SCENARIO#2
 帝大明石研究所、通称明研の母体である明石博高研究室が提唱した電気神道の理論は要約すれば「不可知の存在を認識すること」を指していた。それは論理としては稚拙なもので、科学と宗教が分離すらしておらず、かといって中世の錬金術のように思想として確立されていたわけでもない。古今東西で超常現象として扱われていた事象をすべて事実と仮定するという強引な主張は学問の範囲を大きく逸脱しており、明石博高は研究者ではなく単なる蒐集家だと揶揄されて残された記録や資料のほとんどが参考にならぬと一刀両断される原因となっていた。
 だがこうしたがらくたや落書きを根気よく紐解いてみれば、故人が世界に先んじて論理回路の存在に着目した人物であるという事実だけは残されて明石研究所の名前が残された理由となっている。時は明治の世、開国されたこの国は諸国列国に対等を主張するためにわずかな面子でさえ守らなければならない、航海の果てに黒船が訪れた地は未開の集落ではなく異質だが優れた文化圏でなければならなかった。

「ぐーてんたーく、どくとる・あるふれっど・べるんはると。でよろしいんでしたよね」
「ええ、挨拶くらいは先方の言葉で覚えてね」

 たどたどしい言葉を生真面目にそらんじている、里中菊(さとなか・きく)の様子に松平健子が口元を和らげている。邸の当主であり明研の代表でもある松平氏はあまりにも多忙だったから、娘の松平女史が家も研究所も取り仕切っていてサロンに用いられている邸内の一室が研究所の事務室に当てられているほどだった。欧州論理回路研究機構で行われているゲートの研究は、それを実用化する方法を追求しているという点で帝大明石研究所の遥かに先を進んでいる。それは未だ証明されていない未知の存在、ダークマターを観測するための装置であり再現するための設備の開発を意味している。
 アルフレッド・ベルンハルト博士は独逸におけるゲート研究の権威であり、欧州論理回路研究機構の開発で最前線に立つ人物と見なされていた。松平女史は彼女の傍らに控えている、甥の亮太郎から整理された紙束を受け取ると書かれている内容を乱雑に読み上げる。軍令部の書簡に記されていた内容は、来日するベルンハルト博士を迎えるにあたりその身辺を警護することだった。もともと独逸で研究を続けていた博士は研究を進めるに向いているという名目で帝都を訪れていたが、最先端の技術を異国で扱うなど軽挙が過ぎると批判する声も少なくなかった。公的には「自国の研究で事故を起こした施設の修復を待つ間に友邦である帝都を交友のために訪れた」ことになっているらしい。

「責任は重大だけど、それができる人たちを揃えているから、自信を持って」
「はい、畏まりました」

 一般にはまだ存在が秘匿されている論理回路にまつわる事柄であり、博士を歓待する者は相応の能力を持つ者でなければならないが、そのような者は官民ともそう多くはなく帝大明石研究所は貴重な人材が集められていた。士官学校出の若い俊英である櫻古志郎(さくら・こしろう)が軍部から籍を移しているのもそのためで、若い彼に期待するむきは多い。菊はこの古志郎の従卒という扱いで一行に帯同することになるらしいが、彼女の性格も能力も本来人を助け支えることに長けている。松平女史の甥とかいう男もどきとは異なり、男は質実剛健で女はそれを支えるものだと彼女は考えていた。

「それから亮太郎、例の悪臭騒ぎの件を追いかけてもらえるかしら。くだらない内容なら商会に流して構わないから」

 一方で列強列国が注目する中で彼らの活動は公にすることができず、理解されぬまま何でも屋のように雑多な仕事や依頼がもたらされる例も少なくない。だが予兆を見逃した挙げ句に危難に気が付くことができなければ大事だから、明研が出るまでもない仕事であれば彼らに協力する民間の者に任せればよい。松平健子がランフォード商会に仕事を流していたのは彼らを協力者として認めていたからだが、半ば嫌がらせのつもりがないとは彼女自身断言はできないだろう。
 黒船の使節が驚嘆した事実として、帝都には開国する以前から治水や下水溝が整備されていてそれは汚物と悪臭を避けるために傘と香水を必要とした赤毛の蛮人よりもはるかに進歩していたが、汚水と雨水を分けるには到らぬまま人口が増えると大雨の時節には処理しきれずにあふれた汚物が川や海へと流れ出ることが問題視されていた。これらの事情が解決するには数十年の時を待たなければならないが、さしあたって苦情を受け付ける者は必要でそのようなことはランフォード商会に押しつけてしまえばよいと思う。

† † †

 商会を運営するクリストファー・ランフォードは英国籍の民間人であるにも関わらず、国家が携わるべき論理回路にまつわる事件に首を突っ込んでは事態を複雑化する輩だと松平女史には思われていた。だがクリストファーの姪であるエミリーに言わせればそんなことはなく、商会の運営のほとんどを姪に押しつけている彼にそのような価値はないのだと力強く請け負ってくれたことであろう。怪しげな人脈から怪しげな依頼を持ち込んできた後は、商会の事務や切り盛りをエミリーが引き受けていることは多くの者が知っている事実であったのだから。

「で、明研からうちの宿六に流された話ってわけ。迷惑だけど頼まれてくれないかしら」
「一宿一飯のご恩は、えーと、一飯どころではありませんものね」

 龍波真砂子(たつなみ・まさご)が神妙に答えているのは、話の最中にも鳴り止まない胃袋の轟きを若い娘らしく気にしていたからに違いない。わけあって常日頃から空腹を抱えている彼女は要町に来てから日も浅かったが、豪快で旺盛で無尽蔵の食欲が近所の子供たちにオバケ巫女として噂されているような有り様だった。
 要町におけるランフォード商会の仕事は帝都を訪れた異人たちに向けてさまざまな取り引きを斡旋するもので、事務所の建物には御伽噺の赤鬼青鬼と見紛う男たちが出入りしていたが、彼らの間でも真砂子の大食は群を抜いていた。それは誇れる話でもないし嬉しい話でもないのだが、赤鬼や青鬼のような異人たちを相手に営まれている食堂の存在が彼女の底なしの胃袋にはありがたく日々入り浸らせてもらっている見返りに簡単な仕事を手伝うようにもなっている。

