第二章 皇帝コンスタンティウスの撤退


 大陸では東から西へと吹き付ける酷寒の風が人々を追い立てていたが、それは海峡を越えてブリタンニアにも流れ込んでおり厳しい東からの風となっている。西からは海流に運ばれた暖かい風が容赦のない侵略者に対抗していたが、風の混じるブリタンニアは曇天に覆われており晴れ間が差し込むことは少ない。

 人々の記憶は時に巻き紙に記されて石造りの建物に眠りながら自らを紐解く者を待ちわびているが、喧噪に湧く酒場では伝承を語り伝える竪琴弾きがリュートをかき鳴らしながら酔客の耳を楽しませている。ブリタンニアの都、ロンディニウムを貫く街道に面した酒場には帝国の者ばかりではなく、バルバロスの商人や大陸から訪れた旅人の姿もまばらに見ることができた。ブリタンニアはバルバロスが闊歩して帝国が衰退する一方であったとしても、受け継がれる人の営みは消えることがなく日が落ちれば人の足はにぎやかな灯りの下に向かい、火を前に手をこする姿には肌の色も言葉の違いもない。
 すすけた姿に小柄だが筋骨たくましい男がいれば、深い皺が刻まれた手に掴んだ盃を口に運ぶ老人がいる。透けるような肌に、夜灯の下で銀にも見える髪を長く垂らしている竪琴弾きは自ら帝国に暮らすバルバロスの末裔を称し、人の輪の中央に座して弦の響きに一族の昔語りを乗せていた。人々が知る、ブリタンニアの歴史を語ろう。

 紀元407年、混迷のブリタンニアでコンスタンティウスが皇帝を僭称する。大陸を治めていた皇帝ホノリウスは伸張する蛮族に対抗する必要もあって、海峡を越えた遠方の騒乱に対処することができずブリタンニアの支配権は放棄されるが、僭称帝コンスタンティウスも帝国における覇権を得るためにはいつまでも辺境のブリタンニアにとどまっているわけにはいかなかった。
 三年が過ぎて、僭称帝は兵を率いて海峡を渡るがそれは同時にブリタンニアの各地を守る軍団を帝国が引き上げることに他ならない。事実上コンスタンティウスはブリタンニアを撤退して帝国の軍団兵は姿を消し、この島は残されたバルバロスのものとなったのだ。

 帝国を象徴する銀の鷲旗が南へと飛び去って、だが残された都市の中には自ら生き残る道を選んだものもある。彼らはこの地を捨てた皇帝よりも自分たちこそがブリタンニアにおける帝国の正統な後継者であるとして、属州の州都であったロンディニウムを中心に団結した。帝国の威光は既に失われてブリタンニアの多くの地ではバルバロスの部族が闊歩していたが、大陸から海峡を越えて入植する「オオカミ」と呼ばれる蛮族と互いに争って譲らなかったためにロンディニウムと帝国の残党を打倒すべく力を割くことができなかった。
 だが、たびたびの襲撃をロンディニウムが退けることができた理由はそうした幸運だけではなかったろう。ハドリアヌスの長城は既に放棄されて久しく、衰退した帝国に守るべき町が少なくなっていたことは皮肉にも彼らの助けとなっていたが、古将軍ジェラルディンをはじめとする軍団兵の奮戦が帝国の誇りと伝統を蛮人の泥足から守っていた。古将軍の名はかつて帝国が隆盛だった時代を思い起こさせる、ジェラルディンの厳格さに由来する。未だ壮年と呼べる年齢だが、騎兵隊長から出世して帝国の軍勢を託された手腕はコンスタンティウス撤退後のブリタンニアで多くの兵士を率いた彼の勲功が示していた。帝国の伝統、強き軍団の伝統を古将軍ジェラルディンだけが覚えている。

