其乃五.ああ、いなごだ・・・
殺人鬼が横行する長安が血で洗われているあいだ、諸侯はどんな様子だったろうか。この当時は現代の黄河である大河の流域をイナゴが席巻した時期でもあり、特に中原から北部はひどい飢饉に襲われていた。連合が解体した後、都の近くに留まっていたソウソウ(曹操)はその地で屯田制を始めると荒れた畑を黄巾賊の残党に耕させて、逃げた住民を集めると同時に兵糧を得ると青州兵と呼ばれる中原最強の歩兵を手に入れるがそれはまだ先の話である。この頃、隣国徐州を治めるトウケン(陶謙)に父を殺されていたソウソウは激怒すると「人も鶏も殺されて死体が川をせきとめた」といわれるほどすさまじい復讐の兵を挙げていたが、背後がお留守になったところを都落ちしていたリョフ(呂布)に襲われてソウソウ自身も大やけどを負わされる。イナゴの被害がひどくて追撃どころではないから何とか助かっていた。
こうしてソウソウからの難を逃れたトウケンは凡人のほうがマシと評される癇癪持ちの老人だが、ソウソウが逃げて徐州が救われるとまもなくぽっくり死んでしまう。当時の諸侯は名門貴族のエンショウ(袁紹)とその従弟のエンジュツ(袁術)の両派に分かれて争っていたが、この時たまたま徐州に援軍に来たのが当時エンジュツ派だったリュウビ(劉備)である。民衆や兵士は災難の原因になった癇癪じじいにうんざりしていたからトウケンが死ぬと徐州をリュウビに託そうという話になる。棚からぼた餅を手に入れた人格者リュウビは独立を宣言、エンジュツにとっては裏切り者だが実のところ嫌われ者のエンジュツや偏屈者のトウケンよりも裏切り者のリュウビのほうがずっと人に好かれていた。傍流でも皇統を名乗るリュウビが離反したことはエンジュツと対立するエンショウにとってもありがたく、すぐに息子を遣わせると友誼を結んでいる。
ちなみに当時のエンジュツ派の事情を見れば見切りをつけたリュウビが独立したのも無理はなく、白馬長史と呼ばれたコウソンサン(公孫・王賛)は戦場で苦戦する部下を「あいつを助けたら皆が救援を頼るようになる」と見殺しにしたから皆が逃げ出して自滅していたし、英雄ソンケン(孫堅)は戦いの日々に明け暮れたあげく戦いの中で石で頭を割られて死んでいた。エンジュツ自身は自ら出陣した戦いで惨敗するとほうほうのていで逃げていた有様で、ソンケンの子ソンサク(孫策)が獅子奮迅の活躍を見せなければもっとひどい事態になっていただろう。幸い長江流域は中原や北方に比べてイナゴの被害もそれほどではなく、ソンサクの活躍でこの豊かな地域を手に入れたエンジュツはいつものように親族に城や領地を与えると高貴な生まれにふさわしい豪華な生活を繰り広げた。残念なことにこの地域には人の姿をしたイナゴがいたから民衆の暮らしはまるで楽にならなかった。
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長安から逃げた後、リョフはエンショウを頼ると山賊討伐に活躍して「人は呂布で馬は赤兎」と讃えられたが両者の関係は長く続かず、兵士の貸し借りでもめると刺客が送られる騒ぎになりリョフは出奔、諸侯の間を転々とするがソウソウ旗下の不平分子に招かれると背後をついて大勝していた。もちろんソウソウも黙ってはおらず、一進一退を繰り返すが自領で屯田制をはじめたソウソウを相手に根無し草のリョフは分が悪い。どこかに腰を落ち着けようと目をつけたのが徐州を託されて独立したリュウビである。群雄割拠に乗じて独立した二人が厚かましく手を組んだというわけだが、名望あるリュウビと万夫不当のリョフが握手をするなら宣伝効果も抜群だった。
だが棚からぼた餅で独立したリュウビをもちろんエンジュツは面白く思っていないから、裏切り者の大耳野郎を成敗すべく大軍を向かわせる。嫌われ者の侵略者を迎え撃つべく徐州を出立したリュウビだが数日もしないうちに危急の知らせがやってくる。留守番を任せていた義弟チョウヒ(張飛)が酔ったあげくに徐州の旧臣と大喧嘩、これをぶち殺してしまうと混乱に乗じてすかさず攻め込んできたリョフに城から追い出されてしまったのだ。リョフの振る舞いも図々しいが、留守番役が内紛のあげく人殺しなんぞしていては言い訳のしようもない。死んで詫びると騒いでいる義弟をたしなめているリュウビに助け舟を出したのはお隣さんのソウソウで、仲裁してもらうと今度はリュウビが徐州のリョフをあべこべに頼ることになる。
