中国では、古く殷代から、鏡が作られていて、それらは、円形で材質は青銅で ある。もちろん、鏡は日用品であり、化粧道具なのであるが、一方で、姿を写 すというその機能により、古来から、不思議なもの、そして、呪術敵なものと 考えられてきた。そうした中、中国の古代の貴族たちは、自分たちの墓の中に、 鏡を副葬することもまた盛んに行ってきたのである。
この、鏡の呪術的側面、あるいは、宗教的な側面がさらに一段と強化されてい るのが、古代日本ではなかろうか。一般的には、日本への文化到来は、中国か ら朝鮮半島を経て、日本という経路によるものと考えられてきたが、こと鏡に ついては、朝鮮半島では、墓への副葬などの例が非常に稀であり、それほど重 視されていたとも思えない。ところが、日本においては、弥生時代から、鏡は 非常に重要なものとして、墓などに大量副葬されている。
中国においては、漢の時代くらいから、皇帝の臣下が死んだ際に、皇帝がその 墓への副葬用として、鏡を用意し、遺族へ渡すという習慣があったらしい。そ の場合の副葬用の鏡は、臣下の位に応じて、高いものほど大きな鏡が渡された というのである。
紀元57年に、日本の、おそらく九州北部を中心とした王国が、中国に朝貢した。 このことは、中国の歴史書である後漢書に記載されている。倭の奴国というの が、朝貢したというのである。このことが事実である証拠として、福岡県の志 賀島から、「漢委奴国王」と書いた金印が発見されている。江戸時代のことで ある。中国の歴では、この最初に公式に漢王朝に朝貢した倭の奴国のことが印 象に強かったのか、後の歴史書においても、日本、あるいは倭国を説明するた めに、「いにしえの、倭奴国のことである」と書いている場合が多い。さて、 その奴国の王墓というものは、いまのところ、発見されていないようであるが、 この時期に、中国からわたったと思われる後漢時代の銅鏡が、数多く発見され ており、その中には、直系が20センチを越える大型の鏡も何面かある。奴国王 は、大中国の漢の臣下としての奴国王であるから、もしかしたら、奴国王の死 に際しては、後漢王朝から、副葬用の鏡が賜れたかもしれない。直系20センチ の鏡は、中国でも、かなり高い位の臣下にのみ配布されているから、奴国王も また、それくらいの地位と見られていたのかもしれない。もっとも、奴国王墓 はまだ、発見されていないので、なんともいえない。
中国で鏡生産が非常に活発であったのは、漢代(前漢、後漢)であり、非常に多 くの鏡がつくられ、そして、その中の決して無視できない量の鏡が、日本に来 ている。それらは、弥生時代において、朝鮮半島と密接に交流のあったと思わ れる九州北部から大量に発見されている。その種類もいろいろあって、小さい ものから、大きなものまであり、大きなものは、20センチを越える。また、中 国から製品としての鏡をもらうだけでなく、国内においても鏡を作っていたよ うである。当初は、朝鮮半島などからも発見されるような、小型のもので、デ ザインなども、非常に稚拙なものが多い。これらは、一括して、小型倣製鏡と よばれている。しかし、弥生時代末と考えられる福岡県前原市の平原墓からは、 30数面の鏡にまざって、直系40センチを越える大型鏡が発見されている。この ような大きな鏡は、中国でも例がなく、その意味で、これは日本で作られたも のだと考えられている。ただし、その技術は、中国からもたらされたものと考 えるべきであろう。
中国では、後漢が3世紀前半に滅び、それからは、魏呉蜀の三国が鼎立する三 国時代に入った。そして、ちょうどそれと同じような時期に、日本では、古代 史最大の謎ともいうべき、邪馬台国が興っている。
邪馬台国の卑弥呼の登場である。中国の三国志の魏志(あるいは、魏書)の東 夷伝(東方の異民族について書かれた部分)の中に、倭人条という部分があり、 そこには、2000字弱にわたって、2世紀末から3世紀中葉の日本のことが書か れている。そこには、倭には、女王がいたこと、そして、紀元239年に、女王 が中国の魏王朝に対して、使者を送り、魏の皇帝(当時は少帝が即位したばか りであった)は、倭の女王を、親魏倭王に任じ、金印を賜ったというのである。 そして、いわゆる引き出物として、さまざまな衣類とともに、銅鏡を百枚賜っ たと記されている。
さて、その卑弥呼が魏の皇帝からもらったという銅鏡百枚とは、どんな鏡だっ たのだろうか?そして、その鏡は、すでに発見されているのであろうか?邪馬 台国論争の重要な問題は、邪馬台国がどこにあったのか、という点と、卑弥呼 は誰なのか?である。邪馬台国が九州にあったとすれば、九州の弥生時代末期 の墓(墳丘墓)から大量に発見される、後漢の鏡がそれであるかもしれない。 しかし、もし、近畿大和にあったなら、大和は大和朝廷の興った場所であり、 だとすれば、初期の大和政権とそれを支えた臣下たちが作った巨大な前方後円 墳などに副葬されている鏡こそが、卑弥呼のもらった銅鏡百枚に相当するので はないか。
そこで問題となるのが、古墳時代前期(最近では、3世紀後半から4世紀後半 までとされる)の古墳から大量に発見される、三角縁神獣鏡と呼ばれる一連の 鏡である。この鏡の特徴は非常に明確で、まず、直径が22センチ程度という大 きなもので、これは、中国の一般的な日用品としての、化粧道具としての鏡に しては、大きすぎる。まさに、宗教的な意味をもつ祭器としての銅鏡というこ とになろう。そして、特徴の二つめは、外縁部の断面が、二等辺三角形をして いるということである。これは、大きな鏡がゆがまないようにするための補強 効果を狙ったものだ、というような説明もなされているが、よくわからない。 そして、もう一つの特徴は、この鏡が、神獣鏡と呼ばれる、3世紀代の中国の 南方で流行した鏡の一種であるということである。
