3月〜大団円〜
不自然に天井が高い、その部屋には窓もなければ照明も薄暗く中央だけがぼんやりと明るくてそこが広いのか狭いのかさえ判然とはしません。殺風景で家具や装飾品の類はほとんど見ることができず、およそ無個性な世界に小さなテーブルをはさんでソファだけが置かれていました。ソファの一方にはすべての黒幕というよりも白幕が腰かけており、向かいに座っている女子生徒と密談をしていましたが二人ともシルエット姿でたぶん正体は分かりません。
「あなたもなかなかの悪デースね」
「私は悪ではなく教育者として中立であるべき存在なのだよ」
白幕らしき男は、封筒に入っている分厚い紙束を手渡された女子生徒からの言葉に穏やかな反駁の声を返します。贈るべき菓子は山吹色をしてはいませんが、彼女にはそれ以上の価値があるだろうと謎の白い男は力強く保証してみせました。
無秩序が勢力を誇っているこの世界に善と悪が存在するとして、中立とは天秤が左右のどちらにも振れすぎないように揺らし続ける使命を持っているのだと男は説明しましたが、それは世間的にはマッチポンプと呼ばれているのではないかと女子生徒は心中で首を傾げます。それでも彼女が受け取った中立の力とやらは手放すにはあまりに惜しく、世界を決定するその部屋で汚れた握手が交わされました。
私立バスキア学園高等学校。かつて多少の経済効果の損失には目をつぶりつつ、開催の中止を強行して数々の工事発注を取り消しておきながら知らぬ顔を決め込んだことで無駄な歳出の削減に成功したアオシマユキオーの記憶も今は古く、放棄された広大な荒れ地はミスター・ホワイトを名乗る一人の男に買い取られるとそこには巨大な学園都市が建てられていました。気がつけば強風で止まりやすいモノレールや、年に二回ほど腐臭であふれるリンカイ線なども開通して外界との交流も行われるようになり、モヒカンでヒャッハーな男から種モミを守り命を落としたミスミ爺さんの墓前にも穂が実ろうとしています。
「どうでしたか?学園での三年間は?」
時は過ぎて。卒業を間近にした生徒会室で、穏やかな様子で珈琲を囲っているのは四条此花(しじょう・このはな)と広野紫苑(ひろの・しおん)、そして彼女たちに珈琲を振る舞っている星裏香陽(ほしうら・こうひ)の三人でした。テーブルの傍らには自走式の身体を手に入れていた人工知能AIたち、ヤチヨとハルミの二体が互いに遊ぶようにぐるぐると回っています。
強くあれ。ちょっと奇妙に聞こえなくもないバスキア学園の校訓ですが、学生に向上心を期待することは決して奇妙ではありませんし例えば競技やスポーツの世界では珍しくもありません。より速くより高くより強くという言葉は陸上競技の代名詞であり、哲学の都たる古代ギリシアでも弱さは罪ではないが弱さに安住することは罪であると説かれています。
「でも強さはひとつではありませんね」
「日々の生活を続ける、ホビットの強さもありますよ」
此花と紫苑の言葉に香陽が涼やかに笑います。学園で唱えられている強さとは限定されたものではなく、人に誇り人を助けることができるすべてを指していました。それは力の強さかもしれなければ賢さであるかもしれず、人に平穏を与える日常もまた代え難い強さとなるでしょう。それを知っている者はどれほど荒唐無稽な災いが訪れても平然として人に穏やかさを与えることができる筈でした。香陽の顔に再び笑みが浮かびます。
「例えば雨が降るとしますよね」
部屋の中に唐突に雨が降りますが、さも当然のように此花と紫苑は傘をさすと香陽もテーブルの中央にあるパラソルを開き気にした風もなくお茶会が続けられました。あるいは雪が降るとします、その言葉に続いて今度はドリフのコントのように雪のような紙吹雪が横合いから吹きつけられますが三月兎の茶会は小揺るぎもしません。もちろんブリやハマチが降ったとしても日々の生活を続けていくことはできる筈でした。
びちびちっ。
身体の半分を紙吹雪に覆われた紫苑と此花が目くばせをすると、ヤチヨとハルミが心得たように生徒会室の裏に消えていきます。何か固いもので殴るような音がして、どさりという音が続くと周囲は再び静けさを取り戻しました。
「星裏さん。どなたの差し金か教えて頂けますね?」
にこやかに微笑んでいる此花の眼鏡の奥で、目はいささかも笑っていません。場面が変わるまでの間に、気まずそうな顔をしている香陽の平穏がほんの少しだけ失われるかもしれませんでした。
高校生活の三年間を過ぎても学園へと向かういつもの風景が大きく変わるという訳もなく、それはこの私立バスキア学園高等学校でも同じです。ナンジャさん(なんじゃさん)は入学からの三年間でずいぶん背も伸びて発育も進んで気がついたらグラマラスな印度美人になっていました。一日、WKC世界カバディ選手権試合優勝の肩書きをひっさげて実家に帰っていましたが最近は数学技術機械工学にも通じていて、人型汎用機械を製作している某町工房からお誘いが来ているという噂もなくはありません。
「でもできればうどん職人になりたいのだー」
「ナンジャ、うどん好きだもんね」
一見、発育が進んで成長したように見えても桐生先輩(きりゅうせんぱい)になついているのは相変わらずで、先輩のほうでも三年も慕われればすっかり馴染んでしまいそれが当たり前のようには思えています。新入生のときから先輩と呼ばれていた美和も三年生になればそう呼ばれても違和感がなく、すらりとして凛とした姿が下級生に人気があるのも相変わらずでした。親しげに二人並んでいる姿がセットで人気があるのはちょっと特殊な趣味が入っているかもしれません。
そんな仲むつまじっぽい二人の後ろから、ハーメルンの笛吹きのようにぞろぞろと動物たちが続いています。イヌやネコにカラスといった馴染みのある生き物がいると思えば牛や熊のような堂々とした獣、オオトカゲのような稀少動物まで連れているのはもちろん佐藤愛(さとう・あい)でした。
国際交流にも積極的なバスキア学園で、世界中の動物たちとお友達になる野望を抱いている彼女はナンジャさんが里帰りした際に強引についていくとカバのモモコさんを新しいペットに従えていましたが、問題があるとすれば幾つかの法律や条約に触れまくりそうな動物たちを連れて彼女がどうやって国境を越えているか、そしてナンジャさんの故郷は本当に印度なんだろうかということくらいでしょう。
