいと思う。本来は、白い(といってもすぐくに茶色になるけれど)石だけでつくるべきところに、あっちこっちに緑とかそういう色の石というか焼いたものがはめ込まれている。これも面白い。けど、こういうのの元祖は、案外、紀元前のシリアのイシュタル門あたりにあるのかもしれない。ペルガモン美術館(ベルリン)でみたイシュタル門は、すごかった。青い上薬のかかった陶器のようなレンガでつくられた美しい壁。

結局のところ、こういう数千年の伝統というものを現代において作り上げると、ガウディのようになる。そういうことなんじゃないかって。とうもろこしのような塔の形も、ゴシック建築の塔に曲線をいれただけなんだといってしまうとそれまでなのかもしれない。

19世紀末というと、案外最近のことのようだが、パリなどのおもだった建築もまた、案外19世紀のオスマンによる区画整備の後のものが多い。ヨーロッパのいろいろな都市の「古そうな建物」というものが、実際にはガウディと同じかちょっと前くらいに立てられている場合も多いのだ。その意味では、ガウディの作品もすでに十分古いものになりつつある。

でも、ガウディがバルセロナにみょうちくりんな建築を残した結果、「こうならどうでもいいや」ということで、あっちこっちにかなり斬新なデザインの非ガウディ的な建物が目立つ。

さて、それから、公園。ガウディ風のものが大量にある公園。いくまでにえんえんと階段やらエスカレータを上ったが、やっぱりなんか妙だ。 これがガウディだ!といわんばかりの公園。

グエイユ公園に向かう途中。
おっと、それらしいものが見えてきた。
これだぁ。うねうね。そして列柱
怪獣がでてきそうな、景色。
すこしさがって、これも。
ガウディ流のおとぎの世界。
うねうねうねうねー。
見下ろすと、こんな具合。
やっぱり、イスラム建築に近い部分もある。どことなく、屋根の感じは、タージマハルでは。
そして、列柱。これは、アーチがないので、メスキータって感じはしないけど。
天井はこれもんです。
トカゲもいるし、なにやらすごいし。
テーマパークというと昨今の流行だけど。バルセロナは、いったいどれだけガウディで儲けているのだろうか。ほどよいバランスでガウディの建物があり、そして公園もある。で、全体がテーマパークのようになっているというべきか。もちろん、これらを維持管理するための経費もかかるだろうけれど、やっぱりテーマパーク的なもののはしりなのかもしれない。

いろいろ見ながら、「案外、日本のどこぞのスペイン村あたりで、サグラダファミリアのコピーを作ったら、そっちはあっというまにできてしまって、本家よりも先に完成された姿を見せてくれるのではないか」なんていうことを思ってしまった。

バルセロナにも、古い時代からの建築物があるんです。
これは、大聖堂。
それから、ピカソ美術館へ。ピカソの初期の落書きやら、妙な絵を描き始める前のマトモなデッサンなどがたくさんある。ピカソのものだから、という理由で飾ってあるという感じもうける。

美術とはなんだろうと思ってしまう。たしかに、見て、すごいとか、綺麗だとか、そういうものは価値がある。それをもっていて、毎日眺めていると、なんか良い気持ちになるとか、そういうこと。

ピカソの時代っていうか、それ以前からだけど、写真がでてきて、写実絵画は写真にとってかわられるようになった。近代合理主義で、写実主義がうまれ、ルネッサンス絵画とかをうんだわけだが、それが写真の登場で、独自路線を模索するようになる。 で、印象派とかいろいろあって、それからピカソも出てくる。

で、ピカソの絵は見ていて面白いだろうか?気持ちよくなるだろうか?違うと思う。 写実をやって煮詰まったあとでの、一種の破壊活動であることはよくわかる。 ピカソが現在いたら、CGデザイナーとしてもいろいろやっていたのかもしれない。

正直なところ、かきなぐったとしか思えない絵がある。それが、十分に名声のあるピカソの絵だからほうほういわれるのか、それとも、本当に価値があるというべきなのか。 よくわからなくなってきた。

ルネッサンス期の画家なら、写実的にかけるだけで十分に価値があっただろう。ダビンチの場合は、写実に徹していた。モナリザが後にすごい作品といわれるようになったけれど、あれは数ある作品の中であれだけが、特別にすごかったからではないかと思う。たくさんの絵を描けば一枚くらいは絶妙なものがうまれたりする。 たしかにあれは、すばらしいと思うけど。

さて、ちょっとあとになると、すぐに写実からは離れてくる。そうして写真の登場。 いまでは、写実的な絵は、日本の場合は特に、なのかもしれないけれど、文庫本のカバー画くらいにしかならない現状がある。 写実的なものは、ほんものそっくりに描く、映すということで、だれにもその技巧のすごさはわかる。で、写実的であろうとするには、ようするに、近代合理主義的な目を、科学的な目をもっているかどうかでだいたい決まる。 もちろん、歌をうたうときに音痴がいるように、色が正しく見えないとか、また、技巧として、それらしい色がしっかりと作り出せないというような問題はあるから、だれもが写実画をかけるわけでもない。

もちろん、ピカソも初期においては、写実的であり、それも十分な力があった。で、そこから破壊をする。破壊の仕方は彼独自の方法だったが、今回美術館で見てわかったのは、その破壊そのものも、かなり合理的なというか、技巧的な方法での破壊だったように思えることだ。で、この方法について、オタク的に追求すればそれはそれで面白く、その方法がピカソ自身によってどう変遷したか、というオタク的追求をする人が多いから、いわば、ピカソ学ができる。よって、ピカソ学が十分なシェアをもつ事業になっているからこそ、ピカソは、「あたらしい事業をおこさせた」という点で偉いのかもしれない。

ヘーゲルは偉い。ヘーゲル研究者という職業を生んだからだ。という人がいたらしい。近代の芸術家の多くはそういう趣をもっている。

アルハンブラ宮殿とか、そういう中世的なものは、「どこぞの王が作らせた」とはいうものの、作った芸術家、建築家がすごいとかそういう話にはならない。ミロのビーナスをつくった彫刻家の名前は知られていない。でもすごい。

で、近代になると、特定の芸術家が描いた絵であれば、へぼい落書きですら価値をもつ。モジリアニの絵は、「死んだら高く売れる」という形で、死後、仕掛け屋によって価値をもたされたという話がある。日本の女子高生のルーズソックスと同じなのか。

芸術家にとって重要なのは、その芸術の本来の良さではなくて、その芸術家の作品に価値を見出すというよりは、価値をあたえてしまう人の存在ではないか。もちろん、十分に斬新さがなければ「並の人間」と思われるだけである。 だから、現代の芸術家は、斬新さをもとめ、それがセンセーショナルな方向を生み出す。

この日は、夜、4GATS(四匹の猫)という店で食べた。有名な店で、若きピカソもきていたらしいとかいう由緒正しい店。で、ここで食べたのは、やっぱり魚料理だった。若干の生臭さを残しているのが減点ではあるが、味はすばらしく、ふっくらとした白身が、まわりのクリームガーリックソースとあっていて、美味しかった。

夜のカタルーニヤ広場。


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