三角縁神獣鏡は、前期古墳からは、膨大に発見されていて、その数は、すでに 500枚近い。卑弥呼が魏の皇帝からもらったのは、百枚であるから、それが500 枚も発見されることからして、謎である。そして、日本からは、500枚近く発 見されているにも関わらず、この三角縁神獣鏡の範疇に入る鏡は、中国からも、 そして、朝鮮半島からも、一枚も発見されていない。
中国出土、あるいは朝鮮半島出土の鏡の中には、もちろん、神獣鏡がある。お もに、中国の南方、長江流域から発見されているものが多く、画文帯神獣鏡や、 これと類似した、画像鏡である。中国の道教の神仙思想を表した、神々、西王 母や東王父、そして、神獣とよばれる空想上の動物を絵柄にしたものである。 また、中国出土の鏡の中には、外縁部が三角形になっている、いわゆる三角縁 の鏡もある。これらの多くは、画像鏡である。しかし、日本で発見されている、 定型の三角縁神獣鏡と類似したものは、一枚も中国からは出てきていない。
仮に、三角縁神獣鏡が、中国の三国時代の魏で作られた銅鏡であるとすれば、 これが、卑弥呼のもらった百枚である可能性は高く、そして、この鏡が古墳か ら出土するということになれば、古墳を作った西日本全域を含む連合勢力こそ が、卑弥呼を女王として頂いた邪馬台国を盟主とする倭国そのものとなり、そ の場合、邪馬台国とは、大和政権、あるいは大和朝廷そのもの、あるいはその 前身として理解できる。だとすると、邪馬台国の所在地は、近畿大和と考える のが自然であり、卑弥呼は、日本書紀や古事記などに登場する、天皇家の女性 のだれか、ということになろう。
しかし、そうでなく、三角縁神獣鏡が、日本でだけ作られた独自の鏡であると すれば、卑弥呼がもらった銅鏡百枚は、中国でもよく発見されるような、後漢 鏡と似たものであると考えられる。だとすれば、これらが、大量に発見されて いる、九州北部にこそ、邪馬台国があったと考えるのが自然であろう。
そこで、単純な図式としては、邪馬台国が近畿大和にあったとする人々は、三 角縁神獣鏡を、魏の鏡と考え、これが、卑弥呼のもらった百枚の中核となった ものだとする。一方、九州説に立つ人々は、三角縁神獣鏡は、近畿の、後に古 墳を作る勢力になった、つまり大和朝廷、大和政権が、勝手に作って、勝手に 配布した鏡であり、卑弥呼の百枚の銅鏡とは全く無関係とする。邪馬台国近畿 大和説にとっては、三角縁神獣鏡の存在は、まさに、大和説の決定的な証拠に なると考えているし、九州説をとる人にとっては、なにがなんでも、これを日 本で勝手につくった鏡と考えたいというわけである。
だからこそ、三角縁神獣鏡の由来についての論争は、まさに、邪馬台国論争の 中のもっとも重要な、もっとも激しく論争されていることなのである。
また、三角縁の鏡としては、これまた、中国出土のものとしては、三角縁画像 鏡が一般的にしられている。これも、神獣鏡の一種であり、やはり南方が中心 であったと思われる。やはり、三角縁神獣鏡のデザインのルーツとしては、中 国の三国時代においては、北方にあった魏の領域よりは、南方の呉の領域が中 心と考えられるのである。
しかし、一方で、三角縁神獣鏡に刻まれた銘文などは、魏で作られたことを表 しているのは明白である。まず、なんといっても、三国時代における魏の年号 が入った鏡が発見されている。景初三年という、魏の明帝時代の年号や、その 後の、正始元年という、少帝時代の年号が刻まれた三角縁神獣鏡が日本で出土 している。そう、この、少帝こそ、卑弥呼の送った遣使を迎え、銅鏡百枚を賜っ た皇帝である。そして、景初三年とは、西暦では239年にあたり、そして、正 始元年とは、その翌年の240年に相当する。これは、卑弥呼が遣使を魏に送っ た年と、その遣使が戻ってきた年にあたる。これらの年号の意味することは、 まさに、魏の皇帝が、卑弥呼の女王国に賜るために、鏡を生産したということ を意味することになる。けれども、鏡の形式からすれば、魏の領域としては、 あまり一般的でない神獣鏡をベースにし、しかも、その大きさや、三角縁とい う特徴からして、非常に特殊なものであることが、謎なのである。
それだけではない。三角縁神獣鏡には、作者の名前が刻まれているものがかな りあり、もっとも多いのは、陳という姓の人が作った鏡である。銘文には、 「陳氏作鏡」などと書かれている。ほかに、顔氏、張氏、王氏など銘文の入っ たものも多数ある。さて、この陳氏作の鏡と思われる系統の鏡の中には、「尚 方作鏡」という銘文のあるものも、いくつかある。「尚方」とは、漢代以来の 洛陽における皇帝直営の工房という意味である。三国時代において、三国のう ち、魏は、後漢最後の皇帝より、禅譲をうけて、新たな王朝をひらいたわけで あるから、後漢の尚方をも受け継いでいると見ることができ、実際その通りな のである。ただし、後漢代の末には、洛陽の尚方はかなり荒廃していたとされ、 魏代になって、これが、整備され、鏡は、尚方の中でも、右尚方というところ が、もっぱら作っていたことが知られている。実際、魏の年号の入った鏡は、 中国からは、数面しられていて、その中でも、甘露四年とか、甘露五年の年号 の鏡には、きちんと「右尚方作」と書かれている。しかし、三角縁神獣鏡には、 「尚方作」という銘文のものはあっても、「右尚方作」というものはない。た だし、三角縁神獣鏡の銘文に刻まれた文章そのものは、呉の形式よりは、魏の 形式に近いものが多い。ただし、呉の領域でも、後漢末から魏の始めのころに かけて、尚方作と銘のあるものがないわけではない。これもまた難しい問題で ある。
