馬上競技会を終えたユーニスがマーシアの領主エオメルに面会したのは日も暮れた祭りの夜だった。屋敷は帝国ふうの石造りの邸宅ではなくアングル人の部族に伝わる伝統的な天幕で、町から離れた場所に構えられていたから、にぎやかな祭りの喧騒もここまで届くころには大分ましになっている。
天幕の左右には篝火が焚かれていて、脇にある厩には客人のそれを含む馬と馬車が繋がれていてマーシアが馬を尊重する人々であることを改めて知らされる。ユーニスたちの馬もむろんそこに繋がれていた。
「火を掲げろ、馬に乗れ、骨を打て、そして酒を飲め。
槍を投げろ、馬で走れ、毛皮をまとえ、そして酒を飲め。
なんと素朴で直截的、そしてなんと力強く勇敢な詩であろうか。すぐれた詩は国を越えて人の心を動かすものだ」
異国の王に謁見する機会を得て興奮を隠せずにいるフランシス・バーンはユーニスの同行者の中でも明らかに軽んじられていた。馬上競技会でもいいところがなく、大仰な言動も人を苦笑させるが、アングル人の古詩を諳んじることができるブリトン人は彼くらいのものだった。
篝火に背を照らされながら、帳をくぐると今度は天幕の内で焚かれている火に迎えられる。円形に梁が組まれている天幕の、土がむき出しになった中央に火が焚かれていて天井は煙を逃がすために丸く開けられている。毛で織られた大布は継ぎだらけだが、鮮やかな模様に染められていて不思議な調和を感じさせた。
天幕の中はおどろくほど広く、火を囲うように御座が敷かれていて部族の長や有力者たちが車座に座っている。正面の一番奥には一段高くなった床几があってマーシアの若い頭首エオメルが座していた。羽根飾りや毛皮を用いた衣装に骨や角を彫った装身具をがらがらと下げているのは祭りのための恰好で、背後には狩りの獲物らしい巨大な牡鹿の頭骨がかけられていた。
隣国からの客人を迎えたエオメルは部族の礼儀に則り立ち上がって礼をすると、一転して和やかな笑みを浮かべて両手を広げてみせた。どうやらこの穏やかさが彼の本来の姿らしく、年齢ではユーニスとそれほど変わらないが地位にふさわしい落ち着いた威厳はフランシスよりもよほど豪毅に見えて、柔らかな物腰はサクソンの若頭クレオよりもはるかに鷹揚に見える。
「ようこそお越し頂きました。競技会で拝見した貴女の勇気と大胆さにマーシアの民は敬意を払うでしょう」
「光栄です。此度の寛大な振る舞いに我が友人たちと等しく感謝致しておりますわ」
ユーニスが丁寧に頭を下げると彼女の同行者たちもそれに倣う。その傍らで、つば広の帽子を脱いで水鳥の頭を垂れているマデリンは先ほどまで堅苦しい謁見よりも祭りを見に行きたいのにと嘆いていたがそれが本心だと思う者は誰もいなかった。
ユーニスに同行していたのはブリトンの若い貴族であるフランシスにサクソンの若頭クレオ、それにマデリンやキルバートの姿があるが、国を問わず全員が謁見を許されたのは招待主の寛大さだったろう。冗談めかしてクレオが囁いてみせる。
「俺も堅苦しい謁見より夜の祭りを堪能したかったがなあ」
「また往来で喧嘩でも始められたら叶わないものね。あんたみたいな男は目が届くところにいてもらわないと安心できないということよ」
クレオの冗談にマデリンが冗談を返していたが、実のところブリトンの貴族とマーシアの領主が面会するのにサクソンの若頭が座を外せるわけがない。他人にどう思われているかはともかく、クレオ自身はサクソンの代表としてこの場にいるつもりでいた。
衰退したブリトンに替わって国を築いたアングル人とサクソン人は互いに協力できなかったどころかそれぞれが小さな部族に分かれる有り様だったが、そうした中でもマーシアとサクソンはそれなりに広い領地と影響力を持っている。
かつて海の狼と呼ばれた彼らはこれまで大陸伝来の野蛮な風習に従って生きていたが、マーシアとサクソンは帝国の古い伝統にも敬意を払ったから残された都市を利用することに抵抗を覚えなかった。石造りの町は彼らの好みに合わないことも多かったが、街道を活かして人が集まれば他の部族や国を差し置いて栄えることができた。
