其乃二.獣を追い出して野蛮人を呼ぶ
都から宦官を追い出すべく、カシン(何進)に呼ばれて一路上洛を目指していた諸侯の一人にトウタク(董卓)という人がいた。後に三国志随一の悪役として知られることになる極悪非道の人物だが、確かに極悪非道ではあったものの豪放で義侠心に厚く友人客人のためなら自らの危険も顧みない親分肌の人でもあったらしい。馬に乗って右手でも左手でも弓を射ることができたという勇猛ぶりで、北方異民族を手懐けた功を賞されたこともあるが、黄巾の乱では鳴かず飛ばずで責任を問われるところを賄賂で切り抜けたとすら言われている。兵には一人の犠牲も無かったというからたぶん最初から軍隊を温存するつもりで怠けていたのだろう。
そのトウタクが昼夜兼行で都を目指していたところにカシンの殺害と宦官皆殺しの報が飛び込んでくる。続いて怪しい奴らを捕らえましたという部下の言葉を聞いて、会ってみると誘拐された皇帝陛下と宦官だったから誘拐犯はさっくり殺されると悪名高い十常侍はこれであっさり処断、さらわれた陛下と御一行は無事に都にご帰還あそばすことができた。
ここでちとややこしい話になるが、宮殿に押し入ったエンショウ(袁紹)たち近衛軍団の目論見は大将軍の仇を討って諸侯に恩を売ると同時に陛下の御身を手に入れることだった。だがトウタクが陛下を助けたなら諸侯に恩を売られたのは近衛軍団だから大魚を逃した彼らは歯噛みをしながら退散するしかない。とはいえ皇帝を手にしたトウタクも他の狼どもがやってくる前に都を掌握しなければならぬ。一計を案じた彼は毎夜兵士を城から出すと翌朝には派手に入城させて、あたかも援軍が到着したかのように見せかけることにしたという。
こうして状況の勝利者になったトウタクだが、豪放で義侠心に厚い彼は粗暴で容赦をしない極悪非道の野蛮人でもあったから宮中の木端役人や書生ッポにとっては獰猛な野獣が都に解き放たれたと同じだった。無能な役人は死刑、おべっかを使う役人は死刑、今日は気分がいいから死刑といった具合で人がごろごろ殺されると没収された財産は部下たちに惜しみなくふるまわれる。トウタクの振る舞いは野蛮人が占領地の宝を部下に振る舞うのと同じもので、たぶん彼は勇猛な部族の酋長としては得がたい人材なのだろう。トウタクのおかげで後漢末の腐れた風習や伝統が根こそぎ吹き飛ばされはしたが、残された荒野にはぺんぺん草の一本も生えなかったのである。
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この時期、今は亡きカシンに呼ばれた不届き者たちが都にぞくぞくと集まっていた。彼らに先んじて都を手に入れたトウタクにすれば狼どもが集まる前に一刻も早く柵を堅固にしたいところであり、善は急ぎまくり思い立ったときには吉日を謳歌していなければならない。とりあえず自分の軍勢にカシンの兵士を合わせてそれなりの数を手に入れた彼が目をつけたのが都にやって来ていたテイゲン(丁原)の兵である。物語では極悪非道に反発した憂国の士のように描かれるテイゲンだが、彼も軍隊を率いてここにいるのだからもちろんトウタクの同類だ。勇敢だが粗暴な人物で、上洛こそ遅れをとったが多くの兵士を従えて野心に溢れている。
こいつを殺して軍勢を手に入れようと考えたトウタクだが性急に立てた暗殺計画は失敗、このままでは口実を見つけたテイゲンが襲いかかってくるのは確実だ。悪臣から皇帝をお救いしたトウタクが支配者になれるなら悪臣トウタクから皇帝をお救いすればテイゲンが支配者になれる道理であり、皇帝を支配する者はこの国の支配者になれる。これはいかんとトウタクが目をつけたのがリョフ(呂布)という人物で、物語ではテイゲンの養子といわれるが実際は下っ端の属官だった。重ねていうがテイゲンは人格者ではなくトウタクと同じ穴のムジナであり、トウタクは極悪非道だが親分肌で部下には気前がいい。一介の地方官吏に過ぎないテイゲンなど足元にも及ばない地位と報酬と爵位を用意されたリョフは一も二もなく首を縦に振るとトウタクに鞍替えし、けちくさいテイゲンの胴体から首を取り外して土産にしたという。