以上のことからすると、三角縁神獣鏡は、デザイン上は、中国南方の、呉の領 域のものを色濃く持っていて、そして、銘文などの特徴は、魏の形式を持って いることになる。この点からして、やはり謎の鏡といわざるをえない。
もちろん、その場合、なぜ、呉の工人が来たのに、魏の年号が刻まれているか? という問題がある。これについては、当時の日本、つまり、倭では、魏の年号 が使われていたのだと考えるのである。その理由はたとえば、呉といえども、 三国時代の初期においては、漢の正当な禅譲をうけた魏に対しては、臣下とし て、魏の中の呉王という立場をとっている。また、卑弥呼が遣使した前年の 238年には、朝鮮半島に勢力をもっていた、公孫氏の政権があったが、これも、 魏の中の、燕王という立場をとっていた。したがって、当時の日本においては、 一般に魏の年号が通用していたと考えても不思議ではない。なお、日本の古墳 からは、赤烏元年(238年)と、赤烏七年(244年)の呉の年号を刻んだ鏡が出てい る。どちらも、呉の領域で普通にみられる対置式神獣鏡で三角縁神獣鏡ではな い。倭と呉との交流もあったことは言えるかもしれない。
なお、ここで一つ面白い鏡がある。それは、日本で出土した、盤龍鏡(龍虎鏡) というタイプのもので、そこには、明確に、景初四年という年号が刻まれてい る。景初四年というのは中国の歴史上あり得ない。これは、景初三年の翌年に あたるが、実際の翌年は、正始元年であって、景初四年ではない。このことは、 中国から遠く離れた倭の地にきた中国系の工人が、中国で改元があったのを知 らずに作ったと考えるのに丁度良いのである。魏の首都であった洛陽において、 このような異常な年号の鏡が作られるわけがないと考えれば、この工人渡来説 は頷けるといえる。
では、呉鏡説であるならば、邪馬台国論争にはどういう影響がでて来るだろう か?まず、邪馬台国大和説として考えた場合は、卑弥呼のもらった百枚の銅鏡 は、三角縁神獣鏡とは無関係で、別のタイプのものであったとする。それは、 神獣鏡ではなく、おそらく、魏の時代やその後の晋の時代に多かった北方系の 後漢鏡の系統を引くもので、方角規矩鏡といわれるものや、獣首鏡といわれる タイプのものである。一方、鏡を日本国内で作るために、倭の政権は、呉から 鏡作りの工人をつれてきたと考えるわけである。ちなみに、この呉の工人渡来 説を最初に出した王仲殊は、邪馬台国を近畿大和にあったとしている。
一方、九州説の立場であれば、もっと面白いストーリーが書ける。魏と呉は当 時争っていたので、九州にあった邪馬台国は、魏と通交していたが、近畿大和 にあった別の政権は、呉と通交していたというわけである。近畿大和にあった 別の政権とは当然後に大和朝廷になってゆく政権と考えることができる。さら に、ここに、朝鮮半島に勢力をもっていた、公孫氏のことを考えるとさらに面 白くなる。公孫氏は、どうやら朝鮮半島北部だけでなく、南部や倭に対しても 影響力を持っていたようである。そして、公孫氏は、中国が三国時代に入ると、 魏と呉の両方とうまく付き合って、ときには、魏よりに、ときには呉よりの政 策をとっている。そうした中で、九州の邪馬台国は、公孫氏滅亡後、魏に遣使 するが、近畿の大和朝廷の前身であった政権は、呉と結び付いたというわけで ある。そして、この、近畿の大和朝廷の前身であるものこそが、魏志倭人伝に、 卑弥呼の女王国と敵対するものとして書かれている狗奴国なのだ、というわけ である。邪馬台国九州説では、狗奴国は、九州南方にあった国とされている。 しかし、日本書紀や古事記を読めば、大和朝廷の勢力基盤の一つに、九州南部 があったことは明確である。考古学的にみても、宮崎県の海岸部にある西都原 古墳群には、古墳時代前期の大型古墳がたくさん存在しているが、これなどは、 古墳をつくった勢力、つまり、初期大和政権が、九州南部と深いつながりがあっ たことを表しているだろう。さて、邪馬台国は、中国文献から倭の女王国の話 が消える266年以降、比較的早い時期に、大和政権によって滅ぼされたという わけである。で、その場合、その九州北部を制圧する話が、日本書紀や古事記 にある景行天皇の熊襲退治ということになるわけである。これが、邪馬台国の 最後であったというのである。
こうした中で、三角縁神獣鏡の図案、デザイン、製造の技術などを検討して、 最近では、時代の変化を追う、いわゆる編年がかなりきっちり行われ始めた。 最近の学説では、三角縁神獣鏡は、おおむねI期からV期に分かれている。そこ で、この三角縁神獣鏡の発展過程から、卑弥呼がもらったのは、I期に属する もので、その数は現状では十数枚である。これならば、今後の古墳発掘などで、 数が増えても、百枚以内に入るかもしれない。
それにしても、まだ多いという気はしないでもない。もし、三角縁神獣鏡が魏 鏡であるならば、作風や、制作者の名前からして、三角縁神獣鏡とともに日本 に入ってきたと思われる、景初四年の年号を刻んだ盤龍鏡が謎である。この鏡 の制作者は、その銘文から、陳氏であることがわかっていて、同じく年号を刻 む景初三年銘の三角縁神獣鏡、そして、景初三年銘の画文帯神獣鏡、さらに、 翌年の正始元年銘の三角縁神獣鏡も、陳氏作の鏡である。三角縁神獣鏡以外の 鏡式のものも、卑弥呼のもらった百枚の中に含まれていると見るべきである。 そうだとすると、三角縁神獣鏡のI期や、I期と同時期の鏡を含めるとやはりす でに、かなりの量が発見されている計算になるかもしれない。
