第四章 勇気と叡智


 かつて四百五十年ほども昔に最初の足跡が記されて以来、帝国の陣営や砦は都市になって街道で繋がれると開かれた港が大陸との交易を活発にした。人と文明が行き交い、彼ら自身が繁栄と評する時代をこの地にもたらしたが、やがて帝国が衰退すると彼らは自らの軍団を連れて大陸へと引き上げてしまい、ブリタンニアが歴史から途絶されて十数年が過ぎていた。
 皇帝が去っても帝国が消失した訳ではなく、多くの人々がかつての州都であったロンディニウムを中心にしてそれまでの生活を営んでいる。属州ブリタンニアを治めていた議会は今ではブリタンニアにおける帝国を治める議会となっていた。彼らは今も慣習的に自分たちの国を「帝国」と呼んでいたが、それはもはや大陸と切り離された小都市群を示す言葉に過ぎない。

 それでも帝国にはかつての繁栄の名残が、文明の所産が残されていた。石造りの建造物や隙間なく舗装された街道、洗練された弁論や整えられた法制度、肉体の健全と清潔さを保つ生活習慣や歯科や外科治療まで含めた医療知識、往時の価値を失いながら今も流通する通貨、そして羽飾りと呼ばれている勇壮な軍団兵たち。これらを手にしている帝国は疲弊して時間に摩耗してもなおブリタンニアを主導する存在と人に思われている。

 だがそうした確信が遂に揺らぎ崩れ出したのもこの時代である。ブリタンニアにおける帝国の支配は慈悲深きアントニヌスが築いた壁によって北方ハイランドの山脈にまで及んだこともあるが、それは規模も小さく壁というよりも土塁のようなものであって二十年ほどで放棄されており度重なる風雨やバルバロスの襲撃で崩落してとうに朽ちていた。
 長く帝国を象徴した壁は勤勉なるハドリアヌスが築いた長城であり、それはブリタンニアを東から西に分断する長大な石壁、幾重もの塹壕や防柵を構えた堅牢な砦ではあったが今では放棄されて、未だ威容を誇ってはいたが長城を守る兵の姿も絶えて久しい。今では幾つものバルバロスの部族が長城を南に越えていたが、それでもブリタンニアにおける帝国といえば長城から南に広がる、文明の所産が残されている一帯を指していた。

「覚えているでしょうか。かつて勇壮であった者たちの歌、バルバロスの戦士と羽飾りが奏でる勲しの歌を」

 煤けた酒場の壁に竪琴弾きの声が響くとリュートの弦が弾かれる。ブリタンニアに暮らすバルバロスの部族は古来からこの地に住んでいた原住民であったり、遥か以前に東方や北方から海峡を越えて入植した者たちの末裔であった。新しき民にしてブリタンニアの主導者となった帝国の人々は文明に依らぬ彼らを総称してバルバロスと呼び、それは蛮人を指す蔑称であったが帝国が衰退した今の時代では古代の勇猛さを受け継ぐ戦士を示す誇り高き意味へと変わっている。
 バルバロスには幾つもの部族が存在する。金床の部族は総じて背が高く頑健で、坑道を掘ってつるはしや槌を叩き、火のように強い酒を好むことで知られていた。馬の部族は伝承にある女傑ボウディッカの後裔を名乗り、馬を育てて遊牧に近い暮らしを営んでいる。綱の部族は内海沿岸に暮らしており、普段は牧畜を営んでいたが沿岸に流れ着く船やその残骸を襲っては臨時の収益としている。ハイランドの高峰より北に暮らしている部族は帝国でもあまり知られておらず、記録にも少ないが森を行き来して伝来の薬草や鉱石に詳しいとされていた。

 部族は数千人を超える集落を築いていることもあれば二つ三つの家族を合わせただけの例もある。ほとんどは有力な幾つかの部族に従っているだけの連中であり、帝国と近しい馬の部族はその中でも大規模な一つとされていた。バルバロスのすべてが帝国に近しい訳ではなく、反発している訳でもなくブリタンニアに起きた幾度もの戦いで彼らが一丸となって帝国と事を構えた例はない。

