アヴァロンで決起した叛乱軍は、会心の勝利にも沸き立つどころか全身を疲労に支配されて甲板に身を投げ出しています。彼らは戦場で戦ったわけではなくただ必死に逃げただけで、守る者もいない空っぽの宿営地に襲いかかると追撃に怯えながら船に乗り込み、島を捨てて海原に出たところでようやく安堵して倒れ込むことができました。豊かな赤毛を汗で濡らしていたカロリンは、聖剣を杖がわりにしてようやく立ち上がると切っ先を水平線にかざします。
「船を、東へ。カストラートの諸島に向かいます」
それは叛乱軍にとってささやかな成功でしかありませんが、討伐の兵を挙げたゼノビア王国と雷光軍団には敗北以外のなにものでもなく遠征の失敗は誰の目にも明らかでした。潟に足を取られて、あるいは船に乗り遅れて取り残された数人を捕らえたものの叛徒のほとんどには逃げられてしまい、船は奪われるか港ごと火をかけられて今も黒煙を上げています。
雷光軍団を率いるアッシュは熟練の指揮官として、火と煙を消しながら混乱する味方を鎮めようと努めますが身を休めるための宿営地も出立するための船も失われ、無人の孤島に大軍だけが残された状態で何ができるはずもありません。叛乱軍が置いていった物資で数日は食いつなげるとしても、敵に数倍する兵士を抱えていた雷光軍団の腹を満たすにはとても足りないでしょう。
「槍や剣よりも、今の我らには銛や鎌がよほど必要だろう」
逃げた先で宿営地や港に襲いかかった叛乱軍は、あちこちに火を放つと係留されていた船団に這い上がる虫のように押し寄せました。軍団に追われている焦慮から必死になっていた彼らは間に合わせの武器を振り回して、わずかな護衛の兵士を甲板から海に叩き落とすと火と煙に包まれた港から無理矢理漕ぎ出します。慣れない船は右に左によろけながら進みましたが、港を離れることができればそれで充分でした。
軍団や糧食や資材を積むために十隻ほど繋がれていた船団を占拠した叛乱軍は、自分たちを乗せるに足るだけの船を五隻だけ選ぶとあとの船は手早く帆綱を切っておいて火と油をかけてしまいます。自分たちを追いかける船を直せないほどに焼いたところで、彼らは全力で漕ぎ出すと海上へと姿を消してしまいました。アヴァロンの島が小さくなったところで、カロリンやアイーシャたちはようやく全員が甲板に倒れることができました。
燃え盛る船と陣営地を眼前にしたアッシュは、部下たちが火と煙の中に飛び込んでいくと怒りと嘆きの中である者は呆然としてある者は焼け出されていく様を眺めることしかできません。火勢は消すどころか場所によっては燃える物も尽きて煤と煙だけになっていましたが、憎むべき敵の姿はとうに小さくなって海原の向こうにある影だけが見えています。雷光軍団の指揮官は口髭の下で唇を血が出るほど強く噛みしめながらその様を見ているしかありません。破壊された建物と荒れ果てた農地しかないアヴァロンには船を直すための資材も食いつなぐための食料も足りず、王都に助けを乞うための船を出すだけでもどれだけの時日が必要か知れたものではないでしょう。
彼の豪邸でアヴァロンの勝報を伝え聞いたサラディン老人は日差しを遮る厚い石壁に囲われた部屋で、側仕えの部下が携えてきたいくつもの巻紙に目を通していました。その多くは彼の商売の記録と世の中の動向で、オリーブの収穫時期が近くなれば町に運ぶための油壺を揃えたり、王都で小麦の買い付けが足りなければ安価で用意できる地域を調べさせるといった煩雑な指示を考えなければなりません。そうした山と積まれている巻紙の中でも、アヴァロンの伝聞は豪放な老人を楽しませています。
