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2026年6月26日
物部氏の系図 ..へ飛ぶ
物部氏と大伴氏は、その発祥時から大王家の軍事・警察を担っており、他の氏族と違って、一定の地が本貫とは言えず、各所に根拠地がある氏族です。
・物部氏は、饒速日尊(ニギハヤヒ)と共に、交野から磐船神社(地図上にピン印)の地経由で、神武天皇より先に大和入りを果たしました。
・大友氏は、神武天皇と共に、草香津からの生駒越えに失敗し、熊野越えで大和入りし、天皇は饒速日尊の孫娘に「婿入り」することでヤマト政権を樹立します。
物部氏と大伴氏は、三輪山麓の大王家の周辺に、大王家に仕え/支える為の根拠地を持つと同時に、地方にも多くの根拠地を持ちます。
物部氏は、ニギハヤヒに従って大和入りした 物部25部の伝承を有し、大和、河内などに同族氏族が多くあり、肩野物部、布都留物部もその一つです。
(物部二十五部)
二田物部 横田物部 須尺物部 大豆物部 住跡物部
当麻物部 嶋戸物部 田尻物部 肩野物部 讃岐三野物部
芹田物部 浮田物部 赤間物部 羽束物部 筑紫聞物部
鳥見物部 巷宜物部 久米物部 尋津物部 荒荒鹿物部
横田物部 足田物部 狭竹物部 布都留物部 作物部
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@肩野物部氏 始祖:伊香色雄命 墓:前方後方墳 森6号墳 約60m 3世紀後半 A布都留物部氏 始祖:物部五十琴 墓:前方後方墳 西山古墳 183m 4世紀後半 ← 四天王寺(ピン印)は、 難波の海に面した断崖上に在りました。 |
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■1.最初の本貫の地(第9代 開化天皇時代)と始祖・伊香色雄命
物部氏の本貫・本居というと、ニギハヤヒが大和入りした生駒山系・磐船神社(地図上にピン印)の入口の地・交野が最初の地と考えられます。
物部25部の肩野物部の根拠地です。
伊香色雄命(いかがしこお)は、物部氏の祖と云われ、饒速日命の6世孫(注1)で、開化天皇・崇神天皇の世に活躍した人物であり、卑弥呼と同世代の人物です。
(注1)「古代史の復元」では饒速日命の8世孫と推定。
物部氏の始祖の伊香色雄命の活動記録は、
@第10代 崇神7年(247年)、命により 【祭祀に使う八十びらかを作り、天神・地祇の社を制定してこれを祀った。】 と古事記に出てきます。
この記事は、卑弥呼の命を受けて、大和朝廷の各クニの墳墓の形式と埋葬の祭祀方法を定めた、と読み取れます。
A崇神天皇の命を受けて、タケミカヅチの神剣・布都御魂を石上神宮に収めた。
このように、伊香色雄命は朝廷の中枢で活躍しています。
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古墳時代前期(3世紀後半〜4世紀初め)に、 交野市の丘陵の尾根筋に「森古墳群」が築かれました。 前方後円墳4基、前方後方墳1基、円墳1基の計6基から構成されてます。 |
@始祖・伊香色雄(イカガシコヲ)の墓は、「前方後方墳」である森6号墳(3世紀後半 全長60m前後)(地図上にピン印) と推定されます。
出現期古墳特有の壺形土器が出土し、後方墳の葺石は、遥か遠くの吉野川流域に産出する結晶片岩「阿波の青石」が使われ、
麓からキラキラ輝く様が見えるように造られてます。
