SCENARIO#4
 松平健子の邸宅に設けられているサロンは、普段は彼女が事実上の代表を務めている帝大明石研究所の事務所として使われていることが多い。それは松平女史が帝大の敷地に赴くことを億劫に思っている故ではなく、きわめて政治的にならざるを得ない彼女の煩わしい仕事を研究所内に持ち込まず、可能な限り邸内で片づけられるという理由が大きかった。
 もともと帝大は官僚を要請するために設立された機関だが、それで先生と呼ばれる人や制服を着た軍人を頻繁に敷地に入れてよい理由にはならないだろう。ことが松平邸の内で済めば研究所の者は面倒な客の相手をする手間が省けることになるし、自宅であれば多忙な彼女も珈琲をすすりながら仕事を捌くことができるという事情もないわけではない。

「亮太郎。頼んだ件は済んでいるかしら」
「あ、はい。帝大までは里中さんが、その後は冬間さんが案内してくださるそうです」

 忠実な甥の返答に頷いてみせる。過日、帝大付属女学院からの推薦で学生を一名研究所に紹介されることになっており、健子はテーブルに置かれた経歴書を手に取ると改めて目を通した。帝大明石研究所、明研に紹介されるからには凡庸な学生ではありえない。
 不可知の知と称される、論理回路に携わる研究が明研の目的だがそれは一般的には荒唐無稽な超常現象として扱われているのが実状である。であれば論理回路を認識できる者の存在が貴重なのは今更で、当人がその能力に気がついていない例すら珍しいものではない。経歴書に書かれている記述もごくありきたりな女学生のもので、おそらく推薦がなければ健子の目に留まることもなかったろう。

「日下・・・どこかで聞いた名字だけど」

 決して珍しい名ではないが、経歴と合わせて記憶の片隅に引っかかる。それが帝大のつながりで女学院を訪れたおりに紹介された、有望な薙刀錬士の娘であることを思い出したのは数刻後のことである。

† † †

 帝大こと帝国大学は当時公布された法令に基づいて設立された、この国で最初の国立総合大学である。本来は官僚の養成を目的にした機関だが、法学部や工学部、医学部など専門性の高い高等教育や研究を多岐に渡って行えるように様々な学部が設けられていた。
 日下吟子(くさか・ぎんこ)はもともと帝国大学付属の女学院に修学していたが、幼い頃に養女に出された先の家がさほど裕福だったわけでもなく学院からの推薦がなければ進学することもなかったろう。女学院で嗜んだ薙刀を文武両道と評価されたことは光栄だが、当人は教育と学問への興味が深く、帝大でも文学部の席を得ていたから女だてらというなら武よりも文において示したかった。

「文学部というと、森鴎外とか読まれるのですか?」
「文学部は文学を嗜むところじゃないのよ。社会科学や人文科学を学び、この国の文化や社会を研究すること。福沢諭吉先生はご存知ないかしら」

 首を傾げている里中菊(さとなか・きく)に吟子は諭すように説明する。人は生まれながらの貴賎ではなく学ぶか否かで変わることができる、そう説いて学問を推奨した福沢諭吉の論に吟子は強く共感していた。できるなら教育者になって女性が学ぶ機会を増やす役に立てればとも思っているが、昔ながらの男尊女卑の思想が根深い菊のような娘を相手にして同意を得るのも簡単ではなさそうだ。

 進学にあたって吟子は自分が望む文学部への推薦を受けることができたし、奨学金も得られたのも願ったりだが一つだけ奇妙な条件を聞かされている。それは明石研究所という機関の手伝いで、今案内されているのも研究所への紹介のためだった。
 正午きっかりに医学部の棟の前で引き合わされたのは冬真春信(とうま・はるのぶ)という青年だった。吟子を案内してくれた菊はこの後、別の頼まれごとで独逸領事館に行く用事があるらしく明石研究所への案内は彼が引き継いでくれるらしい。春信は吟子よりも一年次の先輩だと聞いているが、年齢差よりも落ち着いた物腰が大人びて見えて悪い印象は受けなかった。

「何か分からないことがありましたら・・・とはいえ僕も医学部以外はあまり知りませんが。宜しくお願いします」
「あ、はい。ありがとう、ございます」

 ぎこちなく頭を下げる吟子だが、やはり殿方と二人というのは気がひけるらしい。それは春信も同様ではあったが拝み屋の家に生まれて他人と接する機会が少なかったわけでもなく、女性に怯む理由もなかった。
 春信が奇妙に思ったのは、明研に紹介されたはずの吟子が一見して妖怪にも超常現象にも縁遠いただの女学生にしか見えないことである。幼い頃から多くの同業者や術士と接したが、目の前の娘にはいわゆる「不可知の知」を認識する者に特有の雰囲気がまるで感じられなかった。

