ー 本 文 ー (1)何故、異なる二つの地域が記載されたのか? (2)「倭人伝の倭国史」を日本書紀に合わせてみると (3)陳寿やはり、最終行程を入れ替えてた ー 仮説の詳細説明 ー (1) 郡より女王国に至るまで万二千余里なり (2) 会稽東治之東 (3) 日向の女王国までの行程 @末盧国〜 A伊都国(福岡市) B伊都国〜奴国〜不彌国〜女王国 ・奴国(日田) ・不彌国(安心院) ・女王国(宮崎) (4) 周旋五千余里 (5) 狗奴国について (6)後漢の使節と 魏の使節 の記録の違い ー 結 論 ー 陳寿が行った「魏志倭人伝」の編纂作業を復元してみる 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ■補筆( Facebookへの投稿記事 ) @女王国、倭奴国、奴国、狗奴国と 衛星写真で斯馬国を発見! A「水行陸行」を使わず、天測で「女王国」の場所を特定 B「伊都国」と「伊都国王」 Cプロ野球キャンプ地で「女王国」の場所を推理する ・追記:神武天皇の東遷コース(九州部分) D魏志倭人伝の、長里、短里について(雑想) E魏志倭人伝の、「水行十日 陸行一月」の新解釈について ■倭国との交流史から、邪馬台国の高官たちは誰で、そのご陵は何処か? を探る。 (1)「吉備の特殊器台」から、古墳時代始まりの前方後円墳を特定。 (2) 倭人伝に記された、邪馬台国の高官(卑弥呼の閣僚)4名を特定。 (3) 240年 魏使は、女王卑弥呼に対面し冊封礼を終え、冊封宴で高官たちと歓談。 (4) 高官たち(崇神天皇を中心とした皇族)のご陵(初期の前方後円墳)を推定。 (5) 卑弥呼の葬儀 へ飛ぶ (6) 卑弥呼没後の乱について (7) 倭国の年表 (8) 吉備の三輪山にある宮山墳丘墓 ■纒向遺跡は卑弥呼の宮殿施設 そして 箸墓古墳は卑弥呼の墓 ■箸墓古墳は卑弥呼の墓か? 魏志倭人伝から読み解く ■雑記帳 @何故、日本書紀に邪馬台国と卑弥呼が出てこないのか A中国からの冊封使節団とは ■参考資料 へ飛ぶ |
魏志倭人伝 は、時代と地域が異なる、二つの「女王の国」が一緒に混交し、加工されて作り上げられてます。 ・前半に書かれているのは、九州・日向にあった「女王国」です。 ・後半に書かれているのは、「倭の女王」の国 (大和)です。 それと倭の女王「卑弥呼」です。 |
何故、そのように考えるに至ったかというと、次の二つの文章にあります。
一つは、『倭の地は温暖、冬夏生菜を食す。』という文章。
農業の仕事をした経験があるので、この地は 高知か南九州 だな、と直感しました。
(資料)魏志倭人伝のクニの風俗について (2015年1月)
二つ目は、『卑弥呼以て死す。大きな冢を作る。徑百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。』
これは「箸墓での葬儀」の様であり、従って、大和・纒向です。
(資料)箸墓での葬儀を考える (2015年12月)
(1)何故、異なる二つの地域が記載されたのか?
陳寿が編纂した記録には、この二つの異なる地域が記されている。どういうことか?
倭の地に関する二つの報告書が過去にあり、二つに共通するのが「女王の国」までの行程、と「古代史の復元」が気づきました。
一つは、原典Aと呼びますが、AD57年、後漢から「倭奴国」へ、金印と玉壁を携えて派遣された役人の復命書です。
通説では北九州の「倭の奴国」と言われてますが、「古代史の復元」や私は 神武天皇の出身地 「日向」 と考えています。
そして「日向国王」は「女王」でした。 (統一倭国はまだない スモール倭国の時代の女王国でした。)
(古代の日向は、薩摩・大隅を含みます。)
二つ目は、原典Bと呼びますが、AD240年、247年。魏から倭国の卑弥呼へ「親魏倭王」の金印等をもたらした使者の復命書です。
倭国王は女王卑弥呼でした。 目的地は女王の都する邪馬台国(大和・纒向)でした。
この二つの報告書の内容が、陳寿が編纂した魏志倭人伝に混在してることがわかります。
両報告書の切れ目は何処でしょうか?
魏志倭人伝の構成を見てみます。 |
西 暦 | 日本書紀 (古代史の復元) | 魏志倭人伝 |
83年 | 日向を出た狭野命が 大和に入り 神武天皇として即位 →統一倭国誕生 | 其の国、本亦、男子を以て王となす |
101年 | 第2代 綏靖天皇が即位 | (その後も男子王で) |
神武天皇後の101年 +70年後、80年後 =AD 171年、181年 | とどまること七、八十年 | |
178年〜184年 | 倭国の大乱 (大和が出雲を統一しようと始る) | 倭国乱れ、相攻伐すること歴年 (何年も続いた) |
185年 | 卑弥呼が共立され即位し大乱収束 | 乃ち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼と言う。 |
217年頃 | 卑弥呼、纏向に祭祀都市を建設(※1) | |
239年 | 卑弥呼、魏に使者を送る。 (翌年「親魏倭王」 の称号と 金印紫綬 を受ける。) |
景初2年6月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし、 郡に詣らしめ、天子に詣りて朝献せんことを求む |
240年、247年 | 魏の使者が来日。(※2) | |
249年 | 卑弥呼死去 纒向に箸墓古墳を築造 | 卑弥呼以て死す。大きな冢を作る。徑百余歩、 徇葬する者、奴婢百余人 |
(注)魏志倭人伝が成立したのは、280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間。第11代垂仁天皇の時代
魏志倭人伝の内容と 日本書紀の内容 が一致しました。
倭人伝に出てくる 倭国の初代王・男子王は 「神武天皇」 でした。「男子王」=神武天皇、という発見は大発見です。
でも 考えてみると至極当然の事でした。
【乃ち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼と言う】 倭の大乱は、大和の孝霊天皇が、それまで(素盞嗚尊の国で)自治が認められていた出雲を併合しようとして始まった。 大乱は膠着状態になり和平交渉が行われた。 大和の倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒ モモソヒメ)を、出雲の大物主の妻とする儀式により、百襲姫を大和・出雲の双方が共立する形で終焉した。 以降、百襲姫は卑弥呼(日霊女)と呼ばれることになり、また、卑弥呼は神の妻であり 天皇より上位の存在になった。 (古代史の復元) |
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(3)陳寿やはり、最終行程を入れ替えてた
魏志倭人伝の行程どおりに、方位・距離・日数を進むと、卑弥呼の都する邪馬台国に着くはずが、南方海上に到達するようです。
畿内には到達しないようです。おかしいです。
で、様々な読み方が考案されては試みられ、未だ結論が出ていないようです。
このことは、原典Aの内容が改変されていることを示しています。
陳寿が編纂したので、悪意はあるはずもなく、善意で行った改変が存在してるハズです。
それをチェックしました。
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魏志倭人伝の行程を読んでいくと、異質な部分に出くわします。
それまで千余里とか、距離で書かれていたのが、突如 水行二十日、水行十日・陸行一月 と、日にちで書かれる個所が出て来ます。
また、「女王国」で記述が統一されていたのが、「女王の都する所」という地域が登場します。
違和感を覚えた人も多いでしょう。
この部分こそ、陳寿が(原典Aの行程部分に)挿入した文章の証拠なのです。
具体的に見ていきます。そして、元に復元して見ます。
行程記事の中ほどに、伊都国に至る。..東南して奴国に至る百里。..東に行きて不彌国に至る百里。があります。
次に、
『南して投馬国に至る。水行二十日。官を彌彌那利と曰う。五万余戸可り。南して邪馬台国(※1)に至る。女王の都する所なり。
水行十日、陸行一月。官に伊支馬あり、次を彌馬升と曰い、次を彌馬獲支と曰い、次を奴佳是と曰う。七万余戸可り。』
とあります。
※1:「邪馬台国」の名前が出てくるのは、魏志倭人伝全体でこの個所の1回だけです。
この『』の部分こそ、陳寿によって加えられた部分です。元の原典A、原典Bの内容を推察してみます。
(1)後漢使の原典Aでは、行程の最後はシンプルに 『南して女王国に至る (700里)。』 だったでしょう。邪馬台国の名は無いです。
南への行程を細々書かずとも、女王国の位置は、行程の最後で、『郡自り女王国に至るまで万二千余里なり。』と、天測の結果が記されてます。
(この時代には、吉備や大和はまだ小さく、大きいのは出雲だったでしょう。)
(2)魏使の原典Bでは、行程の最後は、
『東して投馬国に至る。水行二十日。官を彌彌那利と曰う。五万予戸可り。
東して邪馬台国に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月 (注1)。
官に伊支馬あり、次を彌馬升と曰い、次を彌馬獲支と曰い、次を奴佳是と曰う。七万余戸可り。』
だったでしょう。 (もっと細かかったものを陳寿がここまで簡略化したのかもしれません。)
ここで云う 投馬国は吉備、邪馬台国は大和です。北九州の数々の小国は記録してなかったと考えられます。
(3)陳寿は原典Bの「東」を、原典Aに合わせて「南」に変更して、不彌国の後に『』で挿入しました。
同じ女王国までと信じ、『南して女王国に至る (700里)。』では、省略しすぎと判断し、補填のつもりで追加したのでしょう。
「目的地への最終行程」を入れ替えていたのです。
これが、後世の研究者を悩ませた原因です。
@が原典Aに記されていたコースで、 Aが原典Bに記されていたコースと考えられます。
そして、 女王国の日向に着くはずが、 大幅に通り過ぎて南方海上に到達してしまいます。 畿内にも到達しません。おかしいです。 で、様々な読み方が考案されては試みられ、未だ結論が出ていないようです。 |
※参考1: 魏使の原典Bの推定文は 「後漢の使節と 魏の使節 の記録の違い」に紹介しています。
※参考2: E魏志倭人伝の、「水行十日 陸行一月」の新解釈について
漢・魏の普通の1里は405〜435mで、 魏志倭人伝の天測の1里は短里で 1里=76〜77mです。(天測は海を渡る区間のみです。) (野上道男氏説) 12000里 X 76m,77m= 912km〜924km。 地図で測った宮崎〜平壌が 大雑把な測定ですが 938kmでした。 楽浪郡からの距離になります。 |
この『万二千余里』は、(一寸千里法の天測で測った)二点間の直線距離です。
一行が移動した軌跡とは異なりますので、これを一行の行程の総距離と考えて、12000里から引き算をしても無意味です。
注1: 後漢使や魏使が、旅行中に行程を記すには、明確なランドマークが多数無いと、その間の測定は困難だったと推察します。
遠い距離間の測定は、太陽を使った 「1寸千里法」という中国最古の天文測量法によってました。
『夏至の太陽南中時に、周の陽城(洛陽)付近の南北2地点で 8尺の棒の影の長さを測り、その日影長に1寸の差があるとき、
2地点間の南北距離成分を千里とする』、という原理です。
野上道男氏の「古代中国における地の測り方と邪馬台国の位置 」(東京地学協会 伊能忠敬記念講演会 2015.11.28) が参考になります。
※魏志倭人伝では、天測で測った区間は海を渡る区間のみで、末盧国に上陸してからの陸上移動は歩測(1里=405〜435m)で測りました。
