第四章 内海を越えて
アニータ・プリシウスがエアの町に入ってから数日が過ぎた。貴族の生まれらしからぬ、活動的な赤毛の娘は活気と好奇心に溢れるこの町を日々歩き回っていたが、初日のような騒動に出会う事もなく市場で珍しい品物を物色したり、広場で詩を吟じる詩人の声に耳を傾けたり、犬を走らせる競技に熱中したりしている。主の後ろに従っているフランコにすればいつもの事であったとはいえ、彼女がチェスターを出立した理由を思えばもう少しおとなしやかにしていても良いと感じてはいたであろう。だが、それが到底無理な注文である事を、彼女が幼い頃からプリシウス家に仕えてきたフランコはとうに心得ていた。
アニータは動きやすいように裾を短くしたいつもの長衣の上に厚布の胴衣を着て、飾り紐を腰に結んだ姿で赤毛の頭には大陸風の大きな帽子を乗せている。露天商で見付けた逸品らしく、ことのほか彼女の気に入ったらしい。
「あら、どうせ出港は明後日なんだからいいじゃない」
それがフランコが予想していた、アニータをたしなめた時の彼女の回答である。チェスターで亡命王子のファビアス、兄殺しのデケ・ファビアスと悶着を起こした彼女はその後のトラブルを避けるために今は故郷の町を離れて旅の空の下にあった。アニータにすれば承服し難い状況ではあったが、チェスターとは昔から対立する王国エデンバルからの亡命王子、ファビアスの扱いは評議会の中でも単純なものではない。アニータの父であるプリシウス卿の立場もあり、娘としては父に不要な労苦を負わせるのは本意ではなかったのだ。
ファビアスは彼の父であるエデンバルの王ダビデに似て長身巨躯で頑健、粗暴で血を好む性格でも知られている。剣闘士試合での事とはいえ、友人の青年貴族を残酷な方法で潰されていたアニータがこの蛮人を許す事ができる筈もない。彼女の勇敢な心を知っていたプリシウス卿もフランコも、だからこそ彼女を旅立たせる事にしたのである。他人の誇りのために戦う事を辞さぬ、アニータはそういう娘であった。
チェスターを出て北にあるハドリアヌスの城壁を抜け、街道を越えたエアの町にいる彼らはこれから船に乗って西にあるオーハに渡るところまでは予定を決めていた。オーハはブリタンニアの狭い内海を西に越えた島にある町であり、波と風は強いが大抵は一日もかからない船旅で向かうことのできる対岸にある。季節によっては、航海する時間よりも船内で潮を待つ時間の方が長いとも言われる海域であった。
空が気難しげに日々色を変えるブリタンニアで、雲が少ない時であればエアの港から視線を伸ばしてオーハの姿を見る事もできる。船でオーハに渡る、その先の事はアニータもフランコも未だ考えてはいない。チェスターの様子を聞いてからどこへ行くかを決めてもよいし、長い旅行としてブリタンニアの各地や大陸まで周遊してもよいであろう。港には多くの商船や漁船が帆を連ねており、その中にはすでアニータたちが乗る船も係留され、もやい綱を堤にくくり付けられていた。船の名は「海のよろこび」号といい、船主は恰幅のよい陽気な中年男で、トンマーゾといういささか風変わりな名で知られている商人である。
「おや、プリシウス家のご令嬢でいらっしゃいますか」
港に立ち寄り、出港する船の姿に目を奪われているアニータの背後から声をかけたトンマーゾは、人好きのする丸い藍色の目と深い口ひげに隠れた口元に笑みを絶やさずにいる。愛嬌が商人の第一の資質であることを体現したような、親しみのある穏やかな印象をした人物であった。中背だがせり出した腹と肉付きのよい顔が彼の外見を実際よりも大きく見せており、厚手の長衣やその上に羽織っている上着は丈夫な布地で織られていて活動的な印象を窺わせる。実際、彼は愛船に乗ってブリタンニアから大陸までを広く周遊する交易商人であり、航路を頻繁に往来しては多くの品々を船に詰め込んでいた。
「見返りは小さく危険は少なく、が私の主義でしてね」
