第三章 ロンディニウム議会


 海峡を越えて、帝国と大陸を行き交う人々の姿は減りつつある。かつてはロンディニウムから連なる石畳の街道を忙しなく南へ北へと抜ける荷車を少なからず見たものだが、僭称帝コンスタンティウスが南に去ってからは轍の音も減って久しい。閑散とした門前で、退屈そうに曇天を見上げている衛士はそう思う。だが実際には彼が思うように海峡を越える人の姿が絶えていたわけではない。帝国の港であるノーヴィオや州都ロンディニウムに行かぬ幾つもの船が、ブリタンニアの沿岸に直接乗り付けると方々にあるバルバロスの集落へと向かっているのだ。

「港から来たのかい。あちらの様子はどうだね」
「積み荷は売るものではなく奪うものだと思っている輩がうろついているからな。景気が悪くて仕方がないさ」

 お定まりの衛士の声に、バルバロスの物売りは本心からぼやくような声を上げると荷車を繋ぐ驢馬の横腹を軽くたたく。ごく小さな鳴き声が応えて、動き出した轍が石畳にがらがらと音を立てた。かつて帝国が敷いた街道は今でも軽やかな音をることを許してはいたが、最早新しい道が延ばされることはなくつるはしの音が絶えて久しい。しばらく手を振っていた姿も消えて、ぼんやりと空を見上げた衛士の頭上には西からの暖かく湿った風と東からの乾いた風が混じり、雲が垂れ込めていてブリタンニアらしいと称される曇天を描いている。

 ブリタンニアはバルバロスが跋扈する地である。かつて島を東西に横切っていた長城も今では形だけの塁壁と化して久しいが、古将軍ジェラルディンが率いた十年前の戦いで帝国が勝利して後はしばらく大きな争乱も起きてはいない。人々はごく狭い領土を守りながら他所との交流も絶やさず、互いに穏当に暮らしているようであった。東の海峡からは大陸を抜ける風が吹き抜けてきて、ことさらに寒冷で肌を切る空気が容赦なくブリタンニアを侵そうとしている。
 石造りのロンディニウムは古くからの帝国の伝統に忠実な陣営地を礎に建てられた都だが、大陸の建物と異なるのは陽光よりもブリタンニアの寒風を避けやすいよう作られている点である。通りに迫り出した柱廊に面して店棚や工房が並べられている、その風貌は一見して大陸と変わりないが、厚い石壁に面した窓は風よりも明かりを通すように開けられていて、柱廊は日差しを避けるよりも装飾としての意味あいが強く繊細な彫刻が凝らされていた。

 帝国議員マレンティオが拳を固く握り、論陣を張っている議堂もそうしたブリタンニアの建築物の一つである。厚い壁に四方を囲われた、石段の連なりには数十人を越える深刻な顔が並んでいて一様に重く沈んだ表情を隠すことができない。マレンティオが立つ演壇は壁の一面を背にしており、ブリタンニアを去って久しい皇帝の像が飾られていた。

「通貨が不足している。材料すら足りないのだ。コンスタンティウスが大陸に引き上げてしまったからな」

 長衣を着た人々の群は目を背けたくなる現実に直面せざるを得ない。帝国の事情は好ましいものとはいえず、僭称帝コンスタンティウスが撤退して後もブリタンニアは馬を産し錫や鉄が採掘されていたがそれはすべてバルバロスのものであった。かつてロンディニウムがブリタンニアの中心であった時代であれば、帝国はそれらを買うことができて行き交う人と物が多くの財貨をもたらすことができた。交易が衰えれば税すら求めることができず、帝国の財政は厳しいものにならざるを得ない。今や帝国では高値になったバルバロスの産物を、頭を下げて譲ってもらわねばならぬのが現実であった。

「彼らの要求は諸君もご存知だろう。既に港では値の吊り上げも始まっている、このままでは際限が無い」
「だがバルバロスとて富裕ではない。近年の寒波で彼らも困窮しているのだ。関税が無闇な収奪になればそれこそ不穏な動きを招くやもしれぬ、それでは十年前の再現だ」

