第一章 風がブリタンニアを吹き抜ける
史書は記す。戦いの歴史、ブリタンニアに暮らす人々の営みの記録を。吹き抜ける風が木々と茂みに囲われた平地を滑っていく戦場で、雄叫びを上げる人々の肉体は寒空にも紅潮して湯気を立てているほどであり、周囲に響く喚声と怒号が風の音すらもかき消してしまう。肉と肉、金属と金属がぶつかり合う中で鍛鉄された長い剣を振り回している馬上の兵士たちが、土ぼこりを蹴立てながら敵と味方の間を縦横に駆けていた。なだらかな起伏が続く草地にはそこらに低木や下生えの茂みが散在しており、勢いよく草陰を躍り出た蛮人の戦士が馬と馬上の兵士たちに襲いかかろうとしている。
低木の枝木で肌を切ることも意に介さない。たくましい身体を厚い布や毛皮で覆っている者もいるが、中には半裸に染料を塗っている者も多く青い文様が描き込まれて古来から伝わる彼らの風習と勇猛さを感じさせていた。突き出される槍の閃きを、盾や兜が弾く不快な音が周囲にこだまする。一人の兵士が盾を握る左腕を力強く隆起させて、槍先を押しのけると体勢を崩した蛮人の肉体が地面に転がった。
「盾で殴れ!剣を突き刺せ!バルバロスを穴から追い出せ!」
長城は既に破られて久しい。ブリタンニアを闊歩する蛮族は古来からの風習に従ってバルバロスと呼ばれており、古くこの地に住みついた勇猛な人々の末裔とされている。バルバロスはブリタンニアに暮らす蛮人の意味であり、海峡の向こう、大陸から訪れる「オオカミ」と呼ばれる蛮族と区別されていた。彼らに共通していたのは帝国に服さぬこと、ただそれだけだが帝国こそブリタンニアから駆逐されつつある昨今では、かつては蔑称であったバルバロスの名も今では勇猛な戦士の意味に取って代わられつつある。
叱咤する声が兵士の耳に届く。自らも馬上の一団として、騎兵隊を率いている赤毛の部隊長は戦場の隅にまで届く大音声を張り上げると剣を高く掲げるが、幾組かの馬が勇猛とも無謀とも取れる勢いで隊を離れて突出するとバルバロスを追いかけていった。途端、めりめりと音がすると予め伐られていた木々が矢継ぎ早に倒れかかり、頭上から馬と人に落ちると数体を潰して血袋に変えてしまう。木々と低木の茂みから一段と大きな喚声が上がり、勇猛なバルバロスの全員が一斉に姿を現す。視界いっぱいに広がる泥土の濁流のようにあふれ出る、数千を数える戦士たちの群れだ。
隊伍を乱した騎兵隊は馬首を返して後退する。臆病な逃亡者たちに向けて、勇猛なバルバロスはいきり立って襲いかかるが足の速い騎兵を追うことができるのはバルバロスでも馬に乗る者たちだけである。馬が馬を追いかける後ろに人の波濤が続くが吸い出された流れは一方向に誘導されており、その先頭には帝国の騎兵隊を率いる赤毛の部隊長、老練のロッサリーニがいた。そして軽快に駆ける馬たちが向かう、その先に整然と立ち並ぶのは帝国の主戦力たる軍団兵、将軍ジェラルディンの歩兵たちである。ロッサリーニの一団が立ち並ぶ軍団兵の前を通り抜けると無秩序に追うバルバロスの波が姿を現した。ジェラルディンの右手が高々と上がり、勇ましい喇叭の音が響く。
樹間の草地に勇壮な音が鳴り渡ると、その意味を知るバルバロスの幾人かの顔から血の気が失われる。数百年来、帝国の武装や戦いを覚えて久しい者はそれが軍団兵の反撃を意味する警笛であることを知っていた。一斉に飛来する槍を幾本も脇腹に突き立てられたバルバロスの馬は混乱し、人は振り落とされて暴れまわる馬が人と馬とを平等に足下に踏み潰す。細い脚を蹄がへし折ると、倒れかかる身体が仲間を押し潰して死ぬまで躍り狂った。
