第六章 アクエ・スリス


 竪琴弾きがリュートをつま弾く音が交叉する石畳の街路に響き、吟じられる言葉が人々の耳朶に届く。ブリタンニアを流れる風にも等しい彼らはロンディニウムの人々に、広場に張り出されるよりも早く、議堂が開かれるよりも早くアクエ・スリスで行われた戦いの趨勢を知らせることができた。帝国が誇る羽飾りの軍団、常勝を名乗るウィクトリアが壊滅した戦いの姿をフィオレンティナ・ロッサリーニ・プリシウスは戦場を離れたロンディニウムで知ることができたのだ。

「丘を撫でる手のひらが朽ちた羽飾りを包む。勇猛な剣は数え切れぬ槍を折れしども今やアクエ・スリスに轟く声は猛き者どもの雄叫びのみ。落ちた鷲に七つが丘の神は嘆きマルスですら慨嘆の慟哭を止めるあたわず・・・」

 平野を挟み帝国とバルバロスは数月をかけて対峙する。戦場では殊更珍しい光景ではなく、数え切れぬ部族が参集するバルバロスは一日一夜ですべてを揃えることはできなかったし、十倍する大勢を前にして羽飾りも容易に決戦の喇叭を吹き鳴らすことはできない。軍勢を率いる者は軍勢が兵と力のすべてをただ一時に用いるべく腐心するのだ。
 羽飾りは日が昇ると平野を見下ろす丘の上に陣を敷き、彼らが倒すべき者どもが視界の右から左までを埋め尽くしている様子に目を慣れさせるのが常であった。囲われることだけを避けて正面から戦いを挑み、草を刈るようにしてその数を減らしていくこと。羽飾りが望む戦いの仕方はすでに古将軍ジェラルディンが兵たちに叩き込んでいる。

「あれがお前たちの敵である。何と際限のない数、そして何というだらしのない姿であるか」

 その数は圧倒的だが規律も統制もまるで取れておらず、武器も装備もまばらであり毛皮を着て大鉈を持っただけの姿もあれば、粗末な槍と棍棒を掲げて騒いでいるだけの姿すら見受けられた。バルバロスの名前が蛮人に由来する、その事実を彼らは目の当たりにしており、確かに勇猛で恐るべき連中だが羽飾りは鍛えられた鉄と揺るがぬ規律に守られてこれと戦うことができるだろう。

 堂々たる司令官の声がアクエ・スリスの丘上に流れ、ひるがえる真紅の外套が兵を鼓舞する。陣営の苦難よりも戦場の苦難がましと思わせる、古将軍の厳格な鍛錬は多くの脱落者を出しており、ロンディニウムに送り返された者もいれば戦場に赴く前に命を落とした者すら存在した。だが精鋭として残った者たちはバルバロスの十人を一人で倒すことができる、それは確信を通り越した信仰である。
 バルバロスは平野の北に面した木々や茂みの影に自らを隠そうとして成功せず、あまりに多すぎる軍勢が部族ごとに集まり窮屈そうに居並んでいた。日が巡るごとに新しい部族が訪れてすべてを把握する者は誰一人としておらず、互いにたどたどしく伝令を交わしながら一斉に鬨の声を上げるその時を待っている。戦いを告げる作法は古くから彼らの伝統であり、繰り返される雄叫びが互いに和してやがて戦場を埋める轟きが最高に達すると戦士たちは一斉に駆け出すのだ。

 帝国に接して以来、文明の影響や恩恵を受ける部族は少なくなかったがそれでもバルバロスは古来の風習や信仰を失うことがなく、むしろ融合しながら彼らが帝国に影響を与えた側面も否定できない。僭称帝コンスタンティウスが大陸に引き上げた時、多くの兵が連れて行かれた理由はブリタンニアの兵が帝国でも随一の精鋭であったからこそである。それは帝国古来の羽飾りとブリタンニアに暮らすバルバロスの兵の双方であり、帝国に対峙する赤早は伝来の勇猛さと古来からの規律の双方を理解することができた。