その自分が選ぶ航路だから客人にも安全で安心できるものだ、とは調子のいい商人の言葉である。アニータは目の前にいる抜け目のない商人への警戒心をすぐに解いてしまったが、もとより彼女は人に過剰な警戒心を感じる性質ではなく、トンマーゾも人に警戒心を思わせない術を心得ている。港に浮かぶ船を見上げるようにして、アニータは細い首を動かした。
「あれが貴方の船ですよね。こう言っては失礼かもしれませんが、面白い船ですね」
「ええ。ですが口の悪い者はあれを虫食いと呼んでいますよ」
トンマーゾの評価にそれは酷いですね、と一応は貴族の娘であることを窺わせる丁寧な笑みを浮かべる。「海のよろこび」号は船の前後と中程が側板のない骨組みを剥き出しにした造りになっているために、ひと目見てそれと分かる代物であった。多少の波に遭ってもこの隙間を水が抜けていくので、見た目よりも存外安全に航海ができるが当然のように水をかぶりやすく、商船としては荷を積める場所が減るのであまり好まれる造りではない。
トンマーゾ自身は少しでも航海の安全を期すためにこの船を選んだと吹聴しているが、実際は風変わりな風体が商船として他者の目を引きやすくするためであったか、あるいは単に側板を買う金を惜しんだ結果に過ぎないと言う者もいる。何しろ、濡れてもよさそうな荷箱は彼のいう虫食いの穴にくくりつけるように積まれているのだから、安全がどうというトンマーゾの主張はいささか説得力に欠けていた。
出港を二日後に控えているとあって、「海のよろこび」号には多くの荷が詰みこまれようとしているところだった。トンマーゾが離れた後も好奇心旺盛な赤毛の娘は港の様子を飽きずに眺めており、時折荷運びをしている船乗りたちに声までかけている。本来、仕事の邪魔でしかない筈だが生来の屈託のない親しみのせいか、船乗りたちにもアニータを敬遠する者はいなかった。中でもエデンバルから乗っていたパウロンという若い船乗りは、赤毛の娘がよほど気に入ったのか機嫌よくおどけながら荷を運んでは船長らしい男に怒鳴られている。茶褐色の口髭をきれいに整えた調子の良さそうな男で、港では酒場や遊戯場に浸ることが多く近い将来、喜劇詩人として大計を図るつもりであると大仰な風呂敷を広げていた。
彼らの船はブリタンニアの東にあるエデンバルに立ち寄った後、沿岸に沿って島の北辺を巡りエアに入ったところでありこれから内海を通りオーハへと渡るつもりでいる。ハイランドの高峰に遮られた北辺は未踏の地も多く、村落では珍しい品が取り交わされることもあった。
「そういえばここで乗る船客の中にジプシーの一団がいるそうでね。楽しい連中らしいよ」
楽しいかどうかはともかく、よほど奇妙な縁はあるらしい。苦笑めいた表情を浮かべつつ、それがマリレーナのキャラバンであることをアニータは疑いもせずに信じていた。内海の向こうにあるオーハではジプシーが伝える古い文化が喜ばれる上に、有名な酒が鋳造されている地域でもあって陽気な移動民が立ち寄る場所としては古くから親しまれているらしい。そうした話を聞きながらも、アニータは先んじて同船者のジプシーとやらにどうやって挨拶に行こうかと考えている。あの魅惑的な女占い師に、驚いた顔をさせることができればきっと楽しいに違いないだろう。短いながら賑やかな航海になるかもしれなかった。
‡ ‡ ‡
内海の波はトンマーゾが言うところではいつもよりずっと穏やかなもので、風も航海に適しておりアニータたちは幸運の賽に恵まれているという事であった。だが短い船旅の間に人も荷も上下左右に激しく揺れ動かされたアニータとしては、調子のいい商人が言う幸運を頭から信じる気にはなれない。あるいはこの一帯ではこれが普通であるのかもしれず、それとも「海のよろこび」号の航海ではこれが普通であるのかもしれなかった。
「まったく、酷い目にあったもんだね」
オーハの港が近づき、甲板に上がったアニータの横でマリレーナも同じ感想を抱いたようであった。わずか一日ぶりに目にする地面が久しい懐かしさを脳裏に感じさせる。波を選び、正午を過ぎて出港した「海のよろこび」号は激しい潮に翻弄されながら海上で夜を明かすことになり、オーハの港に入ることができたのは翌日の日がもう一度頭上に巡ってからであった。どう考えても、急ぎの荷でも運びたいがために無理に出港をしたとしか思えない。
