第七章 ジェラルディン回想録


 それは言い訳がましい述懐から始まり、彼をよく知っている者が読めば娘のような息子と呼ばれたジャン・ジェラルディンの姿をそれだけで想起させることができたかもしれない。帝国の無骨な言葉は元来石碑に彫り込む法文のためにつくられたと言われていたが、人に情感が失われていた訳ではなくこの時代になっても幾つかの巻紙や文献に残された詩文や叙述が時を経て見つけ出されていた。それはそうした巻紙を読んだ者の中に自らも記録や記述を残そうと考える者が現れるということでもあり、技術が衰えて羊皮紙が主流になっていたこの時代にも巻紙は辛うじて残されている。
 書き記された言葉は人から人に伝えられる、ただ残念なのは誰もが名文を書ける訳ではないという事実であり、ジャンの回想録も人の耳から口の端に残り永代に読み継がれる栄誉は得られそうになかった。それは彼がたった一人に伝えたいと願い書き記した言葉でしかなく、それも彼女の手に届くとは到底思えぬ戦場で書き続けた記録である。

 古将軍ジェラルディンが率いる羽飾りの軍勢はアクエ・スリスの戦場に散り、帝国の都であるロンディニウムは勇猛なバルバロスと海を渡るオオカミたちの群れに無防備な姿を晒している。すでにノーヴィオの港をはじめとする多くの都市や町が野蛮な火に焼かれたという知らせが人々の耳に届いていた。
 将軍の息子であるジャンに与えられた、帝国最後の軍勢は数だけはかき集められておりアクエ・スリスで生き残った残余の兵に加えて、老境あるいは若年の市民を併せた数は先の戦いに挑んだ古将軍の精鋭を凌駕している。だが栄光の羽飾りを名乗るに相応しい、帝国の軍装を揃えることはできず僅かな兵士に混ぜ込まれた人々には棍棒やつるはししか手にしていない者すら存在した。ジャンは総司令官が羽織る赤い外套をはためかせると、有象無象を連れて戦場へと続くロンディニウムの北門を潜り抜ける。空虚な歓声が起こり、無謀さを論じる気も起こらない現実から誰もが耳を塞ぎ目を背けていた。

 帝国に迫るバルバロスとオオカミの軍勢はアクエ・スリスの戦いよりも更に増えて更に勢いを増していた。数万どころか十万をゆうに超える集団にはもとから統率など存在せず、ただ集められただけの連中だが滅びる帝国にとどめの一撃を加えるには充分過ぎる数を有している。勝てると分かっている戦いであれば誰もが喜んで参戦し、それは収穫の季節に畑に集まるにも等しく数が増えるのも道理だった。これを防がねばならぬ帝国は古将軍ジェラルディンが率いた軍団ですら六千人を超えず、ジャンがこれから率いる雑兵でさえも一万に達することはない。
 勝てる筈がない軍勢を送り出したロンディニウムで、市民たちは絶望的な状況に奇跡を期待するふりをしてはいたが事実はといえば無為でいることに耐えられず結末が出ぬ恐怖よりは不幸な結末でも得られればましだと考えている者すらいる。だがそれを口にすることはできず、苛まれる時から逃れるためにあとはすべてを放り投げるしかなかった。自分たちは犠牲を捧げたのだ、あとはもう自分たちの責任ではない、と。

「思索は往々にして回り道となり、それは横たわる沼沢を盲目的に走り抜けるよりも賢明で時として目的地に先んじることすら可能とするが、首まで泥に埋まることを承知で足を踏み入れる行動が求められることがある。
 だがたとえ勇敢で時宜を失わぬためにやむを得ない決断であったとしても、それが愚かな行為であるという事実から目をそらすことはできない。自ら愚かであることを認める者はそうでない者よりも賢いのだと説いた古人がいるが、尊きは救いの言葉ではなく危難に身を捧げる行為なのだ。だがそれでも私は泥よりも思索を求める者になりたかった、ならば泥の中で思索を続ければよいではないか」