 異人館通りに面したとある屋敷の令嬢が夜な夜な奇行にふけるという噂があるらしい。上流階級にありがちな事実無根の風聞かもしれないが、令嬢が四つ足で奇声をあげてはねまわるとなればあまりにも噂が奇妙にすぎて、聞いた者のほとんどが一笑に伏しながらどこか気味悪そうな顔をしてしまう。当の令嬢は寝込んでいるらしく、このような噂を立てられれば無理もあるまいが公に姿を見せていない事情が噂に拍車をかけることにもなっていた。
 商会にとってその家は舶来の品々を購入してくれる得意先の一つであり、客人の評判を守ることは後々の利益にも繋がるであろう。世界が大きく変わっている中で、異国の文化に抵抗を示す人は未だにいて舶来の品々は呪われていると本気で信じている者もいる。例えば肉食は畜生食いと呼ばれて嫌われるむきも多く、聞いただけで拒絶する者もいて料理人の頭を悩ませていた。このような誤解を解くことは彼らの商売にとってきわめて重要な広報活動の一環なのだ。

「明研の人も来るから、午後の一刻にユニオン前でお願いね」
「一刻というと、大通りの針が一番上を向いた時でしたっけ」
「それは正午ですな、龍波殿」

 流暢な言葉で波斯初乃進(ふぁるす・はつのしん)が訂正する。エミリーにせよ彼にせよ、帝都を訪れた異人がこの国の言葉をさも当然に身に着けているというのに、自分は舶来時計の読み方ひとつ分かりませんでは立つ瀬がない。訪客がこの国に受け入れられようとしているなら自分も万全に出迎えるべきであるというのが彼女なりの礼儀に思えた。
 ランフォード商会と帝大明石研究所はそれぞれの代表が相手を蛇蝎の如く嫌っている一方で、互いに敵対しているわけではなく手を組んで仕事を行う例も少なくない。官民が協力してできることは多く、もともと商会が受けた依頼であるとはいえ事件を解決できてかつ信頼のできそうな人物、となれば明研に協力を仰いだほうが人を集めやすかろう。クリストファー・ランフォードがいれば文句の一つや二つや三つや四つも出たかもしれぬ決定だが、エミリーの意見を覆す力を持つ者など商会には誰もいない。

 熊林家はこの国の金融制度が発展して信用貨幣を用いた取り引きが増えるに従い、いち早く貸し金庫業に手をつけて財を成した家である。要町公園の近く、異人館通りに面している邸宅は近年急速に地下が上昇した土地を彼らが買い付けると、懇意にある異人に滞在してもらうために随所に西欧風の様式を取り入れて建築されていた。異人が国内の土地を所有することは認められていないから、熊林邸に宿泊する者は多く彼らの商売の機会を増やしている。

「君はもう少し人間と常識に目を向けた方がいい」
「君こそもう少し常識の枠から飛び出したほうがよいのではありませんか」

 正門の前で冬真春信(とうま・はるのぶ)と鳴神学(なるかみ・まなぶ)が言葉を交わしている様子は剣呑ではないが穏当とも言い難い。互いに相手の力量は認めながらウマが合わぬ、そりが合わぬという関係は存在して彼らの関係はまさにそれだった。拝み屋の家に生まれながら帝大で医学生を志している春信と、独学で超常現象を探求して帝大に研究室を開いている学の二人が明研から呼ばれたのは決して奇妙な人選ではないが、なにもこの二人を一緒に呼ばずともと考えた者はいるだろう。令嬢の具合が悪いから帝大の医学生に相談することにした、いちおうそのような建て前になっているらしく上流階級ならではの苦労が偲ばれる。とはいえ拝み屋と狂科学者が呼ばれたなどと言えばふつうの家でも悪評が立つには違いあるまい。

「相手は若い女子なんだ、もう少し気を使ってあげてもよかろう」
「安心したまえ。私は男だろうが女だろうが気にしない」

 根本的に会話が噛み合ないが、学は人間よりも事象にしか興味がなく上流階級の事情など知ったことではないという態度を通している。それはそれで事態の解決にのみ専念するという宣言ではあるのだが、彼の場合それは依頼や任務に対する真摯さよりも学究的な好奇心と探究心に依るところが問題ではあった。研究の視線に晒される当人の感情、などと言ったところで無駄であり自分が目を配らせなければならないかと春信は心中で息をつく。

「やれやれ、後で苦情を言われる覚悟はしておくことにするよ」

 春信は諦めたように肩をすくめるが学にすればそこまで疑われるのは心外だった。日頃の振る舞いが他者に固定観念を植えつける典型ではあるが、そも明研などという怪しげな組織に頭を下げてくる時点で事情はよほど深刻に違いないのだから何を置いても事態を対決することである。極端なことをいえば穏便に済ませた挙げ句なにも解決しませんでしたでは誰も幸福になれないではないか。上流階級の人間であれば風聞をかわす術など日々鍛えられているだろうし、むしろ拝み屋や狂科学者が押しかけてたいへんな目に遭ったのだとでも吹聴してもらえば多少の悪評など忘れられてしまうに違いない。春信が気にするべきは後で苦情を言われることではなく、後で自分たちが悪評の対象になることでよいのだ。
 春信と学、それに商会から遣わされた真砂子と初乃進の四人が熊林家の門を潜ると来客用の部屋に通される。熊林の当主は奇天烈な客人を相手にしても礼儀を失することもなく彼らを迎えたが、肝心の娘の話になると歯切れが悪くなり会話も要領を得なくなる。娘は部屋で伏せているから、あまり疲れさせない程度にとにかくまずは様子を見て頂きたいと懇願された。よほど覚悟をして臨んだのだが、当の娘さんはといえばそのような表現が許されるのであればごく普通の良家の令嬢といった風情で、雨戸まで閉められているうす暗い部屋で寝台に半身を起こしながら、奇妙な客人に対しても不機嫌な素振りすら見せなかった。