「妖怪、というと狒狒や天狗や河童の類ですか?地域の伝承や祭事から見えてくる文化は多々ありますよね」

 訊ねて得られた返答もこのようなものでは明研の仔細を話すのもためらってしまう。とはいえ才能があれど自覚がない例はこの世界で決して珍しい例ではなく、聞いてみると吟子も紹介されるに際してすでに相応の説明はされていたが、妖怪変化や超常現象と言われてまるで実感がないというのが実状らしかった。
 おそらく春信に案内が任されたのも、そこを含めて手助けしろということなのだろう。面倒には違いないが面倒ごとには慣れていたし、はたして目の前の娘にいったいどのような才能があるのか興味を惹かれなくもない。

† † †

 帝大の敷地を後にして、要町の大通りを歩いていた菊は目に入った大時計の針を見て足を早めていた。山形の田舎に暮らしていた頃であれば時間とは太陽の場所で決まるものだったが、少しずつとはいえ帝都での暮らしに慣れてくると時計というものがたいそう便利な代物であることが分かる。一日をいくつにも分けることができるのは確かにせわしないが、一人が何人もの用事を済ませることができるのは他に代えがたい。

「オオゥ。菊サン、お待ちシテマシタ」
「帝大に行ってたのですって?働いているのですね」

 ランフォード商会は特に欧州方面を中心にして政府機関や交易会社との取引を持っていたが、ここしばらく独逸領事館から指名されていたのはアルフレッド・ベルンハルト博士が菊や小塚玉(こづか・たま)を気に入ったのが理由であるらしい。丁寧に頭を下げた菊も人好きのする博士や年長の友人と会うことを楽しみにしており、国が違えど友誼や信頼が取引を支える上で大きな要素になる事情は変わらないようだった。
 ベルンハルト博士が研究を進めている論理回路共有次元構築装置、LOCUSSで得られた基礎データを本国に輸送するに際して回収の手伝いと護衛をお願いしたい、というのが領事館からの依頼である。論理回路の研究が遅れている独逸本国ではいわゆる「術者」の存在が絶対的に不足しており、博士が研究の場所をこの要町に求めた理由も絶対的な被験者数の差にあった。

「デスガ帝国と独逸の共同研究ニ懐疑的な声ガアルノモ事実デス。身内の恥で恐縮デスガ、独逸国内デモ批判ノ声は少なくアリマセン」
「それで護衛というわけですか。しかしそんな理由で研究が妨げられるとはあまりに惜しい、話して分かるならこちらには幾らでも熱く語る用意があるというのに」

 頷きながら鳴神学(なるかみ・まなぶ)は自分の言葉に同意している。飛躍的な進歩を遂げるべき研究分野が関係者個々人の思惑で滞ってしまうならば、それは単純にもったいないことだと彼は考えていた。
 政治的な思惑が理由であればそれは破廉恥というものだが、共同研究への反対派が独逸国内にもいることは博士から聞いていたし、それが国内での研究の機会を奪われたことへの不満であれば気の毒というしかない。仮に学が研究を奪われればたぶん死んでしまうに違いないのだ。

「なぜならば、そうなぜならば研究者にとって研究とは水にも太陽にも等しいから!」
「ゲナウ、ガンツ・ゲナァーウ(その通り)!」

 初対面以来、この二人は国籍も年齢も超えて意気投合することがあり、はたから見れば「英雄は英雄を知る」と思えなくもない。玉や菊などは気圧されながらも素直に感心している一方で、あからさまに冷ややかな視線を向けているのは傍らに長身巨躯の青年を従えた女性、ウォルフガング男爵夫人エリザベート(ー・ー)である。もっとも彼女であれば自分以外のすべての存在を蔑んでも不思議はないだろう。

「神聖でも帝国でもない土民の集落に大袈裟な名前をつけるのが独逸人ですものねえ。もう少し彼らが分別というものを身につけていれば、文明人並みに進化と進歩に興味を持つこともできたでしょうに」

 独逸人の博士を前に平然と言ってのける彼女だが、普墺戦争でプロイセンに苦杯を舐めたオーストリア貴族として野蛮な成り上がり国家を見る目に偏見が混じるのは致し方がないのだろう。とはいえ菊などにすれば独逸とは森鴎外の小説の舞台でもあり、ひいき目もあってエリザベートの発言は容認しがたいものがある。

