騎士団長ヒュンケルトの巡視隊が、逃亡者の国事犯メアリを捕縛したとの知らせがエレンガルドに届いたのは少年が失われたホープの開拓に従事していたちょうどそのころだった。有能な臣下の続けての功績に女王は満足の意を示し、竜騎士勲章の栄誉とささやかな報奨を忠実な騎士に授けることを宣言する。
「汝の勲を讃え、ここに名誉ある竜騎士の勲章を与える。これからも光が汝の上にあらんことを」
「ありがたき幸せ。臣もまた光の加護に応えるべく忠誠を尽くす所存にございます」
女王自らの手で勲章が授けられると、騎士団長は膝をついて頭を垂れる。ハイランドの位階では女王エレオナの下に大元帥として帰らぬ勇者ダインの名が記され、その下に白銀の騎士団長ヒュンケルトと近衛隊長クルトバーン、最高司祭長マールら三人の英雄が仕えている。ヒュンケルトは治安維持のために司法警察権を有した巡視隊を率い、クルトバーンは女王の警護と王都防衛の重責を果たし、マールは祭祀を統括しながら裁判官と検察官の激務を一身に兼ねていた。彼らの地位は同格だが、実力と実績に勝るヒュンケルトが筆頭にあることは他の二者も認めている。
国事犯メアリを捕らえるにあたり、ヒュンケルトの巡視隊はおそるべき魔法を扱う女を激戦の末に捕縛することに成功していたが、どれほど邪悪な存在でもそれを裁く権限は大神殿にゆだねられており殺すのではなく捕らえることが彼らの正義を示していた。抵抗して負傷した罪人にももちろん応急処置が施されて、死なないようにぼろ布を口に咬ませると鉄錆をしみ込ませた縄で縛り上げ、後ろ手にした両の親指を針金で結び、両足の腱を切ってから王都エレンガルドに運ばれている。メアリの罪状は巡視隊を恫喝して襲いかかった治安妨害罪だったが、彼女が手配される原因となる破戒活動および叛逆予備罪については最高司祭長マール直々の審問によって証拠や裏面の事情を明らかにした上で処罰が行われることになっていた。
首から下を袋につめて、積み荷とともに斑毛の驢馬にくくりつけられた罪人が大神殿に送られてきたとき最高司祭長マールはすでに審問の準備を終えていた。神の槌と称されるマールは公正さと厳格さで多くの人々を裁き、罪人から真実を引き出すために独創的な手法をいくつも考案しており、細い針を爪のあいだに一本ずつ差し込む銀のくさび、耳に硫黄を流しこむ真理の注水、小さな籠の中に押し込めてつり下げる無我の立方体、縛り上げてから額に水を一滴ずつ落とす静寂のしずくといったものが知られている。中でも慈愛の槌と呼ばれる、水銀をふくませた重い布を詰めた皮袋でえんえんと胴体をたたく訊問は彼女の気に入りで、金や硫黄とならぶ神聖な物質である水銀を用いて罪人をむやみに傷つけない手法とされていた。
国事犯であるメアリは最高司祭長マールの部下によって大神殿の地下にある改心者収容室に連れられると、詰め込まれていた袋からようやく解放されて床の上に転がされる。異臭を放つ罪人は足の腱を切られているために逃亡の恐れはないが、巡視隊を恫喝したようにおそるべき魔法で襲いかかってこないとも限らなかった。罪人のために用意されている薄暗い石造りの部屋で、薄汚れたメアリは後ろ手に縛られていた針金を解かれるとかわりに手首を繋がれて、つま先立ちになるように吊り下げられる。口に咬ませていたぼろ布をしんちょうに外し、気つけのために冷水と熱湯を交互にかけてやると醜い女は心の邪悪さにふさわしい不快な奇声をあげた。
「お目覚めかしら、異民族の女メアリ」
正義と秩序を掲げる最高司祭長にふさわしい、凛とした声で呼びかけるマールの言葉には音楽的な律動さえ感じられる。鎖に繋がれた罪人と、正義が擬人化したような最高司祭長はかつて同じ陣列で共通の敵と戦った間柄だが時を経て望まぬ再会を果たした二人の女の間には立場でも思想でも深く大きな溝が穿たれていた。その溝を自ら掘った愚かな罪人の処遇を決めるためにマールはこの場所に立っている。
「伝説の戦いが終わり、荒れ果てた世界を救うために陛下がお建てになろうとした秩序に反抗した者たち。貴女やポール、テオが姿を消してからもう三十年が経ちましたね。わたくしたちは陛下に従い、魔王軍の残党をこの世から一掃し、世界に新たな秩序を生み出しました。