 古将軍ジェラルディンの息子、ただそれだけの理由で最後の軍勢を率いるジャンは迫り来る滅亡から目を背けている人々の愚かさを咎める気にはなれない。為す術を持たぬ彼らは確かに愚かかもしれないが、自分がこれから戦場に赴き、そして為そうとしていることを知っているジャンはそれよりも遥かに愚かしいのだから。
 迫り来る軍勢とは未だ対峙してはおらず、広間は進軍と駐留に時を費やしたが月の女神カレイドウェンの時間が訪れればブリタンニアの夜は静かな帳に覆われる。篝火と見張りが立てられた陣営でジャンは床几に腰を下ろし、稚拙な墨汁のしたたりを残す時間を許されていた。戦場では思索に費やす時を与えられぬ彼は、かつて怠惰であった自らを懐かしむ苦笑を浮かべながら彼らしい繊細な文字で巻紙を埋めていく。妖精の眠りは遠く去っていたが戦場の昂りはなく、夜の陣営地に静謐と平穏すら覚えていることが奇妙にも当然にも思えていた。

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 帝国最後の軍勢が陣営地を築いた場所がどこであったか、歴史は沈黙して諸説は定まっていない。時代を経る中で滅びた帝国の記録は散逸してしまいバルバロスの伝え語りには華々しい伝説や御伽噺が残されるのみであるが、それがロンディニウムとアクエ・スリスから遠く離れていないことだけは間違いがなく、コリニウムやウォーデンスオベルグといった幾つかの跡地が候補に挙げられている。
 石造りの街道は人も荷車も往来が絶えて帝国を巡る血液は失われており、年月に摩耗した石畳はよく見ればあちこちが波打つように沈んだり浮き上がっていて以前から補修がなおざりになっている事実が窺えた。街道を外れると小さな丘と灌木の茂みが連なっていてブリタンニアらしい起伏にあふれた地形を生み出している。

 すでに羽飾りを名乗るに値しないジャンの軍団だが、これだけは帝国の伝統に則った陣営地を可能な限り堅固に掘らせている。迫り来ている筈のバルバロスとオオカミの群れはあまりの巨大さと無統制ぶりですぐには動けず、いずれ訪れる終幕は未だ足踏みをして街道にも丘の向こうにもその姿は見えていない。
 やがて血気にはやり先んじた幾つかの部族が戦場に姿を見せるようになると、小さいが砦にも等しい陣営地には兵士の緊張と無謀な戦いへの怯みが現れる。陣営の周囲には広く深い壕が掘られてその向こうには高い防柵と櫓がそびえており、それは立てこもる者どもを守るために日々堅牢さを増していた。戦いに怯える兵を落ち着かせるために陣営は堅牢になり、兵士たちも執拗にそれに応える。

 無益な抵抗を試みる敗残者たちの砦に対して、やがて散発的な襲撃が始まるが勇猛だが勇猛なだけの群れがいくら鉈を振り上げて矢を放っても囲いの内側には届かず、壕は埋められてもすぐに掘り返されて塁壁は突き崩した端から繕われてしまう。堅牢な防柵に守られて昼間を生き延びた兵士が夜になれば闇に目を凝らして自分たちを守る殻を少しでも厚くしようと懸命になっていた。
 交替で眠りながら、執拗な抵抗が続けられた理由は怠れば彼らの身命が失われるという容赦のない事情と、バルバロスとオオカミの無謀な襲撃が実際に幾度も退けられたという事実が兵たちを鼓舞できたことによる。獣どもは穿たれた穴や埋められた鉄釘に足を捕らわれると動くこともできず、勢いのままに背後から押し寄せる仲間に潰されて逆木の枝に味方を突き刺しては激昂している有り様だった。無謀が無駄な犠牲を強いて野蛮な獣の咆哮がブリタンニアの曇天を引き裂き、やがて戦場に到着する部族が増えて数千が数万に、それ以上に増えても事情は変わらなかった。

「家族を守るために戦場に身命を捧げる兵士たちの振る舞いは尊い。だが彼らに多くの血を流させる司令官は偉大な将軍ではなく、食べもしない獲物を網に腐らせる蜘蛛にも似た卑小な生き物に過ぎなかった。蜘蛛には書き残すことができない、墨汁のしたたりだけが人と虫の境を辛うじて隔てている」

