『陽光の剣ー高麗王若光物語』 高麗文康 2013.3.27 幹書房 を読んだ。 (2018年8月14日) 筆者は高麗家60代目で、この本は友人が高麗神社で買い求めた。 高句麗滅亡(668年)の直前(666年)に、 新羅を牽制する目的で 「高句麗―倭国」 の同盟締結の任務を帯び来日した玄武若光(副使)の生涯を小説にしたもの。 資料不足で真実性に欠ける部分はあるが、高句麗滅亡直前の国内分裂の状況、その後の高麗郡の設置努力などが参考になった。 高麗の若光は実在の人物で、倭国に渡来後、高句麗が唐・新羅に滅ぼされたので帰化し、 50年後の716年に朝廷の許しを得て、諸国の高句麗人を武蔵国の辺境に集め、高麗郡の設置を認可してもらった。 この統率力は凄いものがある。 また、子孫がこの地を、現在に至るまで延々と引継いでいる、ということはまさに驚くべきことだ。 |
「陽光の剣ー高麗王若光物語」
この本がきっかけで「高句麗の歴史」を調べました。以下、簡潔に記します。
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高句麗は、3〜7世紀、ツングース系の民族が満州から北朝鮮にかけて建国した(部族連合)国家で、
313年に楽浪郡を滅ぼし、翌314年には帯方郡も攻略し、中国の勢力を半島から駆逐した。
4世紀末〜5世紀の、広開土王・長寿王の時代(仁徳天皇〜雄略天皇の時代)に最盛期となった。 その勢力は遼東半島にも及び、中国の脅威となり、
隋の煬帝は612年から3度にわたって高句麗遠征を行ったが、高句麗はこれを撃退し、隋はこの遠征で疲弊し滅びた。
次の唐の太宗は、645,647年に高句麗遠征を行ったが、この時も高句麗によって撃退された。
高宗の時、再び高句麗遠征を企て、660年に名将・蘇定方、劉仁軌らを派遣し、新羅と結び、まず百済を滅ぼした。
(663年に、百済の復興を支援する倭国軍を白村江の戦いで破った。)
その後、高句麗に内紛が起こり、唐は将軍・李勣を派遣し、新羅軍とで高句麗を挟撃し、668年(天智天皇の時代)に王都平壌を占領し、700年程に渡って栄えた高句麗を滅ぼした。
高句麗は、5部族よりなる部族連合国家でした。
唐の高句麗出兵(644年〜668年までの24年間に、計3次にわたった。)
第1次侵攻 (644年〜645年) |
642年に高句麗では、対唐強硬派の淵蓋蘇文がクーデターを起こし、融和派の栄留王を殺して甥の宝蔵王を擁立した。 唐はその懲罰を名目に 644年11月に高句麗への侵攻を開始しする 645年(大化の改新の年)には、太宗が10万余りの軍勢を率いて親征したが、要塞都市安市城の包囲戦に失敗し、唐は撤退した。 |
第2次侵攻 (661年) |
649年に太宗が崩じると、唐は長期消耗戦に転換し高句麗を疲弊させた。 唐は、新羅の要請をのんで660年に水陸合わせ13万の軍勢で海路百済へ侵攻し、百済は661年、唐・新羅連合軍に滅ぼされた。 661年、高宗と武則天は高句麗に侵攻し、唐軍は平壌城を包囲したが、宰相・淵蓋蘇文が蛇水の戦いで勝利した。 (663年、白村江の戦いで百済遺臣&倭国軍を敗北させる。) |
第3次侵攻 (667年〜668年) |
666年に淵蓋蘇文が死ぬと、息子たちの間に内紛が生じ、長男・淵男生は唐に投降してしまった。 (666年、玄武若光は、国王の命により高句麗遣使の副使として倭国に渡った。) この内紛に乗じて、唐軍は淵男生を先頭に高句麗に侵攻し、668年に王都 平壌城が落ち、700年続いた高句麗は滅亡した。 唐軍は200,000人余の捕虜、新羅は7,000人の捕虜を引き連れて凱旋した。 |
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「陽光の剣ー高麗王若光物語」は、この最後の内紛の時代から書かれています。
主人公の玄武の一族は、都の内に居を構える王族であった。650年、玄武英光の長男として若光は誕生した。
小説の前半は、高句麗内での青春期で、当時の高句麗の内部情勢が興味深い。
そして、唐の侵攻の緊迫した情勢下で、この危機を打開するため、「高句麗と倭国との同盟」を使命として、若光は遣使の副使として666年、倭国に渡った。
使節団は、天皇に国王の親書を渡そうとするも、斉明天皇が筑紫の朝倉の宮で亡くなり、天皇が空位の為、国書の相手がいない状態で飛鳥に留めおかれた。