「静かなるカレイドウェンの叡智を得てバルバロスは獣から人になることを覚えた。そして人が戦いを欲した時、猛きアンドラステの勇気は彼らの手に槍と弓を握らせる。帝国が誇る羽飾りがマルスの剣とヤヌスの盾を掲げて石造りの道を踏んだように、バルバロスはブリタンニアの森を思わせる槍槍の穂先を一面に並べる。そんな戦いを彼らは繰り返してきた」

 竪琴弾きが奏でる戦いは帝国がブリタンニアに足跡を記して以来繰り返されている。時として打ち合わされる武器の音が止み、互いの手が握られたこともあるが今では彼らの手は再び武器を握ろうとしていた。ロンディニウムに通じる街道に面した酒場は往時に比べれば人の行き交う姿が減ってはいたが、人々の口の端を伝わる言葉の早さは時代を問わず馬や伝令のそれに勝っている。
 帝国の衰退とバルバロスの混迷は止まる様子がない。かつてはバルバロスが産する多くの品々を帝国が買い求めて、バルバロスは帝国の優れた技術の所産を得ることができたし、平穏を脅かす賊徒が現れればブリタンニアを主導する帝国はこれを力ずくで鎮めていたものである。

 それは決して穏当な統治ではなく愚かしい所業も多々あったが、土を耕し、獣を追う中でブリタンニアに争いが起こらず平穏であるならばバルバロスも帝国の責を理解して羽飾りの権威を称えもしたであろう。だが帝国の軍団兵がブリタンニアを捨てて南へと姿を消し、交易が衰退して扱われる品は拙劣にも関わらず高額になるばかりとなればブリタンニアの先住者がどうして従うであろうか。
 多くの人々は現実から目を背け耳を塞いでいる。だがそれは帝国に限らずバルバロスでも同様であり、それがブリタンニアの混迷をより深刻なものとしていた。帝国は衰えたがバルバロスも勢威を増してはおらず、往時の帝国のようにブリタンニアを主導する力を持っていないがバルバロス自身はその事実を認めていない。だからバルバロスは帝国打倒の悲願を果たすために兵を起こそうとする。それは他の部族に先んじたいがための理由でしかなく、十年前は古将軍ジェラルディンが率いる羽飾りの軍団に遮られたが、今度こそそうはいかぬと彼らは心から信じようとしているのだ。

‡ ‡ ‡


 レッド・スイフト。赤早の名はバルバロスの若い英雄に相応しい勇気と剽悍さを意味している。すらりとした長身と端正な顔立ちに、しなやかな力強さを秘めた若い駿馬を思わせる赤早は十年前の戦いの後、人質として帝国に預けられてはいたが実際には客人として遇されていた。
 馬を駆って武器を取り、論を語り文を諳んじて赤早に並ぶ若者はロンディニウムにも少ない。有力者の子息がこのような人物であることは帝国にも都合が良く、古来からこうした交歓は積極的に行われていた。

 馬の部族が暮らしている地域はかつてハドリアヌスが築いた長城の南にあり、帝国が敷いた街道に近いがわずかな起伏のある広々とした土地は放牧にも農耕にも都合が良い。木柵で囲われている集落の中央には広場があり、その背には族長が暮らすひときわ大きな屋敷が構えられている。屋敷では数月ぶりに故郷を訪れた赤早を歓迎する宴が開かれていた。帝国は馬の部族の若者が故郷を訪れることに何の制限も設けてはおらず、それは彼らの友好の証とされている。