とは、いえ、最近のこの三角縁神獣鏡の編年によって、このタイプの鏡の製作 が、すくなくとも、数十年、おそらく50年程度の間行われた可能性が出てきた。 卑弥呼が魏に遣使を送ったのは、239年であり、彼らが日本に戻ったのが240年 である。そして、中国の歴史書で、倭の女王国について最後に記述されている のが、魏が晋に取って代わられた、265年の翌年の266年のことである。晋につ いての歴史書である晋書には、266年に倭が朝貢してきたことを記しているし、 また、日本書紀には、晋の時代の起居注(皇帝の毎日を記した日記)には、 266年に、倭の女王が朝貢した、とある。魏志倭人伝からすれば、卑弥呼のあ とで、女王に即位したという台与の時代であると考えられる。とすると、240 年から、266年、さらには、晋が衰退していく直前の三世紀末までは、日本と 中国との交流があったと見なされ、その間のおよそ50年の間に、数千枚におよ ぶ三角縁神獣鏡がもたらされた、と考えることができるのである。
しかし、日本でのみ出土して、中国では全くでてこないという点には、やはり 問題がある。そこで、魏鏡説をとる人々は、特鋳説という説をとる。それは、 魏の皇帝が、卑弥呼の望んだ、大きくて、華やかな、三角縁神獣鏡を、卑弥呼 のために、特別に鋳造して賜ったというのである。とくに、最初の百枚につい ては、魏の洛陽の蔵の中にしまってあった昔からの古い鏡を集めて百枚にした のではなく、倭に賜るために、特別に新しい鏡を百枚つくったというわけであ る。この説については、魏志倭人伝に書かれた、当時の制書(皇帝の命令を書 いた書)の引用部分を検討して、特鋳説はなりたたないという話もある。 いうまでもないが、このように、三角縁神獣鏡魏鏡説に立った場合は、当然の ことながら、大和で巨大古墳を作った勢力と、三角縁神獣鏡とが密接に結び付 いていることになるので、基本的に、邪馬台国の所在を、近畿大和に求めるこ とになる。ただし、九州説を捨てがたいと考える人々の間では、卑弥呼のいた 女王国は、当初、九州にあり、それが、台与の時代に至って、大和へ移ったと するいわゆる東遷説がある。もっとも、この東遷説については、考古学的にも、 これを示す根拠は全く見当たらず、九州説と大和説の良いとこどりという印象 は否めない。 というわけで、ここまでのことをまとめると、三角縁神獣鏡が、日本において あまりにも大量に出土しているにも関わらず、中国からは一枚も出ていないこ とから、魏鏡説をとる立場であれば、特鋳説を、そして、日本で作られたとす る人々のは、その作風から、呉の領域からきた鏡作りの工人が日本で作ったと するわけである。
最近ではこのように、副葬された三角縁神獣鏡の編年から、古墳の築造年代、 あるいは、被葬者の埋葬年代を考えることが行われており、そうした中で、非 常に面白いのが、大阪府高槻市の安満宮山古墳である。この古墳からは、鏡は 5枚しか出ていないが、三角縁神獣鏡もでていて、それがII期以前のものばか りである。古墳自体は、墳丘の部分がほとんど後の時代に削られていたため、 土器破片などを伴わず、作られた時代が判明しがたい。しかし、三角縁神獣鏡 のうち、II期までの分しか含んでいないことを考えると、この古墳の時代は、 かなり遡る。実際、鏡など以外に、この古墳の埋葬形式も非常に古い時代を思 わせ、そのことから、この古墳の年代を、250年前後とする意見が多い。そし て、もう一つ、この古墳からは、面白いことに、景初三年(239年)よりも以前 の、青龍三年(235年)という銘文が刻まれた方角規矩鏡が出てきた。方角規矩 鏡は、三国時代に主に北方の魏の領域で流行した鏡で、T字、L字、V字の形を した文様が、規則正しく並んでいるものである。この鏡が、年号に記された通 りの時代に作られたとしたら、魏と倭との通交が始まる年(景初三年=239年)以 前の年号である。そこで、この鏡をめぐっても、これが、本当に魏で作られた 鏡なのか、それとも、後から勝手につくったものなのかが、議論されている。
もっとも、三角縁神獣鏡の編年と、古墳の年代が必ずしも一致しているわけで はなく、三角縁神獣鏡のI期やII期のものしか含まないにも関わらず、その他の さまざまな出土物から、4世紀ごろの古墳とされるものもある。
ただ、一つ言えるのは、三角縁神獣鏡は、古墳時代以降の古墳や墓からしか発 見されていないということである。古墳時代に入って、日本全国的に(といっ ても、九州を含む西日本から関東、東北地方までの話だが)一定の規格に基づ いた埋葬が行われるようになっている。そして、三角縁神獣鏡はそのような一 定の規格、つまり、古墳時代様式に入った後の墓からしか出てこない。それ以 前の墓から出てくるのは、後漢形式の鏡ばかりである。その意味においても、 三角縁神獣鏡は、古墳時代の鏡であり、かつ、古墳の被葬者の政治勢力と非常 に強く結び付いた鏡であり、それは、初期大和政権を象徴する鏡であると言え る。
したがって、初期古墳勢力=初期大和政権と考えることができるとすれば、そ して三角縁神獣鏡が、卑弥呼が魏からもらった銅鏡百枚と密接に関係があると すれば、邪馬台国大和説以外には考えられないということになる。