むろん、すべてが順境にあったわけではありません。意に反して自らの手を血で染めねばならなかったことも一再ではありませんし、善良だが愚かな人々を戒めるために罪人をあえて厳しすぎる措置で罰したこともありました。すべてから逃げ出して、たかが小さな村ひとつを育てていればよかった貴女はさぞご苦労をなさったことでしょうね。しかもかんたんに見捨てて逃げることができるていどの大切な村を」
マールの言葉には皮肉のとげというよりも針が含まれていたが、三十年の労苦を放棄して安楽な道に逃げ込んだ挙げ句、それに執着すらできない女が旧知の者とあれば手厳しさもやむなきことだった。正義と秩序を守るために血を流してきたマールにすれば、村に殉じたポールの愚かさはよほど理解できたがメアリの変節にはただ嫌悪感しか覚えない。汚らわしい罪人が何か口ごもったように見えるが、卑劣で下賎な人間が表層だけで垂れ流す言葉を捉える必要など少しもないことだった。最高司祭長は穏やかな笑みを浮かべながら、美しいが厳しい言葉の宣告を続ける。
「愚かなポールは命を失いましたが彼の亡骸は浄化の炎で焼かれ、遺された記憶や魂は決して汚れたものではありませんでした。鼠のテオはクルトバーンが手傷を負わせたものの討ち漏らし、どこかに隠れましたがいずれ彼も見つかれば罪にふさわしい罰と救いが与えられましょう。
もちろん、罪の大なる貴女にもハイランドは罰だけではなく寛大な救いを与えないわけではありません。貴女はこれからここで長い審問を受けたあとでいずれ刑場に連れ出されることになりますが、自ら光に背き世界の秩序と平穏を破壊しようとした罪を聖なる存在に告白すればポールのように浄化の炎で焼かれる機会くらいは与えられるでしょう。さもなければ罪が明らかになるまで審問は続けられることになり、煉獄に堕した骸は刑場で裁かれることもなく循環の法に則って家畜の飼料に供されることになります」
光と正義を信奉する者がどれほど寛大な慈悲の心を示したとしても、救いを求めようとしない邪悪な者を救済することはできない。汚らわしい異民族の女がどのように答えるか、マールは待つつもりはないが苦しげに口を開いたメアリが呟いたのは彼女が想像していたものとはまったく別のことだった。
「やはり・・・貴女はいまでもポールのことを・・・」
その言葉にマールの顔がとつぜん豹変すると、右手に握られていた錫杖がメアリの頬骨を砕く。最高司祭長の突然のふるまいに控えていた司祭たちは驚きの表情を浮かべたが、おそらく罪人がよほど邪悪な言質を用いたに違いなかった。光が擬人化したようなマールはすぐに平静を取り戻したが、今ではその輝きは光よりも炎のそれに見えている。かつてともに戦った仲間を罰せねばならぬ、彼女の苦悩を思えばそれも無理からぬことだったろう。大魔導士ポールは愚かだが決して邪悪ではなかった、それが道を踏み外したのは彼の悲哀につけこみたぶらかした淫猥な女のせいに違いないのだ。
女の不愉快な発言を振り払うべく、忌々しげに首を振ったマールは控えていた司祭たちに命じ、大型の漏斗を持ってこさせると醜い罪人にくわえさせて水と脂と発酵麦を混ぜた食事を流し込ませた。ポールをかどわかした不快な口はなるべく塞いでおいたほうがよいし、公開処刑が行われるまでのあいだ不浄な罪人には罪を悔いるための長い時間を与えるとともによく太らせておぞましい正体にふさわしい風体にしてから民衆の前にさらすのが通例となっている。無知な大衆には視覚的な明快さによって正義と邪悪のなんたるかを示してやることが必要だった。
大神殿の地下に声のないうめき声が響き、それを心の聴覚に受け止めながら最高司祭長マールは手を前に組むと改心者収容室を後にした。
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希望なき地、失われたホープを治める辺境伯の館は荒れ果てた世界の東端にあり、そこだけはまるで別世界のように高い塀に囲われた中に豪壮な白亜の建物が建てられている。外周をぐるり囲っている塀の内側には広大な庭園が設けられていて、もはや塀の外には存在しない森や湖があって鳥獣が放たれており館の主は狩猟と遊蕩に日々を過ごしていた。