 この戦いで帝国最後の軍勢を率いたジャンはバルバロスの伝承に残酷な王として語られることになる。積み上げた死体を塁壁に、折れた骨を逆木にして防柵に突き立てた、血で黒く汚れた地面と臓腑で満ちた壕に囲われた悪鬼の城に篭る王。それは些かの誇張こそあれまったくの事実であり、バルバロスとオオカミにもたらされた甚大な被害を伝えていると同時に疑いもなく帝国の兵士こそが戦場で最も残酷だった。
 ジャン・ジェラルディンは陣営を囲う黒い海原にも似た人と獣のかたまりが、統率の取れていない肉の集まりでしかないことを最大限に利用する。巨大過ぎる群れは一刻を追うごとに人が流れ込み肥大を続けており、あふれ出た者は後ろにせき立てられて前に進むしかない。その事情は変わるどころか日を重ねて酷くなる一方だった。

 斃れても背骨を踏み砕く音を響かせて迫る蛮人と獣を相手にして、帝国は彼らを守る陣営を繕うための資材を無尽蔵な人間の残骸から手に入れるしかなかった。髑髏の城を構える征服者は羽飾りの兜を死体に着せてさも不死身の軍勢が塁壁を守っているかのように見せかけ、兵士には奪い取った死体の兜を与えて見誤った敵が同士討ちをするように誘う。
 兵士たちは魔王の城を堅固に守りながら、卑劣な司令官の方策に従って選ばれた者たちが陣営の方々に散っている。黒く煮染められた逆枝やばらまかれた臓腑が傷口を腐らせ、尖らせた灌木の枝があちこちに埋められて獣の足首を食いちぎる。

 陣営の周囲にはバルバロスとオオカミの海しかなく、あまりにも数が多すぎて戦場にあふれていたから剣よりも槍よりも獣を狩る罠にことのほか弱かった。だが勝利を確実にした戦いでこれだけの犠牲を出しているという事実が、どの部族にも収穫を諦めて兵を退く決断をさせることができなくなっている。覚悟して戦いに臨んだ帝国には彼らを養うだけの糧秣と堅守するために用意した井戸があるが、蛮人と獣の大軍は勇猛さ以外はすべてが足りぬ状態で日々毒の壕に足を踏み入れている。

 馬の部族を率いる赤早、アクエ・スリスで古将軍ジェラルディンを討ち取ったバルバロスの英雄は、帝国最後の軍勢がロンディニウムを出たことを聞いてもすぐに戦場に赴こうとはせずバルバロスの他の部族とオオカミの一団が陣営地を囲うに任せていた。帝国の陣営地が難攻不落の城塞都市にも等しく、身動きを取ることすら難しい無秩序な大軍が押し寄せたところでただ犠牲が増すばかりであることを赤早は知っている。そのような愚かしい戦いで部族の戦士たちを失う訳にはいかない。
 蛮族と獣であふれかえる戦場には無理に近付かず、その外縁に集まると大旗をなびかせて篝火を掲げさせる。馬の部族はアクエ・スリスで帝国が誇る羽飾りを打ち破った英雄レッド・スイフトが率いる部族であり、彼らの存在は一目置かれざるを得ず温存させたところで非難の声を上げる者はいなかったし、むしろ彼らに負けじと功を求めてはいらぬ犠牲を増やしている部族が大半だった。勇敢な馬の部族には戦いを望む戦士も多くいたが、赤早に自ら諭されれば否を言う者はいない。

「帝国が誇る羽飾りなどすでに幾人もいない中で、寄せ集めの軍勢でこれだけの抵抗を続けている彼らの勇戦は大したものだ。古代の戦いでは篭城する市民の集団が軍勢を相手に数年を耐えた例もある。彼らは堅牢な陣営を城塞に仕立て上げることでこれだけの戦いを可能にしている。
 だが戦いはすぐに終わる。帝国は逃げる算段を放棄してただ戦いを続けることだけを目的にしている。彼らの陣営は堅牢だが包囲はすでに完成して最後には皆殺しを待つしかない。陣営はどれほど堅牢でも都市ではあり得ず、水だけは用意しているが町や都に並ぶ生産や供給、すなわち農耕や交易を行う術を持っていない。陣営をもとにした町は幾らでも存在するが、だからこそ陣営は町ではあり得ない。疲弊して潰えるべき彼らが未だ健在でいる理由、それは我らがあまりにも無能で戦いを終わらせる術さえも知らないからだ」