「帝大の医学生さんなのですか?父が大袈裟で申し訳ありませんが、心配をかけているのは私ですものね」

 一見して彼女にはどこも奇妙な様子はなく、真砂子と初乃進が親しげに打ち解けると春信も学科のテクストに書かれていた通りの問診をするが大した話を聞くことはできなかった。彼女曰く、父が買いつけたステエキという舶来の燻製肉を食して以来どうにも気分が優れないことが多く、夜もたびたび寝つけずに家人を心配させているらしい。言外には出さなかったが獣を口にするなど野蛮な獣のようだ、と西洋の風習を批判的に考えているらしいがそれで伏せているとなれば気に病みすぎているだろう。燻製肉の話に真砂子の腹が大きく鳴ると重苦しい空気が和らげられるが、会話の流れも空気も読むそぶりもなく学がふところから何やら差し出そうとする。

「空腹ならこれでも食べますか?」
「え?あの?油揚げ・・・ですか」

 いささか迷信じみてはいるが、いわゆる「狐憑き」が原因ではないかと小道具に用意していたものらしい。春信は心中で眉根を寄せるが幸い、奇妙な男が奇妙なものを持っていた理由に気がついた者はいなかったらしく冗談で済ませてしまえば良さそうに見える。油揚げは英語でアブラフライと申しまして、などと初乃進が本気とも冗談ともつかぬ怪しげな英語を披露する。他愛のない対談はそれから一刻ほど続き、邸宅を辞した門前で春信がやれやれと息をつくと純粋に医学生としての立場で彼女には元気になって欲しいものだと思っていると、学や初乃進が奇妙に視線を交わしていることに気づく。

「どうかしましたか?」
「いや実に立派な御屋敷でしたが、それにしては庭がずいぶん荒れていたのが気になりましてな」

 初乃進の言葉を聞いて、娘の様子に気をとられて周囲に目を配ることを怠っていたことに気づいた春信はしまったと思う。あまり人に肩入れし過ぎるものではない、拝み屋の家でもさんざ言われたことがあり自分の若さを知らされてしまう。初乃進たちが気づいたところでは庭木の幾本かが不自然なほど不揃いに剪定されて、芝や盛り土がえぐられたところを懸命に繕った跡もあり、まるで獣の類が暴れたようにも見える。邸宅を見上げれば娘の部屋を閉ざしている窓にだけ雨戸ではなく頑丈な鎧戸がはめられて尋常でない事態を窺わせるには充分だった。
 そのまま大通りの時計の針が巡り子の刻から丑の刻に至る。熊林邸に何かが起きていることは疑いなく、学などはすでに妖怪変化や超常現象が原因であると断定して白衣姿の背に怪しげな道具や器械を担いだ臨戦態勢で構えている。春信はそれでも事態が穏当であることを心中望んではいたが、彼の知識にも経験にも好ましくない話はいくらでも見つけることができた。昼間の油揚げについて思うところがあったのか、説明するように口を開く。

「そもそも狐が油揚げを好むという話はただの伝承だし、狐憑き、ライカンスロオピイが霊魂の仕業とも限らない。君はもう少し直感に依らず記録というものを紐解いたほうがいい」

 医学は万能ではないし超常現象を解決する力も癒す技術も持ってはいない。だがそれは修験者や仙人だけが扱うことのできる術ではなく知識と技術さえあれば誰でも人を救い得る力を持つ、それこそ春信が拝み屋の家で修練を積んでなお医学を志した理由だった。それがすべてではないとしても、狐憑きの症例はいくつか存在して西欧では狼や蝙蝠が媒介するベエオウルフの記録があるし帝都でも犬や鼠に起因して似たような事件を起こした例が残されている。それらに共通しているのは高熱を発する伝染性の病に端を発していることで、熊林家の令嬢とは事情が異なるが興味深い記録も存在する。それはベエオウルフの病に触れぬ地域に噂だけが伝播して、その地域に限定された暴徒や狂人が発生した例である。閉鎖的な環境と古い倫理観と若い娘、こうした事件ではこれらの要因が共通して見られることが多い。
 けっきょくは事件の発生を抑えなければ詳しい事情も分かるまい、そう考えた彼らは周辺から聞き取りを行うと夜半に獣めいた鳴き声や影を見たという曖昧な噂を聞いて一度その時間に周囲を窺ってみようと顔を並べていた。春信と学と初乃進に真砂子、それに官憲の出自でこうした聞き取りには慣れている神代一角(かみしろ・いっかく)が協力すると人影の絶えた通りを巡回して邸とその周囲の様子に目を配らせる。下げた角灯の明かりが邸の裏に面する要町公園の入り口近くに差しかかったところで、奇態な人影を見つけた一角が誰何の声を飛ばした。

「其処な怪しい御仁、何をしておられるか」
「いえいえ、このような静かに過ぎる夜は月夜の散歩に好ましいとお思いになりませんか」

 一角の呼びかけは無礼千万ではあるが、夜中に人気のない公園で下駄履きの和装で帽子は舶来品、一人蝙蝠傘を下げてぶらつく男が怪しいと言われても仕方あるまい。筋肉達磨に詰問された男は烏山是清(からすやま・これきよ)と名乗ると飄々とした様子で空を見上げながら、公園の木々の隙き間から天頂に見える月を蝙蝠の先で指し示す。

「赤い月は人の内にある獣を呼び起こすとも申します」

 丁寧で朴訥としているがどこか不穏に思わせる言葉をかき消すように、唐突に大きな音が響くと一角が思わず振り返る。熊林邸の方角から二度、三度と何かを強い力で叩くような音が響き、木板の破れるような音と騒然とした声がそれに続く。皆が一斉に邸宅に向かって駆け出すと是清も帽子を目深にして彼らに従い、からからという下駄履きの音が月夜に響く。通用門の脇にすぐに全員が集まると、学などは隠し切れない昂揚をあらわにして背中に担いでいる大荷物から火花と稲光を閃かせている。

「加加加加加加加加加速装ぅー機!」

 叫ぶ頭上ににわかに黒雲が集まると紫電を帯びた雷光が走り、傍から見ればこの男こそよほど狐憑きと思われるに違いないが彼に言わせれば彼の操雷実践研究は迷信や伝承ではなくれっきとした理論と再現性を持つ科学に他ならない。それは学が独学でたどり着いた研究であり、論理回路を通じて生じた放電が用意した電極に宿ると集束したまま向きを変えて熊林邸の通用門へと撃ち放たれた。厚い樫木の扉が一撃で砕けてしまい、力ずくで開かれた門から不法侵入も構わず皆が一斉に敷地に足を踏み入れる。