「それにしても、まさか赤毛の娘が勝つとは思わなんだ。戦わずに逃げた、どちらも損害などないが王国にとっては失った船や資材の量は莫迦にならないし島に取り残された軍団をどうするかも決めねばならん。なによりゼノビアと戦って勝つ者がいた、これは大きい」
貪欲な商人としてのサラディンは、対立する両者の間を立ち回ってより大きな儲けを得ることを期待しているのは無論です。アヴァロンの勝報を聞いた人々は公然と非公然に叛乱軍の所在を辿り、中には取引を持ちかける者も現れることでしょう。それは迫害された神殿に同情する者かもしれず、王国に辟易して対抗したいだけの者かもしれませんが、カロリンに紹介した若いルッケンバインであれば口先八丁で彼らを巻き込んだあげくより以上の博打を打ってみせるに違いありません。
ささやかでも大義名分と資金を得て、叛乱軍はゼノビアに対抗する蟷螂の斧を振り上げます。国を相手にして戦争を始めようとしている、首謀者はそれまで戦場に立ったことなどある筈もないカロリンという娘でした。
「誰に教わったこともあるまい。あの娘がただ我が身の不幸を嘆くだけであったとしても、誰も責める者はいなかったろうにな」
アヴァロンの討伐に向かった雷光軍団が敗退したことを知れば、ゼノビア王トリスタンは決して叛乱軍を見逃しはしないでしょう。王というものは名誉とか威信というものをひどく気にする存在であり、カロリンにはもはや引き返す道は残されていません。雷光軍団から船を奪い、今は海賊気取りで意気上がっているかもしれませんが、漕ぎ手も資材も足りている筈はなくすぐに来るだろう王国の軍勢に対抗する算段を立てる必要がありました。サラディンは追われていた彼女たちが最初に逃げるのを助けると、その後は若いルッケンバインを紹介しただけですがそれで充分だろうとも思っています。
ルッケンバイン二世は商人よりも冒険家らしい性格の若者で、借金も財産だと公言してはばからない人物ですがそれだけに気前のよさでも並ぶ者がなく「儲けとスリル」を求める人は彼の口車に乗せられることを好みました。浅黒い肌をした若いルッケンバインは多くの人を振り回しましたが、多くの人がこの青年に振り回されることを楽しんでもいました。
「俺たちにはサラディンの爺さんとその財布どもがついている。そして俺たちが勝てば財布たちは金を落としていく、それは俺たちもの、つまりお前たちのものだ」
アヴァロンから逃亡した叛乱軍の船団は、途中でいくつかの港に立ち寄ってルッケンバインが言う「商談」を繰り返しながら今はカストラート海を根城にして船員や物資を集めています。カストラート海は王都ゼノビアからそう離れてはいない海域ですが、岩礁や小島が多く漁民が小舟で漁を行う以外には船を寄せるには向いていません。甲板で風と波を身に受けているルッケンバインは交易商人として船団を扱った経験があり、海の上で采配を振るうことを許されていました。
新しく船員を雇い、彼が言う財布たちから資金を調達したルッケンバインが最初に行ったことは叛乱軍の兵士たちに報奨を与えることです。投機的な商人から無理矢理巻き上げた金で足りない分は叛乱軍の旧貴族や少しでも裕福な者からも借りまくると、それを惜しげもなく兵士たちにすべて分配します。カストラートは優れた景勝地であり観光地でもある、というのが彼の理由でした。
決して潤沢とはいえない叛乱軍の資金はこの青年の手にすべて握られていましたが、カロリンがそれに頭を痛めなかったという記録は存在していません。若いルッケンバインは莫大な借金で船乗りや兵士や資材をかき集めて、そして彼に金を貸した人々はそれが無駄にならないように叛乱軍に協力せざるを得ませんでした。船団はカストラート海の東にある群島に逃げ込んでいましたが、大きな港もない漁村の島々にはこの時期多くの商船が行き来して住民は時ならぬ好景気に潤ったと言われています。