「よく帰ったな。レッド・スイフトの勇名は集落にも届いているが、それはバルバロスの名であって帝国の名ではないことを忘れるでないぞ」
「心得ております、長よ」

 どこか傲慢に見える様子で杯を掲げてみせる族長に、若者は頭を下げると正面に腰を下ろす。先代の馬の部族長である、赤早の父が数年前に急死したことは事態をいささか複雑なものとしていた。長の地位は赤早には叔父にあたる、先代の弟が継いでいたがあと五年ほど遅ければ部族長の地位は赤早のものとなっていたであろう。
 自分の背丈ほども長い斧槍を自在に振り回して、馬に乗れば手綱も持たずに自在に弓を放つことができる。月と星を読めば占星師よりも正しく空を描き、帝国の知識にも詳しく痩せた地に水利を整える術や、病や怪我に倒れた人に施すべき施療も心得ている。アンドラステの勇気とカレイドウェンの叡智、バルバロスの信仰を体現した英雄がレッド・スイフトであった。

 長自身は優れた狩人として部族に知られてはいたが、彼の息子に至ってはごく平凡などら息子であり、どれほど贔屓目に見ても赤早に及ぶものではない。それは仕方のないことだとしても、赤早の存在が長の立場を危うくさせると思われても無理はなかったろう。長も赤早もそのことをわきまえていて、彼らは互いの立場を崩さないが人の目がそうした事情を忖度する訳ではない。長に不満を抱く者がいれば赤早を担ごうとするだろうし、彼らの間に意見の差異が見られることでもあれば尚更のことである。

「戦の噂は聞き及んでおります。バルバロスの勇壮は今度こそ羽飾りを倒すことができるでしょう。ですが長よ、戦いに勝ち帝国を退けたとして空の厚き雲が晴れますでしょうか」

 赤早が帝国と馬の部族の友好を象徴する存在であることは長も心得ているが、馬の部族にもバルバロスの他部族に対する立場というものがあった。彼らが帝国に対して強硬な姿勢を見せることは単純に部族長と赤早だけの関係によるものではない。

「お前の言いたいことは分かる。だが羽飾りを倒せば馬の部族は権威を増すだろう。小さな部族であれば戦わずして従い、我らがブリタンニアの主となることもできる。だがそうでなければ他の部族がただ一つの座を望むかもしれぬ」

 長の屋敷は木や骨や毛皮で組まれているがそれは彼らの野蛮なるが故ではなく、狩猟で手に入れた勇壮と誉れであった。巨大な獣の角や頭骨、毛皮が幾つも飾られていて代々の長が彼らを率いるに相応しい力を持っていたことを示している。足下に敷かれた巨大な毛皮は長自身が仕留めた魔狼のものであり、屋敷の入り口には赤早が仕留めた牡鹿の頭骨が飾られている。
 長と赤早の周囲には部族の家々を代表する戦士たちが集められており、彼らが携える斧槍の輝きを見ればすぐにでも羽飾りに挑む用意が整えられていることを窺い知ることができた。戦いの用意が必ずしも明日の戦いを決定する訳ではないが、部族を率いる者であれば明日の戦いよりも戦いを終えた明後日のことを考えなければならない。

「我らが望まねば他の部族がそれを望む。では我らがブリタンニアの主となり、主となった我らは何をすべきでしょうか」

 赤早の意図を察したのであろう、長はわずかに言葉を詰まらせた後で仕方ないといった様子で口を開く。

「そうなれば最早我らを脅かす者はいなくなるのだ。誰はばかることなく宴に耽ることができよう」
「今でさえ我らの宴を脅かす者などおりますまい。ならば衰えた羽飾りと争うべき理由が本当にありましょうか」

 赤早は言うが部族長は憮然とした顔で掌をかざし、それ以上戦の話題に触れようとはしなかった。赤早も食い下がろうとはえずに数度の杯を交わし、やがて宴が更けてから深く一礼をすると踵を返して月空に足を踏み出す。カレイドウェンが見下ろす冷ややかな空が火照った身に心地よい。
 赤早と部族長問答はかつて数百年もの昔、帝国に挑もうとしたある国の王をその臣下が諌めたやり取りを真似たものに過ぎず、帝国では子供でも知っている有名な説話を剽窃したものだった。長と赤早はそのことを知っていたが、宴を囲う戦士たちの一人として気が付いてはいなかったであろう。