 議堂は今にも人々を押し潰そうな重苦しい空気に満たされている。情勢が窮迫した挙げ句に争乱が起こるとなれば勇み立つ者もいるだろうが、帝国にも、そしてバルバロスにも軍団を養うだけの蓄えはなかった。互いに不満のはけ口を求めて争った挙げ句、血を流すだけで仲良く滅びの歌を奏でることにならぬとも言えないのだ。帝国が衰退してバルバロスが跋扈するブリタンニアで、事実はといえばバルバロスも往事の勢いを減じていたが帝国はそれ以上に衰えているというだけである。

 今は十年来の平穏のおかげで街道にも港にもまばらな交易の姿があり、潤沢とは言えずともバルバロスは馬や鉄を産して帝国では建築や工房を支える技術を持っていた。そう遠くない将来、いずれ破綻が起きるだろうがあるいは彼らの憂慮は徒労に終わるかもしれない。
 気が付けば討議は慰めの場に変わり、落胆して石造りの議堂を出たマレンティオは雲が垂れ込めているブリタンニアの空に重い息をついた。石畳の広場を抜けて、ロンディニウムの町並みに目を向けるが人々の姿に活気を感じられないのは先入観のせいであったろうか。通りの幅が大陸に比べても狭く入り組んでいるのは霧深く寒冷なブリタンニアではこの方が風を遮りやすいからであり、そのような技術と知識が彼らの財産であった時代も今は遠くなっている。東に西に海流が行き交うこの地では、郊外に出れば快い風が吹き抜けることもあるがロンディニウムの空気は重く澱んで流れる様子もなかった。

 マレンティオの足は石畳をしばらく進むと彼の屋敷へと向かい、主人の帰宅を待っていた忠実な従僕の出迎えを受ける。長衣の上に羽織っていた毛の外套を渡し、かわりに厚手の羽織布を受け取ると肩にかける。その日は彼の家を訪れていた友人が一足早く到着して客間でくつろいでいるとのことであった。将軍ジェラルディン、旧友である古将軍の姿にマレンティオは相好を崩す。気心の知れた挨拶と杯を交わした後、口を開いたのは客人からであった。

「その様子では陰気な話が多かったようだな」
「帝国もバルバロスも情勢は厳しい、にも関わらず帝国はバルバロスからの税を増やさねば自らを維持することができずにいるのだ。彼らの不満が武器を伴うのも時間の問題だが、誰も戦など望んではいない。赤早と馬の部族を介して話ができると良いが、期待は薄いだろう」
「帝国がバルバロスを抑えるには二つのものが必要だった。一つはブリタンニアが平穏であること、一つは羽飾りが強くあること。沿岸にはびこるオオカミの噂は知っているだろう。帝国がバルバロスを守れぬとあれば、彼らの不満は無為な我々に向けられるしかない」

 古将軍は息をつくと、空になった友人の杯に酒を注ぐ。赤早とは帝国と未だ親交のあるバルバロス、馬の部族の若者の名前あり先代の部族長の息子でもあった。十年前の戦いの後、帝国とバルバロスの友好のためにロンディニウムに送られた使節であり、端的にいえば人質だが彼らを賓客として遇することは古くからの帝国の伝統である。馬の部族にすれば有力者の子息が帝国の文化や技術を得ることに繋がり、他の部族に優位に立つことができる。彼らが人質ではなく、使節と呼ばれているのは決して建前や面子だけの理由ではなかった。
 レッド・スイフトの名を持つ赤早は気高く勇気があり、聡明でブリタンニアの古い知識への理解も深くロンディニウムでも評判が高い若者であった。年齢でいえばすでに長の座を継いでも不思議はなかったが、先代の急死に伴い今は彼の叔父が族長となっている。帝国と部族の間を自由に行き来することが許されており若い英雄のように扱われている。悪意のない冗談であれば、古将軍ジェラルディンにこそ赤早のような息子が欲しかったと言われるほどであった。

