第一章 魔法使いの庵


 ブリタンニアの歴史を語ろう。時は紀元五世紀、海峡を越えてアングロサクソンがこの島を訪れるようになって以来、ブリトン人を率いてこれを迎え撃つとベイドンヒルに代表される十二回の戦いにすべて勝利した英雄アルトリウスの物語は今も人に語り伝えられている。
 だがブリトンがブリタンニアを取り戻すことはなく、勝利したアルトリウスも姿を消してその後の行方は知れていない。伝説によれば恥ずべき十三回目の戦いで敗れたとも、黄金の林檎が実る西の海に漕ぎ出したともいわれているが、後にクライストの伝道師がブリタンニアを訪れるまでに多くの記録や伝承が散逸してしまったから、事実も真実も知られることはなく今ではベイドンヒルがどこにあるかすら諸説定まっていないのが実情だ。

「あなたも見た?昨日の彗星、すごかったわねえ」
「神々に迎えられた皇帝の星、ですね」
「あら、今どき帝国の伝承を知っているなんて珍しいわ」

 かつて世界を東から西まで支配した帝国は、自らのでかい図体を支えることができなくなると領土を奪われたり分裂して小さくなり諸国や蛮族に蹂躙されるままになった。それは辺境のブリタンニアでも変わらず、自由を取り戻した原住民は歓喜したがすぐに大陸から野蛮なアングル人やサクソン人が海を越えてくると今度は自分たちで何とかしなければならなくなった。
 帝国がブリタンニアを捨てたとき、すべての人が従ったわけではなくわずかな人々は故郷を守るために原住民と手を結ぶ道を選んだ。憎むべき帝国は文化と繁栄をこの島にもたらしてはくれていたから、彼らはむしろ自分たちが帝国の正当な継承者であるとしてブリタンニアの民を名乗る。これがブリトン人のはじまりである。

 森の奥にある小さな庵の前に、切り株でこしらえた卓子をはさんで二人の娘が言葉を交わしている。旅姿の娘は濃い褐色に見える赤毛を長く垂らし、護身用に吊っている短い剣もあまり似合っていない。庵の主らしい娘は水鳥を思わせる不思議な色の髪にどこの部族のものともしれぬ、奇妙なつば広の帽子を乗せて浮き世ばなれした風情だった。
 彗星は不吉の兆しだとおびえる人々が多い中で、旅姿の娘が帝国の伝承を知っていることに庵の主は感心する。数百年を重ねた人の記録や営みを、人が容易に忘れることができることを彼女は知っていたが覚えている者や古い記録を掘り起こす者もたまにはいるものだ。

 街道へ抜ける道を尋ねようとしたはずが、時ならぬ茶会に誘われたユーニスはいささか当惑しながら同年代に見える娘との話を弾ませていた。ブリトンでも名のある家に生まれた彼女が感嘆するほどに、庵の娘は色々なことを知っていて会話の端々に驚くほどの知識が隠れているのが分かる。
 河原毛の馬が控えめに鼻を鳴らした音が耳に届く。庵から少し離れたところで出立を促している護衛には申し訳ないが、ささやかな誘いを断るのも礼に欠けるだろう。ユーニスの意を汲んだのか、馬はそのまま首を垂れておとなしくなる。

「頭のいい馬ねえ」
「ええ。たぶん私よりも賢い子ですよ」

 ユーニスの領地はブリトンでも国境に近い場所にあって北はアングル人が暮らすマーシアに、東はサクソン人の土地に面している。関所もあるが明確に国境が線引きされているわけではなく、いま足を休めている庵の周辺は森に覆われて道も途切れがちな人里離れた場所だった。ユーニスが庵に立ち寄ったのも道を尋ねるためで、丁寧に礼を述べる娘に庵の主は笑顔を向ける。

「ごめんなさいね。急いでいるところを引き止めちゃって」
「いえ。え?はい、いや、あの」

 唐突な言葉に思わず声が裏返りそうになる。ユーニスの背後では護衛の男があわてたような様子を見せるが娘の視線を受けると恐縮して姿勢を戻す。軽く頭を下げて、ユーニスは改まって口を開いた。