小説では、若光は大海人皇子に対面でき、遂には天智天皇に国書を渡すことが出来たが、時 既に遅く、本国が滅亡したことを知らされる。
高句麗の使者派遣の目的は、小説では、
『唐と新羅の連合軍が、(百済の)次に 我々高句麗を滅ぼしたら、その次は(白村江の続きで)倭国が標的になる。
今、高句麗と倭国が連携すれば、背後の新羅は動けなくなり、高句麗は前面の唐だけを相手に戦が出来る。
願うべき両国の連携とは、半島への武力派遣ではなく、大宰府に大軍を終結させて、侵攻の姿勢を示すだけで良く、それで新羅は牽制される』
との趣旨が記されている。
しかし、高句麗だけではなく、唐と新羅も 倭国への働きかけを強めていて、唐、新羅、高句麗による倭国政権中枢への外交攻勢が激しくなっていた。
特に、唐は高句麗戦の情勢を、倭国中枢に詳細に伝えていたようだ。その後の歴史(唐が、倭・百済の捕虜
1400人を送還)を見ると、確認できる。
その後、若光は日本に帰化し、小説は、若光が各地に取り残された高麗人たちを組織して、武蔵の国の辺境の地に自分たちの高麗郡を作る迄の努力を描き、
その子孫が今に至っていることを、”20XX年7月の高麗川での(高麗家60代目の)親子の水遊び”、でもって この小説は終わる。
この時代の半島の「戦乱の世」を見ると、如何に日本列島が平和な国であるかが、対照的に実感できる。
第2部 高麗郡の建郡へ
・716年5月 甲斐,伊豆,相模,上総,下総,常陸,下野の 高麗人 1,799人を 武蔵国に遷し 高麗郡を置く 。 という記録。 ・高麗の若光ら一行は、大磯から出発して道なき原野を、北極星を目印に北上し(高麗神社の地に)到達した、という伝承。 この2つの 建郡にかかわる事柄について考えてみた。 |
A選ばれた入植地は、 北武蔵の豪族の地と 南武蔵の豪族の地 の中間地点で、両者の影響力の薄い未開拓地。 背後は銅が産出された秩父であり、それらを考慮して中央政権がこの地を適地と定めた。 B716年 大磯から出発した一行は、相模国府、武蔵国府の役人の管理の下、 完成していた東山道武蔵路を北上し、その後西に折れて目的地に進んだ。 新郡建設は国の事業で、移動中の食料などは国府から支給されたと考えられる。 若光は高麗王の姓を賜っているので、丁重に扱われたであろう。 ・左図の高麗神社のあたりが、高麗の若光の居住地 ※東山道武蔵路は、南北の直線で便宜的に描いたが、 実際は中途の川越付近から北へは 緩やかに北西に向かっている。 |
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目的地 高麗神社の地は、出発地 大磯(高麗山)高来神社からは 北極星が輝く真北にあたる。
そこに東山道武蔵路を北上した記憶が合わさって、北極星を目印に進んだ という伝承が生まれたのであろう。
高麗神社
高麗川の台地上に位置しており、若光が亡くなり、その霊を祀ったのが創建の由来。
中央の左から右へ高麗川が流れている。 その上のこんもりした台地上に神社がある |
高麗川にかかる出世橋を渡り |
台地に上がって 一の鳥居に到着 |
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二の鳥居 | 社殿 入り口 | 社 殿 |
※2016年に、高麗郡建郡1300年の記念式典が行われた。
(4) 高麗郡とは
■新設された高麗郡は、広大な入間郡(※1)西部の無人域を割いて建郡された。
※1:入間郡は、西は飯能市から 東は荒川までを版図としていた。
入間郡には、入間川を挟んで在地の豪族(西側は大伴部直、東側は物部直)の勢力圏があり、雷電塚古墳(6C 前方後円墳)もある。
高麗郡、入間郡の郡家(役所)の位置を調べると、東山道武蔵路を挟んで、両者はわずか7キロしか離れていない。 (※2)
一方、高麗神社と高麗郡家の距離は4キロほども離れていた。
影のエリアが高麗郡の推定地 |
※2:
高麗郡家の位置は、日高市高萩のJR川越線武蔵高萩駅の北側、小畔川左岸に存在する拾石遺跡の地を推定。
入間郡家の位置は、川越市の東武東上線霞ヶ関駅の南側、霞ヶ関遺跡の地を推定。 東に入間川、西に東山道武蔵路が通る地。
■朝廷が、武蔵国の中央の西部に 高麗の若光の一党を送り込んだ意味は