短いながらも賑やかな航海になるだろうというアニータの期待は不本意な姿で実現したようだが、マリレーナと再び会う機会ができたことは赤毛の娘にとってそれ以上の価値を持っていたのも事実である。エアでの騒動を知っているフランコは主人の新しい友人を決して歓迎してはいなかったが、表立って異を唱えることもなく当初は赤毛の娘を護衛するように立っていたものの内海を越える頃にはそれもやめてしまった。アニータの目を信用したのかもしれないが、単に船の揺れに耐えられなくなっただけかもしれない。
「おいでなさいな、タムシンも地面が恋しいでしょう」
「・・・はい」
声をかけるマリレーナの後ろから、力のない声が聞こえる。ジプシーの一団はキャラバンの全員を連れて「海のよろこび」号に乗っていた訳ではなく、数人がオーハで売る布地や装飾品などを積んで内海を渡っていた。マリレーナからタムシンと呼ばれた、不思議な髪の色をした娘はアニータと齢も近いらしく、しなやかで魅力的な容姿をしていたが目には光がなく未来に絶望した老人のような色をしている。彼女の事情をアニータが窺い知ることなどできよう筈もないが、タムシンが自ら立てている壁を壊そうとするほど赤毛の娘は無神経ではなかった。ただ、あまりに真面目そうな娘であり単純で享楽的なアニータには苦手な類かもしれない。
オーハは内海を越えた西にある島でブリタンニアの船を迎える港の一つであり、町は人が暮らすよりも船や荷車が集まる市場のつくりをしている。木で梁を組み、石や焼いた土を積み上げた四角い建物は倉庫か貸し店が大半であった。島の更に西にある暖流の影響で、オーハの気候はブリタンニアよりも穏やかで寒暖の差も小さく、雨は多いが雪は少なく保養地としても人気のある島である。南に栄えている町に比べると周辺では牧畜や農耕に勤しんでいる者が多く、豚や牛、羊や鶏の騒々しい声も聞こえていた。
木を組んだ小さな柵が立てられている、町の門の近くには人と品々の往来を見張るための小邸が建てられており、オーハの為政者である組合長たちが居を構えている。とはいえ彼らの仕事といえばおざなりな入港の許可や関税の徴収、ごく稀に起こる揉め事の調停といった程度のものでしかない。組合といっても隠居した商人や地主が幅を利かせているに過ぎず、実際にオーハを営んでいるのは日々、この地を訪れている商人たちであった。
「まだ時間がかかるかしらね」
「そうだね。この船、船主の腹くらい積み荷を押し込んでたから」
マリレーナの言葉にアニータは笑うが、それはトンマーゾの商人としての逞しさでもあるのだろう。娘たちは忙しく立ち働いている「海のよろこび」号の船乗りたちの姿を見ながら、オーハに下りる用意が済むのを待って潮風に髪を晒していた。アニータの荷はフランコが揃えており、いつでも船を下りることはできるが許可がなければ無論、町に入る訳にはいかない。赤毛の娘にすればいっそ長衣の袖をまくりあげて荷運びを手伝いたいところであったが、さすがにトンマーゾも客人に荷役をさせるつもりはなかった。
港を滑る風に娘たちが身を晒している間にも、「海のよろこび」号の船員たちは肩をむき出しにして彼女たちの目の前で荷を下ろしている。幾人もの男たちが動き回っている様は小気味のよいものであったが、一人の船乗りがそれを乱す、奇妙な様子をしていることにアニータは気が付いた。きれいに整えられた茶褐色の口髭が印象的な、パウロンという名の船乗りである。肌は土色をして視線はさまよい、足元もおぼつかずにいる。確かに気分が悪くなる程の揺れであったがそれにしても、とアニータが訝るのと時を同じくして若い船乗りはくずれるように倒れると周りの男たちが驚いて駆け寄ってきた。咄嗟に飛び出そうとしたアニータの前に、フランコとマリレーナが遮るように立つと赤毛の娘をたしなめる。
「このような折りに不用意に動けば船に迷惑がかかりますぞ」