 帝国にはバルバロスの宴を脅かす者などいはしない。それだけの力が最早彼らには存在しない。だがブリタンニアを脅かす海のオオカミは確実に海峡を越えて近付きつつあるのだ。
 ブリタンニアを脅かす者は帝国ではない。だがバルバロスはその事実に気付かず、帝国にはそれに抗じて守る力がない。大陸を襲う寒波に押し出された人々が安住の地を求めて海峡を渡り、すでに幾つかの集落で衝突が起きたという話も耳に届いていた。かつての帝国であれば、友邦を傷つける者は帝国に弓を引く者であるとして躊躇せずこれを打ち倒したであろう。

 鷲旗を立てて軍靴を並べた羽飾りは山があれば突き崩し、沼にも河にも橋を架けてしまい海峡すらも越えてしまう。彼らが足跡を記した地には堅固な町や砦が築かれ、石畳の街道が敷き詰められると戦意の尽きることがない軍団が倒しても倒しても現れるようになる。貪欲な野心で世界を併合し、文明を支配した彼らは確かに偉大な存在であったがそれも過去の話である。

「かつて帝国に支配される者はその見返りに帝国に守られることができた。だが今の帝国にバルバロスを守る力はない」

 ブリタンニアの空に赤早はカレイドウェンを見上げると白い息を吐き出す。かつて彼らを従えた帝国が最早信用できぬとあれば、バルバロスがこれに替わろうとしても不思議はないだろう。長の言葉は理が通っていない訳ではなかったが、長自身が言葉を詰まらせていたようにたとえ馬の部族がブリタンニアの主になったとしても、彼らを脅かす者が去ることはない。
 古来よりバルバロスは互いに協調することが難しく、時に敵と味方を取り違えて争うほどであったから従えることは容易ではない。戦士を束ねるには戦士として認められるだけの力が必要であり、だからこそ馬の部族は羽飾りに勝利することでバルバロスを従える勲を立てる必要があるのだ。レッド・スイフトにはそれが分かる。

「我々は愚かでも戦わねばならぬ。だが・・・」

 赤早の呟きはそこで途切れる。人気が絶えた夜で若き英雄に向けられる目は神々だけのものであり、未来を憂うバルバロスの英雄が決断すれば神々は誓いを受け入れるだろう。揺るがぬ心と決意をこそ大いなる存在は認めるのだから。
 宴はとうに果てている。アンドラステの勇気とカレイドウェンの叡智、それを抱く若者たちの姿を赤早は遠く思っていた。

‡ ‡ ‡


 帝国とバルバロスの対立は最早修復が不可能に近い状態にまで陥っている。彼らの交易は今でも続いており、馬や鉄などの品々が帝国に持ち込まれていたがそこには当然だが関税が発生していた。それは交易を保護する立場にある帝国にすれば当然の要求だが、バルバロスにも言い分がある。繁栄を維持できず交易を保護することもできない、帝国がかつて街道や港を敷いたというただそれだけの理由で高額な税をかすめとる理由がどこにあるというのか。

 別の事情もある。大陸でも情勢は混沌として人々は故郷を捨てて安住の地を求めながら、方々で乏しい土地や食料を求めては衝突を繰り返していた。人が生きていくために人を襲うことは、総じて彼らの間では罪とされていない。
 混乱は海峡を越えてブリタンニアにも及んでおり、危険が増して交易が衰えれば流通が減って貴重になった品々の値が高騰を始めている。そして値が高騰すれば税を引き上げざるを得なくなる、だが交易が衰えているのだから実際には高額になった品を買う者などどこにもおらず、いたとしても足下を見られてしまい売れば売るだけ損をしてしまうという有り様だった。この状況で、バルバロスの不満がただ搾取するだけの帝国に向いたとしても何の不思議があるだろうか。