「平然と無礼なことを仰られるのも、文明人にはほど遠い言行ではないかと思いますわ」
「あら。辺境に生まれ育った方を田舎者と言うのはただ事実を指摘しているだけですのよ」

 エリザベートにすれば辺境の島国に生まれた田舎娘に口をきいてあげているだけで、よほど寛大な行為である。それでも彼女なりに自分に反抗した生意気な娘に好奇心を刺激されたらしく、人を見下した視線は相変わらずだが口調はいくぶん穏当なものになっていた。

「独逸は分不相応な地位と面子を保つためにいろいろと無理をしているのです。恥ずかしげもなく神聖帝国などと名乗っているのもそうですが、実力などないにも関わらず独逸はこうでなければならぬと考える低俗な方があまりに多いこと。哀れみさえ覚えますわね」
「確かに面子のための研究など猥褻にすぎる。手足を縛られて生まれる発明などあり得ないだろうに」

 思わず同意したのは学だった。エリザベートの言葉は辛辣に過ぎるがまったく的外れにも思えない。
 近年、かの国では独逸青年党を名乗る行き過ぎた国家主義者の集団が影響力を増しており、ベルンハルト博士の研究にも積極的に介入していたらしい。それが後援者になるなら有り難い話だが、この手の人間は研究を奨励しつつ平然として「国家に有益な学問」とやらを定義したがるきらいがあり彼らも例外ではなかった。被験者の絶対数とは別に、博士が国を出た理由は政治的な面倒ごとを嫌ったせいもある。

「貴方は多少は道理が分かるのかしら?真理の探究に倫理や思想が介入するほど愚かしいことはありませんわ」
「全く同感!良識が科学の枷になるなどあり得ない!」

 そこまで断言してみせる二人の姿に、傍で聞いていた玉は抱えていた分厚い装丁の本を握る手に思わず力を込めてしまう。

 ソロモンの目と題された古い本、それ自体が意志を持つように知識を求めようとする様は気のせいでも錯覚でもない事実であり、禁忌を思わせる力に畏怖を覚えさせた。それでいて本が求めるものを止めようとも封じようとも彼女は考えることができず、ならば玉の思想もまたエリザベートや学と本質的に変わらないのだ。
 禁忌、禁断の知識というがそれが禁忌であることを誰が決めるのか。思想や倫理が結局は国家や信仰の影響を受けることを彼女は知っており、ならばソロモンの目の所行を止める権利を少なくとも玉は持っていなかった。

「神なき知育は悪魔をつくる、では人が伝えてきた営みを神様が否定なさるのかしら・・・」

 乱雑な研究室に積まれている、ベルンハルト博士の研究記録が詰め込まれたパンチカードの束を見て玉は独り言のように呟く。これも本や石碑と同様に知識を書き記すために人類が発明した手段であり、文字でも絵でもない方法で記録を残すことができた。
 紙束にただ空けられただけに見える穴にどのような意味があるのか、彼女はそれを読むことはできないが、例えば楽譜をなぞるだけで音楽が生まれるようにそれを読む方法は存在する。理解しない者が見れば楽譜から音楽が生まれる様は魔法に見えるだろう。

 ならば玉が抱えているソロモンの目も、文字でもなく絵でもなく読む方法が理解できれば無知ゆえの畏怖が薄らぐかもしれない。知らないから恐ろしい、それが邪とは限らないではないか。

「あの、私たちの仕事はこの紙束を運ぶことですよね。護衛するというお話ですけど、博士の研究は護衛が必要なほど狙われているのですか?」

 菊が訊ねている、その声で玉も現実に戻る。出奔して異国で論理回路の研究にあたる博士に批判的な声がある事情は分かったが、結果を本国に送るのなら少なくとも独逸の役に立つはずではないのだろうか。菊の質問に博士はどこか残念そうに首を振ってみせた。

「ツマリ独逸青年党が欲シガッテルのは独逸が知識ヲ持つコトよりも、独逸の中で彼らが論理回路ノ知識ヲ持ちたいというコトデスネ」
「例えば、軍事転用して国内で優位に立ちたいと?」

 その言葉に博士は情けなさそうにうなずく。確かに戦争が研究を助けた例は過去に存在するが、それは技術に偏重した奇形的な発展を促してしまう。まして政略のために研究を用いるなど論外で、エリザベートや学の主張に同意せざるを得なくなる。
 研究を軍事に転用することは決して悪ではないが、軍事利用できない研究は支援されないとなれば結局のところ研究は滞るだけなのだ。博士の言葉を聞いた菊は改めて考え込んでいる。