「あそこです!」
「おお、これは痛ましくも面妖な」

 真砂子が指さす先、広々とした庭園に視線をめぐらせると薄闇を右に左に跳んでいる影がまぎれもなくかの娘であることにさすがに気圧される。屋敷に目を向けると部屋を塞いでいた鎧戸が内側から破られており、四つ足で月夜に爛々と目を光らせている姿はまさしく凶暴な獣にしか見えなかった。
 先んじて駆け出したのは学だが、雷を帯びて回転することで引き合ったり弾いたりする力が働くことを彼は理論ではなく実践として心得ており、これで娘を引きまわすことであるいは狐憑きが分かれるのではないかと彼なりに考えていた。狂乱して見えたとしても彼は決して狂気ではないのだ。

「フウウウウウウウウウウウウッ!」

 放電する雷光が突進するが、娘は奇声をあげると手近に落ちていた石をかじりばきばきと咬みくだいてから高く跳ねる。驚いたことに上下左右のすばやい動きでは娘が勝り、学には自分の能力をまともにぶつけてよいものかとわずかな迷いもある。逃げられないようにぴったりと迫りながら手は出せずにいる、膠着した状況に加勢すべくかざされた春信の数珠から風をまとう式神が放たれた。

「五行陰陽、木性によりて雷光を助く。行けるな、青嵐!」

 とはいえ術に迷いがあることは春信も同様だった。実のところ狐憑きはそのほとんどが妖怪の仕業ではなく人間の本性であることが多く、おそらく旧態然とした嗜好の娘にとって畜生食いが獣の所業に思えたのであろう、懊悩としたところで彼女自身も気づかずにいる論理回路が開かれてしまった。自らの行いに対する嫌悪がルナティックに誘う、それが分かるからこそ春信にも気の毒な娘を力ずくで押さえ込むことはできなかった。
 論理回路は不可知の存在に干渉する現象を称したものであり、いわば常態から何らかの超常現象を引き起こすきっかけを指してすべて論理回路と称するのだからその効果も決して一様なものではない。ただ一つだけ共通していたのは、論理回路を認識できる人間は他の論理回路を認識できるという事実であり彼らを指して術士とか超能力者とか古くから呼ばれてきた。不忍池に現れた大ナマズのように、論理回路の影響で魚が異形の怪物と化した例もあるが娘の場合はただ肉体が暴走しているだけに過ぎない。普通ならば耐えられるはずもない力を平然と用いる、未だ知られていない物理法則に対して旧来の常識はあまりにも脆弱だった。

「危ない!」

 真砂子が叫ぶよりも前に、振り回された腕が初乃進ごと背後の庭木をへし折ってみせる。太い幹が小枝のように折れるが一緒に両断されたはずの異人は冷や汗を流した素振りを見せながらも湿った厚布のようにぐにゃりともとに戻ってみせる。

「やれやれ、私がにゅるりとしていなければ死んでおりましたな」
「えーと、よ、良かったですね」

 初乃進が自ら創始したという異形化拳法、にゅるり流体拳は形がないからこそ折れもせず砕くこともできない。たとえ幹を折り地をえぐる爪があったとしても、にゅるりに傷ひとつつけることはできませんと豪語する異人こそよほどありえない生き物に見えなくもない。戸惑いながら、真砂子も加勢すべく背に刻まれた鬼の刻印を夜風に晒す。彼女が契約を交わした三匹の鬼のひとつ、速の青鬼・海舞狼(みぶろ)が現れるとまるで装甲をまとうかのように真砂子の姿と入れ替わり、狼頭の一角鬼が構えながら見栄を切ってみせる。

「この海舞狼にお任せあれ!」

 構えたその姿勢から自然に脱力すると、瞬きをする次の瞬間には姿が消えて、娘の正面に現れるが振り回された爪が襲いかかる時にはすでに背後に回り込んでいた。ただ速いだけではなく、緩急の速度にあまりに差があるからこそ誰も捕らえることができない。それが海舞狼の力だが切り返しながら姿を現す動作のひとつひとつに大仰な見栄を切ってみせるのは彼自身の性格らしい。

「典雅!優雅!牙あるふるとりこそ海舞狼の舞い!」

 月夜に咆哮をあげる獣を相手にして、一本角の鬼が目の前をとびまわって翻弄するところに初乃進もまとわりついて離れようとしない。牙も爪も空を切るか、当たってもにゅるりと流されるだけで獣は一声叫んでからひととびで折れた幹を踏み、ふたとびで異人と鬼から逃れようとする。塀を越えて逃げられたら騒ぎが大きくなることは疑いなく、後ろに控えていた春信や学が慌てて追うが人が獣に追いつくことは容易ではない。みたびの跳躍で塀を越えられる、皆がそう思った瞬間、塀の向こうから伸び上がった影が壁のように広がると獣の眼前を遮った。根元には先ほど公園で見た下駄履きに和装姿の男が立っている。

「おや物騒なことで」「ぎょ」

 是清の飄々とした呟きに奇妙な声が答えると、足下の影そのものが柱のように高く伸び上がって主人の身を塀のはるか上まで押し上げる。目深にかぶった山高帽を片手で押さえながら、そのままの姿勢で身軽にとんで屋敷の庭に飛び下りた。赤い月に照らされた影がすべるように従うと、そのまま是清の足下に吸い込まれる。新たな闖入者に敵対的な視線を向けた娘は、そのような描写が許されるのであれば背中の毛を逆立ててとびかかる。是清は逆手に構えていた蝙蝠を大きく横に払うが、娘に当てるのではなく視界を遮っただけで後ろにとんで身をかわす。その動きを見るに刀よりも杖か体術の使い手らしい。

