四章.失われた希望


 武器を取り上げられ、目隠しをされた少年と老戦士が連れていかれたのは窓のない建物の一室である。歩かされた距離は長いものではなく、集会所からそれほど離れていないことがわかる。荒れ地と点在する農場が広がっている大障壁の東の地で、人々は予期せぬ来訪者に警戒の視線を集中させていた。

「我々は不名誉に捕虜を虐待したりはしない。故に、君たちにも名誉ある回答を求めたい」

 部屋の奥に立ち、いささか演出過剰な言いまわしで話しかけた青年は、貴族じみた立ち居振る舞いが鼻につくが単純そうで裏のある人間には見えない。危険を承知でこの地の人々に会うことを選んだ少年だったが、連れ込まれた部屋の壁に飾られている不思議な模様を見たときにそれが幸運の印であることを知る。それは水路の裂け目にいた遺体が持っていた指輪と同じものだった。
 少年がハイランドの騎士団に滅ぼされた村の生き残りであること、老戦士は彼を助けるために知人が紹介してくれた傭兵であること、ダインブルグに連行される闇商人の一団に混じって門をくぐり抜けたこと。少年は話す限りにおいて嘘を交えることはせず、水路に潜みここまで来たことと途中の裂け目で出会った遺体を埋葬したこと、遺体がはめていた指輪のことをつけ加えると青年の表情が変わる。

「同士を埋葬してくれたのか。ならば礼を言わねばなるまいな」

 率直に頭を下げる青年の態度に、彼らが大障壁の東にあるこの地で非公然な反抗を望んでいることはすぐに理解できた。それで少年と老戦士が信用されたわけではないが、彼らは非礼を詫びる言葉とともに虜囚ではなく来訪者として遇されることが決まる。ただ芝居がかった青年の言い回しが変わらないことは、元来の彼の性格だと思われた。

「これまでも決して少なくない人間が大障壁を越えてこの地へと流されているが、君たちのように自ら望んで訪れた者は初めてだろう。だがどのような経緯であれこの地を訪れた者にもはや希望は存在しない、その理由を君たちは知らないが我々はよく知っている。大障壁は一方通行で西へ向かう道はなく、そしてこの地で生きるのであれば我々に協力しない限り君たちの生活を保証することすらできないだろう」

 青年の言葉は少年たちに協力して働くことを暗黙のうちに強要していることを示している。その脅迫めいた言動こそ彼らの立場を明確に証明していたが、少年にすればそれでも一向に構わなかった。彼らが知りたいことを手に入れること、それが少年の目的なのだから。

「それでは来訪者よ。我々が知っている歴史を、希望なき地の真実を君たちに語ろう。無論、差し支えのない範囲での内容に限られるが・・・」

 彼らしく仰々しい前置きをすると、青年は大障壁の東にある三十年間の歴史を語りはじめた。

 三十年前に大魔王ハンが倒されて勇者が帰らなかった後、当時のエレオナ姫は荒廃した世界を救うために小国ハイランドの首都に被災した人々を集めると救済と復興の第一歩を踏み出す。衰退した列国は戦乱を終えた安堵感と、勇者が失われた喪失感と、小娘に従うを潔しとしない反発心のせいで協力的になれず事態を傍観するか独自の復興を図ろうとした。
 だがエレオナは凡庸な人物ではなかった。彼女が第一に行ったのは王都で行われる商売に対してさまざまな税を免除したことである。直接的に復興につながるとされる商売に限定されてはいたが、多くの商人が新しい市場を求めて集まると瓦礫の町に軒を連ね、彼らに商品を提供できる人間がそれに続いた。一方で女王が禁じたのは高利をとることと談合して不正な価格を定めることであり、近衛兵団を率いるテオが市場を監視してクルトバーンが治安を保つことに腐心した。