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※ 結晶片岩「阿波の青石」がもたらされた理由は以下です。 伊香色雄は、若い時(開化天皇・崇神天皇の時代)に、父・大綜麻杵(おおへそき)と共に 阿波に派遣され、 阿波を治めていた、 と 「阿波国風土記」逸聞に記されてます。 吉野川域の川島町桑村には伊香色雄命を主祭神とする「伊加加志神社」があります。 ※邪馬台国・阿波説がありますが、「阿波国風土記」には、当時の阿波は朝廷から派遣された 大綜麻杵、伊香色雄が治めていた、とあり、阿波説は、現地証言により否定され成立しません。 森6号墳の葺石に使われている「阿波の青石」は、吉野川中流域に多く産します。 伊香色雄命が政務を司ったとされる 川島町桑村なども、有力な産地です。 結晶片岩は非常に重く、陸路では無理で、「吉野川〜瀬戸内海〜難波津から淀川を遡って枚方 〜支流の天野川を上って交野へ」と、ざっと170kmもの距離を、船で運び込んだと思われます。 そして山麓を尾根上まで、大量に運び上げた。・・・これには、強大な財力と組織力が必要です。 卑弥呼(=倭迹迹日百襲姫)の箸墓古墳の葺石は、大阪府柏原市にある「芝山」の玄武岩と判明しています。 同時期の森6号墳の葺石が、遥か遠くの阿波から、多大の労力をかけて運び込まれたことは驚異です。 ← キラキラ光る 森6号墳の葺石 |
伊香色雄の墓は、尾根筋の山頂付近(標高約200m)に造られ、視界を遮るもののないパノラマ展望が広がっています。
交野市内は一目瞭然で、淀川向こうの摂津の国、西・南西は大阪市内のビル群も見通せ、条件が良ければ遠く兵庫県の明石海峡大橋まで視界に入るほど開けています。
伊香色雄の活動の拠点は、現在の大阪府枚方市 伊加賀周辺とされています。
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この地は淀川沿いの要衝であり、 淀川を眼下に望む意賀美神社の高台が 伊香色雄の邸宅跡と伝わります。 地名「伊加賀」は、それに由来するそうです。 彼はこの地を拠点に、淀川水系を支配していました。 万年寺山古墳(地図上にピン印)はこの高台にあります。 |
A次に築かれた森1号墳(雷塚古墳)は、森6号墳の下方向に築かれ、この古墳群最大の「前方後円墳」106mで、系図の人物Aに相当します。
出現期特有の「バチ形前方部」を有する最古の形の前方後円墳で、箸墓古墳の1/3相似形です。
Bこの交野市の「森古墳群」は長い年月 失われたままで、1980年3月に、化石探しをしていた地元の小学生によって発見されました。
その後、2025年度の測量調査によって、6号墳(鍋塚古墳)が「全長60m前後の前方後方墳」であることが判明しました。
現在も調査が継続中です。
肩野物部一族は、難波津から宇治への淀川水系を支配し、阿波から淡路島経由 難波津までの交易にもかかわっていたと推察できます。
⇒ 肩野物部一族は、淀川流域を支配し、難波津からの水上交通ルートを握って繁栄しましたが、その後の天下分け目の戦である「忍熊王の乱」で、
忍熊王サイドに付いたために、神功皇后サイドとの決戦に敗れて、肩野物部は衰退します。
物部の系譜上にも、この第15代 応神天皇の時代の人名が2名ほどが欠けてます。
胆咋宿禰━━━五十琴━━━○━━━━━━○━━━伊呂弗━┫
「忍熊王の乱 366年」で、旧体制(忍熊天皇 ※1)を支えていた 物部氏・大友氏は没落し、替わって 葛城氏・和珥氏が新政権(応神天皇)の中枢に登場します。
※1 忍熊王は、摂政の神功皇后が大和を不在にしていた間、大和で(実質的な天皇のように)行政・祭祀等を行っていました。
■2.物部氏が石上神宮の神宝を管掌するようになった起源と、(肩野物部の没落後の)第17代 履中天皇時代の「布都留物部」
一旦途切れた系譜上に登場する物部は、 第17代 履中天皇・第18代 反正天皇・第19代 允恭天皇の世紀に活躍する「物部伊呂弗」(いろふつ)で、肩野物部とは別の物部です。
伊呂弗は「石上神宮に仕えた」と記されており、宮廷の武器庫のこの地を宗教的・軍事的な最大拠点として活動してます。