「えーと。先日博士をお迎えしたときもそうでしたが、異国で騒動を起こせば国同士の問題になりますよね。独逸青年党の方々って、それをご承知なのでしょうか」
「え?」

 菊の言葉に意表をつかれたように、やや頓狂な声を上げたのは玉だった。学はどこか落ち着かない様子で右や左に首を巡らせており、エリザベートは彼女の忠実な従者であるアルブレヒトに二言三言何かを伝えている。

 考えるまでもなく、独逸からの客人である博士が異国で害されるようなことがあれば、それが誰の仕業であろうと両国間の交友は消極的にならざるを得なくなる。ならば研究結果さえ手に入れば博士の無事は問わず、しかも周囲に被害が出ればいっそ望ましい事態になると考える者も現れるのではないだろうか。
 結果として利益になるか否かは関係なく、結果よりも手段を求めるのが原理主義と呼ばれる思想ならば目的の資料がひとつにまとめられた、奪取できる状態になった瞬間から襲撃の可能性は発生するということだ。唐突に博士たちと扉の間に学が割り込んで立つと、白衣を左右に開いた両脇から二本の電極を抜き放つ。

「ソォ・ラァーイ(これでも食らえ)ッ!」

 叫ぶと同時に、電極から二本の雷撃がほとばしると扉に叩きつけられた。閃光に続いて空気を震わせる衝撃が轟音を伴って響き、一撃で破られた扉の裂け目に二撃目の雷が吸い込まれていく。

「警告しよう。隠れているなら何発でも雷撃をお見舞いしてあげますよ!」

 問答無用で撃ち放って警告もなにもあったものではないが、威力は抑えたつもりだし直撃しても命を奪うほどではない。博士と娘たちを背においた学は電極の配線を両の手首につなげると、一度握ってから開いた掌に小さな火花と電光が瞬いた。扉の向こうからは何の反応もなく、燻った煙が立ち上っている。
 操雷実践研究は単に雷を撃ち放つだけではなく、あらゆる物質や生命に応用が効く学問である。生命が発するわずかな電荷を察知して目や耳よりも正確に周囲の状況を感知することができるし、雷そのものを身に帯びた超人として自ら危難に立ち向かうこともできるのだ。

 姿は見えないが生命の反応は消えていない。ゆっくりと近づいた学は帯電して火花を放つ両手を正面にかざしながら、壊れた扉を足先で押し開いたが、そこには歓迎されぬ訪問者の姿はなく砕けた破片と焦げた床の染みだけが散らばっているだけである。おや、と思った学の正面で蜃気楼のように空気が歪んだのと、菊の声が背後から届いたのはほぼ同時だった。

「います!目の前にいるんです!」

 笛吹き名人と呼ばれる彼女の才能は他者の論理回路に共鳴することができる。危険を察した学が咄嗟に身構えた瞬間、歪んだ空間そのものに殴られると研究室の床に尻餅をつかされた。一瞬、空間の向こうに見えた姿でそれが奇妙な盾を構えた兵士であることが分かる。

「電気でなく我が目を信じるとは、なんという不覚!」
「アレはアポステルという実験兵士デス!論理回路で歪メタ空間ソノモノを盾にシテルだけデスが、触レバ空間ごと歪メラレチマウ」

 後ろで守られながらベルンハルト博士が警告する。構えた盾に姿を隠すだけではなく、それで攻撃もできるとなれば厄介には違いなかった。
 殴られた学は咄嗟に電磁界を張って弾かれるように飛んでいたから、怪我は負わずに済んだが彼の大切な電極が歪んで折れている。人間がまともに触れれば到底無事には済まないだろう。

 アポステルは狭い研究室の出口に立ちはだかり、正面に盾を構えている。博士だけでも裏口から逃がすことはできるかもしれないが、研究記録を置いて行くことはできないし開けた場所で襲われれば今以上にどうしようもなくなるかもしれなかった。

「どうしたら、どうしたら・・・?」

 玉は情けない声で情けない言葉を呟いているが、もともと彼女は護衛ではなく通訳として雇われた身であり荒事に慣れているわけでもない。そもそも彼女が携えるソロモンの目が人の及ばぬ力を秘めていたとしても、彼女自身は論理回路を認識することもできぬ常人に過ぎないのだ。
 玉が抱えている分厚い本、これまで幾度か彼女の危難を救ってきたソロモンの目はただ不気味に沈黙している。そもそも玉は自らの意思で本を支配することなどできず、もしも持ち主の危難をソロモンの目が知っていたとしてもそれは「彼」にとってどうでもいいことだった。