「急いでいる、というほどではありませんができれば国境まで静かな旅をしたいと思っています。街道を外れようとは考えていないのですが、よい道があるのでしょうか」

 言葉を選んでいるきらいはあるが、ごまかすでなく当惑しながらもむしろ正直に尋ねようとしている態度に庵の娘はどこか感心した顔を見せていた。

「そうね。サクソンの兵士がうろついてるから、マーシアに行くなら道なりに街道に出るよりも南に半刻戻ってから間道に入るほうがいいわよ。猟師と毛皮売りが使ってる道だから歩きやすいし、宿場まで一日の遅れにすらならないわ」

 やけに自信ありげな言葉に、自分は目的地を伝えたろうかとユーニスは更に当惑するが、改めて礼を言うと馬と護衛を従えてブリタンニアの森に消えていく。
 しばらくぶりの客人を見送ると、卓子についた肘に顎を預けた姿勢で会話の端々を思い返している娘の耳に、庵の奥からがさがさという音が聞こえて背の高い男の姿が現れる。長髪に長衣、手には長柄の棒を杖のように握っていて一見しておとぎ話の魔法使いめいて見えるが外見も声も若々しく剽悍さを思わせる。

「珍しいな。マデリンが客を気に入るのは」
「たまにはね」

 言いながら、マデリンと呼ばれた娘はどこか不満げにも何かを気にしているようにも見える。ブリトンの旧家の娘が国境を越えてマーシアに行こうとしている、隣国のサクソンも気にならないはずがないだろう。急いでいるといえずとも面倒ごとは避けたい、マデリンが伝えた道は彼女たちの要求を満たすものだったが、礼を言っていたユーニスの姿を思い出すとなぜか気になって仕方がない。

「昔から感嘆心腑に懸かると言ってね。魔法使いは自分に興味を惹かせた者を忘れることができないのよ」
「いや残念ながら聞いたこともない」

 おどけた様子で言葉を投げながら、マデリンも長髪の男も庵を発つ支度をはじめている。半刻戻った間道ではなく、道なりに宿場へ続く街道へと向かう。なぜかはわからないがマデリンの助言に彼女たちが従わないように思えてならず、男はといえばマデリンの赴くところに従うのが当然のことらしかった。

 ベイドンヒルの戦いが起こる遥か以前からブリタンニアには多くの人々が暮らしていたが、最も古い記録を辿れば皇帝がはじめて海峡を越えた帝国の時代にまでさかのぼる。以来数百年にわたって帝国とそれに抗う人々はこの島で暮らしていたが、彼らは案外うまくやってもいたからたびたび衝突を起こしながら交流も交易も途絶えることはなく、後にはブリタンニアの原住民が帝国の一員となって町を治めた例も少なくない。
 帝国が衰退した後はブリトン人がこの島を治めようとしたが、彼らはひとつにまとまることができず結局は海峡を越えた侵入者を相手にして南西部のごくせまい地域に追いやられてしまう。だが侵入者もブリタンニアを統一するにはほど遠く、アングル人はマーシアに、サクソン人も彼らの地にわかれるとそれぞれの土地に腰を落ち着けていた。

「関所ができて、それでも人の行き来が絶えてないのは幸いなのよね。大陸ではそれもできず小さな村を柵で囲っているらしいけど」

 呆れるとも嘆くともつかない調子で、旅姿のマデリンが肩をすくめてみせる。今ではブリタンニアの中央にアングル人が、南にサクソン人が暮らしていてブリトン人が追いやられた南西部は小ブリトンと呼ばれていた。侵入者が手に入れた土地であっても帝国が遺した街道や都市はあまりにもよくできていたから多くがそのまま利用されている。
 とはいえアングルやサクソンはもちろんブリトン人でさえも、帝国の遺物を使うことはできたが直すことも新しくつくることもできなかったから時を経てそれらは古びていくことになる。彼らが歩いている街道ももとは帝国が敷いたもので脇道にさえ側溝を設ける執拗さには感心するしかないが、それも今は泥で埋まり灌木が芽吹いていた。

