SCENARIO#3
 いわゆる茶処や飯屋と呼ばれる店の類はこの国が開かれる以前からごく当たり前に存在していたが、異国から紹介された西洋酒場や喫茶室のような「風俗産業」が軒先を連ねていく様子を見ても時の帝国政府は文化と思想の惰弱化を恐れはしなかった、とはいえない。それはたぶん取り越し苦労にすぎなかったが、少なくとも冗談や笑い話ではなく健康と健全さの双方が政府直々に求められ推奨されていたことは事実だった。
 国が弱くなれば諸外国はすぐに保護や文明化を名目にした植民地政策を行う、そうした「侵略行為」は半世紀ほど前に世界から姿を消していたが、逆にいえばほんの半世紀前には行われていたということでもある。弱くあってはならぬ、強くなければならぬという帝国政府の考えは意固地に思えるかもしれないが、その根底には常に外国に占領される恐怖があったことを忘れてはいけない。

 クリストファー・ランフォード氏がいつものように時間をつぶしているミルクホールも、人々の体質改善や健全な生活のために政府が推奨する店のひとつであり、要町に限らず横浜や銀座といったあちこちの町で見かけることができた。茶よりも酒よりもミルクでポークビーンズをつつくのが氏の好みだったから、この国が英国のように手軽にミルクを振る舞ってくれるようになるのはありがたい。
 氏は決して仕事をさぼっているのではなく、人々が集まるこのような店で商売につながる噂話を集めているのだと吹聴している。

「ウォルフガング男爵夫人ですか。あまりよい噂を聞く人ではありませんな」

 そのときは控えめな表現にとどめたが、彼が英国の船乗りから聞いた男爵夫人の名は記憶が確かであればむしろ悪い噂ばかりで知られている人物だった。
 ウォルフガング家は歴としたオーストリア貴族で相応の所領もある伝統的な家柄だが、錬金術に携わって反教的な思想や活動で嫌疑をかけられたことも一再でないいわくつきの家系でもある。中でも現当主のエリザベートは彼女の実験に領地や領民を使ったとも言われており、立件にはいたらなかったがほとぼりを冷ますために出国すると帝国への滞在許可を得たらしい。

 帝国政府は欧州における論理回路研究の第一人者であるベルンハルト博士を迎えたばかりで、当時、連邦を脱退したばかりのオーストリアから夫人を迎えるとあれば面倒な説明は必要になるだろう。男爵夫人も英国を経由して帝国政府に接触をしているらしく、であればランフォード商会に受け入れの話が来てもおかしくない。
 おそらくベルンハルト博士のように、帝国との友好を保ちながら研究への助力を求めるような殊勝な考え方とは無縁の人物だろう。クリストファーは彼の事務所に伝えておかなければならないと思ったが、代表不在の間に男爵夫人と交渉代理の契約が結ばれていたことを氏が知るのはいつものように仕事をさぼって油を売っていたミルクホールから帰ってすぐのことである。

† † †

 二十世紀の初め、時間と空間の存在は絶対的なものではなくきわめて相対的に変化するという論文が発表されている。人々はただ一つの時間の中に共通して存在しているのではなく、別々の時間を持っていてそれぞれが外的な要因によって伸びたり縮んだりもするというものだ。
 たとえばもしも「彼」の時間が一人だけ他から切り離されるようなことがあれば、他の人々から取り残されて二度と合流することは叶わなくなるであろう。発表された論文や書き残された述懐から、理論が実践に移されるにはもう少し時間と才能が費やされる必要があるが、多くの者が新しい概念に興味と関心を刺激されることになる。

「A・エインステイン、スペシエリ・えーと・・・」

 読み方にただたどしさはあるが、若い娘が原文で読めるというだけでも当時には珍しい。
 開国に伴い異国からの文化や思想が流入して、人々に驚きを与えるのはたいてい新しい技術や知識であることが多いが、同時に違和感や抵抗を覚えるのは倫理の差異であることも多かった。ある文化圏で容認または賞讃されていることが別の文化では許容どころか存在すら認められぬ害悪という例も決して珍しいものではない。

 自分が感じている不安もそうした異文化への違和感にすぎないのではないか、小塚玉(こづか・たま)はそう考えようと努めていたが努力が必要な時点でごまかしを感じさせる。集中すると他に意識が及ばなくなるのは彼女の悪癖だが、このときも傍らから声をかけられねば思考の沼に沈んでいたこと疑いない。

「姉様、どうしたのですか?玉姉様」
「本?ええ、本よね」

 怪訝そうに見上げている里中菊(さとなか・きく)の視線に気づいて、曖昧な笑みを返す。玉が背嚢にしまい込んでいる「ソロモンの目」と題する本のことは彼女以外誰も知らぬことであり、少なくとも知り合って間もない娘にいらぬ不安や心配を与えることではなかった。
 一冊の本が人ひとりを消し飛ばすことなどあり得るものだろうか。過日、研究のために独逸から渡航した博士を迎えた折りの襲撃事件を、誰もが覚えていながら玉以外の誰も襲撃者がいたことを覚えていない。はたしてそのような記憶の混濁がありうるのか、何しろ姿のない襲撃であったから皆の認識が曖昧なのも当然だと、強引に納得しきれぬ自分がいる。

「それよりも、どこまで読み進んだかしら?小説は専門外だけど鴎外は翻訳でも有名な人だから」
「はい、豊太郎様はずいぶん軟弱な男だと思います!」

 明らかにはぐらかされた質問だが、菊にとっては彼女がもっとも話したかった話題だからむしろ話を戻してもらえたともいえる。過日の事件以来、玉が何ごとか気に病んでいることは知っていたが必要ならばそのうち話してくれるだろう。元来、菊は当時の女性らしく気が利きすぎる質があるが、相手が話したがらないことを聞いてもよい文化はこの国には存在しなかった。

