Thoughts

21世紀の思想

目次

はじめに
魔物と監視者の構造
光と闇の関係
「想い」の力
不確実な現実、不確実な過去
妄想の時代


はじめに

いやー、よくわかりませんが、なんか、こーゆーの書いてみたくなりました。 何なのか、というと、結局、いわゆるそのティーネージャー向けライトノベル とか、18禁アダルトゲームとか、あるいは、深夜アニメとか、そういうとこ ろで、いろいろな物語が語られるなかで、いくつかの、類似した思想っていう か、概念というか、そういうものがあるのかなーと思って、そういうのを、つ らつらと書いてみようというのが、このページの主旨です。だから、まとまり はとくにありませんが、なんとなく行きましょう。

魔物と監視者の構造

って書くと、いきなり、「吸血姫美夕」の世界ってことになりそうですが、こ の仕組みは、その起源はどこにあるのか別にして、いわゆる「まほーしょーじょ」 モノのアニメなどに非常に多い系統の話ではあります。

人知を越えた、なんつうか、魔物とか、そういうのがいて、それは、人間に悪 さをすることがあるんだけれど、そういうのが、必要以上に人間に悪さをしな いように、監視する少女が必ずいて、その少女が、人知れず、そういう魔物を 闇に葬るっていうことをしているから、人の世界は、なんとかマトモに保たれ ているという根本的な考え方がありまして、比較的可愛いモードだと、「カー ドキャプターさくら」なんかが、それにあたります。

むかーしむかーし偉い魔法使いがいて、彼が作ったカードは、魔力をもってい て、で、それが、世界に飛び散ったので、そのカードの中の魔物が人間に悪さ をすることがないように監視役をおいたけれど、その監視役が、、ってことで、 結局その監視して、魔物を封印するのを、小学校4年生のさくらがやることに なったという話ですね。

もちろん、「吸血姫美夕」もそれでして、神魔という闇に蠢く魔物がそもそも いて、それが、本来は闇の世界で静かに過ごしているのだが、ときどきはぐれ た神魔が登場すると、はぐれ神魔として、人に悪さをしたりする。で、これま た、このはぐれ神魔を闇に封印して戻すという役割をもつ少女がいて、これが、 美夕なんだ、って感じですね。

両者で共通しているのは、さくらにせよ、美夕にせよ、魔物を作ったものとか、 魔物の世界のものから、委託されて「自分たちの仲間が悪さをしないように監 視してくれ」みたいなところです。とくに、美夕自体が、本来吸血姫であって、 人間ではないわけで、属としては、魔物の一種であるが、その魔物の一種であ りながら、自分の同族の中で、人間に関わるものを、封印するというあたりが 面白い。

さて、最近では、私は「ブギーポップ」にかなりはまっているんだけれど、こ のブギーポップシリーズもまた、この闇と人間との関わりの中で、登場する社 会の敵というものが登場したときに、ブギーポップがさっそうと現れという構 図で、基本的には、美夕や、さくらの場合と非常に近いです。

三つとも共通していえることは、魔物とされるものそのものは、けっして悪で はないということです。美夕において、神魔は、悪かどうかは分からない。悪 ではないかもしれない。本来、人間との交渉がなければ、悪ではない。はぐれ た神魔が悪であるというような概念があります。さくらでも、カードそのもの は悪ではないが、勝手に発動しちゃったカードはイタズラするから、それを見 つけて封印するという話。ブギーポップの場合、ブギーポップは、世界を裏か ら支配しているらしい統和機構という組織、あるいは、システムそのものを悪 としているわけではないが、その統和機構の行動からはずれて動き出したもの が時に悪になることがある、とかそういう話になっている。

結局のところ、一種の社会現象の解釈というものなんですが、世の中には、異 常な事件とか、異常な現象とかが起るわけで、それは、人間が科学とかそうい うものを駆使できるようになる以前から、存在し、科学によって、自然を支配 したなんていう思い上がりをもっても、やっぱりまだそういうことが起るのが 現実です。

で、そういう異常な現象、異常な事件というものが、起ることは、ときどきテ レビのニュースや新聞などを通じて、本来その事件とは全然関係がないような 人の知るところになって、なんでこんな事件が起るのか?とかいろいろ疑問が 疑問を呼んで、話題になったりするわけですね。で、その結果として、自分の 身にも同じようなことが起るんではないかとか、そういう不安とか、いろいろ あって、そういう現象や事件を非常に恐れる心理が生まれる。

さて、その時に、そういう不安を和らげる一つの方法として、不安の原因に名 前をつけるというのがあります。人間にとって一番恐いのは、理解できず、得 体の知れないもので、それは悪さをするかしないか以前に、不気味で、わけわ からず、恐い。そこで、そういうものに、名前を付けるわけです。「悪魔」と か、「幽霊」とか、「邪神」とかそういうものです。名前をつけますと、得体 が知れないのはそのままなのに、なぜか、「恐いもの」はたとえば、「悪魔」 の仕業であると考えることで、納得できて、恐さが減る。

こういうのは、人間の歴史以前からあった考え方ではないかと思うわけですが、 それが、現代の、非常に複雑な社会で、その中でまたいろいろな事件が起った りする状況になって、再び復活したようなものの考え方で、社会の中で起る不 思議な事件や、不気味な現象、通常の感覚では考えられない異常な人間の行動 などについて、たとえば、それを、「神魔がやった」とか、「クローリードの 作ったカードがやった」とか、「統和機構のつくったでき損ないの人造人間が やった」とか思うことにしますと、納得がいくというか。