少年と老戦士が大障壁を越えてから幾度かの月が巡り、季節が変わり収穫を終えると例年のようにすべての作物は辺境伯に徴収されてからごく少ない配給が与えられる。悪辣にも関わらず良心的なのは収穫があまり少ないときでも配給は行われることで、それが長く続けられている間に人々は生真面目に働く理由を失っていた。
その年の収穫は比較的ましなもので、すべて徴収された事情も変わらないがそれまでとは違っていたこともある。収穫から徴収まで終えた後、配給を待つ以外にすることがなかった人々は少年に奨められて植えていた蔓芋を掘り起こすと根は不味いが貴重な食料に蓄えて、葉は乾燥させてから堆肥と混ぜ合わせる作業に携わる。掘り返した地面はもう一度使えるように耕しておき、放棄された荒れ地にも手を入れて農地を広げていく。すべてはまだ始まったばかりだが、少なくとも少年を見る人々の目は数ヶ月前とはまるで違うものになっていた。
その中で、大障壁を越えて西へ戻るための計画を少年が明かしたのは老戦士と青年に対してだけである。話を聞いた青年は驚きかつ喜びもしたが、計画を他の仲間に黙っているように言われると端正な眉をひそめさせた。
「どうしてだ?君たちの計画には大義もあるし成功の見込みも充分にあるだろう、私も今さら君たちの誠意を疑うようなことはしない。確かにことを大げさにする必要はないだろうが、協力者は多くてもよいのではないか」
青年の疑問は素朴で率直なものにも聞こえたが、実のところ自分だけが選ばれたことに自尊心と後ろめたさの双方を感じているのが正直なところだろう。計画を成功させるには大人数でことを起こすよりも皆がふだん通りであるほうが疑いを持たれにくい。何より協力者とは反逆者になることだから、危険を被る人間は少ないほうがいいしむしろ青年にその役目を頼むことに少年は申し訳なさを感じている。
少年の説明は嘘ではないが、それは青年が信じたがっていることを信じさせるための方便でしかなかった。皆のために危険を承知で計画に挑む、英雄の所行はむやみに宣伝するものではなくただ自分自身の尊さを知っていればそれでよい。青年にそう思わせることができればあとは決行にふさわしい日を待つだけだった。
辺境伯の館を囲う塀には大きな門が構えられていて、たいていは門衛が一人立てられている。いざ反乱が起きれば彼らは塀の内側にこもって食料の配給を停止するだけでよかったから、面倒な役割は幾人も必要なく無為に立ち尽くしている姿を見ても警備のぞんざいさが知れた。
ハイランドは東西を分かつ大障壁ダインブルグさえ守られていればよく、辺境伯の地位はていのいい配所でしかないから衛士もヒュンケルトの騎士団の者ではなく、失われたホープの奴隷たちから覚えのよい者を選んでいたに過ぎない。農奴としての苦役から解放されて、農奴を見張るだけの仕事は羨望される立場だがあまりまじめに働くのも気まずかった。少年はこれらの事情を青年から聞き出しており、彼を選んだ理由も門衛の知人でそれに好感情を抱いていないことにあった。
「LEMOR」
交替する少し前の時間を計り、姿を消してから門衛を気絶させるていどのことは少年たちにとって難しくはなかった。不審な足跡が残らないよう争った痕跡を念入りに消しておいて、倒れた門衛を茂みに連れ込んで縛り上げるとさるぐつわを咬ませたところで少年は先生の二つ目の魔法の言葉を口にする。
「MOSYAS」
それは自分の姿を、目の前にある人のそれに変える魔法だった。老人と青年が見守る前で、少年の姿が倒れている門衛と寸分違わぬものになるとちょうど交替の時間になる。門衛の姿をした少年は何食わぬ顔でやってきた衛士を迎え、近くに隠れていた老戦士が背後からなぐり倒してしまう。倒された二人は衣服をはぎ取られて、あらためて縛り上げられると毒蛾の粉で作られたしびれ薬をたっぷり嗅がされてから茂みに隠された。
青年は門衛の衣服と装備を身につけると見張りの代わりをするためにその場に残り、少年は門衛の姿を写したまま、老戦士はもう一着の衣服を着て門内に入り込んだ。交替した衛士が戻らないことに不審を抱かれぬうちに素早くことを済ませなければならない。
