三十年の時を巻き戻して、王都エレンガルドに災厄をもたらそうとする者たちは闇に潜むテオの命令に従い各地に流言を触れ回っていた。鼠の歯で国をかじり倒すことはできないが、病は人々の心を蝕んで広がっていくことができる。
「一人の女が世界を滅ぼした。だが魔王が倒されたときと同じく、竜殺しの英雄が帰るとき世界は救われる」
それはメアリの叫びを脚色して彼らのシナリオのために作り替えた言葉である。いわく大魔王ハンが倒されてより三十年が過ぎ、大障壁ダインブルグの果てに追放されていた勇者はその後継者を得ると一人の少年にダインの名を与えた。彼は世界の惨状を見て偽りの王都エレンガルドを討つべく立ち上がる、そのときは目の前に近づいている。ハイランドが勇者に与えた伝説と大障壁に隔てられた真実への無知、そして現在への不満が流言を後押しするだろう。
「だてに三十年も時間をかけてはいない、俺が育てた諜報網はヒュンケルトのシステムにも劣らない自信がある。病原菌を王都と大障壁の向こうに広げれば俺の仕事は終わりさ」
テオが三十年の歳月をかけて張り巡らせた諜報網のすべてを使い、帰還する勇者の噂はハイランドに余すところなく広がっていく。噂は人を煽り、くすぶっていた民心は動揺すると勇者ダインの名を借りた組織がいくつも生まれてはクルトバーンの鋼鉄の粛清によって芽のうちに摘み取られたが噂そのものを潰すことはできなかった。
大障壁で分断されたハイランドの統治について、テオは多くの情報を持っていたが少年に伝え聞いた話はそれらを補完するに充分だった。ことに辺境伯が支配する失われたホープで、不満を抱きながら機会を窺っている人々の動向は貴重なことこの上なく彼らは大障壁の東で騒乱を起こす存在として欠かせない。
「東を煽るのは簡単さ。闇商人のふりをして捕まるだけで病原菌を送ることができるんだから、俺は東の連中に本気で肩入れしてくれるような奴を探すとしようか」
大障壁の西と東で騒乱を起こす。ハイランドは兵をそれぞれに割かねばならず、東で反乱が起こると同時に新しい勇者ダインがエレンガルドに現れれば動揺は小さなものでは済まないだろう。すでに銀の槍の騎士ヒュンケルトが討たれて、王都を支える柱の一本は揺らいでいる。そして失われたホープに希望を与えた少年が勇者ダインの後継者として王都に挑むとなれば東の人々を煽る材料にもなり、すべてを都合よく踊らせるには笛吹きの技量が求められるがその点でテオは充分な自信を持っていた。
ヒュンケルトが倒れて王都には戒厳令が敷かれている。それは大障壁の兵士にとっては背後に不安があるということで、東の地で騒乱が起きても容易にダインブルグを空にできなくなるということだ。本来そうしたときのために辺境伯の館にも兵士が詰めていたが彼らがものの役に立たないことは皆が知っている。旅程にしてゆうに一ヶ月を越える東西の距離は更に大障壁によって隔てられており、それは世界を東と西に分けて管理することを可能にしている一方で互いに緊密な連携を図ることが難しくなることを意味していた。
テオはこれらの策を自分に示した少年に感心とも驚嘆ともつかぬ目を向けていた。勇者と呼ばれるのではなく自ら勇者と名乗る、それはかつての偽勇者と変わらないが少年はすべてを承知した上でダインを模した服を着てヒュンケルトの槍を手に、デミルーンの短剣を腰に吊るしている。だがこれだけ大それたことをしようとしている、少年に秘められている決意が正義ではない別の色に染められていることも鼠は気がついていた。
(俺たちの暴挙はダインの正義でもポールの望みでもない、だが勇者も大魔導士も他人の生き方は決められない)
その感慨に少なからず皮肉の成分が含まれていることをテオは自覚していたが、皮肉な世の中の現状を見ればそのていどはやむを得ない。新しい勇者の使命は三十年前の伝説を終わらせること、大魔王ハンと勇者ダインが倒れたときの姿に時計の針を戻すこと。それはテロリズムの論理でしかなく、現在にも未来にも弁解のしようはないがこの完成された世界を打倒するに陰謀と暴力以外に方法があるのならば人々は少年やテオを排除することができるだろう。
