邪馬台は「ヤマト」と読む
本稿は、facebook「古代史研究会」に、桃崎有一郎氏の記事を紹介した(2024年4月17日、7月30日)の投稿を纏めたものです。
文芸春秋 2024年3月の「画期的新説 邪馬台はヤマトである」桃崎有一郎 を読みました。
「画期的」とは、 魏志倭人伝の邪馬台国への行程記事に依存せずに、 邪馬台国は纒向遺跡のある纒向村、と推測した事です。 読んだ感想を記します。 |
桃崎氏の趣旨は、大雑把にいうと、「倭」と「ヤマト」の使われ方の相違で、
「倭」は、統一王朝(になる小国の集合体)全体を指す言葉として生まれ、後に 小さい地域を指す用法を派生させた。
「ヤマト」は、まず卑弥呼が治める小国の地名として生まれ、その後、より大きい地域を指す用法を派生させ、統一王朝全体を指す「ヤマト」を生み出した。 です。
万葉集など和歌では、「ヤマト」が「シキシマ」という枕詞を伴うことがある。
この「シキシマ」は、崇神天皇の「師木島の大宮」(古事記)や、欽明天皇の「磯城島金刺宮」(日本書紀)など、王宮の所在地として現れる。
「シキシマのヤマト」は、狭い地域で 邪馬台として発生して、後に統一王朝の国号へ拡大した。
「大和」は「大倭」を好字に置き換えたもの (713年・好字令) で、「大倭」は統一王朝のみに用いられた。
桃崎氏は、中国の国号ルールは、覇権国の地名を統一王朝の国号とすることであり、「周侯」は殷を倒して「周」を国号とした。
秦も諸侯国「秦」を統一王朝の国号とした。劉邦は、諸侯国「漢国」を領有する諸侯「漢王」から中国を統一して国号を「漢」とした。
諸侯魏王→魏 晋、宋、..隋、唐まで その「国名明記の伝統」で、国号が決められた。
大倭が国号とすると、その元は倭であるが、倭という小国は無く、卑弥呼の出身国「邪馬台」のみ と書いてます。
かくして、統一王朝「大倭」は、諸侯国「邪馬台」から出発して天下を統一したという説が唯一
矛盾が無い、と。
以上が、はしょり過ぎでしょうが、「画期的新説 邪馬台はヤマトである」でした。
しかし、魏志倭人伝には(日向にあったムカツヒメの)女王国(=「倭奴国」)があります。 これは「倭の奴国」ではなく「倭の国」のことです。 倭奴国は当時、伊都国、奴国、不彌国に役人を駐在させ、その国を女王国に統属させています。 私は、日向にあった「倭奴国」=「倭の国」が、東遷して大和盆地に入り、小「倭奴国」から、大倭国へと発展したと考えています。 |
「ヤマト」が示すエリアと、「ヤマト」の名称由来を探る。
(1)「ヤマト」のエリアは?
「ヤマト」のエリアは、「シキシマのヤマト」といわれる、三輪山の麓の狭い地域を指します。
三輪山の麓は、古来「磯城」と 呼ばれていました。
イワレヒコ(即位前の神武天皇)が大和盆地に侵入したとき(AD82年)には、兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)の豪族が三輪山に居ました。(古事記)
日本書紀では、兄磯城・弟磯城で、イワレヒコが八咫烏を派遣すると、兄磯城は逆らい、弟磯城は帰順したとあります。
弟磯城が治めた地が三輪山の「磯城」の地です。
シキシマの王宮の所在地
古事記 | 日本書紀 | |
244年〜278年 10代 崇神天皇 | 師木水垣宮 | 磯城瑞籬宮 |
278年〜298年 11代 垂仁天皇 | 師木玉垣宮 | 纒向球城宮 |
298年〜325年 12代 景行天皇 | 纒向日代宮 | 纒向日代宮 |
540年〜572年 29代 欽明天皇 | 師木嶋大宮 | 磯城島金刺宮 |
三輪山を中心にした360度全てがシキ(磯城)ではありません。
ヤマトは、出雲から見て正面にあたる、シキの西部エリアを示す愛称名です。巻向を中心としたエリア、そこが「ヤマト」です。
「纒向」は、「真城を向く」の意で、真城は「磯城の中心部」で、線で結んだ三輪山の出雲に面した地(下図)、を指します。
(2)「ヤマト」という名称は どういう意味だったのか?