客人を歓迎して杯が掲げられる。頭首のエオメルは諸々の事情にも通じていて、ブリトンを出立したユーニスが貴族の反感を買ったことも承知しているようだった。
クレオがそうであったように、エオメルの立場であればブリトンとアングルとサクソンが分かれている中で隣り合った三国が手を結べば他に大きな影響力を振るうことができると考えている。手を握ることに異論はないが例えばそれはブリトンが主導してマーシアが風下に立つものであってはならない。ブリトンの貴族の娘が謁見を申し入れてきたことに、エオメルは心中では相手の真意を測りかねている。わざわざ馬上競技会に出てマーシアの大衆を納得させる大胆さも認めざるを得なかった。
「おそらく貴女は私に用向きがあってこの国を訪れたのでしょう。そして競技会で貴女が得た栄誉は私に堂々と要求をするに値する。遠慮なく仰るがよいでしょう」
「宜しいのですか?寛大なお言葉を有難うございます」
国の主として懐の広い態度を見せながら恩を売る立場をとる。エオメルの親切めいた言葉が計算されたものであることにブリトンの娘は気がついていないらしい。素直に喜んでいるユーニスが何を言い出すかは予想もできないが、競技会の栄誉はマーシアの英雄ゲイルが手に入れて人々は満足していたから、多少の寛大さを見せたところでエオメルが非難されることもないだろう。だがユーニスが遠慮がちに申し出た言葉を聞いて、エオメルは思わず問い返してしまう。
「ローザラインの別邸ですか?私は知りませんが、帝国時代の建物はほとんどがそのまま残されています。その建物を、お見せするだけでよいと」
「はい。もしも当時の記録があれば、写しをとる許可を頂ければなおありがたいのですが」
ローザラインはかつて帝国が最後の戦いに敗れた後、生き延びた人々を主導して都から逃げ延びさせたという女性の名前である。彼らは結局その後蛮族に降伏しているが、それで帝国と蛮族は和解すると彼らはブリトン人となって今に至っている。
彼女の生家は小ブリトンにあるが戦乱の中で焼失し、その後一時期を暮らした別邸がマーシアに残されていた。ユーニスの家がローザラインの直系であることをエオメルは知っていた。
「その後、ローザラインの当主は幾つかの手記を残しています。その多くは我が家にありますが、私はその手記の中で彼女がマーシアの別邸で暮らしていた時期があることを知ったのです。それで、何か当時の手がかりが残されているのではないかと思いまして」
「成る程。ですが古い話ですし、本当にそのようなものが存在したとしても都合よく残されてはいないかもしれません。私たちは帝国の遺産を尊重しているつもりですが、それはすべてではない」
「ええ。それは仕方のないことです」
帝国最後の戦いと呼ばれている悲劇的な戦闘は蛮族の決定的な勝利に終わったが、軍団兵が戦場に赴いている間に彼女は人々を連れて都を捨てるとブリタンニアの南西、現在の小ブリトンまで逃げ延びさせたと言われている。エオメルは首肯すると口を開く。
「マーシアは帝国の遺産に敬意を持っている。貴女に手をお貸しすることに異はありませんが、国境を越えてまでお越しになるからには、貴女にはその内容の心当たりもおありなのでしょう。興味はありますね」
内容は隠さずに公開せよ、そう釘を刺したつもりだったがユーニスの返答は今度こそエオメルの理解を越えていた。
「あの、恋文ではないかと思います」
「は?」
それまでの威厳ある頭首の態度からは想像もできぬ頓狂な声が上がると、慌てたような咳払いの音が続く。最後の戦いで帝国が滅びた後、人々を導いたローザラインの女当主は蛮族との和解を決めた後に数年をマーシアの別邸で暮らしていた。彼女には想い人がいて、その人も無論最後の戦いで帰らぬ人となっていたが軍団を率いて蛮族を多く殺した彼の喪に服すことはできなかった。彼女はその後ブリトンを指導する人物の一人となるが、この別邸で過ごした時期の記録はユーニスの家にも残されていなかった。