8尺の棒で測定する器機の事を「圭表」といいます。 「圭表」は、南中(正中)の太陽高を測る、日時計の一種のシンプルな測定器で、
一番日影が長くなる 冬至や 一番短くなる 夏至を正確に観測し、また 立春、春分
などを測定 するために用いられました。
(参考) 夏至と冬至における、正午の太陽高度の違い
私は纒向の卑弥呼の宮殿の「建物E」が圭表を収めた殻舎では、と推理してます。
http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/makimuku_kyuden.htm#kousatu-5
「1寸千里法」と「圭表」のノウハウは日向の天皇一族が後漢使から習得し、秘伝として代々伝え、卑弥呼の鬼道の一部になっていたのかもしれません。
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(2)会稽東治之東
AD57年の夏至の日の正午、後漢の使節一行は「圭表」を使って 「南中時の影の長さ」を記録しました。
その記録は、洛陽の天文方のデータベースにある中国各地の「南中時の影の長さ」と比較されました。(注)
同じ緯度に位置する場所は、地球上、何処も「圭表」による夏至の「南中時の影の長さ」は同じです。
突き合わせた結果、「同じ影の長さ」の東シナ海沿岸が「会稽の東治」でした。
そして倭人伝は女王国の位置について、
『其の道里を計るに、当に会稽の東治の東に在るべし。』 『計其道里當在会稽東治之東』 と記しました。
それまで「会稽の東治の東」は、大陸から見て、東に在る島、という漠とした記述と考えられてきましたが、
ピンポイントの正確さで、その地の真東の古代の日向(宮崎)を指し示していると気付きました。誤差は影の長さの誤差です。
「会稽東治」は「会稽の東部地域の治所」で、 現在の江蘇省蘇州市辺りです。 その東ということで、緯度で見ると ピッタシ南九州の日向の国を指しています。 後漢の使節が目指した女王国の位置です。 |
※ 江蘇省蘇州市辺りの比定は、 『魏志倭人伝の「道里」に関する新考察』 伊藤 雅文 によります。
陳寿が記述をここに置いたのには意味があって、すぐ次に続く 『其の風俗』は、このような緯度の地域(南九州)のものです、という「風俗の前書」きなのです。
『其の風俗』には、『倭の地は温暖、冬夏生菜を食す。皆、徒跣なり。』 と、記されていますが、前書きがあるので納得です。
(注)
日本列島は東西に長いですが、中国大陸は南北に長大です。
北方の匈奴に近い気候風土と、南方の沿海州の気候風土とは大きく異なります。
従って、中国では古来から、南北の緯度の変化により風土・風俗が異なると認識し、その情報収集を行っていました。
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『郡より女王国に至るまで万二千余里なり』と 『其の道里を計るに、当に会稽の東治の東に在るべし。』 で、「宮崎が目的地」と判明しました。
では、宮崎までの行程を、倭人伝から読み取ってみます。
(3)日向の女王国までの行程の推測 改定:2023年12月12日 (単位の里は、1里 405〜435mです。)
国名 | 推定地 | 記載された 方向・距離 | 実測の距離 | 実測の里 | 備考 |
末盧国 | 平戸 | 上陸地は、平戸、松浦、伊万里から検討 (1) |
|||
伊都国 | 福岡市周辺 | 末盧国から 東南に500里 | 140キロ | 350里 | 140`÷405m=346里 (注1) 平戸〜松浦〜伊万里〜武雄〜佐賀〜福岡 |
奴国 | 日田 | 伊都国から 東南に100里 | 41キロ | 101里 | 41`÷405m=101里 福岡〜朝倉(志波)〜日田 (2) |
不彌国 (ふみこく) |
安心院(あじむ) | 奴国から 東に100里 | 41キロ | 101里 | 41`÷405m=101里 日田〜森〜院内〜安心院 (3) |
女王国 | 宮崎 | 不彌国から 『南して女王国に至る (700里)』 |
(3)の地図参照 | 後漢の光武帝が派遣した使者の目的地・倭奴国 ←これが原典Aの最終行程表現、と考える。 |
※伊都国、奴国、不彌国には、女王国からの長官・副長官が居り、女王国の国々からは、オーパーツ(OOPARTS)が3つも出土してる。
(1)末盧国〜(東南に陸行500里で)〜伊都国に到る ルート
@壱岐からの上陸地は 平戸 と推定した。 平戸〜松浦〜伊万里
・壱岐からの最短距離は東松浦半島の先端だが、半島はリアス式海岸で砂浜は無く、潜水してアワビ等を採る風土ではない。
・平戸、松浦は砂浜があり、一行は潜水漁法の様を見れる。
A伊万里〜伊都国まで
・唐津〜海岸沿い〜糸島半島 への陸行が最短だが、当時は背振山地の断崖(円の部分)が、親不知・子不知のようで、海岸線を陸行できない。
使節一行は、正副使節の二艘の船で来島した。 人数は未検討だが、女王国の護衛兵を含めると一行は数百名規模と想定。 従って、少々遠回りしても、平坦で安全なルートが選択されたと仮定。 |
B背振山地の南を通るルートが採用された。
末盧国の上陸地では、浜辺の集落の光景が珍しかったのか、 『好んで魚やアワビを捕え、水は深くても浅くても、皆が潜って取る。』 と記している。 草が高く茂り、海が最も穏やかな 真夏の光景が目に浮かぶ。 平戸〜松浦過ぎ 迄の記述と思われる。 そして東南方面に進んでいきます。 伊万里〜武雄〜佐賀〜 〜福岡 背振山地を廻り込み、佐賀平野へ出て進みます。 この行程は、途中で数泊してるでしょう。 |
(注1)末盧国〜伊都国は、500里と記されてます。上図で測った346里とは大きな差があります。
地図上のプロット測は、平面での最短距離の合計です。実際は地形に合わせて、大きく迂回したり、ジグザグで進んだり、
後戻りしたり、で直線的に進むことは少なかった考えられ、346里より 20%〜30%程多く、400里台と考えられます。
使節の測定結果も400里台だったと推測します。彼らは切り上げて500里、と記録したのでしょう。
(2)伊都国(福岡市周辺)
女王国の役人が駐在する。【官を爾支と曰い、副を泄謨觚、柄渠觚と曰う。】
「金印(漢委奴国王印)」が出土している。
「金印」は、漢時代は、皇帝が諸侯に与えるもので、周辺異民族の王には「銅印」でした。
後漢が匈奴王に下賜した 「漢匈奴悪適尸逐王」 印は、銅印でした。 例外が、この「漢委奴国王」で、何故か
諸侯並みに遇されています。
金印は、本国ではなく、海外との交流の窓口であった伊都国に運ばれ、長官
又は一大率 の所に置かれていたのでしょう。
伊都国は、奴国、不彌国と違って、唯一 代々王が居たクニと記されています。 【伊都国に到る。..世々王有り。皆、女王国に統属す。郡使の往来、常に駐まる所なり。】 代々の王の墓は、@三雲南小路遺跡、A須久岡本遺跡、B井原鑓溝遺跡 で、Bが最後の伊都国王墓で、この時代(AD57年前後)と推察します。 銅鏡40枚が出土した平原遺跡1号墓は、後世のAD200年前後で、この頃は伊都国王の墓は既に終焉しており、女王墓の可能性は無いです。 平原の女性墓は、卑弥呼が派遣した有力な祭祀者の墓と推測します。当時、卑弥呼は上総にも有力な祭祀者を派遣しています。(神門 5号墳) (追記 2024年1月23日) |
(3)伊都国〜奴国〜不彌国〜女王国
@奴国(日田) 女王国の役人が駐在する。【官を兕馬觚と曰い、副を卑奴母離と曰う。】 (卑奴母離(ひなもり)は軍事長官という意味) 漢代の鉄鏡・金銀錯嵌珠龍文鉄鏡 (きんぎんさく がんしゅ りゅうもん てっきょう) が出土しています。 2019年、曹操の墓を発掘した潘研究員が 「曹操墓の鉄鏡の象嵌文様が 日田出土の鏡と酷似している」 と発言し大騒ぎになりました。 曹操の鉄鏡と同一サイズで、文様、装飾が酷似していて、漢代のものです。 皇帝や 曹操や 特別な者しか所有できなかった鉄鏡とのことです。 女王に贈られた後、それを奴国の長官が保持していたのでしょうか? 「奴国」の南に位置する隣国が「狗奴国」です。 (また、日田の手前の朝倉は、斉明天皇の新羅征伐の九州大本営(行在所)です。 天皇がこの地で崩じ、同行していた中大兄皇子が、践祚し天智天皇になりました。) ←不彌国〜女王国の間は仮に700里とする。 |
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡
中央に配された文字「長宜子孫」は、女性に対して使われた子孫繁栄を意味する吉祥句。女王国の女王に贈られたのでしょう。
A不彌国(安心院)
女王国の役人が駐在する。【官を多模と曰い、副を卑奴母離と曰う。】
(卑奴母離(ひなもり)は軍事長官という意味)
日向津姫が一時都してた盆地です。古代の安心院は宇佐の中心で海への窓口でした。
駅館川を下った海に、宇佐神宮の前身が(当時は砂浜の前に)ありました。
「妻垣神社」の地がムカツヒメが居住していた場所と推定されてます。
オーパーツはまだ見つかってませんが、安心院は松本清張と因縁があり
短編「陸行水行」の舞台でした。 清張は行程を忠実に辿って、安心院が
不彌国と推定してます。驚きました。
B女王国(宮崎)
不彌国〜女王国迄は、上地図の「安心院〜宮崎」間のプロット測は238km。
238km ÷ 405m =588里∴ 25%増しで735里 → 不彌国〜女王国を 歩測値では700里と仮定する。
女王国からは、巨大な「玉壁」が出土しています。
串間の「王の山 出土の玉壁」は、中国にも数少ない超大型の玉壁です。
玉璧は中国王侯の印とされるもので、特別な諸侯にしか与えられないもの。何故? 日向に。
後漢の光武帝は、女王国のムカツヒメに、金印、玉壁、王侯用鉄鏡 等々 諸侯として扱い、破格の贈り物をしてます。
それらが女王から、長官の居る国々に渡された、と考えれば、そこからの出土は自然に理解できます。
女王国を支える国の視点に立つと、色々なことが見えてきます。
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<末盧国〜伊都国〜奴国〜不彌国を、短里で説明してる説がありました。>
・後漢の使節の天文方が、歩いて出した歩数での距離が 陸上での里程・歩程です。
漢・魏の1里は405〜435m。 皇帝に提出する報告書ですので、自国の里の距離です。
・歩いて測定できない水行の距離間は天測で測定しました。倭人伝の天測の1里は 短里で1里=76〜77m。
・歩測の1里を、天測の1里で代替するのはルール違反です。
末盧国〜伊都国〜奴国〜不彌国の、陸上歩行の500里、100里で、1里=405〜435mを使わない考察はトンデモ説です。
参考:「魏志倭人伝の、長里、短里について(雑想)」
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(4)周旋五千余里 2023年12月4日
倭国の風俗〜倭国の歴史 の次に 女王国周辺の国と位置を記した下記の文章が挿入されています。
『女王国の東,千余里,海を渡るとまた国があり,皆倭種である。また侏儒国がその
南方にあり,〜
倭の地を参問するに、絶えて、海中、洲島の上に在り。或いは絶え、或いは連なり、周旋五千余里可りなり。』
最後の 周旋五千余里可りなり は、短里を使っており、5000里x76m=380km となります。
上の行程図の総距離は、大雑把な測定になりますが、446kmでした。
短里では、446km÷76m =5969里になります。
周旋五千余里の余里としては大きすぎます。
しかし、北九州や畿内の地を測定した表現ではなく、それらの場合だったらもっと距離は合わないでしょう。
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(5)狗奴国について 2023年12月5日