 女王がハイランドの復興に携わっているあいだ、周辺にくすぶっている騒乱を鎮定して魔王軍の残党や野盗たちを掃討する役割を担ったのがヒュンケルトとマールである。遠征軍はハイランドを遠くはなれた東に拠点となる野営地を設け、食料や物資を置くとやがてその場所を中心にして新たな開拓と開発が進められた。王都で市場が開かれたように東では農地が拓かれて、多くの労働力が必要になり人が集まり出す。新しい居留地が希望を現す地、ホープの名称を与えられたことは今となっては皮肉以外のなにものでもなかった。
 ハイランドとホープの発展に伴い、東西を結ぶ街道の整備も本格的に進められていく。両者ともに自分が生きていくことに忙しく互いを顧みる余裕などなかったが、王都では近衛兵団が、居留地では遠征軍が国を守っており人々は目の前の生活に専心することができた。やがて街道が整備されて、物流が増えて、治安は改善して王都では夜昼かまわずに商売ができるほどになる。一方で急速かつ強力すぎるハイランドの復興に取り残された列国では民の流出が止まらず、商人も寄りつかず、エレオナに頭を下げて受け入れてもらった国もあればただ衰退するだけの国もあった。

 ヒュンケルトとマールが率いる遠征軍は、苛烈で容赦ない攻撃によってハイランド王都から東に至る広大な地域を平定することに成功する。マールは最高司祭長として復興の進む王都に建立された大神殿に戻ると法の番人たるを求められ、ヒュンケルトは兵を再編してホープに駐留すると治安を守ることに尽力した。ヒュンケルトの訓令はよく行き届いており、ホープの人々は安心して農地の開拓と開発に従事できるようになる。農業生産力においてホープがハイランドを凌駕するようになるまで長い年月を必要とはしなかった。

「やがて駐留するヒュンケルトの騎士団はホープから食料や労働力を徴発するようになった。その頃にはホープの生産力には余裕も出ていたし、王都を支援するためという名目であれば断る理由もない。辺境のホープが王都を助けるならいっそ愉快ではないかと、ささやかな優越感に浸った者もいるだろう。だが徴発が一時的なものに終わらず、その規模が次第に大きくなることに皆が疑念を抱いたときはすでに手遅れだったのだ」

 互いに本格的な交流が行われないまま、ホープからの労働力と物資食料の援助が続けられたがそれは王都よりもむしろ平定したホープの周辺を守るために建築される大障壁のためだった。復興が軌道に乗りはじめた王都からも莫大な資金の投入が行われ、巨大すぎる建造物が急速に長さと高さを増していく。一部の者は漠然とした不安を感じたが、彼らとて日々の労働に意欲的にいそしんでおりよもや大障壁が人々を守るものではなく人々を分かつものであるとは思わなかった。すべてが完成すると王都にはエレンガルドの、大障壁にはダインブルグの名が与えられた。

「大障壁が完成してすぐ、騎士団は豹変すると東の地に文字通り燎原の大火を放った。大陸の東端からはじまった火は集落も森も農地も念入りに焼き払いながら大障壁へ至るが壕が幾重にも掘られた壁に届くことはない。開拓と農業にだけ従事していた人々には武装した騎士団の突然の凶行に対抗する力があるはずもなかった。彼らは何の説明もないまま皆を引き立てて大障壁の前に陣を敷いたが、拒んだ者は置いていかれて焼け死ぬしかなかった」

 東の大火はこの地にあるホープを完全に滅ぼした。木々や畑が燃えてはじける音と、人間が焼けるにおいが立ちこめるだけになった焦土に、騎士団がまず行ったことは塹壕を越えた火が大障壁を傷つけていないか確かめることである。ホープの火が消えたことを確認すると、彼らは助けたはずの人々をもう一度この地へとたたき出した。
 自分たちが見放されることを知った人々は大規模な反乱を起こしたが、武器も食料もない人々がダインブルグにこもるヒュンケルトの騎士団を攻略できるはずもない。ほとんどは頭上から降りかかる矢で命を落とし、壕を越えようとした者も槍で串刺しにされると、見せしめを兼ねて積み上げられた遺体は念入りに焼かれてから骨まで砕かれた。

 こうして失われたホープの跡地には広大な奴隷農場がつくられると東の生き残りと西からの追放者が過酷な労働に従事されるようになり、辺境伯と呼ばれる領主が置かれて奴隷たちがかろうじて生きられる程度の食料が彼の手から配られるようになる。エレンガルドもダインブルグも完成して食料や労働力は充分に足りていたから、奴隷農場は誰かを養うためではなくハイランドに反抗的な者をまとめて閉じ込める場所に使うことができた。
 辺境伯は意図的に土地が荒れるほどの強引な農作を強要したが、それを三十年も続けた人々もそれ以外の方法など忘れてしまう。作物はすべて徴発されると収穫の多少に関わらず、奴隷たちを養うにはぎりぎり足りぬ程度の物資が配給されて残りはすぐに大障壁の向こうへと送られた。幾度か起きた暴動や反乱はすべて失敗していたが、最初に騎士団が、後には辺境伯と奴隷たちが自ら荒野にした空虚な土地は弱者が集うにはあまりに不利な場所だった。