「モモコがナンジャさんを気に入ってしかたないんですよ」
わりと入学した当時から、動物にばかり親しんできた彼女がナンジャさんに違和感なく接しているのは単に動物たちと同じように見ているのかもしれませんが、成長したナンジャさんはそれはそれでケモノでしたからやはり違和感はありません。タイプの異なる美人さん二人を連れている先輩はといえばいつか常識的でまっとうな生活を送りたいと考えていたものの、ある意味では彼女が一番波瀾万丈(notダイターン3)な人かもしれませんでした。
「だが実のところ彼女はもうあきらめているのであった」
「そんなことはありません!」
どこからか囁かれた白いナレーションを否定するついでに、手近にあった電柱をひっこぬいて殴りつけておくとキュウという音をさせてすぐに動かなくなりました。いつか平穏な日常に帰るために、先輩の無駄な努力は続きます。
通学する生徒たちが通りすぎていく、頭上でいつものように掲揚台に並ぶ三本ポールの突端に爪先立っているのはもちろん服足半蔵(はったり・はんぞう)でした。腕は胸よりも少し高く組んで、正面ではなくわずかに斜を向きながらマフラーを風にたなびかせる姿はメキシコのルチャドールでなければ伝統の忍者にふさわしいものでしたが忍者としてはもちろん、バスキア学園の生徒としてもこの三年間で特にすぐれた戦績もとい成績を残しているのは彼だったでしょう。
学園の歴史でもただ二人しか成しえたことがない、悪の校長ミスター・ホワイトに勝てぬまでも引き分けた実績を持ちちょっと忍者入ってますが弱きを助ける好青年で、覆面に隠れた素顔もナイスガイとあれば女子生徒にも密かなファンが多く、あれで忍者でなければねという声が大勢を占めていますが一方で忍者でなければ服足半蔵ではないのです(断言)。
「ぬう」
あるいはロケットが月に行くこの時代に忍者なんてと思う人も多いかもしれませんが、鉄と鋼の時代を経て情報の時代に突入した今だからこそ彼らのような存在は重要であり、世界的にはCIAやKGBのようにIGS伊賀の里が知られているという事実があれば面白いな(願望)。
卒業すれば半蔵はIGSの一員として第一線の諜報部員として生きていくことになるに違いなく、学園の皆と会う機会は減るでしょうしあったとしても自分が忍者であるという事実は伏せなければなりません。窮屈な背広を着て「拙者はもう落ちついたでござるよ」なんて言う人が決まって裏の世界にもう一つの顔を持っているという事実を大抵の人は知らないものでした。忍者とは読んで字のごとく忍ぶ者でなければならず、伊賀の里でも居酒屋で上司に酒をすすめられたときの練習や接待ゴルフで勝ちすぎない練習、お姉ちゃんの店で騒ぎすぎない練習をしなければならないのでしょう。
「まったく忍者いうのも大変じゃね」
「うぬう」
もう一本のポールの突端で、半蔵と同じく爪先立ちながら垂らしたスカーフと長めのスカートの裾をなびかせていたのは春野千代(はるの・ちよ)でした。一年生の年度末に学園に転入した彼女はその後ごく普通のいち生徒を装って暮らしていましたが、広島任侠の娘である彼女は影の大番長として普段は「愛と誠」の高原由起のようにツルゲーネフの初恋を読みながら人知れず学園を見守っています。
人知れず見守るために忍者を見習ったことが正しかったのかどうかは彼女自身にも分かりませんが、セーラー服姿で校庭の楡の木にもたれかかって本を広げるのはちょっと照れくさかったのでじゃあポールの突端はいいのかよという指摘はするものではありません。乙女心は複雑でござるなと、半蔵は思いましたがそれを口にすることはありませんでした。
私立バスキア学園も日本の高校であるには違いなく、卒業を前にして進学組や就職組、戦いの旅に出る組といった進路が分かれていく事情は余所の学校とさして変わるところはありません。雪が溶けて川になって流れていく季節になり、もうすぐ春ですねと花びらが舞って綿毛が飛ぶようになれば渡り鳥の足もしぜんと地面を離れていくものでした。
卒業と同時に幕を開けるであろう、彼らの果てなき戦いを前にして寒空に発とうとする渡り鳥たちは同じ時を同じ場所で過ごした強敵(とも)たちと視線を交わしています。それは終わりではなく常に始まりであることを知っている者たちによる交歓の儀式でした。
「牧男の旦那、それに吹雪の旦那。あっしは旅に出やすぜ」
今度こそ日本一の床屋になるために、カミソリ斬七朗(かみそり・ざんしちろう)は彼が踏み出すべき荒野に思いを馳せています。殺しのコック伊魔平、バーテンの左京次、釣り師十兵衛、そして日本一のあの男が再び彼の挑戦を待っており、職人としての技を極めるべく今も鍛錬を続けている筈でした。
いずれ斬七朗が旅に出れば彼らの戦いはひとまずお預けとなり、時を経てデカくなった男たちは再び戦いの荒野に互いの姿を見るのでしょう。龍波吹雪(たつなみ・ふぶき)もまた未来への展望を抱いている若き獅子であり、風に向かってたてがみをなびかせているに違いないのです。
「俺・・・この戦いが終わったら・・・探偵になるんだ」
二年前、平穏な学園生活を送っていた吹雪の前に突然現れた謎の男。親友たる新庄ジュンペイの名をかたり、その後も吹雪を執拗に狙う怪人めりこみ男との戦いは今も続いており、生涯のライバルとなるであろう彼を倒すために既にメガドンキホーテ上水戸店で探偵グッズ一式も購入していました。そして探偵といえば彼にとっては破嵐万丈でダイターン3だったのです。
涙はない 涙はない 明日にほほえみあるだけ
カムヒア ダイターン3 ダイターン3
日輪のかがやきを 胸に秘め
俺のからだが 俺のからだが 燃えている
戦え 戦え 宇宙の果てに消えるとも
かがやく銀河をかけめぐる ダイターン3 我とあり
はばたけ大空へ 大地をけって
悲しくない 悲しくない 明日に希望があるだけ
カムヒア ダイターン3 ダイターン3
日輪のかがやきを 背に受けて
俺のからだの 俺のからだの 血がさわぐ
撃てよ 砕けよ 地獄の底に落ちるとも
かがやく銀河をつきぬけて ダイターン3 我とあり
はばたけ大空へ 愛を抱いて
エエエエエエエエエエエエー。おもむろに握りしめていたマイクに向けて歌い上げる声が荒野を吹き抜けていきます。未来とは希望と同義である、防府と野望に溢れている戦友たちの姿をまぶしげに見やりながら藤野牧男(ふじの・まきお)もまた彼が目指すべき日本のサンライズへと思いを馳せていました。