魏志倭人伝には「狗奴国」が二か所に出て来ます。
@最初は、後漢使が実際に歩いた国以外の、列挙した国のなかに登場します。
A次は、中国との交流が記された後半に、卑弥呼と敵対する国として大きく登場します。
@は、AD57年の、日向の「女王国」への行程報告書(原典A)のなかの狗奴国です。
Aは、AD240年の、邪馬台国(倭国の女王・卑弥呼の都)への行程報告書(原典B)のなかの狗奴国です。
両者の間には、「183年もの時代差」があります。スモール狗奴国も、183年後には強力な大国になっています。
中国も、後漢の楽浪郡から、魏の帯方郡と、国も出発地も異なりました。
狗奴国についての記述は、
『次に奴国有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。其の南には狗奴国あり。男子を王と為す。其の官には狗古智卑狗有り。女王に属せず。』
私は狗奴国は、列挙された国の一つで、読み飛ばしていましたが、↑を注意深く読むと奇妙です。
陳寿が改竄した影が色濃く出ています。
@では、国の列挙の末尾なので、シンプルに 『次に奴国有り。其の南には狗奴国あり。』 で位置を示しただけの気がしてます。 これだと、後半の卑弥呼と敵対する大国の狗奴国の記述としては マズイと感じたのでしょう。 それで、「女王の境界の尽くる所なり..狗古智卑狗..女王に属せず」 などのAの後世の内容を挿入したと考えられます。 「女王国」でなく、「女王の」「女王に」という言葉遣いは、原典Bの特色です。 狗奴国の位置は、「奴国=日田」と仮定してるので、 日田の南の山塊の裏の菊池盆地です。 ここが狗奴国の本拠地で、 183年後には、ここから熊本やその南にかけて勢力を拡大したのでしょう。 |
(6)後漢の使節と 魏の使節 2024年6月17日 追加編集 魏志倭人伝には様々な情報が豊富に記録されています。 動物、鉱物資源、植物(樹木・草類)は16種類もの名前が挙げられています。 これらの記述は、使節一行が通りすがりに見聞した記録では無く、記録しようとの意図で収録した観察記、という印象です。 @後漢の光武帝は、倭の国に史上初の使節を送るため、用意周到な準備をしていました。 〇後漢の初代皇帝 光武帝は、天下を統一した直後で、その勢いで使節を派遣しました。 ■天文方を入れ、太陽高を測る測天儀器 「圭表 」を持参し、一行の行程の、方向や歩数&距離、天測などを行わせていました。 今回、地図で行程をプロットして距離測定をしたら、おおむね合っていました。 ■風土習慣を正確に記録させるため、博物担当を入れ、動物、植物、鉱物、倭人の風習など事細かに記録しました。 伝聞でなく、現地を足で歩いて得た情報です。 A他方、魏の使節は、倭地の訪問は二番煎じなので、行程・風俗については、力を入れてなかったようです。 〇魏の使節は、呉と蜀との戦い、遼東で公孫淵を滅ぼす等、緊張した国際情勢下での外交関係樹立のための訪問でした。 一行は、測量や天測は行わず、行程は最短・最速を選び、全ては海上移動で、陸上を歩行しての移動は無かったのです。 その記録は「要した日数」だけのもので、陳寿が目にした復命書の大筋は、例えば、 『郡より水行し、韓国、狗邪韓国から大海を渡る。対馬国、一大国を経て、伊都国に到る。水行〇〇日。 郡の倭国に使いする者 皆上陸する処。其の先へは、東して投馬国(吉備)に至る。水行二十日。 更に東して邪馬台国(纒向)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。倭の女王に拝仮し詔を齎す。』 のような簡潔な記述だった、と推測します。 「要した日数」は移動した日数だけでなく、途中 滞在した日数も含まれます。 最後の「陸行一月」は、難波津に到着してから邪馬台国に入るまで、港で出発を待機していた期間と考えられます。(注1) (詔勅を携えた冊封使は、準備が出来るまで難波津で待機し、部下たちは準備で纒向などに赴いていたのでしょう。) 当然、北九州の30数か国の小国は記録されなかったでしょうし、天測の結果の〇〇〇〇里も無いでしょう。 陳寿が、何故原典A(後漢)を採用したのかは、原典B(魏)には日数だけで、距離が記録されていなかったのが理由です。 陳寿は、倭人伝には郡から倭国の首都までの 方位・距離を記すことが「不可欠」と考えたのでしょう。以上、大胆な仮説です。 他方、魏の使節には、卑弥呼の要望に応えて、多くの技術者が含まれていたと考えています。 卑弥呼は賢い人でした。倭国の発展のために新しい技術が必要と考えており、それを魏から期待したのです。 ・冶金の技術。灌漑などでの大規模土木技術。これは箸墓古墳の築造に活用されました。 ・農作業(播種など)に必要な農事暦の為の天文技術。日照時間を測定する「圭表」が纒向宮殿の建物Eに収められたと推理してます。 ・農業・医療の発展に必要な技術。新種の作物など。 纏向遺跡からは、染料用の大量のベニバナ花粉が出土してます。(原産はアフリカのエチオピア。BC2世紀頃には匈奴へ伝わり、 後漢時代には中国本土でも栽培されており、日本には5世紀頃に渡来、といわれています。) (Wikipedia) また、熱帯アジア原産のバジルの花粉が確認され、薬用目的とみられています。両者は3世紀の魏の使節団がもたらしたのでしょう。 卑弥呼によって、文明開化の古墳時代が始まったのです。 8世紀の碩学・淡海三船は、卑弥呼の時代の第9代大王ワカヤマトネコヒコオホビビを、文明開化の治世を意味する 天皇の諡号「開化天皇」と撰進しました。 B陳寿は両者の記録を突き合わせて、行程、倭国の風習 などは 後漢使の記録の方が、量も多く正確なので、 結果として南九州の記録をベースにしてしまった、と考えられます。 → 何故、陳寿は古い後漢の記録を使ったのか? 回答は、情報の質量で「後漢の記録」が「魏の記録」を上回っていたから。でしょう。 (2023年12月13日) (注1)「陸行一月」の解釈が解決しました。 (2024年6月14日) 古書を調べた結果、陸行には〇〇〇里との距離が付随し、〇〇日のような日数の付記は無いことが判明しました。 陸行は、歩測した距離を記する書式で、「陸行一月」はその距離が記されていないため、「移動していない」と読み取れます。 陸行一月は、其の場所に一月留まっていた、と解釈します。 |
ー 結 論 ー (2023年12月6日)
陳寿が行った「魏志倭人伝」の編纂作業を復元してみると
(1)倭国に関する2種類の原典を参考にした。
@は、AD57年の、日向の「女王国」への後漢使の復命書(原典A)
Aは、AD240年の、邪馬台国(倭国の女王・卑弥呼の都=大和纒向)への魏使の復命書(原典B)
(2)両者は、時代は異なるが、同じ倭の女王国についての復命書と判断した。
(3)行程と風俗習慣は、時代は違っても変わらないものと考え、原典Aから倭人伝に取り入れた。
(4)倭国の歴史や、魏との外交史は、時代により変化するもので、原典Bから倭人伝に取り入れた。
(5)行程を見直して、簡素すぎる2個所について、より詳細に説明する為に原典Bから追記し、手を入れた。
@は、女王国までの最終行程
Aは、狗奴国の記述
(6)出来上がった魏志倭人伝の冒頭に、次の「頭書」を書き入れて完成させた。
『倭人は、帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。旧百余国、漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所三十国』
邪馬台国は何処か? 多くの古代史ファンの関心事です。
しかし、魏志倭人伝に記された邪馬台国への行程は.. 「女王国」への行程に接ぎ木されており、どうやっても辿り着けません。
遥か南方の海上を指してしまうそうです。 与那国島に眠る海底宮殿を指してないかな? などと夢想します。
お わ り
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Facebookのグループ「古代史研究会」へ投稿した記事です。 反響(リアクション・コメント)が多かった記事です。 |
投稿1 女王国、奴国、狗奴国 (2023年12月20日)
魏志倭人伝の行程部分に頻繁に出てくる「女王国」は名前は出て来ません。その国名は何でしょうか?
もちろん邪馬台国ではありません。
後半部分の歴史、交流史になると「倭国」が登場しますが、行程部分の女王国とは違います。
■結論を述べると「女王国」は「倭奴国」です。
■「倭奴国」は「倭の国」のことです。
大和での統一倭国の前身の、日向に在ったスモール倭国ーこれが「女王国」です。
後漢書倭伝に登場し、AD57年に金印を受けた「倭奴国」は、金印が博多湾岸から発見されたので北九州のクニとするのが通説です。
しかし、光武帝と対面した大夫が、倭奴国は「倭国の極南界に位置する」(注1)と帝に奏上したのですから、博多湾岸であるはずがありません。
極南界とは九州の日向のことで、日向にあった国で、女王の国です。(古代の日向は、薩摩・大隅を含みます)
注1:後漢書倭伝:『建武中元2年、倭奴国、奏貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬を以てす。』
(1)「倭奴国」は「倭の奴国」とは異なる。
倭奴国は、「倭の奴国」と分かち読みされるのが通説ですが、間違っています。
奴は漢音でド(奴隷)、呉音でヌ(奴婢)と発音し、ナなどとは發音できないそうです。
「倭奴国」は、彌奴国、姐奴国、蘇奴国、華奴蘇奴国、鬼奴国、烏奴国、狗奴国などと同じ表記法で、「倭の奴国」ではなく「倭の国」のことです。
通説で一緒くたにされている「倭奴国」と「奴国」は、別々です。
(2)「奴国」は博多湾岸のクニでは無い。
金印が出たのが博多湾岸で、金印に書かれた倭奴国を「倭の奴国」と分かち読みして、奴国=湾岸国 と誤った先入観に支配されています。
「奴国」が博多湾岸の国という根拠は、魏志倭人伝の何処にも記されていません。
率直に読めば、伊都国から東南に100里(約40キロ:JR博多駅〜久留米駅の直線距離が30キロ)という山間の盆地に位置しています。
(3)何故、奴国は2回出てくるのか?
使節一行が通過した「奴国」の記述の他に、その他の国々を列挙した最後に、また奴国が出て来ます。
両者は同じ奴国です。何故2回目に出てきたか、は「狗奴国」の位置を説明する為です。
『次に奴国有り。其の南には狗奴国あり。』です。
(4)「狗奴国」は「奴国」の「南」に位置する隣国です。
「女王国」との位置関係では、ー 狗奴国は「女王国」の東、西、南、北に位置する、との記載は全く無いです。
※邪馬台国の場所については様々な説があります。私は、「その場所が魏志倭人伝の記述に合っているか?」、の判断として、
狗奴国が奴国の「南」に位置しているか、に注目しています。
(追記)
よく目にする間違いは、「女王国の南に狗奴国が位置している」、というものです。
【..次に奴国あり。此れ女王の境界の尽くる所なり。其の南に狗奴国有り。男子を王と為す。其の官には狗古智卑狗有り。女王に属せず。】
狗奴国の位置を示す「其の南」について、「女王国の南」と解釈する例があります。「其の」が指すのは直前に出た奴国です。
次に出てくる「其の官には」の「其の」は、奴国や女王国ではなく、直前に出た狗奴国の官です。
つまり、「奴国の南に狗奴国有り」が正しい解釈なのです。
〜〜〜〜〜〜
※※更なる追記 2024年12月2日
旁國の列挙の最後の
『次に奴国有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。其の南には狗奴国あり。』の文章で、「其の南」の解釈が問題だそうです。
「奴国の南には狗奴国あり。」なのか 「女王国の南には狗奴国あり。」なのか?