「あー、そうね。貴女ならそう考えるわよね」

 菊の率直な感想に、思わず苦笑する笑顔がよほど自然に見える。玉が相談を受けたのは菊が帝都で暮らしてはじめてもらった給金で購入することにしたという文芸誌なる代物のことであり、勤め先のサロンに集まる人々が咲かせる会話の花に興味を持ったらしい。玉の得意は訳本や専門書だが仕事がら本を紹介したことは多く、知識の広さは帝都でも指折りだったろう。
 当時は坪内逍遥による心情や世俗を描写する小説が出回りだした時代であり、森鴎外や二葉亭四迷といった人物が世に知られていた。菊の目に鴎外が止まったのは娘らしく異人との恋物語に興味を引かれたのかもしれないが、小説を書くような男の心情が軟弱に思えてしまうのは男性主義の彼女には致し方ないかもしれない。

「殿方であればエリスを、か、かっさらっても良かったのではと思うのです!」

 若いというよりも幼い友人の一面に、思わず笑いをこらえながら今度は何を紹介しようかと考えた玉の心理はあまり純粋なものではなかったかもしれない。

 娘たちの興味はともかく、アルフレッド・ベルンハルト博士は恋物語に登場するには残念ながら歳をとりすぎている人物だった。とはいえ彼が先日紹介された娘たちをことのほか気に入ったのは事実らしく、帝大明石研究所とランフォード商会を通じて直々に声がかかると研究への助力を頼まれている。
 むろん、高名な博士の助手に娘たちだけを行かせるわけにもいかず明研は鳴神学(なるかみ・まなぶ)が、商会からは波斯初乃進(ふぁるす・はつのしん)が同行して研究所の扉をたたいていた。とはいえ彼らを送り出した側の感覚としては、学と初乃進のお目付役に常識人の娘たちをつけたという側面もないといえば嘘になるだろう。

「2000うみうし力ですか?私の記憶ではテスラコイル二次共振実験の測定値が近似値を示していましたな」
「なんと!それは操雷誘導の原理値に近しい・・・なんという偶然、いや、異なるアプローチが同じ現象にたどり着くとは実に興味深い、ええ興味深い」

 興奮を抑えきれない様子で奇妙に意気投合している二人だが、残念なことに彼らの会話は玉にも菊にもさっぱり理解ができなかった。
 幼いころから我流で操雷実践研究にたどり着いていた学は生き物や物質を電荷の単位にまで細かく分解することもできると考えており、たとえば人間とハエをいっしょに分解再構築したら世にもすばらしいハエ男が生まれるのではないかと思っている。だが目の前にいるうみうし男は彼の理論を半ば実践していたから、彼がにゅるりとしている原理を実証できればハエどころかバッタ男すら実現するかもしれないのだ。

「そしてこれがハエ男電送装置ィ!」
「いやチガイマスが・・・電送デスか、ソレも面白い」

 研究室を埋めつくす巨大な装置に興奮している学の様子に、ベルンハルト博士は辟易するでもなく新しい着想に新しい研究のアプローチを得ようとする。彼も基本的に「逸脱した人物」ではあるのだろう。
 博士が進めている論理回路の研究は不可知の存在を認識する技術を指しているが、測定する対象は決して一意ではなく、別の次元や異なる力に接続する例もある。論理回路の研究が立ち遅れている理由はそこにあり、繰り返しても同じ結果が得られなければ科学に欠かせない法則性を見いだすことができないのだ。

「例えば私がにゅるりとしていても、他の人がぬるりとしていたら意味がないのです」
「あの、それって違うものなんですか?」
「何を仰る!にゅるりとぬるりでは雲泥の差!」

 力説する初乃進だが、きょとんとする菊はいまいち意味がわからずにいる。常人ににゅるりとぬるりの違いを掴めといえば難しいのは当然だが、実のところ誰の能力にも干渉できる彼女にとって術や力の違いは感覚として理解しづらい事情もあった。里中菊の「笛吹き名人」は能力者の中でも特異なものであり、ベルンハルト博士が彼女を指名したのは個人的な親交によるものではない。
 博士の研究は複数の論理回路を変調させて共有次元に接続させるというものだったが、これが実現すれば異なる能力を共通する環境下で測定して科学的な解析を試みることが可能になる。実現すれば論理回路の研究や技術訓練において飛躍的な進歩が望める装置であり、帝国独逸両政府が合意して共同研究の体裁を整えたのも当然だった。

 ベルンハルト博士が出奔した理由は軍の介入に辟易したことよりも、独逸本国には実際に装置に接続できる論理回路保持者が極端に少なかったからである。せっかく作った装置も数人しか使えなければ研究も進みようがなく、複数の術者を抱える帝大明石研究所の存在は脅威であり魅力でもあった。少なくともこの分野において帝国は先進国なのである。

「装置ハ完成シマシタ、バンザイ。デスガ問題がオコリマシテ皆サンに手伝ッテ欲シイのデス」

 博士がいう問題とは、せっかく完成した装置に想定しなかったトラブルが多発したことだった。接続が勝手に切断されたり雑音が混じったり、最初は故障かと思ったが明らかに害意が感じられるにも関わらず外部から何者かが妨害している様子もない。
 取り付けた計器で測ってみるとどうやら論理回路自体からノイズが生み出されているらしく、つまり接続した共有次元に害意のある「生き物」が潜んでいるとしか考えられなかった。放置することはできず、博士はそれをグリムと名付けると排除するついでに実際の接続試験も頼みたいというのが彼らへの依頼である。