「戦いはすぐに始まる。だが我が部族はレッド・スイフトに従い戦場を駆けるときを待っていればよい」

 馬の部族は長たる叔父ではなく英雄赤早に率いられていて、千を超える馬上の戦士が長柄の斧槍と短い弓を携えて戦いの始まりを待っている。羽飾りの本領は歩兵にあるが、ブリタンニアで馬とともに生きて木々や灌木に暮らすバルバロスの多くは狩りに用いることができる弓と槍、そして馬を活かした戦いに慣れていた。彼らは歩兵に先んじて戦場を駆けるばかりではなく、主力として敵中に飛び込んで蹴散らすこともできる。
 赤早は勇猛だが粗暴ではなく、部族を率いて戦場を臨みながらも彼らの目的が戦うことではなく勝つことであり更に生き延びることであることを知っていた。一枚岩とは呼べぬバルバロスの中で馬の部族がすぐれた武勇を示すと同時に、流される仲間の血を可能な限り少なくもしなければならぬ。森に入る前から毛皮の値を考える、愚かしい算段を敢えてしなければならなかった。

 帝国の羽飾りは数にしてバルバロスの十分の一に満たぬ程度、アクエ・スリスに集まる部族が増えればその差は更に広がるだろう。帝国がロンディニウムや周辺の諸市から集めることができた兵はずっと多い筈だが、古将軍の名に相応しい厳格な鍛錬がその数を減らしたであろうことは容易に想像できる。それこそ少数の羽飾りを人を殺すために作られた戦士たらしめている理由であり、盾と投げ槍を手にして腰には剣を吊るし、日に三十里を平然と踏破する肉体を備えさせる礎だった。かつて忠実で頑健な兵は揶揄する言葉に恐れと真実を込めて驢馬と渾名されたこともあったのだ。
 双方が少しずつ陣を動かしつつ、朝が訪れると羽飾りは整然と並びバルバロスは丘上に向けて雄叫びを唱和する。それが日没まで繰り返されていたが日を追うに従ってバルバロスの声がより大きく、互いに合わさるようになってくると決戦が近いことを皆に思わせる。バルバロスは日々その数を増し、羽飾りは一つの軍団が一つの生き物であるかのように右に左に隊を動かして乱れることがなかった。ジャン・ジェラルディンが率いる騎兵隊も無論その中にいる。

「お前たちは覚えているか、騎兵の役割とは何であるかを」

 ジャンの騎兵は全員を合わせても赤早が率いる馬の部族の半分にも及ばないが、そのすべてが精鋭であり全員が手綱を握らずとも馬を自由に駆けさせることができた。そしてジャン自身が隊の誰よりも馬に熟達するとバルバロスに限らず大陸にも伝わる騎兵の戦いや鍛錬の方法を学びそれを忠実な部下たちに伝えていた。古将軍ジェラルディンが羽飾りを統率したように、ジャンも忠実で優れた騎兵を率いることができた。
 丘上の陣営を出て見下ろす眼下ではアクエ・スリスを埋め尽くすバルバロスの群れが短い雄叫びを繰り返している。猛りながら、沸き起こる力強さが平野を吹き上げる風を思わせてジャンは近い未来に戦端が開かれることを確信していた。彼の部下や羽飾りも同様であったに違いないが、一見して揺らぐ素振りがないのは古将軍の統率があるからこそだろう。

 月が幾度も巡り、アクエ・スリスの天蓋に響く雄叫びは日々大きく激しく、繰り返される声が揃うように変わっていく。それが頂点に達する、その日に何が行われるかを誰もが等しく理解しておりバルバロスの顔には一様に昂揚を隠すことができない。潜んでいた林や丘、灌木の茂みには収まりきれず平野に進み出ている部族が、唱和する声に合わせて手にした武器を空に突き上げる姿が見えると、それに応えるようにして羽飾りが盾を掲げた。ブリタンニアの主を選ぶ荘厳な儀式が始まる。丘上の陣営に古将軍とジャンの声が響く。