 盾ごしに室内を窺っているアポステルの無機質な目には正面にある大きなテーブルと倒れている白衣姿の男、奥に積まれているカードの束と傍らにいる博士や娘たちの姿が映っていた。彼らの目的は博士の研究結果を手に入れることで人間はどうなっても構わない。
 戦闘力を有している、目の前の男を始末したら博士や女どもは処分した上でカードの束を回収する。本国を捨てて異国に媚びるような売国奴の博士はなるべく派手に殺したほうがよい見せしめにもなるだろう。無敵の盾を掲げると弱い者を駆逐するために足を踏み出すが、部屋の奥で斜に構えている女が嘲るような視線を向けた。

「人間を変えるでなく原始的な論理回路を持たせただけなんて、田舎者らしく短絡的で思慮に欠けますこと」

 エリザベートが嘲りと罵りの言葉を同時に吐く。この期に及んで彼女には狼狽した素振りもなく、他人を侮蔑することを止めようとはしなかった。侮蔑や嘲弄は強者の特権であり、盾の後ろに隠れて正面に立つこともできずにいる臆病な子供を相手にして敬意を払う必要はいささかもないと彼女は本気で考えている。
 明瞭で正確な独逸語はアポステルにも容易に理解できたが、それ以上に他者を見下す嗜虐的な表情と視線は誤解しようもない。生意気な女を懲罰すべく、歪んだ空間が突入するが女は凍てついた笑みを崩そうともせず傍らに立つ大男に呼びかけた。

「アルブレヒト。構わないから潰してしまいなさい」
「ja」

 主の声に、それまでアポステル以上に無表情のままで控えていた青年がにわかに動き出す。襲撃者との間に置かれている四角い大テーブルの脚を無造作に掴んで持ち上げると、半ばケースに詰められていたカードの束が崩れて床に散らばった。倒れていた学も転がるように部屋の脇へと逃げる。
 重い鉄製のテーブルが軽々と掲げられて、盾どころか壁のように構えられるとさすがにアポステルも唖然として思い出したように歪んだ空間の後ろに身を隠す。相手の反応など意に介さず、主の言葉にだけ従うアルブレヒトは地の底に響くようなうなり声とともに突進した。

「uhhhhhhhhhhhhh・・・」

 狭い室内でアポステルの盾を避ける手段がないのと同じく、突進する鉄板の壁から逃げる術もなく互いに正面から激突する。金属がきしむ嫌な音がすると、鉄製のテーブルがありえない形に歪むがアルブレヒトの足は止まらずそのまま押しつぶすように扉の向こうまで駆けて部屋の外にある壁面にたたきつけた。
 くきゃ、という聞いたこともない甲高い音がして、テーブルの向こうに果実のような赤黒い汁が飛び散ると思わず悲鳴を上げた玉や菊の鼻孔に金属的なにおいが流れ込んで気分が悪くなる。鉄壁の下に流れ出ている血と胆汁めいた液体の主はもはや人の原型すらとどめていないだろう。香を含ませたハンケチで口元を覆いながら、エリザベートは表情も変えずに部屋の惨状を見渡す。

「やれやれ、カードが散らばってしまいましたわね。もう少し丁寧に動けなかったものかしら」
「verzeihung」

 主人に嗜められたアルブレヒトが恐縮するとテーブルが床に落ちて重い音が響く。分厚い鉄板が歪んでいる様が常軌を逸した衝撃を物語っているが、袖までぼろぼろに破れた両腕がきしんで黒く変色している。驚いた声を上げたのはむしろ玉や菊であった。

「だ、大丈夫なんですか?」
「領事館なら医師がいます!急ぎましょう」

 だが娘たちの狼狽も気遣いもエリザベートには不要である。アルブレヒトの能力は人の限界を凌駕するが、過度の力は過度の負荷を肉体に要求する。負荷は痛覚となって現れ、薬物や施術で麻痺させる術も存在したが、痛覚とは肉体への危険信号でもありそれを除去した人間は危機に鈍感で兵士としては使えなかった。
 だから痛覚は残した上で反応を制御できれば、痛みを理解してそれを抑制することもできるだろう。どれほどの痛みであれ、耐えられるなら治療するまで我慢させておけばよいのだ。