私の考えと違って、「女王国の南」と解釈すべきとの指摘がありました。
理由は、文法上では 直前の語を指す場合と、文節の主語を示す場合があり、これは、文節の主題の「女王國」を指すべき、と。
そして、東亜古代史研究所塚田氏、新井白石など、漢文のプロのほとんどは「女王國の南」と訳している、とのことでした。
私はアマチュアですが、この説には首肯できません。
この解釈では、何故、奴国が(2回目で)再度出て来たのかの説明が付きません。2回目の奴国の登場は そもそも不用でしょう。
旁國の列挙の最後に、「女王国の南には狗奴国あり。」で済みます。
奴国が2回目に出てきたのは、狗奴国の位置を示すため、と考えています。「奴国の南に狗奴国があり」、と。
私は中国語の文法には弱いですが、陳寿の真意と表現作法には拘っています。
陳寿は 無駄な言葉や、難解な忖度が必要な、解釈が必要な言葉は選ばず、シンプルに記しています。
陳寿は、「女王国の南に狗奴国がある」なら、シンプルに『女王国の南に狗奴国あり』と記したと考えます。
わざわざ奴国を2回目に出して、『次に奴国有り。ここは女王の境界尽きる所なり。その南に、狗奴国有り。』で、
「その」は女王国と読み取れ、などと まだるっこい表現方法は採らなかったと、考えます。
従って、「奴国の南に狗奴国があり」が正しい解釈と考えます。
(5)倭人伝の行程に出てくる「女王国」は、「倭奴国」で宮崎です。
奴国は日田です。狗奴国は奴国の南の菊池盆地です。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
最新の衛星写真に、魏志倭人伝に登場するクニを載せました。 (地球観測衛星「しきさい」 2024/2/12撮影 JAXA発表) 魏志では、女王国の以北の21の国々が旁國として記されています。 最初に記された【次に斯馬国有り】の斯馬国は、衛星写真から 女王国の北に位置する人吉盆地(球磨盆地)と推定できます。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 倭人伝では「馬」は、邪馬台国、投馬国や官の伊支馬、彌馬升、 彌馬獲支と、大司馬を想起させる立派なニュアンスが感じられます。 旁國のなかにも、「斯馬国」と「邪馬国」の二か国が出て来ます。 斯馬国は立派な大きい国なのでしょう。人吉盆地はふさわしいです。 私は、人吉盆地は、人吉と山江村(宿泊して詳しい)は分かります。 この盆地はコメの産地で、米焼酎の本場で、うちらは米が余って るので米焼酎にしてる。薩摩の芋焼酎とは違うと誇ってました。 旁國の列挙(※注)は、斯馬国から球磨川を下り八代の国へ。北上して、 天草〜島原〜諫早〜佐世保と西九州のクニを巡り、有明湾岸の国へ。 最後に、北部九州の遠賀川の国から最後の奴国へ下ると思われます。 私は土地勘が無いので、斯馬国以降のクニグニは 比定は出来ません。 追記(2024年02月21日) |
伊都国、奴国、不彌国には、女王国から長官・副長官が派遣され、名前も記されています。
このことは、これらの国々が互いにある程度離れていたからと推測できます。
伊都国、奴国、不彌国が互いに近い位置関係の説がありますが、それなら長官・副長官をそれぞれに派遣する必要は無いでしょう。
衛星写真からは、奴国・不彌国は女王国からの交通の要衝で、防衛上の拠点で、長官・副長官(卑奴母離は軍事長官)を駐在させた必要性が理解できます。
※注
【女王国自り以北、其の戸数、道里は略載することを得可きも、其の余の旁国は遠く絶たり、詳かにすることを得可からず。次に斯馬国有り、
次に己百支国有り、次に伊邪国有り、次に都支国有り、次に彌奴国有り、次に好古都国有り、次に不呼国有り、次に姐奴国有り、次に対蘇国有り、
次に蘇奴国有り、次に呼邑国有り、次に華奴蘇奴国有り、次に鬼国有り、次に為吾国有り、次に鬼奴国有り、次に邪馬国有り、次に躬臣国有り、
次に巴利国有り、次に支惟国有り、次に鳥奴国有り、次に奴国あり。】
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投稿2 「女王国」の場所の特定 (2023年12月23日)
魏志倭人伝の目的地「女王国」の場所は、水行陸行を考えずとも 場所は特定できます。
行程記録の3か所に、目的地を示す「方位と距離」が記されているのです。
@『倭人は、帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す』 魏志倭人伝の冒頭の記述です。
→ 東南の方向。これで近畿地方は除外されます。
九州島か四国島でしょう。
A『郡より女王国に至るまで万二千余里なり』 行程最後に記された〆の語句です。
→ 北九州は除外されます。
九州南端の宮崎を測定すると、合格でした。
・12000里 X 76m,77m= 912km〜924km。
・地図で測った宮崎〜平壌が 大雑把な測定で 938km。
B『其の道里を計るに、当に会稽の東治の東に在るべし』 〆の次の最後にあります。 九州の南端を示します。
→北九州・四国島は除外されます。
ラインが示すのは日向。(古代の日向は、薩摩・大隅を含む)
@ABで、「女王国」の場所は「日向」と特定できました。
後漢書倭伝に記された『倭国の極南界なり』にも合致します。
どうやら「宮崎」仮説は「合格」のようです。
■使節の天文方は、進路の方向や距離、天測を行い、データを持ち帰りました。
宮廷の担当は、それを洛陽にあるデータベースで、楽浪郡のデータ、会稽郡のデータと突き合わせて、ABの結果を出したのでしょう。
当時の技術力の高さに驚きました。
■「1寸千里法」での「圭表」による天文測量なので、使節一行が女王国に滞在していたのは夏至を挟んだ月日と推測できます。
選んで6月21日前後に宮崎ステイを計画したと確信します。
■「万二千余里」「会稽の東治の東」
邪馬台国初心者の私でも気づく、こんな明々白々な文言を、議論を戦わせていた研究者たちが見逃すハズがありません。
それぞれの邪馬台国の位置から直線を引いて、短里で測定し、長里で測定し、結果、自説に合わない、と悟って伏せていたのでしょう。
宮崎説は 近畿説&北九州説からは異端で邪魔なだけでしょうから(笑)
(追記コメント)
三つの指標では、「会稽の東治の東」が最も重要でした。
それ迄は、この記述は大陸から見て、東シナ海の東に在る島、という漠としたイメージでした。
それが、ピンポイントの正確さで、その地のまさに真東に位置してる、と気が付き驚きました。
同じ緯度に位置する場所は、地球上、何処も「圭表」による夏至の「南中時の影の長さ」は同じです。
宮廷の天文方には、中国各地のそのデータがあり、一覧表も出来ていたのでしょう。
倭国のデータを突き合わせて、「同じ影の長さ」の東シナ海沿岸を選んだのが「会稽の東治」でしょう。
誤差は影の長さの誤差で、1〜3度程度と思われます。
最初から「会稽の東治の東」を皆が重視していたら、邪馬台国論争は違ったものになっていたと感じました。
書かれた内容を、曲げずにそのまま信じることが重要でした。
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投稿3 「伊都国」について (2024年1月24日)
私は、魏志倭人伝は、
@AD57年、後漢の使節が「漢委奴国王」金印を運んだ、日向の女王国・倭奴国への行程と、
AAD240年、魏の使節が「親魏倭王」金印を運んだ、大和の女王(卑弥呼)の都への記事が、混交してると考えています。
伊都国には「一大卒が置かれ諸国を検察した」、と記されているのは1世紀の@の記録です。
3世紀のAの卑弥呼の時代には一大卒は存在していません。
伊都国は、奴国、不彌国と違って、唯一 代々王が居たクニと記されています。
【伊都国に到る。..世々王有り。皆、女王国に統属す。郡使の往来、常に駐まる所なり。】
これを「後漢使節の行程録」とすると、代々の王の墓は、
@三雲南小路遺跡、A須久岡本遺跡、B井原鑓溝遺跡で、Bが最後の伊都国王墓で、このAD57年前後の時代に合致します。
そして、銅鏡40枚が出土した平原遺跡1号墓は、ずっと後世のAD200年前後と判明しており、
この頃は伊都国王の墓は既に終焉しており、伊都国女王墓の可能性は無いです。
平原の女性墓は、卑弥呼が派遣した有力な祭祀者の墓と推測します。
当時、卑弥呼は祭祀者を各国に派遣しており、上総にも有力な祭祀者が来ており、その墓が纒向型前方後円墳 神門5号墳(3世紀前半)です。
(追記コメント1)
平原遺跡1号墓について、発掘者の原田大六氏は、被葬者は玉依姫で神格化された名前は大日霎貴(おおひるめのむち=天照大神)、と結論づけ、
2世紀半ば迄に造られた、と考えていました。現在は3世紀前後(AD200年前後)と想定されてます。
AD240年に魏の使者が卑弥呼に会いに来た時、東国にあった古墳を以前投稿し紹介してます。
神門古墳域からは、卑弥呼が上総に派遣した祭祀者が、アマテラスを祀っていた神殿跡が出て来ており、AD217年頃と推定しています。
平原遺跡1号墓の女性は、それより少し早い時期に、卑弥呼が派遣した祭祀者ではないでしょうか?
https://www.facebook.com/groups/kodaishi/posts/3666914073453316/
(追記コメント2)
卑弥呼の時代の3世紀に、福岡平野全体を支配していたのは、 3C中葉に築かれた前方後円墳・那珂八幡古墳(75m)の被葬者です。 卑弥呼の箸墓古墳の築造直後に築かれ、九州最古の前方後円墳です。 大和朝廷のシンボル・三角縁神獣鏡が出土しています。 首長はヤマト朝廷と同盟関係にあり、卑弥呼と同世代と考えられます。 興味深いのは、この前方後円墳の形状が箸墓古墳の形状コピーとは程遠く、 箸墓の形状の話を聞いて設計した、と思われるオリジナルなことです。 卑弥呼が平原に祭祀者を派遣したことが、両者の関係から納得できます。 |
(追記コメント3)
伊都国に関しては、纒向学研究センター長の寺沢薫氏が新説を唱えています。(於:2022年研究センター10周年記念 東京ファーラム「卑弥呼共立」)
@初代の倭国王は伊都国王と。
107年、後漢に朝貢した倭国王 帥升(後漢書東夷伝)は、実は伊都国王で、井原鑓溝遺跡がその墓との説です。
初代の倭国王はイト国王で、国を「イト倭国」と命名してます。
Aその後、倭国乱があり、卑弥呼が共立され、倭国は東遷し、大和の纒向に都した。という説です。
倭国乱は、北九州の内乱を意味しなく、後漢の衰微の影響で、北九州の部族国家が政治・経済が混乱していた状態だと説明しています。
魏志倭人伝の【倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王と為す。】は、魏使が直接に倭国の高官から聞いた「倭国の歴史」です。
寺沢氏は、「何故卑弥呼が共立されたか」という要の個所で、【相攻伐すること歴年】は「無かった」と、勝手に真逆の解釈をしています。
争いを終結させる和平の為に、双方から卑弥呼が共立された、という事実は 都合が悪いようです。
Bそして、大和纒向の「新生 倭国」の初代王が女王卑弥呼と。
伊都国は、AD57年には日向の「女王国に統属」して勢力を失っており、107年には既に没落しており、倭国のイト国王帥升 説は無理です。
AD83年に神武天皇が倭国に大和朝廷を開き代々続いてる、は、魏志に記された倭国史と日本書紀が一致してるところです。
寺沢氏は、卑弥呼が北部九州から東進して大和・纒向に首都を開き、魏に朝貢した、と語ってますが、神武天皇の東遷伝承は豊かですが、
卑弥呼の東進伝承は聞いたことが無いです。彼は伝承や日本書紀を信じていないので、勝手な憶測で述べています。
寺沢氏は、中国皇帝の目線で、朝貢してきた、最初の倭国の朝貢者・帥升と、次の朝貢者・卑弥呼を、初代、2代の倭国王と断じています。
リスクを避けた「寄らば大樹の陰」史観で、日本書紀は無視され、神武天皇は架空の存在とされています。残念なことです。
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投稿4 プロ野球キャンプ地と「女王国」 (2024年2月1日)
今日2月1日は、プロ野球キャンプインの日です。
始めて魏志倭人伝を読んだ時、その地は、最も温暖として選ばれた「プロ野球キャンプ地」が該当するな、と直感しました。
(1)【倭地温暖冬夏食生菜】ー土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている、と記されていたからです。
昔 農業の仕事をしていた時、高知県農水部の課長さんに、野菜の漬物について尋ねたことあります。
そしたら、「高知は冬でも野菜が食べられるので、漬物にする必要が無いんです。野菜を漬物にして保存する習慣はありません。」と云われ、
強く印象に残りました。北九州には日本三大漬け菜の一つ「高菜漬け」があります。
〜〜〜
2024年のプロ野球キャンプ地は、高知県、宮崎県、沖縄県です。
@高知県は、高知市で西武(B班)
A宮崎県は、 ・日向市は楽天 ・西都市はヤクルト ・宮崎市がジャイアンツ、オリックス、ソフトバンク ・日南市は西武(A班)、広島カープ。 (日南線油津駅は「カープ油津駅」の愛称で駅舎はカープ仕様です。) |
||
B沖縄県は、9市町村の各球場に9球団がキャンプを張ります。
〜〜〜
魏志に記された「冬夏も生野菜を食べれる」温暖な地は、この高知、宮崎、沖縄のどれかでしょう。
更に絞り込む記述はないのでしょうか?