「まあこの辺は俺の仕事です。で、司令官殿はどうなさるおつもりですか」
「いずれゼノビアの船団が来ると思いますが、何とかするには優秀で勇敢な船乗りが必要です。集められますか?」
カロリンの言葉に、青年が力強く請け合うと周囲から力強い声が上がります。
「さすがに暁の巫女さんでも知らないようですな。カストラートの船乗りは誰もが優秀で勇敢なんですよ」
若いルッケンバインは船団を率いることはできましたが、戦いは専門外で別の指揮官が必要でした。「蛮人」ウーサーは陸戦では熟達した武人でしたが船の経験は欠けていたので、指導力に優れる「落ちた男爵」アプローズがルッケンバインと組んで兵士を動かすことが決まります。その彼らに指示をするのはカロリンの役目でした。
アヴァロンでの成功を経てカロリンを見る周囲の目は変わっていましたが、それは雷光軍団を出し抜いた彼女の知恵に対してよりも馬上にしがみつきながらも倒れるまで走った彼女の真摯さに対するものでした。ルッケンバインに船団を任せても彼女は当然のように甲板で潮風に晒されながら、祭衣姿で腰に剣を下げて手には聖杯を持ち、カロリンの憧れでもある英雄のように赤毛をなびかせています。
彼らが逃げ込んだカストラート海は王都からさほど遠くない穏やかな海域ですが、特に東部には岩礁が多くいくつもの諸島が集まっています。彼らがここにいる限り王都に向かう航路は叛乱軍の脅威に晒される危険があり、ゼノビアとしてはいつ蠢動されるかもしれず放置はできません。
充分に英気を養う数日を過ごした後で、挑発気味に航路近くの海域を周遊してまわったアヴァロンの船団は王都から船団が出たことを確認すると、改めてカストラート東の群島に左右を挟まれている海峡へと逃げ込みます。船団が彼らを討伐する軍船団であること、それが彼らに勝る規模であろうことは確認するまでもありません。
「男爵殿はご存じですか?ゼノビア海軍の旗艦は砦よりもでかいそうですよ」
「何でも大きければいいというものではない、王国らしい下品な発想だ」
叛乱軍が雷光軍団から奪った船は中型とはいえ軍船にも使える代物で、中央に一本立っている帆で風を受けることもできましたがふつうは三段の櫂を漕ぐことによって風のないときや沿岸でも自由に動くことができました。一方でゼノビアが派遣した船団は大型の五段層櫂船で構成されており、中でも旗艦であるひときわ大きな八段層櫂船は伝説の海獣「カリュブデス」の名で称されて一隻で一軍団を乗せる海上の砦そのものでした。甲板では神聖騎士団長ランスロットと疾風軍団のカノープスが言葉を交わしながら、群島に身を隠している叛乱軍の所在を追っています。
「カストラートまではどの程度かかる」
「明日には海域に入るとのことです。今のところ潮や風が変わる様子はないとのこと」
ゼノビアはすでに無敵軍団とライアンを処断し、雷光軍団とアッシュは今もアヴァロン島に釘付けになっていてすぐに使える軍団といえばカノープスの疾風軍団ともとは親衛隊であった神聖騎士団が残っているだけです。無論、彼ら以外にも指揮官や兵士はいますが伝説の戦いも北方戦役も知らない二流以下の者ばかりでした。船団には疾風軍団のほぼ全員が乗り組んでいて、神聖騎士団は王都の守りに残されておりランスロットは督戦のために海上に身を置いています。
「我々は海戦に慣れているとはいえないがそれは相手も同様だし、接舷して白兵戦になればゼノビアの優位は変わらない。叛乱軍の船は小さく兵も少ないが、それ故に奴らは軽快な動きで我々を翻弄しようとするだろう。狭隘で岩礁の多いカストラートで我々の船は動きを制限されざるを得ない、こちらが一隻しか通れぬ隙間に敵は数隻を並べることができるのだからな」