 だが赤早と馬の部族は戦いを終わらせることができる。彼らが動かずにいる理由はただ犠牲を最小にとどめて陣営を容易に打ち破る機を待っているだけなのだ。バルバロスとオオカミの血が塗りたくられた禍々しい城をレッド・スイフトが陥落させれば、アクエ・スリスに続いて異論の余地がない戦果でありバルバロスの誰もが赤早と馬の部族に従うことになる。
 その後確実に訪れるであろうバルバロスとオオカミの対立を前にして、誰かがバルバロスを主導してブリタンニアを守らねばならない。ジャンがその役目にレッド・スイフトを望んでいることを赤早は知っており、滅びゆく帝国の民はブリタンニアの新しい指導者に委ねられることになるだろう。

 かつてブリタンニアは無法なバルバロスが跋扈して小さな部族や集落が互いに争うだけの場所であった。やがて帝国が訪れると島の半分は彼らに征服されてしまい、バルバロスは団結することもできず北に押しやられて現在に至っている。
 だが帝国はバルバロスを受け入れて彼らの信仰も認めていたから、膝を屈するを潔しとしなかった者を除けば帝国の市民として同化した部族は幾つも存在する。帝国は支配者であるが故に傲慢でもあったが、だからこそブリタンニアの主として帝国のみならずバルバロスすらも守るべきものとして考えてはいたのだ。

 帝国に受け入れられた神々は七つが丘の主神を除けば上も下もなく同格に扱われる。それは帝国を創建した民族であれ、辺境の島国で同化したバルバロスであれ対等であることを示していた。主神でさえ祭儀を代表する存在でしかなく、戦争の始まりを宣言するか凱旋した兵士を祝福する神祇官が祈る対象としてのみ存在する。
 バルバロスが信仰するアンドラステやカレイドウェンの女神も帝国に受け入れられると、今でもブリタンニアに暮らす人々に慈悲深い手を伸ばしている。ならばブリタンニアの守護者の役目は皇帝のいない帝国ではなく、バルバロスに任されても構わないのかもしれなかった。レッド・スイフトは帝国最後の軍団を壊滅させた英雄の名前として、後にはブリタンニアを守る英雄の名前として後代に伝えられることになるだろう。

‡ ‡ ‡


 夜が明けてもブリタンニアの曇天は厚く空を貫く陽光が灌木の丘に差し込むことはない。定刻に鳴らされる銅鑼の音に朝の訪れを知らされたジャンの耳に届いたのは宵闇から変わらぬバルバロスとオオカミが上げる咆哮であり、見回りを兼ねて各所の櫓に上れば視界に入ってくるのはこの小さな陣営地を囲う厚く高い防柵の周囲を埋める人と獣の群れだけである。鉄と肉の臭いがまざりあって鼻孔を刺激するのにも慣れてしまい、正常な嗅覚など衰えてしまって久しく思える。
 血で黒く汚れて屍で飾られた難攻不落の城は未だ数千を数える兵士たちに守られており、蛮族や獣たちが強いられた犠牲はすでに数万を超えるにも関わらずジャンの砦は塁壁が破られる僅かな兆候すら見せていない。戦い続け、守り続けている事実が彼らの戦意を保ってはいたが疲弊と消耗は明らかであり、堤防が決壊していない理由は単に無様な敵がそのための行動をとっていないからでしかなかった。

「お前たちが殺して飾り立てた戦果の数を見るがいい。皇帝が現れる遥か以前から優れた将軍によって打ち立てられた業績にお前たちの武勲は何ら劣るところがない。帰還すれば幾日続く凱旋式がお前たちのために催されるか、こればかりは私にも想像ができないほどなのだ」

 そう言いながら、陣営の守りがすでに限界に近いことをジャンは知っている。おそらく戦場に未だ姿を見せていない、赤早と馬の部族もそのことに気が付いているだろう。ほとんどの兵士や市民たちは生き残るためにこの戦いに身を投じているが自分はそうではない。誰よりも愚かしく罪深い、ジャン・ジェラルディンは敵には数え切れぬ犠牲を、味方には避けられぬと分かっている犠牲を与える者でありその行為には一片の弁解の余地も存在しなかった。
 だからこそ帝国最後の軍勢を率いているジャンは最後まで勝利する術を探し、総司令官としての責務を疎かにする行為に手を染めることはできなかった。探求するジャンの目に見えている未来とは別に、全員が生き延びる方法を得るために考えられるすべての手は尽くされるべきなのだ。或いは愚かしいジャンの目が曇っている可能性もあるではないか。