(2)【其の俗、国の大人は皆四、五婦、下戸も或いは二、三婦。婦人淫れず。妬忌せず】
貴人は皆4,5人の妻をもち、身分の低い人も時には2,3人の妻を持つ。婦人は淫らでなく、嫉妬しない。
@高知県がまず除かれます。課長さんは、特産「土佐はちきん地鶏」の説明で「はちきん」の由来を語ってくれました。
男勝りの女性の意で、高知女性は一夫多妻どころか一妻多夫な性格であり、「其の(一夫多妻の)俗」には抵抗し、無理だろうと。
A沖縄県も除外です。高知県と並んで離婚率が最も高いからです。沖縄の女性は男性に頼らない傾向が強く、やはり「其の俗」から外れます。
これは那覇に2年住んでいての実感です。
B宮崎県が残ってしまいました。
⇒魏志倭人伝の【其の風俗】のくだりから導き出された地は、(北九州、畿内ではなく)宮崎(日向)です。
此処が「女王国」に最も該当する地となりました。(^^♪
〜〜〜
魏志倭人伝は、様々な方位・距離の解釈により、様々な邪馬台国の場所が唱えられてます。解釈は重要ですが、検証が必要です。
目的地が、【其の風俗】に合ってるかが大事で、それが説得力となります。身体で例えると、頭の解釈より腹の方が正直と思っています。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
(追記コメント)
南九州の海岸線が出てきたので、
神武天皇の東遷コース(九州部分)を記します。
古事記 | 日本書紀 |
@高千穂宮で東遷の相談をする A日向を出発し、筑紫に向かう。 B宇佐で、宇佐都比古、宇佐都比売が足一騰宮を造り食事を捧げた。 C筑紫の岡田宮で1年過ごす。 |
@東征会議を開き『東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中に 天の 磐舟に乗って降臨した饒速日という者がいる。そこに行って都をつくろう。』と会議決定。 A天皇は自ら諸皇子と舟軍を率いて、東征に向われた。 B速吸之門(豊予海峡)で、珍彦(→椎根津彦)を水先案内として難所を通過した。 C宇佐に着いた。宇佐津彦と宇佐津姫が足一騰(あしひとつあがり)の宮を造っておもてなし。 D筑紫国の岡水門に着かれた。 |
「古代史の復元」では、
76頃 (饒速日尊の)大和に婿入りが決定し、高千穂宮(鹿児島神宮)にて東遷準備会議を開く
78後半 鹿児島県波見港を出航(3月)
78後半 美々津港を出航(8月)
78後半 宇佐に滞在
78後半 岡田宮到着(11月着・一年滞在)
「古代史の復元」が神社伝承などを基に推理した行程 波見港出航→ 夏井→ 串間(王の山参拝)→ 油津港→ 皇宮屋(都城近辺滞在)→ 下富田神社(佐野原・西都)→ 鵜戸神社→ 甘漬神社→ 都農神社→ 美々津(船の修繕・航海技術訓練)→ 鉾島(米山・大御神社訪問)→ 櫛津 → 五ヶ瀬川河口→ 細野浦→ 米水津→ 大入島→ 保戸島→津久見(水晶山登山)→ 佐賀関漁港(珍彦→椎根津彦と出会う)→ 速吸の関通過→ 佐賀関港→ 柁鼻神社→宇佐 (菟狭津彦、菟狭津姫が一柱騰宮で歓待)→ 安心院(三女神神社・妻垣で祭祀)→ 中津(国玉神社で祭祀)→ 簑島(天照大神を祭祀、狭野命はここから今川を遡り、 船団は関門海峡を越える)→ 関門海峡通過→ 岡田宮到着 宮崎市公式チャンネル 動画 「神武東遷」 |
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投稿5 魏志倭人伝の、長里、短里について(雑想) (2023年12月18日)
生活で馴染み深い「1里」は、街道にある「一里塚」の 1里=4キロです。
奥の細道(奥州街道)では、寺子の一里塚 〜 夫婦石の一里塚(43番目) 〜芦野宿 〜 泉田の一里塚(45番目) を巡った事があります。
次の一里塚までの距離感や、里数だけで所要時間なども推測できる、素晴らしい距離表示と思います。
魏志倭人伝の1里は 400m程(405〜435m)、と知って驚きました。
江戸の1里 4キロの 十分の一 とは?
中国は広大だから 1里は江戸の1里と同じか もっと長いのでは? と思ってました。それがたったの400mとは。
更に仰天したのは、短里という考えでした。それは更に細かな、1里=70m台(76〜77m)とのことでした。
この1里の距離70m台は、身近な距離測で云うと、道路に並ぶ電柱2本間の倍(=電柱3本間)の距離です。
(電柱同士の間隔はおおよそ30〜50mで、九州電力は 40〜50mです。)
短里は、「町内の道案内」には使える単位のように思われます。
”駅前から真っ直ぐ1里進んで、そこの信号を左に曲がって2里進むと公園です”、とか(笑)
なにしろ電柱何本目といった身近な単位ですから、旅行などには到底不向きです。この一里は、一里塚と違って、距離感覚が全く掴かめません。
これが魏の時代には使われていた、説は到底信じられません。もしそうなら、不便なので「里」の上位単位が必要でしょう。
たとえば1000里の単位で「巨」とかいう単位が必要でしょう。2巨400里とか。
短里の1里=76m の場合、江戸の1里 4キロ=短里 52.6里。 魏志の短里100里は、江戸の1.9里= 約2里です。
魏志倭人伝の、伊都国から東南に100里は、東南に約2里で「奴国」と。奴国から東に100里は、東に約2里で「不彌国」となります。
江戸感覚の2里〜2里 離れた「奴国」「不彌国」に長官・防衛長官(卑奴母離)が居かれている、は街道を旅した経験者には考えられません。
短里の世界は、(頭の中だけの)常識外の箱庭的世界で、あり得ないものです。
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倭人伝の短里説を本で読みましたが、魏の時代の書物に 短里表現と思われるのがあるか、探し回ってました。
この短里説は、それまでの長里を、魏の時代に魏だけが変更して 短里とし、周辺の蜀、呉は
昔からの長里を使っていた、との説明でした。
度量衡のようなインフラの基礎単位を、400m→70mに変更しよう、などは 朝廷内の百官の議論で軽々しく決定されるものとは思えません。
この時期は、天下泰平どころか、呉の孫権と蜀の諸葛亮(234年五丈原の戦)との戦いに明け暮れし、238年には遼東で公孫淵を滅ぼすなど、
戦乱の世です。民生の根本の度量衡の変更は社会に混乱を生じさせます。それがこの時期に決定されたのか、はなはだ疑問です。(→追記)
この短里は、村内、町内の道案内用で、何泊もする旅行の単位には全く不向きなのは言わずもがなです。
使節が記した各クニへの距離を、不向きな短里で説明しようとするのは、そうしないと自説への説明がつかない、が本音でしょう。
自説に強引にもっていく為に、尺度を勝手に変えるのはルール違反と思います。
私は普通の長里で説明が出来ました。尤も、私は、魏志の行程は、「後漢使の記録」と考えてるので、必然的に長里ですが(笑)
くどいようですが 短里説は、書物の中、頭の中の距離感覚で、生活実感からすると不自然で、奇妙で、あり得ない説と考えています。
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(追記) 2024年2月25日
民生の根本の度量衡を変更することは、国内の混乱を招く基であり、そのような事を魏の朝廷では決定したのか、疑問でした。
そこで、「魏の朝廷では短里を採用したのか?」を調べましたが、その事実はありませんでした。
しかし、奇妙な読み替えがありました。
景初元年(237年)魏は暦を太和暦から景初暦に変えましたが、その時に度量も変更された可能性がある、という考えです。
度量(長里から短里へ)の変更は記されていません。度量の変更は、暦と違って根本的な変更なので あれば当然記されるでしょう。
(暦の変更は、時間経過で変化した太陽の運行へ適合させる為の、修正です。400m→70mへの切替とは本質的に異なります)
その数年後の240年に来日した魏使の記録は、「公文書」で長里です。
魏志倭人伝の「行程」を記した陳寿(297年没)は、その度量の変更があれば当然『三国志』に記録したでしょう。
しかし、「度量が変更された可能性がある→ 魏では短里に変更された。」というマヤカシ説はありました。
https://iush.jp/uploads/files/20201126153420.pdf P4
ローカル・ルールで書かれた記録は、探せば見つかるかもしれません、
しかし、魏志倭人伝は朝廷の正史であり、正しく長里が採用されています。
末盧国〜伊都国〜奴国〜不彌国の、陸上歩行の500里、100里で、1里=405〜435mを使わない考察はトンデモ説です。
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投稿6 魏志倭人伝「陸行一月」の新解釈について (2024年7月6日)
私は、「陸行一月」は「滞在一月」と、新解釈してます。
この解釈により、魏使一行は、帯方郡〜伊都国〜投馬国〜難波津まで、全て船団で海上移動し、陸上を歩行しての移動は無かった、と考えます。
航路は、饒速日命の大和入り、神武天皇の東遷の前例に習い、瀬戸内海航路で難波津まで、です。
Aの魏使の復命書の行程は、大筋 下記と推測します。 郡より水行し、韓国、狗邪韓国から大海を渡る。 対馬国、一大国を経て、伊都国に到る。水行〇〇日。 郡の倭国に使いする者 皆上陸する処。 其の先へは、東して投馬国に至る。水行二十日。 東して邪馬台国に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。 倭の女王に拝仮し詔を齎す。 |
「水行十日」の後の「陸行一月」は、難波津に到着してから邪馬台国に入るまで、港で出発を「待機していた期間」です。
部下たちは準備で纒向に赴いていたのですが、詔勅を携えた冊封使は、準備が出来るまで難波津で待機していました。
そして、当日朝、皇帝の使者は、倭国が用意した船で(遡行準備が整った)大和川を遡り、纒向に到着・下船し、輿に乗って卑弥呼の宮殿に向いました。
「一月」は切りの良い中国表記で、実際は2〜3週間程度の準備待機だったのかもしれません。
ロジステック的には、乗り物を乗り換えての移動は 避けるべきです。 上陸したら陸行で目的地まで。 水行なら帯方郡の港から目的地の港まで、 と「一貫輸送」が理想なのです。 上陸して陸行で、更に乗換えて水行で、また乗換えて陸行で、 などは、大人数の使節一行では避けるべき移送方法であり、 現実には採用されなかったでしょう。 |
【魏志倭人伝に出てくる 水行、陸行】は下記の通りです。
末廬国に至る。
@東南に陸行 五百里で、伊都国に到る。
A東南で奴国に至る百里。
B東に行き不彌国に至る百里。
C南して投馬国に至る。水行二十日。
D南して邪馬臺国に至る。水行十日、陸行一月。
↓↓
上記から導かれる、陳寿の水行、陸行の表記規則は、
書式:@ 方位 「陸行」 里数
A 方位 「水行」 日数 です。