周辺の布留遺跡は、この物部氏の大規模な拠点集落であったことが判明しています。
この物部は、25部のうちの布留(天理)を根拠地とした「布都留物部」と考えられます。
「石上神宮(地図上にピン印)と物部氏の関係」
始祖・伊香色雄が、第10代 崇神天皇の命を受けて、神剣・布都御魂を石上神宮に収めていますが、物部氏が石上神宮の祭祀者に任命されたのは、
後の第11代 垂仁天皇の時代で、物部十市根(とおちね)になってからです。
これについては、次のような経由が記されています。
| 『第11代 垂仁天皇の第一皇子・印色入日子命(いにしきいりひこ:景行天皇の同母兄)(注)が、鳥取之河上宮(大阪府阪南市周辺)で 大刀一千口を作らせ、石上神宮に奉納し、自ら管理していました。老齢になり管理が困難になったので、妹の大中姫命(倭比売命の姉)に 管理を譲ろうとしたが、「私は手弱女です。どうしてあの高い神庫(ほくら)に登って管理することができましょうか」と辞退します。 兄は「神庫が高くても、梯子を作ってやろう。登ることに何の苦労があろうか」と言い、彼女は一度引き受けます。 しかし、やはり管理が難しいと考えた大中姫命は、物部十千根にその管理権を委ねました。 これが物部氏の石上神宮の管理の始まりでした。 古代の高床式倉庫(特に神宝を収める神庫)は、非常に床が高く、梯子なしでは絶対に中に入れない聖なる空間でした。 当時の皇族にとって「神宝の管理」は国家の命運を握るほどの重大な任務でした。 注:「日本書紀」では五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこ)と表記。 (印色入日子命のご陵・宇度墓は(泉南郡岬町の)「淡輪ニサンザイ古墳」墳丘長200mの前方後円墳です。) |
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これが、物部氏が石上神宮の神宝(武器)を管掌するようになった起源であり、物部氏が、大和朝廷の軍事・祭祀を掌握した重要な伝承です。
「物部十千根」は、出雲の神宝を抑え、大和朝廷の武器・宝物の管理権を受け取るという、「祭祀」と「武力」の両面で最高の権力を手に入れた重要人物で、
大和朝廷の最高権力職である「大連」に任じられました。 最高重臣五大夫の一人です。
・十千根の子の 物部胆咋(いぐい)は、第14代 仲哀天皇が遠征先の九州で急死した際の、神功皇后の命で「天皇の死を秘匿する」した4人の幹部の一人。
・十千根の孫の 物部五十琴(いこと)は、朝廷の重臣として石上神宮に仕え、神功皇后により新たな物部の祖となりました。
■3.第二の本貫の地と 第二の物部の始祖(宗家)の登場
肩野物部 → 布都留物部 の移行
物部氏の本貫の地は、4世紀後半の第15代 応神天皇の時代になって、石上神宮のある布留に移り、ここに新たな始祖の巨大「前方後方墳」が築かれました。
(366年の「忍熊王の乱」後の築造なので)処分された肩野物部 とは別系統の物部氏 と考えられます。
(1)巨大 前方後方墳「西山古墳」(183m)の謎
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日本最大の「前方後方墳(注)」西山古墳(183m)は、物部氏の首長墓とされています。
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※注: 「前方後方墳」は、 3世紀後半の出現期古墳に見られる形式で、 ・大王一族の「前方後円墳」に対して、 ・ニギハヤヒ系列・物部系列の首長が「前方後方墳」を採用しています。 その後、朝廷を構成している氏族は皆、前方後円墳に変化していきます。 古墳出現期の前方後方墳 ←・3世紀前半〜中頃 沼津市・高尾山古墳 約62m ・3世紀後半 交野市・森6号墳 60m前後 ・3世紀後半 京都府向日市・元稲荷古墳 94m |