最近では、古墳時代の始まりが、250年ごろと言われるようになってきた。以 前は、4世紀後半説や、せいぜい4世紀中葉、4世紀前半末(340年前後以降)とい う考え方が主流であったので、卑弥呼が鏡をもらった240年という確定した時 代からは、100年以上も後の時代と考えられていたのであるが、今では、古墳 時代の始まりの時期は、卑弥呼の時代の直後にあたり、丁度、卑弥呼の死(247 年か248年とされている)の直後から古墳時代が始まったことになり、だとする と、卑弥呼の魏との交流の時代にいた人々が埋葬されるとすれば、丁度、250 年前後から、270年、280年ごろまでになり、それらが、たとえば、黒塚古墳な どの築造年代と非常に綺麗に整合することになる。もし、三角縁神獣鏡が魏鏡 であるとしたならば、中国から来たばかりの新品の鏡が、直後が、せいぜい十 年から二十年後に古墳に持ち主とともに埋葬されたことになるだろう。
一番面倒なのは、どこで作ったかと言う問題である。日本でのみ出土している から、日本で作ったともきめかねる。左ハンドルの日本車は、日本ではほとん ど走っていない。しかし、アメリカで走っているからといって、アメリカ製と もいえない。もちろん、ヨーロッパで走っている日本車の中には、イギリスで 作ったものもある。しかし、日本から輸出されている左ハンドルの日本車はか なり多い。左ハンドル車は日本では走っていないということで、左ハンドル車 の製作地をすべて日本以外とすることもできない。つまり、日本でのみ出土し ているからといって、三角縁神獣鏡が日本製であるとはかぎらない。しかし、 やっぱり日本でのみ大量出土している以上、日本向け輸出品であったとか、そ ういう特別に日本向けであったことを考える必要がある。これが、いわゆる特 鋳説につながる。
では、次に誰が作ったか?という問題であるが、これについては、三角縁神獣 鏡に書かれた銘文からは、陳氏、王氏、顔氏、張氏といった中国系の人物の名 前が見られるから、その意味で、中国系の人が作ったことは、ある程度推測で きる。ただし、これも、陳氏というのが、陳を姓とする人物を表すのか、それ とも、陳氏が率いる工房の人々が作ったのか、そして、その工房には、中国人 しかいなかったのか、それとも、日本人が含まれていたのか、そのあたりにな るとなんとも言えない。ただ、陳氏、王氏、張氏、顔氏といった名前がある以 上、三角縁神獣鏡を作った工房が、中国系の工人の指揮下にあったことはほぼ 確実と言えるだろう。そして、もう一つ、三角縁神獣鏡が、神獣鏡であって、 そして、三角縁画像鏡と、画文帯神獣鏡などという呉の領域で非常に流行した タイプの鏡の系統を引いているならば、やはり、呉の工人が作ったと見るのが、 非常に分かりやすい。しかし、呉の年号ではなく、魏の年号が入っていること から、魏との関係についても考慮してみなければならないだろう。
最後に、どういう理由で作ったか?という点については、現状において、古墳 から膨大に発見されていて、一つの古墳あたりで、30枚以上の三角縁神獣鏡が 発見されていることからすると、まず、副葬用の葬具として作られた可能性が ある。この場合は、死者の魂を墓に封じ込めるために、あるいは、死者の魂が、 悪霊などから守られるように、僻邪の意味で副葬されたのかもしれない。ある いは、直接葬具としてではなく、古墳の被葬者が属していた国家連合のような もの、つまり、大和政権が、その権威を示すために、被葬者たちに、大量に配 布し、そして、その数の多さが、被葬者が政権でどれだけ重要であったかを示 すものであると考えることもできるかもしれない。
また、デザインに関する研究でも、笠野毅は、三角縁神獣鏡や、古墳出土の鏡 のデザインを網羅的に調べて、三国時代の魏の領域でも、呉の領域に近い、安 徽省あたり出土の鏡の中に、三角縁神獣鏡や、三角縁神獣鏡と一緒に出土した 鏡と非常に近い系統のものがあることを示している。とくに、大塚新山古墳出 土の三角縁二神二獣鏡は、天神山古墳出土の二禽二獣鏡(三角縁神獣鏡ではな い)と非常に似たデザインであり、同一の工人による作品と思われるが、この 二禽二獣鏡とほとんどそっくりな鏡が、中国からも出土している。これは、お そらく洛陽近辺出土と考えられるもので、その意味で、図案の上からも、ほと んど同じとされる鏡が、呉よりは、魏の領域から出土していると見て良い。他 にも、佐味田宝塚古墳出土の車馬神獣鏡とほとんど同じデザインの鏡が、やは り中国の魏の領域だったところから出土している。
こうしてみると、たしかに、作風そのものは、呉の領域の工人による可能性が 高いように思われるが、図案がそっくり同じというものは、呉よりは、魏の領 域から出ていることになる。
中国の考古学者である王金林は、三角縁神獣鏡の銘文に、陳氏作鏡というのが 多いことから、まず、この陳氏の系統を研究した。三角縁神獣鏡の中で、およ そ、1/3が、陳氏作と考えられている。これには、陳氏作鏡と書かれたもの以 外にも、その作風から考えて、陳氏作と考えられるものが含まれている。つま り、三角縁神獣鏡という独特の形式を発案したのは、おそらくこの陳氏であろ うということが言える。この陳氏というのが、単独の個人をさしているかどう かは、明らかではない。陳氏の率いる工房という意味かもしれない。実際、陳 氏の鏡の中には、陳建とか、陳孝といった個人名と見られるものが含まれてお り、このことから、陳氏の中には、少なくとも、陳建と陳孝という人物が含ま れていたと考えることができる。だとすれば、他にも数人の陳氏がいたかもし れない。ただし、一括して陳氏とされていることが多いことからすると、陳氏 という鏡作りの工人集団がいたことは間違いない。
日本出土の鏡の中で、確実に陳氏作と銘に刻まれているものは、中国で出土し たものは、7枚、そして、21枚が日本から出土している。そして、日本出土の 多くは、三角縁神獣鏡である。そのうち、中国で出土したものは、ほとんどが、 長江流域のもので、しかも、そのうちの、南京で出土の1枚を除いて、すべて に呉の年号がついている。鏡の形式は、どれも神獣鏡であって、呉の鏡として ふさわしい。