「空を仰げ!お前たちはすべてを為した、後は戦うだけだ」
「誰よりも早く駆けろ!その前を私が駆けているだろう!」

 叫びと同時にアクエ・スリスの北面に連なるバルバロスが一斉に駆け出す姿が見えた。それは巨大な一つの生き物がゆっくりと形を変えながら戦場に広がっていくようにも見える。迫り来る人間と武器の群れを見下ろしながら、羽飾りは未だ一歩も動こうとしないが古将軍の意思は既に皆に伝えられており左陣にある騎兵の先頭でジャンの剣が掲げられた。
 馬上に平然と跨がっているジャンの握る剣が、ブリタンニアに珍しい陽光を閃かせて十字に輝くと落ちかかる勢いで丘を下り、ただ一騎も遅れることがなく騎兵たちが後を追った。馬とは思えぬ乱れのない一団が土埃を蹴立てながら、なだらかな起伏を駆け下りていく姿が十年前に羽飾りを勝利に導いたロッサリーニの剽悍さを思わせる。喇叭の音が響き、丘上にある古将軍が真紅の外套を翻すと、勇敢な騎兵に続くようにして整然と列を組んだ羽飾りが軍靴の一歩を乱すこともなく前進を開始した。

 騎兵は戦場の左陣、バルバロスの右を真っ直ぐに駆けながらアクエ・スリスに飛び込む。バルバロスの巨大なかたまりは戦場に広がりながら少しずつ右に流れていくと、右側の部族が前に出て左側の部族が遅れだした。騎兵の先頭を駆けるジャンは射かけられる矢に身を低くしつつ、投げ槍が届くぎりぎり手前で馬首を右に向けるとバルバロスの鼻面を横切るようにしてアクエ・スリスを西から東へと横断してみせる。
 挑発されていきり立ったバルバロスは目の前の騎兵に引きずられると、ただでさえ多過ぎる人数が平原の中央に密集して右方の部族が左方の部族と衝突して入り乱れてしまう。走り去った土埃の背後から古将軍が率いる羽飾りが現れると、歩調どころか呼吸まで統制された動きで力瘤の盛り上がった右腕から槍が解き放たれた。

 密集した正面から、一度刺されば抜くことができぬ槍が襲いかかり盾も肉も構わず突き立てられていく。倒れたバルバロスの後ろの者が足を止めて、更に後ろの者は押し出されて仲間の壁に衝突するしかない。目の前には大盾に身を隠した羽飾りが立っており、それと気が付いたときには短く鋭い剣がバルバロスの血をたっぷりと吸い込んでいた。
 帝国の戦いは遥か昔に大陸で用いられていた、斜形陣と呼ばれる方法を騎兵と歩兵の双方で実現させている。だがバルバロスで唯一それを理解する赤早は未だ部族の全員を控えさせて動く様子がない。弱く数が多いバルバロスは敵を包囲すれば圧倒的に優位になるが、強く数が少ない羽飾りはそれをさせぬために戦場を縦横にかき回す。人が思うよりも単純な図式だが、それを実現させている騎兵の働きには感心するしかない。

「アンドラステの勇気とカレイドウェンの叡智、彼もそれを一身に兼ねるか」

 だがそれでもアクエ・スリスで帝国の敗亡が決定づけられていることを赤早は知っており、旧知の顔を思い浮かべると誰にも見えぬ中で小さく息をつく。人がすべてを為したとしても、神々の恩寵すら及ばぬことがあるものだ。

 レッド・スイフトが彼の部族を従えて動く。生まれたときから馬を駆ることを覚えた戦士の群れだ。他の部族に遅れて駆け出した馬上の戦士たちはひしめき合う仲間に目もくれずに戦場を大きく右に迂回する。バルバロスはアクエ・スリスの中央に集められていたから赤早を遮る者は誰もおらず、そのまま羽飾りの左から後ろに回り込めば包囲が完成する筈であった。
 馬の部族の働きが戦いを決定づける。だが戦場の外で何が起きているかを知っている赤早の目論見は彼らが戦いに後見した後は戦場に長く留まらず、用意した隘路を逃げる算段をすることにもあった。彼らはいつまでもアクエ・スリスにいてはいけないのだ。