 赤早はロンディニウムの有力者の子弟とも親しく、そのこと自体が帝国とバルバロスの関係を象徴していたが昨今ではそれが揺らぎつつあった。情勢が不穏になれば部族の利益を優先せざるを得ず、それを承知で赤早を自由に帰していることが帝国の彼への信頼を示してはいたが、近年はそれも心許ないと思われている。だが双方を繋ぐ一本の橋が落とされるようなことになれば、互いに交わす言葉は失われて争いを防ぐ手立てはなくなるだろう。勇猛なバルバロスは十年前にねじ伏せられた屈辱を決して忘れてはいない。マレンティオは空になった二つの杯に、今度は自分の手で緋色の酒を満たす。

「だが正直なところを言えば、私はそれでも構わないと思っている。コンスタンティウスが去って我々は偉大な存在ではなくなった。戦いさえ避けられるのであれば、帝国とバルバロスの関係を見直して互いが対等に接することも一つの方策かもしれない。もっとも今の我々が彼らと対等に接するに値する存在であれば、だがな」

 いずれにせよ彼の本音を議会に言える訳もなく、そのことは置いておこうと言うと壮年の帝国議員はいささか強引に話題を改めた。ところでお前さんの子供たちはどうかね、という旧友の言葉にジェラルディンは自嘲するような顔になる。妻が死んで家人も地方の町へと離れてしまい、古将軍の邸宅には彼自身の他にはジャン・ジェラルディンとフィオレンティナ・ロッサリーニ・プリシウスの二人が暮らしているだけとなっていた。

「ティーナには伝えた。家を頼むと」

 その言葉を心中で拒絶する、娘の悲鳴をジェラルディンはその時聞いたように思う。もともとジェラルディンの家は彼の地位ほどに豪壮ではなく、妻が死んで使用人も去ってからは守るものなどない屋敷だけがただ残されていた。
 ロッサリーニの娘は家名を守るために、ジェラルディンの養女にはなっていなかったが家族の一員として養われている。馬を駆り剣を持って、彼女に勝る者がロンディニウムにいるとすればそれは赤早くらいのものだと言われるほどの俊英だが、一人の娘としても礼節を心得ており必要であれば控え目な将軍の娘としても、家にただ一人の女主人としても振る舞うことができる。年頃の娘のように香料や宝石に耽溺するでもなく、探求するジャンに陰口を叩く者はいても彼女を嘲る者はほとんどいなかった。ロンディニウムにはもう一つ無責任な冗談がある。ジェラルディンの家で息子は娘のようで娘が息子のようだと。

 だが人が言うほどには「探求するジャン」が無為でも惰弱でもないことをジェラルディンは知っている。人が呆れている不肖の息子、探求するジャンは相変わらず古い本に没頭していたが、馬を駆ればフィオレンティナに劣らず剣の腕もそこらの貴族の子弟よりよほど優れていた。いずれ古将軍ジェラルディンが戦場に出るとなれば、ジャンは父に従うがフィオレンティナにはそれができない。だからこそジャンは本に埋もれながら、この十年の間に鍛錬を怠ったことはただの一日もないのだ。子供たちの父は最後の杯を飲み干すと、呟きながら視線を下ろした。

「叶わないものだ。息子の願いも、娘の願いも、父の願いも」

‡ ‡ ‡


 その日はブリタンニアに珍しい西から東への風が高く抜けると霧や霞を吹き散らして、久しぶりに空は澄んだ青い姿を見せていた。こんな風が出るときには歌を紡ぎたくなる、それが幼い頃から変わることのないフィオレンティナの心情だった。ロンディニウムを見下ろす見晴らしの良い丘に立つと、下草に覆われた起伏のある原とまばらな森が視界に入る。全身を撫でる風が彼女の生家があるビディフォードの小村から訪れているだろうことに小さく満足する。