 竪琴弾きの手が流れるように弦を弾き、耳に快い音律を残す。三百年ほど昔、ブリタンニアを南北に分ける長城を守り銀の鷲旗を誇らしげに掲げる、帝国の軍団兵は彼らが被っている兜からバルバロスには「羽飾り」と呼ばれ恐れられていた。厚い鎧を着た頑強な兵士たちを中心にして、短い剣と投げ槍を手に整然と並ぶ威容は世界の隅々まで踏破して覆い尽くしていたが、やがて帝国が衰退して防衛が疎かになり、長城が破られるようになると彼らの戦いも軍靴から馬上へと移っていく。重い鎧を着た兵士では方々の城壁や砦に襲いかかるバルバロスを追うことができなかった。馬を駆る騎兵の剣も馬上から届くように長いものへと変わっていく。
 皇帝コンスタンティウスが撤退してブリタンニアが事実上放棄されると、その事情すらも変質した。帝国の凋落と目の前の現実に愕然とする人々だが、残された世界を守るために率いなければならない兵士はあまりにも少なく装備は貧弱である。このブリタンニアでは馬も鉄もバルバロスが産しており、帝国は自分たちの武器や馬を産する人々と戦わなければならない。バルバロスのすべてが帝国と敵対するわけではないからこそ、それらの装備を買うことができたが皇帝がいない帝国には潤沢な資金や豊富な交易品があるわけでもないから装備の不足は当然で深刻なものだった。

 兵士を預かる身となったジェラルディンは自らが騎兵隊長の出自であったにも関わらず、あるはそれだからこそ彼らの多くを馬から下ろし歩兵に戻すことを決める。どのみち馬は足りないし、鉄が不足していたから剣も短いものに替えた。歩兵と同数かそれ以上はいたであろう騎兵の数は十人に一人程度まで減らされる。必要に迫られたやむを得ぬ措置だったが、幸いなことに守るべき町が減った帝国にはバルバロスを追いかけて戦う必要が少なくなっていたし、歩兵を主体とする戦いの手法は帝国の古い記録に残されていた。
 ジェラルディンの家には掘り起こされた帝国の古い記録や文献が所狭しと並べられて、軍団を率いるジェラルディンはそれを元にして古い帝国の軍団を再建させた。万やむを得ぬ事情だったとはいえ、古の帝国を想起させるジェラルディンの軍規は兵士を昂揚させ、古将軍が率いる軍団に思わぬ作用を及ぼす。自分たちこそ皇帝が捨てた帝国を守る正統な後継者であるという誇りが生まれ、それは彼らをいっそう団結させると堅忍不抜の戦士として蘇らせ、バルバロスは昔語りに登場する帝国の残党に向けて賛嘆と忌々しさの双方を込めて彼らを「羽飾り」と呼ぶようになったのだ。

 まばらな拍手が上がり、竪琴弾きは次の物語を選ぶ。はるか昔、大陸で人々が七つが丘の上に集まり帝国の礎を築いていた頃、バルバロスの先祖たちは森に暮らし月に祈っていた。コンスタンティウスが去った後も帝国はブリタンニアに残りバルバロスを退けているが、バルバロスとはもともとブリタンニアに暮らす蛮人を指す言葉であり彼らこそがこの島の主人であったのだ。
 だがバルバロスとて元よりブリタンニアの者ではなく、帝国より数百年早く海峡を渡っただけの人々に過ぎない。羽飾りがブリタンニアを訪れてからは両者は時に争いながら時に交じり合い、混血すら進んで今ではバルバロスに伝統の家名を持つ帝国の騎士や貴族すらも存在する。帝国とバルバロスの戦いは、皇帝の寛容によってバルバロスを受け入れた帝国と、純粋なバルバロスとの戦いなのだ。