このことから、陳氏は、呉において、呉の政府のもとで、年号鏡をつくってい た工人、あるい工人集団であったと言えるだろう。もちろん、この陳氏と、日 本出土の鏡の陳氏が別である可能性もあるが、しかし、神獣鏡の形式、作風な どからすると、この呉の鏡作り工人陳氏と、日本出土の三角縁神獣鏡を作って いる陳氏の関係は密接であると考えられる。おそらく、同一の工人集団と見ら れる。なお、南京出土の陳氏作の鏡には、陳孝作鏡とあり、陳氏の中の陳孝が 作った鏡であることが分かる。
では、日本出土の陳氏の鏡はどんなものがあるか。まず、景初三年銘の画文帯 神獣鏡、景初三年銘の三角縁神獣鏡、そして、景初四年銘の盤龍鏡、さらに、 正始元年銘の三角縁神獣鏡がある。つまり、日本出土の魏の年号鏡は、上記に 示した青龍三年銘の顔氏作の方角規矩鏡を除いて、すべて、陳氏作ということ になる。
さて、それでは、陳氏作の鏡の中で、呉の年号がついているものを追い掛ける と、最初に黄武七年のものがあり、その他は、すべて、黄龍元年(229年)のも のである。こうして、一つのストーリーが考えられることになる。
つまり、陳氏とされる工人、あるいは工人集団は、呉の公式の鏡作りの工人集 団であった。だから、黄武七年から、黄龍元年(229年)まで、呉の年号の入っ た鏡を作っている。しかし、次に陳氏の鏡で年号が現れるのは、日本出土の景 初三年(239年)銘のものである。したがって、陳氏は、229年から、239年まで の10年の間に、呉の地を離れて、魏に移ったと考えられるのである。しかも、 三角縁神獣鏡には、「師出洛陽」と書かれたものがあり、陳氏作鏡の中にも、 それがある。とすれば、陳氏は、洛陽にいたことになる。実際、銘文をこまか く読むと、呉の年号の入った陳氏の鏡における銘文と、日本出土の陳氏のもの ではかなり違い、日本出土の陳氏の鏡は、当時の洛陽における鏡に一般的な銘 文が含まれている。つまり、陳氏は、呉を離れ、洛陽の、それも、魏の皇帝直 営の尚方に属していたと見ることができる。実際、日本出土の尚方作とする鏡 はその作風から陳氏作と考えられている。さて、そうなると、陳氏は、まさに、 卑弥呼が遣使した景初三年(239年)に魏の洛陽尚方の鏡作りの工人として、存 在し、そして、魏志倭人伝の引用する皇帝の制書にある銅鏡百枚を作ったので あろう。その製造は、かなり急いでいたものと思われ、景初三年のものを作っ たあと、改元されて、正始元年になることが分からないうちから、翌年の年号 をデザインするという状況だったと考えられる。その結果、存在しない景初四 年という銘の入った盤龍鏡ができてしまったというわけである。
こうして、陳氏は、洛陽の尚方で、本来呉の鏡作り工人であったことを利用し て、呉の形式に近い、画文帯神獣鏡や、そして、あらたに三角縁神獣鏡を作り だしたというわけである。この陳氏がその後どうなったのか、について、王金 林は、「倭に渡ったのだろう」としている。その理由として、景初三年、正始 元年と、異常な景初四年の年号鏡を作った後、陳氏は二度と年号鏡をつくって いないからである。それは、年号を使わない倭に移ったからこそ、年号を刻ま なくなったのであって、陳氏は、呉にいるときは、呉の年号、魏にいるときは、 魏の年号を刻んでいたのである。そして、日本に来てからは、年号を刻まなく なったというわけである。
この銘文にある陳氏の系統を考えれば、三角縁神獣鏡の謎もかなり解けたと言 えるかもしれない。呉の鏡作り工人であった陳氏一派が、呉の形式の神獣鏡を 作ったのは自然である。そして、その一派が、魏の洛陽尚方に10年程度滞在し たのであれば、日本出土の三角縁神獣鏡に尚方で一般的な銘文が入るのも当然 といえる。また、魏の領域で出土する鏡にある、たとえば、長方形鈕孔の謎も とける。これは、陳氏が魏の洛陽に来てから、そこで一般的な方法を利用した のか、あるいは、陳氏の集団の中に、もともと洛陽の鏡作り工人が含まれてい たのかもしれない。その候補としては、青龍三年銘入りの方角規矩鏡を作った 顔氏などである。顔氏は、たしかに、235年には、当時の魏で流行した方角規 矩鏡を作っているのだが、後に、日本出土の画文帯神獣鏡をも作っている。呉 の鏡作りの系統をもつ陳氏に弟子入りした洛陽の工人だったのかもしれない。
さて、王金林氏は、陳氏の動向として、卑弥呼の遣使が倭に戻る正始元年に、 一緒に倭へ向ったとしている。そうして、陳氏は、倭の鏡作りの工人となって、 倭での鏡作りを指導したというわけである。
ところが、これでは、中国から出土する鏡の中に、三角縁神獣鏡の比較的後の 時代と思われるものとほとんど同じデザインのものが含まれている理由が不明 である。もちろん、陳氏も複数いたので、何人かは中国に残ったと考えること もできるが、あれほどデザインの似たものは、いくら工房が暖簾別けしたから といっても、似すぎている。また、年号がなく、尚方作とされる三角縁神獣鏡 がみつかっている。これも、景初三年から四年の間の慌ただしい時期に作られ たのであろうか?やはり、正始元年の倭の遣使とともに、倭に向ったというの も、単純すぎるのではないかと思えるのである。