(出発する際の「方向」を記して、陸行・水行の区別を記し、各々のパラメータを付加する。)
古書を調べた結果、陸行には〇〇〇里との距離が付随し、〇〇日のような日数の付記は(他には)無いことが判明しました。
これは、(水行と異なり)歩測した距離を記する為で、陸行一月はその距離が記されていないため、「移動していない」と読み取れます。
陸行一月は、其の場所に一月留まって、(目的地に)向かった、と解釈します。
※魏使の復命(航海)記録は
@帯方郡を出発した日
A倭国の玄関・伊都国に着港した日
B目的地・難波津に到着した日
C卑弥呼の宮殿で冊封礼を行った日 が根幹です。
B〜Cの間が「陸行一月」の実日数です。
上のFB記事への追記 (2024年7月11日)
邪馬台国への最終行程の「陸行一月」の解釈は難解です。これまでの解釈情報を纏めます。
@「陸行一月」は、旧陸軍の行軍速度(24km/日)を使うと720km/月になります。(鉄道距離の東京駅ー岡山駅が733キロ)
寺田紀之氏からは、街道が整備されていなかった頃の隋書の記述を参考にすると、200km強/月が妥当な距離、とのことです。
この「一月」の移動距離は、最大200km強(東京駅ー清水駅が191キロ)という 邪馬壹国までの最終行程では ありえない距離が出てきます。
Aそのために「一月」を「蝸牛の歩み」で進んだとの解釈があります。
奥田孝之氏は、立ち寄り先で、宴会、接待を受けていたので実質的に4日に1日位しか行軍しなかったのでは、との解釈でした。
これだと、「一月」に移動したのは実質8日程度で、1日10km〜15kmの移動だとすると、80km〜120kmです。
(これも江戸時代の 3里〜5里/日となり、短いと感じますが)
Bそれでも移動距離が長すぎるので、「陸行一月」は最終行程では無い、という極端な説もあります。
「水行十日 陸行一月」は、投馬国から邪馬壹国 では無く、出発地点の帯方郡から邪馬壹国までの全日程、というのです。
古田武彦氏は、「水行十日 陸行一月」は、全行程1万2千余里を日数で表したものであり、不弥国〜邪馬壹国の区間(投馬国は省く)ではないと。
そして陸行1ヶ月の大部分は韓国内部で行なわれている。という説でした。(説明内容がムズカシく 私には理解できませんでした。)
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私は、「陸行一月」は「ミステリー・ツアー」であり、お手上げでした。
しかし、魏志倭人伝を読んでいて、陳寿の性格がわかりました。彼は読み手が理解できるように親切に説明しています。
何処かにヒントがあるはず、と考えました。
「陸行一月」の「一月」を「距離換算」するから、ありえない距離が出てくるのです。
陳寿が期待したのは、そのままの「一月」で、「一月」経過した、と。移動は関係ない、とヒラメきました。
陳寿の水行、陸行の表記規則は、@方位 「陸行」 里数 A方位 「水行」 日数 です。
陸行には里数が付くべきでなのです。里数が付かないのは、移動していない、ということです。
この新解釈でシンプルに 「水行十日 陸行一月」が理解出来ました。
陳寿はムズカシイことは何一つ書いてないのです。我々がムズカシク考えすぎていただけなのです。
【 感 想 】 2024年7月15日 「陸行一月」は邪馬台国論争の 当初から難問で、東京大学の白鳥庫吉は、『ここにある陸行 ”一月” は あまりに長く、 かかりすぎるるので、” 一日 ”の誤記であろう。』と、月→日 の誤記説を唱えました。さほどの難問です。 初心者の私は、記録された行程は、倭人からの伝聞の記録では無く、使節が実際に経験した行程記録である、との前提で、 短里でなく長里で行程を測り、放射説でなく真っ直ぐ連続に行程を辿り、水行十日 又は 陸行一月でなく、 水行十日 後に陸行一月で、と倭人伝を読み、陳寿の意を素直に解き明かそうとしてきました。 私の「陸行一月」説は画期的な新説であり、これで100年以上続いた「陸行一月」問題は終結したと宣言します。 |
特殊器台が出土するのは、箸墓以降の短い期間(3C後半)なので、年代測定の有効な指標となります。 特殊器台→特殊器台型埴輪→円筒埴輪 と時代変化します。 1.特殊器台の出土墳墓 ・吉備では、(宮山型)特殊器台は、総社市宮山墳丘墓の1例。 (注1) ・大和では、 箸墓古墳(280m) 西殿塚古墳(219m) 中山大塚古墳(120m) 葛本弁天塚古墳(60m)の4例。 ※中山大塚古墳の特殊器台が吉備で制作され最古、とあり、箸墓に次ぐ古さと推定。 (「早期古墳と葬儀用器台」石野博信 ) |
2.該当人物
魏志倭人伝には、邪馬台国(大和纒向)の高官4名が記されています。
【南して邪馬臺国に至る。女王の都する所なり。..官に伊支馬有り。次に彌馬升と曰い、次を彌馬獲支と曰い、次を奴佳是と曰う。】
高官名を推定します。主要な皇族で筆頭は崇神天皇です。 (「古代史の復元」より)
@ | 伊支馬(イキメ) | 崇神天皇(ミマキイリヒコ イニエ) |
A | 彌馬升(ミマシ) | 彦坐王(イマス) 9代開化天皇の第三皇子。丹波派遣伝承が古事記に。 |
B | 彌馬獲支(ミマカキ) | 御間城姫(ミマキ) 崇神天皇の皇后 |
C | 奴佳是(ヌカテ) | 武渟川別(ヌナカワ) 8代孝元天皇皇子の大彦命の子で、四道将軍の1人として東海に派遣された。。 |
〇以上から、卑弥呼に引続き、崇神天皇、彦坐王、御間城姫、武渟川別 の4名の高官のご陵にも「吉備の特殊器台」が備わっている可能性が大きい。
〇倭人伝に登場し、銀印を受けた使節大使・難升米は中臣氏の梨迹臣と思われるが、世代が若いので除外される。
〇台与もまた世代が下がる(300年頃没)ので除外される。
閣僚プロフィール。 高官:@伊支馬、A彌馬升、B彌馬獲支、C奴佳是の順。
女王 | 卑弥呼 | 7代孝霊天皇の娘の倭迹迹日百襲姫 |
官@ | 崇神天皇 | 9代開化天皇の第1皇子 |
官A | 彦坐王 | 9代開化天皇の第3皇子 (崇神天皇の異母弟) 丹波派遣伝承が古事記に。 |
官B | 御間城姫 | 10代崇神天皇の皇后 11代垂仁天皇の母 大彦命(※1)の子 |
官C | 武渟川別 | 大彦命(※1)の子 四道将軍の1人で東海に派遣。 |
※1 大彦命
崇神天皇の伯父。第8代孝元天皇の第1皇子。9代開化天皇の兄。武埴安彦の異母兄。武渟川別と御間城姫の父。
崇神天皇の相談役的存在で、卑弥呼からの信任が厚いと考えられる。
大彦命は四道将軍の1人で北陸に出発したが、武埴安彦の乱を察知して戻り、将軍として武埴安彦を討った。
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239年 【景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし、郡に詣らしめ、天子に詣りて朝献せんことを求む。】
240年 【正始元年、大守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詔書、印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔を齎し、
金、帛、錦、ケイ、刀、鏡、采物を賜う。】
↓
梯儁は、倭の首都で女王卑弥呼に対面し、詔勅を読み上げて冊封礼(※1)を終えている。
冊封の場には倭国の高官たちも皆同席していた。
魏使は、彼らから「倭の歴史」を直接聞き取って復命書に残し、陳寿はそれを魏志倭人伝に記録した。
新嘗の儀式の後に豊楽の宴があるように、冊封礼の後に冊封宴があり、魏使はその場で倭の歴史を聞いたのかもしれない。
筆頭高官である崇神天皇から直接聞いた可能性もある。
従って、魏志に記された「倭の歴史」は真正の歴史であり、神武天皇からの歴史に間違いはない。
大和朝廷は崇神天皇から始まる、というのは全くの妄説である。
※1 FBに私が投稿した冊封使の参考資料です。→ 雑記帳:中国からの冊封使節団とは、へ飛ぶ
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3.「高官とそのご陵」の推定
初期の200mを超える巨大古墳に、特殊器台出土古墳を加えた「古い順」です。 (2024年4月3日改定、4月22日:B西殿塚とC中山大塚を逆転)
古い順 | 古墳名 | 墳長(順位) | 築造時期 | 被葬者 |
1位 | 箸墓古墳 (特殊器台)(参考1)五段築成 | A278m | 3C中頃 | 百襲媛命 |
2位 | 葛本弁天塚古墳(特殊器台) | H60m | 3C後半 | ? → 豊城入彦命(分霊墓) |
3位 | 中山大塚古墳(特殊器台) 三段築成 | G130m | 3C後半 | ? → B御間城姫 |
4位 | 西殿塚古墳(特殊器台) 四段築成 | B234m | 3C後半 | 手白香皇女 → @崇神天皇 |
5位 | 黒塚古墳 三段築成 (参考2) | G130m | 3C後半 | ? → 大彦命:三角縁神獣鏡33面出土 |
6位 | 椿井大塚山古墳 (参考2) | F175m | 3C末 | ? → A彦坐王 :三角縁神獣鏡32面出土 |
7位 | 桜井茶臼山古墳 四段築成 | E207m | 3C末 | ? → C武渟川別 :銅鏡103枚以上出土 |
8位 | メスリ山古墳 四段築成 | D224m | 4C初頭 | ? → 垂仁天皇 :副石室は212本の鉄矛などの武器庫 |
9位 | 行燈山古墳 四段築成 | C230m | 4C前半 | 祟神天皇 →台与 (注1) |
10位 | 渋谷向山古墳 四段築成 | @300m | 4C中頃 | 景行天皇 |
・葛本弁天塚古墳は、崇神天皇の生前に亡くなった第1皇子・豊城入彦の(形見の)墓と考える。
豊城入彦は、11代垂仁天皇の兄、豊鍬入姫命の同母兄で、朝廷の中枢にいた。四道将軍の後に東国に派遣され、10年程現地を治めて病没した。
崇神天皇はその死を悲しまれ、遺体を都へ運ばせたが、上野の人民が、恩人である命の遺体を碓氷峠で奪って葬った、との伝承がある。(郷見神社伝承)
サイズが皇族にしては小さいのは、命の形見、分霊・分祀のご陵ということで小さいのであろう。
・崇神天皇墓は、巨大古墳で特殊器台が出土する要件を満たす必要があり、行燈山古墳ではなく西殿塚古墳と推定する。
・中山大塚古墳は、特殊器台が箸墓と同様の古さで、サイズが小さいので崇神天皇の皇后の御間城姫の墓と推定する。
・黒塚古墳は、長老で、纒向の大王ご陵地への埋葬が認められた 大彦命の墓と推定する。三角縁神獣鏡33面が出土。四道将軍の一人。
・彦坐王墓は、山城の椿井大塚山古墳と推定する。三角縁神獣鏡が32面出土。四道将軍の一人。
・武渟川別墓は、大王ご陵地・纒向から比較的離れた桜井の地の桜井茶臼山古墳と推定する。銅鏡103枚が出土。四道将軍の一人。
・台与の墓は、(祟神天皇陵治定の)行燈山古墳と推定。箸墓・纒向宮殿と同じく、饒速日命陵がある穴師山を向いており、卑弥呼→台与の連続性を示す。