 竪琴弾きの言葉がバルバロスの伝承と風習とを紡ぐ。夜を信仰する彼らは巫女が祀る月の女神カレイドウエンに祈り、カレイドウエンはバルバロスに古来から続く叡智を与えている。古いドゥルイデスの教えに従う者たちは自分たちを森に生きる獣と同じものだと考えており、かつては月に吼えるだけの暮らしをしていたが女神が叡智を与えると獣をやめて人になることができた。以来、彼らは月に祈りながらいざ戦いとなれば自分たちが獣であったことを思い出して、誇らしげに毛皮をまとい、月光を返す青い染料を肌に塗りつける。肺と心臓に勇壮な鼓動が流れて地を踏みたたく音が響く。
 戦慄は静かな中に熱と力を帯びて、酒に混じると人々の胃と肺を満たす。力強く弦が弾かれて、勇壮なバルバロスが羽飾りの軍団に襲いかかると兵士たちも剣と盾とをがちがちと打ち鳴らしてこれを威嚇した。毛皮と染料をまとう獣たちは牙をむき出してどう猛な息を漏らし、羽飾りは退くこともなく鉄と鉄が打ち合わされる。戦士である彼らにとって勇気だけが真実であり、バルバロスも羽飾りも、ブリタンニアと彼らの勇気のために戦っているのだ。戦場を風が吹き抜ける、馬が駆ける、軍靴の響きが聞こえる。

 ゆっくりと弾かれたリュートの響きが酒場に満たされていた戦いの喧噪を冷やす。手ずれに磨かれて黒くなった木材のテーブルには銀や銅でできた不揃いな盃が並べられており、なみなみと注がれていたエール酒は飲み干されて皿には焼いた燻製肉やナッツ、腸詰めのかすが散乱していた。高揚した魂が戦場から酒場へと引き戻される。彼らが愛する、ブリタンニアの酒場に小さな平穏が戻ってきた。穏やかなリュートの弦がもう一度弾かれる。
 戦いを終えれば残酷な戦場を後にして、バルバロスもねぐらに帰る。馬を産して低木の丘を駆ける者もいれば、全身を汗と煤に汚して山を掘る者もある。金床を打つ音を響かせる者もいれば梳いた草で縄を編む者もいたし、切り出した石を積んで塀を作る者もいた。かつてバルバロスは森に生きる獣だったが、カレイドウエンの叡智は彼らが人になる道を教えて今では羽飾りと交ざり羽飾りとして戦場に立つ者もいる。だが森に帰れば今でもバルバロスは自分たちを慈しみ育てたブリタンニアを忘れず、月を臨めば自分たちが人であることを思い出して彼らの祈りを捧げるのだ。銀の糸を思わせる音色が一本響くと、人々の耳に滑り込む。

「今夜は良い月が出ています。羽飾りもバルバロスも、共に旨い酒が呑めるでしょう」

 静かな酒が注がれて、木枠の窓から見える月に人々は盃を掲げる。彼らは勇壮なバルバロスであり頑強な羽飾りであったかもしれないが、共にブリタンニアの人々でもあるのだから。

‡ ‡ ‡


 大陸の西端、海を越えた向こうにあるブリタンニアはその海峡を北から南に下る寒冷な流れと、西の大洋を北上する暖かな流れに挟まれた地域にある。大陸と比べても北方に位置しているために全体として寒々しく、ことにブリタンニアを東西に横切るハドリアヌスの長城を越えて更に北方、平原を抜けた先にそびえるハイランドの峰はいつも厳しく寒い風が吹き抜けていた。平原の北に広く連なる峻険な山岳を舐めるように、海からの冷たい風が吹き抜ける。そこはバルバロスの領土であり、群れを成して山と風の地を駆け抜ける様は勇壮そのものだ。

 長城よりもはるか南にある平原と起伏の緩やかな丘陵に覆われた地域、帝国に属すわずかな地域ではやや事情が異なり、海流の影響もあって東は寒く西は暖かい。海面から立ち上る空気がぶつかってブリタンニアの空をいつも不安定なものに変えるために、たいていは酷く曇っているか霧や雨が多い湿っぽい空気をよどませている。特に冬になれば風が荒れ狂い、沿岸ではすべてを打ちのめす高い波が暴れまわるがそうした厳寒の季節を除けば時折吹き抜ける風はそうした空気や雲までをも吹き飛ばしてしまうと快い感触を首筋に残していく。バルバロスにとって風は東風を指して厳寒な冷たさを意味しているが、帝国では風は時に厳しく時に暖かい、異なる顔を持つものとされていた。