フランコの言葉はもっともだが、その真意はマリレーナにも容易に理解できた。明らかに病の兆候を示した者に不用意に近付く事は避けるべきであり、それが島々や大陸を渡る船の上であればなおさらのことだ。早くも知らせを受けたのであろう、青い顔をしたトンマーゾが駆けてくる様子が彼女の視界に入る。どうやら上陸は面倒事になりそうであった。
病の正体とやらがすぐに分かる筈もなく、ことを知ったオーハの組合では「海のよろこび」号を町から外れる係留場に動かしてから改めてトンマーゾを呼び寄せる。商人はそれに従って船乗りや客人たちを甲板に待たせると、副長を連れて船を下りていった。このまま彼らの上陸を認める訳にいかぬとは当然の話であったが、トンマーゾとしては船や船乗りの安全と同時に運んできた荷や人をオーハに下ろす事ができねば彼らの稼ぎが失われる。そして稼ぎがなければ「海のよろこび」号もそれに乗る者も養っていく事はできないのだ。
「あの男、パウロンといいますが一月程前に乗ったばかりの船員でして。自分では酒は飲むが肝腎も心身も石のようだと吹聴していたんですがねえ」
この際は多少いい加減な受け答えでも、自分の商売だけは成立させるつもりである。船倉に連れ込まれていたパウロンは肌に黒青い痣が浮かび汗は油のように吹き出しているとの事で、数日もすればかんたんに死ぬだろうと思われた。このままオーハへの上陸はできずとも、せめて荷と客を下ろす事さえできればあとはほとぼりが冷めるまで別の港を巡ればよいだろう。トンマーゾの説明によるとパウロンは船内で親しい者は少なかったらしく、彼と触れる機会のなかった者にだけ荷下ろしをさせるつもりだし客人が船乗りと親しい筈もない。荷下ろしを終えれば早々に出航するという条件と、愛想のよい懇願と相応の「関税」によってトンマーゾの願いはどうやら叶えられそうであった。オーハの組合にしたところで、強硬に商売を妨げることが彼らの益にならぬことは理解しているのだ。
彼らが建設的と信じている話を終えて「海のよろこび」号の船主が隔離された港の一角にある彼の船に戻ったところ、どうも甲板の様子が騒々しいことに気付く。トンマーゾの帰りが気になっていたのだろうとは思えたが、不吉な予感を覚えた商人は短い足で小走りになると彼の船へと駆け上った。甲板では船乗りたちが輪になって赤毛の客人を囲んでおり、輪の中心ではたいへんな剣幕をした娘が彼女の連れに抑えられている。トンマーゾは息を切らせたまま船長に声をかけた。
「ちょっと船長、一体何があったんですか」
「トンマーゾさん!いえね、あの娘がパウロンの看病をすると言い出して・・・」
船長の言葉に一瞬耳を疑ったトンマーゾは、驚きとも呆れともつかぬ顔をする。正気ですかと問いたいところであるが、船長の表情にもトンマーゾと同じ感想が映し出されていた。
話を聞いていた限りでは、突然倒れたというパウロンの様子は明らかに尋常なものではない。「海のよろこび」号の船乗りたちが彼を隔離するように船倉に押し込んだのは、酷薄ではあっても決して理不尽な判断ではないだろう。何しろ病は彼らに感染するものかもしれず、ここが港でなければとうに海に放り捨てていてもおかしくはないのだ。そうした事情がアニータに理解できなかった訳ではないが、汚物のように船倉に押し込まれて閉じ込められた男を見て彼女は耐えることができなくなった。だが赤毛の娘は耐えられない事実に泣くよりもむしろ怒り出したのである。
せめて男を看病してやるべきだという彼女の言葉は子供っぽい正義感でしかないが、アニータはそれを自分がやるから船倉に連れて行けと騒ぎ出したのだ。正気とは思えない申し出を、彼女が心の底から言っていることを理解しているのはフランコだけである。アニータは直情的な娘ではあったが、それは人が思うよりも遥かに強烈なものであった。
忠実な従者は知り合ったばかりのジプシー女に彼の主人を止めてくれるように目で合図すると、マリレーナもアニータがどういう人間であるか理解したのであろう、無鉄砲を通り越している娘を抑えようとしている。トンマーゾが戻ってきたのは皆がアニータを止めようとしている正にその時であり、「海のよろこび」号を養う者としては客人が自分の船で命を捨てようとしている事を認めることなどできる筈もなかった。彼は今にもかみつきそうな剣幕でいる赤毛の娘の前に立つと、聞き分けのない若い娘に、威厳を感じさせる落ちついた調子で諭しはじめる。