 アクエ・スリスでジャンが率いていた第二十ウィクトリア軍団の騎兵はすでにすべての馬を失ってはいたが、彼らの勇猛と忠誠は失われることがなく司令官の方策に従いバルバロスとオオカミに多量の出血をもたらしている。無謀な蛮族と獣は物量に任せて高くそびえている塁壁に挑んでは次々と転げ落ちているだけで、その中で時折壁越えに成功する者に狙いを定めて突き落としてやればそれでよかった。陣営は絶妙に小さく数千の兵が守りながら補修が間に合うだけの規模であり、落ちかかる矢を防ぐ屋根や横穴が設けられていたし血と皮で覆われた防柵や櫓は火で燃えることもなかった。
 かつて帝国が多くの砦を陥落させたときのように、バルバロスが執拗な攻撃を繰り返して破城槌で塁壁を打ち、地下坑や攻城壇を設けていれば彼らが持ち堪えることはできなかったろう。だが戦いに激昂し、犠牲に萎縮する蛮族と獣は全員が一斉に襲いかかる算段すら定めることができずにいた。憎き城を大勢が囲み騒ぎ立てていたがただそれだけだった。

「兵士は勇敢に戦う。だが我々が生き延びている理由は我々の勇敢さが原因ではなく、むろん総司令官の識見が優れていた故でもない。それは明らかに敵が無為であるという事実に我々が救われているだけなのだ。そしてその救いは少なくとも私に思索を巡らせる夜の訪れを許してくれている。
 今なら理解できる。皇帝が去ったときに父をはじめとする人々がなぜこの地に残ろうとしたか。本心を言えばすべてが変わらぬままであって欲しかった、それを否定できるほど人は強い者ではないが、その願いが叶えられぬ我らが選んだのは帝国ではなくブリタンニアを残すことだった。

 それが数日先でも、数年先でも、あるいはそれ以上先だったとしても帝国がいずれ滅びることに疑いはない。だが帝国が滅びても人は生きてブリタンニアというこの世界は残る。帝国が消えた後で、そこに暮らしていた人々が犠牲に捧げられるような世界を訪れさせる訳にはいかない。婉曲な言葉はやめよう。帝国市民だったからという理由が彼らが殺される時代を招く訳にはいかない。
 疑いようもなく、この思想が生き延びるために戦いと犠牲をもたらす方便でしかないことは今この戦場で私自身が証明している。だからこそ何も知らず戦場に身命を捧げている兵士たちは本当に勇敢で尊く、そして彼らに犠牲を強いている私の愚かさと残酷さを弁明することはできないのだ」

 もはや幾日か幾週か数える気も起きない時が過ぎ去った中で、ブリタンニアにカレイドウェンの帳がどれだけ訪れたかも思い出せずそれでも攻囲が解けることはない。無秩序なバルバロスとオオカミは欲求のままに惰眠と犠牲を貪ることによって崩れかけた塁壁が繕われる時間を与えている。ジャンは血まみれの砦の奥で筆を握っているのでなければ各所を足繁く周り、時には水から土を担いで補修に手を貸すこともあった。ブリタンニアの曇天が繰り返し訪れると、喧噪は再び大きく激しくなるが襲撃は間欠的でさしものバルバロスもオオカミもこれまでの犠牲の大きさに辟易しているのが分かる。
 ジャンは考えている。逃げる道は最初から失われていたし執拗な抵抗もいずれ力尽きる、だが無秩序で無統制な蛮族と獣たちがこれだけの被害を与えられればついには諦めて兵を退く可能性は決して皆無ではない。彼らはこの小さな魔王の城を囲うために大勢が集まり過ぎており水や食料はもちろん睡眠や排泄の場所さえ不足している有り様なのだ。堪え性がある筈もない彼らが逃げ出さずにいる理由、それはまわりを味方に遮られて逃げる隙間すらなかったために他ならない。