沸き起こる悲鳴と怒号に意気上がる部下を叱咤して、鍛え上げた体力を鼓舞すべく走り回るロッサリーニの騎兵隊は旋回して再び馬首を返すとバルバロスの大軍へと突貫する。曇天を切るように掲げた剣が閃くと、後ろには忠実な騎兵が続き更に後ろには信頼する将軍の軍団兵が控えている。勝利をより完全な勝利にすべく、浮き足立つ集団の中央を割るように一団の疾風が駆け抜けて後に続く軍団兵が整然と前進すると槍と剣を突き上げた。兵士たちの兜を飾る、鳥の羽飾りが喧噪に揺れる。
集団で相手を追い詰めて袋叩きにしようという、バルバロスの試みは完全に潰えていた。茂みや樹間から引きずり出された彼らは懐を走り抜ける騎兵によって前も後ろも分からぬ状態になると、整然と統一された動きで押し寄せる軍団兵の槍と剣が蛮人の骨を砕いて血の飛沫が地面を濡らしていく。細い槍が投げつけられて蛮人の肉に刺さり、盾に突き立てば容易に抜くこともできず頭上からは剣が振り下ろされた。
軍団兵の只中にあって、指揮杖を掲げる将軍ジェラルディンは司令官のしるしである真紅の外套を風にさらしている。一代で栄誉を得た叩きあげの将軍だが、未だ壮年期にあって兵士と並び戦場を駆けて疲れることを知らない。信頼するロッサリーニの騎兵隊が敵の統率を失わせて、軍団兵は勝利の確信の中でバルバロスを一人ずつ足下に打ち倒していく。遠方では敗勢を知った蛮人たちが壊走を始めており、勝利に勇んだ味方が暴走せぬようにたしなめることがジェラルディンの役目になりつつある。将軍は深く、大きな息を一つついた。
戦いは既に決着していたが、数千を数える人間同士の殺し合いが収拾されるには時間がかかる。追いかけ、振り下ろされる剣がバルバロスの肩や頭を砕き、もはや逃亡する一方となったバルバロスは低木の茂みに飛び込むがそこには既に別のバルバロスがあふれて互いに押し合い踏み潰してしまう。野蛮な戦いはやがて残酷な屠殺と殺し合いへと様相を変えていき、蛮人の姿が消え去るまで兵士たちは冷酷な剣を収めようとはしない。風が止み、流れる血は地面に染み込んで動く者は数を少なくしていった。
戦場を覆っていた喧噪もやがて消え去り、逃亡したバルバロスの姿も見えなくなって周囲には一方の息遣いしか聞こえぬようになると、合図となる銅鑼の音を聞いてようやく陣営に引き上げた兵士たちも常の整然とした平静さを取り戻していく。馬を繋いだロッサリーニが司令官の陣幕を訪れる頃にはブリタンニアの短い日は傾いて周囲は赤く染まろうとしていた。一足早く、勝利に沸く陣営に引き上げていた将軍ジェラルディンは戦いの功労者に向けて飾らぬ笑みを浮かべると、彼が最も信任する騎兵隊長、赤毛のロッサリーニの肩に手を乗せる。
「お前の活躍には本当に感謝している。ビディフォードに帰るのはあまりに惜しいな」
「有り難きお言葉ですが、バルバロスの勢いもこれで当分は失われましょう。後はトレントに任せれば問題ありますまい、私よりも余程沈着な男です」
「いや、私よりも沈着であればそれでいいさ」
戦場で苦楽を共にした二人の戦士が屈託のない笑みを浮かべた。帝国の陣営地は前線でも柵や壕が設けられている堅牢な要塞であり、周囲では勝利の興奮に酔う兵士たちがそれでも常の巡回や馬の世話、炊事の用意を怠らない。帝国の伝統ではない、この徹底された統率がジェラルディンの率いる軍団兵の力であり、三十年近く前線にあるロッサリーニもそのことを知っていた。
退役を前にした男は彼が若くして軍団に志願して以来、ブリタンニアの戦場で長くバルバロスと対してきた記憶を蘇らせるが、落ちかけた陽光に赤く光る天蓋の下で敬愛する将軍に向けた言葉はごく他愛のないものであった。
「そういえば、ご子息はいかがですか」
「どうも古い本ばかり読んでいて困るな。いずれ戦場に呼ぶこともできようが、父としてはそうならぬが幸いだ。どうせいつまでも・・・」