「苦境が対立を生み対立が衝突に至る。武器を使わねばことを鎮めることもできぬ。愚かでもそうせねばならぬ」

 バルバロスでも強硬な部族が兵を集めていることはすでに知られており、帝国でも古将軍ジェラルディンが来るべき討伐行の指揮を採るために軍団を揃えようとしていることは周知の事実だった。双方とも衝突が無意味であることを理解しているにも関わらず、ではどうすれば良いのだと問われれば誰も答えることができない。若者の多くが徴兵の求めに従いロンディニウムの広場に集められてはいたが、ほとんどは十年前の戦いどころか陣営に赴いたことすらない者たちである。

「たとえバルバロスに理があったとしても、我が家が襲われるならば迎え撃たない訳にはいかないだろう。古来からの伝えに従い、成年した男子はすべて羽飾りとして召集される」

 帝国では自ら武器を取り戦場に赴く行為こそが最も尊く、市民が身を賭して市民の生命を救う行為こそが最も貴き行いであるとされていた。対等の権利を有していない者であれば身命ではなく金銭で責任を免れることができたし、奴隷であれば守られても守ることを要求されはしない。
 古将軍の言葉に従い、帝国の若者が羽飾りの一員となるべく召集されると戦陣に身命を捧げる誓いを立てていたが、十年前に比べてもその人数はあまりに少なかった。半ば強制的に徴集してもなお、充分な羽飾りを揃えることができるか心許ないのが帝国の現実である。

「それでもジャン・ジェラルディンは戦場に出ることを躊躇っているという訳ね。古来から成年と認められる十七歳、しかも古将軍の息子が戦いに背を向けることを望んでいる。まったく父の勇名に相応しくない不肖の息子がいたものだわ」
「否定するつもりはないよ。ティーナの言葉も、僕がそれに相応しくないということもね」

 いっそ堂々と言い放つジャンの姿に、フィオレンティナは奇妙に感心するがそれで彼女の機嫌が良くなる訳ではない。旧来の貴族や騎士、議員の子息はもちろん市民たる権利を持つ者は家名に与えられた責任を果たすために陣営に入らなければならなかった。
 彼らの父は来るべきバルバロスとの戦いを前にして議会や陣営地に足を向けることに忙しく、閑散としたジェラルディンの家にはジャンとフィオレンティナの二人しかいない。ジャンは彼の家を継ぐべき唯一の跡取りであり、フィオレンティナも家族として養われてはいるがプリシウスの家門を捨ててはおらず名を変えてもいなかった。

 多くの人が帝国を去ってから、或いはその以前にも世代を経る中で幾つもの家門が失われていたし、ロンディニウムでも彼らのように後継ぎが一人しかいなくなった家は珍しくない。衰退する帝国では受け入れたバルバロスの後裔が新興の家門として栄えている例すらあったし、それはむしろ彼らの隆盛を喜ぶべきことだが古くからの家門が消えることに寂寥を伴わない訳にもいかなかったろう。
 フィオレンティナが伝えるプリシウスの名は皇帝が登場して以降の起源ではあるが、それでも数世代数百年を重ねた家門とされている。濃い金褐色の髪を左右二つに分けて垂らしている、ティーナの姿は年齢に比べていささか幼げに見えなくもない。厳しげな視線が如何にも彼女の心情を代弁していると思いながら、臆病なジャンは口を開く。

「今は十年前とは事情が違う、その十年前ですら充分な羽飾りを集めることはできていなかったんだ。今ではもっと少ないだろう。そして帝国が衰えたことは事実だけれど、帝国を守るために戦う意思すらも衰えたことを認めている人は少ないからね」
「他人の事情は関係ないわ。私が聞いているのはジャン・ジェラルディンの意思なのよ。負けたときや失敗したときのことを考えるのは重要だけれど、だからといって何もしないのは賢者の振る舞いではなく、愚者の怠慢ではないのかしら」