一年次に辛酸を舐めたミス・バスキアコンテストでその翌年および翌々年と二連覇を果たしていた今帰仁シュリ(なきじん・しゅり)はその後も全生徒の注目の的として、生徒会長としての活躍を期待されていましたが慎ましやかな彼女は会長選挙への立候補を辞退しながらも皆に慕われて誰からも頼られる存在であることは変わりませんでした。
毎年お年玉つき年賀ハガキでは選べる地域の特産品・有名ブランド食品が当たりまくってしまうことはもちろん40V型液晶テレビジョンも当然のように手に入れてしまい、気まぐれで購入した年末ジャンボ宝くじでは控えめに前後賞を引き当ててしまうというポコロコなみの強運に恵まれ、卒業を前にしてセクチー&ばっつんばっつんボディにも磨きがかかってお化粧なんかはしなくてもアナタはワタシにもう夢中、見渡すかぎり氷づけになったアランシア全土が玉座にある彼女の足下にひれ伏しているという雪の魔女シャリーラばりの栄光を手に入れてあとは何があるだろうか・・・
「あのー、すみません。教えちゃいました」
がらがらと扉が開く音がすると、閉ざされていた部屋に光が差し込んで床面に長く伸びた影の根元には此花や紫苑らを連れた香陽が気まずそうに立っていました。あばかれた部屋の中央には古くさいマッキントッシュ・クラシックとひと束の紙を乗せた机が一つあるきりで、ひじ掛けのついた背もたれの高い革張りの椅子には一人の女生徒が座っています。大儀そうにくるりと振り向く、彼女はもちろん今帰仁シュリその人でした。
「おやおや、世界を支配する者の部屋に何か用デースかね」
「ここは・・・?」
いつも偉そうな彼女がいつもよりも更に偉そうに見えることを此花は別に不思議には思いませんでしたが、香陽に案内させた部屋の中央でシュリが手にしているひと束の原稿用紙を見てすべての事情を理解します。最初の3頁ほどが埋められただけでその後はまったくの白紙となっている、それは私立バスキア学園最終回の原稿でした。
もともと全十二回の予定とされていた私立バスキア学園のシナリオで、学園の支配者たる謎の校長ミスター・ホワイトの直接対決は前回第十一回に行われています。そしてその対校長戦の前振りが第十回に行われていたということは、最初から最終回たる第十二回のラスボスをミスター・ホワイト自身にするつもりがなかったということに他なりません。
ではどうするか。白い悪魔が考えていたのは第一回から参加して頂いたけれどその後不参加になったキャラクターを無断で拝借してしまおうという荒技だったのです。そして白羽の矢が立てられたのはこの学園で最も野心があると校長自ら認める一人の女子生徒でした。
こうして謎の校長に呼び出された彼女はひと束の原稿用紙を手渡されていましたが、この紙切れに書いたことがすべて実現するとあれば彼女は世界を手に入れたにも等しいことに気がつきます。ためしに「ミスター・ホワイトは学園の金を使い込んだ挙げ句に放逐されていたが、後任の美しく賢い女校長シュリの温情で用務員として雇われると今では彼女の忠実な下僕として主人の支配権を確立すべく暗躍している」と書いてみれば彼女は今や学園の支配者だったのです。
そんな新校長シュリの校訓もやはり「強くデス」でしたが別にこの世界で強いのは彼女一人でも一向に構いません。とりあえず高校三年間の終わりを前にして、生徒たちは新校長にひざまづいて忠誠を誓うことを卒業の条件にしようというなかなかの暴君ぶりを発揮すると高札に掲げてみせます。スイスに留学していた頃は授業が嫌いでろくに出席していなかったというバカボン風某国支配者ぶりはともかく、こうなれば彼女の横暴を止めるには彼女を倒すしかありません。最後の試練を前にして集まってきた学生たちを前に下々の者を見下ろす新校長は力強く宣言してみせました。
「今からここは私立ヌーベルバスキア学園と名前を変えるデス。そして皆さんを支配する新しい校長の名はホワイトノワールこと今帰仁シュリ様、よく覚えておくのデースね」
もはや白だか黒だかよく分かりませんが、新校長の周囲には彼女を守るべく忠誠を誓ったことにされた生徒たちも集まってきていました。最終回だから後日談だけ書いて大団円というのも楽ですが、やはり戦いがなければバスキア学園、もといヌーベルバスキア学園とは言えないでしょう。
「では先陣は俺様が切らせてもらおう」
そう言って校長サイドから一歩を踏み出したのはかつてミスター・バスキアと呼ばれた男、藤野牧男(ふじの・まきお)です。愛馬キタ%ンフドーにまたがり、カウボーイスタイルを荒野にさらして、横合いから吹き上げる風がテンガロンハットをはためかせますがここは部屋の中の筈だろうという指摘は荒野を生きる男にとって些細なことでしかありません。
一度は学園の頂点に到達しながら三年間を栄光の座に安住していた怠惰の王は、己の自惚れに気がつくと高校生活最後の冬休みを利用して彼の原点たる北海道函館市でばんえい競馬を観戦して毛ガニをたらふく食べたことで目が覚めます。男の志がバスキアいちで終わってはいけない、俺様が目指すならばやはり日本一だと語る牧男の言葉に男たちが反応しました。
「日本一と言われてあっしが黙ってはいられやせんぜ」
「俺たちの宿命(さだめ)は戦いの宿命。そうだろう、なあ?」
男の野心に応えて一歩を踏み出したのはもちろん斬七朗と吹雪の二人。日本一を志す彼らが新しい戦いに出る前に、男のランキングを決めるべく対峙します。まずはOK牧場の決闘よろしく牧男と吹雪の二人が向かい合い、カウボーイの牧男は広げた両腕をだらりと自然に垂らし、カラテマンの吹雪は腰を深く落として拳に力を込めた姿で構えます。もちろん両者の等距離に立つ斬七朗が立会人でした。
じり、じりと姿勢を変えないまま少しずつ距離を詰めていく両者に否が応にも周囲に緊張感があふれます。あと三歩、あと二歩、あと一歩。聞こえる筈のない、生唾を呑む音が聞こえたかと思えた次の瞬間、三年間をカラテとそれ以外のものに費やしてきた吹雪の拳が先んじて突き出されました。怒りの小必殺技、漢の中必殺技、魂の大必殺技、超必殺の超必殺技。それは固く握られたグーという拳でした。瞬間、牧男が差し出そうとしているチョキを見て吹雪は勝利を確信します。
「俺の、勝ちだな」