ところが、そういうことなら、もっと頻繁に起ってもよいような事件が、一定 の量に押さえられているとしたら、つまり、限りなくたくさんの神魔が登場し たり、カードがあっちこっちで同時多発で暴れたり、人造人間がむちゃくちゃ なことをしょっちゅうしたりしないのは、それなりに、そういう事件が起きな いようにする制御機構があるはず、で、その制御機構とは、監視者の存在なん だという考え方なんですね。

そうしたときに、監視者というのは、人知れず行動している正義の味方なのか、 なんなのかわからないけれど、一般人ではなくて、その闇の、っていうか、敵 の正体をかなり明確につかんでいる人物であろうということになる。だとする と、その人物自体が、ある意味で、その闇とかシステムとかそういうものとあ る程度近い関係にあると見ることができる。

とすると、ちょっとまとめますと、まず、異常な事件、現象、不気味なことの 原因は、なんらかの魔物が引き起こしているが、それが一定の範囲におさまり、 頻繁に事件が起らないようにするために、監視者がいる。監視者は、その魔物 のことを良く知っていて、たぶん、魔物と同族か、人間と魔物の中間的な存在 であろうと、考えられる。すると、魔物そのものが、結構組織的で、本来、人 間に悪さをしようとはしてないが、組織的な魔物の中で、組織に従わない「は ぐれモノ」が、悪さをする、というふうにだんだんと、魔物そのものの組織論 みたいなものになってくるわけです。

組織という概念が生まれたとたんに、人間は、自分の所属する社会組織、たと えば、学校とか、会社とか、役所とか、そういうものを考えるので、魔物には、 かならず、トップとなる魔王がいて、その下に、腹心の部下がいて、でも、彼 らは決して、人間に対して悪いことをしようとしているわけではないが、とき どき、組織を離れたはぐれものが、悪さをするので、魔王自体が、人間社会に 送り込んだのが、監視者である、とかいう考え方につながるわけです。

こうして、組織が見えてくると、恐さがどんどん減ってきて、最初は恐いだけ の存在だったものが、裏に組織があって、「魔物っていっても、組織に属する 宮遣いの身なのねぇ、そりゃストレスたまるわぁ」みたいなどーじょーまで生 まれたりするから、結構これで、恐さがなくなったりするもんではないかと思 うわけです。

ところで、この監視者っていうのは、結局のところ正義の味方ですが、人知れ ず、監視して、人知れず、魔物を闇に葬るってことをしているので、結構孤独 です。さくらちゃんの場合は、知世ちゃんがさくらの活躍を必死で記録してい るし、サポーターでもありますが、でも、さくらが町内の平和のためにがんばっ ていることは、知世ちゃんをはじめとする、一部の人にしかしられていないの で、新聞ニュースで騒がれるようなヒーローではない。

美夕になると、さらに孤独で、基本的には、ラヴァしかいないんですね。しか も、OVA版ですと、ラヴァは話すこともできない。で、ブギーポップの場合、 同じく、人間として、闇の魔物と戦う霧間凪っていう正義の味方少女が一応存 在するとか、「ブギーポップは笑わない」において、ブギーポップに変身して しまう宮下藤花の彼氏の竹田啓司が、一時は友だちとして存在したりしますが、 やっぱり、非常に孤独、でも、近所の女の子の間では、噂の中での死神として 一種のヒーローなんだっていうのはありますけれど。

あー、なんつうか、ここまでの話をまとめますと、世の中には得体の知れない 事件や現象、不気味なことが起る。で、恐いので、それらは、「魔物」がやっ ていることだ!ってことにしてしまう。でも、そういう事件がそんなに頻繁で はないのは、魔物の行動を抑制している監視者がいるからで、その監視者は、 なぜか、10代の少女で、あ、これはどーでも良いことですが、で、監視者っ ていうのは、闇の魔物のことをかなり詳しく知っている様子で、もしかしたら、 魔物の側の存在かもしれない。実は、魔物たちも組織化されているので、人間 にとって悪いことをするのは、魔物の組織からはぐれた魔物だけで、で、監視 者っていうのは、実は、魔物の組織から委託されて、はぐれた魔物を追い、人 間に悪さをしないように、監視する、っていう仕組み。そうすると、魔物の組 織も複雑で、魔王がいて、腹心の部下がいるとかなってくると、普通の魔物は、 中間管理職程度のサラリーマンみたいだから、ストレスたまるんで、たまには、 ぐれたくもなるよなーと思うと、なんとなく、はぐれた魔物にも同情したくなっ たりして、こんな仕組みを考えていると、次第に、恐いものがどんどん可愛いっ ていうか、「なんだ、人間と同じじゃあないか」と思えてきて、で、恐さも減 る。これが、人間が恐怖に対して、その恐怖心を押さえる、取り除くために、 行っている一種の心理的自己防衛の方法なんだろうなーと思うわけです。

ま、こういうのが、思想とよべるか宗教とよぶべきか、とかそういう堅い話な くて、一種の処世術をささえる裏の考え方というか、なんか、そういうもので すね。


光と闇の関係

この話は、上で書いたような、魔物っていったいなんのための存在なのか、っ ていう辺りを考えた結果のことなのかもしれないんだけれど、とにかく、スレ イヤーズな話です。