「武器もなく、食べる物もなく、荒れ地しか持たぬ我々にできることは何もなかった。反乱は何度も起こったが、辺境伯から食料の配給を止められるだけで抵抗などできなくなってしまう。隠れる場所もない広大な荒れ地で、兵隊を相手に戦って勝てる道理がないのも無論だ。
 生き残った人々は奴隷として過酷な労働を強要されているが、働かねば少ない食い扶持すらなくなってしまう。奴隷の子と新しく奴隷に加わった者が世代を経て、今では生まれたときから奴隷だった者も少なくない。伝説にある大魔王ハンの軍勢なんてものは遥か大昔に滅んでいる。ここにいるのはホープを奪われた人間、ただそれだけなのだ」

 そこまで言って青年は饒舌になったことを多少後悔する顔つきになるが、真摯な顔で耳を傾けている少年に対して抑圧されている感情がこぼれ落ちたのかもしれない。確かなことはハイランドに伝わる三十年前の伝説も、大障壁の東で重ねられた三十年間の歴史もすべてが意図的に作り上げられたものであるという事実だった。二種類に分けられた人間が互いを知らぬことによって成立する完成度の高い世界、ハイランドが望む姿を少年は明確に見ることができる。
 この世界に決して存在してはいけないもの、それは真実を求める好奇心と想像力だった。

‡ ‡ ‡

 質朴な農婦にしか見えない女性が、木々に囲まれた山道を一人で歩いている姿は奇異なものに見える。北方山脈を背に、高く豊かにそびえている針葉樹の森は涼やかな風と穏やかな日差しを地面に届けていた。旅装束の下には浅黒く日に焼けた肌と異民族らしい束ねた黒髪に結ばれている飾り紐がのぞいている。
 メアリは彼女が三十年育んできた村を離れてから、どこへ行くこともできずあてのない旅を続けていた。大魔導士ポールが殺されたこと、自身もハイランドに追われる身であることを知ったとき彼女はよるべき地を失いさまようしか思いつかなかった。メアリは我が身を守ろうとしたのではなく他人が彼女に巻き込まれることを恐れていたが、それで反抗して戦うだけの覇気と気概は持っていない。彼女の愛情は疑うべくもないが彼女が守るべきものを手放して逃げたことには変わらなかった。

「ポールが認めてくれたのはわたくしの占い師としての能力ではなく、司祭としての力でもなく、人々を導く意思そのものだった。人を癒す魔法や奇跡よりも、戦乱を逃れた人々に生きていく希望をもたらす導きこそ尊いと教えてくれたはずだった」

 歩きながら一人呟いたメアリは、彼女が過ごしてきた三十年の日々を思い返している。辺境に小さな寺院を建てて訪れた人を助け、村を興した彼女は奇跡の力ではなく素朴な生活そのものによって人々に生きる意思を取り戻そうとした。土を耕して作物を植え、森に分け入って芝草や木の実を拾う。家畜は数えるほどしかいないが乳を手に入れることはできて、飢えと不潔を避けることで病を退けようとした。秋になれば収穫を祝う祀りを行い、冬を耐えれば感謝の祀りを捧げる。
 気がつけばメアリは村を離れることなどできなくなり、時間だけが過ぎていくと遠くにあるポールへの思いは薄れこそしなかったが二度と会うことはないだろうとも思っていた。帰らない勇者ダインを救えなかった、ポールの傷心を知っていた彼女はそれを理由にして逃げていたのかもしれない。

「わたくしはあのとき、ポールとともに歩むべきではなかったの?ポールの死を知らされたとき、あの子とともに旅立つべきではなかったの?でもわたくしの存在が村の人々やあの子を危険にさらすというなら、他にできることはなかった。世界を救うことができなくても、わたくしが愛した少数の人々を助けたならそれは価値のある行いなのだから・・・」