少年がヒュンケルトを倒したのは小細工の結果でしかないが、ハイランドを打倒するには人々がそれを望まなければ無理であり、女王エレオナ陛下にお助けいただいたことに皆が感謝していれば革命の名を借りた暴動は起こらない。彼らは世界の復興を勇者や女王に預けっぱなしにしていたのだから、文句の言葉が出ようはずがない。
「メアリが使おうとした魔法の意味が俺にもようやく理解できた。文字の連なりに過ぎない言葉が時として奇跡を生む、それこそ大魔導士ポールも得意にしたペテンの力、ワード・オブ・ソーサリーだ」
後代、いささか皮肉の意味を込めて勇者の帰還と呼ばれることになるその動乱において、当事者たちがしたことはごく小さな火を掲げてそれを絶やさないようにしたに過ぎない。だが掲げられた火に勇者の名前が刻まれていたというだけで、人々は三十年前と同じように勇者の名前さえ叫んでいれば悪い奴をやっつけてもらえると思っていた。自分たちが悪い奴だと思っている大魔王が、神様のせいで日の届かぬ世界に押し込められた事情など考えたこともなく、王都エレンガルドで人々を統べる女王に不満を持つ民衆も彼女がいなければ世界が滅びていたことなど思いもしなかった。
「あれ以来、奇妙な噂が流れているのを知っていますか」
「は・・・」
女王エレオナにしては不分明な言葉がメアリの死とヒュンケルトの死のどちらを指しているか、鋼鉄の王クルトバーンはすぐに理解できなかった。だが王都エレンガルドにそびえる王城で、騎士団長の喪失に動揺する人々を毅然と導いて揺るがぬのはやはり女王でありクルトバーンは彼女の言葉を決して疑おうとはしない。かつて大魔王ハンを前にして見せた胆力も、勇者ダインがいなくなっても失われなかった強固な意志も三十年を経て色あせることはなく女王に従っていれば万事が解決することを鋼鉄の王は確信していた。
大障壁ダインブルグをくぐり抜けてさいはてのデミルーンを訪れ、銀の槍の騎士ヒュンケルトを討った兇悪な賊が地下に潜行するテオと接触する可能性を女王もクルトバーンも恐れていたが、おそらくそれは不快な事実になるだろう。メアリの死を契機に生まれた勇者が帰還する噂も、ヒュンケルトが倒れた混乱に乗じて流れている女王打倒の煽りもテオが構築した地下組織の力によるところが大きいと思われており、その鼠がヒュンケルトを討った魔法使いに接触せぬはずはなかった。
「余が世界を滅ぼして勇者がそれを救うか。陰謀者どもが我らが愛するダインを騙ることは許しがたい不敬ですが、余の統治そのものに不満を持つ者はいくらでもいるでしょうね。戦乱の無法がまかり通っていた荒れ地を小さなハイランドが治めるには厳しい統治が必要でしたから、そもそも厳しい統治を喜ばない者などいくらでもいたに違いありません」
「まことに嘆かわしいことながら・・・」
女王は自分が人民に好かれていないことなど百も承知しているし、自分がダインの代役でしかないことも心得ている。だが勇者がいなくなって誰も代わりをやろうとした者はおらず、エレオナが国をまとめなければ世界などとうに崩壊していただろう。ポールが試みたように小さな集落をつくって人々が自分で生きる方法を学ばせる手は確かに正しいが、それではせいぜい小さな集落しか救うことができないのだ。
これまで慎重にすぎるほど慎重に姿を隠してきたテオが動いたということは、メアリの死とヒュンケルトの死をハイランドの堤防に開いた蟻の一穴と見たのだろう。光に満たされた処女王エレオナの厳格な統治にこれまで三十年の間、わずかな翳りすらなかったことを思えば、光の差し込まない闇の底でうごめくしか能のなかった毒虫どもには好機に思えるに違いない。女王にとって不快なのは賊徒たちが勇者ダインの名を騙って大規模な反乱を企図していることで、メアリの妄言から想を得た彼らが流している噂の内容を見ても彼らのもくろみは明らかだった。