スレイヤーズの魔族っていうのは、なんでも、自分達が世界もろとも滅びるこ とを目的としていて、滅びることに喜びを感じ、ゆえに、人の心の中の邪悪な ものを糧として生きるのだ!っていうようなことがいわれていまして、この論 理、どこからとってきたのか、私はよくしりませんが、どこぞに原点なるもの があるのかどうか。

結局のところ、二神論みたいなもので、ペルシアのアフラマツダとアフリマン だったかの対立みたいな話ですね。暗黒と悪の神アフリマンがいて、それに対 して、光と善の神アフラマツダがいて、その二つの争いが、世界の行く末の善 悪を左右するっていうか、アフラマツダが強いときは、世界が平和で善なる方 向に向かい、アフリマンが強いときは、悪に向うと。悪に向うっていうのの究 極は、たぶん、世界の滅亡、崩壊、そういうものでしょうから、悪、闇、世界 の滅亡のようなものが一体化する。そういう悪なるもの、闇のものは、なにを 糧として存在するかというと、人間の中の負の心である。負の心とは、邪悪な 心、恐怖、絶望などというようなもので、楽しいとか平和とか善なる心と対極 にあるものってことになります。たしかに、人の心が、こういう負のもので満 たされる時代というのは、とことん社会的にも病んでいるわけで、そうだとす ると、それが、人類の滅亡にまで導くものなのかーっていうのは納得できるこ とではありますね。

まあ、言ってしまえば、人の心の中の負の感情、そういうものを人間全体で和 をとったようなもの、それが、世界全体の悪であり、その悪が強いときは、善 が弱く、悪があまりにも強いならば、世界は滅びるわけで、そういう因果関係 がなんとなく見て取れるならば、悪なるもの、魔族の目的は、まさに、世界の 崩壊、人類の滅亡であるといえる。そして、世界の崩壊や人類の滅亡を前にし た人間たちは、そりゃあ恐怖し、不安な心や投げ槍な態度になって、そういう のは、まさに、魔族の糧となり、ますます悪が蔓延る。

まあ、分かりやすいことなんで、このような光と闇との戦いという構図は、そ うとういろいろな宗教の根底にあるような気がしますし、こういうものを前面 にだしたスレイヤーズみたいな小説が人気っていうのは、やっぱりそういうも のを受け入れるような状態が、今の若い人たちの間にもあるのかなーという気 がします。


想いの力

「想い」の力って感じだと、それをゼリー状にかためた、なんつうか、Key The Metal Idol のような話なんですけれど、つまり、人間の意志というもの が、なんか、物理現象まで変えちゃうくらいの力をもつって話は、むかしっか らSFとかそういうのにあったと想うんですけれど、それが、もう一つ宗教的な 部分も含めた上で、最近では、かなりいろいろな小説とか、ゲームとかそうい うので出てきていますね。

上でも書いたように、スレイヤーズでは、魔法ってのが出てきてっていうか、 魔法そのもののファンタジーストーリーなわけですけれど、あの魔法そのもの が、結構なんつうか、学問的体系であるようなことが中で出てきまして、呪文 の体系をしらないと、いろいろな魔法が開発できないとかいろいろ。

さーて、「想い」の力っていう意味では、「信じるものは救われる」じゃない ですけれど、「かくあれ」と強く想う心があれば、それが、現実のものとなる というような非常に単純なものでして、現実問題として、たしかに、強い想い がある人は、困難も克服して、自分の夢を実現するんだ!っていうのはたしか にあるわけで、そういうのは、別にSFでも、オカルトでも、しゅーきょーでも なんでもないのです。

ただし、その「想い」ってものが、物理現象を変えてしまって、たとえば、宙 に浮きたいと想うと、体が浮くっていう、あの、スレイヤーズに出てくるレピ テーションだかの魔法みたいなのは、魔法でして、これを現実に実現している 人は私が知るかぎりいませんので、やっぱりそこは、オカルト的な話です。 Key The Metal Idol の中でも、Key ちゃんの想いってものが、いろいろ物を 動かしたりするし、人々の中の想いそのものを、ゲルと称して取り出したりっ てあたりで、SFなんですけれど、でも、そういうのを題材にした話はたくさん ある。

で、こういうのが本当に現実的でないのか、つまり、魔法みたいな話が本当に 嘘っぱちなのか、というと、これからの時代、そうでもないかもよーってあた りがここで書きたいことです。

まあ、ありがちな話ですが、インターネットなどが普及して、そろそろ、家庭 内の電機製品などにも、ネットワークがつながり、携帯端末から、炊飯器の時 刻設定したりとか、風呂を沸かすとかいうのをやったりとかそういうのが出来 る時代もそろそろ近づいて来たわけです。

今では、家の中の、テレビとかエアコンとかそういうものには、普通手を触れ て操作するってことはほとんどなくて、みんなリモコン操作で、それも、リモ コンがコードでつながっているわけではなくて、赤外線とかそういうのでぴっ とかやれば、なんでも操作できるような時代ですよね。これも、一昔前から考 えれば、十分な魔法なんですけれど。

さて、インターネットが、つながって、さらに、携帯端末とか持ち歩き、その 携帯端末が、音声インターフェースとかもっていて、入力は、たとえば、声で やれるようになったとしますと、まあ、ドアを開きたかったら「開けゴマ」で もなんでも、良いのですが、そういう呪文をいうと、いろいろ動くわけです。 音声端末もって歩くのも良いですが、将来的には、あっちこっちにマイクがあっ て、そのマイクが、音声コマンドを認識したときに、いろいろなことをすると かなっちゃったりすると、さらにそれがインターネットにつながっていますの で、そのコマンドをいろいろ研究すると、たとえば、いわゆるクラッキングと かハッキングができるようになる。