いつまでも帝国とその軍団がブリタンニアにいられるものか分からない、とは言わなかった。帝国が衰退する中で皇帝コンスタンティウスは既にこの地を見捨てている。全面撤退は時間の問題とも言われていたが、人々が数百年も暮らしてきた土地を容易に手放せる筈もないし大陸に渡ったところで混迷する帝国に移住する当てがある訳でもない。未だに居残っている人々を議会や軍団が守っているがそれは最早帝国ではなく、ブリタンニアの議会やブリタンニアの軍団と呼ぶべき存在となっていた。無論、将軍ジェラルディンもそうして居残った者たちの一人である。
「それよりお前の娘はどうだね。ジャンより一つ年上だったと思うが」
将軍がいささか強引に話題を戻したことに、忠実な部下は気がついている。帝国のため、ブリタンニアのためと称して戦う自分たちが、自分の子らに未来を残すことができないことを彼らは恥じるしかない。ブリタンニアは安泰ではなく、いずれ帝国は完全に兵を引くかさもなければバルバロスに呑み込まれて同化するしかないことを彼らは思い知らされていた。
短い喇叭の音が響き、全員の帰還と点呼が終えたことを知らせている。将軍は勝利の宣言と軍団への慰労の辞を述べるために床几を立つと、彼の兵士たちが待つ演壇へと足を向ける。ロッサリーニも慌てたようにその後ろに従いながら、落ちかかる赤い日と長く伸びる影に帝国の斜陽を認めるしかなかった。
‡ ‡ ‡
その年は流行り病の年だったが、規模はそれほどではなく帝国よりもバルバロスに犠牲が多かった程である。衰退したとはいえ帝国には冷浴や温浴の習慣があって相応に清潔な暮らしを営んでおり、都市にも陣営地にもそのための設備が設けられていたが、バルバロスには帝国と交友のある部族を除けばそうした風習は少ない。より寒冷になるブリタンニアの北部には病もなかなか到らないが、帝国の撤退に伴ってバルバロスの居住域も南下していた。そこは帝国とバルバロスが剣を交える戦場でもある。
バルバロスの侵攻が途絶えて落ち着いた理由にはブリタンニア西部から南部にかけて流行したこの病と、前年に多くの部族が集結して臨んだ戦が将軍ジェラルディンに退けられていたことがあったろう。方々でバルバロスの力が衰えると、帝国に対して個々に休戦や和議を申し入れる部族も現れるようになった。ブリタンニアは大陸でも有名な馬を産し、鉱山では錫や多少の鉄を産することができたが、バルバロスが産したそれらを買うことができたのも帝国だけである。バルバロスと帝国は決して断絶してはおらず、もともとすべての者が戦いを求めている訳でもなかった。
荷車の轍が音を立てて、街道を覆う石面の上を小気味よく跳ねている。かつて帝国が敷いた道は彼らが撤退しても未だ荒れてはおらず、バルバロスの物売りが帝国の町や砦を訪れるにも役立っていた。西からの暖かく湿った風と東からの乾いた風が混じり、空を曇らせている様子はブリタンニアでは珍しい情景ではない。荷車は小さな塁壁に囲われた町に近づき、衛士から型通りの挨拶と荷調べを受けるとごく当然のように町に乗り入れていく。
例え争いがあったとしても馬を産する者は馬が売れなければ、錫を掘り出す者は錫が売れなければ生活はできずやがて困窮するしかない。まして和議を申し入れた後であれば帝国との商いを避ける理由はなかったろう。通り過ぎる荷車の背に向けて、少しく背の高い衛士は旅商に対するのと変わらぬ様子で気軽な声をかけると、物売りも振り向いて形式ばらない笑みを浮かべる。
「石の部族の出身だって?あちらは流行り病が酷いと聞いたが大丈夫かね」
「内海に近い部族ではずいぶん男どもが死んだらしい。それよりこいつをいい値で売りたいんだが」
「市場で聞いてみるといいさ。ノーヴィオに定期便が来ている筈だから、いっそロンディニウムより南に足を伸ばせば大陸の連中が買ってくれるかもしれんよ。もっともあちらはあちらで、オオカミどもの襲撃が大変らしいがね」