ランスロットはそう言いながら、各船に積み込んでいる多量の杭を指し示しました。それは一方を尖らせた後に焼いて固くしており、一方には穴を空けてから縄を通して他の何本もの杭と繋げています。相手が狭い海域に潜むつもりであれば彼らはそれを利用して、繋がれた杭を次々と海に流すことで船の航行を阻むつもりでした。
双方の船が動けなくなれば無様な混戦になり、双方に犠牲と損害が出ることは避けられません。ですが疾風軍団は叛乱軍よりも数が多く、極端なことをいえば彼らが全滅してもアヴァロンにいる雷光軍団が残されています。船も兵士も無限に沸いてはこないのだから一人が一人を相打ちにすればゼノビアは勝利する筈です。
「全船、これよりカストラートに入る。東に進路を取れ!」
ランスロットとカノープスの船団は旗艦カリュブデスを中央にして、合計八隻がカストラート海を東に進むと視界の前方左右に見える島々を横切って行きます。叛乱軍は五隻の三段層櫂船を奪っていましたが、ただでさえ船が小さい上に乗っている兵士や漕ぎ手の人数も足りずまともに戦えば勝敗を論じるまでもありません。
左右を高い岸壁に挟まれている海峡で、カロリンの船団は南から吹いてくる潮風に身をゆだねながら穏やかな水面に船を浮かべています。潮気を含んだ赤毛を一度、手ですいたカロリンは同乗するアプローズとルッケンバインに声をかけました。
「大型船が通ることができる航路は限られますが、この海峡は幅こそ狭いものの深さはありますから熟練した船乗りなら何とか通過できるだろうということです」
「確かにこの船でも充分怖いのに、これよりでかい船なんて考えたくもないですな」
群島には浅瀬や岩礁もあれば特に切り立った崖や深い場所もあって、小さな漁船を除けばほとんどは航路になど使えたものではありません。カロリンたちが潜んでいる海峡は左右を背の高い岸壁に挟まれていて、難所ではありますが水は深く時ならぬ嵐を避けて船を逃がすための場所として利用されたこともあるということでした。ルッケンバインが集めたカストラートの船乗りにはそうした噂や伝承を知っている者も多く、ここが彼らの庭ということは数少ない優位になるでしょうか。狭隘な場所ならば少なくとも包囲されることはなく、衝角の頑丈さや側板の厚さで比べるべくもない相手に速度で勝ることができる筈でした。
「ところで、もしもお嬢さんがゼノビアの司令官だったらどうします?」
「え?そうですね、私なら海峡の入り口に船を止めてそのまま待つと思います。やっぱり怖いですものね」
狭い海峡で入り口を塞がれたら逃げ道はなく、そのまま動かなければ叛乱軍は降伏するか玉砕しか手段はなくなります。ですが、それをしようとして雷光軍団は叛乱軍を逃がすはめになったのですから、討伐軍がそれを知っていれば待つよりも積極的に弱敵を沈めようとするかもしれません。
海峡に船団を並べていたカロリンたちの視線の先に、ゼノビアの艦隊が姿を現すと巨大な船影がゆっくりと水平線を塞ぎます。旗艦カリュブデスを中央にした海の怪物たちの頭上には、陽光と波のしぶきを弾き返す槍と盾がずらりと並んでおり壮麗この上ない姿を海上に見せていました。八隻の大型船は熟練の技量を示すかのように整然と菱形に並び、それぞれが繋げられた城砦であるかのように互いの距離を保っています。船腹に反り返っている衝角や鉤のついた梯子、甲板に積まれている杭の束が恐るべき海獣の牙を思わせました。その海獣の群れを率いる、神聖騎士団長ランスロットは傍らのカノープスを顧みます。