「ようするに装置に憑いた化け物を退治して欲しいということですね」
「化け物!未知の世界に未知の化け物!すばらしい」

 要約してみせる玉の傍らで、学は始終興奮を隠せないといった様子で今行こうすぐ行こうと言わんばかりの威勢で身を乗り出している。適性でも個性でも意欲でも、これだけ術者がそろっている国は珍しく博士としては海を渡った甲斐があるというものだった。
 装置は完成したとはいえそれは本体の機構だけのことであり、例えば外観とか使いやすさといった類のものが無視されているのは仕方ない。接続する四人はしつらえた椅子に座らされると電極をくわえさせられて、間が抜けた姿を見えないように互いに目隠しをするのが救いだがもちろん視覚情報の影響を避けるのが理由で娘たちの羞恥心に配慮してくれたわけではなかった。

「タブン皆サンの感覚デハトテモ現実味のある夢ヲ見る気分にナルハズデス。デスが共有次元で受ケタ影響ハ変換サレテ装置から伝えラレマスから、ドンナ影響が出るかコレガワカラナイ」
「ようは気をつけろってことですね?」

 再び要約してみせるのは玉が翻訳の仕事をしているからではなく、博士もまた奇人であることを彼女が理解しているからだろう。まじめになって聞いてみれば、博士の発言にはあまりに不確定の要素が多く実際に接続する者は危険を承知どころか覚悟しておかなければならない。
 とはいえ異世界へダイブする、現実味のある夢とやらに行って無事に戻れる保証は今のところ何もないが、不安よりも好奇心が勝っていることは心中で苦笑している玉も含めて四者四様に認めざるを得なかった。

(つまり、私も奇人なんだろうな)

 人がいつ眠りに落ちていつ夢を見始めたのか曖昧なように、彼らが気づいたときすでに共有次元への接続は完了している。

 そこは実際には色も音も匂いもない世界だが、そこに接触した人間は色や音や匂いが世界に存在した頃の記憶を覚えていた。接続した共有次元にも当然ゆらぎは存在するから、彼らはそれを認識するために彼らがよく知っている世界の姿を無意識のうちにあてはめる。結果、一見して彼らがいた世界と変わらないがどこか違った場所という平行次元が誕生していた。
 現実の世界では彼らは電極をくわえておとなしく椅子に座っているはずで、人によっては寝言や寝返りくらいするのかもしれないが、それこそ寝ている身にはわからないことだったろう。

「オオーゥ!モン・デュウ(なんということだ)」

 唐突な叫びが初乃進の声であることに気づくまでに数瞬かかる。彼が驚愕したのは初めて体感する仮想次元ではなくそこで彼がにゅるりとしていなかったことだった。にゅるり流体拳を体得した彼がこの世界ではまるでにゅるりとしておらず、むしろがつがつしていたのだ。

「これでは行雲流水、にゅるれないではないですか!」
「にゅるらりれ・・・?」

 そういう初乃進の姿が確かにがつがつしたもので埋められていることに菊も気がついた。どうやらこれが博士のいうグリムのしわざらしく、思わず自分の手を見るとまるで右手が左手のような感覚がする。博士の装置が人間の感覚を変換させているならば、装置にトラブルを起こすことは接続した人間にトラブルを起こすということでもあった。

「ちょっと、これ、もしかしてとてもまずいです!」

 実際には電極をくわえて椅子に身体を沈めているはずの菊は懐から小さな笛を取り出すと笛吹き名人の音律を奏でる。そう認識した彼女の感覚を変換して共有次元に伝えるのが博士の装置であり、計測器が吐き出す記録紙に示されている数値が大きく振れはじめた。
 たいていの術者は論理回路を介していろいろな術を用いるが、菊の笛吹き名人は他者の論理回路に干渉してその効果を増幅させるという点が根本的に他と異なる。真っ先に反応したのは学が示している数値だった。

「マイナスからプラスへ電荷が流流流流流れる時ッ!」

 学の記録紙に書き出されている波形がいっそう劇的に振れて、それは明らかに笛吹き名人の影響を受けていたが博士の予想に反していたのは二つの波形が共振するのではなく単に菊のリズムに同調していることだった。いわば増幅された学の超感覚は、菊によって強化された力ではなく解き放たれた彼本来の秘めたる力なのだ。

「フウウウウウッ!フウウウウウウ!」

 甲高い叫び声を上げた学はこの世界で生きたレーダーになったかのように、背後も遠くも見えて音の指向性すら捉えてしまう。常人には耐えられない五感を超えた五感が仮想世界を駆けめぐって空間を歪めるノイズの位置もそれを起こしているグリムの居場所も、手で触れるよりもはっきりと知ることができた。
 新しい感覚に興奮を隠せない学はごく自然に彼が得た情報と思考を仲間たちの脳に直接送信する。本当は興奮した叫び声まで送り込む必要はないが、むろんそんなことに彼は頓着しなかった。玉や菊のように男性に対する認識が極端に薄い娘にすれば、殿方の感覚が直接送られる気分はよいとは言えないがそれでなくとも他人の夢を無理矢理見させられる感覚が快いとは思えない。

「科学とひとつになる!それが研究者の本懐ィィィ」
「本懐ぃぃぃ」

 隠れていたグリムは耳がとがった小さな鬼のような姿をしているが、手と足がすべて手になっていて器用にはねたりぶら下がったりしている。仮想世界の住人ではなく装置そのものに住み着いているが、装置が発生させる論理回路の影響を受けて共有次元や接続する人間に直接干渉することができた。気がつけば初乃進などはグリムが放り込んだノイズを何枚も布団のようにかけられて身動きがとれなくなっている。

 学はノイズの出ている場所を次々と見つけ出しては除去を始めている。広げた両腕から電撃を出すと意思のある生き物のようにグレムを撃つが、計測器の数値上では共有次元に潜んでいる歪みを捜索して電荷を書き換えることで正常な数値に戻しているだけだった。
 ベルンハルト博士の装置自体が論理回路を通じて別次元の現象を電気信号に変換していたから、学の操雷実践と相性がいいのは当然だったのかもしれない。このときに得られた膨大なデータは研究の大きな助けとなり、博士の論文には「SORAI」の文字が記されることになる。