ハサミで石は切れない、ですが勝利を確信した瞬間そいつはすでに負けているとは、かつて牧男が前校長に教わった勝利の哲学でもあったのです。えいという感じで無造作に伸ばされたチョキがTAKAみちのくばりのサミングを食らわせると気の毒な吹雪はウゥと漏らしてからどさりと倒れました。
勝てば官軍というホワイト流じゃんけんを制した牧男は男と男の勝負を見届けていたもう一人の男、斬七朗へと視線を移します。かつて校長を相手にこの方式で敗れている彼に、その校長流を身につけた牧男が挑発するように手のひらをくいと動かしました。
「さてここでクイズです。かつて校長に敗れた貴様と校長に匹敵した俺様、勝つのはどちらでしょうか」
「答えはCMの後に明らかになりやすぜ」
二人のアップに続いて唐突に画面が切り替わると、従業員服姿でやたら素人くさいエスプリガールズたちが衣類を振りながら伴奏に合わせて「エスプリ、エスプリ」と歌うコマーシャルが流れます。よりにもよって東葛地区限定のクリーニング店のCMかよと思わなくもありませんが、再び画面が戻ると男たちの対決は今まさに始まろうとしていました。
(c)cleaning esprit
牧男は右、斬七朗は左に構えます。向かい合って立つ両者の間を一陣の風が吹き抜けると、先ほどに続いて荒野の決斗勝負にふさわしい緊張感が男たちのうなじのあたりをぴりぴりと刺激していました。
両足は肩幅に開き、最高の速度で抜いた手を放てるように力みを抜いてだらりと伸ばした腕は両脇を少し開いて構えられている。床屋と馬券師、二人の姿は奇しくも両手撃ちのガンマンが構えるそれに酷似しており極められた技が同じ山の頂きに到達するという事実を証明しているようにも見えました。
吹きすさぶ風に転がっていく根なし草。校長がカウボーイに変われども斬七朗にとってはかつてと同じ場面にかつてと同じシチュエーション、ですが屈辱の辛酸を舐めさせられたかつてと同じ戦いを再現させる訳にはいきません。日本一を目指す男にとって、山は越えるためにこそあるのです。
かけ声とともに振り下ろされた一手。斬七朗の拳は固く握られていますが牧男の右手はまだ出されておらず、ゆっくりと見極めてからとても憎たらしい顔つきになるとおもむろにパーを出しました。悪びれる様子など微塵もなく、これほど堂々と後出しをしてくるとはさすがホワイト流免許皆伝の使い手ですが斬七朗にも狼狽した素振りはありません。
日本で二番目の床屋が握りしめているのは自分の拳だけではなく彼が愛用する剃刀「耳なし」であり、うっかり耳を落とされても気づかぬほどの心地よさと呼ばれる斬七朗の技でした。次の瞬間、ばさりという音がしてあんなところまで剃られてしまった牧男がどさりと膝から崩れ落ちます。
かつて校長流の後出しで負けていた斬七朗は、究極のサービスとは相手が望むものを相手が要求すらしていない先に提供することであることを学んでいました。勝利は時として勝者に何も与えませんが、敗北は時として敗者に教訓を与える。斬七朗が牧男を髪の毛三本の差で上回ることができたとすれば、それはまさしく牧男が校長と引き分けながら、斬七朗は校長に敗北を喫していたその差だったのでしょう。職人が客に唱える感謝の言葉、それは戦いと成長を与えてくれた試練に対する心からの礼節なのです。
「旦那・・・またお越しくだせえ」
先陣を切った最初の戦士が敗れたことに、シュリは彼女らしく身勝手な舌打ちをするとシュターデン提督敗戦の報を聞いたブラウンシュバイク公のように無情にも敗者をこきおろしています。役に立たぬ奴、と断じてから次の戦士として控えている香陽をちらりと見やると、ふと不安に駆られた女王は椅子のひじ掛けについていた受話器を持ち上げるともしもしとどこかにコールしました。
最初の戦いにして最大の戦い。それは新校長シュリの威信を示す大切な儀式であり、勝利は確実に手に入れられなければならずヌーベルバスキア学園の支配者にして大将軍にして丞相である諸葛亮孔明としては打てるだけの手を打つべきだったでしょう。戦場の玉座は安楽椅子ではなく、無為な時間を過ごして下々に余裕を与える訳にはいきませんが、それは反旗と蟷螂の斧をかざす戦士たちにも同じことでした。
「それでは。兵は神速を尊ぶことにしましょう」
「なのだー!」
策士に策で対抗すべく、此花の言葉にナンジャさんがカバディ流高速タックルで飛ぶと香陽が逃げる暇も与えずに組みつくというよりも押し倒してしまいます。そして成熟した印度美人になっても彼女のメンタルは子猫でしたが彼女のボディは野生のトラでした。
はらり。一輪の花がたおられてしまうと奇襲に成功したトラがジャニーズ系いい男をぺろりと平らげてしまいますが、此花らしからぬ非情の理由は女校長がかけていた電話の先にありました。たとえばポートピア連続殺人事件であれば取り調べ室の出前に何でも好きな単語を入力できたように、おそるべき助っ人が彼女たちの前に現れようとしている。機先を制された筈のシュリの表情からは未だ余裕の笑みが消えていません。
「これからもっと楽しい食事の時間になるのデース」
ぱちんと指を鳴らして、準備はできたとばかり解き放たれたのはもちろん新庄ジュンペイ(しんじょう・ずんぺい)です。唐突に天井ががぱりと開くと危なァーいッ!上から襲ってくるゥ!とばかり頭上から落ちてくる、これまで幾つもの姿を見せた中でも総じて破壊力が大きかった魚系新庄ジュンペイが到達したひとつの姿、それは金魚の中でも特にインパクトが強いとされるスイホウガンでした。
哀れな犠牲者ごと、荒れ狂う怪魚の餌食になったとしても剛胆な女校長は毛先ほどの動揺すら見せることはありません。科学では未だ説明できずにいる、人類の英知を超える生きた暴風に対して理性と常識はあまりに無力でした。
暴風の巻き添えをくった此花は床に伏しながらも、残されているわずかな知性と理性で最後の切り札に手をかけます。禁忌に対抗すべく禁忌に手をつける、ですが皆を救うには他に方法がありません。
「ヤチヨ、論理回路(ゲート)起動・・・」
あらかじめ人工知能に登録されていた、複雑な儀式が読み出されると何もなかった筈の地面に六芒星が描かれて溢れ出る光が強さを増していきます。召喚されて光の中央に現れる姿、流れすぎていく呪文はもちろん美と愛の詩人が囁く旋律でした。
恋人のリボンや胸飾りをむりやりにもらおうとして
恋人にしかられながらも君たちはやっと手にいれる
どうしてもそうするより仕方がなかったんだよね?