 メアリは彼女の思考が自己糾弾から自己弁護に変わっていることに気がつかない。少年を村から逃がした彼女が考えるべきはこれまで何をしたかではなく、これから何をするかであるべきだが彼女にとってそれが最も難しいことだった。伝説の戦いで勇者を支える大魔導士ポールの助けとなったメアリは三十年前もポールと同じように人々を導く小さな村を興したが、あるいはそれは彼女の意思ではなくポールと同じことがしたかっただけなのかもしれない。
 もしも彼女がポールの仇を討つために王都エレンガルドに赴いたとしても、待っているのは捕われて刑場に引かれるだけの道である。だがこのまま逃亡の旅を続けてもいずれ彼女が捕縛されるだろうことも疑いない。ハイランドの哨戒網は辺境の小さな村に隠棲していたポールを発見することができた、それは彼らが三十年をかけて逃亡者を探したのではなく、逃亡者の所在が明るみになるような世界を三十年かけて作り上げたということだった。

「あの人ならどうしたでしょう。それとも、あの子ならどうするでしょうか」

 メアリは篤実な行動で少数の人間を救うことはできても強い意志で危難に対処することができる人間ではないと思われており、何より彼女自身がその評価を受け入れていた。女王エレオナや白銀の騎士団長ヒュンケルトがポールやテオを恐れながら、彼女の存在は気にも留めずいずれ網にかかることを疑ってはいなかった。
 ヒュンケルトの巡視隊はハイランドを複数の区域に分割して、それぞれが組織化されて緊密な連携をとりながら騎士団長がすべてを把握できるシステムになっている。ことに複数のエリアを横断する報告は重視されて、それが部隊長から軍団長に伝わる前に追跡の兵が派遣されて逐次情報が伝えられる。少年と老戦士は道なき道を分け進むことでかろうじてその目を逃れていたが、メアリの旅は最初から筒抜けでむしろことを起こすに適当な場所まで彼女が移動するのを待っていたそぶりもある。ヒュンケルトの哨戒網はあまりに優秀で、逃亡者としてのメアリはあまりに無能だった。

 気がついたとき、メアリの周囲は兵士たちに囲われていた。二名一組で行動する哨戒の兵が手配中の逃亡者を発見すると、一人が仲間を呼ぶために姿を消してもう一人が距離をとって追跡する。やがて巡視隊が集まると周囲の状況と配備を確認し、散開して街道を迂回しながら逃げ道を塞いでいった。
 メアリが歩いていた街道、左右を森に挟まれている支道の前方から輝く白銀の鎧を着た兵士たちがことさらゆっくりと姿を現した。驚いた獲物が後ろを振り返ると、そこにも同じ姿をした兵士たちが歩いてくる姿が目に入る。一列横隊に並び、重厚な低声でハイランドの賛美歌を口ずさみながら近づいてくるが、それが趣味の悪い威圧のためではなく統一されたリズムで行動するための合図であることにすらメアリは気がつくことができない。

 立ち止まった獲物は左右に目を向けるが、木々の間に閃くいくつもの槍先が逃げる場所のないことを悟らせる。この窮地に至ってついにメアリは自ら戦う決心をせざるを得なかった。彼女とて奇跡を起こす司祭であり、大魔導士ポールや神の槌マールに遠く及ばずとも三十年前の戦いで勲を残した者である。風を裂く刃が敵を怯ませ、あるいは魔法の霧で身を隠せば包囲の一角を抜けて逃げることができるかもしれない。

「来るなら来なさい。わたくしも容赦はしません」

 賛美歌が最後の楽章を終え、足を止めた兵士たちの間に沈黙が流れている。だがそれを永遠のごとく感じていたのは狩られる獲物だけであり、狩る側にとってはすべて予定の中の行動だった。メアリは両手を前に組むと、奇跡を求めて神々への祈りを捧げる。

「BAー」

 短い祈りの旋律が最後まで唱えられることはなかった。身構えた獲物を囲んでいた兵士たちは屈強な背に担いでいた荷物を下ろすと、あらかじめ集めていた小石を手に手にとって投石を開始する。魔法も奇跡も離れた敵を襲うことができるが、四方をすべて相手取ることはできず木々に隠れた兵士を狙うこともできない。
 狩人たちは追い詰めた獲物の必死の反撃を呼び込もうとはせず、皮膚が裂けて血が飛び散るほどの投石をただひたすら繰り返した。ヒュンケルトが魔法使いを倒すために考案した、兵士たちへの訓練はよく行き届いておりメアリが移動する都度それに合わせて包囲の輪も移動する。更に外側にいる兵士が地面に転がった石を拾い集めて、縦横に走り回っては仲間に石を補充していた。

