其乃四.逆臣に与した者が言う、逆臣に与した者は死刑だと
三国志の主人公たるリュウビ(劉備)。中山靖王の末裔と自称するこの男、孫子の後裔よりはまともな出自だがそもそも中山靖王というのが夜伽に励んで百人以上の世継ぎを残したという「ごさかん」な人だった。早逝した父が役人で、老母を養うためにムシロやワラジを編んだというが高名な先生に師事して学問も修めていたというから実際はおちぶれた貴族というのが近いようだ。若い当時から大言壮語を吐く遊び人のきらいがあって、目上も目下もなく誰にでも好かれる性格だったから彼を暗殺しようとした男をもてなすと相手が感心して去って行ったという逸話まで存在する。
リュウビは黄巾討伐のおふれに義勇兵として志願したが、左右の護衛に従えていたのが赤顔長髭の大男であるカンウ(関羽)と虎髭丸目の大男であるチョウヒ(張飛)の両名で、リュウビ自身は肩まで届く長い耳とひざまで届く長い腕という異相の人だったからさぞかし目立ったことだろう。桃の花咲く庭園で誓ったかは分からないが実際に互いを兄弟と呼んで寝所をともにするほど、つまり家族も同然に仲が良かったらしい。リュウビは黄巾討伐でそれなりに活躍すると地方の警察長のような役職を与えられたが収賄贈賄全盛の当時、査察に来た役人にあからさまな賄賂を要求されると「貴様にはムチをくれてやろう」と縛りつけて折檻、印綬を置いてそのまま遁走してしまう。その後はエンジュツ(袁術)派の一員として参戦すると援軍に赴いた徐州の地でトウケン(陶謙)に気に入られて老病の彼から統治を託された。トウケンは考えなしの癇癪持ちで知られる老人で、野盗と結託して周辺を荒らしていた折にうっかりソウソウ(曹操)の父親を殺してしまうと報復されて壊滅的な被害を受けていたから徐州の人々もこんなじじいよりもリュウビがマシだと考える。
この徐州統治からリュウビの名前が歴史に現れるのだが、実際にはさしたる活躍もできず要領よく立ち回ろうとしては失敗して誰かの庇護に入ってもすぐに逃げて独立するのを繰り返していただけである。あのリョフ(呂布)に「こいつが一番信用できないじゃないか」と言われたのだから大概というもので、当時の彼に対する評価が仁徳ある英雄と節操のない梟雄の二つに分かれたのも無理はないが、負けて逃げることを繰り返しても皆がついてきたのがリュウビという人ではあった。彼は確かに大言壮語の大ぼら吹きだが、大言壮語の大ぼら吹きを多くの人が支持し続けた事実を忘れてはいけない。長い耳は人の言葉を余さず聞こうとする態度を、長い腕は人を救おうと手を伸ばしつづける彼の姿を例えたものである。
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時代の支配者となったトウタク(董卓)は部下には気前よく振る舞い、それ以外からは景気よく略奪するのが常だった。彼自身は位人臣を極めて宮中でも土足や帯剣が許されていたし、生母を貴人にしたり一族を高官に就任させる縁故人事も積極的に進めている。略奪や暴行を平然と行って捕虜は特に残虐に処刑した、その様子は蛮族の酋長が威勢を誇る姿に似ているがこの類の支配者は戦いに勝ってこそ戦利品を部下に配ることができる。金持ちの屋敷を取り壊して近隣の村を襲い、陵墓を掘り返したのも彼の感覚では征服地から戦利品を手に入れるためだった。
そんなトウタクだから長安に遷都した後も部下には国費を投じて金をばらまこうとして、悪貨を鋳造して流通する銅貨の量を増やそうとしたからもちろん経済は大いに混乱した。だがトウタク打倒を掲げた連合軍はとっくに有名無実と化していたし、彼に遷都を強行させた英雄ソンケン(孫堅)も戦いに明け暮れたあげくに石で頭を割られて死んでいたから新しい都を脅かす者もいない。だがトウタクの統治が盤石になったわけではなく、挙兵する者と暗殺を企てる者が後を絶たないようになり彼を殺したのも腹中の虫だった。
都の政務を任せるためにトウタクが招いていた名士の一人にオウイン(王允)という人がいた。かつて十常侍の専横を訴えて投獄されたこともある豪気な老人で、トウタクは彼を信任したが十常侍の専横に不満だった彼がトウタクの専横に不満を持たぬはずがない。暗殺も考えるがトウタク自身が大力無双の戦士である上に宮中でも彼だけは帯剣を許されている。さてどうしたものかと鬱々としていたオウインの屋敷を訪れたのが絶世の美女、ではなく将軍リョフだった。過日、短気を起こした義父に戟を投げられて恨みに思っていた上に、トウタクの侍女と密通してばれないかと恐れていたから同郷のオウインに相談をしにきたものである。これぞ千載一遇の機会だと、喜んだオウインはいっそトウタクを殺してしまいなさいとそそのかす。戟を投げてくる男を父と敬う息子はいないというわけだ。