君たちの気休めは認めるよ
ヴェールにマフラー靴下どめそれに指環
どれひとつとしてつまらないものはない
だがこのぼくは!それだけでは足りないのだ
ぼくが恋人にもらったのは生きたからだの一部分
彼女も少しは嫌がったけれど
貴く見えた品々もあんながらくたと笑いたくなる
恋人はぼくに髪の毛をくれたのだ
美しい顔をひきたてる 彼女の髪の毛を
恋人よ!たといぼくがあなたを失っても
ぼくがあなたを手放すわけではない
あなたの聖らかな形見が残っている
ぼくは眺め 手にとり そしてそれに キスをする
この髪の毛とぼくの運命は同じものだ
かつてこの髪の毛もぼくも同じく喜んで
あなたを求めた あなたは去ったけれど
髪よ!かつてはぼくといっしょに彼女に寄り添い
あの頬を撫で 甘い欲望に誘われて豊満な胸にすべった
おお!嫉妬を知らないぼくの恋敵よ
おまえはなんとすばらしい贈り物か
なんという美しい獲物か
ぼくの幸福とよろこびを 思い出させてくれ・・・
恍惚の光に包まれて、開かれた美時空から姿を現した薔薇小路綺羅(ばらこうじ・きら)はびちびちと水をしたたらせながら跳ねているスイホウガンに対峙すると、無数の立ち鏡をおもむろに並べてそのひとつに彼の美しい姿を映します。
「これがもう一人のぼく」
それを眺めているだけで彼はすでにイッていますが、三年もの間を鏡よ鏡よ鏡さぁんと見つめ続けていた美の追求者は彼が到達した世界を披露するかのように、何枚もの立ち鏡をがらがらと引いてくると向かい合わせにしてぐるりと囲いました。
「これも美しいぼくの姿」
「鏡の奥にいるぼくたち」
「立ち並ぶぼくの美しさ」
「美しいぼくが集う世界」
屹立する美神の柱に映し出されているのは薔薇小路綺羅だけであり、美しくないものが存在する余地は世界のどこにもありません。鏡の中で一人一人が囁いている美と愛の呪文が彼のくちびるから紡ぎ出されていますが、くちびるという単語だけで既に彼のグラスに満たされている血とミルクの色をした液体は溢れ出んばかりになっていました。
あとたったひとしずくの美が落ちれば立ち並ぶ綺羅たちが洪水となって方舟に乗る人々を翻弄してしまうでしょう。既に悪魔召喚プログラムの負荷に耐えかねていたヤチヨのモニターにはERRORの文字が次々と表示されていましたが、あと少しだけ我慢してと此花は最後のコマンド・ワードを入力します。
「あなたの・・・%#$&・・・」
残された最後の精神を削る数語を入力した此花もばたりと倒れると、地下水脈から溢れ出た薔薇小路綺羅が世界を隅々まで満たします。ごぷりと音がして波がうねり、やがて水がひくと美の残滓だけが残されている砂浜に漂着者たちが打ち上げられていました。人智を超えた存在、人が手を触れてはいけぬ領域が世界には存在しますがそこに触れたときに人は進化することができるのかもしれません。
秘密兵器が敗れたことで本来なら狼狽してもおかしくはない状況で、世界を統べる王は未だ玉座から腰を浮かせてもおらず反攻の槍が届くまでの道は下々が考えるよりも遥かに遠く険しい障壁に阻まれていました。既に幾人かが倒れている生徒たちにあと何枚の札が残されているか、彼女は悠然と構えながら無駄なあがきを眺めていれば良いのです。
「その余裕、気に入らんね」
木刀を肩に一歩を踏み出した千代は彼女自身が広島任侠の後を継ぐ娘だからこそ、胡座をかいて偉そうにふんぞり返っているような輩が嫌いでしたがシュリが偉そうにふんぞり返っているのは彼女が校長だからではなく単に彼女が今帰仁シュリだからです。
任侠娘を助けるべく桐生先輩も前に出ますが、さすがに女子高生がいつまでも電柱を持ち歩いている筈もありません。肩に下げていた袋から竹刀を取り出しますが、どうもしっくりこないと首を傾げていると周囲をもう一度見渡して、たまたま近くにいたボストロールがやはりこれだろうとちょいちょいと差し出したこん棒を手にしました。何しろふつうの女の子は剣道部でもないのに竹刀を持ち歩いたりはしませんから、手近にある得物をしかたなく手にするしかないのです。
一人は木刀、一人はこん棒を持つ娘たちを前にして女校長が彼女の盾となる戦士を選ぶと姿勢正しく、一見して物静かな老紳士が姿を現します。高校生活の三年間を経て齢七十歳に達した紳士の名は信濃宗一朗(しなの・そういちろう)、あやしがいつものように思いつきでただ一度だけ投入するとその後いつものようにフェードアウトした人物でした。
「お久しいですな。涼子お嬢様のご学友の方々でしたか」
涼子って誰よと問い返そうとする千代を慌てて先輩が遮ります。還暦をとうに過ぎて私立バスキア学園に入学した、紛れもない彼女たちの同級生ですが半世紀を執事としての生涯に捧げた彼の忠節は常人に理解できるものではありません。
「私もこの歳で初めて学友を持つに到りましたが、旦那様とお嬢様への思いは僅かとて薄れたことはありませんぞ。ことに涼子お嬢様は私より四つ年下の御子でありながら聡明で気品があり礼節を弁えた日本婦女子の鑑とも言うべきお方。私のような側仕えの者にも優しくお声がけを頂きこの宗一朗、お嬢様のためなら我が身を粉にすることすら厭いませんでした。あれは忘れもせぬ桜の一日、花びらが舞う卒業の辞でお嬢様はたいへんに清爽として凛々しく、頬を伝う涙にこの宗一朗も視界を濡らしたものです。その涼子お嬢様のご学友を娘子ごときが騙るとはなんと不届き千万な!」
不条理にも突然怒り出した宗一朗は、固い木のステッキを握ると敬愛する涼子お嬢様を侮辱した娘たちに正義の鉄槌を打ち据えます。壊れているくせに確かな一撃を先輩のこん棒はかろうじて弾きますが、機先を制された(そりゃそうだろう)千代は木刀を落とされてしたたかな折檻を食らわざるをえません。
この不届き者め、不届き者めと焦点の合わない目で殴りかかる老紳士に防戦一方になる千代をかばうように先輩が割り込みますが、涼子お嬢様を侮辱した輩をかばおうとする者をたとえ見知らぬ娘であれ宗一朗が許す筈はないのです。
「お嬢様!宗一朗はやりますぞお!」
口角に泡を浮かべながらステッキを振るう、七十歳の老人とは思えぬ危険な膂力が襲いかかり先輩も後ろをかばいながら身を守る以上のことができません。荒れ狂う老人はおさまる気配もなく、あるいはこれが急におさまるととても良くない事態が起きそうで先輩も千代も色々な意味で生きた心地がしませんでした。
「宗一朗、お茶が冷めても良いのですか?」
唐突な、落ちついた娘の言葉に老紳士の腕が止まります。和服姿で、茶器を乗せた盆を持っている声の主は涼子お嬢様ではなく広野紫苑でしたが宗一朗のにごった目には確かに五十年前の情景が映っているようでした。上下左右に震える手で椀を取り、半ば以上こぼしながらも流し込むとお嬢様、お嬢様と繰り返しながら少しずつ歯車が噛み合っていく老紳士の様子に紫苑も安堵した息を漏らします。