 血まみれのメアリの動きが鈍くなってくると、それまではただ包囲の中心に向けて行われていた投石もより狙いが正確になり、重い石と専用の投擲具に交換されて周囲には鈍い音が響くようになる。鼻骨が潰れ、頭巾の下には血が滴り落ち、長衣を赤黒く染めた女性のこめかみに固い石が命中するとメアリは崩れるように倒れ伏した。投石はその後も続けられて、少しずつ包囲の輪を狭めながら倒れている女性の身体に何度も石を叩き込み、それはメアリの反応がなくなってからもしばらく続けられた。

‡ ‡ ‡

 少年と老戦士が大障壁をくぐり、青年たちと出会ってからすでに数週間が過ぎていた。武器や鎧、旅装束は預けるという名目で奪われると少年たちはこの地に住む人々と同じ粗末な貫頭衣とズボンを着て農作業に従事している。それは人々の生活を知るためと同時に、いまだ信頼されていないだろう自分たちの立場を考えれば当然のことだった。
 その中で青年を中心とする人々が驚き、少年や老戦士が内心で呆れていたのは失われたホープの人々が作物を育てる術について無知も同然だったことである。東の地を荒野に変えるための作業を繰り返していた彼らは土地を耕すことも知らず、収穫を終えた後の地面をそのまま放置するに任せていた。少年の膨大な知識は大魔導士ポールが育てた村では誰もが知っている常識だが、希望なき地の人々には奇跡や魔法にも勝る宝だった。

 土地の荒廃がこれだけ進んだ状態で、それを蘇らせるなど容易にできるものではない。少年が最初に行ったのは今かろうじて収穫のできる場所を保つことであり、それを少しずつ広げていくことである。広く根を張った蔓芋をていねいに掘り起こして根や石を除いたり、枯れ葉からかんたんな推肥のつくり方を教えたり、まだ使える水路を確保して水門を据えつけたり、幸いなことに三十年前はそれらを知っていた者もいて少年の知識は宝を掘り返すきっかけとなる。
 粘土質の土を集めて用途別に分けたため池がつくられて、堆肥用の汚水だめが設けられると水路にたちこめていた悪臭も和らいで人々は少年の知識が日々の暮らしを確実に変えていくことを知らされる。巡視の兵はときおり姿を現したが、作物を収奪するときを除けば統治にはほとんど興味がないらしく少年と老戦士の存在にも気がつかなかったし目立たぬよう分散されたため池にも興味を持たなかった。

「我々の知っている畑とは二年もすれば捨てるものだった。だが来年も、その次の年もこの場所は畑であり続けるだろう。水は上ずみをすくいとってから煮なければ使えないものだった。だが我々はいずれ毎日のように水で垢を洗い落とすことができるようになるかもしれない。君が我々にもたらしたものはあまりにも大きい、それを認めないわけにはいかない」

 青年の言葉はあいかわらず仰々しく大げさだが、少年にとって誇らしいのは先生の知識が小さな村をひとつ育てるだけのものではなく、先生の知識を教えられた者が別の村を救うことができることだった。少年がここに留まったのは、ただ人々に信頼されるためだけではない。
 少年は人々に希望のかわりとなる知識を与えながら、彼らの活動が表に現れないことにことのほか気を使った。不便を承知でため池を分散させたこともそうだが、作物も一見して奪われにくそうな蔓芋を多く植えている。これを干して蓄えることができれば少なくとも彼らは飢えで支配されることは避けられるだろう。ここには希望はなくとも労働力だけはあった。

 三十年をかけて荒れ果てた東の地が、沃野に戻るには三百年が必要かもしれない。だがそれを二百九十年に、二百八十年にすることはできるかもしれない。依然として辺境伯と彼の兵士、巨大な大障壁という障害は存在しているが物事がひとつ解決できるならばいずれふたつ目やみっつ目が解決できるかもしれなかった。
 だが少年はけっして忘れたことがない。彼が旅に出るきっかけとなった出来事、なぜ先生が殺されて村が滅ぼされなければならなかったのか。少年はこの地で暮らしている間にその結論にたどり着きつつあったが、そうであれば少年のすべきことは決まっておりそのためには失われたホープの人々に信頼されるだけではなく彼らの協力を得ねばならなかった。それも危険と犠牲を伴う協力を、である。