 下草が揺れる音、草を分けて地を流れる風が輪になって巡り吹き抜ければ生命の鼓動が森を渡り、草原を渡り、そして川を渡る。木々が揺れる音と水面を滑る音が彼女の肺と血液の音であるかのように溶け合っている。
 帝国がブリタンニアに礎を興してから四百五十年ほどが過ぎて、僭称帝コンスタンティウスは南へと去っていたが帝国の剣と法がもたらした文明はただバルバロスを駆逐した訳ではなく彼らを受け入れて混じり同化もしている。フィオレンティナの唄は帝国の言葉とバルバロスの音律が混じり合うブリタンニアの唄だった。

 ブリタンニアの古い伝統と勇気はバルバロスの中で決して失われてはおらず、過去に帝国の傲慢が女傑ボウディッカに叛乱の狼煙を上げさせた過ちもあるが帝国はそれすらも記録として残し絶やそうとはしない。ふと、丘を登る気配に気がついたフィオレンティナの声が止まると聞こえよがしに呟いてみせる。

「こんな風が流れるときには、何にも遮られない唄を紡ぎたくなるものね」

 呟いた理由が自分に聞かせるためであることにジャンは苦笑するしかない。フィオレンティナの唄は耳に心地よく、目を閉じてなお風が抜けるブリタンニアの姿を思い浮かべることができた。

 フィオレンティナがジェラルディンの屋敷に引き取られてから十年が過ぎている。古将軍ジェラルディンを父と呼び家族として振る舞ってはいたが、彼女は一門でただ一人となったプリシウスの家名を捨てることはなくそれは百人隊長ロッサリーニの友人であるジェラルディンの意思でもあった。
 ジャンといえば「探求するジャン」の呼び名が広く知られている事情は相変わらずであり、フィオレンティナが努めて公正に評価すれば馬を駆けさせればロンディニウムでも随一だが性質は柔弱と言うしかなく戦士としては臆病に過ぎる。その臆病なジャンはいつものようにフィオレンティナの視線を気にもしない様子で、彼女の傍らに並ぶとどこを見るでもなく呟く。

「ブリタンニアに争いが起こりそうだよ」
「父様が何か仰っていたの?」

 尋ねる言葉にジャンはゆっくりと首を振る。すべてを窺い知ることはできないが、探求するジャンには父とマレンティオが交わしていた言葉の断片がありありと見えている。僭称帝コンスタンティウスが海を渡ってから近年、大陸では自ら皇帝を名乗る者たちの争いが続いていたが、誰も衰退した帝国の行く末など案じてはおらずその後の情勢もまるで知れてはいなかった。
 この当時、大陸は押し寄せる寒波に晒されて多くの人が凍てついた放牧地や農地を捨てなければならなかった。寒波と人の波は海を越えてブリタンニアにも及んでおり、海のオオカミと呼ばれている彼らの到来が帝国の衰退とバルバロスの混迷に拍車をかけている。だがその影響は大陸ほどではない、まさしくそれが問題であり新天地を求めるオオカミが衰退して混迷するブリタンニアに渡るこの状況で帝国とバルバロスは互いにいがみ合っていた。

 探求するジャンはロンディニウムを行き交う言葉の断片と人々の様子から真実の一端を想像する。かつて七つの丘に生まれた帝国の信仰はとうに失われており、絶望した人は古い信仰を捨ててクライストと呼ばれる救いにすがろうとしていた。
 クライストの教えはブリタンニアにも伝わっていてジャンもフィオレンティナも耳にしていたが、自らを律して正しく生きようという教えはともかく、救いを求めて唯一人の神に祈るという信仰を理解することは難しかった。今やその教えは大陸に広く行き渡り皇帝すらクライストの司教を傍らに抱えているというが、古来より人は神々に祈るのではなく自らの行いを誓約して決意と感謝を捧げていた筈である。