高句麗の遺民・若光たちは、天皇・朝廷に忠節を誓った、朝廷直属の集団であることに気づいた。
藤原宮建設など、当初から朝廷の使役に係わり、その奉仕に報いるよう 若光には高麗王の姓と従五位下の官位が与えられ、下級貴族として列せられた。
大感激であったろうし、これが無ければ 一族は異郷の地にバラバラで埋もれて行ったことであろう。
結論は、「若光ら高麗族は、朝廷に直属する人たちである」という視点から、集団入植と建郡を見なければならない。ということ。
・朝廷から見ると、若光ら高麗族は、古来からの物部、大伴、葛城、蘇我などの豪族と違って、色のついていない「最後に登場した渡来氏族」だった。
しがらみがなく 使い勝手のある部族だった。
・そこで、古い豪族が割拠している地域に、クサビを打ち込むように派遣し、周囲を監視する役割をも期待したのであろう。
・在の中小豪族にとっては、東山道武蔵路の建設で中央と結ばれたと思ったら、中央から朝廷の息のかかった一族が来たわけで、目付のような感じで気持ち悪かったであろう。
・朝廷は、建郡にあたり、東山道武蔵路のメンテナンスの賦役を課して許可したのだろう。
高麗の建郡は、朝廷が武蔵の国の中央端へ送り込んだ、影響力・支配力の行使であり、遠くの東国に中央の手を入れる、という政治的理由があった。
若光を始めとし、一族はその後も中央とのパイプを維持し、郡司として朝廷の役割を果していった。
後世、一族の中からは、武蔵国の国司を任じられた者も出ている。
第3部 現在
「陽光の剣ー高麗王若光物語」は、20XX年の 高麗川での親子の水遊び、でもって終わる。
高麗神社から(ヒガンバナで有名な)巾着田まで、途中から高麗川に沿った遊歩道を歩いたことがある。清流を眺めながらの良いコースだった。
全くの想像であるが、 高麗神社の祭壇奥には、高麗家に並んで菊の御紋も祀られているかもしれない。 それが彼らの、倭国における唯一の守り神(庇護者)であるからだ。 |
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※注−1 『多胡碑』 711年に新しく上野国(群馬県)に(甘楽、緑野、片岡各郡から6郷を割き)多胡郡が誕生したことを記した記念碑。
新羅系の渡来人が居住していた地、との説がある。
369年3月、応神天皇は第3次新羅遠征を行い、荒田別・鹿我別の上毛野(群馬県)の将軍が率いる東国軍勢が、新羅の都・金城を落し、
伽耶諸国、済州島も平定し370年に帰国。 東国に古く渡来した新羅系の人達は、その時の捕虜と考えられる。
開拓の為の貴重な労働力として連れて来られたのだろう。
※注ー2 『余善光』 百済王子( 〜693年) 兄・豊璋王とともに百済から日本に遣わされ天皇に近侍したが、百済滅亡〜白村江の敗戦などで亡命し
難波に居住(664年)させられた。その後、百済王(くだらのこきし)の姓と冠位を与えられ廷臣化し、既存の主要豪族並の待遇を受けた。
※注ー3 『新撰姓氏録』 815年成立の古代の氏族名鑑。 京・畿内の1182氏を「皇別」「神別」「諸蕃(渡来人系氏族)」に分けている。
諸蕃の氏族は、出自により「漢(大陸)」163氏、「百済」104氏、「高麗(高句麗)」41氏、「新羅」9氏、「任那」9氏。
〜〜〜〜〜 年 表 〜〜〜〜〜〜〜〜
645 大化の改新 (中大兄皇子・中臣鎌足ら 蘇我入鹿を暗殺)
660 唐・新羅の連合軍が百済を滅ぼす
661 斉明天皇没す(百済救援途中) 中大兄皇子が政務を引継ぐ
663 百済遺民と倭の水軍 白村江で唐・新羅連合軍に敗北
666 高句麗王の遣使(副使)として玄武若光が来日
667 近江・大津宮に遷都
668 唐・新羅の連合軍が高句麗を滅ぼす
天智天皇即位(中大兄皇子)
672 壬申の乱
673 天武天皇即位(大海人皇子)
676 新羅が半島を統一
690 持統天皇即位
691? 百済王族・余善光が百済王(くだらのこきし)の姓を賜る (687年〜691年の間)
694 藤原京に遷都
703 高句麗王族・玄武若光が高麗王(こまのこきし)の姓を賜る
710 平城京に遷都
716 東国の高麗人 1,799人を武蔵に集め高麗郡を置く 。
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