「ヒュンケルトを討った賊があのポールを思わせる魔法を用い、不逞にも勇者を騙る噂を流しているのは他ならぬテオが率いている地の底の輩です。余が何を言いたいかわかりますね、鋼鉄の王よ」
「鼠めを討ち漏らしたのは我が不徳の致すところ。その罪万死に値しますが非才なる身であれば一つの罰で罪を賄うよりも粉骨砕身して我が責を果たし続けることで償いとさせて頂きとう存じます」
かつて下水溝に潜む鼠を追い詰め、手傷を負わせながら取り逃がしていたクルトバーンは失われた名誉と塗りたくられた汚辱を自覚していたが、全身を引き裂かれる思いを味わいながら彼に課された任を果たす決意を捨てようとはしない。それを未練がましいと思う者には思わせておけばよく、恥を知らぬのではなく恥を知ってなお人前に立てる鋼鉄の王に女王は重々しくうなずいてみせた。それがクルトバーンの得がたい資質であることをエレオナは知っている。
「よろしい、そなたのその決意が世界を助けるでしょう。先の布告以来、王都の状況は決して穏やかとはいえませんが、大神殿はマールが復帰した後に少なからぬ粛清こそありましたがようやく機能しはじめているようです。大障壁と辺境はヒュンケルトの組織がまだ生きているからよいとして、そなたに命じた王都の治安はどうか」
「は。すでに仰せのとおり、王都とその周辺にあって不逞にも戒厳令に従わずにいた者ども三百余人を摘発しております。うち半数が愚かにも逃亡を図りました故その場で処断、残りはまとめて大神殿に引き渡して収容しましたが、場所が足りませんでしたのでそちらはマールが処置致しました。不服申し立てのない者はすべて略式裁判にて処断、審問中の者は供述の手配をさせてから公開処刑とする所存にございます」
無言で女王がうなずく姿を見ると鋼鉄の王は深く一礼し、引き続き王都の治安を保つべく謁見の間を後にする。どれほど厳しい引き締めを行ってもその目を逃れようとする輩はいるもので、それを承知で取り締まるのだから見せしめには違いない。本来、人間が秩序に対して従順であればハイランドがこれほど厳格である必要はないが、存在しないモラルを頼って世界を混沌に放り込むことはできなかった。
動揺する王都を厳しく締め付けること、手段が目的になっているきらいがあることは認めるが、だからこそ度を超して行う必要はなく一罰百戒で皆が鎮まれば戒厳令も解除することができるし後は不逞な反乱分子への対応に専念できるようになる。三十年の間、誰よりも人を助けてきた女王エレオナが誰よりも人を傷つけもしなければならず、世界に責任を持たない者どもはそれを非難しながら利用する。皮肉で、滑稽で、腹立たしい現実だがエレオナがいなければ誰も世界を救おうなどと考える者はいないのだ。女王は間違えていると訴える誰が女王のかわりに世界を背負ってくれるというのか。
「ダインが生きていても人は大魔王討伐を勇者に押しつけたではないか。三十年前、ダインが帰ってきたとしてもハイランドは今の姿になったでしょう。それでダインが悪名を被るくらいなら人の畏敬と憎悪など余が引き受けて少しも構わぬ」
反乱分子のもくろみは女王に不満を持つ民衆を煽動して蜂起させること、そんなことは子供でもわかるがハイランドを統べるただ一人の女王に不満を持つ民衆がいくらでもいることなど女王は承知している。三十年前、怪物の島で育った少年ダインに民衆が投げたのは声援ではなく石であり、伝説の戦いで勇者に祭り上げられてから口を揃えてダインを讃えた姿をエレオナは知っている。それでもダインは人を救おうとした、だからエレオナも人を救ってあげるのだ。