三国志を代表する勇者の一人であるリョフは派手な鎧を着て方天画戟と呼ばれる片刃の矛を振り回し、前漢時代の英雄李広のあだ名になぞらえて飛将と呼ばれた勇者である。全身炎のように赤い、赤兎という名馬に乗ってまるで無人の野を行くように戦場を駆けると「人は呂布で馬は赤兎」と評された。当時の将軍は戦士ではなく兵を率いて戦わせる指揮官のことだったが、全軍の先頭を駆ける戦場の勇者も少数だが存在してリョフはその一人である。惜しむらくは人格者で知られた李広とは違って誘われれば主の首もすげかえる不忠者であることだが、人格者ではないし粗暴だが勇猛な人物だったというならトウタクもテイゲンもリョフもどれがタヌキで誰がムジナか分からない。
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邪魔者をさっくりと始末したトウタクはこれで自前の兵士にカシンの兵士、テイゲンの兵士もごっそり手に入れると都で最大の軍勢を手に入れることに成功する。とはいえ殺された乱暴者のムジナに比べれば同じ穴の粗暴なタヌキは部下には気前がよく、貴族の爵位まで与えられたリョフに至ってはトウタクの養子として迎えられると身辺の警護を任されるようになる。これは節操がないというよりもリョフを家族として扱い、いつでもどこでも武器を持つことを許すという意味だから有名な「桃園の誓い」に等しい。これで都にいた近衛軍団は都と皇帝を見捨てて脱出、上洛が間に合わなかった地方の豪族たちも自分の領地に引き上げたから残されたのはごく少数の皇帝の取り巻きとその他大多数のトウタクの取り巻きだけになった。
ところで一般に統治者とは左手に棍棒を握っても右手は握手をするために空けておくものだが、トウタクという人は右手に棍棒を握ったら左手にも棍棒を持って遠慮なく殴りつけるような人だった。このような彼にとって皇帝の母である何太后は影響力という点でこの上なく邪魔な存在にしか思えない。ならば皇帝と一緒に助けた従弟の陳留王殿下、リュウキョウ(劉協)が皇帝に即位してしまえば自分は皇帝の恩人のままで彼女は皇帝の母ではなくなるではないか。
そう考えたトウタクはさっそく参内に集まった諸侯や百官を前にして、皇帝の後見人ヅラで壇上に立つと皇帝の恩人ヅラで穏やかに宣言してみせる。今上陛下は宦官が大将軍を害するのを止めることもできなかった軟弱な弱虫だから、これから王朝を立て直す主としてはまことにふさわしくない。一方で従弟の陳留王殿下は今回の変事にも動じておらず聡明なお人柄、ここは殿下にご登極いただいて我らを導いてもらわなければならぬ。軟弱な陛下も聡明な殿下も呆気にとられる宣言だが、哀れな陛下の退位と哀れな殿下の登極を遮る者など最早どこにもいなかった。
こうしてわずか十七歳で即位、たった五ヶ月で弘農王に落とされたリュウベン(劉弁)は幼くして廃位された少帝の俗称で呼ばれることになる。だが幼いというなら後漢の皇帝が幼くなかったのは最初の三代だけで、それを除けば十七歳での登極は実は歴代最高齢での即位だった。新しく擁立された献帝こと十四代皇帝リュウキョウは当時わずか八歳、リュウベンの異母弟にあたるが母親は権力争いに巻き込まれると追放された何太后にとっくに毒殺されている。由緒正しい傀儡王朝としては年齢でも家族の少なさでも彼ほど皇帝にふさわしい人物はいなかったろう。ちなみに皇帝の母でなくなったもと太后は、後に政治利用されることを恐れたトウタクの手でさっさと始末されていた。
草おのずから萌え出で、
つばめも飛びて阻まれず。
ああ洛水の自由の流れ!
うらやまし、道ゆく人の心のままなる!
かえりみる、かなた、碧の雲のあたり、
わが棲みおりし宮居にこそ。
われ、今にして心悶ゆる囚われの人!
忠義の人を求め得ずして。
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