たとえば、工事現場で二人のこういうハッカーみたいな人が対峙している。互 いに呪文を唱えると、その呪文が、どこぞのマイクに入って、その呪文を認識 して、その内容がインターネット経由で、その工事現場にある、工事用機械と かを動かしちゃったりするとしましょう。で、二人は、ただ対峙して、互いに 呪文を唱えているだけなんですが、そのうち、片方の呪文によって、もう一方 の人が、工事現場の工事用機械の攻撃を受ける。ショベルカーが、いきなりぶー んと腕をふって、襲い掛かったりするわけですね。

よくあるSFでは、軍事衛星があっちこっちの上を回っていて、その軍事衛星か らは、地上にむけて、強烈な殺人光線みたいなのを発射できる。とすると、音 声インターフェースとかで、呪文をつかって、その軍事衛星みたいなのをハッ キングして操作しちゃったりすると、目の前の人物をいきなり天罰だ!とかで、 ころしちゃったりするなんてことが起るなら、これって、スレイヤーズのドラ グスレイブみたいな話じゃないですか。

まあ、そんなわけで、これからの時代、普遍的にあっちこっちに携帯音声イン ターフェースの端末とか、あっちこっちに音声インターフェースのためのマイ クとかがあるような感じになると、そいつも全部インターネットとかにつながっ ているので、うまいこと、その「呪文」で、いろいろなものをハッキングとか すると、まさに、自分の想う通りに、あっちこっちの物を動かして、意志によっ て、「想い」によって、物理現象を変えちゃうとはいわないけれど、実質的に は、そういうことが出来てしまうわけです。

もちろん、我々の世代にとっては、「ああ、音声インターフェースに呪文を与 えて、で、ネットワークをつかって、いろいろな機械をハッキングして、なに やらやっとるなー」という裏の工学的っていうか、実現しているシステムの在 り方が推測できるから、これは、魔法でもなんでもないのですが、そういうこ とを、あまり考えず、っていうか、知らないで、「この呪文だとこうなる」と か「この呪文だと、ものがぶっこわれる」とかそういう単純な因果関係だけを 知っている人にとっては、まさに魔法であると言える。

そりゃ、現代のリモコンでテレビのチャンネルが変えられるのも、つかってい る子供にとっては、赤外線のどうのこうのはわからないわけだけれど、大人に なったら、まあ、「科学技術ってもので、こういうものも実現しているらしい」 という認識があるんで、まあ、魔法と思わないで、当たり前のことみたいに思っ ているかもしれませんけれど、実際のところ、その仕組みを知っているのは、 そのリモコンの技術屋くらいなものでしょ。

さて、ところで、スレイヤーズなどでは、魔法によっては、印を結ぶ、つまり、 動作でポーズを作ってやらないとだめなものがあるとかいうのですが、これも、 最近では、手話認識システムがあったり、データグローブで入力とかあるんで、 音声インターフェース付き携帯端末と、データグローブを備えていれば、そこ らじゅうの機械を適当に動かしたり、さらに、宇宙の軍事衛星をハッキングし て攻撃したりということになるので、まさに、これからスレイヤーズな時代が 始まると。

で、そのスレイヤーズの世界では、魔法っていうのは、魔王の力を借りるとか いうのですよ。ガーブフレアとかいう火炎を出す魔法は、ガーブという魔王の 力を借りるものである。だから、リナが、ガーブを倒しちゃったあとは、その 魔法が使えないとかいう話もちゃんと出てくる。実は、これも、これからの時 代ありそうなんですね。もし、魔法っぽく、いろいろな機械やら、軍事衛星や らを動かして、なにやら、攻撃やらをするとかいう時代になるとですね、その ハッキングをいちいち毎回やっていたら、大変なので、当然のことながら、そ のような操作をいろいろするサーバーがあるはずで、そのサーバーにアクセス して、やりたいことを伝えるとあとはサーバーがなんでもやってくれるとかい う時代になるでしょ。まあ、そんなサーバーは悪いやつが作るんでしょうけれ ど、でも、そういうのが裏で知られるようになると、そのサーバーを利用して、 呪文を唱えて、で、魔法っぽいことをする。サーバーの中のプロセスはデーモ ンプロセスとかいうけれど、まさに、魔王ですねぇ。

「人はいつだって、つながっているんだから」とは、lain の中のセリフです けれど、人がつながるだけじゃなくて、ネットワークは機械も人とつなげる。 その機械は、もちろん、人間よりも大きな力があったり、いろいろする。そう いう機械を呪文一発で、いろいろ操作する。操作が面倒なものはサーバーのデー モンプロセスに依頼する。だれが、呪文を発したかわからないように、串つかっ て、隠蔽する。そんなことを、その仕組みもしらず、「そういうことで世の中 動くんだよなー。」という程度の認識で、いろいろやっちゃうような世代が育っ てくると、これまた、何が起るかわかりません。