鼠のテオが仲間を呼び組織して率いる能力をエレオナは正当に評価していたから、民衆の蜂起は少なくともいくつかの地域で成功するだろうと女王は考えている。故人となったヒュンケルトが構築したハイランドを統治するシステムは完璧だが、統治される民衆が完璧ではないのだから崩す余地などいくらでもあった。女王がすべきことは多少の動乱にうろたえることなく王都と大障壁を抑えること、この二箇所が無事であればハイランドは決して倒れず、そのためにマールとクルトバーンにはこのエレンガルドの治安を守らせなければならなかった。魔王軍が健在なら大障壁を攻略するが、軍隊のないテオであれば王都を陥落させるしか方法はない。
「余の前に民衆をたどり着かせることができるか?テオドールよ、そしてポールの魔法を手にした者よ」
それが三十年前に手をとり戦った仲間同士の争いだとエレオナは考えてはいない。あのときの仲間たちは今でも互いを理解している、だが民衆という化け物どもは魔王の野心も勇者の正義も、女王の責務も量ることなくいつでもそのどん欲な口を広げているのだ。
‡ ‡ ‡
大魔王ハンが倒されてから三十年、世界を救った勇者ダインはその後継者を得てついに大障壁ダインブルグの東の果てよりこの地へ戻る。彼は世界の惨状を見て偽りの王都エレンガルドを討つべく立ち上がる、そのときはもう目の前に近づいているだろう。
「一人の女が世界を滅ぼした。魔王が倒されたときと同じく、竜殺しの英雄が現れるとき世界は救われる」
闇に潜む鼠、テオによって広められている流言は厳格なハイランドの網をぬって人々の耳を渡っていく。厳格であるからこそ後ろめたさを覚えながらささやかれる噂話は根強く、押さえつける力が強ければ抗う力も強くなるのが道理だった。善悪に関わらずそれが人というものであり、そしてその反動が最も強い場所は王都エレンガルドを除けば東の失われたホープの地に他ならない。テオが最初に流言をばらまいたのも大障壁の東に対してである。
「君たちは知っているだろうか。あの悪夢の城壁を建ててホープに火を放った張本人、銀の槍の騎士ヒュンケルトが討たれたのだ。勇者ダインの後継者が失われたホープの惨状を知り、大障壁を西に越えて我々のために戦っている。君たちに苦難呻吟を強く太った豚どもを倒すために勇者ダインは立ち上がった。新しい伝説はこの地、ホープから始まったのだ」
唐突にホープに姿を現し、人々に生きるためのわずかな希望を与えると唐突に姿を消した少年と老戦士のことを覚えている者は少なくなかった。王都エレンガルドと異なりホープは過去に幾度も反乱が起きた土地であり、人々にその記憶は新しく辺境伯は無能な太った豚だった。これまでは人々に不穏な動きがあれば、伯が食料の供与を止めるだけで効果があったが今のホープにはわずかながら勇者に教えられた自給する術がある。辺境伯の屋敷は難攻不落の城塞だが詰めている衛士は決して多くはなく一部はもともとホープの仲間たちだった。
このようなとき、不穏な空気を察した統治者はむしろ寛大な態度を示して祭りを行ったり酒を振る舞ったりして不満を和らげることもあるが、辺境伯はこれまでと同じように奴隷には鞭を与えて餌を取り上げればよいと考えていた。侵入者に襲われて殴り倒された、苦い記憶がもともと乏しかった伯の寛容を奪っていた事情もある。こうして不穏な人々に辺境伯が先んじて高圧的な搾取と締め付けを行い、太った豚の愚かさに我慢ができなくなった民衆が反抗するとすぐに暴動になり動乱になるまで時日を必要とはしなかった。ダインやテオの期待を遥かに上回って辺境伯は愚かだった。
「勇者は俺たちの中から生まれた!俺たちは太った豚の言いなりにはならない!」
流言を都合よく解釈した人々はダインが失われたホープで生まれた奴隷の子と思い込むようになり、蔓芋の根を焼いたまずいパンが勇者の食事となる。ハイランドは大障壁を守りさえすればよかったから東に討って出ようとはせず、ヒュンケルトが倒れて指揮官もいなかったから動乱を鎮定するなど夢のまた夢だった。