「どうも御婦人をはたくのは気が進みませんで」

 着地すると同時に、一歩遅れて従う影から伸びた幾本もの腕が右に左に広がると頭上までを塞ぎ、円い藤かごのように姿を変えた。始終を見ていた春信はそれが自分の扱う式神に近い存在であることを理解するが、自らの体術と合わせた使い方があまりにも上手くよほど戦いに慣れた「手だれ」であることを窺わせる。おそらくは護身用の術であり、人を切るではなく叩くでもない、せいぜい転ばして争いを避けるための技であっても式神使いが用いれば攻防に隙がなくなるではないか。公園から唐突に現れた男ののおかげで敷地の外に娘を出さずにすんだことを安堵しつつ、今度は逃げられぬように皆が娘の周囲を囲むと厳つい外見をした一角が厳つい声を月空に響かせる。

「よくやったぞ怪しい御仁!後は儂に任せるがよい」

 右手に十手を、左手に鉄扇を握ると両肩を大きく盛り上げた一角が娘の正面から懐に飛び込んだ。開国する以前から帝都に伝わっている捕り物の技は刀すらも封じる多彩な武芸として知られているが、一角のそれは技を超えた力へと昇華されていた。先の騒動で断ち切られた手棒に替えて用意したカラクリ十手には霊獣一角に模した模様が彫り込まれて細い鎖で鉄扇と繋がれている、これを分銅のように扱う技も古くから幾人もの捕り手に用いられてきた。
 影の藤かごに勇んで躍り込んできた一角に向けて、獣はひと声吠えると短剣のようなかぎ爪を振り下ろす。一角はこれをまともに受けるのではなく、外に払うようにして十手で捌くと手首のあたりを鉄扇で打ち据えた。相手が暴漢であればこの一撃で得物を取り落とすであろう一打に、さしもの獣が怯むと一角は両の拳を強く握り締めて威嚇する。

「儂の僧帽筋を見せてしんぜよう!」

 あろうことか、十手も鉄扇も捨てた一角が獣の正面から手四つで組むと肩と背中の筋肉が更に大きく盛り上がる。異形の力を解き放っているとはいえ、若い娘を得物で取り押さえるのは彼の矜持が許さなかったらしく、血管を何本も浮き立たせて上気した身体からは湯気が立ち上り、目も耳も充血して赤くなると力ずくで組み伏せようとする。どれほど野蛮に振る舞い獣のように暴れたとしても彼女はただの娘であり、岩のような大力無双の男に及ぶはずもない、一角は心からそう信じているし娘がそれを認めれば彼女は月夜に暴れる獣ではなく一人のか弱い娘であった。開かれていた論理回路が閉じて、急に力の抜けた身体が厚すぎる筋肉の甲冑に倒れ込む。論理回路を支える法則のひとつ、それが失われればゲートを介して得られる異形の力は消えるしかないのだ。

 騒動自体は隠しようもないが、幸いなことに騒動自体を目撃した者も耳にした者もいなかったから体面としては熊林家で哀願用のつもりで購入した獣が暴れてしまったという体裁で取り繕うことにする。欧州には二百年ほど以前に狒狒と呼ばれる犬猿が世を騒がせた事件があったから、その伝えが流用された。世間体を考えればわざわざ表沙汰にする理由もなく、異文化の受け入れに反対する人々に恰好の宣伝材料を与える必要もないだろう。
 当の娘はことの次第をまるで覚えていなかったがそれはそれでありがたい。熊林家の当主、父親からは気まずいが率直な感謝の思いと明研への今後の協力が約束される。学などは娘の治療にかこつければ研究対象が増えるではありませんかと堂々と主張したが、春信に嗜められると渋々ながら引き下がったものである。世間体がどうというよりも、すでに力が押さえ込まれた娘を調べることにどれだけ意味があろうかという現実的な説得が理由ではあったのだが。

「仕方ありませんな、他の面白そうな研究を優先することにしましょうか」
「君にも常識と理性が残っていたようで有り難い」

 異形や妖怪変化の言い伝えは洋の東西を問わず古くから存在している。その多くはただの枯れ尾花でしかなかったが、実際に尋常ならざる化け物が現れたとしか思えない例もあるし、今回のように人のうちに獣や鬼が潜んでいた例もある。論理回路の発見はそれらの存在を人に知らしめた一方で、尋常ならざる存在があまりにも容易に生まれうることも、そしてその存在に果てや際限があるかも分からない現実をも知らしめていた。

「知らないからこそ何でもできる、何でも生まれてしまう、何でも起こりうるということですか」
「そう、ですね」

 初乃進の呟きに真砂子はあいまいな言葉を返す。娘が宿していた獣は彼女のうちに生まれたものだったが、では真砂子が宿している鬼たちも実は彼女のうちに秘めている鬼が論理回路を通じて生まれたものでありうるだろうか。獣になる娘と鬼になる巫女、にゅるりに変化する異人はどのように異なるのであろうかと考えるといささか不安にならなくもない。

(その答えは拙者には分からぬ。だがその答えにどれほどの意味があろうか?)

 真砂子の中で海舞狼がそう言ったような気がすると同時に耐え難い空腹を告げる音が鳴る。三人もの鬼と契約を交わすことになった大食いのオバケ巫女にとって、鬼の正体や人の正体よりも重大な事柄はいくつも転がっているようだ。
 いずれにしても薬缶頭の筋肉達磨に押さえつけられた娘は最早獣ではなくただの娘でしかなかったから、丁重に抱えられたまま屋敷に帰される。一角にすれば羽根入りの枕のように軽い女子でしかなく、事件のあらましも先ほどまでの大捕り物も忘れたかのような豪快な笑い声を月夜に響かせた。

「まったく軽すぎる。もっと肉でも魚でも食わねばいかんぞ」

 これくらい豪放であれば人の中に獣や鬼が潜んでいたとしても力ずくで押さえ込んでくれるだろう。そのために修行や鍛錬をする、一角自身は人々の平穏な暮らしを守る岡っ引きとしての矜持があるのかもしれないが、人が見れば修行や鍛錬そのものが彼の目的になっているのではないかと思わせる。