ってことで、実際のところ、人間の「想い」なるものが、実際に物理現象を変 化させて、魔法みたく、物を動かしたり、いろいろできるかどうか、っていう オカルトな話は、本当にあるかどうかについて、私は、まあ、一応科学者的立 場にたつものとしては、いまんところ、無いらしいってことにしておきますが、 しかし、ネットワーク社会の到来ってことになって、一人の個人の「想い」が 容易に、多くの人に伝わり、かつ、ネットワークの中には、いろいろな仕事を こなす、デーモンプロセスみたいなのがたくさん動いていて、かつ、ネットワー クが、家庭電化製品から、工事現場の工事用機械だの、水道網だの、なんだの と全部結合している時代においては、実際に、なんらかの「想い」ってものが、 いままでは考えられないような、すさまじい現象を引き起こす可能性っていう のは、十分にあって、かつ、それを、その裏の仕組みをなにも知らずに、「こ うすればこうなる」っていう認識だけで、使いこなすような世代が現れたりす れば、まさに、それって、魔法使いがうようよしているスレイヤーズの世界と 非常に近いものになるだろうっていうのが、書きたかったことです。


不確実な現実、不確実な過去

以前、「それゆけ宇宙戦艦ヤマモト・ヨーコ」を読んでいたら、確率的な歴史 論っていうのが書いてありまして、たぶん、原典は他にあって、とってきたの かもしれませんですが、えっと、つまり、物理学の法則に従えば、とくに20 世紀の物理学っていう感じの量子力学ですね。こいつが、不確定性原理ってい うのをベースに成り立っているものなんですね。たとえば、ある物が運動して いるという状況で、運動しているものの、速度と位置をしっかり観測すれば、 その物が、何分後にはどこにあるか、とかそういう未来予測ができるはずだ!っ ていうことがあって、世界のどんな物でも、物と物との相互作用ってものが、 しっかりと力学方程式に従っていて、物と物がどういうふうに関わるのか、っ ていうのがしっかりわかっているならば、未来は確実に予測できるので、ゆえ に未来は決定的である、、、っていうあたりの決定論に対して、いやそれは違 う、物の運動の速度と位置を無限に正確に求めることはできないんだ!ってい うのが不確定性原理です。位置と速度っていうのはちょっと違っていて、位置 と、速度とその物の質量と掛け合わせた運動量ってものがあるんですが、その 両方を正確に計測しようとしても、一定のプランク定数っていう数で決定され る誤差よりも小さい誤差で観測できないってことです。つまり、位置を正確に 計測しようとすれば、運動量の計測が非常に不確実になり、また運動量を正確 に計測しようとすれば、位置の測定が不確実になる。両方の不確実さを掛け合 わせたものが、プランク定数になるわけです。だから、未来は予測不能なんだ。 決定論的未来はない!っていうのが、20世紀の大発見だったというか。これ が、今量子力学って形で纏められて、それこそ半導体からなにから、この原理 に従って、設計されていたりしているわけですね。

さて、この不確定性原理では、未来予測はできない!あるいは、未来は不確実 だ!というのが導けるというのですが、実は、過去も同様に不確実だというこ とになる。ある物体の現在における位置と運動量が不確実にしか測定できない なら、当然その物体が、ちょっと前にどこにあったのか、っていうのも不確実 にしか推定できない。だから、過去も未来と同様に不確実であるってことにな る。

ところが、過去っていうのは、人間にとってみれば、記憶とか、あるいは文字 で書かれた記録とか、さらには、近代的には写真だとか、ビデオテープだとか、 あるいは、なんでもいいですが、そういう記録にしっかりとられているので、 過去にあったことは、非常に確定的に感じるわけですね。

未来は何が起るかわからなくて、非常に不安だけれど、過去は、どっしりと堅 く存在していて、その過去はもう絶対に動かないような感じがしている。とこ ろが、不確定性原理は、未来にも過去にも同じように働くので、本来は過去も 未来と同様に不確実なものなんだ、ということなる。

じゃあ、記憶とか記録とかビデオテープの録画内容とか、そういうのってなん なのか?って考えてみると、結局これって、現代に存在する過去の痕跡なんで すね。つまり、過去とは何か、っていうと、それは、現代に存在する痕跡から、 推定された過去に過ぎない。痕跡が残っていないものについては、それは、人々 の記憶からも、消えているとすれば、今から見て、全く想像すらできないこと が実際にあったのかもしれないけれど、確実な痕跡がないなら、なかったこと なんだって話になる。

実際には、エントロピーだとか情報理論だとかそういうのがあるんで、過去か ら現代へは過去にあった事件、事象ってものが、痕跡として残るので、その意 味で、過去は未来よりもずっと確定的であるということは物理学というか、そ ういう立場からも言えるんだけれど、重要なことは、とにかくなんであれ、過 去ってものは、現代に残る記録、あるいは痕跡から推定されたものでしかないっ ていう認識をすることが大事。

そんでもって、話は考古学とかに進むけれど、たとえば、私が大好きな邪馬台 国の話。いまんところ、邪馬台国については、奈良の大和盆地にあったという 説がいろいろ支持されているけれど、まだまだ確定的な証拠はないっていう人 が一部にはいて、まあ、私はもう大和にあったと思っているけれど、まだまだっ ていう人がいる。つまり、邪馬台国の存在については、中国の魏志倭人伝って いう歴史書にしっかり書かれているから、一応それを信じるとして、邪馬台国 が本当にどこにあったのか?って考えると、それは、結局、現代に残る痕跡か ら推定するしかないのであって、まだまだ九州のどっかにあったんだとか、い やいやもしかしたら、広島か岡山のあたりかもしれないぞ!とか、いろいろな 説が出てくる。これを、不確定性原理とか量子力学とかと絡めると、つまり、 邪馬台国がどこにあったのか?っていうのを一番的確に表現するなら、邪馬台 国のあったらしい度というか、ここに邪馬台国があった確率みたいなものを考 えて、その確率分布で示すのが一番良いでしょうってことになる。最近の考古 学の結果からすれば、それは大和付近だというわけで、ここに一つの確率密度 分布の濃いところがあって、あと、九州だと、いろいろな説があるけれど、ま あそれも、不均等に分布している。