大障壁の東でダインに率いられた人々が反乱を起こし、ハイランドに剣を振り上げた。動乱の報はテオたちの手によって今度は王都エレンガルドに届けられる。演出家たちはすべて計算をした上で、本物の伝令が届くのに前後して適度に誇張した噂を流布するが、無責任な情報を耳にした人々は大仰な噂はさすがに排除しながらも多少の誇張は信じたからすでにいくつかの軍勢がダインに呼応して王都を目指しているとすら思い込んだ。
「LEMOR」
大障壁の西では街道に沿って点在する小さな村や宿場を中心にしてことが進められた。勇者ダインとおぼしき少年が突然姿を現しては王都エレンガルドへの出立を叫び、時にはハイランドの衛士に襲いかかって打ち倒す姿が目撃される。ダインが出没する前後には当然テオの部下たちが勇者の帰還を声高に吹聴する噂を流し、襲撃も彼らが行う例があったが人々はすべてダインが圧政者を懲らしめながら王都を目指していると信じようとした。襲撃が繰り返されるたびに少しずつダインを目撃する場所が王都に近くなり、噂につけられる尾ひれも長く広くなっていく。
もしもヒュンケルトが健在であれば組織的な対抗策を考えることができたかもしれない。だが時に姿を消し、時に人の姿を写すことができる少年を捕まえるなど不可能に近かった。伝説のままの姿をした少年は大仰に現れることもあれば、遠目で王都の方角に向けて駆けていく姿が目撃されたこともあるが雑多な噂の中には意図的な情報が差し込まれる。曰く、太陽が中天に届く夏至の一日、人々が手に武器を、心に勇気を持って立ち上がるとき勇者が帰還すると皆の先頭に立って偽りの王城を討つだろう。夏至祭の当日に勇者ダインは王都で兵を起こす、あからさまな挑発だがそこにダインの名がある限りハイランドは決して無視することができなかった。
演出と流言と無責任な噂が重なり合い、煽られた人々の目と耳は偽りの王都エレンガルドに向けられる。王都に限らずハイランドの各地では太陽を祝う夏至祭に多くの人が集うのが慣習であり、暦と気象を見ることができる者であれば当日の空が輝くばかりに晴れわたることも予測できた。
毎年この時期には多くの商人や旅人がエレンガルドを訪れるが、今年は度を超した数の者たちが続々と王都に集まろうとしていた。彼らの目的は明白で反抗への期待を込めている少数の人間と単なる好奇心に駆られた大勢で成り立っている。ダインがエレンガルドを打倒するのであればこの少数ではなく大勢を味方につけねばならず、勇者の名があったとしてもそれは決して容易なことではない。祭りを前にして王都は人間でひしめきあっており、それを警護する名目で常よりも多くの兵が要所に配置されている。だが東で動乱が起きている状況ではそれも充分ではなく、無能な辺境伯を助けるために多くの兵が大障壁に釘付けになっていた。
その日、輝くような陽光を大理石に白く照り返す王都エレンガルドには祭りと改革と騒乱を期待する人々が集まり、近衛団長クルトバーン直属の兵士たちが武器と鎧の壁となって人々を遠巻きに囲んでいた。くすぶった興奮が火をつけられる瞬間を待ちながら少しずつ増幅されてゆき、人々は押さえつけられた高揚感をその身に帯電させながらそのときを待っている。太陽が中天に届く、それが夏至祭の当日であることは誰もが理解したが、ならばその瞬間も太陽が中天を示す正午に違いなく喧噪に包まれていたエレンガルドが息をひそめるように急速に静まりかえっていく。
(さあ、派手に行こうか)
身を隠しながら様子を窺っていたテオが心中に呟きながら合図を出すと、正午と同時にけたたましい音を立てて一閃の石火矢が空を横切ってそのまま勇者の広場の中央あたりに落ちる。一瞬まぶしく光り、それが消えた中央には伝説の姿そのままの少年が一人立って敵を切るではなく人々の心にかざすための短剣を太陽に閃かせた。
「時はきた!偽りの王都エレンガルトよ、いざ、覚悟!」