「ブンダバール、オオゥ、ブンダバール(すばらしい)」

 菊の笛吹き名人や学の操雷実践からは多くのデータが得られて、あいかわらずがつがつしている初乃進も変換がうまくいかなかった場合のデータとしては意味がある。だが博士が理解できなかったのが玉の波形で、どう見ても論理回路を所持しない常人の数値にしか見えないのに共有次元に平然と存在していた。まるで何かが強制的に彼女を常と同じ状態に維持させているようにすら見える。

「えーと。ここは・・・?」

 その玉は先ほどまで電極をくわえて椅子に座っていたことも覚えているし、装置の何たるかも理解している。彼女の反応はそれこそ論理回路の影響を感じることができない常人のそれであり、幽霊を前にして幽霊が見えないでいる人間の反応に近いが本当にそうであればこの世界に接続できるはずがなかった。
 戸惑いながら、玉はこの世界で何かを探さなければならないように言われていたことを思い出す。誰から何を探すように言われたのかは分からないが、それは分からないふりをしているだけかもしれない。「彼」は白紙になった自分の一部を埋められるものがここにいることを知っているのだ。

「禁忌、禁断、触れてはいけないもの・・・」

 彼女の唇から漏れているのが誰の言葉であるかも彼女には分からない。禁断や禁忌の存在は古くから人を悩ませた命題だが過去に明快な結論が出たことはなく、おそらく未来においてもそうだろう。だが悩むことを止めれば暴走して抑えが利かなくなることを知っていたから、時として足を踏み外しながらも人は自らを律してきたはずである。考えずにただ封じることが正しいとは思えない、だから彼女は彼に選ばれていた。

「ソロモンの目に住まうもの、貴方の望みはなに?」

 世界には雷撃が暴れまわってグリムの歪みを打ち据えている様子が見える。命からがら逃れた一匹が世界の暗がりに逃げ込もうとすると、皆と離れて呆然としているかに見える玉の姿に気がついた。
 むしゃくしゃしていたグレムは装置の歪みを大きくして彼らの縄張りに入り込んだ獲物を引き裂いてしまおうとする。背後にある悪意にも、自分の手が無意識に本を開いていることにも娘は気がついてはおらず、もしも「彼」の声を聞いたものがいるとすれば当のグレム自身だったろう。

(名は記されている。あとは読むだけだ)

 自然な動きで、娘の指先が図形をたどるとすでに開かれていた頁から黒山羊の頭をした何かが伸びて背後にいたグリムをむんずとつかまえる。その瞬間、計測器が吐き出していた四つの波形が大きく乱れて接続していた四人の脳内で何かがはじけると意識を失った。

 その本は禁じられた領域に触れるものではないか、彼女は恐れている一方で本に携わる者が知者の記録から目を背けて本を封じるなどあってはならない。どのような記録であれ記す者と読む者がそれぞれの倫理を誤ったときにこそ悪魔は生まれる、彼女はそう思っていた。
 研究の結果は初乃進には不満だろうが、それを除けば充分に満足すべきもので接続する次元が異なる場合にがつがつをにゅるりに変換する課題が存在することも確認できたし、学のおかげでグリムを退治することもできて菊の笛吹きが論理回路に干渉する現象も観測することができた。グリムがひといきに消えると同時に接続が切れた理由は不明だが、これで博士の研究も進めやすくなるだろう。

「どうかしたのですか?玉姉様」
「ええ、いえ、何でもないのよ」

 問いかけた言葉に、やはり曖昧な言葉しか返すことができない。ほとんどは気がついておらず、何かを察したらしい菊も確かめることができずにいるが、玉はもはや何が起きたのかを嫌でも知らされている。彼女が抱えているソロモンの目、先ほどまで白紙であったはずの頁には新しい図版が描かれていて、そこには「グレムリン」の項が書き込まれているのだ。

† † †

 後日談である。帝大明石研究所とランフォード商会の協力によって、ベルンハルト博士の実験装置はその有用性が示されると今後の論理回路研究にもおおいに期待が集まることになった。渡航の成果が早々に見られたことは、博士にも帝国政府にも喜ばしいことであったが、本国独逸で充分な期待に答えることができなかった陸軍開発局への批判が上がったことも間違いない。

「ことは国の未来に関わる問題である!同盟国であれ独逸の頭脳が他国に主導されて良いと本気でお考えか!?」

 そうした声はいまだ軍内部のものであり、しかも一部の反動的な主張ではあるが無視できる言葉でもなかった。同時に帝国と独逸両国の関係に神経をとがらせている者にすれば、論理回路の研究分野で遅れをとることは望ましい事態とはいえず警戒せずにはいられない。しぜん、帝大内に設けられたベルンハルト研究室には好意的なものと、非好意的なものの多くの視線が向けられていくことになる。

† † †

 鉄と石炭で築かれた世界に生まれた異人たちが蒸気船の甲板から初めて帝都を眺めたとき、この国は木と土でつくられた未開人の地としか考えられていなかった。
 だがその未開人が建てた建物は正確な測量をもとにした巨大で精緻な構造物で、石垣はそれ自体が強固な砦であり町には上水道も下水道も敷かれていて沿岸には港が掘られて堤防が設けられている。これだけ設備が整えられた国など彼らの故郷にも存在しない。

 むろん、帝国政府も赤鬼や青鬼たちが世界を蹂躙してきたいきさつは知っていたから、自分たちはすでに先進国なのですよというアピールを必死にしていたという事情もある。半世紀以上昔のこととはいえ、異人たちは野蛮な連中を文明化してあげるという大義名分で多くの国を植民地にしてきたし、当時の意識を今も持ち合わせている人間などもういないとは言えなかった。
 幸運にも帝都は東の果てにあったから、彼らが海を越えてやってくるあいだに準備をすることができたし鬼たちも自分のしでかしたことを後悔するようにはなっていた。