「何もせず何も為さず、ただ神様に救いを求めるだけの生活でいったい何が楽しいというのかしらね」
「楽しくない、だから祈らずにいられないのかもしれないよ」

 フィオレンティナの言葉にジャンは言う。知ったようなことを言うと思うが、探求するジャンの思索は確かに人が及ばぬ岸辺に辿り着くことがあるようだ。人々は苦境と混迷の中で行き着く先すら知れず、現在と未来に絶望すればせめて慰めを求めるしかすることがない。神々の代理人である皇帝が逃げ出すような世界であれば、人が誓いを立てたところで神々は傾ける耳を残しているであろうか。
 帝国は衰退する一方で流出する人の流れは止まらない。新天地を求めた者にも安寧があるとは限らないが、いずれにせよ傷口が塞がらぬ帝国には流れる血を止めることもできない。今ではジェラルディンの屋敷に数人いた使用人たちも家族親族を頼りに姿を消しており、父の他にはジャンとティーナの二人しか残されてはいなかった。帝国を捨てて、都を捨てて、家を捨てる者がいる。その世界で古い神々の教えが捨てられても何の不思議があるだろうか。

 ブリタンニアの風がフィオレンティナの髪を柔らかくなびかせている。ただ祈って救いを求めるだけの思想、かつての帝国であればそれは信仰ではなく盲信でしかないと弾劾することができたであろう。大いなる存在に救いを委ねることが許されるのであれば誓約は必要ない。であれば人は何も誓うことがなく何を為すことも必要がなく、いと貴き振る舞いに及ぶ者はいなくなるではないか。それは哲学が失われて人が蛮人に堕すことを意味しており、本来の意味においてのバルバロスが生まれるだろう。

「バルバロスにはバルバロスの言い分がある。けれど苦境と混迷に絶望してただ流される者に比べれば、衝突が争いを生み出したとしても人は自らの道を選ぶべきよ。だからこそ羽飾りは戦場に赴く、それを止められるものではないわ」
「月桂より樫の葉こそ尊きことを武器握る手は忘れてはならぬと言うよ」
「ならば君に言おう。人は人を守るからこそ人であるのだと」

 フィオレンティナの即興にジャンは降参する様子で手を広げてみせる。古来より月桂の冠は戦場で敵を倒した者に与えられる栄誉であり、樫の葉の冠は人を救った者に与えられる名誉とされていた。ジャンがティーナに負けぬよう馬を駆り剣を握っていたように、ティーナもまた探求するジャンに劣らず論を語り文を諳んじることができる。
 あるいは彼らは互いが考える以上に互いを評価しているのかもしれない。人が去っていくロンディニウムでフィオレンティナの望みを知るのはジャンだけであり、探求するジャンの思索に向かうことができたのはフィオレンティナだけであった。

 彼らの眼下で蛇行してロンディニウムに流れ込んでいる川面は澱んでいて決して美しくはなかったが、それはかつて陣営地として始まった都を数百年も支えた流れである。流れ来るブリタンニアの時を見下ろしていた背後から丘を登ってくる歩みを感じとると、二人は申し合わせるでもなく同時にゆっくりと振り返った。視界の下方から近付いてくる姿はロンディニウムの者であれば知らぬ者がないレッド・スイフト、若きバルバロスの英雄赤早である。古将軍の家で育ったジャンやフィオレンティナにとって知らぬ間柄ではなく、互いに敬意を込めた挨拶を交わすと赤早も彼らしく気を使わない口調で言う。