珍しい光景ではない。衛士の話している帝国の公用語もバルバロスの物売りはごく普通に理解しているし、帝国で鋳造された貨幣はバルバロスの部族でも通用した。オオカミとは海峡を越えた大陸を跋扈する蛮族の呼び名で、昨今では海に出てブリタンニア沿岸を荒らすことでも知られている。
荷馬の横腹を軽く手で叩くと、小さくいなないた声が響き蹄が石畳を蹴立てる。町に消えていく荷車の数は日に数台といった程度だが、ブリタンニアの都であるロンディニウムであれば行き交う人や車はもう少し多くなるだろう。大陸では昼間に荷車を町に乗り入れてはいけないという決まりもあったらしいが、往来する轍の減った昨今では誰も気にしてはいなかった。
赤毛のロッサリーニが死んだ。原因は流行り病であったとも古い戦傷であったとも言われているが、未だ五十歳にも達していない年齢で退役して間もなくのことである。将軍ジェラルディンはロンディニウムの都から馬に乗って西の突端にある友人の故郷、小さなビディフォードの町に赴き、旧知の戦友の臨終に駆けつけると残された一人娘を託されたという。彼の家門には彼自身と娘の二人しかおらず、信頼する騎兵隊長が退役した理由が娘のためであることをジェラルディンは知っていた。
部屋を囲う石壁には彩色された蔓草の模様が彫り込まれており、豪勢とはいえずとも静謐な風景の中で壮年の男たちは無言の会話を交わす。ジェラルディンが屋敷を訪れたとき、明るかった空も今は霧深い宵闇の下にある。日が落ちて、数十年に及ぶ友人同士の記憶が途切れることになった彼らの頬には風雪に刻まれた深い皺があった。
かつて将軍ジェラルディンはごく平凡な騎士の家に生まれていたが、精勤により騎兵隊長から出世して軍団付きの官僚を経て、後に軍団長としてブリタンニアの各地を転戦するとそれらを束ねる将軍にまで登り詰めた人物である。未だ壮年と呼べる年齢だが、コンスタンティウス撤退後のブリタンニアで多くの兵を率いた数々の勲功が実力にふさわしい彼の地位を証明していた。
騎兵だけではなく歩兵をも重んじる、長く潰えていた帝国古来の軍規と伝統的な戦いとを知るジェラルディンは「古将軍」とも呼ばれていたが、それはバルバロスほどに馬を用意できぬ帝国の苦肉の策であったとも言われている。だが古将軍の率いる軍団はバルバロスを相手に連戦してほとんど敗北を知らず、先の大戦を終えてロンディニウムやその周辺はバルバロスの暴虐を恐れぬ日を送ることができていた。
将軍は下に厚く、上に誠実で敵には厳格であると言われている。その将軍が率いる軍団を支えたのが戦乱のブリタンニアで苦楽を共にした旗下の部隊長や兵士たちであり、中でも将軍の旧友である赤毛の騎兵隊長ロッサリーニはその剽悍さで知られていた。
「多くの命を救った者、友に背を向けて敵に顔を向けた者よ」
寒空に心からの弔辞が読み上げられる。葬儀は簡素なものであったが、高名なジェラルディンの声に故人の同僚や部下が集うと遺灰を焼く香が焚かれて煙が曇天に立ちのぼっていった。祭壇に組まれた木々のはぜる乾いた音が響き、人々の鼓膜を打つ。赤毛のロッサリーニが将軍の信頼する友人であったことを彼らは知っていた。
残されたロッサリーニの娘はジェラルディンの家で養われることになり、ただ一人の家門を継ぐことも認められる。女性が家門を継ぐことは帝国では珍しいが、前例がないわけではなく旧来の家門を絶えさせる理由もなかったろう。ロッサリーニの娘はジェラルディンとは初見ではなく、将軍も友人が暮らしているこのビディフォードを幾度か訪れていた。
娘であることが惜しいと、度々語っていた故人の言葉を将軍は思い返している。幼い身、しかも娘の身で家門を継ぐことになった少女は怖じけた様子もなく将軍を見上げていた。その瞳には強い意志が秘められており、少女の姿を年齢よりも遥かに大人びたものに見せている。ジェラルディンの口調が丁寧なものになったのも、その瞳に見据えられたせいかもしれない。