「船団の指揮は任せる。敵の反転と突破には注意せよ」
「はっ」
疾風軍団の兵士と水夫たちはカノープスの指揮を心得ており、慣れぬ海戦にも船列を乱す様子はありません。これあるを期して船乗りには王国の熟練の者を選び、漕ぎ手は兵士が兼ねていましたが疾風軍団の統率は徹底していました。カノープスが海峡への侵入を命じると、一隻一隻が整然と漕ぎ出して旗艦カリュブデスも続きます。ランスロットは舷側に並べられた軍装を眺めてから船団の先に視線を戻しますが、先行する船で何やら騒いでいる様子に気がつきます。
「カノープス、あれは何ごとか」
「敵の動きがおかしゅうございますな。あれは・・・あれは、座礁しているのでは」
「何だと・・・!」
それは思ってもいなかった情景でした。海峡に潜んでいる五隻の船のうち、最も先行していた一隻が岸壁に衝突して他の船も巻き込まれまいと回頭しています。すでに最初の一隻は船体も傾いて、脇には脱出用の小舟が下ろされていました。叛乱軍はしょせん急造の軍団で、ゼノビアの船団のように訓練を積んだ者たちではありません。自分たちで誘い込んでおいて、無様に混乱する相手に絶好の好機だとカノープスは全船の突入を命じます。五段に連なる櫂を一斉に漕ぎながら、逃げ道を封じるために尖らせた杭の束を海面に流し、衝角や梯子や櫓を立てて前進する様は水上の砦そのものでした。
海峡を一列になって進むゼノビアの船団に対して、カロリンたちの船は慌てて船首を向けなおそうとして右往左往していますが思った以上に動きが鈍く、座礁していない他の船からも逃げ出そうとする小舟が下ろされようとしています。相手の無様さを気の毒に思いながら、まずは船を沈めるのが先だとカノープスは全船に突入を指示しました。装甲でも大きさでも勝る八隻の船がまだ座礁していない四隻の船に襲いかかり、たとえ激突しても沈むのは相手の船だけでしょう。
「衝突に備えろ!このまま・・・」
「カノープス!上、上だ!」
背後にいるランスロットが声を上げたその時、ひゅるるという音がこだますると石火矢が彼らの頭上に弧を描いて飛んでいきました。途端に海峡を見下ろす左右の岸壁の上に、ずらりと並んだ兵士たちが姿を現します。彼らは手に手に石と脂を持つと「蛮人」ウーサーの命令一下、眼下にある船団めがけて一斉に投げつけました。
「投石器を用意!」
人の頭ほどもある石や岩が次々と投げ込まれると、疾風軍団の頭上に霹靂が襲いかかります。敏速に動くべくもない船の上で、最初に落ちてきた大きな石がカノープスの脳天にぶつかると頭蓋まで砕いて長髪が赤黒いものに浸りました。ゼノビアの兵士たちは頭上に掲げた盾ごと甲板を打ち抜かれて船には大きな穴が穿たれていき、整然と並んでいた船団が回答を試みると自ら流した杭に絡まったところに後続の船が突入する有様でした。
混乱するゼノビアの船団に「落ちた男爵」アプローズはこの機を逃さず、海上に下ろされた小舟から選りすぐっていた者たちを向かわせます。のたうつ巨獣に近づきすぎぬように注意して、勇敢どころか無謀なカストラートの船乗りたちがよく研いだ鎌を結んだ何本もの縄を振り回すとそれを投げつけ、帆綱に引っかけて切り落とします。
「松明も用意!」
甲板で右往左往する兵士たちの頭上に軍船の帆が落ちかかり、それを合図にして頭上のウーサーが鯨の油脂と松脂をたっぷり含ませた布、それから火のついた松明を眼下に投げ込みました。ゼノビアの船団は再び火と煙に包まれますが、アヴァロンの時とは違って甲板には多くの兵士がいて石や岩で砕かれて甲板に倒れるか互いに押し合って潰れるか、軍装のまま海に飛び込んで二度と浮かんではきませんでした。
「突入を準備・・・」