 唐突に、甲高い音を立てて石火矢が空を走る。銅鑼でもなく喇叭でもない、ブリタンニアでは用いられぬ合図だった。浮き足立つ羽飾りとバルバロスの双方の耳朶に鬨の声が轟き、頭上から一斉に矢の雨が降り注ぐ。
 愚かなバルバロスのいずれの部族が、海峡を越えたオオカミに助けを求めたのかは知らぬ。だが二匹の獲物が咬み合う好機を彼らが見過ごす理由はなかった。無慈悲な矢は羽飾り以上に無防備なバルバロスを殺していくが、勇敢な彼らは負けながらもなお勝っている事実にいきり立って武器を振り回す。羽飾りは周囲をバルバロスに囲われると、頭上から降り注ぐ矢を全身に浴びながらかつての勇名に相応しい戦いを見せたがただそれだけだった。アクエ・スリスに獣の叫びが響く。

‡ ‡ ‡


 ロンディニウムは驚愕と絶望にのどくびを絞められて容易に声すら漏らすことができずにいる。帝国の誇る羽飾りがアクエ・スリスで壊滅したという最初の噂が流れてくるとその後は音沙汰もなく、勝者のその後も敗者のその後も伝わっては来ない。
 三百年以上も昔、バルバロスの女傑ボウディッカが叛乱を起こしたときもロンディニウムは陥落して多くの人が殺されたがそのときは海峡を越えて大陸から訪れた援軍がこれを撃退してブリタンニアを帝国の手に取り戻している。だが僭称帝コンスタンティウスが去ったブリタンニアで、彼らを救う軍靴の音が海峡を渡ることは最早ないだろう。

 フィオレンティナは弾かれたように石畳広場を走ると誰も待つ者がいないジェラルディンの家ではなく、旧知であるマレンティオ議員の邸宅に駆け込んで門を叩く。長衣を着て現れた古将軍の友人は既に議堂に向かおうとしている途中であったが、若い娘が訪れた理由を心得ているようであった。

「急ぎ議会を召集する。君たちはすぐに青年団を動かし、門を閉じて市壁の守りを固めておいてくれたまえ」

 幸いというべきであったろうか、陣営地を起源にするロンディニウムは整えられた塹壕と防柵が後に防壁となり今では石造りの門と市壁になっていて自らを守ることができた。噂が真実であるらしいことはマレンティオの様子を見れば明白で、壁に守られた住民が平静を失わないうちに最悪の未来から脱する方法を考えなければならない。
 十年前の戦いで武器を握り、後に引退した者たちが主導して市壁の見回りに向けられると、羽飾りの徴募から外れた者や青年団の者たちがこれに加わる。フィオレンティナも門上に立ち、ともすれば動揺しそうになる友人らを叱咤しながらアクエ・スリスに参集した人々が帰参するまで自分たちがロンディニウムを守らなければならないと声を張り上げた。勇敢な娘が怯む様子もなく演説をする姿は人々の動揺を宥めると、ロンディニウムは上辺だけの平静さを取り戻す。中には絶望して泣き崩れる者いたが大抵の者は息をひそめて望まぬ結末の来訪を待っていた。

 アクエ・スリスからの噂を持ち帰った竪琴弾きの話は羽飾りの壊滅を伝えたが、街道に人の往来は絶えて敵の姿も味方の姿もないことはたとえ劣勢でも戦いは未だ続いているのではないか、人々は希望、あるいは幻想にすがりついて心臓の鼓動を伴侶として角笛吹きを待っていたが、月が一巡りほどした朝、門上に立っていたフィオレンティナの目はブリタンニアの起伏を貫く街道の向こうに騎馬の一団の姿を認めることができた。陽光を半身に浴びている、先頭に立つ馬上の姿がジャンであることを知ると大声で門下の衛士に伝える。

「私たちの騎兵隊が帰参しました!門を開きなさい!」

 たどり着いたのはジャンの騎兵隊だけで帝国が誇る羽飾りの姿はなく、騎兵も数を減らしているが閉じられた門を最初に潜ったのが味方であったことに人々は安堵の声を上げて門前に多くの市民が群がった。気休めでしかないと思いながらも小さな朗報が僅かな希望を思わせる。
 ジャンはその足で議堂に向かうと重々しい建物に姿を消してしまったが、一度、開かれた門を潜るときにフィオレンティナを見上げると無言で頷いてみせる。夜半から明け方まで門上に立っていたティーナは、ジャンが帰るであろう家に久々に戻ると夕刻まで眠り久しぶりに幼い頃の夢を見ることができた。