広大な庭園と豪壮な建物の威容に反して、警備は少年が予想したよりも更に手薄で館までただ一人の姿も見かけなかったほどである。辺境伯が塀の外の世界にどれだけ関心を持っていないかこの一時だけでも明らかだが、一度だけ遠目に巡回の衛士が詰めているらしい建物を見かけただけで、そのときも不埒な侵入者の存在に気づかれた様子はまるでなかった。兵隊の強さは武器や鎧の華麗さではなく、倉庫にしまわれた武器や鎧がどれだけ磨かれているかで分かるとは少年が先生に聞いた言葉である。登ることができぬよう平らに削られた塀も、大軍を迎え撃てる狭い通廊も無用の長物でしかない。
三重の塀を誰にもとがめられることなくくぐり抜けた少年と老戦士の前に、噂に違わぬ広大な庭園と兵営に使われているらしい建物、そして豪壮な館が現れる。兵営の灯りを避けて館の上階から漏れる灯りの部屋を目指す、少年と老戦士が焦慮したのはばかばかしいほど広い敷地のせいで早足で進まないと時間がかかりすぎることだけだった。
空き部屋の窓からすべり込むと先ほど灯りを確認した上階にのぼり、門衛の姿をした少年は絨毯や花瓶で飾られた扉の前に立つ。あらかじめ青年から聞いていた、門衛の名前を名乗ると危急の用件がありますとして辺境伯を呼び出した。多少、演技がかっていたが室内から伯が姿を現すまで時間がかかったのは警戒されたからではなく奥の部屋に残されていた侍女が理由だろう。
「何の用だ、こんな夜中に騒々しいぞ」
不満そうに巨体を揺らして、緊張感を欠く声を上げながら遊蕩と不摂生に肥満した伯が鈍重な姿を現す。絹服の上に毛皮の長衣を羽織り、腰を飾り紐で留めて足にも飾り靴を履いている姿は趣味の悪い王侯か貴族を思わせるが少年にとってあまり意味のあることではない。危急の報告です、としてひざまずいた少年に伯が気をとられた瞬間に、背後に立った老戦士がなぐりつけるとうめき声も立てず崩れ落ちる。
少年は魔法を解くと今度は辺境伯の姿を写し、何食わぬ顔で部屋に戻って侍女を退出させてから警護の衛士を一人呼ぶように伝える。現れた衛士に辺境伯の姿をした少年は館に不審者が侵入したらしい旨を告げ、兵営にいる者たちに警戒させるように命じると衛士は部屋を出て行くが、やはりあらかじめ隠れていた老戦士に背後から襲われてあっけなく倒された。倒れた衛士と辺境伯には、しびれ薬がたっぷりと嗅がされた。
少年は部屋から伯の筆跡がある適当な封書を探し出すと巨体を部屋に戻し、今度は通路で倒れている衛士の姿に化けてから兵営に向かい、賊の侵入とそれに関連して王都への緊急の書状があるとして、封書を手に馬を二頭用立てると館の外へ抜け出した。門を出ると青年と合流し、老戦士と三人で二頭の馬に分乗して白みはじめた夜の中を西へと駆け続ける。
衛士たちはしばらく敷地を調べるだろうが、倒れた辺境伯が見つかればいずれ追跡の手がかかることは必定である。時間に追われる中で馬がつぶれないようにすることだけが困難だったが、遅すぎる追跡者がやってくる前に少年たちは大障壁に向かうと辺境伯直筆の封書を鍵に門を開き、馬を乗り換えてハイランドに乗り入れる。
しばらく走った後で馬を乗り捨て、衛士の衣服を脱ぎ魔法も解くと少年たちは森の中に消えていった。
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神々の恩寵を現しているかのように雲ひとつ無い晴天の一日。ハイランドの王都エレンガルドにある大神殿前の広場には朝から人々が集まっていた。エレンガルドには二つの広場が設けられており、王城に続く勇気の広場は騎士団の式典や女王の布告や詔を記した高札が掲げられることが多く、大神殿前にある正義の広場は主に祭儀や裁判のために使われている。
三十年の間にいくつもの法律と判例を重ねたハイランドでも、人間のモラルはいまだ大神殿の信仰にゆだねられていたから両者を分かつことはできなかった。人が人に罰を与えるにはモラルが不可欠であり、法を自由に解釈して裁判が支配できればそれは大魔王の所業と何も変わらなくなるだろう。