何故、4世紀後半になって、古代形式の「前方後方墳」、しかも183mという巨大なものが、この石上神宮の地で築造されたのか、は謎です。
これ迄の出現期の巨大な前方後方墳で、60m〜95m程度なので、183mは異様な大きさです。
その異様さは、円墳の富雄丸山古墳の109mという 異様な大きさに通じるものがあります。
巨大な「前方後方墳」 ですが、また形態も実に奇妙です
巨大な「前方後方墳」の上に、小型の「前方後円墳」が載っている特異な形状をしてます。
古代の前方後方墳の ”ありきたりの形” では無く、新しい時代の新しい宗家の墓であることを示すような形状です。
これが、巨大円墳の富雄丸山古墳と同時期に築かれた 巨大前方後方墳であり、巨大さは、この時代の空気なのでしょう。
巨大さなどについての私の仮説は以下です。
神功皇后は、366年の「忍熊王の乱」の後、対立した氏族を厳しく処分し、参軍した氏族には様々な形でその功績に報いました。
@功績のあった在の豪族には、特別に巨大な円墳を築くことを認め、貴重な伝世鏡やクニの王にしか与えなかった三角縁神獣鏡を贈りました。(富雄丸山古墳)
A功績のあった氏族には、その前方後円墳に、朝廷にとって貴重な、卑弥呼に贈られた銘入り鉄刀を贈りました。(天理市・東大寺山古墳)
B功績のあった物部の一氏族には、対立した物部の首長氏族の地位を奪い、替わりに新たな物部の首長(宗家)と認定しました。
それを周知させる為に、(始祖)宗家墓として古代形式の「前方後方墳」を、異様な巨大さと新しい装飾を加えて築造した、と考えます。(西山古墳)
| 神功皇后・応神天皇は、物部氏宗家を滅ぼしましたが、朝廷にとって、政権を支える軍事・警察の氏族である物部は欠くことのない氏族です。 その為、神功皇后側に従った(本宗家以外の)物部の一族を、新たな直属の軍事力として再編することにしました。 新たな物部宗家の誕生です。 |
この西山古墳の主は、系図からは、「物部五十琴」(いこと)が考えられます。
彼が「布都留物部」の新たな始祖で、その後に、物部伊呂弗(いろふつ)が出て、布都留物部を繁栄に導きます。。
(2)首長と目される物部五十琴(いこと)は、父親の物部胆咋(いぐい、神宮皇后の四太夫)と共に、神功皇后の時代に活躍した人物です。
その墓は神功皇后・応神天皇によって立派な墓が造営されたと推測できます。
この事は、同時代には、敗北した肩野物部の人物も存在したわけで、系図の五十琴の裏に居た「消されたもう1名の肩野物部」を、便宜上
肩野C と呼びます。
肩野Cの墓は忍熊王の乱の結果、墓守も無く忘れ去られと考えられ、万年寺山古墳の被葬者が該当しそうです。
万年寺山古墳は、古墳が存在することを伝える伝承等が全く無く、明治37年(1904年)に小学校の工事をしている際に三角縁神獣鏡を含む8面の銅鏡が発見され、
100m程度の前方後円墳と判明しました。4世紀中頃に築造されたと推定されてます。八面もの銅鏡は、この人物が朝廷と強い係わりがあったことを示してます。
場所は、伊香色雄の邸宅跡と云われている淀川を臨む(枚方市伊加賀の)高台(地図上にピン印)です。
「古代史の復元」は
胆咋宿禰━━━五十琴━━━○肩野C━━━━━━○肩野D━━━伊呂弗━┫ と記してますが、
胆咋宿禰━━━━○肩野C━五十琴━━━━━━━○肩野D━━━伊呂弗━┫ の方がいいかな、と考えてます。
神功皇后の時代に、忍熊王の乱(366年)により、忍熊王を支えた物部氏は滅び、系図も
古墳も 混乱します。忍熊王の乱の前後で、
(1)系図上では、応神・仁徳朝の時期に、2名の名前が消えています。
(2)古墳では、肩野物部エリアでは、墓守も無く忘れ去られた古墳(万年寺山古墳)があります。
布都留物部エリアでは、日本最大の「前方後方墳」(西山古墳)が築造されています。