 目を覚ますがこれまでと同じようにジェラルディンの屋敷には彼女以外の誰もいない。日はとうに暮れて十二刻が過ぎた頃にようやく石畳を歩く音がティーナの耳に届く。十年前、彼女がこの家を訪れたときは光と風を伴う歌声がロンディニウムに流れていたが、今は暗闇を照らす灯火すら見出すことはできなかった。門前に現れたジャンを穏やかな表情で迎える。

「疲れてるんでしょ。ただ事実を教えてくれればいいわ」
「有り難う、助かるよ」

 数月ぶりに見るジャンはティーナが覚えているよりもずっと大人びて見える。その様子を見ればアクエ・スリスの結末は知れていたが、ティーナを家に置いて戦場に赴いたジャンには伝える責任があり、ジャンがいない家を守るティーナには知る義務があった。

 四面四方を敵に囲われてもない、古将軍ジェラルディンが率いる羽飾りは強く、目の前のバルバロスを殺しながら前進を続ける軍靴が止まることはなかった。右も左も知れぬ状況であるからこそ、ただひたすら前進して囲いを抜けることができれば突破して生き延びることは不可能ではない。敵の数はあまりに多いが、蛮族は崩れればもろくたとえ優勢でも一度恐れを抱けばすべてを放り出して逃げ出すような連中なのだ。

「盾で殴れ!剣を突き刺せ!囲いの向こうにお前たちの栄光が待っているのだ!」

 ジェラルディンの鼓舞はことこの状態に至ってもまったくの偽りではなかった。バルバロスは統制がなく包囲を打ち破ることは決して不可能ではない。兵たちの疲労はとうに限界を超えていたが、生き延びる術が見えれば希望が最後の力を人に与える例は過去に幾らでも求めることができた。
 肉をえぐり血に塗れた剣よりもむしろ肉も骨も押し返す盾の力強さがバルバロスを押し潰す壁となり羽飾りを前進させている。倒れて二度と動かぬ骸を踏み越えて軍靴が進み、その間も降り注ぐ矢の雨が絶え間なく頭上を襲うが帝国の誇る羽飾りの兜は傷つきながらも戦士たちの肉体を守っていた。

 ジャンの騎兵隊はバルバロスを誘い出した後は包囲の外側にあり、囲いを解くために度々の突撃を繰り返す。それは無意味ではなく統制を失ったバルバロスはただ人が集まっているだけのかたまりとなっていたが、少数の騎兵ではこれを蹴散らすことまではできなかった。だが羽飾りの突破が成功すればアクエ・スリスの隘路に味方を導いて逃げ延びることはできるだろう。戦場を踏査したジャンはその可能性を試みている。

 悲鳴が戦場に聞こえた。それまで耳にしたことがない驚愕と絶望の叫び、その理由をジャンは知性によらず理解する。古将軍ジェラルディンが戦場に倒れたのだ。真紅の外套を纏い、危難に身を隠さず指揮を採り続けた司令官に不利落ちる矢が襲いかかった。それが古将軍を正確に射止めたのは偶然だが包囲を完成したバルバロスと急襲を成功させたオオカミにはいずれもたらされる必然の結末である。
 それまで六度の突撃を敢行していたジャンは七度目を試みようとはせずに騎兵の全員をアクエ・スリスの隘路に向かわせる。全員が死兵となれば或いは外から囲いを破り味方を助け、倒れた司令官の身体を見出すことができたかもしれない。だがジャン・ジェラルディンは躊躇うことなく父と羽飾りを見捨てる道を選んだ。その結果、羽飾りは壊滅してジャンの騎兵隊はほとんどが生き残ることができた。

「戦場を抜けた後はただ一心に逃げた。バルバロスとオオカミが集結する場所は避けなければならなかったから、街道を大きく迂回してようやくロンディニウムに戻ることができたんだ」

 仲間を捨てて戦場に背を向けた卑劣漢。ジャン・ジェラルディンに相応しい振る舞いだと、数月前のティーナであれば浴びせたかもしれない罵声がのどの奥に詰まって出てこない。もしも騎兵が戦場に留まり、仲間を救いに行けばその結末がどうなっていたかは誰にも分からないだろう。彼女に分かっているのはロンディニウムに帰参したジャンが議会に呼ばれて何を命じられたかということだった。