「世の中には裁きもなければ報いもない。放置してよくなるものなんて何もないのにね」

 ブリトンは隣地にサクソンとマーシアを抱えておりそれぞれ仲がよいとはいえなかったが、関所があっても国境はあいまいで交流も交易もふつうに行われていた。たとえばブリトンから街道を歩いて国境を越えようとする、旅姿の娘がいても決してありえない存在ではない。
 ユーニスと名乗っていた娘が庵を出て、助言に従い間道に向かっていればここに彼女たちの姿はないだろう。見つからなければそれもよし、だが思い返してみれば街道を外れようとは思っていないという彼女の言葉が気にかかる。頭ひとつ高い場所から、長髪の男が視界の向こうを見やっている様子に気づく。

「なあ、マデリン」
「何よ」
「やはり魔法使いの予言は当たるものらしい」

 長柄で示された先、街道の向こうで数人が言い争っている姿が見える。起伏の多いブリタンニアでは街道でも決して見通しがよいとはいえないが、それでも数人の中に赤毛の娘がいることを見分けることはできた。
 ユーニスと護衛の男、彼らを呼び止めたサクソン人らしい二人と少し離れて立っている若い男の姿が目に入る。マデリンらが現れたことに向こうも気がついたらしく、悠々と近づいてきた闖入者にサクソン人の一人が声をかけてくる。腰には弓と剣を吊るし、皮鎧と甲に大布を被った姿は巡回する兵士のそれだった。

「旅人か。何か用でもあるのか」
「あら、サクソンの兵士が旅人を呼び止めるなんてそれこそ剣呑じゃない。何かあったのかこっちが聞きたいくらいよ」
「では何もない。先を急いで構わないぞ」

 武器を持つ人間にありがちな、他人を威圧することに慣れた口調だと評しながらマデリンは後ろに立つ長身長髪の男を顧みる。善良な旅人であれば素直に従うだろうし、多少の良識があれば従わずとも諍いは避けるだろう。問題はマデリンと男が善良でも良識家でもないことだった。

「それは残念ね。私って何もないと言われると何か起こしたくなる人なのよ」
「ああ、そういえば俺もそういう性格だったなあ」

 冗談に乗りながら長身の男が歩み出る。剣を下げた兵士を相手にして怯む色も見せず、挑発するように長柄の先を向けてみせた。

「キルバート。ブリタンニア最強の剣士の名前だ」

 そういうお前の手にあるのは剣じゃないだろう、と言うべきなのかもしれないがキルバートと名乗った男の泰然とした態度に二人の兵士も身構える。街道には人通りがないが、国境近くで兵士が騒動を起こしたとあれば具合が悪く騒ぎになるなら早々に片づけてしまうべきだろう。

「皆さん!こんなところで・・・」

 ユーニスの声に構わず、慣れた手つきで剣を抜いた兵士がキルバートに向かうと遅れてもう一人が続く。合戦でよく使われる手口であり、先の手が全力で打ちかかって防いだところをもう一人が襲う腹積りでいることはキルバートならずとも理解できた。長柄の内側に踏み込もうとする足にも迷いがなく、兵士たちが戦いに慣れていることがわかる。

「でも面白いわね、二人目は左利きなんだ」

 その言葉に後ろの兵士が一瞬止まる。マデリンの唐突な言葉が図星を指していたことは明らかだが、それでも先手の兵士は足を止めずに剣を振り上げた。
 キルバートはそれを受けるではなく長柄の間合いを活かして下がろうともせず、半身になりながら突き出した柄で相手の小手を打ち据えて剣をたたき落とし、すかさず躍り出ようとする二人目にぐるりとまわすように振り上げた長柄を八双の構えから打ち下ろした。遠間から振り下ろされる長柄が額を打ち、尻餅をつくように兵士が倒れる。剣でもなく槍でもない、サクソンでもブリトンでも見たことがない技だった。

「さてこいつが剣だったら死んでいたが」
「おやめなさい!」

 兵士たちをかばうように立ったのはユーニスである。半ば意外な、半ばそうでもない顔をしてキルバートは一歩を下がると後はマデリンに任せることにする。ユーニスの反応はマデリンも予想していたらしく、わざとらしい声をあげる。

「別に感謝なんて求めてないのよ。私たちが騒動を起こしたくて勝手にやってるんだから」
「では、私はこんな騒動そのものを望んでいません!」

 毅然としたユーニスの言葉に、立ち入ってきたのはそれまで剣撃を傍観していたサクソンの青年だった。二人の兵士たちを軽く小突くような素振りを見せると、大仰に両腕を広げてみせる。