 フィオレンティナの生まれはブリタンニアの西南に突き出た小さな港町のビディフォードにある。赤毛のロッサリーニと呼ばれた、父の家には古くバルバロスの血が伝わっていたのかもしれないがブリタンニアでそれを気にする者はいない。騎兵隊長ロッサリーニの娘である少女は父の死に伴い、父の上官であり友人でもあった将軍ジェラルディンを頼ってロンディニウムに居を移すことになった。気の強そうな緑色の瞳を閃かせて、二つに分けた濃い金褐色の髪を揺らしている。
 慣れ親しんだ丘を吹き抜ける西風は、厳しく吹き付ける冷たい東風に席を譲ることが多くなっていた。かつて州都として栄えていたロンディニウムは今でもブリタンニアにおける帝国の中心である。将軍はたった一人の家族を失った娘を家に引き取ると、フィオレンティナは家を後に故郷を離れてロンディニウムに向かわなければならなかった。ビディフォードの丘を離れることに小さな感慨が無かったわけではないが、父の友人であった敬愛する将軍に招かれることは少女にとって名誉なことだった。

 フィオレンティナ・ロッサリーニ・プリシウスはその生まれではなく、その容姿でもなく、その魂に強い気品が備わっている、そんな娘だった。過ぎ去った故郷の歳月、それは彼女が愛するブリタンニアを流れる風に従い決別した過去であり、今はもう帰って来ない父に恥じぬために忘れぬための記憶である。赤毛のロッサリーニは戦場では勇猛果敢な戦士だったが家ではごく尋常な父親であり、妻を失って以来不在がちな家は一人娘に任せていた。使用人が雇えるほどの家ではないが、近隣の住民は少女に寛容だったしフィオレンティナも年齢以上にしっかりとした性格でロッサリーニのささやかな砦を守っていた。

「ブリタンニアに皇帝が現れた。迷惑なことだ」

 数年前、ロッサリーニは娘にそうこぼしたことがある。幼い娘に話すことではないと思ったのだろう、父はそれ以上は何も言わなかったがその日以来、ロッサリーニは家を空ける機会が多くなった。皇帝コンスタンティウスは帝国に引き上げると多くの軍団や兵士を連れてブリタンニアを後にする。しぜん、帝国の守りは疎かになってバルバロスが勢いを増した。すでにハドリアヌスの城壁は破られて帝国はブリタンニアの南に逼塞していたが、その傾向は日を追うごとに年を追うごとに徐々に強くなっていく。
 父が自分たちを、帝国を守るために出征していたことをフィオレンティナは誇りに思う。だが少女は彼女が成長する中で少しずつ衰退を続けている帝国の中に行きながらも、自分が武器を手に立つことができないのだという事実に失望を超えた憤りを覚えていた。結局、武器を持つことも戦場に立つことも許されぬ彼女は守られるだけの存在でしかないのだ。戦場を駆けるロッサリーニは将軍ジェラルディンの右腕として数多くの戦いで輝かしい戦功を挙げる。フィオレンティナは父を敬愛しながらも、滅び行く世界に自分が立ち向かうことを許されていないことに決して満足はしていなかった。緩やかな丘の稜線を流れる、親しんだブリタンニアの風は変わることがない。

 少女の新しい家は石造りの、帝国の様式で作られたどこにでもある建物で、粗末ではないが将軍の住まいとしては格別豪壮なものでもなかった。建物はロンディニウムの外れ、街道に面して建てられており厚い外壁の正面に門が構えられて突き出た庇は飾られた柱によって支えられている。帝国の建物らしく部屋は内庭に向けて開かれているが、大陸とは違って日差しが頼りないブリタンニアでは外壁にも窓が開いていて明かりや風を取り入れていた。父が死んで、故郷のビディフォードを離れた新しい世界を少女はごく当然に受け入れるがそれは父の友人である、将軍ジェラルディンの家であったせいかもしれない。
 将軍は不在がちで家では彼の家族と使用人が暮らしている。フィオレンティナが加わっても片手の指で数えられる人数だった。将軍の息子であるジャン・ジェラルディンはフィオレンティナよりも一つ年少で、茶色い髪に柔和な顔立ちがいかにも気弱そうに見える。「探求するジャン」と揶揄されるほどの変わり者で、本に埋もれて生きている虫のような少年だが将軍の息子としてはまったく相応しくないと少女には思えていた。いかにも頼りなげなジャン・ジェラルディン、やがては彼ですら帝国を守る戦いに身を投じるのであろうか。フィオレンティナには許されていない、戦場で武器を取ることになるのだろうか。