 フィオレンティナの言葉にジャンはわずかに目を伏せると小さく首を振ってみせる。彼女の思いも苛立ちもジャンには理解ができた。彼女には人を守るために戦場で戦う意思がある、だが女人が武器を握る伝統は古来より羽飾りにはない。彼らの父は家を空ける前にフィオレンティナを捕まえると彼女の望みを承知の上で、家を頼む、と告げていたのだ。
 穏やかだが決然とした父の表情を前にして、娘の口からは最後まで自分を戦場に連れていけという言葉が発せられることはなかった。ジェラルディンが彼の友人である赤毛のロッサリーニから、娘を託されたことをフィオレンティナは知っている。

 だからこそ彼女は将軍の息子として戦場に赴くジャンを羨ましく思い、戦いを躊躇する柔弱さを蔑まざるを得ない。人を守る意思においても、戦場を駆ける技の熟達においても彼女に勝る者はロンディニウムに片手の数もいなかった。戦場に出ることも叶わぬままに誰もいない家を守らなければならない、その理不尽を受け入れる彼女は磨かれた剣を鞘にしまい込んだまま、彼女が決して口にしてはならぬ言葉を心中に秘め続けるのだ。

「私が守る家とはプリシウスの家名ですか?ジェラルディンの家が滅びるのを承知の上で」

 父の前で、フィオレンティナが秘めたまま口にしなかった言葉が何であるかをジャンは知っている。それでもジャンは滅びゆく帝国を守る戦いの行く末に疑問を抱きながら陣営に赴かなければならない。古将軍ジェラルディンの息子として、そして叶わぬ望みを抱くフィオレンティナ・ロッサーリーニ・プリシウスと彼女の家を守る者として。

 ブリタンニアらしい寒々とした曇天の下で、召集された軍団兵たちは演説や集会が行われる中央広場ではなく、町外れにある戦神の広場に集められていた。古来の伝統を模した慣習だが都の混乱を避けるという実際的な意味あいもある。
 羽飾りの名の由来である、染められた羽根を頭上に伸ばした鎧兜の群れは方形に規則正しく並べられており、わずかでも歩を外れた者には容赦なく怒号が飛んでいる。彼らは召集された時点ですでに軍団兵であり、伝統ある羽飾りの一員として死の前ですら平静を装う規律を身に着けなければならない。万人を従える一人の英雄ではなく、千人いれば千人が戦士であることを求められるのが羽飾りであった。

 槍と短い剣に盾、陣営を掘るための工具や炊事を行うための器に数日分の食料となる小麦の粉まで、すべての装備が一人一人に手渡される。例外的な騎兵を除く羽飾りの全員がこれらを自ら運ばなければならず、それは指揮官や将軍すら例外ではなかった。
 新たに集められた軍団を古将軍ジェラルディンが率いることはすでに議会の承認を受けており、常勝軍団を意味する第二十ウィクトリア軍団の名前が決められている。ジェラルディンの息子であるジャンの姿もそこにあった。

 ジャン・ジェラルディンは一介の兵卒ではなく、騎兵を率いる隊長の役割が与えられていたがこれは特に珍しいことではない。古来より百人隊の長は叩き上げの兵士が務めることが通例とされていたが、彼らと将軍を繋ぐ指揮官や騎兵隊の長は貴族や有力家門の子弟が務めることが慣例であった。生まれながらに責任のある人物こそ、実力でのし上がった者たちを直接従えることができなければ意味がないのである。

「あれが古将軍の息子かい。あの細い足で馬に乗れるのかね」
「将軍も気の毒なことさ、あの家では息子は娘のようで娘が息子のようだと言うじゃないか」

 そういう言葉があることもジャンは知っている。多くの者が戦いの経験など持っていないとはいえ、唐突に現れた線の細い青年が指揮官であると言われて、何の異議もなく命を委ねられる訳もないからむしろ当然の反応だろう。早いうちに機会を作り、ジャンは彼の部下となる兵士たちに彼の存在を認めさせなければならない。
 面倒な苦労かもしれない、だが自分が率いる兵士たちのために労苦を惜しみ面倒と考えるような指揮官に、どうして人が従うであろうかとジャン・ジェラルディンは考える。まして彼はフィオレンティナが望んで果たせぬ陣営にあり、彼女の父が務めた騎兵隊長の任に就こうというのだ。