 数千の軍勢で数万を遥かに超える大軍を退けたとなればその戦果を盾に講和を呼びかけることができる。それは未来の滅亡を遅らせる一時の勝利に過ぎず、希望ではなく楽観的な願望に過ぎないが絶望的な篭城戦をこの方法で切り抜けた記録は僅かだが過去に存在していた。
 打楽の旋律がブリタンニアの曇天に響く。攻囲が行われてより幾度も耳にした太鼓の響きだが、旋律に続く歓声の興奮した調子がいつもと異なることに気が付きジャンは唇を歪めた。理由は一つしか考えられない。アクエ・スリスの英雄である赤早と馬の部族が戦場に現れたのだ。勇猛さと叡智を併せ持つバルバロスの英雄は、さも味方の壁が邪魔になってようやく前線に辿り着いたふうを装っているのだろう。だが彼らが戦場に現れたことは帝国の疲労と消耗が限界に達した、赤早がそう確信したことを意味している。

 レッド・スイフトが率いる馬の部族の戦いは彼が学んだ帝国伝来の作法に則るが、重装歩兵を重んじる羽飾りとは異なり騎兵を縦横無尽に駆る戦いを得意とする。帝国で長く補助兵として使われていた騎兵は当初は戦の先陣に立って味方を鼓舞する程度の役にしか立たず、後に幾人かの将軍が効果的に敵を囲う術を見出してからは多くの勝利を帝国にもたらしていた。
 だがジャンならずとも馬上の戦士が壕や防柵を構える砦を攻略するに向いていないことは容易に想像できる。ジャンの消耗と赤早の思惑はともかく、騎兵が慣れぬ攻城戦に戸惑ってアクエ・スリスの英雄すらも退けられることになればバルバロスの士気は大いに下がるだろう。

 陣営を守るジャンは時折頭上を行き交う矢に身を屈めながら最も見晴らしのよい櫓の一つに上る。視界の向こうでは馬の部族が彼らの矜持を示すかのように、数百を超える戦士たちが皆馬上で剣と槍を構えていた。ジャンがまとっている総司令官の外套と同じ真紅、アンドラステの勇猛を象徴する旗が幾本もひるがえされて彼らの存在を主張している。再び打楽の音が響き朗々たる声が戦場に流れた。

「レッド・スイフトが戦場に現れた!アクエ・スリスの英雄が従える馬の部族がお前たちに勝利を与える。もう一度告げる!レッド・スイフトが戦場に現れたのだ!」
「刹!刹!刹!刹!刹!刹!刹!刹!」

 赤毛の馬上で華々しく名乗りを上げた赤早が火中に飛び込む勢いで駆け出すと、後ろに続く馬の部族は彼らのただ一人の英雄に従い、太鼓を殴り鬨の声を合わせながら真紅の大布をはためかせる。誰もがアクエ・スリスの英雄に目を向け、雑多な蛮族と獣の海が古い奇跡のように右と左に割れて彼らのために道を開く。その先にジャンが守る魔王の城がそびえていた。
 赤早を先頭にまっすぐ駆け出した馬の部族は塁壁に向かうと見せて、数隊が分かれるとそれぞれが紅布をはためかせながら陣営を巡るように疾駆する。行く手を埋めているバルバロスとオオカミの群れが互いに押し合いながら退いていくと陣営の周囲に人でも馬でも駆けられるだけの空き地が現れる。西と東と南を駆ける一団が一斉に矢をつがえるとそれぞれに結びつけている赤く染めた細縄が放たれて、紅色が何本もの弧線を描いて塁壁に落ちかかった。

 赤早の意図を理解したジャンは慄然とする。騎兵が城攻めに向いていないのを承知の上で、先陣に立ち味方を鼓舞するためだけにそれを用いる。無秩序だった蛮族と獣の波はたったこれだけで一時に襲いかかるだけの空間を与えられたが、この方法はもう一つの条件があまりに無謀なためにジャン自身はあり得るとは考えていなかった。道は開かれた、あとは戦いの始まりを告げる号令が必要なのだ。
 赤早は最後の一隊、彼自身が率いる一団を陣営の北に残している。アンドラステの勇気とカレイドウェンの叡智、バルバロスを象徴する二つの徳を二つながら備えているのは他ならぬレッド・スイフトであり、探求するジャンには予想はできても実現はできない方法を彼ならば選ぶことができる。