「君の父上は立派な戦士であり、そしてそれ以上に素晴らしい友人だった。私は喜んで君を迎えるがこの町を離れることになる、それは構わないだろうか」
「いつか、すべてを終えて故郷に帰ることがあるかもしれません。ですが人が旅立つのであれば、そこに家が残されるのは仕方のないことでしょう。ビディフォードはいつまでも私を待っていてくれます」
迷いのない言葉に一瞬、気圧されたような感覚を覚えたジェラルディンは軽く身を反らせる。それは未来に迷わず、過去を疑わない幼い心の現れなのかもしれないが、娘の言葉にはどこか有無を言わせぬ力強さと心からの気高さがあった。この幼い娘のために、帝国の前途は輝いていなければならぬとさえ思う。
一陣の風が吹き、暖かい風は音律となって西から東へと抜けていく。それはブリタンニアを横切り帝国が敷いた街道を過ぎてロンディニウムの都へと吹き抜けていった。
‡ ‡ ‡
ジャン・ジェラルディンは父を敬愛していた。一代で地位を登り詰めた将軍は多くの者にとって憧れの対象とされていたが、少年にとって父の公正さと信義を重んじる心は多くの肩書きにも勝る権威だと考えており、たとえ父が将軍ではなかったとしてもジャンの心は変わらなかったであろう。少年がまだ幼い頃から、父が家にいることは少なかったが軍団に身を投じた者の家ではことさら珍しい例ではない。
かつて父は言ったことがある。人は正義を重んじるべき者であり、正義とは信義を守ることである。信義とは有言でも無言でも交わされる人の約束のことだから、それを大事にしなさいと。
「約束を守れなくなったらどうするの?」
幼いジャンの問いかけは彼らの未来への託宣であったのかもしれない。父は軽く目を見張るが息子の質問には誠実に答えようとして、その時は自分で決めなければならない、それは誰のせいにもできないお前自身の責任なのだからと言った。あえてそのような言い方をした、少年がその言葉を理解していたのかどうか父にも息子にも分からなかった。
曇りがちなブリタンニアの空はその日は少しずつ明るくなって西から流れ込む清爽な風も心地よく、窓外には往来する人々の声や轍が立てる乾いた音が響いている。帝国の都であるロンディニウムの外れにある邸宅は将軍の地位に比べれば豪壮というほどのものではなく、せいぜい裕福な市民の屋敷といった域を出てはいなかった。父は不在がちで、数名の家族と使用人が暮らすだけの家であれば広々としている必要は少しもないだろう。もともとジャン自身は古い書物には興味があっても、広い家に感銘を覚える質ではない。
薄明るい窓外の光に目を向けて数度、瞬きをすると少年は昔の皇帝が記した回想録を閉じる。今でも賢帝として伝えられる、戦乱の時代に思索を重んじた皇帝の手記であった。皇帝にして哲学者であったという彼もまた、少年が敬愛する人物だが必ずしもジャンは道徳的な周囲の評価には同調していない。真摯であることは讃えられて然るべきだ、だが皇帝に対する賛辞は彼が真摯であったことよりもむしろ、皇帝である人が流した血の悪徳を承知してそれでも人々の安寧を守ろうとした、戦場に居続けた事績にこそ送られるべきではないだろうか。お前は思索を望んでいたが、戦場でも思索はできる。だが、思索せねばならぬときに思索することが、今のお前には求められているのだとは皇帝が自ら記した言葉である。