人に平穏を与える強さ、それもまた私立ヌーベルバスキア学園が掲げる強さであることを彼女は知っていましたが、あるいは数十年前の涼子お嬢様は本当に彼女のような人だったのかもしれません。少しだけ悪戯っぽく、片目を閉じてみせる紫苑に先輩も千代も感服してみせました。
「これでもミス・バスキアですから」
ミスター・バスキアと呼ばれた男、呼吸するバイオ・ウエポン、そして還暦高校生。彼女が自信を持って送り込んだ戦士たちが執拗な抵抗の末に沈められていたとしても、ヌーベルバスキア学園の支配者はわずらわしさこそあれ痛痒など感じてはいません。いわば彼女は生物界の頂点に達した存在であり、下等生物と同じ場所に立つ必要はいささかもなく下賎の輩の始末などタルカスと黒騎士ブラフォードに任せておけばよいのです。
「そこでいよいよアナタたちの出番デースね」
「ま、いいけどさ」
「任されたでござるー!」
女校長にうながされてラケットを担いだのは藤原マヤ(ふじわら・まや)であり、丈の短い忍者装束で屈伸を繰り返しているのは葵若葉(あおい・わかば)です。彼女たちに対するのは服足半蔵しかあり得ず、佐藤愛と彼女のかわいいペットたちもわんわんがうがうきいきいうじゅるうじゅると楽しそうに哭き声を上げながらたわむれていました。決意の表情も固く、半歩を踏み出した半蔵は二人の娘が女校長の意思に関係なく彼に挑もうとしていることを知っています。肩越しに振り向こうとした忍者の背に、にこやかな愛の言葉が届きました。
「ご自分で戦いたいんですよね?結構ですよ」
「かたじけないでござる」
錬磨された技と積み重ねられた思いは堂々と迎えるべきものであり、受けて立たねば非礼に値するでしょう。それを理解している愛も彼らの邪魔にならないように、ペットたちを連れて数歩下がると抱き上げた猫のおなかを必要以上にさすっています。
半蔵の決意に若葉とマヤに否やがある筈はなく、それまで念入りに準備運動を繰り返していた忍者娘が用意は万全とばかり前に出ます。手甲のひもをくわえて引き締めている、それが癖ともいえない彼女の癖であることを半蔵は知っていました。
「まずは若葉が相手でござるな」
言いながら、半蔵は伊賀の里から私立ヌーベルバスキア学園に入学してきた妹分の三年間を思います。実のところ、郷里では落ちこぼれであり学園でも優等生とはとても呼べなかった彼女が、七転八倒しながらも彼の背を追ってきた理由に気がつかないほど半蔵は鈍感ではありません。だからこそ彼は安易にそれを受け入れるのではなく、高い目標となるために一時たりとも精進を怠ることがありませんでした。
一見して自然に立ちながら隙がない、若葉の所作に半蔵は彼女の成長を見てとります。オーガの背を追う範馬刃牙のように若葉が目標としているのは半蔵ただ一人であり、もしも彼が学園で一番弱い男であれば彼女は二番目に弱い存在でも構いません。ですが届くことがない限りいつまでも彼女は「半蔵兄様の妹分」でしかいることができず、それを彼女も、そして半蔵も望んではいませんでした。
「参るでござるよ!半蔵様!」
あえて名前を呼ぶと同時に全身の力みを抜いた若葉が弛緩させた筋肉を解放し、筋繊維が液体を通りすぎて気体になったと思うほどの脱力から一気に超加速へと転じます。高速移動による空気との摩擦が放電現象すら引き起こす、その技は正しく半蔵が到達した超電磁の世界への入門でした。
「うぬ!」
若葉の突進を避けることもかわすこともなく、正面で構える半蔵もまた両足を肩幅に開くとその構えのままで超電磁神風の技を発動します。その場を動かずに高速のすり足による地面との摩擦で放電、上昇気流を巻き起こす超電磁の竜巻が壁となって突入する若葉に立ちはだかると互いに激突して空気を焼くオゾンのにおいが広がりました。
火花を伴う放電が走り、震えていた空気がやがて鎮まると部屋の中央には力を出しつくした若葉とそれを受けてみせた半蔵が二人とも足を地につけて立っています。わずかに前のめりになった忍者娘の身体が崩れるように傾ぎますが、小さな両肩を力強い手のひらが支えました。
「まだまだ、あと一歩でござったな」
「兄様・・・」
顔を上に向けて、若葉は彼女が追いかけている人を見上げます。追い続ける限り半蔵はいつでも若葉を待ち続け、いつかその胸に届くまで彼女も技を磨き続けるに違いありません。道は長く先は遠いかもしれませんが、足の速さであれば若葉には自信がありました。
時がしばらく行きすぎるのを待ってから、重いラケットをひと振りして風を切る音が響きます。時間を置いたのは若葉に気を使ったためかもしれませんが、ムナカタ流庭球術、居合いの技を彼女が追求した理由もまた若葉と同じく半蔵に挑むためであったことは疑いありません。ただそれが若葉と同じ感情によるものであったのか、あるいは強敵(とも)に挑む心情であったのかは彼女自身にも分かりませんでした。ひとつ確実だったのは、力を振るうにふさわしい相手と向かい合ったとき、彼女は魂まで高揚することができたという事実です。
「さて、次はこっちの番だね」
ずしりと手に伝わってくるラケットの重さが、高校生活の三年間を庭球に捧げてきた彼女の力を支えています。寸分の狂いもない、完成されたフォームから抜き放たれる居合いの技は既に達人(マスタークラス)の域に届こうとしておりレーザーやビーム兵器では出すことができない、打ち込まれるサービスの威力は弾丸どころか小型のミサイルにも匹敵しました。
若葉と対峙するとは異なる意味で、半蔵は彼女を正面から受け止めねばならず、手加減はもちろんわずかな躊躇も許されません。半蔵の最高速度はおそらくマヤのそれを凌駕しますが、初速は及ぶべくもなくそれは距離を置けば迎撃される余裕を生み、間合いを詰めれば彼女の速さに対抗できなくなるジレンマをはらんでいました。
「拙者の最高の技で挑ませてもらおう」
「当然。でなきゃ半蔵クンに勝ち目はないよ」
得意のバックハンドで、間合いを測られないようにラケットを背後に構えているマヤを相手に半蔵はあくまで自然体のままじりじりと距離を近づけていきます。それはつい先ほど若葉が見せた動きに酷似していながら、より完成されていることを背後で見守る若葉自身が気づいていました。加速を超えた加速であるからこそ超加速と呼びますが、いかにして速度ゼロの状態から一瞬で最高速に達するかに超電磁神風の極意が隠されています。