「亮太郎、珈琲をもう一杯お願い」
「はい、姉様」

 邸内の世話を任せている忠実な甥に声をかけると、松平健子は読売や雑誌記事の切り抜きを無造作にテーブルに放り投げる。まったく帝都には人が多すぎる、国が大きくなることは本来好ましいが、明日は倍に増えた人間が明後日には五倍になっているとあらば受け入れる器が足りなくなるのも当然だったろう。

 帝大明石研究所の事務所を兼ねている、松平邸のサロンで彼女が放り投げた記事には荒川分水路で起きた異臭騒動の顛末が載っている。西欧では下水とは汚物どころか死体まで放り込んで蓋をしただけの場所だったが、もとは農業国だったこの国では汚物を集めて堆肥にする風習があったから下水はあくまで雨水を流すための場所だった。
 つまり帝都の下水はわりときれいだから蓋もせず川に流しても大丈夫だった。とはいえ人が増えれば汚水も増える一方になり、処理場を設けたとしても量が増えれば捌ききれなくなる。ことに大雨が降ると流れ込んだ雨水が処理場をあふれて川や海に悪臭が立ちこめた。一般に下水溝と呼ばれているものが、汚水溝と雨水溝に分けられるのはこの時代から一世紀以上も後のことである。

「汚きを認めて清きがある、蓋をすれば無知と恐怖が生まれてしまうのは仕方がないのかしらね」

 松平女史が代表を務める帝大明石研究所、明研に持ちかけられた依頼は荒川分水路の一画にある地下溝で化け物の目撃談があったことによる。
 調査の目的はむろん、騒動になる前に「何もなかったこと」を確認することであり、結果が問題なければそれで構わないが何かが発見されれば適切な処置を行って何もないことにするのが彼らの役割だった。
 開国に伴う文化の流入や急速な発展により、人は変化に敏感にならざるを得ず悪い変化にはことのほか過敏な声を上げる。可能であれば騒動は目にも耳にも入る前に解決したい、それが政府の本音だった。

† † †

 この時代、帝都にはすでに百万を超える人間が暮らしていてそれは時を経るごとに増えていたが、より目を引くのは異人を多く見かけるようになったことと、町の外観そのものが日々変わっていくことである。古い建物は西欧の様式を取り入れた建物に替わり、路面は石畳で舗装されて側溝や下水溝も蓋をされるか地下に姿を隠してしまう。以前は水路には水が流れていた、今は目に見えぬだけで汚物や化け物が流れているとなれば迷信じみた批判や非難も強くなるというものだろう。

「地下溝の異臭や悪臭は確かに槍玉に挙げられることが多いですが、化け物となれば話が飛躍しすぎます。だからこそ一概に妄言と退けることもできますまい」
「条件がそろえば妖の類はどこにでも生まれますが、人の偏見はそれを助長しますからね」

 櫻古志郎(さくら・こしろう)の言葉に式神使いの意見として冬真春信(とうま・はるのぶ)が返す。拝み屋の家系に生まれて術を磨きながら医学を志している春信に対して、古志郎は純粋な賛嘆の念を持っていて年下の知人の言葉をついかしこまって聞いている。
 春信にすれば恐縮させられる話だが、医学でこそ癒すことや救うことができる者がいることを彼は伝聞と体験の双方で知っていた。彼の恐縮は己の志ではなく未熟非才の身に対してであり、むしろ士官学校出身の俊英として知られる古志郎のほうがよほど志を行動で現しているのではないかと思う。いつの時代であれ、思想よりも讃えられるべきは行動のはずだった。

「偏見であれば対話で越えられるかもしれない。なるほど冬真殿の友人は羨ましい」

 古志郎のつぶやきは特定の人物を指してはいないのかもしれないが、その言葉に操雷実践研究の青年を思い浮かべた春信は心の中で嫌な顔をする。鳴神学のような狂科学者と親しく思われるとすれば心外だが、嫌いというのも大人気なく好きではない相手と口論ができることも対話ではあるのかもしれない。
 家業のためか遺伝のせいか、代々男系が早世する春信の家系で術よりも医学のほうがよほど人を救えるではないかと考えるのは自然であり、科学を手段ではなく目的ととらえている(ように見える)者と相容れるとは思えないが端から見れば探究心のある学究肌、でくくられてしまうのだろうか。思わず考えこむ春信の耳朶に太い声が響く。

「なんだ、思ったほど悪臭ふんぷんたる場所でもないではないか。だが暗すぎるな、これでは某の三角筋の陰影が浮き立たぬわ」
「明かりというか、明かり窓があるといいですね」

 交わされている言葉が意識を現実に引き戻した。地下溝には補修や整備のための縦坑が設けられていて、彼らはその一つから足を踏み入れていたが周囲の当然の暗さに不平を鳴らしている神代一角(かみしろ・いっかく)に龍波真砂子(たつなみ・まさご)が頷きを返している。
 今回、調査の依頼そのものは帝大明石研究所が受けていたが、民間から協力を仰ぐ体裁のためにランフォード商会から人が紹介される例は珍しいものではなく真砂子などもそうした類だった。女性に対して下水溝に入れという依頼はどうかと思わなくはないが、このような環境で鳴り止まずにいる腹の虫が周囲をなごませつつ彼女を恐縮させてしまう。