「どうせ湿っぽいと本が傷むとでも考えているのではない?」

 皮肉に苦笑する様子を見ると、冗談が図星であったらしい。少女が不躾な登場をして以来フィオレンティナはこの家で暮らしているが、将軍ジェラルディンの旧友であるロッサリーニの一人娘はティーナと呼ばれることを将軍とその家族にだけ許していた。ジャンの目から見ればそれが彼女の意にそぐわないことは明白だったが、不本意と皮肉を装いながらティーナもジャンや家の人々を新しい家族と認めたかったのかもしれない。ありふれた名前のジャンとしては、ティーナというありふれた愛称に意趣返しがあったかもしれなかった。
 ブリタンニアの空はたいていひどく曇っているか湿っぽい雨が多く、その気候が書物には向いていないことを知っているジャン・ジェラルディンは確かに残念に思っている。ティーナの言葉は容赦がなくたびたび悪罵となってジャンに投げ付けられていたが、ほとんどは事実だし不快というよりも叱咤されている気がしていつの間にか少年はそれを受け入れるようになっていた。ティーナが思っているように、単に気弱な少年が言い返せずにいるだけという可能性も否定できないが。 

 ブリタンニアは夜が長く空はたいてい薄暗い。人々は絶やさぬ灯りに頼りながらまだ日が昇らないうちに目覚めると、家族への挨拶と素朴な朝食から一日が始まる。やがて遅い日が昇ればジェラルディンの家には多くの人々が訪れるが、父が不在であれば家人が応対することもある。ジャンも未だ幼いとはいえいずれ成人することは間違いがなく、何とかいう肩書きを持つ人々やその支持者たちに引き合わされたことも一再ではない。
 偉そうな人もいればごく普通の人もいるし、いかにも兵隊然とした勇ましそうな者やバルバロスの使節らしい者もいる。探求するジャンは決して人と接することが嫌いなわけではなく、人の言葉は時として巻き紙に躍る文字よりも少年に新鮮な刺激を与えるが、刺激というのであれば昨今ではティーナの容赦ない言動の方が刺激的かもしれなかった。無論良い意味でも、悪い意味でもあったろう。

「息子がこれでは将軍も苦労する、なんて思われたら癪でしょう?ジェラルディンの家名が泣くわよ」
「本は必要だよ。誰かが読まなければいけないし、誰かが書かなければいけない」
「私は本が必要じゃないなんて言っていないわ、ジャン・ジェラルディン。読むべきときには読みなさい、でも貴方は古将軍ジェラルディンの息子なのよ」

 実際にこうした評価をジャンは方々で耳にしたが、ティーナほどあからさまに明言する者はいない。将軍ジェラルディンがロッサリーニの一人娘であるティーナを引き取ったことを彼女自身も感謝していたが、だからこそ目の前の小柄で軟弱そうな少年を叩き直さなければなるまい。それは少女にとって使命のようなものであるらしかった。
 朝の伺候や挨拶が終われば、ジャンやティーナは家を出て私塾へと通うことになる。騎士や貴族の子であれば家庭教師に学ぶことも多いが、父は自分が育ったと同じような方法で子供たちを育てたいらしかった。古くからの慣習では女性がこうした場所に通わされる例は決して多くはなかったが、珍しくはなかったしジェラルディンも旧友の一人娘に学を与える機会を逃そうとはしていない。この点では故郷のビディフォードよりもロンディニウムは学問によほど相応しく、ティーナにすればありがたかったことだろう。外に出れば少年がジェラルディンの息子として扱われることや、少女がその従属物のように見られることは両人にとって面倒で煩わしい話だったかもしれないが、言っても詮無いことである。