(注1) 2024.4.4 BSスペシャル「デジタル・アイ」の測量結果、B西殿塚古墳(234m)>C行燈山古墳(242m→230m)に変更
A葛本弁天塚古墳 E椿井大塚山古墳 F桜井茶臼山古墳 Gメスリ山古墳 を除く 佐紀古墳群航空レーザ測量プロジェクト 柴原聡一郎氏撮影 |
四道将軍は、皇族の将軍で、大彦命(北陸派遣)、武渟川別(東海派遣)、吉備津彦(西道派遣)、丹波道主命(丹波派遣)の4名。
丹波派遣は、古事記に記された(丹波道主命の父の)彦坐王が年代的に妥当とする。
※四道将軍は、朝廷から大量の鏡を預かり派遣された。地方豪族に大和朝廷の支配下を約束させ、鏡を渡した。
大量の銅鏡が出土した古墳は、四道将軍の墓の可能性が高い。
私は、卑弥呼は倭迹迹日百襲姫で、そのご陵は前方後円墳「箸墓古墳」と考えてます。
【卑弥呼、以に死し、大いに冢を作る。径は百余歩、徇葬する者、奴婢百余人なり。】
これは、葬儀に招待された魏使が、前方部の招待席から 見たままの光景を記したものです。
彼が見たのは、目の前の径150mの巨大な円墳であり、その頂上で男女の神官100余名が葬儀を営む姿でした。
(1)「塚」とは、前方後円墳の「後円部」。 径百余歩は、(100歩+α)x1.45m=145m+αで、箸墓の後円部径150mに合います。 (1歩=ほぼ145cm:長里説 Wikipedia 箸墓古墳) (2)「徇葬する者、奴婢百余人なり。」とは、 @「殉葬」ではなく「徇葬」で、葬儀を尽くした者(奴婢)が100余人、ということ。 100余人の神官が、墳丘の最上部で棺を囲んで葬送儀礼を行った、ということ。 A「奴婢」と記されているのは「神官」のこと。 中国は(殷の神を殺し、代りに「天」を発明した国で)、神に仕える神官がおらず、 埋葬するのは奴隷の仕事だったので、使節はそのように表現した。 B「殉葬」は、大陸の風習。列島は、縄文時代から穢れを祓って心身を清々しくする、 が風習で、葬式で、奴婢を殉死させて殉葬することは、死や穢れを嫌う倭人は忌避する。 前方後円墳の祭祀に殉葬者が必要ならば、人々はそんなものは歓迎せず、 前方後円墳は全国に広まらなかった。 と 容易に推察できる。 「徇葬」と書かれているのを「殉葬」と読み替える人達がいる。理解できない。 左図では 10余人が祭祀を行っているが、箸墓の場合は100人近い神官が棺を取り囲んでいた。 墳丘上に100余名の祭祀スペースがあるかの検討は、昔行ったことがある。 → http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/nenpyou/kofun_keitai_enkyuu.htm |
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知識ゼロからの古墳入門 広瀬和雄 幻冬舎 2015/1/20 P53 |
前方後円墳の広がりは、大和から順次 地方に波及していったのと異なり、全国で一斉に始まりました。 箸墓が3C中頃に造営されると、3C末には もう福島県会津坂下に杵ガ森古墳が、4C初頭には栃木県那珂川町の駒形大塚古墳が築造されてます。 九州では、箸墓古墳の造営直後の3C中葉には福岡・那珂八幡古墳(75m)が築かれ、 3C後半の福岡・石塚山古墳(120m)、3C末の宇佐の赤塚古墳(57m)など、枚挙にいとまがありません。 これは、箸墓古墳出現の衝撃的な影響力の波及でしょう。 『各地から集まり箸墓を造営してきた人々、噂を聞いて遠方から集まった人々が、箸墓の周囲を取り囲み、卑弥呼の葬儀の様を 天高く仰ぎ見た。 大王や、各地の王たちは、前方部に設営された場所で参列した。魏からの使節一行も招待されていた。 倭国始って以来の、前代未聞の巨大な構築物の高い頂で、100余人の神官が卑弥呼の葬儀を行った。 この葬儀の様は、またたく間に全国各地に、全住民の間に知れ渡った。 このことが、前方後円墳の築造が全国各地で受け入れられる 原動力となった。』 魏志倭人伝は、文章の流れからすると、【卑弥呼、以に死し】だけで十分なのに、 わざわざ葬儀の様まで【大いに冢を作る。径は百余歩、徇葬する者、奴婢百余人なり。】と記しています。 これは、葬儀に招待された魏使が、前方部の招待席から 見たままの光景を記したものですが、よほど印象が強かったからでしょう。 決して小さな弥生墳丘墓ではなく、画期的な大規模な墓と葬儀だった様が この記述から窺えます。 (2024年4月10日) |
83年 日向を出た狭野命が 大和に入り 神武天皇として即位
178年〜184年 倭国の大乱
185年(中平2年) 卑弥呼即位で大乱収束
186年 第8代 孝元天皇即位
214年 第9代 開化天皇即位
217年頃 卑弥呼 纏向に祭祀都市を建設
239年(景初2年) 卑弥呼 難升米を遣わし朝貢を求める。
240年(正始元年) 魏の使者(帯方太守派遣の)梯儁が来日し、倭王・卑弥呼に拝し、冊封礼を行う。
243年(正始4年) 卑弥呼は、伊声耆、掖邪狗等8人を魏に遣わし、生口、倭錦などを献上する。
244年 第10代 崇神天皇即位
245年(正始6年) 魏の皇帝は帯方郡にて難升米に黄憧を賜う。
247年(正始8年) 卑弥呼、魏に狗奴国との交戦を告げる。 魏の使者(帯方郡の武官)張政が来日。
249年 卑弥呼死去
四道将軍派遣 武埴安彦の乱
266年(泰始二年) 台与(イヨ) 張政を帯方郡に戻し、晋に朝貢。 (台与は300年頃没)
268年 豊城入彦が東国に派遣
278年 第11代 垂仁天皇即位
(注1)
宮山墳丘墓(吉備の三輪山)
宮山型特殊器台が出土した、総社市の宮山墳丘墓(3C前半頃築造と推定)は興味深いです。
その地は現在も三輪と呼ばれ、墳丘墓がある独立丘陵の名前は三輪山です。
卑弥呼が(倭の大乱の収束のため)大和と出雲に「共立」される儀式は、大和の百襲姫が出雲の大物主の妻となる儀式なので、大物主の象徴の三輪山が必要です。
儀式は出雲の隣の伯耆の三輪山の地で行われ、淀江の三輪神社が今も残っています。儀式は、その他、大和の三輪山の麓と、吉備で行われたと推測されています。
総社の三輪が儀式が行われた地で、三輪山にある宮山墳丘墓は、その後に卑弥呼が派遣した神官の墓と想像すると楽しいです。
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「魏志倭人伝の謎を解く」を終え、今月初め (2024.3.4) に 奈良へ(富雄丸山古墳)、纒向遺跡、箸墓古墳を見学してきました。
訪れた両遺跡の印象をまとめました。
纒向遺跡は卑弥呼の宮殿施設 そして 箸墓古墳は卑弥呼の墓
1.卑弥呼はAD240年に、魏の皇帝から「親魏倭王」の金印を与えられた倭国最高位の存在であり、その宮殿・ご陵は当時随一の大きさと考えてよい。
(私は、卑弥呼は倭迹迹日百襲姫と考えてます。)
2.纒向遺跡は、卑弥呼の宮殿施設であることが確定した。
・纒向遺跡は、同じ纒向にある 垂仁天皇・纒向珠城宮や 景行天皇・纒向日代宮より 更に平野部にある広大な遺跡です。
(崇神天皇の磯城瑞籬宮は、三輪山南西麓・金屋と、纒向遺跡よりかなり離れています。)
・纒向遺跡の杭列は、AD230年代前半の結果(酸素同位体比 年輪年代法)が出て、卑弥呼の時代にピッタシ合致します。
・纒向遺跡(AD233年頃)には、宮殿の他に「神殿」が付随しており、天皇宮ではなく、祭祀者の宮殿(卑弥呼または台与)です。
この時代、AD200年前後、女性祭祀者の墓・福岡平原遺跡1号墓は、神殿は無く、埋葬墓をカバーする掘立柱建物(モガリノミヤ)です。
この時代、AD217年頃、上総・神門5号墳(纒向型前方後円墳)は、神域からアマテラスを祀っていた神殿跡(掘立柱建物)が出てます。
この時代(3C前半頃推定)、吉備・三輪山の宮山墳丘墓(特殊器台出土)は、卑弥呼共立の儀式の地の一つで、神官の墓と想像されます。
・卑弥呼の神殿は、(一陽来復の)冬至の日に、三輪山山頂から、朝日が昇るのが見える地点でなければなりません。そこが新年の祭祀の場所です。
下図は、昔、巻向で建物群跡が見つかった、とのニュースで、チェックした際のもの です。(2011.10.5)
三輪山山頂から、 冬至(12/22)に太陽が昇るのは、 真北から東回りで118度です。 そのとき298度方向から 山頂からの日の出が望めます。 確かに日の出ラインは 纒向遺跡の上を通過してます。 |
纒向遺跡 と 三輪山。 |
真ん中の建物が神殿 | 建物の正面に見える峰は穴師山(注:2-1) |
正面に見えるのは箸墓古墳 |
崇神天皇陵、纒向遺跡、箸墓古墳は穴師山を指す | 箸墓の後円部から真正面には穴師山 | 崇神天皇陵の先のピークは穴師山 |
『オオクニヌシとスクナビコナは共同で国作りしたが、スクナビコナは亡くなった。 「私一人では国を作れない。誰か一緒に国造りしてくれる神はいないものか」と嘆いたら、海を照らしてやってくる神があった。 神は「私の為に宮を造って祀るのであれば、一緒に国造りしましょう」と言った。オオクニヌシが「どのように祀ればいいでしょうか」と尋ねると、 「倭の青垣の東の山の頂上にお宮を作って私を祀りなさい」と答えた。そこで御諸山(三輪山)の上にこの神を祀った。』 (古事記 上巻:オオクニヌシの系譜、スクナビコナの神) |
三輪山一帯は出雲神話に記されるような、素晴らしい土地で、饒速日命が降臨し、神武天皇が東遷し、卑弥呼が都する土地でした。
(2024年3月23日)
<参考> 「山の辺の道を歩く」 2024年3月4日
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これは私がFacebookのグループ「古代史研究会」に投稿した記事です。(2024年4月12日)
箸墓古墳は卑弥呼の墓か? 魏志倭人伝から読み解く
卑弥呼の墓は、それが記された魏志倭人伝を根本にして考察することが必要 ですが、勝手な憶測で語られることが多いです。
卑弥呼の葬儀の様は、【卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人】です。
この文章の前後も含めて、箸墓古墳が卑弥呼の墓かどうかを検討してみます。
(1)原文 【其八年(西暦247年)
@太守王到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯烏越等詣郡、説相攻撃状。
A遣塞曹掾史張政等、因齎詔書・黄幢、拜假難升米、爲檄告喩之。
B卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。
C更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王、國中遂定。..】
(2)其八年以下の概要。
@卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼は前から不和であり、互いに攻撃してる状況が、帯方郡から魏にもたらされた。