 わざわざ言葉にはしなかったがエリザベートの主張は明快で、人間を超越した力を持つ従者よりも彼を従える女主人がよほど人を外れた存在に見えて玉には畏怖しか感じられない。知識の探求は悪ではないが目の前に凛として立つ女性の姿は禍々しさすら感じさせる、だが逡巡する玉の耳に学の声が聞こえてきた。

「彼はその状態に耐えるのですか?ならば色々な治療や施術が試せるのではないですか」
「その考えはありませんでしたわ。確かになかなか興味深いですわね」

 操雷実践研究は生命分野にも応用が効く。電荷をかけることで肉体の性能を飛躍的に高める術は彼自身が実践していたが、それは治療行為にも有効かもしれない。
 学の提案はエリザベートにも魅力的で、短絡的な独逸人の兵士とは異なる、錬金術にはないアプローチで素体の強化や修復が可能になるかもしれなかった。むろん被験体の意思は考慮する必要がなく、処分も廃棄もせず修復するだけよほど寛容というものである。

「ですがまずはデータと博士の護衛ですわね。アルブレヒト、貴方が散らかしたのですから回収しなさい」
「ja」

 当然のように点頭すると、折れ曲がった腕で散らばった資料を拾い始める。いまさら彼らの言行を非難しても止めようとしても無駄であり、少しでも早く治療させるなら早く仕事を終わらせるべきだと、小走りになった菊もデータの回収を手伝い始めた。
 邪魔にならないように部屋の隅に控えつつ、改めて博士の出立の準備を始めた玉は考えざるを得ない。恐ろしいのはソロモンの目ではなく錬金術でもない、その正体を知らなければ、いつか彼女たちは決して触れてはいけない領域にたどり着いてしまうのではないか。金属的な血のにおいすらも、呆然とする彼女には感じられていないように思われた。

† † †

 荒川分水路で起きた異臭騒ぎは、公にはされなかった下水道の化け物こそ退治されたものの事件そのものは解決されていなかった。だが官憲も何もしていなかったわけではなく、化け物がいなくなった現場の追跡調査を進めると原因と思われる汚水を垂れ流していた場所を特定することができたらしい。
 捜査そのものは警察の範疇だが、化け物が出るとなれば彼らの手に負える代物ではなく帝大明石研究所が協力の依頼を受けたとして現地を調べることになっていた。このようなとき、明研が帝大に属しているのは都合がいい。

「なんといいますか。もう少し、こう、にゅるりと柔らかい感触の建物が好みですな」
「それはどんな建物か見当もつかぬわ」

 流暢な日本語で意味のわからないことを呟いている波斯初乃進(ふぁるす・はつのしん)の言葉に、神代一角(かみしろ・いっかく)は呆れた顔を見せている。一角自身も開国前から続く捕り手の出自であり、捜査に携わっている者にも知己が多く手助けしたい事件だった。どんよりとした、景気の悪い空を見上げて息を吐いた後ろから質実な声がかけられる。

「公道の封鎖は完了しました。すぐに調査に移れます」
「早いのう。儂がいうのも何だが官憲の仕事とは思えん」

 櫻古志郎(さくら・こしろう)は士官学校を出ると海軍情報部に配された俊英だが、軍属のまま明研に派遣されて幾つもの事件に携わっている。だがそうした出自によらず気骨のある性格が一角の気に入っていた。
 急速な開発と異人の流入が進んでいる要町で、公的機関の後ろ盾がある明研だからこそ市民の混乱を避けるために立ち入り禁止のような措置もやりやすい。有り難くもあり助かりもするが、事実とは異なる説明を市民にすることに決して納得しているわけでもない、そのあたりの潔癖さが透けて見える古志郎の正直さも一角には面白かった。

「まあいつまでも工事中では迷惑だしの、せいぜい手短に掃除を済ませるとしようか」
「これは申し訳ない、お気を使わせてしまいました」

 冗談に真面目に反応する古志郎にがははと笑ってみせると、肝心の建物に視線を向ける。煉瓦造りの小さな建物は小さな窓にも内側から板が張られていて、しばらく使われていないらしく門脇に掲げられていた看板も外された跡がある。ここに来る前に建物の所在を調べているが、かつては明石博高研究所の関連施設として使われていたものらしかった。