その日、正義の広場では邪悪な国事犯であるメアリの公開裁判が執り行われることになっていたが、すでに審問は終えておりあとは形式的な告発と処断が下されるだけとなっていた。陽光を白く反射する大理石の広場には儀礼的な処刑台がすでに設けられていて、大神殿の地下にある改心者収容室から引き出された罪人は無様な姿を民衆の前にさらし、蔑みの目の中で処刑台に括りつけられる。薄汚れたぼろ布をまとい、疣や痣、瘤で覆われた身体は醜く肥えて、頭髪はまばらで所々がかさぶたになって剥がれている姿は心の醜さにふさわしくおぞましいものだった。
魂の救済すら拒絶して光の祝福を失い、醜く姿を変えた罪人に向けられている視線は嫌悪から敵意、害意に変わると人々は慣例に従って口々にののしりの言葉を投げかける。もしもこの場所が規律ある王都エレンガルドでなければ、言葉だけではなく投石や殴打により制裁が加えられたであろうことは疑いない。
「これより国事犯メアリへの告発を行う」
式部官が声量を誇示するかのように荘厳な宣言を行うと、喧噪が途絶えて正義の広場には静寂が取って代わる。広場に面している大神殿の正門がゆっくりと開き、隙間から漏れていた賛美歌の響きが大きくなると陽光にまぶしいほど輝く純白の法衣をまとった最高司祭長マールの厳格な姿が現れた。齢はすでに五十に近づいているはずだったが、日々律せられた厳格な生活と修練を怠らず、毅然と背筋を伸ばした姿はいまだ若々しく正義と秩序を象徴するにふさわしい威厳と風格を備えている。薄汚れた醜い女との対比において、最高司祭長マールは人々の目にいっそう輝かしく映っていた。
快晴の空の下、朗々と告発文を読み上げる式部官の声が微風に乗って広場を流れていく。メアリの罪状は指導者を偽って邪な考えを広めようとした破戒活動罪と叛逆予備罪であり、かつて神職にありながらそれを放棄しての逃亡と隠遁、国事に関わる機密の意図的な持ち出し、国政を無視して行われた人々の組織化、彼らに対する邪教信仰の強制、怪しげな技術による誤った知識の拡大と誘導、それに捕縛を試みた巡視隊からの逃亡と恫喝、反抗とが加えられる。
ハイランドでは人が生きていくために犯してはならぬ罪の中でも、特に人々を誘導し誤った思想を強制することは最も重いものとされていた。それはかつて大魔王ハンが世界に暗黒と絶望をもたらそうとしたとき、世界に傷を負わせた原因が圧倒的な武力だけではなく、ただ破壊と支配のみに人々を奔走させた狂信にあったことを示唆している。悪しき心に煽られた人が罪に気づくことなく血を流すとき世界は崩壊する。そして最も重き罪に与えられる刑はひとつしかなかった。
「世界を闇に導かんとし、神々の慈悲による改心をも拒絶した国事犯メアリに対してこれまでの罪状に加えて神聖放棄罪を宣告し、浄化の法による魂の消滅と循環の法による肉体の救済とを与えるものとする」
大理石の広場に式部官の朗々とした声が響き、最高司祭長マールは重々しいうなずきを返す。ハイランドには野蛮で残酷な死刑は存在せず、どのような悪事に対しても最後まで救済の機会が与えられるが、邪悪に傾倒してあらゆる改心も悔恨も拒絶した者にはやむを得ず浄化の法や循環の法を行わざるを得ない。魂が宿るとされている目を焼き潰してから煙で時間をかけて消滅させ、抜け殻となった肉体はさらされた後で家畜の飼料となり自然に返されることになる。墓は死した魂と肉体を神々に捧げることで輪廻を約束するが、自然に捧げることは完全なる生まれ変わりを求めるということだった。肉体は世界から借り受けているもので魂が消滅するならばそれは世界に返すべきものとなる。
上天に向けてまっすぐに据えられている柱に括りつけられ、咬まされていたくつわを外されたメアリの眼窩に燃えさかる炭火が深々と押しつけられると浄化されるべき汚れた魂が絶叫となって口からほとばしる。その叫び声のおぞましさこそ、流れ出た魂のおぞましさであり罪人の汚れを証明していた。
まず右を、次に左の目を潰した火はそのまま足下に組まれている薪木にくべられてくすぶった煙が立ち上りはじめた。焼かれて追い出された魂は煙によって舞い上がると罪人の救われぬ魂は霧散して消滅する。煙の黒さは汚れた魂の黒さであり、むせかえって呼吸を奪われたメアリの魂は最後のかけらに至るまで失われようとしていた。