「もう一度、出陣することになったのでしょう?」
「今度は十年前に退役した市民が集められる。彼らを率いるのはジェラルディンの息子しかあり得ないよ」

 ティーナは顔を上げると正面からジャンの顔を見据える。もう少年ではない、若者の表情には恐れも諦めもないが希望を見出すこともできずただ目を逸らしようもない現実を直視しているだけだった。彼はこれから敗残兵と老兵と脱落兵の寄せ集めを率いて、勝てる筈もない大軍を相手に決戦を挑むことになる。それを承知でロンディニウムに帰ってきた彼が伝えたいことは彼自身の境遇などではなかった。

「それよりも、皆に知らされていない事実がある。ロンディニウムが封鎖されている間に、アクエ・スリスで勝利したオオカミがいよいよ大挙して上陸を始めている。彼らは見境なしに侵攻するとバルバロスの集落も帝国の都市も襲われて、ノーヴィオも、それにビディフォードもすでに焼かれてしまった」

 フィオレンティナの目が大きく見開かれる。戦いに勝利したバルバロスにオオカミは法外な謝礼を求めたが、それはブリタンニアに産する鉄や錫、馬や羊毛をすべて納めろというものだった。彼らを呼び入れた部族の者は死んだのか逃げたのか知らないが姿を隠してどこにも現れない。
 このような要求を受け入れれば際限がない、バルバロスはかつての帝国と同じ嘆きを漏らすと拒否の意を示したが、恩人に対する不義に激怒したオオカミは実力で回答する道を選ぶ。帝国に勝利したバルバロスは今や帝国に替わってブリタンニアを守らなければならないが、彼らにはそれを為すための統率がなかった。

 舟底の浅い船が戦士たちが自ら漕ぐ櫂に突き動かされて、海峡を渡り内海を渡るとオオカミがブリタンニアを蹂躙する。南のノーヴィオでは船が焼かれて倉庫は破られ、訪れたと同時に去った牙と爪の後に壊れた荷車と僅かに生き延びた人々が呆然として残された。荷揚げに精を出していた若者の血が港を洗い、二度と動かぬバルバロスの旅商が門外に転がっている。
 襲撃はただ大勢で略奪すると獣たちは沿岸に沿って別の集落や村に向かい、西岸にある小さなビディフォードも暴力と火が訪れると瓦礫と死体だけに変えられてしまう。ロンディニウムが知らぬ間に、フィオレンティナ・ロッサリーニが生まれ育った風の吹く小さな町は滅びていた。

「オオカミの襲撃はバルバロスにも傷を残した。だから彼らはこう考えた。再びオオカミが訪れる前に帝国を滅ぼし、ブリタンニアを一つにまとめるべきだとね」

 ジャンの言葉にフィオレンティナは息を詰まらせる。それは愚かな考えだが、自分たちにそれを批判する権利がないことをジャンもティーナも知っていた。帝国がブリタンニアを捨てたこと、ブリタンニアの主たるを志した帝国がバルバロスを守らなかったこと、それがすべての原因なのだから。
 ジャン・ジェラルディンは議会の提案を了承した。帝国最後の軍勢がバルバロスの侵攻を食い止めている間に、最早失陥を免れぬロンディニウムを捨てて人々を逃げ延びさせる、それが彼らの方針だった。バルバロスが欲しているのは象徴的な勝利だから、その後は講和が認められれば生き延びた者は助けられるかもしれない。

「議会の本音は自分たちが逃げようとする理由を正当化することにしかない。だけど何もしなければロンディニウムは草の一本から石の一つまで滅ぼされることになるだろう。滅びかけているこの世界をまだ生きている人に残すなら、他に方法はないと思う」
「議会は・・・いえ、貴方は何を考えているのよ」