「明石博高研究所・・・帝大明石研究所の前身だったという施設ですよね」

 古志郎と一角の背後から声をかけたのは春信で、傍らにいた吟子は護身用らしい長物が入った袋を下ろしてから挨拶をすると丁寧に頭を下げている。もともと帝大明石研究所は非公式に論理回路を研究するため、当時形骸化していた明石博高研究所を流用して設立されたものである。明石博高氏の研究そのものは当時も今も知られておらず、わずかな資料にも「電気神道」の単語が記されているだけで、学問としては非合理だとされていた。
 春信にすれば自分が所属する帝大と明研双方の過去であり、自分なりに調べたこともあるが大したことは知れていない。生真面目な性分は古志郎や里中菊などと同様で、今も吟子を連れているだけではなく、ランフォード商会の協力者数人を案内する役目も引き受けていた。損な性分かもしれないが、他人に面倒を頼むなら自分でやるのも気楽ではあろうとも思う。一人、巫女装束の娘がひょっこりと顔を出すと一角を見つけて陽気な声をかけていた。

「神代さん。先日は御馳走様でしたあー」
「なんの、こちらこそ実に見事な食いっぷりを堪能させてもらったわい。やはり娘たるもの肉をつけねばな、肉を」

 意味もなく力こぶを盛り上げてみせる一角に、龍波真砂子(たつなみ・まさご)は勢いよく頭を下げる。筋肉達磨の大男と、三匹の鬼を宿したお化け巫女を満足させる宴会とはどのようなものであったのか、春信などは想像しただけで満腹にさせられる気分だった。
 自分がいまひとつ年頃の娘として扱われていないことを自覚はしていたが、真砂子にすれば三匹の鬼に憑かれていることがすでに尋常でないことも自覚している。ならば大食いの鬼どもを養う無尽蔵の胃袋こそ危急の問題で、要町に来てはじめて満足いくまで食事をした娘は満足げに唐黍を炒ったポップコーンなる菓子をほおばっていた。

「しかしまあ、胡散臭い建物ですねえ」

 この時代、舶来品の流入は異国の人間や菓子に限ったことではなく新しい文化そのものがこの国を訪れていた。建物を見上げて呟く、烏山是清(からすやま・これきよ)が常々手にしているコウモリ傘もそうした一品で、和装に外套を羽織って帽子に傘を下げた姿はいかにも和洋折衷という風体で文化の変遷を感じさせる。

「水気が木気を歪めている、そんなところですか」
「はい。同感ですが、お見事ですね」

 飄々と呟いた声に春信が感心する。式神使いとして幼い頃から修練を重ねてきた春信とは異なり、是清は熟達した技量も経験もあるが明らかに自己流で正当な師に仕えた様子はない。それがごく当然に五行を察して周囲の異様さを感じ取っているのだから驚嘆に値した。
 一方で不安げに視線を動かしている吟子のように、異変も異常もまるで気づいている様子がないのもいささか不安になる。術士にも得手不得手は存在したが、所長代理から紹介されただけの彼女がどのような才能を持つのかも分からず、いざとなれば彼女を守るつもりでいたほうがよいだろうとさえ思う。春信の耳に是清と古志郎の声が聞こえてきた。

「それでは櫻さん、如何なさいますか?」
「まず我々が入りましょう。皆さんは後続を支援と防衛に分けて頂けますか」

 古志郎は物腰が低いわけではなく、礼節をわきまえており他人を相手にして言動が丁寧だった。だが軍人として市民の協力に心から感謝しながら、彼らを事件に関わらせることが必ずしも本意でないことも透けて見えて、傍で聞いていた春信は心中考えさせられる。
 まず古志郎と初乃進が建物に入り、一角と是清が控えて残りが最後尾に並ぶことに決まる。扉は南京錠が下りていて小さな窓にはすべて内側から板で塞がれていたから、中の様子を窺うことはできず不測に即応できる体制を敷くべきだろう。

「それにしても建物も空気もにゅるりが足りませんな」
「確かに、不穏ですね」

 初乃進の感想にも真面目に応じてみせるのは古志郎ならではだが、きしみながら開いた扉の中は確かに重苦しく有機的な悪臭が満ちていて気分が悪くなる。鼻孔を刺激する臭いは耐え難く、ここが件の異臭騒ぎの原因であることは間違いない。
 建物はさほど大きなものではなく、ホールがそのまま作業場にも使われていて据えられたテーブルや棚のあちこちに壊れかけた器や道具が置かれている。器からこぼれた液体めいたものが床に落ちて悪臭を放っており、どうやらこれが排水溝に流れ込んでいるらしかった。部屋の隅には梯子めいた木製の階段がかけられて、正面には奥に続く頑丈そうな扉がある。