「ここはロンディニウムが一望できる。帰る前に、帝国の姿を目に焼き付けておきたいと思った」

 これまでも赤早は幾度も彼が生まれた馬の部族に帰っていたが、その時の言葉はバルバロスの英雄が去って二度と帝国には戻らぬであろう、その予感を若者たちに感じさせた。戦いが始まるのだ。十年前の繰り返しではない、帝国が衰退してバルバロスが混迷するブリタンニアの戦いが。
 赤早は勇猛なバルバロスの戦士を率いて戦陣を駆け、帝国が誇る羽飾りがそれを迎えるだろう。柔弱なジャンでさえも彼が古将軍ジェラルディンの息子である以上は戦場への道を歩むことを避けられない。そしてロッサリーニの娘であるフィオレンティナは家に残りただ彼らを待つのであろう、そう思うと彼女の心中を怒りにも似た感情が支配する。女傑ボウディッカのように、バルバロスでは女性が戦場を駆けることもありえたが帝国の羽飾りは古くから男たちの軍団であった。

 思索を重んじる少年は戦場に背を向けることができず、馬を駆り剣を振るう少女には自ら人を守ることができない。少年でも少女でもなくなりつつある、ジャンが何故馬を駆って剣を握ろうとするのか、フィオレンティナが何故論を語り文を諳んじることができるのか。滅びに対峙するブリタンニアで彼らは望むままに生きることすらできないのだ。

「争乱は避けられないのでしょうか。ジャンのような人間が戦場に出ることが正しいとは思えません」
「叶うことならば私も帝国と矛を交えたくはない。できる限りのことはしてみようと思っているが、残念ながら羽飾りの権威は昔ほどに認められてはいないのが正直なところだ。本当は帝国もバルバロスも、そのようなことをしている場合ではないというのにな」

 フィオレンティナの言葉に赤早の表情がわずかに翳る、そのことに気が付いたのはむしろジャンであったろう。フィオレンティナの唄がごく当然にバルバロスの音律を奏でるように、帝国はバルバロスにも親しく彼らは確かに過去の侵略者だがその彼らがバルバロスの伝統を現在まで残したことを赤早は認めていた。かつて帝国の暴虐に反旗を翻した女傑ボウディッカの伝説すらも、それを残したのはバルバロスの口伝ではなく帝国の記録なのだ。
 帝国が衰退してバルバロスが混迷するブリタンニアで、大陸を渡るオオカミが海峡を越えて伸張しても愚かしい部族や集落の長たちは互いに争ってまとまることがない。バルバロスが決して帝国にはなれないことを赤早は知っている。

「アンドラステの勇気とカレイドウェンの叡智、それを持っているのは帝国であってバルバロスではないのだ」

 赤早が掲げた二柱は古くバルバロスの伝承が伝える女神、戦いと勝利を司るアンドラステと月と叡智を示すカレイドウェンである。ブリタンニアの信仰はバルバロスが編み上げたものであるが、帝国が海峡を越えなければ数百年を経て神々の姿が変わらずに残されていたとは思えない。
 バルバロスの事情は帝国が思っている以上に好ましいものではない。流出する人が帝国の血を失わせているとすれば、押し寄せる人がバルバロスに混乱を強いていた。大陸から襲来するオオカミの影響は帝国が想像しているよりも大きく、幾つもの部族が彼らに押し出されて北のハイランドや西の内海への移住を余儀なくされていた。海のオオカミは大陸でも知られている羽飾りの軍団旗が立つ帝国の港や砦よりも、バルバロスの集落を襲いすでに幾つもの部族が焼け出された話を聞いている。

 だが混迷するバルバロスが槍を掲げ矛を上げた、その切っ先はオオカミではなく帝国に向けられている。愚かしい話だが古来より帝国とバルバロスは互いに手を取ってなお互いに争うことを止めることができなかった。羽飾りがもたらした文明を受け入れた上で、あるいはだからこそバルバロスにとって帝国は常に超克すべき相手であったのだ。
 だがバルバロスは帝国に倣いながらこれを超えることができない、その理由を赤早は知っている。彼らが帝国でもバルバロスでもなくブリタンニアの民であるという自覚、それが自分たちにはないのだ。フィオレンティナの唄も探求するジャンの思索もバルバロスは持っていないのだから。