その瞬間、夏至祭の興奮と帰還した勇者の伝説に支配されていた人々の理性は消し飛んだ。彼らはあらかじめテオがまぎれ込ませていた部下たちに煽られると、拳を空に突き上げ奥歯までむき出しにして王都の打倒を叫ぶ。手近な椅子や机の足をへし折るとこん棒に、かまどから薪木を持って松明にする。
だが王都の人々は生きていくために反乱もやむなしとした東の人々ではない。行き過ぎたデモンストレーションを暴動から動乱へと変えるには、噂にあるとおり先頭に勇者が立って皆を率いる必要があった。エレンガルドと女王に不満を持つ者は少なくないが、厳格で行き届いた統治の恩恵を受けている者は無責任に騒ぎたいだけで世界を破壊しようとまでは思わない。三十年前はただ勇者に任せていればよかったから、今もただ勇者についていけばよい。その結果人々を引き返すことができぬ状況へと追い込む、これは革命ではなくダインが女王エレオナに挑む私闘に民衆を巻き込もうとしているだけでしかなかった。
拳と武器を振り上げた群衆は無目的に家々や店になだれ込み、または周囲の兵士たちに襲いかかって大規模な衝突が発生する。あちこちで悲鳴と怒号が重なり壁や窓、扉が打ち壊されて地区によっては黒々とした煙も立ち上る。今やそれらを煽っているのはテオの部下とそれ以外の大勢の人々だった。
「陛下!王都のあちこちで大規模な暴動が発生、群衆を煽る者の中にダインを僭称する者がいるようです!」
エレオナがその報を受けたとき、美しいエレンガルドの大理石は暴徒の足跡で汚されようとしていた。だが女王も無為無策でいたわけではなく、事態を想定して配備された兵たちがあらかじめて要所を抑えていたから、どれほど大規模な暴動でもいずれ鎮圧されることは疑いない。多くの血が流れることを承知で、この際テオの組織に人員のことごとくを費やさせた上で鎮定すれば彼らを壊滅できずとも十年二十年は立ち直れないほどの傷を負わせることができるだろう。
暴動を契機にして少しずつハイランドが譲歩していけばその後の不満を緩和できるし、東では辺境伯の地位を取り上げて自治を認めればよいし王都はヒュンケルトが持っていた権限を分与するだけで分権が進む。もともとエレオナはそのつもりでいたし、ダインのかわりに世界を救ったら彼と自分の名前が残ればあとは民衆とともに生きようなどと考えてもいなかった。少年を犠牲にして平然としていられるような連中に誰が心まで売り渡すものか。
「火はすぐに消えます。今はうろたえることなく暴徒どもの鎮定に力を傾けなさい。クルトバーンとマールにはそれぞれ王城と大神殿を守り決して外に出ぬよう伝えること、彼らが健在ならエレンガルドは絶対に落ちません」
女王エレオナは犠牲が出ることを知った上で世界に復興と繁栄をもたらしてきたが、犠牲もなしに世界を救う方法などどこにも転がってはいない。ポールの方法は迂遠にすぎてその間に愚かな人間同士がどれほど争って自滅するか知れたものではなかったし、テオドールの識見は得がたいがそれは今こんなかたちで用いられるものではなく、世界がもう少し人々に与えられてから議会でも開くべきだった。
狂熱のただ中にある暴徒が数において兵士を圧倒し、あちこちで破壊の音や煙が上がっても王城と大神殿は傲然とそびえ立って小揺るぎもしていない。そして群衆のエネルギーは持続すれば厄介だが爆発すれば激しくとも無限ではなく、いずれ火山脈は尽きて煮えたぎる溶岩も冷えて固まってしまうだろう。エレオナにとって気がかりは無能な辺境伯のせいで王都に充分な兵を用意できなかったことと、反乱分子の頭目がダインを名乗る以上は無視が許されないということだけだった。彼らはそれを利用してクルトバーンとマールを誘い出そうとするはずであり、もしもヒュンケルトのように小細工をもって英雄たちが倒されれば群衆が勢いづきことは面倒になるだろう。
「もう一度、マールには強く伝えるように。大神殿を決して離れず貴女の聖域を守るようにと」