「月と星の周期が異なることも、人の身体の造りも大陸では多くの人が忘れてしまったらしいね。それは船にも乗らず、星の位置を見ることもできず流れる血を止めることすらできなくなるというのに」
「大陸にはオオカミが横行している、皇帝はその大陸を求めてブリタンニアを捨ててしまった。愚かしいことだわ」

 探求するジャンは確かにその呼び名に相応しく、軟弱ではあっても多くの学問にも思索にも秀でていた。ティーナもその点は公正に認めた上で、負けぬようにと小難しいジャンの話についていくことができる。
 古い帝国の伝統は失われて久しく、かつての繁栄が歴史と文献にのみ残された幻に過ぎないことを子供たちは知っていた。ブリタンニアにおける帝国の文化はむしろ彼らが蛮族と蔑んだバルバロスに交じり助けられることで支えられており、ティーナにしたところで帝国の歴史を知ると同様にバルバロスが信仰するカレイドウエンやアンドラステといった神々の存在をごく当然に学んでいた。帝国は多くの文字を本にして残し、当のバルバロス以上に多くの記録がそこには残されている。ジャン・ジェラルディンならずとも本は必要だった。

 古将軍ジェラルディンの家には帝国の古い書物が山と積まれており、それが将軍の率いる軍勢に古来の規律と戦術を思い出させたことを少年も少女も知っている。だからこそ彼らもまた書に親しむことに抵抗を覚えはしなかったが、歴史の探究が高じて古代の文化や生活への傾倒が強くなったジャンは今は失われつつある医学や天文にも強い興味を抱いていた。
 ティーナも一歳年下の少年の探究心を否定はしていない。だが彼女は知っていた。将軍ジェラルディンの息子が何を望もうと、衰退するブリタンニアで彼が将軍の息子である事実から逃げることなどできはしないのだ。だからこそティーナもそんなジャンを叱咤することを自分の務めのように思っているのだろう。

 私塾が終われば家に帰るまでの間、広場や公共の練技場で時を費やすことになる。子供たちには貴重な自由が与えられる時間であり、探求するジャンは早々に家に帰り古代の文字に埋もれたかったがティーナが来てからは練技場に通わされる時間に変えられてしまっていた。ジャンにとっては不満がなくもないが少女に逆らえるものではなかったし、将軍の息子である自分の立場を心得ていなかったわけでもない。だが問題は少年の意欲ではなく少年の技量である。
 練技場には体育競技だけではなく多少の馬術や剣技を教える者もいて、平穏とはいえぬ帝国に必要な場所と思われていた。それらの設備は古くは兵士や騎兵が互いに競う技を鍛錬するために使われたものである。馬を擬した台に乗って、その上で倒れぬように木の棒を振り回すこともあれば実際に馬が連れ来られることもある。ロンディニウムでは毎日決まった時間になるとこのために割り当てられた兵士が実際の指導に当たる。将来の兵士が必要とされる事情も確かにあるが、帝国では幼い子供が軍団や議会に接することがもともと推奨されていた。

 鞍にまたがって両足で馬の腹をしっかりとはさみ、不安定なその上で手綱を握り武器を手に取る。身軽なジャンは台の上だけではなく用意された小柄な馬の背に乗ってもごく自然にこれを御すことができて、万事少年に批判的なティーナもこの点だけは素直に感心してみせた。だが小柄で腕力にも体力にも劣る少年は剣の腕前となれば論じるにも値せず、流石は探求するジャンだと皮肉そのままに揶揄されてもこの有り様では反論できそうにない。さしものフィオレンティナがこの哀れな少年に助け舟を出したくなるほどであった。

「まあ大したものじゃないの?文字にばかり齧りついていても、馬には乗れるというなら悪くないわ」
「褒められるなら喜んで受け入れたいけどね」
「あら、人の好意を受け入れられないなんて嘆かわしいことだと思わないかしら」