「お嬢さん、あまり皆を困らせてはいけませんな。先ほどオーハの組合では船や我々船乗りの上陸はできずとも、荷物と客人を下ろす事は認めて下さいました。貴女がたは無事にオーハに下りることができますし、船のことは船長や船主である私が決める事なのです。私はこれでも船主です。私どものために大切な客人に迷惑をかけるなんてとんでもない事だ」
「人が苦しんでるのに船主とか客とかくだらないこと言ってるんじゃないわよ!」
大人の言葉を並べ立てるトンマーゾに、アニータは叫び返す。甲板にいる誰もがトンマーゾの言葉が正しい事を理解していたが、だが彼らの耳からはアニータの言葉が離れない。或いはアニータではなく、彼女以外の誰もが間違えた考えを持っているだけかもしれないのだ。
甲板の喧噪が静かになり、アニータを囲んでいた輪がゆっくりと広がると小さく首を振ってから口を開いたのはマリレーナであった。あらゆる男の悦びとあらゆる女の悦びを知ると称されていた、魅惑的な女占い師はひとつ息をつくとやれやれという調子で話しはじめる。
「これでも祈祷師の心得はあるけどね、医者じゃないからどこまで手伝えるかは分からないよ」
「マリレーナ!?」
「上陸ができないのは船乗りと一部の客人だけ。荷物は下ろすことができるなら船主さんも大した損にはならないわねえ」
それがトンマーゾや「海のよろこび」号の者たちを抑える方便であることには、この場にいる誰もが気が付いた。そして彼らはマリレーナの方便に乗せられる事にしたのである。船倉に続く段を下りる、アニータとマリレーナにフランコが無言で従ったが、船乗りたちにも意外だったのはタムシンと呼ばれる娘もマリレーナの後に続いて船倉に消えた事である。誰も望んではいない最悪の結末だが、無謀な娘たちは変色した遺体とともに海に捨てられるだけかもしれないというのに。
甲板の下は方々から光が差し込んでいるとはいえ、薄暗く狭い中をアニータたちは船倉へと下りていく。「海のよろこび」号は巨大な船という訳ではなく二つ程も階段を下りれば壁で仕切られた船倉まではすぐであった。船倉は他の船室からは離されて倉庫となっており、パウロンが押し込められている場所は更に奥に設けられている、もとよりあまり真っ当な目的に使われてはいないだろう密室となっていた。木造りの扉は一見して壁と見分けがつかず、二重になっていて明かり窓の一つもない。壁にかけてあった角灯をフランコが無言で取り、屈み込むと慣れた所作で明かりを灯してから扉を開ける。部屋の中央に据えられている、固い寝台には一人の男が横たわっており、苦しそうに上げている呻き声がむしろ彼にまだ息があることを証明していた。フランコはいくつかの明かりを灯してから彼らの場所を空けるために荷物を動かし、アニータやマリレーナが男の横に座ると、時を置いてタムシンも部屋に入ってくる。
パウロンは一日前の陽気な面持ちが信じられぬ程、様態は悪く激しく震えながらねっとりとした多量の汗を流し、脇の下や肘の裏側の皮膚が黒青く変色している。マリレーナは抱えていた荷物を開けると湯を沸かして部屋を暖めるようにアニータに言い、男の上着を脱がせると布で汗を拭き取らせた。その間に小さな瓶や粉袋を並べ、薄い鉄の刃を火に当てて赤く熱する。祈祷師として多少の薬や病の知識があるというのは、嘘ではないが多分にはったりが混じっている。全員、仲良く海に捨てられる事になっても恨まないでよというのがマリレーナの正直な思いであった。
「まったく、変わった娘だね」
その変わった娘のために自らも省みず、見も知らぬ船乗りを助けようとしている。腹を据えるマリレーナだが、彼女の知識では病が血の中を流れているのであれば、煮立ててから冷ました水で身体を清めてから、煎じた薬を飲ませるか血に流し込むことで病を追い出す事ができる筈であった。汚れを抜いて薬を入れるのがジプシーに古くから伝わる手法である。