 皆がそれぞれの思いに心を傾けている中で、一場の捕り物を終えた庭に取り残された感のある是清は広々とした庭に視線を巡らせるとぼんやりと白みはじめた空へ目を向けた。どうも名乗りそびれてしまいましたか、そう思わなくもないが、名前などというものは必要であればそのときに求められるだろうと深く考えないことにした。彼が連れている影のように、名前や形が定まらずともそれで困ることなどそうそうないのだ。
 もう一度庭をぐるりと見渡す。ところどころ騒動に傷つけられているのが気の毒ではあるが、庭木も小径も立派なもので明ける空は柔らかな光を投げて足下の影をにじませている。今日もよい天気になりそうだと考えてから、下げていた蝙蝠をたたむと黒い影が吸い込まれるように黒い蝙蝠にまとわりついた。

「この天気に傘など下げては奇異な人に見られますかね」

 山高帽とハンケチーフ、蝙蝠でなくステッキでもよかったろうかと、自分の風体や言動に自覚がない奇異な者の呟きは誰の耳に入ることもなかったが、蝙蝠に吸い込まれた影であれば多少の異議を示してくれたかもしれない。明け方にぼんやりとにじんでいく影がやがてとけて消えてしまうと是清は屋敷に背を向ける。半日ほど早く到着してしまったが、どうやら公園で夜を明かさずに済んだらしいとひとつ欠伸をすると懐から薄い手紙を取り出した。描かれている地図を広げると、そういえば先ほどの人たちにランフォード商会までの道を尋ねればよかったと今さらのように考えるが、いつたどり着くか分からないまわり道もまた楽しいではないかと彼が初めて訪れる町へと消えていった。

† † †

 横浜に来航した異人が滞在するには周辺に宿を構えるのでなければ、開放されている内地で過ごすことになる。風光明媚な保養地としては温泉の涌く箱根の町が選ばれることも多いが、アルフレッド・ベルンハルト博士が要町を選んだ理由は彼自身が携わっている研究をこの国で進めるには最も適した場所であると思われていたからである。欧州論理回路研究機構と帝大明石研究所は互いに協力関係にあり、大洋を挟む間柄で積極的な行き来こそ行われてはいなかったが相応の技術や情報のやり取りはこれまでもたびたび行われていた。

「ぐーてんたーく・どくとる・あるふれど・べるんはると」
「ドーモ、コンニチハ」

 まさか肩書きの多い要人たちを差し置いて自分が先に挨拶を交わすことになるとは思っておらず、多少気が引けながらも菊は覚えていた数語をそらんじる。近年、男が女に譲ることは欧州では珍しくない風習らしく、若い娘ながら男尊女卑の思想に染まっている菊にとって嘆かわしい風潮だと思わなくもないが客人を迎えるなら礼節は先方に合わせるのが筋である。聞いた話では妻帯者が公の場に奥方を帯同することも西欧では常識であるらしく、帝都の要人や政治家たちは家内に礼儀作法を教えることに苦労しているとかいないとか。
 相手の言葉で挨拶くらいは覚えておく、のはベルンハルト博士も同様であったらしいがいずれにしても通訳は必要で、ランフォード商会を介して呼ばれていた小塚玉(こづか・たま)が菊と入れ替わるように博士の傍らに立つ。趣味が高じた翻訳を得意にしている彼女にとって通訳は決して本業ではないとはいえ、欧州における論理回路研究の権威などという一般には変人の範疇に属する人間を迎えるのであれば、日常的な会話よりも専門用語に親しんでいる人物が向いているという事情もあった。

「(要町に移動してから会合と講演を予定しています。ご不明なことがございましたらお申し付けくださいませ)」
「(これはこれは美しいお嬢さん方にご案内頂けて光栄ですな。心から感謝致します)」

 父親のような年齢の相手とはいえ、常は縁のない誉め言葉をかけられたことに戸惑わなくもないが、これも社交辞令だと思うことにする。恰幅のよい身体を揺すっている博士に駅舎までの道を説明しながら玉と菊の二人が従うように足を進める。港から駅舎まで、本来は馬車で迎えるべきだが異国の文化に少しでも多く触れたいという博士自身の希望もありわざわざ迂回する道が用意されていた。
 ベルンハルトは博士と呼ばれる人物にしては陽気で愛嬌があり親しみやすい。ふだん書籍の山で日々を過ごしている玉にとっては堅苦しい人物よりもよほど有り難く、博士にしても異国の若い娘が多少なりとも論理回路の知識に通じていることが意外だったらしい。同行する役人や帝大のお偉方たちを相手に儀礼的な会話をしながら、実際には通訳の娘を相手に最新の知識や研究の内容を語ろうとする。一行の様子はまず友好的なものだが警備が厳重に行われているのは当然で、その一人である古志郎は皆から数歩下がった場所を従いながら周囲に目を配っている。

(配備ニを確認、異常無。配備ホを確認、警戒を継続・・・)

 沿道に私服姿で混じっている警備の人員を視線だけで確認する。開国されたばかりのこの国で、異国の要人を相手に不祥事を起こせばことは両国の関係だけでは済まず帝都の信用にも関わってくる。ものものしい警護も仕方ないがそれで人々に悪印象を与えるのも好ましくはないから士官学校を出たばかりの若い古志郎や、菊や玉のような娘たちが目に見える場所に呼ばれる理由になっていた。

「あの赤い屋根の建物は何の施設ですか、と仰られています。英吉利国に似ているが珍しい様式だと」
「港湾倉庫ですね。民間のものなので詳しくは存じませんが」

 玉を介した質問に古志郎が答えている。煉瓦と石と硝子で組まれた横浜の町並みは開国して間もない時期に西欧に影響を受けながらも、独自の様式も多く用いられた独特の景観を見せていた。異国の人々を受け入れるために政府や役人が用意した施設と民間が異人と交流して取り入れた建物とが混在している姿は、流入する文化を受け入れながらも呑み込まれまいとする人々の意思を思わせる。
 海を越えて行き交う伝え聞きに誇張や虚構が混じる事情は如何ともしがたく、博士が期待していた天狗の見世物小屋が存在しなかったことに皆で苦笑すると、一通り足を巡らせたところで駅舎の姿が見えてくる。開国間もなく敷設された蒸気鉄道の路線はこの時代には未だ横浜から要町まで伸びる一本だけであるが、いずれこれが幹線道路に替わる交通手段のひとつとしてこの国を南から北まで貫くことになるのだろう。