「我ながらおばけ巫女と呼ばれるのも仕方ないかと」
「なんの、ならばおばけなど皆が忘れるほど食えばよい」

 それではおばけを超越した巫女になってしまう。一角の言葉は彼なりに励まそうとしているのかもしれないが、先に熊林家の令嬢を救ったときも娘子が肉食を嫌悪するのはよろしくないと「すてえき肉」をもりもり平らげると筋肉をむきむきぴくぴくさせていたものである。どだいこの男に年頃の娘を理解しろというのが無体な要求だった。
 そのときは真砂子が熱心に賛同して、もともと肉食は薬膳として生き物に感謝を捧げる食事だったのよと諭したことで一応落着している。それで娘が肉を食べるようになるとも限らず、丁重においとま願われたことも確かだが少なくともこの無骨な筋肉達磨が真砂子に感心してみせたことも確かで、以来、一目置かれたように思えるのはさて喜ぶべきことであろうか。

 地下溝には明研からは古志郎と春信に一角の三人、ランフォード商会からは真砂子を含めた数人が声をかけられて潜り込んでいる。先に熊林邸の事件に加勢した公園暮らしのおじさん、烏山是清(からすやま・これきよ)も商会に登録したらしく顔を見せていたが当人は公園暮らしを否定していた。

「浮浪者ではあるまいし。ただ住所不定なだけですよ」
「あ、あの?それって・・・」

 浮浪者といったいどう違うのだろうかと真砂子は思わなくもないが、是清が言うには上京したばかりでまだ住むところが決まっていないだけらしい。では今はどうしているのかとそれ以上追求しようとは思わなかった。
 地下溝は多量の雨水を流すためにつくられているから思いのほか天井が高くつくられていて、浅く水が流れている今はなおのこと広く感じられるが足下を濡らさずにすむ場所は少なく水かさが増せばそこも沈んでしまう。

「ここをねぐらにするのはちょっと無理そうですねえ」

 冗談とも本気ともつかずに言っているが、別に是清がここに住むわけではなく化け物の正体が忍び込んだ浮浪者や野犬の類ということがなさそうだというだけである。彼らが思っていた以上に地下溝は水以外のものが入るには向いておらず、人間など場違いの最たるものだった。
 だが場違いというのであれば、真砂子などの目によほど奇異に映っているのはこのような場所で裾の長い洋装を下水に浸して平然としている長身の女性とその従者らしい二人連れであったろう。聞いた話では歴としたオーストリア貴族の出自というらしく、そのような人が帝都の下水溝に潜る理由が思いつかない。

「あの、男爵夫人、様?そのような恰好でいいんですか」
「・・・」

 気遣わしげに声をかけてみても無言のまま一瞥されるだけで、無礼極まりない態度だというのにむしろ恐縮してしまう。ウォルフガング男爵夫人エリザベート(ー・ー)は黒髪に緑の瞳をした貴婦人で、このような場所で彼女の高貴さが損なわれるとは微塵も考えておらず、泰然とした様子がむしろ異様な近よりがたさを感じさせる。背後に控えている長身巨躯の青年も、主人以上に無口で無表情な態度が人形めいて見えた。

「地下の構造は覚えていますね、アルブレヒト」

「Ja」

 促されると主人の意を解した青年は巨大な荷物をまるで空き箱のように軽々と担ぐ。髪も目も銀色をして全体的に色素が薄く、まず端正といってよい外見と分厚い身体がアンバランスに感じられた。秘められた膂力は一角にも匹敵するかもしれず、ほう、と筋肉達磨を感心させる。
 西欧では下水溝とは汚物どころか死体まで放り込んで蓋をしただけの場所だったから、川に流れ込まないように埋めてしまうと、それでも漏れたりあふれたりして疫病の原因になったこともある。復活のための埋葬といえば聞こえはいいが、積み上げた髑髏の山を見れば廃物以外の何であろうかと男爵夫人には笑止に思える。この国の地下溝はそのようなことはないらしく、未開人なりに立派なものだと感心するに値した。

 論理回路を通して現れる歪みは「意味」に応じた姿や力を得るのが常だから、たとえば狂犬病のない世界に狼男は現れないし陽光がすべてを焼く地域であれば夜闇はむしろ休息と安らぎの意味を持つ。帝都の地下溝に現れたものがこうした異形妖怪の類であれば、むろんそれはこの場所にふさわしい姿や力を持っているはずだった。いわゆる妖怪退治を生業としている者は相手の正体を予測してどうすべきか考えることが多く、是清のように場慣れした者であればなおさらだろう。

「さて。化け物とやらが本当にいたとして汚水ではなくただの水が正体なら厄介だと思いませんか?」
「水の眷属がいるかもしれない、そう仰いますか」

 穏やかに尋ねる言葉に春信の表情が引き締まる。下駄履きに和装という姿で公園暮らしのおじさんめいて見える是清だが、飄々とした風体に似合わず荒事に長けた人物ではあるらしく春信にとっては式神使いの先達でもあった。
 下水に潜む化け物であれば不衛生な病魔めいた存在を考えていた春信だが、もしも是清が言うとおり相手が汚物をまきちらすでなく大水を起こす化け物であれば力は比べ物にならないほど強い。不忍池の大ナマズもそうだったが水の眷属とはつまるところ竜のことであり、古来からこの国の人々が戦ってきた存在なのだ。

「確か陰陽五行で水を止めるのは土でしたっけね。おやそれとも木だか金だったか」
「水に克つは土、木は水より相成るのが五行です」

 多少不安になるが、家や宗派でひととおりの術や技を習う者にとって基本だとしても是清にはそうでないということだろう。であればこの男はそうした事情も背景もなく式神を扱えるようになったということであり、それはそれで驚嘆に値する。
 話しながら、是清の足下から伸びている「影」が下水溝の先に消えていることに春信は気がついた。おそらく地下溝に入るとすぐに探りの手を伸ばしていたのであろう、判断も行動も明らかに場慣れしている是清に春信は一瞬、無為でいた自分に気恥ずかしさを覚えるが無意味に真似をしようとはせず即応できるように意識を集中すると是清も静かに頷いてみせる。