当時も今も勇者たち一行の中で最も気性が荒く激しやすいのがマールである。クルトバーンはああ見えて武人として主の命令を何よりも優先するが、マールは感情が理性の手綱を振りほどくことがないとは言えなかった。ヒュンケルトに手をかけた賊がマールに対峙すれば彼女が自制することは難しい、だがひとたび彼女のたがが外れれば百人の群衆が千人でもすべてひき肉にされるだろう。彼女を相手にするという一点に限っていえば、賊がヒュンケルトを討ったことは自らの首を絞めたも同じことなのだ。
エレオナが予想した通り、勇者の広場で決起した反乱分子がまず目指したのは大神殿である。王城に近い一方で神殿という建物の性質上、塔も櫓も設けるわけにいかず守ることは難しい。騎士団長ヒュンケルトに続いて最高司祭長マールを討ち取ることができればハイランドを支える柱の二本目を倒すことが叶うが、問題はその最高司祭長マールを人間に討ち取ることができるのかということである。騒乱に煽られた人々の幾人かがこん棒を振り上げて大神殿の正門をくぐる、次の瞬間に悲鳴も絶叫もなく固いものとやわらかいものが飛び散る音が人々の耳を打った。
「BAGーBAGーBAGーBAGIMA!」
司祭が魔法と同様に用いる奇跡の中で、風の刃を生み出す術はバギと呼ばれていて短い音節と同時に斧か鉈のような重い一撃を打ち出すことができる。そして司祭であると同時に戦士でもあるマールの術はそれだけにとどまらず、鍛え上げた拳と術を重ねて用いることができた。しなやかな獣のように飛び、伸ばした腕が人間ののど首を掴まえるとあらかじめ唱えていた祈りに続けた最後の音節が首から上を吹き飛ばすのだ。
マールが触れただけで人間の肉体が粉みじんになり、恐れをなした暴徒が集団で飛びかかればより強力な術が複数の人間を一斉に弾き飛ばす。最初の祈りはすべて共通で、不完全な短い祈りを繰り返しながら最後の音節だけで術を完成させてしまうから隙らしい隙も存在しない。目の前で人間がこなごなにされていきながら、機械的に繰り返される祈りが耳に流れ込んでくる様は恐怖以外のなにものでもなく暴徒たちの侵入が止まる。これが聖なる裁きの使者マールである。
王都に敷き詰められた白い大理石を赤黒い血が彩る、その最初の大きな流れが大神殿の床に奇怪で鮮やかな前衛模様を描き出す。吹き飛ばされた手や足が聖像や列柱の飾りに叩きつけられ、数瞬前まで人間であったそれは散らばった肉片と血だまりに姿を変えて原型をとどめていない。ステンドグラスから漏れる光に彩られた神殿の大広間という、荘厳すぎる舞台の中央に立つ最高司祭長マールは全身に返り血を浴びながら美しいほどに嗜虐的な笑みを浮かべ、暴徒たちの足がとどまれば次の瞬間には一足飛びに間合いを詰めた拳から放たれる一撃が鎖骨を砕いて肺と心臓をたたきつぶした。
永遠に呼吸を止められた者は血とよだれとうめき声を垂れ流しながら崩れ落ち、慈悲深い鉄靴の底で後頭部を踏み砕かれると静かになり二度と動かなくなった。それまでは暴徒を恐れるように控えていた神殿の司祭や兵士たちも、常軌を逸した最高司祭長の力に威勢を取り戻すと手に手に懲罰用の棒をとって人々を殴りたおしにかかるが凛とした叫びにその足が止まる。
「人を殺す悪魔よ!勇者はここにいるぞ、神々が見下ろす場所へついてこい!」
凍てつく突風で狂熱が冷めるかと思われたとき、ダインは大広間の奥に向かい、鐘突き堂の尖塔に続いているらせん階段の入り口に現れると挑発的に叫んだ。人殺しに興奮する最高司祭長はその言葉をすぐに理解できなかったが、ダインが右手に持つ彼の短い剣と、左手に持つヒュンケルトの銀槍が視界に入ると表情が一変する。
「貴ィ様がああああああ!」
その瞬間、マールの目に映る少年は勇者ダインを名乗る叛徒どもの頭目から、銀の槍の騎士ヒュンケルトを殺した憎むべき男へと変貌した。とっさに槍をかざして目の前に飛んできた風の刃を受け止めなければ、そのときにダインの首から上は吹き飛ばされていたかもしれない。塔に続く階段に駆け込んだダインをマールは熱病に冒されたような目で追いかけると、狭苦しい階段を這うようにして上りはじめた。