A魏は帯方郡の張政を倭に遣わして、詔書・黄憧を難升米に渡し、檄をつくって、告諭した。
B卑弥呼はすでに死んでいた。(次に葬儀の模様が記される。)
C改めて男王を立てたが、国中は不服で互いに殺しあい、千余人が殺された。そこで壱与を立てて王としたら国中はついに治まった。
(3)この一連の文章の趣旨は、魏が倭国の混乱状況を鎮めようと努力し、最後に壱与を立ててやっと収まった。という内容です。
(4)女王卑弥呼については、B「死んでいた」がキモで、「本来書かれるべき」だった文章は、【卑彌呼以死、更立男王、國中不服、..】です。(参考2)
・「大きい墓を造り100余人が葬儀を行った」、は一連の文章の中では「余分」で、「枝葉」であり、本来 書かなくても良い事柄です。
・では何故、倭人伝は、必要のない葬儀模様【大作冢、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人】を書き入れたのでしょう。
↓
それは(多分)、卑弥呼の墓と葬儀が、魏使が見たことも聞いたこともない巨大な墓(徑百餘歩)と、多数の人々による葬儀だったから、
強く印象に残り、記録するに値する、と判断したからでしょう。 (参考1)
朝鮮半島最大の古墳は、新羅・皇南大塚。 2基の円墳(南墳・北墳)を繋げた墳墓で 全長114m、高さ22.6m。 箸墓の200年後の458年〜479年頃築造。 |
従って、結論を述べると、其八年(247年)以降に、最初に築造された画期的な巨大な墳墓である箸墓
(後円部径約150m、高さ約30m)だけが、卑弥呼の墓であり&葬儀の舞台である。と倭人伝からは読み解けます。
くどいようですが、卑弥呼の墓が、弥生墳丘墓、小さな円墳・方墳といった「当時の標準的な建造物」であったら、
わざわざ 【大作冢、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人】と書かれることはなかったのです。
(参考1)
魏の曹操の曹操高陵は、長い墓道をもつ深い地下室が葬所でしたが、地上の姿は、一辺が20m未満の台形(東辺22m、西辺19.5m、東西の辺各18m)で、
墓の上には土の丘もないものです。文献には「因高為基、不封不樹」 高い土地を基礎として築き、封土を盛らず、樹木を植えず、と記されていました。
当時の魏では、太祖曹操をはじめとして、徹底した薄葬令が実施されていました。
朝鮮半島を見ると、3世紀後葉の帯方郡太守張撫夷の墓は、方台形の土墳で基底部の一辺が約30m、高さが約5.4mです。
従って、魏使が卑弥呼の葬儀で目にしたのは「驚くべき巨大墓」で、「記録に残すべき規模」と感じたのでしょう。
一方、魏の薄葬令の影響を受けて、卑弥呼の墓は小さいのではないか?、と語る人が居ます。「径30mX高5m程の円墳」では? と推測してますが、
それならば、珍しくもなんともなく、魏志にわざわざ【大作冢、徑百餘歩、・・】と、書き加えられる必要性は無かったでしょう。
倭国は魏の植民地ではありません。倭国独自の、地球上何処にも無い「オリジナルな墓制」前方後円墳 を採用しています。
「魏の曹操墓の発見とその後」宝賀寿男 http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/caocaobo/caocao1.htm
(参考2)
『梁書』巻五十四「東夷諸戎」倭伝 には次のように記されています。
【正始中、卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女壹與爲王。其後復立男王、並受中國爵命。】
正始中、卑弥は死し、更に男王を立つも、国中は服さず、更に相誅殺す。また、卑弥呼の宗女、臺與を立て王と為す。その後、また男王を立て、並びて中国の爵命を受く。
→魏志に記された葬儀模様は枝葉なので、ここではカットされています。
《追記》 箸墓には倭迹迹日百襲姫命の伝承があります。(日本書紀)
大物主神の妻となった百襲姫は、箸が陰部を突いた事故で死んで葬られます。
それで「箸墓」と呼ばれ、昼は多くの人がリレー式で石を運んで造り、夜は神が造った、と伝えられています。
この伝承を持ち出して、卑弥呼の時代には箸が無いので、箸墓は卑弥呼では無いという人がいます。
しかし、この箸は、大物主に配膳するための祭祀用「折箸」のことで、折箸は卑弥呼の時代よりずっと古くから使われてました。
箸墓は普通の墓と異なり、神と人とが共同で造り上げた神話伝承が残る特別な墓です。
それこそがもっとも卑弥呼(=倭迹迹日百襲姫命)の墓にふさわしいという「証」です。
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【 雑記帳 】
何故、日本書紀に邪馬台国と卑弥呼が出てこないのか。
これは私がFacebookのグループ「古代史研究会」に投稿した記事です。(2023年11月9日) ・
邪馬台国は何処か? の謎は人々を熱中させます。
しかし、それ以上の謎は、何故 そんな大事が日本書紀には書かれなかったか、でしょう。
外国の歴史書に書かれていて、日本の歴史書に書かれていないのは何故だろうか?
いつも思っていましたが、今年古代史研究会に入会してから様々な説を知り、整理してみました。
A.邪馬台国は 大和である。説の場合、(かつ、日本書紀の編者は、魏志倭人伝の内容を知っていた)
@私(宇田川東)の説
倭の大乱(出雲と大和の争い)の収束の「誓約」を、大和朝廷(後の景行天皇)が破った為、その事実を記録できず、
倭の大乱、卑弥呼の共立などを隠した。 その後の「天の真名井」と「卑弥呼」について(雑感)
A桜田和之氏説
日本書紀の編纂者は 、天皇の権威は万世一系の皇統であるべきと考えており、天皇以上の権威を有し、
親魏倭王の称号を受けた卑弥呼の存在を歴史から隠した。
B大野克浩氏説
記紀編纂者は、朝貢は屈辱外交と考え先例はマズイと考えた。
それを行った倭国王の帥升、親魏倭王の卑弥呼を日本書紀から隠した。
C日本書紀の編纂者は、卑弥呼は神功皇后の事と判断し、卑弥呼の呼称は用いなかった。
D卑弥呼の即位は、神武の即位以前のことと考え、卑弥呼の存在はアマテラス神話として記憶させた。
B.邪馬台国は大和以外の地である。説の場合
@入口紀男氏説
卑弥呼の邪馬台国は北九州・築紫の山門縣の女王国であり魏との外交などで成果を上げていた。
卑弥呼は八女津媛。大和朝廷の神功皇后に滅ぼされ、その業績は、~功皇后の業績として日本書紀に簒奪された。
A卑弥呼の邪馬台国は北九州にあり、東遷し、大和に入り大和朝廷を開いた。神武以前の為、日本書紀には記されなかった。
ー その他 略す。 ー
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中国からの冊封使節団 Facebookのグループ「古代史研究会」への 2023年12月29日 の投稿です。
中国から倭国へ使節団が来てますが、その実態は不明です。魏志倭人伝の時代とは異なりますが 参考になれば、と。
「琉球と中国 忘れられた冊封使」 原田禹雄 2003.5.1
〜〜〜
明と清で琉球へは23回冊封使が往還しました。冊封使は、復命書の他に 多くが使録を残しました。
復命書は拝覧が容易でないので、次の使節の為と、自分の功績を子孫や周囲に残す為にも使録を残したようです。
1.詔勅奉持 皇帝から正副使者が、冊封の詔勅を戴く。
(皇帝印を押す)「皇帝の使者 おんみ〇と〇は、詔勅を報じて琉球を冊封する。うやうやしく朕の命令を承るがよい」
2.出発に向けて 冊封使は工部へ行き、(節..前行牌)等を受領。 前行牌を兵部へ持っていくと、冊封使の通る道を、あらかじめ琉球国まで駅伝される。
これによって、沿道の駅駅、福建の官庁、琉球国は受け入れ準備する。
3.出京〜福建(港)到着
・封舟を2艘建造する。(官船は多いが)使節用に新造する。これが結構大変と記述がある。
・封舟と随員 長さ57.6〜43.54m 幅9.83m〜7.04m 高さ7.46m〜4.14m 船室は3層 1号船、2号船 随員400人〜500人
船員100人ないし150人 護送の兵員200名ほど 琉球からの船員30名
4.福建〜那覇港(上陸)那覇に半年滞在する。
冊封使は天使館へ。全て中国風の構造で、働く人々は全て随行中国人。兵員その他随員は久米村の家々に分宿。
王宮から五日に一度、食料を届けた。イラブー燻製、ガザミ、シャコ貝、泡盛なども書かれている。
毎朝、瑞泉の水 200リットルを緑の桶に入れ送った。
5.諭祭礼、冊封礼
闕庭に詔勅をのせた龍亭がすえられる。 詔勅を読み上げ、龍亭に置く。この時点で世子は国王となる。
6.七宴 冊封宴の次に中秋宴、重陽の宴、払塵の宴、餞別宴、拝辞宴、望舟宴
7.琉球の対応
4〜5百人の冊封使一行に、半年以上も食料を供給することは、琉球にとって大変なことであった。数年前から食料を備蓄した。
農家には鳥獣を飼育させた。魚は乱獲を禁じ、一定の場所で貝類を繁殖させた。果樹は2,3年前から摘果を続け冊封の年に結果させた。
〜〜〜
※冊封は時代によって規模などが異なるだろうが、要となるのは、
中国の国事行為であり、皇帝の命を受けた使者が、国王に対面して、詔勅を読み上げる行為。
は変わらない。
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【 後 記 】 まさか 邪馬台国論争に参加してしまうとは、思ってもみなかったです。 今年2月にFacebookの「古代史研究会」グループに入ったら、様々な情報が流れて来ました。 邪馬台国は、いつも盛り上がってました。その影響があったのでしょう。 私は、北九州や畿内などではなく、高知や南九州だな、と直感してました。 今回、機会があって読み直した際に、何処から纒向の卑弥呼に移ったのだろうか? とチェックしたのが発端でした。 記録がマージされているなら、リバースエンジニアリングで復元すればいい、と楽しみました。 驚いたのは、魏志倭人伝にも神武天皇が登場したことです。 『神武天皇は存在しない。日本書紀は信用できない。信用できるのは外国の史書で「魏志倭人伝」はバイブルだ。』 という人たちは、これを知ったら どういう反応をするでしょうか? 分かってみると なぁ〜んだ というコロンブスのタマゴでした。 しかし、発端となった「女王国が二つ存在していた」と最初に気づいた「古代史の復元」の慧眼には恐れ入りました。 日本書紀の紀年が「古代史の復元」によって解明されていたのも大きいです。 物差し無しでは、歴史は調べられませんし、語れません。 (2023.11.26) |
参考: 私の歴史年表
歴代天皇の年表:「古代史の復元」
古代史の復元
魏志倭人伝 原文: 青空文庫
魏志倭人伝 訓み下し文: 桜井市纒向学研究センター東京フォーラムV付載資料
TOPへ戻る | 2023年11月24日 宇田川 東 |