 反論するところを見ると少年なりに悔しがってもいるのだろうが、残念なことにそれで何一つの希望すら見出すこともできなかった。古将軍ジェラルディンが復興させた帝国の剣は刃が短く、盾で押し返して突き刺すのに使うが軍団が騎兵に占められていたころは剣も長く手綱を握るために重い盾を持つこともできなかった。馬上で戦う兵士は盾を使わずに剣だけで弾く技術を発展させると、多くの戦いの中でそれを発展させる。
 皇帝が去ったブリタンニアで馬に乗る兵士はその数を減らしていたが、馬に乗る術と長い剣を扱う技は廃れることなく伝えられていた。ジャンの技量は長い剣でも短い剣でも持たせるだけ無駄というもので、しかも彼にとってはたまったものではないことに、少年の傍らに立つ清爽で律動感にあふれた少女は剣技でも馬術でも人に優れていた。

 ティーナは馬に乗り手綱も持たず早駆けをすることができたし、剣を取れば衆に勝り練技場に通う少年たちで彼女を打ち負かせる者は誰もいなかった。力に劣るはずの少女は長い武器でも短い武器でもバランスを崩すことなく振り回すと、彼女に打ちかかる剣を弾くでなくすべて受け流してしまう。将軍の息子の従者程度にしか思われずとも不思議のないフィオレンティナ・ロッサリーニが敬意を払われていた理由は彼女がロッサリーニの娘だからではなく、彼女自身の能力によるものだった。戦士としてはものの役に立ちそうにないジャンの存在がティーナを一層際立たせる。

 ジャンにすれば目の前の少女が常々自分に対して批判的な断を下しながらも、堂々と実力を示しているのだから言い訳のしようもない。だが少女に負けるまいという気持ちが少年を練技場に通わせていることも確かなようだった。書を開き、論を語り、馬を駆って、剣を握り、そのすべてにフィオレンティナ・ロッサリーニ・プリシウスは秀でてみせる。ジャン・ジェラルディンは自分には向いていないことを承知で、時に笑われ時に慰められることを承知の上で律儀に練技場に足を運んでいた。もっとも、そうでなければティーナに襟首を掴まれても引き摺り来られていただろう。

「せいぜい頑張りなさいね。その調子では十年経っても望みは薄いと思うけれど」

 だがティーナの才腕が天性の所産でも運命の贈り物でもないことを少年は知っている。将軍ジェラルディンの家に暮らす、騎兵隊長ロッサリーニの娘がこれだけの技に長じてもなお彼女は戦場に出ることも叶わず滅び行くブリタンニアに手をこまねいて見ているしかない、その怒りが彼女の原動力になっているのだ。かつてバルバロスには女性の英雄が存在したというが、帝国では女性が戦場に出る風習は存在しない。
 未来に失望する彼女はそれでも剣を取って馬に乗ることを諦めてはいない。ジャン・ジェラルディンには彼女の嘆きが分かる、だからこそ彼女に負けるわけにはいかなかった。たとえどれほど遠く、望みがない道だったとしても。

 少年も少女も知っている。皇帝コンスタンティウスが大陸に去って、ブリタンニアに残された帝国は衰退を続けており彼らが生まれ育った世界は流れる血が止まらぬまま衰え弱りつつあることを。ジャンやティーナの父は帝国の衰亡を止めるべく剣を振るい、それでも時の奔流に抗うことはできず彼らは自分の子供らのために無言の宣誓を守れぬことに失望するしかないのだ。
 だがジャン・ジェラルディンもフィオレンティナ・ロッサリーニも滅び行く世界に生まれ落ちて、彼らが望まぬ道を歩むことに躊躇いを抱いてはいなかった。探求するジャンは知識と思索を求め続けながらも慣れない剣を振り回し、フィオレンティナは彼女が守るべきものを守る強さを怒りと嘆きの中で磨き続けている。

 ジャンの頼りなさをティーナは軽蔑していたかもしれないし、ティーナの容赦の無さにジャンは辟易していたかもしれないが、彼らは互いの真摯さを認めていたしその根底に流れる川が世界に抗う意思であることにも気が付いていた。幼い時代はすぐに過ぎて子供たちの目に映る地平は低く下がり、気が付けば歳月が流れて数え切れない風がブリタンニアを訪れ、そして去って行く。

 十年が過ぎた。ジャン・ジェラルディンは十七歳、フィオレンティナ・ロッサリーニは十八歳を迎えている。


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