 バルバロスの英雄は血と屍の地面を前にしてただ一騎が部族の先頭に立つと、ジャンが守る陣営地の北門に向けてまっすぐに駆ける。吟遊詩人の昔語りにしか聞けそうにない英雄の一騎駆けを、自ら無謀と危険を承知で敢行しようというのだ。ことさらに長い、紅布が彼の首から背に巻かれて尾を引くように後ろに流れている。
 帝国の陣門は二度と開くことを放棄した巨大な壁であり、土を盛り上げた塁壁の上に組み上げられた木と煉瓦の壁である。随所に手がかりはあるが尖らせた逆木と折れた骨が突き立てられていて手でも足でも容易に貫く、血と獣の皮で覆われた壁面は火すらも燃え移らぬ、堅牢さも威容も魔王の城たるに相応しい難攻不落の要塞だった。

 部族を後ろに置いて一騎駆け出した赤早に心得た戦士たちが太鼓と鬨の声を響かせる。心臓の鼓動と近しい早鐘にバルバロスどころかオオカミたちの咆哮もつられて重なった。馬上の英雄がそびえ立つ塁壁に挑む、あり得る筈のない疾駆に陣営の兵士すらも注視して目を離すことができない。加速するひと跳びが翼を持つ生き物のように壕を超えて、植えられている筈の鉄釘や逆木も畏れを知らぬ者の足には決して刺さることがなかった。
 そのままの勢いで塁壁に衝突する寸前、いなないた赤毛の馬が後足で立ち上がると鞍に足をかけた赤早が鉤縄を高く放りそのまま塁壁をするすると上ってしまう。真紅の長布が壁上でブリタンニアの風に煽られ、曇天に閃きを返す幅広の刃が高くかざされた。離れた櫓の上で一騎駆けの始終を傍観するしかなかったジャンの視線が、赤早のそれと交錯した瞬間にすべての結末は決められてしまった。すべては潰え、帝国の鷲は最後の一羽までブリタンニアから姿を消すことになる。

「勝てる筈のない戦いであることは最初から理解していた。それでも希望とすら呼べない願望にすがるのは人ならではの弱さだが、それが無駄な願いでしかないことは誰に言われずとも心得ていた。いずれ私たちの友人たる赤毛の英雄が戦場に現れたとき、父が斃れた戦場と同じく戦いはそこで様相を変えるだろう。私は彼の半分には及んでいるが、もう半分が決定的に足りないのだ。
 明日かもしれないし明後日かもしれないが、勝てる筈もなく逃げることもできぬ戦いであれば、それは帝国の敗亡が万人に知らされてバルバロスがその後裔に相応しいことが示されるものでなければならない。だからこそ帝国最後の軍勢を率いる司令官は最後まで叡智を尽くして戦わねばならず、赤毛の英雄にはただ勝利するではなく勝利を仰々しく飾り立てることが求められる。私たちの望みが果たされれば一方には伝説と栄光が、もう一方には汚名と滅亡が与えられることになるだろう。

 或はもっと他に方策があったのだろうか。残念ながら私の思索はその答えを見出すことができなかったが、かつて赤早が言ったアンドラステの勇気が私の傍らにあれば、少なくとも私は彼に及ぶことができたのかもしれない。だが父がそうであったように私も勇敢な彼女をこの戦場に伴うことはできなかった。
 だが私はそれで誰に許しを乞おうとも思わない。あの夜、彼女に伝えたように私は本当の帝国最後の戦いを彼女にこそ託したのだから。父よりも私よりも遥かに厳しく過酷な戦場へと彼女を送り出す、思索するばかりで何一つ為すことができなかった私はやはり愚かな虫でしかない。だがそのような虫がたった一つ、私の胸にあるカレイドウェンの叡智を勇敢なアンドラステには伝えることができた。これで私が望む世界をブリタンニアに残すことができる、その未来に私は疑いを持っていない。

 やはり私は娘のような息子なのだろう。この戦場で月の懐に身を預けながら書き綴っていた、私の述懐は読み返してみればあまりに女々しく言い訳がましい日記でしかない。だがその私がこの世界に残そうとした貴重なものが何であったか、届く筈もない書簡であるこの回想録に書き記すことができるのであれば、それが私のささやかな望みなのである。私は自分で書いたこの日記を読み返して、私の生涯を綴じることにする」


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