「騒ぎを起こしたのは俺たちと旅の嬢ちゃん、それを止めたのはローザラインの娘さんってわけか。乗せられた俺たちもマヌケだが、よくもこんな筋書きを思いつくもんだ」

 国境があいまいな場所でサクソンの兵士たちが諍いを起こし、ユーニスがとりなしたならば彼らは借りをつくったことになる。マデリンの意図にユーニスも今さらのように驚いた表情を浮かべていた。青年の言葉が続く。

「だがこれで国に帰れば俺の面目が立たないだろう。どうせならそこまで考えてはくれんかね」
「あら、それはごめんなさいね」

 子飼いの兵士を連れていって、叩きのめされた挙げ句に借りをつくったとあれば青年の立場が悪くなる。そうなれば自分としては娘たちを逆恨みせざるを得ないがそれでもよろしいか。堂々と言ってのける放胆さに悪意がないのはどうやら青年の性格らしく、兵士たちが恐縮しているのも彼に迷惑をかけたことを悔やんでいるのだろう。マデリンが悪戯な笑みを浮かべた。

「それじゃあこういうのはどうかしら。あなたはユーニスを信頼できると思った、だから彼女が旅から戻ったらもう一度会うことにした。でもそれだけじゃあ納得できないから平和的な方法、たとえば賭け事で決めることにした」
「おいおい。いちおう国と国の問題だぜ、そんな説明で誰が納得するんだよ」
「あら、賭け事だから冗談で済むんじゃない」

 マデリンの提案がふざけているのは間違いないが、ことをまじめに扱えばサクソンの非を認めるしかない。実のところ事態を楽しんで傍観したふしもある青年は兵士たちに申し訳ないとも考えており、せいぜい彼の奔放が呆れられる程度で済むなら決して悪い話ではなかった。

「まあいいさ、乗ってやろう。だが賭けの方法はこちらで決めさせてもらうぜ」
「当然ね。で、どうするの?」

 青年は賭け札を取り出すではなく硬貨を投げるでもなく日の傾き具合を見ると、これから日が沈むまでに街道を何人通りがかるか当てるというのはどうだ、と提案する。どうせマデリンの言葉に乗せられるなら、賭けを口実にして会話する時間が欲しいというのが本音らしい。
 不満げなユーニスも参加しないわけにはいかず、二人だと思いますと言うと青年はそれを受けてじゃあ俺は三人にしておこうと言うがマデリンの言葉を聞いて唖然とする。

「四人と猫が一匹」
「は?」
「だから、四人と猫が一匹よ」

 森の庵でユーニスとマデリンが会ったのは日が中天に昇るよりも少し前だったが、日はすでに傾き出していて沈むまでの時はそれほど長くない。あるいは誰も訪れぬこともありうるが、宿場に続く街道だから暗くなる前に足を急がせる者がいても不思議はない。

「そういえば、お互い名乗ってすらいなかったわね」
「俺は最初に名乗ったぞ」
「あんたは黙ってなさい」

 キルバートの茶々を退けると、型通りに挨拶を交わした娘たちは青年クレオがサクソンの若頭ともいうべき立場にあることを知らされる。ユーニスはブリトンの旧家ローザライン家の一人娘であり、大げさにいえば彼らはサクソンの王子とブリトン貴族の娘というわけだ。そう考えればユーニスの生真面目さもクレオの奔放さも彼らの育ちのせいに思えてこなくもない。
 街道脇で数人が話し込んでいる姿は奇妙とまではいわないが、兵士がいては剣呑だからサクソンの二人とユーニスの護衛は遠ざけられていた。日はすぐに傾いてしまい、通りがかったのは旅人が一人だけだが日没間際になって宿場に急ぐ馬車が一台、御者を乗せて現れる。合わせて二人ならユーニスの言葉が当たっていたことになるが、馬車に誰も乗っていないなどありえないだろう。

「さて不躾だが、お客さんに挨拶をさせてもらおうか」

 クレオが馬車を呼び止めると、いぶかしむ相手に詫びてからこの先に宿があるだろうかと尋ねる。半刻ほど先にある、だから日が沈む前に着けるように急いでいるのだと言う相手にもう一度詫びるとさりげなく中を覗き込んだ。はたして馬車の中には旅商が一人と猫を抱えた子供一人の姿がある。おもしろげに手を振っている子供は見知らぬ青年が驚いた顔をしていたことには気づかず、これから彼らが向かうマーシアで行われる予定の馬上競技会に心を奪われていた。