「ええ、二人で釣りをする必要はないですね。かかったら教えて差し上げますよ」
「大物を期待しています」

 珍しく冗談でこたえた春信だが、彼らの釣りはさほど長い時間忍耐を試す必要がなかった。浅い水面をすべるように伸びていた是清の影は水路の奥に突き当たれば向きを変えてさらに奥へと向かう、機械的な動きではなく式神自身の意思が感じられることも、およぶ範囲の広さも尋常なものではない。
 名もなき式神の影が大きなかたまりのような力にぶつかると、是清の足下に伝わってわずかに盛り上がるようなうねりを見せる。是清も春信もそれを見逃さず警告を出すと水路の奥に視線を移し、近づいてくる力が誰の目にもわかるほど影のうねりを大きくしていく様子が見えた。

「来ましたよ、と言われるまでもないですかね」

 浅いはずの水面に、巨大な影が現れると水そのものが盛り上がるように小山のような姿が現れて生き物めいた形に変わる。それは首と尾が蛇のように長い巨大な亀のような姿をして、ちょうど古代中国で知られている玄武という霊獣に似ていた。水の眷属、水は人に悪意を抱きはしないが暴れる水は人も物も塵芥のように潰して平然としていることができる。

「八葉・無月(むげつ)、塁壁を築く!」
「失礼、壁が足りぬかもしれませんで」「ぎょ」

 とっさに指先で印を組んだ春信を中心とした環が生まれると、水面に描かれた文様から土壁が伸び上がる。その土壁を踏み台にして飛び上がった是清が、器用に地下溝の天井を蹴ると頭上から伸びた影が格子のように何本も降りて土壁を貫く骨組みになった。
 数瞬遅れて玄武の背から大波が襲いかかり、土壁に激突すると振動と轟音が地下溝を激しくゆらす。彼らがいなければ人間など水圧だけでつぶれてぺしゃんこにされていたにちがいないが、押し寄せる水の壁を食い止めた土壁もそれで力を使い果たすとくだけてしまい、土くれの向こうで巨大な甲羅がかまくびをもたげる姿が見えた。大きく息を吐いた二人の後ろには真砂子の華奢な姿がある。

「ふむ、ここは儂の出番であるか?いえ鎧山さんが出るほどでは何をいうかあの化け物はあまりに強い、真砂子の嬢ちゃんは引っ込んで鎧山さん待ってください待ってえー」

 自分の唇から漏れる言葉を相手にやりあう、傍目に奇異な労苦もむなしく次の瞬間には彼女の内から勝手に解き放たれた力が水面に水しぶきの輪を描く。鬼力変身、波が収まった中心に真砂子の姿はすでになく、漆黒の鎧に三本角の巨体をした力の黒鬼・鎧山(がいざん)がそびえるように立っていた。
 仁王立ちの姿から両腕をゆっくりと回すように、正面に腕を組んで力強く構えてみせる。さあこい、どん亀とでもいった風情で不動の構えに組んだ鎧山が両腕を今度は左右に広げ、迫りくる玄武を正面から受け止めると再び地下溝をゆるがす振動が起きて壁や天井に張られた板がところどころ崩れ落ちた。

「ぬう、これは・・・!」

 がつんという音が響き、精霊か竜にも等しい力を堂々と受けてみせる鎧山だが最初の一撃を止めてから押し返そうと踏ん張ったところで急に力が抜けたように身体が傾いて片膝をついてしまう。
 あまり力があるからこそ鎧山を宿す真砂子の消耗も尋常なものではなく、あっという間に変身が解けてしまいもとの巫女姿に戻ってしまった。これでは真砂子が呼びたがらないのも道理だが、あらぶる巨獣を前にして彼女が一人残された状況はあまり危険に過ぎる。一角を先頭にして慌てて男たちが加勢に入ると振り下ろされる尾を交叉させた十手と鉄扇で受け止めた。

「急げ!某の大臀筋も長くは持たぬぞ、大臀筋も!」
「はいはい、逃げると逃がすはお任せあれ」
「八葉・六花(むつのはな)!水を鎮めろ!」

 一角の声にすばやく応じた是清の影が伸びて真砂子の身をくるりと巻くと、春信の式神が一時でも鎮めた水面をすべらせるように引き戻す。この際水浸しになるのは勘弁してもらうしかないが、娘の安全を確認した一角は下半身から背中の筋肉をもりもりと隆起させて全身がひとまわり大きくなったようにも見えた。
 式神の土壁を砕いて鬼が正面から対峙するような相手に堂々と挑むのはこの男くらいのものだが、力には力で、速さには力で、技には力で向かわなければ彼の筋肉が黙っていない。真砂子の鬼もかくやとばかり、玄武の尾を受け止めた十手を力づくでひねると逆手に握る鉄扇で思いきりなぐりつけた。

「哈ァ!」

 すかさずカラクリ十手から伸びた鎖を絡めてやはり力まかせに引き寄せる。いかに筋肉達磨の一角でも大きく振りまわされる尾で打たれれば無事では済まず、身体ごと引き戻されそうな力に全身の血管を脈打たせる。あきれた大力だが押し寄せる大波を相手にして人間が一人で耐えられるものではなく、尾の力に引きずられそうになるが幸い彼は一人ではなかった。