距離が縮まり、あるいは離れながら対峙する両者の姿を固唾をのんで見守っている中で、半蔵の身体が少しずつ帯電していることに若葉は気がつきます。伊賀の里に生まれ育った彼女にとって室町以前から忍者装束がウール100%の表地にポリエステル100%の裏地で織られていることは常識ですが、帯電して生体磁石と化した肉体を右ねじの法則で回転させた電磁界に誘導することで超加速を得る、それが服足半蔵オリジナル・回転超電磁神風でした。
「参るッ!」
肉体が空気の壁を突き破って音速を超えたときに生じる、がつんという音を残してマッハの衝撃が飛ぶと同時に、迎撃に抜き放たれたラケットが光の軌跡を描きます。音速を超える交叉を認識できた者がどの程度いたか、次の瞬間には振り切られたラケットを構えているマヤと、その背後へと突き抜けた半蔵が互いに立っているだけでした。
一陣の風が吹き抜けて、マヤが口元をほころばせると背中合わせに立つ半蔵がゆっくりと片ひざを地面に落とします。堂々たる技と技がぶつかり合った勝負の結末に納得した少女が視線を下ろすと、そこにはガットの中央を大きく破られたラケットがありました。
「あーあ。悔しいけど、かなわなかったな」
その言葉にどのような思いが込められていたか、おそらくマヤ自身にもはっきりとは分からなかったでしょう。それでも彼女は諦めるつもりはありませんでしたが、今は素直に敗北を受け入れると大きくのびをして肺いっぱいの空気を吸い込みました。ほんの少しだけ涙腺がゆるんだとしても、それはきっと欠伸をしたために違いありません。
例えるならすべての壕を埋められてすべての門が破られてあとは本丸を残すのみになったとしても、私立ヌーベルバスキア学園を統べるシュリの牙城は未だ難攻不落を誇っています。そもそも攻められるのが初めてなら不落も当然ですが、眼下に押し寄せる足軽どもが掲げている槍の林を見てこうなれば彼女自身が下々の者を蹴散らすために重い腰を上げなければいけないでしょう。
ほんのちょっぴり面倒ではありますが、これも食前の余興だと思えば暇つぶしにはなる筈です。学園を統べる女校長にしてダイナマイトナースと称する彼女は、たとえばナンジャさんのような獣の肉体よりもむしろ彼女の存在自体が核融合物質を包み込んだダイナマイトでした。そのダイナマイトが世界を支配する椅子から大儀そうにゆっくりと立ち上がると、王者らしく見下ろす視線のまま片手を伸ばします。
「それではみんなまとめてかかってくるのデース」
「みんな、まとめてご飯のお時間ですよー」
言うが早いか、愛のかわいらしいペットたちが一斉に解き放たれるとよだれを飛び散らし牙をむき出して気の毒な犠牲者へと襲いかかります。黒犬レオンに猫のミーコ、毒蛇リリーはもちろん猛牛マックやカバのモモコに獣のナンジャさんまで黒だかりができるとがつがつと食事にありついてすべてがいなくなった後には残骸すら残されてはいませんでしたが哀れな犠牲者は今帰仁シュリではなく彼女がこの時のために用意していた影武者だったので本物のシュリはかすり傷ひとつ負うことがありません。
「と書いただけで朕は五体満足無事是快晴なのデースね」
原稿用紙にペンテルボールペンを滑らせながら、ヌーベルバスキア学園を統べる女校長はほころび一つない余裕の表情を浮かべています。反則級というよりも反則そのものの能力を彼女は手にしていましたが、世界のルールが彼女の手のうちにある以上はそれすらも反則ではなく彼女に言わせれば力を得て使わない方がマヌケでした。
もはや校長というよりも世界を支配する王と呼ばれるにふさわしい彼女を相手にして、ちっぽけな学生たちが救われていたとすればこのすばらしい力を手に入れたシュリがたとえば酒池肉林の挙に出ていないことでしたが、それは卒業を前にした彼女が国語も英語も成績がよろしくないのでそもそも文章の執筆が苦手だったせいかもしれません。
ですが彼女自身に言わせれば彼女の偉大すぎる野心を満たすにはこれだけの力ですら不充分だということかもしれず、いずれにしても傍観したままシュリに時間を与えて危機を招くような余裕は学生たちの誰にもありませんでした。
「ではもう一度ご飯のお時間ですね」
愛が再びにこやかに笑うと、いきり立った獣やけだものたちをつなぐ鎖が再び解き放たれます。一斉に走り出した動物たちに混じって薔薇小路綺羅という名の美獣もむき出しの獣性を解放すると、まるで暴走した鉄雄を思わせる肉の本流となって立ちはだかる女校長を呑み込んでしまい後はSOLで焼き尽くしてしまうしかありませんが、今度こそ倒したと思ったシュリは本物ではなく彼女がこの時のために用意していた影武者だったのでやっぱり本物はぴんぴんしています。
「もう朕はぴんぴんで困っちゃうのデース」
「でもまだご飯のお時間ですよ?」
原稿用紙を気前よく埋めていくシュリの野心と想像力が続く限り、絶対無敵の力に対抗することは困難ですがどんな力であれ使う者は人間であり、最強のスタンドが存在しないのと同じく無敵に思える力にも限界がない訳ではありません。あるいはこの力を手に入れたシュリがいっそ誘惑や懐柔の手管を駆使してでも仲間を求めていれば事情は違ったかもしれませんが、利益は独り占めしてナンボという彼女にとってアルミ硬貨の一枚すら他人に与えるには惜しいものでした。
世界を支配する者の笑いを絶やそうとしないシュリに対する愛は壁にかかっていた時計にてくてくと歩いていくと、爪先立ちになってお昼休みがはじまる時間まで針を戻します。校内に鳴り響くチャイムは授業の終了を告げる鐘の音であり、待ちかねた動物たちが三たびご飯に向かって駆け出すと同時に彼女の意図を理解した学生たちも手に手に得物を取って打倒校長へと力を合わせるべく走りました。
執拗に無駄な抵抗を繰り返そうとする学生たちにやれやれ若いデスねと両腕を広げて首を振ってみせるシュリですが、めくりあげようとした原稿用紙の束がそろそろ尽きて書き足そうにもページが残っていないことに気がつきます。そういえばこの戦いが始まる前、彼女は自分がどれだけすばらしい人間かを延々と書き連ねるべくページの半ばを費やしていたことを思い出しました。限界がない彼女の野心を埋めるにこんな薄っぺらな紙束ではとても足りません。
てへ、という仕草で軽く自分の頭をこづいてから、進軍の歌も高らかに自分に向かってくるシャイニング・フォースを見てひとつ咳払いをしたシュリはヌーベルバスキア学園を統べる校長らしく威厳ある態度で言いました。
「よし!正々堂々と一対一で勝負デース!」