 海峡を越えた大陸では帝国が衰退して異民族が跋扈するに従い、軍団はすべて騎兵となり長い剣を振り回して敵に打ち掛かるように変わっていた。それは本来バルバロスのような蛮兵が用いていた戦い方であるが、多くの蛮族が帝国に雇われて多くの蛮族と戦う大陸では必然的な帰結であったろう。ブリタンニアではその事情が些か異なり、古将軍ジェラルディンは帝国古来の歩兵を集めて短い剣と投槍を持たせると整然とした隊列を組ませて敵に当たらせる。
 この小さな島で馬や鉄を産する量には限りがあり、しかもそのほとんどがバルバロスの物であったからこそジェラルディンはそうせざるを得なかったのだが、それが帝国に名高い「羽飾り」の軍団をこの時代に蘇らせていた。

 だが軍団の多くが歩兵に戻されても騎兵が不要となる訳ではない。彼らは先んじて斥候に赴き時には奇襲を仕掛け、或いは追撃の足となり逃亡の助けともなる。重厚な羽飾りの軍靴が戦場を歩むのであれば、駆ける足はすべて騎兵が請け負わなければならない。ましてバルバロスは勇猛は裸馬を多く抱えており彼らの鋭峰をかわすことも騎兵には求められていた。
 ジャンと同様に幾つかの隊を預けられた若者たちは、自らの家門に与えられている責任に重圧を受けながらも、帝国を守る強い意志を示そうとしている。それは十年前の戦いを知らぬ無知ゆえの蛮勇かもしれず、家柄や立場に縛られたがゆえの自尊心や虚栄心であるかもしれず、十年前の勲功に刺激された根拠のない過信であるかもしれない。

 だがそれでも構わないとジャンは思っている。軍団とは自分たちの強さを信じている限り実際に強く振る舞えるものであり、指揮官から兵士に至るまで全員が確信を持ったときに彼らは「羽飾り」となって帝国を守ることができるだろう。

「けれど、本当の羽飾りであれば帝国ではなくブリタンニアを守ることもできただろう」

 日が落ちた戦神の広場に設けられた陣営では、哨戒を除く兵は身を休めなければならぬ時間であり全員が天幕の下にある。彼らを率いる者たちは夜が更けて後も討議を重ねると将軍の天幕を辞して、規則正しく並べられた篝火の間を歩きながらブリタンニアの月を頭上に見上げていた。それは七つの丘に生まれたダイアナの姿ではなく、この地に伝わるカレイドウェンの光である。帝国は古来より土地の信仰を受け入れて新しい神々を迎え入れてきたのだから。

 帝国が強く健全であれば、羽飾りとバルバロスは手を取ってブリタンニアを守る戦いに赴いていたであろう。大陸から海峡を越えて迫ろうとしている危難は帝国もバルバロスも含めたブリタンニアのすべてに食らいつこうとしている。
 今やバルバロスは自らの信仰を覚えておらず、帝国では信仰そのものに逃げられていた。七つの丘に礎を打ち立てた神々の末裔の伝説など、大陸ですらクライストの教えに塗り潰されてどこに見かけることもできそうにない。

「アンドラステの勇気とカレイドウェンの叡智、それを持っているのはバルバロスではない。だが、帝国でもない」

 赤早の言葉をジャンは思い出して呟く。ブリタンニアに本当に必要なもの、帝国でもバルバロスでもなくブリタンニアで人を守ろうとする意志を持っているのは果たして誰であるのかと考える。彼はただの代わりに過ぎなかった。
 赤早でもジャンでもなく、戦場に赴くことすらできない一人の娘がブリタンニアが求める信仰を持っているのだとすればそれはあまりに残酷な話ではないか。それを知ってなおブリタンニアのためではなく、一人の娘のために戦おうとするジャン・ジェラルディンはやはり戦場に相応しい者ではないのだ。


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