「私は知りたいのです。彼女がその屋敷で何を思っていたのか、たいせつなものを失っても人々を守ることを決意するとはどういうことなのだろうかと」
ユーニスの言葉にエオメルはしばし唖然とする。彼女の主張は真摯だがあまりにも国や統治からかけ離れている。つまり彼女は夢見る少女の思いで売国奴の汚名を着せられることすら承知で旅に出たとでもいうのか。エオメルの表情に気づいたらしくユーニスが慌てて弁明した。
「いえ、彼女が守ろうとしたブリトンを何とかしたいからなんですよ?」
マーシアの領主がとうとう堪えきれずに吹き出すと、ユーニスの性格を心得ているマデリンや他の同行者たちも笑い出してしまう。彼女はこの小さな島で人々が掲げている大義名分からもっとも遠いところにいる。それは子供の主張でしかないが、そんなものすら掲げられない大人がどれほどいるのだろうかと思えば難しい理屈など忘れて彼女を助けてみるのも悪い気はしない。不満げなユーニスをなだめているマデリンは伝説の魔法使いなどではなくただの友人として彼女に従っている、おそらくはそれこそが正しいのだ。
「大丈夫よ。ここにいる暇人たちは夢見る女の子の保護者を引き受けることを誰もが承知しているんだから」
「それはありがとう。保護者のマデリンさん」
ローザラインの別邸は古い石造りの建物だが想像していたほど立派でも豪勢でもなく、かといって貧相でもない伝統的な帝国の様式で建てられていた。帝国の建築物は分厚い外壁と部屋で囲われている内庭に水や陽光を取り込んで、外界とは隔てられた空間を作るのが常だったが曇りがちなブリタンニアでは内庭も暗くなりがちだからあちこちに燭台が置かれたり、植栽のかわりに蔦や葉の柄を彫り込んで丁寧に彩色されていたりする。
帝国の人々がそうであったように、このような家は公邸として人々を迎えるのに向いていたが狩猟民のアングル人には使いづらいことも多く、商家でなければ役人の邸宅に供されるのがせいぜいだった。
「ローザラインの別邸は公邸に使うにも小さく、近年ではアングル人の老医師が一度診療所を開いただけで彼が亡くなるとその後は空き家になっておりました。特別に運び出された物もなく、診療所で使っていた家具はもちろん、それ以前のものもそのまま残っているようですな。我々が入植する以前となればそれは知るすべもありませんが」
ブリタンニアには珍しく雲が晴れた翌朝、一行を案内したのはエオメルの伯父でもある老騎士エオムンドである。邸の門前に彫られている紋章は確かにローザラインのもので、ユーニスにはそれが自分の家紋と同じものであることもすぐに分かった。
建物は入口が店子づくりになっているが、老医師が患者を待たせるのに使っていたらしく簡易な長椅子が時にさらされて埃をかぶっている。意外だったのは内庭に入った途端に快いほどの風が吹き抜けたことで、ローザラインの女当主はそれが理由でこの建物を選んだように思えるほどだった。
「いい風ね。建物の中でこれだけ風が抜けるなんて」
「季節がめぐれば温かい風と乾いた風が交互に抜ける。この邸の持ち主はよほどブリタンニアの風を好んでいたに違いないわ」
感心するユーニスにマデリンが説明する。狭い内庭は前と奥に分かれていて、邸内には彫像の類は置かれていないが内壁には凝った装飾が凝らされていてもともと調度類はあまり置かれていなかったように見える。
ユーニスとマデリンは屋敷を隅々まで歩きながらかつての女主人の生活を思い返していたが、他の面々は一名の例外を除けば女性の恋文を探すなどと言われても熱心に参加するつもりにはなれないでいただろう。一名の例外をからかうようにクレオが声をかける。
「おや、珍しくはりきっておいでじゃないか」