(わたくしは・・・何も・・・出来なかったというの・・・)
薄れゆき尽きかけた意識の中で、汚れた異民族の女は絶望の深淵に落ちかかっている。勇者と英雄たちの仲間として、伝説の戦いに携わった彼女は戦いの結末に絶望した大魔導士ポールを救うことができず、司祭として小さな村を起こした彼女は村人や迷い込んだ少年と歩みをともにすることができず、一人の女としての彼女は自分自身を守ることもできなかった。すべてにおいて何を為すこともなかった惨めな女の脳裏に、かつて住処もねぐらも定めずに暮らしていたころに占い師として世界を旅した人生が浮かび上がる。
その時代、人は自由であり思想や文化が人を傷つける心配など誰もする必要がなかった。厚手の布を羽織って輝石のはめ込まれた額冠をかぶり、腰には飾り紐を巻いて皮の短靴が土と草を踏みしめ、流れる風には楽の音に混じって羊や鵞鳥のにおいが漂う。祭祀とは世界への感謝であり、歌や踊りは人と世界を繋ぐ儀式であって知識と技術は生きていくための道具だった。そして占星とは星々の巡りに記されている世界の記憶を読み取る方法で、そこにはポールと過ごした短い時間も確かに刻まれている。あるいは彼女が占い師ではなく司祭として、三十年を過ごした理由はその記憶を思い返したくなかったからであったろうか。
すでに何も見えるはずがない潰された目で、メアリは晴天の彼方に見えるはずのない星の姿を掴んだ。それは魂の火が失われる寸前の無意識の認識であり、彼女自身の絶望の深淵の底にあったただひとつの輝きであることにメアリは気がついていない。ただ彼女が気がついたのは、その輝きが大魔導士ポールや少年の瞳の輝きと同じものだということであり、それが自分の中にもあったことがメアリにとって何にも代え難い喜びだった。
(ああ、ポール。貴方が頼ることを嫌っていた魔法の力、奇跡の力。最期にわたくしはわたくし自身の意思でそれを使います。貴方が思うほど魔法は役に立たぬものではなく、奇跡が人を導くことができるのだということを・・・)
心から満足したメアリはそのおぞましい外見に澄みきった笑みを浮かべると、ただ散りゆくはずだった魂の最後のかけらをかき集める。それは彼女が唱える魔法の旋律となり奇跡の言葉となって口の端から流れ出した。
「BA・・・GI・・・」
それは本来の力を大きく失った、風を操る奇跡の祈りである。岩石を砕き鎧兜を割ることもできる刃は幼子の肌に傷をつけることすらできぬささやかな流れしか起こせないが、死にゆく罪人の口元から煙を除き、肺腑に清らかな空気を送り込むには充分だった。そして与えられた短い時間をどのように用いるべきか、何を為すべきか。メアリの見つけた輝きにとってその答えは明らかだった。
「聞け!我占い師メアリの予言を。
この誤った世界に竜殺しの血をひく英雄が帰る、そのとき真に悪しき者が討たれるだろう」
本来、呼吸すらできるはずのない煙の中で叫べるはずのない女の声が驚くほど透き通った音色で響き、黒煙と肉の焼けるにおいが漂う大理石の広場に奇跡の旋律が流れると、それまで罪人に向けられていた軽蔑と嫌悪の視線が驚きのそれに変わる。人々を誘導して誤った思想を強制することが最も重い罪であるならば、最も罪深い女であるメアリにはそれを為すことができるだろう。世界のすべてが正しく、大魔導士ポールだけが誤っているのならばメアリはポールの誤った思想を堂々と信じることができた。
「聞け!我占い師メアリの予言を。
この誤った世界に竜殺しの血をひく英雄が帰る、そのとき真に悪しき者が討たれるだろう、
この誤った世界に竜殺しの血をひく英雄が帰る、そのとき真に悪しき者が討たれるだろう」
「黙れ!黙らぬか!この恥れ者が・・・」
突然の奇跡に直面した最高司祭長マールの動揺な小さなものではなく、普段の毅然とした姿からは思いもつかないほどに取り乱して叫ぶとその声が人々の鼓膜を叩いた。メアリの声は力強く律動に富み、火と煙に誰も近寄ることが出来ない中で、魂の火が完全に尽きるそのときまで繰り返された予言めいた言葉はその場にあったすべての人々の心に長く残り続けることになる。
「竜殺しの血をひく英雄が帰る、
竜殺しの血をひく英雄が遂に帰る・・・」