マリレーナは小さな鍋に彼女が普段持ち歩いている薬草を煮始めるが、薬を作るのであれば材料が足りないとも思う。町で手に入る程度の香草であっても、キャラバンと分かれ上陸もできぬ船の中では如何ともしがたいだろう。艶かしい額に汗の玉を浮かべていたマリレーナの前に、幾束かの草の根が差し出された。
「・・・野菜の根ですが、香草と同じ種です」
部屋に入る前に、タムシンが倉庫から持ってきたらしいそれは厨房で使われている材料のようであった。あんたは施術の心得があるのかい、と尋ねたマリレーナだが彼女の驚きはむしろタムシンが示した行為そのものにあったのかもしれない。タムシンは小さく頷くと、慣れた手で草の根をほぐし始める。アニータはパウロンの身体を丁寧に拭いた後は、マリレーナの邪魔にならないように控えていた。彼女は自分がこの場の助けになれない事を惜しんでいるに違いないが、この船乗りに本当に助けがもたらされるのであればそれは他でもない赤毛の娘のおかげである事をマリレーナも、そしてタムシンも知っているのだ。
娘たちの看護は一晩続き、臥せていたパウロンは熱した鉄の刃で傷を付けられると薬を塗り込まれる。そのまますさまじい熱を出すと流れる汗の量はますます酷くなり、身体を冷やさないためにアニータは指を赤くふやけさせながら布でたびたび拭いてやらねばならなかった。マリレーナの算段では正直、手は尽くしたが持たなければそれまでだろうと思っていたし、彼女の経験ではたぶん持たないだろうとも思う。長い夜が明けて、オーハの港に差し込んだ日は船倉の部屋には届かなかったが、熱が下がり息づかいも平穏になった男の様子にマリレーナはどうやら病状が峠を越えたらしいことを知った。
安堵の息をつき、ジプシーの女性は肩から力を抜くと見も知らぬ船乗りを救うために夜を明かした狭い部屋の中を見回す。赤毛の娘は寝台の傍らに座ったままで眠りの妖精がもたらす世界に身を委ねており、彼女の忠実な従者も壁際で身じろぎもせぬまま小さな眠りを貪っている。このような浪漫に欠ける場所で夜を明かしたのは久しぶりのことであったが、マリレーナは不快には思わなかった。厚手の敷布を手に取りアニータの肩に被せると、やはり一睡もせずにいたらしいタムシンを静かに促して部屋を出る。勇敢な娘を起こさないように、小さな声で話しかけた。
「あんたは助かるという確証があったのかい?」
「いえ。多分無理だろう、と。でも・・・」
タムシンが何を言おうとしたか、同じ思いを抱いていたマリレーナには分かるような気がした。あの娘はいい娘だね、と気のきいたジプシー女らしからぬ陳腐な感想を言うと、タムシンは彼女の前で初めて小さな笑顔を見せる。マリレーナが思っていた以上に、タムシンの笑顔はたまらなく愛しいものであった。
船の上ではトンマーゾたちが彼女の知らせを待ちわびているに違いない。良い知らせは早く教えるに限ると甲板に向かうマリレーナを、タムシンは呼び止めると不審そうな顔をしている彼女に向かって多少、言い難そうに切り出した。
「あの様子、あれは病ではありません。誰かが・・・」
「毒でも盛ったというのかい」
「たぶん、一月は前のことです。それを癒すことができる者を探すなら」
マリレーナはしなやかな手をゆっくりと伸ばしてタムシンを抱き寄せると、それ以上は何も言わせず不思議な色をした髪に手を乗せる。彼女に尋常ではない事情があることは分かっているが、そんなことよりも重要なのはタムシンがそれらを気にせず男を助けることを選んだということなのだ。マリレーナはタムシンの背を軽く叩くと、心の底から愛しげな顔を腕の中の娘に向ける。
「言い直さないといけないね。あんたたちは本当にいい娘だよ」
甲板に行くのは少し後でいいだろう。マリレーナの言葉に何かを感じたのか、俯くと小さく肩を振るわせて嗚咽の声をあげるタムシンをそのまま抱きながら、魅惑的なジプシー女は薄暗い船倉に差し込んでくる朝の光に眩しそうな目を凝らしていた。
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