つまりですね、過去の問題でも、昔昔のことになると、「こういうことがあっ た!」と文献に書かれているとか、老人が記憶していたとかいうけれど、それ もこれも、現代に残る痕跡から推定しているに過ぎない話になってきて、やっ ぱり未来予測と同様に絶対の真理とか真実とかを求めるのは、無理だっていう ことになります。

で、一方、未来のことはわからないと言いつつ、結構、「予定」なんてものは かなり正しい確率でその予定通りにいくことが多い。電車の時刻表は、だいた いその通りに運行しているので、明日の電車の時間は?って聞かれたら、だい たい正しい時間を言えるし、日本なんかだと、それが、1分以下くらいの精度 でたいがいは当たる。明日は会社で、こういう会議があって、それに出席した ら、つぎは、B社の人が来る「予定」なので、その人の接客があってとか、そ ういうのは、たいがい「当たる」わけで、案外未来も予定通りな場合が多い。

っていうわけで、未来も過去と比べると不確実だが、やっぱりかなり確実な部 分もある。で、同じように、過去も未来に比べると確実な部分があるけれど、 やっぱり不確実な部分もあって、これが真実!真理というのをきっちりいうの は、結構面倒だし、不可能なこともあったりするわけです。

ってことで、また「ヤマモト・ヨーコ」に戻ると、そこでは、過去っていって も、ほとんど全てが確率分布だってわけです。だから、現在こうなのは、過去 にこーだったからこーなったのかもしれないし、あーだったからあーなったの かもしれないし、といういろいろな過去の可能性があって、そのいろいろな過 去の結果としての現在がある。で、30世紀とされる時代のローソン君が頑張っ ている時代っていうのは、20世紀の山本洋子たちにとっては、一つの可能な 未来であって、それも確率的にはいろいろ可能性があるなかの一つの未来であ るに過ぎないし、また、ローソンたちにとっては、山本洋子たちの20世紀と いうのは、やっぱり可能な過去のうちの一つの過去に過ぎないっていうような 考え方になって、それが、「確率的に可能な相対過去、あるいは相対未来」っ ていう方向に発想がいくわけであります。

さて、ここまで来ると、結局のところ、過去がどうだったのか、っていうのも そんなに確定的ではないのであって、もし過去がしっかり確実にわかるのであ れば、殺人事件の犯人探しも非常に簡単であるとすら言える。警察のみなさん は、必死になって、事件の真相を探るために、日夜いろいろな捜査をして、そ こから、真実だ!といわれる過去を推定して、それで犯人を捕まえたりしてい るわけです。それでも、絶対的、確定的なことは裁判に委ねられ、いろいろな 証言とか、状況証拠とか、物証とかそういうものを積み重ねて、だれにとって も最も妥当な過去を探して、それに基づいて有罪とか無罪とか、あるいは、刑 罰の重さとかを決めているっていうのが実際のところです。

さて、未来が不確実で、過去も不確実、ってところからさらに進むなら、自分 が直接観測できないことは、なんでも、直接観測できることからの推測に過ぎ ないってことに話は進みます。テレビで事件の報道をしていても、その報道の 内容が真実かどうかについては、一方的に信じるのも良いですが、ウソかもし れない。結局のところ、直接確かめられること以外は全部ウソかもしれないっ ていう気になってくると、なんでもかんでも疑いたくなるわけで、そのあたり、 すでに、デカルトさんがいっていて "Cogito ergo sum." とか "Je pense donque je suis." とかいうやつ。見えているものも、実は目の前にニセの映 像が現れているだけかもしれない、触っているものも、その気になっているだ けかもしれない、聞こえている音も、本当の音ではないかもしれない、ってい う感じでどんどん懐疑的になっていくと、最後まで否定できないのは、そのい ろいろなものを見たり、聞いたり、触っていりして、なおかつそれらが本当の ものかどうなのか、それを疑っている、そして考えている自分の存在だけであ る。自分は考えている以上、その考えている自分ってものの存在だけは否定で きない。だから、「考えているってことは、考えている自分は存在するってこ とだ。」つまり、"Cogito ergo sum" 我思う故に我在り なんですね。

ってまあ、ヤマモト・ヨーコから、デカルトまできちゃいましたが、結局、こ ういうことは、デカルトって近代の父の一人みたいな人でしたが、一方で、こ の "Cogito ergo sum" っていうのは、非常に有名な言葉であるにも関わらず、 実際のところ、近代においては、一番忘れられていることではないかって思う わけです。

なんつうか、新聞雑誌、電話、ラジオ、テレビ、などなどのメディアの発達と、 そして、マスコミの発達で、人間が、自分で直接確かめられる情報がどんどん 減って、あるいは、自分では確かめられないけれど、一方的にやってくる情報 の量が増えたにも関わらず、一方で、マスコミの報道とか、新聞報道とか、本 に書いてあることとか、そういうものを、案外、疑いもせず信じてしまって、 それで、みんなが信じているから、共通の認識を形成して、結果として、信じ ていること自体がどんどん真実になっていくという方向性があったわけです。