いよいよエンジュツの大軍がやってくる。彼らの目的はもちろん裏切り者の討伐だが今のリュウビは徐州に世話になっているからさっそく助けを求めるとリョフも仲裁に乗り出してきた。立場が逆ならそんな義理はなかったからリュウビとしてはラッキーだ。陣幕に両者が招かれると、主君に遣わされたエンジュツ軍もリョフを相手にしたくはないが「よせ」と言われてはいそうですかと引き下がれるはずもない。そこでリョフが吾輩の方天画戟を持ってこいというと、皆がなんだと見守る前で百五十歩先の陣門に戟を立てさせた。ここから射た矢が戟に当たれば両者とも軍を引くがよいと言うが、当時の一歩が六尺なら百五十歩は二百メートル超、三十三間堂の通し矢が百二十メートルだからとんでもない距離である。まさか当たるまいと放たれた一閃が見事命中、リュウビには願ったりだしエンジュツ軍もこれで退かねば両者を相手に戦争になる。こうして危難は避けられたが、考えてみればソウソウやリョフが戦いをやめろとリュウビをいさめたなど知らない人にはたぶん信じてもらえないだろう。
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エンジュツの軍勢を退けることができた徐州だがさっそくリョフとリュウビが仲たがい、追い出されたリュウビはお隣のソウソウを頼って逃げていた。名実ともに徐州の新しい主となったリョフの下に流亡の皇帝陛下から手紙が届く。廃墟の洛陽にたどり着いた皇帝は何人かの群雄に手紙を送り、近くにいるソウソウが身柄を抱えていたが将軍位や爵位をもらったリョフも得意の絶頂だ。エンジュツが自分の息子とリョフの娘の縁談を持ちかけると、竜の娘を猿にはやれぬと使者をひっとらえたほどだった。怒ったエンジュツが攻めて来ると、あわてたリョフだったが部下の進言を入れて遠征軍を寝返らせると壊滅させることに成功する。乱暴者で考えなしの肉武将に思われがちなリョフだが意外にこの男は部下の声には耳を傾ける性格で、むしろ「殿はあまり考えなしに人の意見を聞きすぎます」とたしなめられるほどだった。
ところでリョフが寝返らせたエンジュツの旧部下だが、徐州に合流する前にリュウビに襲われると討ち取られて軍団や兵士をごっそり奪われてしまう。大耳の盗人野郎めと激怒したリョフは兵を出すが、最初からそのつもりでいたらしいソウソウがリュウビを助ける名目で大軍を率いて介入してきた。城に籠ったリョフを包囲したソウソウが水責めを考案すると、水浸しになった城では兵士が次々と飢えてしまう。残った部下を集めたリョフは「吾輩を売ってお前たちは投降するといい」というが彼らは従わず、だがこれ以上の抵抗は断念すると自ら門を開けて降伏した。物語では酒浸りになったリョフが寝ているところを部下が捕まえたとあるが、見限って逃げた者はいても水浸しの城に残った部下は主君を売ろうとはしなかった。
ソウソウの前にひったてられたリョフは「曹操が歩兵、呂布が騎兵を率いれば天下を平定できる」と助命を嘆願する。屯田兵を養い精強な歩兵を手にしていたソウソウはこの提案に惹かれたが横槍を入れたのがリュウビだった。彼は信用できませんという言葉にお前こそ信用できないじゃないかという罵詈雑言が交わされるが、けっきょくリョフは縊られると門前に吊るされてしまう。「人は呂布、馬は赤兎」とまで呼ばれた一代の英雄の最期としてはまことにあっけなく、変節を繰り返したとも非難されるがこの男が三国志最強の戦士であると同時に、意外に情味のある人物ではなかったかと思わされることもあるのだ。
神のわざかも、呂布の弓わざ、
いくさの陣に争いのむすぼれを解く。
名人后ゲイが弓わざも、弓わざならず、
達人由基が征矢とても、もののかずかは!
その弦には虎のすじを張り、
その矢には彫られし羽根をはく。
画戟、射られておののくとき、
雄兵十万、さけびて踊る。
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