軽く首を傾げてから、息をつく。老人めいた仕草が不思議と少年には違和感を感じさせない。ジャンは父の心配も当然だというほど古い書物の虜になることが多く、暇さえあれば過去の文献や記録に埋没していた。朝の挨拶と家の手伝いを終えて私塾に通い、練技場で人並みに汗を流してから家に帰る。それなりに裕福な家であれば当然のように行われている習慣だが、少年は残る時間に書を紐解くとあとは何もかもを忘れて没頭してしまう。窓外の明かりがあるときはもちろん、夜間でも魚油の灯を頼りに文字を追う様子に母や乳母から叱られたことも一再ではない。
だからといって巻き紙さえ繰らねばジャンが文字から離れられるかといえばそのようなこともなく、書物がなければ今度は思索に没頭して寝食も忘れ、家人を呆れさせることもしばしばであった。幼い頃、古い哲学者の真似をして裸足で粗末な服を着て床に眠ったこともある。父はこの困った息子をからかうようにして「探求するジャン」と呼んでいた。心配させぬために、ジャンは思索も読書もなるべくこっそりと行うようになったし哲学者の真似事も今では控えているが、むしろ両親には半ばあきらめられているらしい素振りもある。ジャンの思索好きは古将軍ジェラルディンの部下の間でも有名だった。
哲学とは一様ではなく、人が求める知に到達するいくつもの手段が追求されており、自然の理を突き止めようとする者や、あるべき人間の思索と行動を探求する者など様々だがジャンの哲学はそのどちらとも言えるし、どちらとも言えなかったかもしれない。思索を追求することによって不要な外殻を脱ぎ捨てる生活を望みながらも、月と星の巡る周期や、はるか大陸の南方に生まれた医学に対する興味と観察もまた少年の興味を強く捕らえていた。
「大陸、か」
その呟きもまた、手に入らぬものを嘆く老人の述懐に聞こえる。古くなった書物を繰ることはできても、海峡を越えて大陸に渡ったところでそこにジャンが望む哲学も知識も教える府は残されていない。三百年ほど昔に生まれていれば、高名なムセイオンやアカデミアへの留学を少年は迷わず志していたであろうが帝国の衰退に伴いそれらが閉じられて久しい。失われた過去の栄光ではなく、蓄積された過去の知識はジャンの心を捉えて放そうとはしなかった。
明かりを取るために通りに面している窓から、行き交う人や轍の音が遠く聞こえてくる。その数はけっして多いものではないが、行き過ぎる一つ一つの音の中にブリタンニアを離れて大陸に流れる風があることを少年は知っていた。ジャンが生まれたとき、帝国は既に衰退してブリタンニアはバルバロスが跋扈する地であった。コンスタンティウスが皇帝を僭称してブリタンニアを離れてからまだ数年も経ってはおらず、銀の鷲旗が南へと去ってロンディニウムを中心にした一部の都市だけがかつての名残を漂わせている。ジャンが生まれ育った世界は帝国の残滓そのものであり、今ではもう人々から見捨てられつつある世界だった。
この状況で、衰退した帝国はなおバルバロスと争っている。父をはじめとする軍団が奮闘してバルバロスに対抗し、先の大戦で輝かしい勝利を収めて以来戦乱は鎮まっているが火は燻っているだけで消えた訳ではない。人々はジェラルディンの勝利に喝采を挙げながらも、大陸からの定期便が来るたびにロンディニウムからは人の姿が失われていった。その大陸ですら皇帝を名乗る者同士が争いながら酷寒の気候に押されたオオカミたち蛮族が方々を荒らし回っており、コンスタンティウスのその後の消息すら聞くことができない。
ブリタンニアは世界から切り離されてしまった。少しずつ、少しずつ彼らの血は流れて失われる一方であり傷が塞がる様子はない。ジャンはそのことを知っている。いや、少年の父がそのことを知っていることに、ジャンは気が付いてしまった。