実際、中国で出土した、魏の年号鏡は、他にもあって、前述の甘露四年、甘露 五年の獣首鏡の他、正始五年銘の画文帯神獣鏡がある。甘露四年と五年の獣首 鏡は、魏で流行した、あるいは後漢末から、中国北方で流行したものである。 ところが、画文帯神獣鏡は、神獣鏡であって、やはり南方呉の領域や、後漢末 のものは、広漢西蜀という蜀の領域で、どちらも長江流域で流行したものであ る。とすれば、この正始五年の画文帯神獣鏡の製作にも、陳氏がからんでいた と見ることができる。だとすれば、陳氏一派が、倭に向ったとしても、それは、 正始五年よりも後のことになるのではないか。
陳氏一派の工人集団は、もともと、呉で、鏡作りをしていた。黄龍元年に最後 の呉の年号鏡を作ってから、陳氏一派は、魏の洛陽にうつり、魏の洛陽尚方の 鏡作り工人となった。
このことには理由がいくつか考えられる。後漢末から、洛陽は戦乱によって、 かなり荒廃し、鏡作りもままならない状況であったという。実際、後漢の年号 鏡は、当初洛陽でつくられていたが、途中から、広漢西蜀という後の三国時代 の蜀の領域や、また呉の領域などで作られるようになる。この状態は、220年 の後漢の滅亡後、三国時代に入って、魏と呉が対立する状況になっても変らず、 当初、呉を立てた孫建は、魏を正当な中国の王朝として、魏の中の呉王として 自立したのである。したがって、魏の年号鏡も、当初は、呉の領域で、呉王の 魏の皇帝への献上物として、作られている。その状況は、鏡の形式から考えて、 227年まで続いていたと考えられる。なぜなら、魏の年号である大和元年(227 年)銘の鏡が、呉の鏡として一般的な対置式神獣鏡だからである。この後、呉 は魏から完全に独立し、もはや、魏の年号鏡をつくって献上するなどというこ とはなくなった。そこで、魏としては、なんとか洛陽での鏡作りを復活させる 必要に迫られたと見て良い。 かくして、大和元年の後の魏の年号を刻んだ鏡は、日本の安満宮山古墳出土の 青龍三年銘の方角規矩鏡であり、これは、顔氏作であるが、この鏡は、非常に 雑な作りである。これには、後漢以来の洛陽での鏡作りが非常に退行していた ことを表しているようである。つまり、酷い状況だったのである。そこで、 230年前後、つまり、黄龍元年(229年)以降のある時期に、陳氏が魏のへッドハ ンティングをうけて、洛陽へと移ったと考えるわけである。そして、陳氏の指 導で、洛陽においても、マトモな鏡が作れるようになったと考えることができ る。そうした中で、酷い鏡をつくっていた顔氏なども、これにしたがって、画 文帯神獣鏡などを作るようになる。
さて、そうした中で、倭の女王卑弥呼が、遣使してきた。景初三年(239年)の ことである。当時、尚方で呉の作風もそして、洛陽の本来の作風ももつ陳氏は 大活躍していたので、倭へ送る銅鏡百枚も、陳氏の指導下で作られることになっ た。こうして生まれたのが、陳氏作の景初三年、景初四年、正始元年の日本で 出土する鏡である。これらは、慌ただしいなかで作られたもので、かなり試作 的なものも含まれているといわれている。だからこそ、帝都洛陽にいながら、 あり得ない景初四年などという年号の鏡が作られたのである。もちろん、これ にも、陳氏作鏡という銘がある。
こうして、倭から遣使である難升米らは、正始元年に倭へ戻る。その後も、正 始四年、正始八年と倭と魏との交流記事が、魏志倭人伝に書かれている。この 記録されているもの以外にも、倭からの遣使が魏へ至ったことが何度かあった のだろう。おそらく、その段階で、倭において、陳氏作の原初三角縁神獣鏡が 評判となっていて、さらにたくさんの鏡がほしいという要望が倭からあったの かもしれない。とにかく、尚方の陳氏の工房では、非常に多くの三角縁神獣鏡 を作ったのだろうが、それらは、ほとんど倭へ輸出されたと見る。
転機となるのは、おそらく、正始八年(247年)ごろであろう。魏の朝鮮半島に おける支配拠点である帯方郡から、張政という人物が、倭へ向った。しかし、 彼は、そこで、卑弥呼の死に遭遇する。本来は、卑弥呼から送られたSOS、つ まり、狗奴国との抗争に対して、激をとばすための渡倭であったが、そこで、 卑弥呼は死んでしまう。そして、張政は、おそらく、その後の倭での卑弥呼の 葬送儀礼や、卑弥呼の墓を作るところを目撃しているのである。また、卑弥呼 の死の後に倭王となった男王に対して、倭国の中で反乱なども起き、混乱した 状況であったことが、倭人伝に記述されている。その記述はかなり具体的で、 おそらく、張政の記録がもとになっていると思われる。その混乱は、倭の諸侯 が、倭王となった男王を廃し、卑弥呼の一族の出である台与という13歳の少女 が二代目女王として共立したときに終わる。そして、その二代目女王の台与は、 正始八年(247年)以来倭に足止めされていた張政らを、送り、さらに、そのま ま、魏の都である洛陽まで、遣使している。これは、おそらく、250年ごろと 思われる。
私としては、この250ごろの倭からの遣使が、倭へ戻るときに、陳氏らの鏡工 人をつれて帰ったと考えている。理由は、この時、倭からは、大量の生口が送 られており、可能性としては、これが、鏡作りなどの留学生であった可能性も 捨てきれない。どちらにしても、倭では、鏡を大量に必要としており、それを 作る工人を抱えておきたいという希望があったのだろう。魏の側としては、す でに尚方でも、十分な鏡作りの体制がととのったので、呉からの亡命者でもあ る陳氏を引き留める理由も無かったのかもしれない。あるいは、呉の形式の鏡 を欲する倭人に対して、これが呉との交流を広げて、結果として、倭国が呉と 結び付くことに危惧を感じた魏は、呉の鏡工人であった陳氏らを、倭に派遣し たのかもしれない。もちろん、これは、推測であるけれど。