「予定よりも遅れています。急ぎましょう」
「あ、はい。博士に伝えます」

 古志郎が促した理由は汽車の時刻を心配してのことではない。国際的な生活や交流を営む上で共通する暦や時刻の受け入れは必須であり、要町でも横浜でも通りには必ず大時計が掲げられていたが用意されている特別列車が要人を待たずに出発することはありえなかった。彼の心配はあくまでも警護のためである。
 開国したばかりの小さな島国で、人々は海を越えれば時が変わることを知らない。土地が変われば日が落ちる時間も変わる、日が落ちてもガス灯が夜を照らすのであれば人々はそこが昼間であるかのように振る舞うこともできるが、だが昼と夜が失われれば人は日が傾く狭間の深い闇を忘れてしまうかもしれない。文字盤の刻を見る者は日が落ちた後も精力的に生きることができる一方で、夜が夜たる所以を忘れて鈍感になっているだけかもしれなかった。人は生まれながら暗がりを恐れるからこそ、月明かりに安らぎを覚えて深い闇に恐れを抱くことができる。揺らめいているガス灯は人が恐れを克服した象徴ではなく、すぐ傍らの薮に潜んでいる蛇に気づかぬ怠惰の証明でしかないかもしれないのだ。最初に異変を覚えたのは古志郎と同じく周囲に目を配っていた菊である。

(あれは・・・)

 先を歩いている娘の不審げな様子に気がついた古志郎も、不自然にならぬように彼女の視線を視線で追う。日没にはまだ時があるが、傾いた日差しが影を生んでいる路地の一隅に見通しの悪い暗がりができている。その一隅、何もない暗がりから奇妙なほどの不安が感じられて目をそらすことができずにいると、わずかにそれが揺らいでいることに気がついた。正確にはその暗がりではなく、暗がりを背にした何もない空間が蜃気楼のように歪むとその向こうだけが見えているのだ。咄嗟に皆と歪みのあいだに割り込んだ古志郎が誰何の声を上げる。

「警告する!そこで止まれ!」

 唐突な声に、にわかに周囲がざわつくが不安を見過ごすなら過剰な警戒を叱責されるがましだろう。「人が認識できないものを認識する」不可知の知が論理回路を見出す基本法則であることを思い出す。歪みが動き出し、近づいてくる様子に古志郎は明確な敵意と害意を悟る。博士と歪みを繋ぐ見えない線上に立った古志郎の掌に伺候励起の銘が彫られた短い刀が出現する。所持者の心のごとく折れることが無ければ欠けることもない、確定武装と呼ばれる術の刃を手に構えるが緊張の色は隠せない。菊が博士と玉をかばうように下がらせると、周囲に置かれていた私服姿の警備員たちも慌てたように動き出す。
 姿を認識できぬ相手に問答無用で斬りかかるわけにはいかないが、構えたまま背に汗を流している古志郎は見えないはずの歪みが嫌らしい笑みを浮かべたことを直感で理解した。危険を察して半歩を引いた瞬間、右腕に鋭い痛みが走り赤く細い線が刻まれる。


「・・・くっ!」

 傷は浅く、確定武装も揺らぎもせずに固定されているが見えない襲撃者は彼の目の前にいて一時はおろか一瞬の猶予もない。危険極まる脅威に対峙しながら、自らが守るべきものを忘れず背後を守っているはずの仲間に声をかける。

「早く!博士を安全な場所に!」
「はい!いえ、あの・・・」

 反射的に返事をしたが、本来女は男に従うべきであると考える菊がこのときは躊躇した。古志郎の意図は見えない襲撃者を相手にして敢えて斬られてから致命傷を避けて防ぐことにある。それで勝つことはできずとも博士を逃がすまで時を稼ぐことができればよいのだから、最善の手には違いないが目の前で見えない斬撃にさらされる青年から赤い飛沫が舞う光景を見せられて平静でいられるわけがない。守勢に徹しながら古志郎に動じる素振りもないのは彼の剛毅さそのものだが、それに頼り博士を助けるまでに彼が無事でいられるとは菊には到底思えない。任務は果たせる、身代わりに犠牲が出たとしても最悪よりはましだがそれよりも更に最善の手があるのではないか。

「申し訳ありません!お断りします!」

 常の彼女であれば決してありえない言葉が上がり、くわえた芦笛から軽やかな音律が奏でられる。郷里では笛吹き名人と呼ばれた彼女の術は、それを認識できる者の目には音律に乗って広がる論理回路の幾何学的な模様が捉えられるかもしれない。音は波形になって人に干渉すると感覚を鋭敏にして思考も反応も鋭くする。古志郎の折れぬ刃に研ぎすまされた感覚を加えればこの状況を耐えられるかもしれない。
 古志郎も菊の目論見を理解するが、彼とて自らを犠牲にするつもりはなく最悪の状況で最善の手を考えるつもりでいる。見えない襲撃者の斬撃は確かに脅威だが、襲われている限り相手はそこにいるしむしろ最悪は距離を置かれて襲撃者を完全に見失うことである。音律に感覚を研ぎすました古志郎は周囲にある気配を全身で感じ取ろうとする。彼の正面には襲撃者がいて背後にはベルンハルト博士、その半歩前には菊が進み出ていたがもう一人の娘は立ち尽くしてうろたえているだけに見える。この危急で我れ先に逃げようとしないだけむしろ立派というものだろう。

「ど、どどどどうしましょう」

 玉はただ狼狽して呆然とする以上のことはできずにいたが、鈍なりに何が起きているかは理解する。博士に襲いかかろうとしている者がいて、皆が彼を守ろうとしているのだ。怖い、逃げたいという衝動が浮かんでわけも分からぬまま走り出したかったが、唐突に流れた芦笛の音律が聞こえると素朴な調べに込められた意思が彼女の足を止めさせる。人の感覚を鋭敏にして思考を鋭くする、それは玉にも影響を与えるが平静を取り戻したところで書籍に埋もれて生きてきた彼女が危急に英雄的な行動をできるはずもなかった。どうしようと心中で繰り返すばかりの玉にも笛吹き名人の音律から広がる論理回路の波形は届く。それに反応したのは彼女ではなく彼女が抱えている古い本で、ソロモンの目と題された、その本の表紙に浮かび上がる模様が論理回路の波形に干渉すると新しい波が形作られて「彼」の所有者に命令する。
 ほとんど無意識に本が開かれると繰られた頁の一枚に描かれていた格子模様が指先でなぞられる。読めるはずのない言葉が唇から漏れていることにも彼女は気づかない。