 ティーナの口調は僅かに非難と詰問する様子に変わっている。かつて帝国が誇っていた羽飾りはアクエ・スリスの不名誉を雪ぐべく出立する、その間に議会は逃げ出す算段でいるが彼らの目論見は襲撃と略奪が予想されるロンディニウムを離れ、機を見て私財を手にバルバロスの部族に保護を求めるつもりでいるのだ。愚劣な決断は承知しているが焼けた石を掴むことで滅び去る帝国の意地と名誉を示さなければならない、それが議会の主張だった。
 だが都を捨てると言われて歓迎する市民など一人もいる筈がない。それでも軍団が壊滅して議会が出立すれば残された人々も町を出るしかないだろう。勝利したバルバロスが、或は規律を失った帝国の残党すらこれを襲うかもしれないが、彼らが狙うのであればそれはより実入りの大きい獲物である筈だ。

「議会の人たちを囮にするつもりでいるの!?」
「マレンティオが言っていたよ。我々は市民を捨てる、だから市民もそんな議会に従う必要はないとね」

 皇帝がブリタンニアを捨てて、議会がロンディニウムを捨てる。マレンティオは議員たちの愚劣な決定を止めることができず、だからこそジャンにこれを利用しろと伝えた。彼の思いは戦没した古将軍ジェラルディンと同じく、自分の息子や娘たちに滅びゆく帝国をしか残すことができなかったことを恥じている。
 ロンディニウムを逃げる富裕な人々とは別に、大勢の市民が逃げながらも頑強に抵抗すれば労多くして見返りが少ない獲物を合えて狙う者は少ないだろう。そしてジャンが戦場に赴くのであれば、市民を従えて襲撃に抵抗することができる者はフィオレンティナを置いて他にはいない。生き延びるために人々を奮い立てるには、バルバロスが言うアンドラステの勇気とカレイドウェンの叡智を備える者でなければならなかった。

「海を渡るオオカミは大陸の危難を逃れてきただけだ。規模は大きいけれどいずれ収束する。生き延びた者はバルバロスも帝国もなく、今度こそブリタンニアの民になれるかもしれない」

 そうしなければ生きていけないならば、身を守るために戦うしかない。滅びた帝国がバルバロスと争う理由はなく、遺された文明の残滓を利用してささやかな世界が作られるだろう。帝国の技術や知識の多くはバルバロスに伝えられており、その価値を知る者は生き延びた人々を受け入れることができる。幸い帝国は彼らと親しいバルバロスを奴隷ではなく同胞として扱っていた。赤早が率いる馬の部族も技術と文化を持つ帝国の受け入れに尽力するに違いない。
 だがすべては生き延びた後のことであり、ジャンはそれをフィオレンティナに託すつもりでいる。争いの経験とてない人々を率いて、ただ一人で戦えと言っているのだ。帝国が誇る羽飾りを率いて戦場に向かうジャンは余程気楽な立場である。

 しばらく何も言わず俯いた娘は大きな息を一つつく。十年来の、家族にも等しい若者は探求するジャンの呼び名に相応しく人よりも多くを考えて多くが見えているのかもしれない。だがティーナにすべてを託しすべてを伝えようとしている彼が、肝心なことに触れていないことにも彼女は気が付いていた。

「貴方は父様に似ているわね。人々を守るのはいい、でも御立派な言葉に貴方自身は含まれていないじゃないの」
「そうだね」

 否定の言葉はなく、追求された罪人のようにわずかに視線を下ろす。滅びゆく世界を残すことを恥じて、それでも生き延びる導を人に示そうとするジャンは確かに立派だろう。だが自己犠牲を承知で得られる救いなど所詮は自己満足の結果にしか過ぎない。他人を助けようとする者は、まず自分自身を救うことができてはじめてその資格を得るべきなのだ。

「約束して。必ず帰ってくることを」
「ああ、約束するよ。僕は必ず帰ってくる」

 その言葉に表情を変えたティーナは思いきりジャンの頬を張る。乾いた音が響いたが、ジャンは殴られることを知っていたかのように表情すら変えてはいない。哀しみよりもむしろ怒りに満ちた声がフィオレンティナの唇から漏れる。

「ジャン・ジェラルディンが嘘つきだとは知らなかったわ」

 これが彼らにとって最後の夜となるのだろう。十年を過ぎて今はもう誰も暮らしてはいない、ジェラルディンの屋敷で二人の影だけが重なっていた。


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