かくして、魏では、次の年号鏡として、甘露四年、五年の獣首鏡が出るが、こ こには、呉の影響は全くない。神獣鏡をつくっていた人々を、倭へ送り込んだ と考えられる。こうして、250年ごろ、ちょうど古墳時代が始まるころに、陳 氏らの鏡工人は、日本へやってきて、そして、大量の三角縁神獣鏡を作ったの である。途中からは、日本の工人も弟子入りするなどということがあったに違 いない。したがって、途中から鏡作りの技術が次第に悪くなって行き、最後は 技術の低い粗悪な三角縁神獣鏡が目立つようになる。
さて、そうすると、三角縁神獣鏡の中でも、尚方作と書かれているものは、お そらく、魏の洛陽の尚方であり、これらも陳氏作であると考えられている。年 号はなくても、239年末からごろから、250年ごろまで、10年間、陳氏は洛陽で、 三角縁神獣鏡を作り続け、それらのほとんどが、倭へ輸出された。しかし、と きどき普通の鏡も作ったようである。それが、正始五年銘の画文帯神獣鏡であ る。ほかにも、魏の領域出土の神獣鏡がいくらかあるが、これらも、おそらく 陳氏の作、あるいは、陳氏から指導をうけた工人の作であろう。それらが、渤 海湾沿岸の、どちらかといえば、朝鮮半島や倭に近い領域なのは、もしかした ら、陳氏が、倭へ至る前に、しばらくこのあたりで鏡を作っていたことを示し ているのかもしれない。その場合、遼寧省や、河北省のあたりに、尚方があっ たと考えることもできる。
九州の福岡県の前原市のあたりに、平原墓っていうお墓の遺跡がある。これが、 古墳なのか、弥生式の墳丘墓なのか、そのあたりがいろいろ議論されていて、 結構注目のお墓です。そもそも、このお墓からは、30面以上の鏡が出てきて、 さらにその中には、直径46センチともいう、巨大な内向花文鏡がでてきまして、 それこそ、伝説の、八咫の鏡ではないかとかいうことになりました。さて、こ の墓からは、おもに、方格規矩鏡という種類の鏡がでてきまして、いまんとこ ろ、これらは中国からもたらされたものであろうって話になっています。
さて、方格規矩鏡は、中国では、おもに後漢代の初期で、1世紀ごろのものが 多く、よって、その意味では、平原墓は、1世紀中かせいぜい2世紀初頭の墓 というのが、鏡のほうから言えることです。ところが、この墓からの大量の鏡 に対して、「これぞ、卑弥呼がもらった銅鏡百枚なんだ」という考え方がある。 だとすると、3世紀の墓か?ってことになる。
じゃあ、問題は、この方格規矩鏡群が、本島に3世紀の鏡である可能性があ るのかどうか、を検討しましょうってことになりました。で、私流の結論では あるんですが、どう頑張っても、2世紀末以前の鏡である、ということです。
理由としては、まず、方格規矩鏡っていうのは、基本的には後漢代初期の1世 紀ごろの鏡であって、その製作年代は、がんばっても、2世紀中までしかいか ないだろうっていうこと。ところが、3世紀以降でも、方格規矩鏡は作られて いて、たとえば、日本では、安満宮山古墳から出た、青龍三年(西暦235年) という銘文のある顔氏作の方格規矩鏡があります。他に、主に中国の河北あた りの西晋代の墓(3世紀末から4世紀初頭)から、やっぱりこの系統の鏡が出 てくる。青龍三年の銘文は、年号がわからなければ作れませんから、どうして も、235年以降に作ったことになります。だったら、方格規矩鏡というもの も、ちゃんと3世紀から4世紀にも作られていたことになり、だったら、平原 墓の鏡もそういう3世紀の方格規矩鏡ではないかってことになりそうですが、 そうは問屋が下ろさない。まず、1世紀代の方格規矩鏡と、3世紀以降のもの では徹底的に違うわけです。まず、方格規矩鏡は、T字、L字、V字の文様が規 則的に並ぶタイプの図案なんですが、そのうち、L字については、1世紀代の ものは、逆L字ですが、青龍三年鏡などは、正L字です。また、紐をさげるため の鈕の穴の形が、後漢鏡では、半円形のものが多いのに、3世紀代以降の方格 規矩鏡では長方形のものが多い。じゃあ、平原墓のは?っていうと、半円形だ し、逆L字なんです。つまり、古いタイプだと言える。つまり、どう頑張って も、平原墓のは、3世紀以降の中国での三国時代の鏡ではなかろうってことに なります。
中国では、2世紀末から、後漢が混乱して、首都である洛陽近辺は荒廃したわ けで、そこでの鏡生産などは、かなり酷い状況だったようです。だから、後漢 の年号の入った鏡の場合、建安年間(196年以降から後漢の滅亡の220年 まで)の鏡は、全部、洛陽近辺の尚方での作ではなくて、広漢西蜀という、い わば、のちの三国時代の蜀の領域や、あるいは、後の呉の領域で生産されてい ます。で、洛陽での鏡作りは、魏の明帝の時代、つまり230年代くらいにな らないと復活しない。で、復活したての段階で作られたのが、たぶん、日本で 出てきた方格規矩鏡である青龍三年鏡なんでしょう。とすると、およそ30年 から40年の断絶がある。建安年間の間から、230年ごろまで洛陽では鏡は 作ってないとして、技術的断絶がある。だから、その断絶後は、同じような鏡 であっても、製作技術が違う。じゃあ、平原墓のは?っていうと、後漢代の鏡 であるといえる。ならば、どうあがいても、平原墓の鏡は、建安年間以前のも のであろうってことになって、製作時期は、2世紀末以前であるといえる。
ってなわけで、これが卑弥呼のもらった鏡だとしたら、それこそ魏の皇帝のも とに、30年以上、あるいは百年近く眠っていた鏡であったとか、そういう苦 しい解釈をしないと、いけないのです。その意味で、まあ、平原墓の年代は、 くだっても、せいぜい2世紀末から3世紀初頭であろうと言う結論になるわけ です。