「永遠に・・・たどり着くことがない座標」

 見えない襲撃者が持つ論理回路の力は彼の周囲にある空間に影響を及ぼし、光を反射せずに透過する現象を引き起こすというものである。それは精密ではなく歪みも生じるが、この能力で彼はこれまで好きなことをしてきたし今回のような仕事のことごとくを成功させていた。単純だが誰からも見えないという能力は強かった。彼の目の前に身を呈して立ちはだかっている青年も特異な力を持っているようだが、彼に勝てるはずもなく血の飛沫を上げるばかりで反撃すらできずにいるではないか。当然だろう、彼が持つ論理回路の力は光を反射せずに透過する現象を発動させることができる。それは精密ではなく歪みも生じるが、この能力で彼はこれまで・・・。

 襲撃者の目の前には、身を呈して立ちはだかる古志郎の姿があるが斬られるまま反撃することもできず致命の傷を避ける以上のことはできていない。彼が狙う標的は青年の更に後ろにあり、警備の者が集まってくる前にことを済まさなければならないが彼の能力であればそれは容易に思われた。目に見えることのない白刃が振るわれて赤い飛沫が視界に舞っているが、それが繰り返されていつまでも変わらないことに彼は永遠に気がつかない。
 襲撃者の足下にはソロモンの目に描かれていたと同じ格子模様が描かれている。それは現実とは異なる時間軸に存在しているが故に他を認識することはできず、他に影響を及ぼすこともできない。描かれている模様はなぞられた指先と同じ経路をたどって最初の座標に戻ってしまい、後はそれを繰り返すだけである。彼は決して変わることのない世界で獲物を殺そうとし続けるが、永遠にそこにたどり着くことはなくやがて世界から時間が取り残されるとそれは切り離されてしまう。

「何、が、起こった、の・・・?」

 蒼白な顔で玉が呟いている、その頁には今は何も描かれておらず白紙になっていた。見えない襲撃者が唐突に消えたことを古志郎や菊は不審に思いながらも、彼らの仕事を思い出したように博士の身を案じているが玉は襲撃者がどこに行ったのかを知っている。彼は今でもここに、いや、今ではないここにいるのだから未来と過去が見えないのと同じくもはやどこにもいないのだ。玉は自分が理解もできぬままに、自分が使ってはいけない力を使ったことだけは知ることができた。

「感謝します。ご助力がなければ無事では済まなかったでしょう」
「こちらこそお叱りを受けるべきところです。申し訳ありません」

 自分が助けられたことを率直に認めて頭を下げている古志郎に、菊としてはただ恐縮するしかない。本来であれば女が男に従わなかったことも、命令に従わなかったことも断罪されて然るべきだが古志郎が感謝するというのであればそれを受けないことも正しくあるまいと、強引に自分を納得させることにする。
 襲撃者がいつの間にか消えたとしても彼らの任務が終わったわけではなく、むしろ襲撃の事実を思えばより警備を強化して博士を護衛しなければならない。遅れて駆けつけた警護の者には、騒然とした周囲の人々を収めることを任せると改めて博士を駅舎まで案内する。

「参りましょう、博士」
「アア、ソウデスネ」

 促されて、呆然とした様子でいるベルンハルト博士の驚愕は彼らとは異なるものである。彼の目の前で幾人もの若者が当然のように論理回路を、ゲートを開いて不可知の力を用いてみせたことは彼を驚かせるに充分だった。世の中には生まれつき論理回路を認識できる者、ゲートを保持する者が存在するが欧州では未だにその条件は解明されていない。だが東の果てにあるこの小さな国では論理回路を扱う者がこれだけ存在している、それは偶然とは思えず理論化体系化はされてなくとも後天的に技術を習得あるいは訓練する方法がこの国には存在しているということではないのか。
 現在のところ、論理回路にまつわる研究はどの国でも公には認められていない。その理由は二つあって一つは科学として認められるだけの法則性が未だ見出されていないこと、そしてもう一つは論理回路の発見による社会的影響が大きすぎるために秘匿されざるを得ない事情だった。彼らの力が生まれつきのものではなく、後天的に手に入るものであればそれを欲しがる国や組織は幾らでもあるだろう。欧州論理回路研究機構はこの国と強い結びつきを保つ必要がある、アルフレッド・ベルンハルト博士は常の愛嬌を消した視線で暮れゆく狭間の時間を見渡していた。

† † †

 報告。帝大明石研究所からランフォード商会に依頼された独逸人博士の案内の仕事は、突発的な事故こそあったものの問題なく解決して無事に要町にある領事館までの同道を完了した。通訳として紹介された小塚女史はそのまま博士に気に入られると、よければ今後も継続的な仕事を頼みたいと最大限の評価を頂いている。エミリー・ランフォードにとっては充分以上に満足すべき結果だし、どこぞで遊びほうけている代表が不在でも商会は何の問題もなく機能していた。

「まったく、何をしているのやら」

 彼女が嘆息しているのは叔父のクリストファーに対してではなかった。帝大明石研究所で暫定調査が進められているという、荒川分水路で起きた異臭騒動の続報として人為的な活動が疑われるという報告記事に目を通したためである。いずれ商会に要請があると思われるが、彼女が気にしていたのは追記にある、帝大明石研究所の調査員が一名負傷したという簡潔な添え書きにあった。どうして分水路の調査で怪我人なんてものが出るのか、そもそも明研の者が調査に遣わされる時点でまっとうな事件ではありえない。いっそ妖怪異形の類よりも人為的な危難こそが恐ろしい、ジアバヲキの惨劇が人の仕業であったように、獣よりも人こそが人に災いをもたらすことは珍しくもないのだから。

...TO BE CONTIUNUED.
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