「それはもう。帝国最後の戦いといえばブリトンでも多くの詩吟に語られているが、その実態といえば驚くほど知られてはいないのだよ。戦いを終えて、帝国の戦士は死に絶えていたし蛮族の勇者はあまりにも多くの犠牲を不名誉と考えた。彼らが和解した後に好き好んで傷口をえぐろうとしなかったとしても誰も責められない。だがそれで戦場に血を流した者の姿が語られぬのであれば、帰らぬ人を待っていた者の悲哀は如何ほどであったのだろうか、ああ僕には想像することさえできない!」
フランシスの言葉が大袈裟さで芝居がかっているのはいつものことだったが、このときは彼の主張にも奇妙に説得力があるように聞こえてクレオは感心する。勇敢に戦って死んだ家族のことを、語ることさえ許されないというのは彼らが思う以上に残酷な境遇なのではないか。戦士の国に生まれたクレオは若い娘の恋文などというものからは遠すぎる世界に生きていたが、サクソンにも死んだ勇者を語る口伝はいくつも残っている。
はローザラインの女当主は生涯独身のままで、後に養子を迎えると彼が家を継いでいるが、これは実際には嫡出子が母方の家を継いだとされている。多くの蛮族を殺した人物の家が続くことは好ましくなく、彼女の夫の記録は徹底的に削られたがローザラインの家は残されることを許されていた。
「そういえば、嬢ちゃんたちはどこにいるんだ?」
「入り口近くを見ていますよ。マデリンさんが一緒にいるはずです」
帝国の建物では前後に分かれている内庭はたいてい手前が客人を迎えるために、奥は住人が暮らすために使われていたが、診療所に使われていた時期はともかく、女主人が暮らしていたころは手前の内庭に面した部屋が彼女の私室になっていたらしい。邸の模様替えすら行われていないのであれば、古い時代の家具が置かれたままになっていた。
「マデリンはローザラインの手記を読んだことがあるの?」
「まさか。いくら魔法使いでも他人の日記は読まないわよ」
冗談めいた口調で言われて、ユーニスは少しだけ唇を尖らせる。ユーニスがローザラインの手記を何度も読み返した理由は興味本位でしかなかったろうが、書き残されていた思いは彼女の胸に鮮烈な印象を与えたらしい。都の人々を逃がしてまで、後には蛮族に降伏してまで彼女が守ろうとしたものが何かをユーニスは知りたいと思う。マデリンなら時を超えて人の思いすら読み取れるのかもしれないが、彼女が友人に聞きたいのはそんなことではない。
「決して忘れることができない思いは置いてきた、私はローザラインの務めを果たそう。子供のころに彼女の手記を読んだときはどうしてそんなことをしなければいけないのって反発する気持が強かったわ。だけど最近はこう思うの。どうしてそこまでしなければいけないの、どうしてそこまでして貴女は人々を守ろうとしたのって」
彼女がこの別邸に暮らしていた当時はまだマーシアが築かれてもおらず、帝国と蛮族が手を結んだブリトンの民が治める町として数世代の時を経ることになる。あえて誰も語ろうとはしなかったが、おそらくローザラインが喪に服した数年は彼女が出産か子育てのどちらかに費やした時期で、それは帝国最後の戦いに赴いた男性の息子だったのだろう。彼は父の家を継ぐことは許されないがローザラインの家を継ぐことは認められてそれがユーニスの先祖になる。
とはいえ数世代を経た邸に当時の品々が残されているとは思えず、数本見つかった巻き紙も古い医学書や皇帝の戦記、弁論集といったもので、これはこれで貴重な収穫ではあるが女性の手記が残されている様子はない。数人が入れ替わりながらあちこちの部屋を調べていたが、フランシスを連れたクレオが現れると駄目だったとばかり頭を振る。
「どの部屋もまわってはみたが、手記とやらが見つかりそうな様子はない。幾つかの美術品が見つかってエオムンドの爺さんが欲しがっていたくらいだな」
クレオの言葉にマデリンとユーニスが顔を見合わせると奇妙な表情になる。質実そうなマーシアの老騎士が美術品に興味があるというのは興味深い発見だが、どうやらこの件で男どもは彼女たちの役に立てそうにはないらしかった。
「どうしたんだ?」
「いえね。領主の邸でも言おうとしたんだけど、ローザラインの手記はユーニスの家に残されてるのよ?女性が自分の日記をわざわざこんな場所に残していくはずがないでしょ」