空しく響く言葉は押し寄せる軍勢が上げる鬨の声にかき消されてしまい、よだれをたらした牙や振り上げられた爪、毛皮をまとう獣性や一糸まとわない獣性、高校三年間を錬磨された技と使い込まれた武器の数々、ついでに新校長に呼び出されるも無情にもあしらわれた戦士たちの反攻の剣やトルネコに呼び出された商人のむれも加わって本能寺に舞う野心尽きた王に襲いかかります。ちぎれとんだ布きれの一枚が宙に舞い、すでに世界のどこからどこまでに今帰仁シュリが残されているか誰にも分かりませんでした。
戦いの後、ぼろぼろになって発見された原稿用紙の残り少ない空白には、生徒たちが思い思いに彼らの抱負や思いを書き記すことになりました。出来上がった寄せ書きは今でも文集の最後のページに挟み込まれていますが、ちなみに全員で撮った集合写真の左上の隅には校長に就任したせいで一緒に映らせてもらえなかった気の毒な娘の顔写真が四角く囲われています。
春野千代は広島に帰り任侠組の跡目を継ぐと、強面だが気のいい連中に囲われてけっこう平穏な日々を送っていました。実際にはあまり平穏ではないのかもしれませんが、魚や忍者や美獣が暴れまわる学園と比べれば極道の世界はよほど平穏に違いありません。ときどきツルゲーネフの初恋をこっそり読んだりしては組員にすすめたりすすめてみなかったりしているとはあくまでも噂です。
龍波吹雪は安普請の雑居ビルに事務所を開くと波乱万丈な探偵としての一歩を踏み出しました。いまいち客が来る様子はなく、たいていはヤチンとやらを要求するハゲオヤジが足しげく通っていますがたぶん探偵吹雪のファン第一号なのだと思います。あとは有能な助手がいれば完璧だと思い、美人助手募集の張り紙をA3サイズのコピー用紙に書きなぐりながらパンとバナナとゆで卵をほおばって牛乳で流し込んでいました。
広野紫苑は進学して花屋でアルバイトを始めています。理学部に進んでいた四条此花とはたびたび会っている一方で、キャンパスでは紫苑が桐生先輩と、此花はナンジャさんと同じゼミに通っていて互いに難しい話についていけなくなることもあるようでした。最近は紫苑が手作りした葉脈のしおりにヤチヨが興味を示したり、ハルミが此花となんたら回路の話で盛り上がったりしているらしく、お互いの趣味をお互いのAIに教えてみようと画策しています。当面は此花がハルミにライフゲームを、紫苑はヤチヨにさぼてんを育てさせてみようかと熱中していました。
ちなみに此花は進学した先でも前向きに暗躍しながら、自走式にまで発展したヤチヨとハルミをいずれ人型にすべく研究と探求を怠りません。かつてヌーベルバスキア学園に編入する前の彼女はもっとシャープなデザインが好みでしたが、友人の影響を受けて可愛らしいものが嫌いでないわけはなくもないような気がするので殺風景だった彼女の部屋がとても少女趣味になったことはたぶん紫苑しか知りませんでした。
薔薇小路綺羅は彼だけが理解しているある条件で、満月の夜に八枚の鑑を向かい合わせてその間に立つと彼だけの美時空への扉が開かれることを発見していました。彼の目下の悩みは視界を埋め尽くす薔薇小路綺羅の鏡像たちの中で鏡よ鏡よ鏡さんこの世界でもっとも美しいのはだぁれ?ということでしたが、彼の発見がやがて新しい扉を開き未来の人類に進化をもたらすことをこの時点では誰も知りません。
カミソリ斬七朗は一度は挫折したニッポンいちの床屋への道をもう一度目指すべく、東京ドーム地下職人トーナメントに出場すると居並ぶ強敵(とも)たちとの戦いを繰り広げていましたが、決勝戦で対峙した木彫り細工のリュウジが実は生き別れの兄の友人の父の知り合いの息子であったことを知ると、動揺しながらも奥義・鼻毛揃えをついに体得して優勝の栄冠を勝ち得ます。寄木細工のチャンピオンベルトを肩にかけながら、彼が指さしたその先には不敵に笑っているニッポンいちのあの男が立っていました。
ナンジャさんは進学しながら日本でうどん職人見習いとして働くことになり、キャンパスで此花と席を並べているとき以外はすっかり割烹着姿が板についています。育ちきったアニマルボディを窮屈な割烹着に押し込むと同僚たちを前かがみにさせていましたが、アルバイト先のお店が終わると先輩と共同で借りているアパートに帰るのを楽しみにしていました。彼女がつくる甘口のカレーは先輩も気に入ってくれていますが、今のところ他の料理が(うどん含めて)何もできないのはご愛嬌です。
桐生先輩は今でも先輩ですが学部は紫苑と同じですっかり文系づいているらしく、数字と記号が並ぶ会話になると二人で首を傾げてしまいちょっと面白くないナンジャさんは楽しいいたずらを考えてやろうと思っていました。先輩の周囲では今でもときどきボストロールがこん棒を抱えてうろうろしていたり、鎖のついた鉄球を振り回しているチャン・コーハンが暴れていますが本人はいたって平穏なキャンパスライフを過ごしているつもりでした。
佐藤愛は学年主席の一人として卒業生女子総代の栄誉を手にすると、受け取ったホワイティ奨学金と海外交流制度を活用して彼女のペットたちを集めることに忙しい日々を送っています。最近は海獣に興味を示すようになってゾウアザラシさんとお友達になりたいと考えていましたが、もっと大きなものと仲よくなって彼女はどこまで行けばよいのかと考えつついずれアイハブ船長として白鯨を追うことになるのかもしれません。
そして服足半蔵は愛と同じくもう一人の卒業生総代としての栄誉を胸に、今では本職の忍者としての活動を続けながら任務がないときには学園に戻って後進の指導に当たることも少なくありませんでした。前校長ミスター・ホワイトがこの学園で目指した意図に考えるところがあった彼は、自らも教える側に立つことで彼なりの「強くござる」を理解しようとしたのかもしれません。その好青年ぶりが変わった様子はいささかもありませんが、彼を慕っていた女生徒とその後どうなったかといえば微笑みながらシノビはプライベートを明かさぬものでござるとあしらってみせました。
そして卒業式の日、同窓の仲間たちを背にして卒業生総代の二人は彼らの未来への宣誓を言葉として掲げます。
「私たちは」
「拙者たちは」
この学び舎で培われた向上心と学友との絆を決して忘れることなく、師父や支えてくれた人たちへの感謝の念を抱き、困難を克服して喜びを分かち合うことをこころざし・・・そこで言葉が途切れて静かになりました。
必要以上に騒々しかった三年間を思い出し、壇上でどっかりと構えているヌーベルな新校長や、その傍らにいる白い用務員の姿を見るにどうも難しい口上はこの場に似合わないように思うと、おもむろに振り返った半蔵が講堂に並んでいる皆に向けて大きく呼びかけて愛と動物たちも唱和します。
「みんな、楽しかったでござるか!?」
「ありがとうございましたー!」
† おしまい †
>私立バスキア学園の案内に戻る