自分の生まれ育った世界が近い将来に滅びさるのであろう恐怖、それは幼いジャンにしばしば眠れぬ夜を与えたが、やがて慣れてしまうと少年をより一層思索の世界へと引き込むことになった。なぜ自分がブリタンニアに暮らしているのかという思いは、ブリタンニアに暮らす自分はこの世界に何を臨むことになるのだろうかという思いに変わっていく。そこには父の影響もあったろう。ロンディニウムからどれほど人が去ろうとも、父が最後までこのブリタンニアに残るだろうことが少年には誇らしかった。だが奇妙なことにジャンの望みは必ずしも敬愛する父を継いで軍団を率いることにはない。漠然としたその思いを、少年は未だ父にすら語ることはなかった。
吹き抜ける風に乗って、どこからか流れ来る歌声が耳に届きまだ幼さが残る少年の瑞々しい頬に光が差し込む。家人からは本と思索があれば生きることができると揶揄されるジャン・ジェラルディンだが、その時は差し込む光と流れる音律が少年を書物から引き離すと窓際へと導いた。胸の奥まで深く空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出すと、からからと近付いてきた轍が止まる音がして人の気配が屋敷の門口に立ったことを知らされる。父であろうかとも思ったが、旧友の葬儀に出かけた後はロンディニウムの議会に呼ばれているという話しだからまだ数日は帰らないだろう。
日は明るく、母や乳母は友人との他愛ない会合に出かけていたし使用人は市場にでも出向いているのか姿が見えない。轍の去る音がして、歌声の持ち主は門前で待たされているようだった。どうやら今、ジェラルディンの家にはジャン一人しかいないらしい。少年は足先にぶら下げていた内靴を履きなおすと短衣の上に軽く外套を羽織り、足早に屋敷の前庭を抜ける。
そこで足が止まった。門の前で、大きな荷の傍らに立っている小柄な人影はジャンと年近い少女の姿をしている。子供らしさを残しながらも均整の取れた細やかな肢体に二つに分けて長く垂らしている濃い金褐色の髪、強い意志を秘めた緑色の瞳が印象的だった。旅に向いた厚手の装束を着ているが、指先まで律動官を感じさせる隙のない姿勢と振る舞いは少女をどこかの貴族や王族の娘のようにも見せている。やや気圧されながら、少年は不器用に言葉をかけた。
「ジェラルディンの家に御用でしょうか。僕はジャン、生憎父は不在ですが・・・」
少年はけっして内向的な性格をしてはいなかったが、ことさら対話に親しむ性格をしていた訳でもない。精一杯の表現が使い慣れない言葉であることに少女も気が付いたのだろう。少し莫迦にしたような、悪戯めいた顔になると小さく首を傾ける。ごく自然な仕草が不快を感じさせないのは、少女の瞳に邪気が感じられないからだろうか。だが挑戦的な唇から漏れる言葉は少年を驚かせるに充分だった。
「ジャン・・・ジャン・ジェラルディン。韻を踏んでいて響きはいいけど、将軍の息子にしては随分ありふれた名前ね」
「別にいいだろう?」
思わぬ言葉にジャンの声も表情も不機嫌なものになる。不躾な登場に不躾な挨拶をする人だ、と、少年は先ほどまでの少女への評価を修正することにした。ジャンの様子に気が付いたのか、少女も態度を改めるが生来気の強そうな調子は変わる素振りがない。ブリタンニアを吹き抜けていた風がにわかに止まり、雲が小さく裂けて差し込んだ光が門に切り取られると鮮やかな明暗を描いて少女の姿を映し出した。
「気分を害したなら謝るわ。私はフィオレンティナ、フィオレンティナ・ロッサリーニ・プリシウス。今日からこの家で暮らすことになりました。よろしくね」
フィオレンティナと名乗る少女はリュートの弦が鳴らないことが不思議なくらいに、律動感のある流れるような音律で話す。その圧倒的な生命力と気高さ、どこか自分を見下すような視線に気圧された少年はしばらくの間呆然として彼が迎え入れることになる、新しい家族の姿を見つめていた。
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