その日、体調を崩していた皇帝の快癒祝いを口実に宮殿に呼ばれたトウタクがずかずかとやってくる。宮中で剣を吊るしていいのは彼だけだが宮殿に入る前なら護衛のリョフも武器を手にしていた。門の前で遮られると、息子よどうしたのだという父親の頭上に俺の父は貴様ではないと方天画戟が振り下ろされてトウタクはあっけなく最期を遂げる。貴人となっていた母親はもちろん一族郎党が引き出されて処断、死体はまとめて火にくべられた。ふとっていたトウタクの身体にふざけて灯心を差すと脂で数日燃えたという。
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ところでオウインという人は皇帝への揺るがぬ忠誠心を持ち、逆臣を打倒した功労者だが残念ながら公正無私の人格者というわけではなかった。トウタクの一族郎党を皆殺し、残党狩りまで行ったのはまあ当然だとしても少しでもトウタクに協力した者はすべて死ねという勢いで殺して殺して殺しまくった。血に狂う老人をなだめようとしたリョフがせめて兵士には恩赦を与えてほしいと嘆願するがオウインは聞く耳を持たず、トウタクを殺した功労者に褒賞を与えるべきだという意見も無視。廉潔な彼にとって国を救うのは当たり前だから褒賞なんてとんでもない話だし、トウタクに招かれた名士もことごとく殺したがもちろんその中にオウイン自身の名前は含まれてはいなかった。
こうなれば不満ではなくこのままでは殺されるという恐怖で皆が決起する。トウタクの同郷で部下だったリカク(李・確の石をニンベンに変える)とカクシ(郭レ)が挙兵すると「命惜しさに」兵士が続々と集まり長安目指して進軍した。迎え撃つリョフもさっきまでの部下がぞろぞろ寝返っては勝てるわけもなく、早々と逃げてしまうと猛り狂った軍勢が都に押し寄せる。逃げるように勧められたオウインが曰く、幼い陛下は私一人を頼りにしています、その私が逃げることなどできませんと言って都に留まった。あっぱれな忠誠心だと言うしかないが、決起軍の目的はこの殺人鬼を殺すことで皇帝などどうでもよかった。
従容と捕まったオウインは殺されて首がさらされる。そして彼の死は残念なことに皇帝を安寧にはしなかった。参内するリカクとカクシに皇帝はなぜこのようなことをしたのだと下問するが、殺されたトウタク閣下の復讐をしたのですというのが彼らの言い分だった。オウインが一切の恩赦を拒否したのだから彼らの大義名分はこれしかなく、そして復讐を掲げた以上、リカクとカクシは生前のトウタクに倣った統治をしなければならなくなる。もしも彼らが許されていれば悪いのはすべてトウタクでしたと言い逃れをすることもできたのだ。
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長安の新しい主となったリカクはもとはトウタクの下で戦い、後にはトウタクの下で略奪を繰り返した人物である。同僚のカクシは剛勇で知られる男でリョフと一騎打ちを演じたこともあり、その後リカクと仲違いをしたときには数百の兵を率いて数万の軍勢を撃破してみせた。彼らが手を結んだのはそうしないとオウインに殺されるからで、オウインが死ぬと今度は同僚に出し抜かれないために互いに争った。昨日は酒盛りをした友人が今日は殺すべき敵になる、統治は放り出されたままだったがトウタク時代の略奪と蛮行は横行したから長安の治安は悪化して食料の値段が高騰、人が人を食いそこらが死体と異臭で満たされた。
これでは幼い皇帝が都に帰りたいと泣き出したのも当然だが、臣下たちも同感で阿鼻叫喚の長安を捨てて廃墟の洛陽に帰ろうという話になる。ところがいざ出立という段になってカクシが変節して襲いかかると、これにリカクも呼応して護衛はほとんど全滅させられた。結局見逃してもらえたのはたぶんリカクもカクシもオウインに殺される心配がなくなって、大盤振舞も期待できない皇帝なんか抱えても意味がないと思ったからだろう。山賊や野盗にありがちな考え方だが略奪する物がないのにめんどうな統治なんてするつもりはなく、錦の旗を手放した彼らはそのまま山賊に落ちぶれると後に討伐されて処断されている。
とはいえ山賊に落ちぶれなかった連中も無意味な対立を繰り返していたが、けっきょく最後まで皇帝に従ったのは娘を側室にしていたトウショウ(董承)という人物である。皇帝も彼も人望がないから次々に離反されると洛陽に着いたときには一行は数十人に減っていたが、そこでも仲違いをする有り様だったから今度こそ強くて頼りになる番犬を呼ぼうと考える。ここで白羽の矢が立てられたのがもともと皇帝を守る近衛兵で、反トウタク連合軍でも先陣に立って戦いその後も都の近くにいるソウソウ(曹操)だった。こうして召し出された彼は確かに強くて皇帝への礼節も心得ていたのだが、問題があるとすれば彼はトウショウへの礼節は心得ていなかったというだけである。
王允が策をめぐらしたので、
奸臣の董卓はたおされた。
心におもうは、民草のやすらぎ。
眉のひそみは、国政の苦心。
かれの英気は天の川に。
かれの至誠は北斗まで。
かれの魂、かれの魄は、
今もなお宣平の門楼をまもるであろう。
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