実際のところ、株の値段が上がり下がりするのも、なんらかの情報源で、「A 社の株は上がるんじゃないかな」というのがあると、それを盲信する人がどれ だけいるかで、そのA社の株の値段も決まるってところがあって、信じる者は 救われる、じゃないけれど、みんなが、マスコミとか、新聞報道とか、学校で 教えられることとか、親のいうこととか、そういうのを信じて、正しいと思っ ているからこそ、それがルールとなって、社会が動いているっていうのがある。

「明日はこうなります」っていう予測が正しく当たるのも、結局、その予測と いうものが、権威によって出されたものであれば、みんなが信じて、信じるか ら、その通りになる。そういう、電話でも、手紙でも、本でも、あるいは新聞 雑誌、テレビの報道、なんでも良いけれど、そういうものをみんなが信じてい るから、そういうもので広まった情報は真実で、確実であり、そして、みんな がそういうことを信じているからこそ、その情報が本当に真実としての重みを もって、意味のある真実になって、その情報に従って行動すると、間違いがな い。

でもね、そうじゃない。なんでも、疑ってみるべきなんだ、とか思い出したら、 こういうのが全て崩れるでしょ。で、そういうのは、ある時期からだんだん言 われ始めて、なんていうか、新聞報道が偏向しているんじゃないかとか、あの 先生は信頼できないとか、親のいうことにも間違ったことはあるんだとか、そ ういう不信感みたいなものがどんどんたまると、みんなが信じるべきものがど んどん減っていく。どんどん減っていくと、規範とか、なんとか、つまり、 「普通みんな、こうするもんだ」とかそういうのもどんどん崩れて、「普通み んなこうするっていうけど、でも、私違うもんねぇ」とか思う人が増えれば、 どんどんバラバラで、混沌な方向にいく。

みんなが、権威を信じて、それにしたがって、規範通りに動いている時代は、 その規範にそった合理的な方法論が使えて、その合理的な方法が非常に有効に 作用したからこそ、さらにみんなが合理的にものごとを考えるようになって、 合理主義が台頭し、合理主義はさらにそれを強化していく、という循環があっ たけれど、疑いだす人がどんどん現れていけば、合理的に行動する意味もなく なって、しかも、なんでもかんでも疑うことが普通になれば、それこそ未来に なにが起るかもわからず、また、記録されていることが信頼できなければ、確 実と思われた過去も不確実になって、新聞やラジオ、テレビの報道が信頼でき なければ、遠いところで起った事件そのものも本当にあったことなのか、なん なのか全然信頼できなくなる。

人を信頼しないなら、逆に人に信頼されることが良いことであるという意識も 減るから、ウソをつくこともまた「方便だ」ってことになって、その場その場 で適当にウソつく人も増えて、ますます物事が信頼できなくなる方向へ循環し 始めるでしょ。

こういう方向で、どんどん循環すると、混沌になるのか、なんなのか、わから ないけれど、なにも合理的には動かない、誰も信頼できない、見たものもなに も信じない、そういう方向にいく。

よって、まあ、だいぶ書いちゃったので、結論めいたことをいいたいわけだけ れど、結局、不確実な未来、過去、そして、同じように不確実な現実っていう 認識が、まあ、なんとなく最近は広まっていく方向なんではないかっていうわ けで、そういうのが、たとえば、serial experiments lain みたいな作品でも 非常によく出てきているし、自分自身の記憶を封印するような多重人格の話も たくさんある。合理的じゃなくなれば、自我の一貫性も幻想になるから当然多 重人格もあり得るとか、、。

混沌なのか、安定するのかわからないけれど、こっち方面、やっぱりいくとこ ろまでいくんじゃないか、って言う気がする今日このごろなわけです。


妄想の時代

はてさて、いろいろ妙な話を書いてきましたが、結局のところ、これからの時 代を一番象徴するのはなんなのか、っていうことを考えたら、「妄想」かなー と思うようになりました。21世紀の、いわゆるデジタル社会とはなんである かって考えたときに、「妄想の社会」と答えるべきだろうってことです。

まず、アナログな時代っていうか、その前からそうなんですが、科学技術の時 代とかいって、科学技術をつかって、自動車が走って、飛行機が飛んでという のはよかったのですが、結局、それら科学技術っていうものは、自然法則を越 えることはあり得ないわけですし、つねに自然の制約の中で存在しているもの なんですよね。ところが、デジタル処理はそうじゃないでしょ。自然の制約っ ていうのはほとんどないわけです。だから、画像をデジタル処理すると、いか ようにも見えてしまう。映画の特撮とかいうのも、デジタル処理じゃない時代っ ていうのは、苦労して、マット合成とかそういう光学系とかいろいろつかって 特殊効果を出していたわけです。ところが、デジタル処理だと、なんでもでき ると言って良い。いずれは、CGの俳優が音声合成の声で喋る時代にもなるんじゃ ないかっていうのはあるんですが、そうなれば、現実の俳優よりも見た目がよ くて、声もよくて、っていうのをいくらでも作れるでしょ。つまり、自然の制 約をうけない。携帯電話だって、デジタル方式だからこそ、あんなに小さくて 何時間も待機状態でいられて、そして、国中どこにでも比較的安い値段でかけ られるようにサービスができる。アナログの携帯なんて大変なものでしたよね。 ちょっと前まではアメリカではアナログの携帯しかなかったから、電池は10 時間できれるし、音声は雑音混じりでよくわからないしていうような状態。全 然違うのですね。