「若いの!頼むぞ!」
「承知しました!」

 短く返答した古志郎が一角の傍らを跳ぶと、彼自身の意思がそうであるように真直ぐ構えた腕を巨獣に向ける。相手が水の眷属であれば力が強いことはもちろん、単純に打つことも切ることも容易ではない。無手のまま至近距離に近づくと、玄武が鎌首をもたげるが咬みつくのではなくたたきつける力そのものが脅威だった。
 尾と同じように、怪物は振りあげた首を巨大な鞭のように振り下ろすが、それを予測した古志郎は臆せずに一歩を踏み込むと反りかえった首の付け根に右の手のひらをかざす。不可知の空間から折れぬ武器を出現させる古志郎の確定武装、力が現れる瞬間の円形の力を盾のようにぶつけると、固いものが弾ける音がしてそのまま添えた左手で力を受け流してみせた。

「水を制するも人の技、鎮まれば波濤はただの水に戻る」

 大きすぎる力を止めるのではなく、均衡がとれた力と技で流す。渾身の一撃をさばかれた玄武がもう一度首をもたげると、正面に毅然と立つ古志郎が伸ばした腕の先に改めて確定武装の刀剣が現れた。化け物の咆哮が地下の壁に響き、振りまわされる首の動きを正確に見定めた剣筋が右に左に弾いてみせる。
 古志郎が一撃を弾くごとに地下の壁を大波が打ちつけるが、玄武はそれで激昂するのではなく繰り返すごとに勢いが鎮まっていく。水の一撃は常に最初が致命的で、荒ぶる波は人を脅かすが鎮まれば恵みをもたらす水に戻る。古き剣は戦の道具ではなく神を祀る祭器だった。

 もはや化け物から害意は感じられず、力が強いだけで穏やかな存在に変わったことが誰の目にもわかる。やがて玄武の首が従順に下がり、皆が安堵しかけたところで古志郎の背から冷えきった声が聞こえてきた。

「もう宜しいでしょう。採取しなさい、アルブレヒト」
「Ja」

 主の声にずかずかと踏み出したエリザベートの従者アルブレヒトがごく無造作に化け物の前に立つ。とりたてて武器も持たず、構えもせず近づく男に鎮まりかけていた玄武が急変してあからさまな敵意をむき出しにすると再び鎌首を持ち上げようとする。

 忠実な従者は化け物の動きなど気にしたふうもなく、無表情のまま左腕を伸ばして長いだけの首の根元を掴むと片腕で軽々と持ち上げてしまい、引きちぎれそうなほど伸びきったところで胴体まで起き上がり甲羅に覆われている腹が目の前にさらされた。
 皆が唖然とする前で、不気味なうなり声を響かせたアルブレヒトが大きく引いた右の手刀を突き入れると甲羅を突き破った腕が肘まで埋まり、まだびくびく動いている肝臓が引っ張り出されると同時に左手に掴まれていた首が果物のように握りつぶされた。その常識離れした力以上に、それを無表情にやってのけるこの男こそエリザベートが創造した錬金術の成果であることがわかる。

「よくできました。あとは捨てて構いませんよ」

 返り血にまみれた姿の従者から差し出された化け物のはらわたを、エリザベートはごく当然のように受け取ると用意した箱に収めさせるが満足げに細めた両目には道を外れた者の光が閃いていた。皆が自失して見ていた中で、かろうじて理性を取り戻した古志郎が詰問する。

「待ちなさい!ご婦人よ、鎮まった異形をあえて手にかけた、その理由を伺わせていただきたい」
「暴れる水は制する、鎮まった水には恵みを求めるのが人の文明ではないのかしら?水を呑む理由であれば、のどが渇くからとしか言いようがないわねえ。ええ、とてものどが渇きますもの」

 あえて抽象的な表現が表情とあいまって背筋に悪寒を感じさせる。彼女の目的は錬金術の研究のために論理回路の影響を受けた生き物の肺腑を手に入れることであり、ただ欲しかったから手に入れたというだけのことである。
 地下溝に化け物が出たという事件はこれで解決してさしたる被害も犠牲もなく、回収した標本から研究が進めば大いに有益な結果をもたらすことできる。いったい何に不服があって青年が問うているのか、エリザベートには理解ができず理解するつもりもなかった。

「では名乗りもせずに問う無礼な方の名を頂けるかしら」

 そう言われて一瞬言葉に詰まり、非礼を詫びると階級まで丁寧に名乗った古志郎にエリザベートは嘲るような一瞥をくれただけでそのまま会話を打ち切ってしまう。貴族に対する礼は世の中に存在するが、彼女自身は他人に対して礼節を守る必要など認めてはいないのだ。
 地下溝に入るときに春信と会話を交わしたとおり、偏見を対話で越えられる間柄が羨望に値するというのは古志郎の本心である。だが目の前で青年を歯牙にもかけずにいるエリザベートには相容れないでは済まされない深く広い隔たりが存在した。

「行きますよ、アルブレヒト」

 傍らに無表情に立つアルブレヒトの右手は皮膚どころか肉が裂けて指の数本が歪んでいたが、当人には痛みすら感じている様子はなくエリザベートも気にする素振りすら見せていない。銀の目には一片の意思も感じられず、主の命令がなければ死ぬまでそこに立っているかもしれない、その従者の振る舞いを当然と考えているのがウォルフガング男爵夫人エリザベートという人物なのである。
 傷ついたアルブレヒトに大箱を担がせると、皆に挨拶すらしようとせずにきびすを返す。彼女が近よりがたいのも道理であり、軍籍にある古志郎には敬意を表して言葉こそ返したが他には視線すら向けようともしない。帝国にも皇族や華族は存在したし、階級は絶対だがそれは上が下を労り下が上を敬う関係であり、彼女のように人と虫ほどに隔てられた思想ではなかった。

 論理回路で見い出される不可知の存在よりも、海を越えて流入する他国の文化よりもはるかに深刻な異質。地下溝を出ようとしているはずの男爵夫人の姿がむしろ人が触れてはいけない領域に踏み入る者を思わせて、皆が一様に無言のまま、不快な残滓からしばらく目をそらせずにいた。

...TO BE CONTIUNUED.
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