‡ ‡ ‡


 議堂に集っている人々の顔は一様に重く暗い。帝国議員マレンティオのそれも同僚と何ら変わるところがなく、自分たちのごく近い未来の姿に暗然たる思いを抱かずにはいられなかった。傷口から流れる血が止まらないかのように衰え、弱っていく帝国を統治する身である事実が重くのしかかっているが、彼らは自らの責務を放棄した訳でも絶望した訳でもない。そのような者たちはすでに大陸に渡り己の才幹のみで自らを延命すべく無謀だが前向きな試みに挑んでいた。人を統治する者は人に奉仕するものであると信じている者、帝国と市民に忠誠を誓っている者、そして現実に耳を塞ぎ来るべき破局に目を背けている者だけが議堂に並ぶ石段に腰を下ろしているようであった。
 帝国が強く健全であれば良かった。彼らは失われた過去を懐かしむ老人のようにそう思ってしまう。十年前に古将軍ジェラルディンが軍団を率いた頃には辛うじてそれがあった。埃を積み上げる古い文献から掘り出された、古代の規律と訓練は急場に召集された市民たちを勇壮な羽飾りに戻すことができた。それは強引なもので多くの人は反感を抱き、ただバルバロスとの戦いに勝利したことで辛うじて人々を繋ぎ止めることができていたのだ。

 議員たちは帝国の交易や財政が衰えてバルバロスの要求が増している、その事実に頭を抱えている。だが戦いになれば事態は更に深刻であろう。十年前の戦いは過去のものでありかつての羽飾りたちは歳を重ねている。あの当時ですら厳格な古将軍に召集され羽飾りになれた者は少なかったが今は更に少ないだろう。実際のところこの二百年来、ブリタンニアで帝国が率いていた軍団兵はバルバロスの戦士が中心になっていたが、十年前の戦いはそのバルバロスに矛を向けられた戦いであったからこそ帝国は市民を召集せざるを得なかっただけなのだ。
 議堂で長衣をまとっている人々はその事実を知っている。戦いが起こればそれは破局を意味する、だが戦いは避けられぬところまで事態は窮迫していた。我々はもう一度古将軍ジェラルディンを戦場に呼ぶことになる、誰も勝てるとは思っていないが、十年前の栄光がもう一度もたらされるのではないかと心のどこかで根拠のない救いにすがらずにはいられなかった。

「それにしても、いったい我々は何百年来の支払いを滞っていたのであろうな。このブリタンニアでバルバロスは常に戦場に立っていたが、帝国は壁の奥に安住して金と口を出しているだけだった。月桂より樫の葉こそ尊きことを武器握る手は忘れてはならぬと古人は言っていたが、であれば人を守ることができぬ人に、人を導く者としての資格などないというのに」

 戦いに明け暮れることは愚かしい。だがそれよりも愚かしいことがあるとすれば、それは人が戦いに赴く影に隠れて平然として怠惰を受け入れることだろう。帝国は自分たちを守るためにバルバロスだけに武器を持たせて、それを疑問にも思わなかった。その帝国に遂にバルバロスが矛を向けたとき、いと貴き振る舞いに人は及ぶことができるのであろうか。
 どうせ勝てない戦いが待ち受けているのであれば、せめて華々しく散ろうではないか。そんな自己陶酔的な考えを正気で抱ける者はいない。言葉を飾る必要はない。誰だって生き延びたいと思い、滅びずにいたいと願うのだ。避けがたい戦いを前にして人は人を守ろうとすることができるのか、流れ出る血が止まらないかのように、人が去っていくこの帝国で。

 戦いを厭い人を傷つけることが悪だと説くのではなく、戦いを賛美して武器が平和をもたらすと説くのでもない。我々はただ子供の正義を抱き、人を守りたいと切実に願うことができるだろうかとマレンティオは思う。そして慨嘆するのだ。我々は子供の心に頼らなければ、最早帝国を守ることができなくなってしまったのだと。


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