ゼノビアの船団が焼かれて人がごろごろと死んでいく、その様子を見てカロリンは努めて冷静な声でルッケンバインに指示を行います。もともと彼らは人数の多くをウーサーに預けていて、船には大人数は乗っておらず漕ぎ手も足りませんでしたから用意した二隻に全員を乗り移らせると炎に包まれた海峡から逃げるという難事を果たさなければなりません。もとより安全な岸壁で待つという考えは彼女にはありませんでした。
ルッケンバインの指揮で叛乱軍の船が全速で漕ぎ出すと、混乱するゼノビア船団の脇を通り抜けて海峡の出口を目指そうとします。海峡の狭さも衝突する危険も火の粉が移る可能性も承知した上で、それらを避ける唯一の方法として漕ぎ手たちは腕もちぎれんとばかり全力で櫂を漕ぎました。カロリンの計算違いは海上に流されている尖った杭でしたが、このために漕ぎ手以外には何も積んでいなかった船は海上を疾駆すると時おり船腹に当たる衝撃が船を揺らしましたが、小さく軽い船体が幸いして傷つきながらも無事でした。
「全速前進!私が皆さんを守ります!」
そう叫ぶカロリンは彼女の赤毛を火に晒したまま船の突端にあり、頭上を行き交う火や石にもひるむことはありません。傍らに迫られた船からは矢が飛んで決死の兵が乗り移ってきましたが、叛乱軍は一歩も引かずに盾をかざし、海に叩き落として彼らの英雄を守りました。アプローズが率いていた小舟の群も数を減らしながらカロリンの船に拾われて、彼らは犠牲を出しながらも別の群島へと姿を消そうとしています。
「奴らを逃がすな!王国の誇りにかけて沈めるのだ!」
ランスロットの乗る旗艦カリュブデスは船団の最後尾にあり、最も海峡の入り口に近く随所に穴を穿ち火と煙を上げてもがきながらも最後の城壁としてそびえ立っていました。彼らは八段もの櫂を漕がせると、逃亡を図る叛乱軍の船に衝突も辞さぬ勢いで突進します。血まみれの海獣は甲板で味方を励ましているランスロットに率いられると、カロリンの船に激突するかに思えましたがその直前、カリュブデスは新たな衝撃を受けて神聖騎士団長が甲板に足を滑らせます。倒れた目の前にはもの言わぬカノープスの赤黒い頭がありました。
「閣下!船が・・・」
広い甲板の向こうで絶望的な声が聞こえて、叛乱軍が曳航していた二隻目の船がカリュブデスに衝突したことをランスロットは知らされます。その船には船員ではなく硫黄や硝煙、松脂が積まれていて激しい火が立ち上ると瀕死の海獣に燃え移りました。攻城戦に対しては城で戦わず、海戦おいて船で戦わない。弱小な叛乱軍に正面から戦う余裕はなく苦肉の策でしかありません。兵の過半をウーサーに預けていたカロリンは五隻ある船の一隻で敵を誘い、残る船の一隻に全員を乗せるともう一隻は敵にぶつけるための衝角と火攻めの資材だけを積んでいました。人数も足りず海に慣れている筈もない叛乱軍は、平然と船を捨てても惜しいとは思いません。
曳かれる勢いのまま、数人の命知らずに舵を取らせていた火攻めの船はカリュブデスに船首をぶつけると衝角と鉄釘を突き刺して抜けないようにし、すかさず火を放ってからわずかな人数が小舟で逃げ出します。紅蓮の世界を後目に叛乱軍はカロリンを守りながら懸命に櫂を漕ぎ続けました。
この戦いでアプローズも若いルッケンバインも手傷を負い、カロリンは彼女の赤毛の一端を焦がしましたが切り揃えもせずそのままにしておきました。叛乱軍には相応の犠牲が出ましたが、八隻の船団を壊滅させられたゼノビアの損害は比ではなくカノープスは戦死、神聖騎士団長ランスロットは燃え盛る旗艦カリュブデスから辛うじて脱出したものの、疾風軍団は壊滅して王国は海上戦力のほぼすべてを失うことになったのです。