 東の地で奴隷の一員として暮らしている中で、少年はいくつかの事情を知ることができた。大障壁に駐屯する騎士団がダインブルグを出て東を訪れることはなく、この地を支配する辺境伯も収穫の時期を除いては東にある広大な屋敷の敷地から出ようとせず、狩りや遊蕩に忙しいばかりで屋敷の外に関心など持っていないようだった。辺境伯は大魔王を打倒して二年後に生まれた、白銀の騎士団長ヒュンケルトと最高司祭長マールの息子だったがあまり無能なのでこちらに配されたとは人々のもっぱらの噂である。
 辺境伯が暮らしている屋敷はダインブルグを除けばこの地にあるただ一つの巨大な建物だった。屋敷は三重の塀に囲われて敷地の中に森や小さな湖、山までも抱えた広大な庭園が設けられている。庭園には野生の馬や鹿、狐や野兎が放たれていて東の世界でここ以外にそうした生き物は存在しない。壁は幾度かの奴隷反乱の後に増築されたものであり、特に屋敷と備蓄品の倉庫の二カ所は厳重に囲われているが所在なげにたたずんでいる門衛の表情を見ても警備が厳重であるようには見えない。伯が時おり出す立て札や通告も収穫と配給の時期を知らせるものを除けばごくまれに奴隷たちの間から若い女性を徴発するだけで、昼間は庭園で乗馬や狩猟に興じ、夜は酒と料理を口にして詩吟を奏でているだけのようだった。

「あんな太った豚が治める世界が正常な姿であるはずがない。家畜は人に養われるもので、家畜に人が養われるなど奇妙な話ではないか」

 熱っぽい真摯さで、青年は彼らの不満を少年に語っている。かろうじて生きていくことだけを許されている奴隷たちにとって無能な辺境伯の存在は世界の矛盾を具象化した存在に見えていることだろう。少年がもたらした知識は失われたホープの人々に未来を照らすわずかな光を示したが、青年のように未来よりも現在への不満を持ち変革を望む者は存在する。納得できぬ現在と過去のために今、何をするべきか。彼らは手をとることができるが青年にとって彼らの意志は少年の登場によってもたらされた運命であり、少年にとってそれは予測して得られた作為的な必然である点だけが異なっていた。

「過去の反乱の例を見ても、いざ騒乱が起きれば大障壁の兵も介入する。この世界を解放するには誰かがこの希望なき地を抜けて大障壁の西に赴き、世界の真実を訴えて双方で混乱を拡大させるしかないように思えるが・・・」

 そう語る青年は自分の考えが他者に誘導された結果だなどとは夢にも思っていない。少年が青年に示した内容は嘘ではないが、彼らの目的はこの地の人間が大障壁の西に行くことを望み、そのために少年と老戦士に協力するという状況をつくることだった。この地で生まれた青年のような人物にとって、まだ見たこともない西の世界に強く惹かれることも少年は理解している。

 青年の協力は少年の大きな助けとなるが、彼の力量や意志が信頼に値するものかどうかは問題ではない。大障壁をくぐって西に行くことを青年は強く切望しているが、大障壁を越えた後も彼の意志が続くとは少年は思ってもいなかった。東の地を解放するには西からの介入を止めること、西にとっては東で騒乱が起これば介入せざるを得ないこと、であれば騒乱は東西双方で起こる必要があること。一人の少年が語るには荒唐無稽にすぎる状況を、仮に生み出すことができるとしても三十年を無為に過ごした東の人々にそれを主導することは無理だろう。
 だが少年は自分の考えを青年をはじめ東の人々に語るどころか気づかせようともしていない。ダインブルグの東西にある伝説と歴史、その双方を覆すには一方の蜂起だけでは決して成功することはない。だが少なくとも失われたホープの人々には火種を与えられたときに呼応するだけの実力と認識、自分たちの力で現状を変えることができるという強い思いを与えておくことが必要だった。少年が時間をかけて人々に与えた知識は彼らに信頼されること、先生の知識が有用であること、そして知識を与えられた者が自分自身の力で現状を変革できるという認識を植えつけることを示していた。

 そして少年は気がついたのである。人々にこのような認識を抱かせることができる知識とは魔法よりもよほど危険なものであり、それを伝えることができる大魔導士ポールを決して生かしてはおけぬと考えた者がいるのだと。


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