私は、五十琴と敗れた肩野物部が併行に存在し、この期間を過ぎて、肩野物部から布都留物部へ首長が移行したと考えてます。
物部氏の根拠地も同時に移行しました。
以上をまとめると、
●第15代 応神天皇時代、物部五十琴が「布都留物部」の新たな始祖となり、
次の第17代 履中天皇、第18代 反正天皇の時代(427年〜438年)に物部伊呂弗(いろふつ)が大連を務め、布都留物部を繁栄に導きます。
■4.第二の物部・布都留物部は、河内に領地を得てから、石上物部 と 河内物部に分かれる。
新たな物部が天理を拠点に布都留物部として興隆しましたが、一族は河内に別拠点を築き、その河内が後に繁栄します。
その経緯です。
第21代 雄略天皇の時代(5世紀後半)に、「物部目」(め)が朝廷で活躍し(参考)、河内に土地を賜ります。
・457年の 天皇一夜の妊娠事件:
・469年の 天皇の采女との密通事件を起こした歯田根命の処置。 により、
物部目は、雄略天皇から「餌香長野邑(えがのながののむら)」(藤井寺市とその周辺)の土地を賜りました。(注2)
物部目が、雄略天皇から、軍事や交通の要所であった「河内の中心地」を賜ったということは、物部目が王権にとって重要な存在であったかを示しています。
これにより物部目は、「河内物部の祖」となりました。
この家系からは、物部尾輿(おこし)、物部守屋(もりや)が出ます。
・物部尾輿(おこし):第29代 欽明天皇の時代に、百済から仏教が伝来した際、仏教受け入れに反対(廃仏派)し、
仏教を推進する蘇我氏(崇仏派)との 一族をかけた深い因縁が始まりました。
| (参考) 大泊瀬皇子(後の雄略天皇)は、463年「眉輪王の変」で大臣葛城円(つぶら)の助命を拒否し殺害し、天皇家に並ぶ程の権勢の葛城氏宗家は一挙に滅亡します。 皇子の側近「物部目」は「葛城円」との交渉役でした。この変の結果、葛城氏は滅亡し、物部氏は(「忍熊王の乱」の前のように) 朝廷内で勢力を拡大します。 (注2): 物部氏は河内平野に広大な領地を有してました。 近年の久宝寺遺跡の発掘調査では、5世紀後半(物部目の活躍時代)に、それまでの集落が急速に拡大し、巨大な掘立柱建物や倉庫群、 難波や大陸へとつながる港湾施設が造営されたことが分かっています。 この大型建物群が、のちに物部守屋が「渋川の家」を構えることになる政治・経済的な本拠地であり、物部目の時代にその基盤が完成しました。 |
一方、布都留物部は、物部布都久留(ふつくる・目の兄)から石上物部になり、物部麁鹿火(あらかび)が出ます。
・物部麁鹿火(あらかび):第26代 継体天皇の時代に、九州で発生した「磐井の乱」を将軍として鎮圧。
■5.587年の丁未の乱(ていびのらん)で、物部氏宗家は滅亡
第31代 用明天皇の時代、物部守屋(もりや)は、河内国の渋川の館(八尾市)に籠城し、蘇我馬子や厩戸皇子の率いる諸皇子連合軍と激戦の末に、
守屋は殺され、物部氏宗家は壊滅しました。
(守屋の3歳の子・那加世(なかよ)は、家臣・捕鳥男速(とっとりのおはや)に抱えられ、激しい追手から逃れて東北の地へと落ち延びました。
秋田唐松神社宮司家(秋田物部)の物部氏は、那加世から64代目に当たります。)
■6.686年に、滅亡後の物部氏は 石上氏としての再生
守屋の系統は排除されましたが、丁未の乱に同調しなかった大和の石上物部系統や、全国の地方豪族・国造としての物部氏は生き残りました。
第40代 天武天皇の時代になると、石上物部の物部麻呂(まろ)が頭角を現し、686年、彼は石上神宮にちなんで、氏の名を「物部氏」から「石上氏」へと改めました。
そして石上麻呂は、最高位の「左大臣」にまで登り詰め、物部氏の血を引く一族をトップ官僚として見事に復活させました。
ー 以 上 ー
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