まともに正面に立てばヒュンケルトのとき以上にダインに勝ち目はない。彼のもくろみは狭い階段の上で祈りも武術も充分には振るえないだろうことを計算して、その間に尖塔のてっぺんまで駆け上がることだった。錯乱したマールは自らを巻き込むことを承知の上で、狭い通路に無軌道な風の刃を起こすと双方の衣服を切り裂いて皮膚から血をにじませるが、石壁に阻まれて致命傷を負わせることまではできずにいる。
「BAGーBAGIーBAGIーBAGーBAGーBAGIMA!」
抑制の利かぬ祈りの音律とともに風の刃が飛び交い、苦痛に喘ぎながら階段を駆け上がるダインの後ろを四つん這いのマールが上ってくる。自ら受けた傷の痛みなど彼女は感じておらず、仮にそれが深くても最高司祭長の奇跡はすべてを癒すことができた。人間が魔法や奇跡を起こすエネルギーには限界があるといわれているが、伝説の戦いを生き延びた彼女のそれは無尽蔵に近く数十発の刃を振り回して尽きるそぶりもない。
立て続けに投げつけられる、風の刃がダインの足下で石段を削り幾筋もの剣となって襲いかかる。肺と心臓を激しく動かしながら尖塔の頂上にある鐘突き堂までたどり着いたころには双方が傷だらけとなっており、その様子は大神殿に面した広場から頭上はるかに窺うことができた。陽光を照らして金色に光る大鐘の傍らに、勇者と最高司祭長が対峙する姿を見つけて人々が声を上げる。ようやく追い詰めた仇を前にしてマールの双眸は明らかに心の平衡を失っていた。
「BABABAGIBAGIBAGIBABABAGIBAGI」
危険を感じると同時に、大鐘の脇に逃れたダインが一瞬前までいた場所で無数の刃が暴れまわり大鐘にけたたましい音を響かせる。その音がエレンガルドの方々に広がり、それまで尖塔の対峙を知らなかった者もダインとマールの姿を見つけることができた。遠目から両者の表情を窺うことはできなかったが、血走って焦点の合っていない目に口元には泡を浮かべた最高司祭長の姿を凝視せずに済んだ者は幸いだったかもしれない。それは人間の憎悪と復讐への悦びをすべて詰め込んだ凄惨な笑みだった。
狂乱した女の笑みが嬌声に変わる瞬間にすべては終わる、だがどれほど狂気に侵されてもマールには決して傷つけられないものがある。全身を裂く苦痛に耐えながらダインが腰に下げていた包みから取り出し、頭上に放り投げたのは死化粧をほどこしたヒュンケルトの首だった。
「BAAAAAH!」
宙を舞う首を見た瞬間、マールの動きが止まる。ダインは低くすべるように駆けよると放心した女を抱くように組みつきそのまま二人、柵を越えて鐘突き堂の屋上から飛び降りた。ただ一言の呟きとともに。
「ARSTRON・・・」
それは大魔導士ポールが残した三つ目の魔法である。わずかな間、全身が鋼鉄のように重く頑丈になると指一つ動かせないかわりにあらゆる衝撃から身を守ることができる。鋼鉄のかたまりに抱きかかえられたマールは、自分が望んだ男の胸で死ねぬことに絶望と断末魔の叫びをわめき散らしながら大地に引かれるように落下すると、衆目の見守る中で地面にたたきつけられて熟した柿のように平たくつぶれてしまう。
突然の情景に、重苦しい静寂が訪れた大神殿前の広場で勇者ダインは返り血と肉片をその身に浴びながらもゆっくりと立ち上がると、自分を囲んでいる人々からよく見えるように陽光を反射する短い剣を高く突き上げてからその切っ先を王城へと向ける。神々に祝福されているはずの最高司祭長は大神殿から突き落とされて原型もとどめておらず、三十年を経て現れた少年が傷を負いながらも力強く立ち上がったその姿に、勇者に従う人々は鼓舞されて全員が神に選ばれた戦士となった。彼らは奔騰する勢いのままに次々と、帰還せし勇者ダインが示す大理石の王城を目指す。