マデリンの言葉をユーニスは理解しているようだがクレオには彼女たちが何を言いたいのか想像もつかない。では彼女たちは何を探しているのか。重要な記録がどこかに隠されているということか、あるいは手記ではなく美術品とか彫刻とか別の方法で残しているということか。説明を始めたのはユーニスでもマデリンでもなくフランシスだった。
「ブリトンの古い恋詩では、置いてきた思いとは恋人と語らった忘れられない思い出を指しているのだよ。おそらく彼女にとってここはかつての恋人の記憶を思わせる場所だった。だからこそローザラインはここで一時を過ごしたのではないだろうか」
「そういえばここにも救いようのないロマンチストがいたわね。詩人さん、あなたなら彼女とどこで甘い言葉を語ると思う?ユーニスと話してたんだけど、この邸はあまりにも生活的で情緒に欠けるのよ」
ローザラインが使っていたであろう私室は中庭に面して部屋には寝台が据えられていて、簡素だが過ごしやすい場所になっていた。古い壁には引っ掻いた傷や落書きの跡があって、一面には競技場や競技者の姿を描いたモザイクが貼られているが特に独創的なものでもない。このような場所で甘い語らいができるものであろうか、フランシスは女性の意見に意外そうな顔をしてみせる。
「そのように解釈されたのか?僕などにはこの邸は昔ながらの家を思わせて、これはこれで子供のころの懐かしい記憶を思い出させてくれたのだがね」
そう言われてユーニスはもう一度邸内に目を向ける。彼女にとって、忘れられない思い出が恋人同士の会話だなだとどうして決めつけることができるのか。例えばローザラインの恋人が幼いころからの友人であれば、子供のころの懐かしい記憶こそ忘れられない思い出ではないか。
壁に刻まれていた落書きのいくつかはまだ読むことができて他愛無い言葉が書かれている。振り向いて、内庭に面した柱に刻まれている何本かの線が目にとまった。子供が背を比べたらしい跡が落書きとともに残されていて、その近くに短く刻まれた言葉はかすれていたがなんとか読むことができる。
「出征した君へ。いつか君に追いつくまで」
ローザラインは幼い一時期をこの邸で過ごしていた。それは彼女の背が刻まれた柱の線に等しかったころ、彼女には親しい少年がいて彼は後に帝国最後の戦いに出征すると二度と帰ってはこなかった。人々を守ろうとした彼にいつか追いつくことがローザラインの望みになった。彼が守ろうとした者を守る、身命を捨てても人々を守ろうとした友人のために彼女もまた人々を守ろうと考えた。それは理屈でもなんでもなく、単なる感情でしかなく、ただ帰らなかった友人への強い思いだけで支えられている。そしてローザラインは彼を決して裏切らなかった。
「そう。恋人との語らいではなく、幼いころの記憶がローザラインの思いだったのね。それなら私はこんなに真摯な少女の思いを叶えてあげたいわ。幼い少女の思いが、時を経ても絶えることなく受け継がれるなんてとても素敵なことですもの」
夢見る少女の思いで、ローザラインが守ろうとしたブリテンを守る、結局はそれでよいのだとユーニスは考えることにした。高尚な思いで我が身を捨てたのではなく自らの思いに忠実に振る舞う。ローザラインが偉大な人ではない、ふつうの女性だったならユーニスにも同じことができるだろう。
もう少しだけ、彼女の記憶が残されていないだろうかと邸のあちこちを歩いてまわる。子供のころの落書きであれば邸内だけではなく通りや店子に面した側にもあるのではないでか、そう言われて何とはなしに建物の外へ足を向けた。
「ユーニス、ユーニス!」
彼女の友人たちが彼女を独りにしないよう見張っていたことにユーニスは気づかない。人気がない物陰に、ふと誰かの気配を感じたユーニスが振り返ろうとした背に短い剣が突き立てられる。驚きが先に襲ってきて、それからゆっくりと痛みが広がると耐え切れずに気を失った身体が石畳に倒れてごとりという音がした。