「まいったね。すべてお見通しというわけか」

 もともと遊びの賭け事である。クレオはユーニスよりも一人だけ多い数字を挙げればマデリンが更に一人だけ多い数字を挙げると考えていた。クレオが的中しなければ娘たちの答えが近くなる道理であり、つまり彼は賭けに本気で勝つつもりがなかったのだがマデリンはそれを見越した上でわかるはずもない数を的中させてみせたのだ。
 伝説がある。ブリトンを率いてアングロサクソンを幾度も退けた無敵の英雄アルトリウスは予言の魔法使いを連れていた。アングル人やサクソン人にとって不名誉な戦いは物語として脚色されて、数年前のできごとにも関わらずどこまで事実か怪しいものだが、それでも真実の一端は含まれているのかもしれない。

「俺は魔法なんぞ信じていないが、ブリトンの古い部族に残された叡智があっても驚かないね。人の理解を超えた力は知らない者にとって魔法と変わらないらしいからな」

 ユーニスは国境を越えてマーシアを目指している。サクソンとしては放置できる話ではないが、彼女が戻るときにもう一度会う約束をしたとしてこの場を収めることはできるだろう。彼女が約束をするに値する人物かどうか、それはクレオが判断すればいいことである。
 賭けの勝者を賛嘆し、せっかくだから国境まで見送らせてもらおうと宣言したクレオが二人の兵士を帰らせた頃には日は落ちて夜の天蓋が街道を覆いはじめていた。不本意を承知で、マデリンに頭を下げたのはユーニスである。

「ありがとうございます。お助けいただいて感謝いたします」
「いいの?あなたが望む方法ではなかったでしょうに」
「でも貴女は誰も傷つけませんでした。それなら正しいのは私ではなく貴女です」

 率直な言葉にマデリンは感心する。自分の望まぬ行為を受け入れることは人が思う以上に難しい。性格でも育ちにおいても、ユーニスが結果よりも正しい行動を尊んでいることは疑いない。にもかかわらず、彼女はマデリンの行動に感謝して頭を下げているのである。

「二つほど聞いていいかしら。間道に行ったほうがいいというあたしの言葉、どうして聞かなかったのよ」
「すみません。サクソンの方がいらっしゃるなら、避けるのも礼を失するかと思いました」

 こちらはおよそ予想できた返事であり、いかにも育ちのいい娘らしいとマデリンは思う。

「じゃあもう一つ。そのサクソンの王子様と話をして、もしも捕まるとかしたらどうしようと考えてたわけ?」
「え?心からお話すればわかってくださいますよね」

 その返答に一瞬以上反応することができず、ようやく意味を理解したマデリンは派手に笑い出す。いかにも育ちのいいお嬢様なんてものじゃない。彼女はマデリンの言葉も信じていたし青年クレオが紳士的にふるまうことも信じていた、ただそれだけなのだ。甘いというならいっそこれだけ甘ければ立派というしかない。
 ひとしきり笑った後で、非礼を詫びたマデリンは心から頭を下げる。森の庵に潜んでいた魔法使いは幾度も自分を感心させてやまない娘に興味がわいて仕方がなかった。

「ごめんなさいね。でもあんたって面白い子だわ」

 日はすでに暮れている。ここから宿場まで半刻ほど、よろしければご一緒させて頂けないかしらと、わざとらしく帽子を脱ぐと頭を下げてみせる。大仰な振る舞いは半分が冗談だがもう半分はそうではない。はじまりの魔法使いマデリンの目に止まった娘は恐縮しながらも丁寧に礼を返していた。まったくどこまでも育ちがよい娘である。

「じゃあ、私も堅苦しく呼ぶのは止めますね。それでいいかしら、マデリン?」
「あら。私は最初からそうだったわよ、ユーニス」

 それが彼女たちの交わした契約の言葉である。曇りがちなブリタンニアの空が、その日の夜はめずらしく澄んでいて極点の小さな星までも見上げることができた。


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