デジタル化された社会っていうのは、いたるところをデジタル処理とかデジタ ルデータ転送とかで実現するわけで、それ以外の部分の人間の活動っていうの をどんどん小さくしていく。食べることと寝ることと、それくらい以外をどん どんデジタル社会の中での生活に置き換えていくっていうことになるわけです。 まあ、だからといって、人間が培養液の中でぷかぷかしていて、実際の生活は バーチャルな中だけで、と言う時代になるかどうかは、ううんと、やっぱりな らないと思うけれど、でも、いろいろな部分でそういう方向にむかっていく可 能性が高い。

重要なことは、デジタル処理っていうのは、それまでのアナログ処理とちがっ て、自然の制約からかなり解放されているってことなんです。自然によって制 約されたモノは、制約された範囲の運動しかできないのですが、デジタルはそ うじゃない。結局なんでもできる、ただし、情報処理とその情報流通っていう 部分において、という限定がつくわけですけれどね。なんらかの映像をみたり、 音楽を聞いたりしているときに、その映像も音楽もたんなる情報であるとした ときに、いかなる音でも、いかなる映像でも作れてしまうのがデジタル技術で すよね。デジタルのシンセサイザーなら、いかなる音でも原理的には作れるが、 アナログのシンセサイザーは発信器と回路でつくったフィルターなどの制約か ら逃れることはできないし、また、実際の楽器というものは、もっともっと制 約をうけるわけです。

そうすると、最初のうちは、デジタル処理で処理されデジタルネットワークに 流れる情報ってものは、比較的現実的なものから始まりますが、だんだんと現 実と乖離したものも許されるようになってきて、やがては、現実的なもののほ うが少なくなってくる。すでにテレビCMなんかはCGだけだったりCGと実写を組 み合わせたようなものがほとんどで、実写だけなものはないかもしれないくら いになってきた。

ところが、こういうのは、人間は昔からやっていたのであって、自然現象を超 越したものを考えることができたのが人間で、だからこそ、自然の中に人格と しての神を考えることができたりして、それが宗教というものになっていった という歴史がある。中世のいろいろな怪物の話なども、これすべて人間の妄想 から生まれた怪物であって、実際にそういうのがいたはずはなかろう、という のが、近代的な考え方です。しかし、社会を構成する多くの人にとって共有さ れた妄想は、たしかな実体をもっていると仮定しても良いくらい確かな存在な んですよね。

デジタルネットワークが張り巡らされた時代において、どこぞのコンピュータ の記憶装置の中に記録されている情報も、それらの情報が、それに関わる人に とってはとっても意味のあるものだったりして、そういう存在意義みたいなも のが人々の間で共有されているならば、その情報はやっぱり実体をもったもの と同様に重要な意味がある。それは、妄想によって作られた中世の怪物という ものが、その社会を構成する多くの人に同じ妄想として共有されていたってい うのとなんら違いはないと思いますよ。 デジタルネットワーク上に流れる情報は、ウソもホントもお構い無しに流れる し、その情報の記述している時間というものも、実時間ではなくて、昔のもの もあるし、あるいは、未来のもの、予測みたいなものもさも予測ではないかの ように流れるかもしれない。本来、自然によって制約されているモノについて は、近代的な人間にとっては、自然との整合の度合い、自然法則にどれだけ合 理的にしたがっているか、を吟味することで、そのモノに関する情報がウソか ホントかを見分けることができたわけですが、自然の制約からほとんど自由に なってしまったデジタルネットワーク上の情報は、ウソもホントも関係なくなっ て、じゃあ、どういう情報が信用できるか?っていうことについては、合理的 判断基準がないのだから、結局、それぞれの人がどう思うかにかかっていて、 そういう場合、ウソかホントか別にして説得力のあるものが、信用されるよう になる。説得力のある情報はウソでも信用されて、説得力のない情報は、ホン トでも信用されない。そうなると、最終的にウソ、ホントという基準も消滅し て、すべては、妄想であるが故に、なんでも許されるということになってしま うわけです。だから、それぞれの個人は、たんに、自分がどれだけ信用してい るかにだけ基づいて、あるいは自分にとってどういう情報を信じるのが都合が よいかというようなことだけに基づいて、真理の判定、善悪の判断などをして しまう。

そういうのが悪いっていうのじゃあなくて、そういう時代になるだろうってこ とです。lain なんて作品はそういうのを、非常に うまく描いていたと思うわけです。あの作品でリアルワールドとワイヤードが 融合してしまうようなことを描いていたけれど、実際には、融合とかそういう のではなくて、ワイヤードにおける妄想が、きわめて現実的なものとして、実 社会に影響してくる時代なんだということでしょう。 近代においては、合理的かどうかという基準があったので、合理的なものだけ を考慮していれば、矛盾にみちた世界っていうものからは無縁でいられたかも しれないが、これからの時代は、説得力があるかどうかという基準で情報の取 捨選択が行われるわけだから、同じ説得力がある情報二つが互いに矛盾してい ることもあり得るわけで、で、その両者ともに受け入れちゃってもかまわないっ てことになるので、人間一人の人格もまた、一貫性がなく、状況に応じて、ど んどん変形し、また、同時に複数並行するような多重人格的な状況にもなって くる。 まあ、そういうわけで、妄想の時代っていうのが、頭に浮かんだので書いて見 ました。


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