⇒ 三輪山の「山麓」を示すコトバ だった、と推測します。
山麓を示すコトバは、山戸、山門、山都、山土、山麓、山懐...などがあります。
この場合は、「神の山の麓」という特定の狭いエリアの呼び名なので、単に お山の麓 → (ヤマのフモト)→ ヤマト を推定しました。
大王の一族は、日常的に この地を ヤマトと呼びあっていたのでしょう。
(3)大和政権発祥の地は、愛称は「ヤマト」で、地名は「纒向」で、神の山・三輪山の中央に位置する麓の地です。
以上が、桃崎氏の説を基に、自己流で展開した私論です。
三輪山は出雲によって祀られた。 オオクニヌシとスクナビコナは共同で国作りしたが、スクナビコナは亡くなった。 「私一人では国を作れない。誰か一緒に国造りしてくれる神はいないものか」 と嘆いたら、海を照らしてやってくる神があった。 神は「私の為に宮を造って祀るのであれば、一緒に国造りしましょう」と言った。 オオクニヌシが「どのように祀ればいいでしょうか」と尋ねると、 「倭の青垣の東の山の頂上にお宮を作って私を祀りなさい」と答えた。 そこで御諸山(三輪山)の上にこの神を祀った。 (古事記 上巻:オオクニヌシの系譜、スクナビコナの神) |
ヤマトの核心部 |
神の山・三輪山 |
< 付 録 >
魏志倭人伝には皇帝の使者が倭国に赴き、直接 倭王卑弥呼と対面し、皇帝の言葉(親魏倭王に任ずる)を伝えたと記されています。
【正始元年(240年)、大守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詔書、印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔を齎し、金、帛、..刀、鏡、采物を賜う。】
この冊封礼の式典には、倭国の主要な閣僚たちも出席していました。
式の後に「冊封の宴」が、倭国主催で開かれました。おもてなしは 昔から倭人の得意とするところです。
どのような料理が出されたのか興味津々です。
・肉料理は、シカ、イノシシ、キジ、カモ
・魚介は、スズキ、アワビ、越前ガニ、焼きハマグリ、アユ、個人的にはイイの一杯詰まったイイダコの煮つけw
・野菜類はよくわかりませんが、ジュンサイ、ノビル、自然薯、ウリ、桃、栗、柿
・酒は、采女たちが大杯に満たして、各席をめぐっていたことでしょう。
・歌、踊りで使節一行をもてなしたのでしょう。
一同は、すっかり打ち解けて 互いを理解し、親密になりました。互いの情報交換も行われました。
「この宴会・会合で得られた情報」として、次の3つが魏志倭人伝に記録されています。
@魏使は、「倭国の建国史」を聞き出しました。
日本書紀と突き合わせると、神武天皇から卑弥呼までと一致しました。
A魏使は、倭国の高官を紹介され、記録に残しました。
崇神天皇と后の御間城姫、彦坐王、武渟川別 の4名。更に(崇神天皇の皇子の)豊城入彦、活目入彦(後の垂仁天皇)の兄弟、崇神の伯父・大彦命の高官も出席していました。
B(倭の女王の住まいする)この地の名前を尋ねたら、高官は「ヤマト」と発声し、魏使は「邪馬台」と記録しました。
これが魏志倭人伝にただ1回、倭国の高官名と共に登場する「邪馬台国」 の真相です。
ヤマトは、卑弥呼の時代に生じた名称で、神武天皇時代は畝傍山周辺で、ヤマトなる愛称の地はまだ無かったと考えます。
(参考) 私の歴史年表
桃崎有一郎氏の記事(文春オンライン)
魏志倭人伝の謎を解く
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