「これは酷い、鼻が物理的に曲がりますぞ。こんなふうにぐにゃりと、そう、こんなふうに」

 そう嘆いている初乃進の姿は見ないことにして、粗末な階段がかけられた上階には人が乱雑に暮らしていた名残があるだけでめぼしいものは見当たらない。一階に降りると改めて正面の扉に向かうが、悪臭の中で気が散らされがちで警戒が薄れないよう気を使う。
 きしむ扉を古志郎と初乃進が開き、手振りで後続を促してから様子を窺う。真砂子などはさしもの食欲も失せそうな顔をしているが、場慣れしているらしい是清や一角は動じた素振りも見せていない。

「いやいや、うっかり野宿する場所を選ぶのに失敗すればもっとすごいところもあるものです」
「なんの。儂が若いころに借りた部屋はこんなものではなかったぞ」

 この部屋もいかにも実験室めいて、テーブルや床に壊れた器具が散乱していた。大きな建物ではないとはいえ部屋の間取りが足りないことにすぐに気がつくが、理由は明白で左手の無個性な壁面に変色した細い隙き間があって隠し部屋の存在を知らせている。
 調査する者には手間が省けて助かるが、赤黒い染みと異臭が漏れる周囲を仔細に調べるのは正直御免被りたく、壁も薄いようだから一角と初乃進が体当たりで壊してしまうことに決める。

「筋肉を使う仕事なら任せい、筋肉をな!」
「柔らかいということは金剛石よりも砕けないッ!」

 さすがというべきか、一度の激突で扉を支えている金具がきしみ、二度の激突で壁が破られると隠された部屋が露になった。淀んだ空気があふれてさしもの一角も両腕で顔を覆う。
 室内には明かりが届いておらず、薄暗い中に立ちこめている異臭が一段とすさまじい。床は足首ほどの深さまで赤黒い廃液に浸されていてそれが染みとなって漏れているらしかった。日も差さぬ中で鉢から伸びた植木が灌木のようにねじくれながらも部屋いっぱいに伸びている。

「ぬう、これは・・・」

 枝の隙き間に覗いているテーブルや棚に資料らしき紙束が放置されているのが見えて、おそるおそる、部屋に踏み入った真砂子は衣の裾が浸らないように気を使いながら枝をかきわけて、一枚をつまみ上げるとかすれた文字に目を通した。すぐ後ろを守るように初乃進が続く。

「人造、を、造る、試み?」
「おやこの国で錬金術の著述とは珍しい」

 かろうじて拾うことができた単語を読み上げる真砂子の背中から初乃進の声が聞こえる。会話だけではなく文字まで流暢に読める異人が奇態に思えるが、小塚玉がいない中で翻訳なしに読んでもらえるのはありがたい。
 錬金術は科学が体系化される以前の学問であり、黄金をつくる研究と誤解されるが実際には万物の真理を探求することを目的としてそれを金と称していた。後に近代科学として分化されることになるが哲学や治金術、医術を合わせた総合的な研究が行われることが多い。真砂子が手にした資料によれば、この施設で行われていたのは生命をつくろうとする研究でホムンクルスという単語が目に入る。

「ホムンクルスは生命を創造する試みが成功した最初の段階を指しています。限られた環境でごく短い時間しか生きられませんが、私のにゅるりも原点はこれを生み出す形のないかたまりにあると言われていまして、錬金術ではこの素体を『ニュル石』と申しますな」

 それこそエリザベートがいれば専門分野だろうが、初乃進の説明に真砂子も感心した声を上げる。

「本当ですか?」
「もちろんうそでございます」

 呆然とする真砂子はともかく、明石博高研究所が錬金術に携わっていたことは間違いないらしい。だが当時、錬金術の体系はあまりにも煩雑としていた上に、化学と宗教とモラルが分離されておらず倫理的に問題のある実験が常態化している機関も存在したと言われている。
 そこで帝都では開国を前にしてこれらを整理することが決まったが、軍部ではなく帝大に任せられたのは帝国に思想や研究を弾圧するつもりはないという態度の表れだったろう。結果、援助を受け入れた機関がほとんどだが抵抗や反発した者もいなかった訳ではなく、この施設もその名残というわけだ。

「では錬金術を嗜む方は真理というものを見つけたということですか?ホムンクルスが成功したなら生命を創造する試みが成功したということですよね」
「それがそうでもありません。むしろ不完全だから完全なものはつくれずにいる、というのが錬金術の現状でして」

 吟子の質問は素朴だが要を得ており、説明しながら初乃進は自嘲するような思いになる。彼自身もにゅるりを探求しているが真理を見つけたとは言いがたく、完全な流体への道ははるか遠く険しかった。
 吟子は首を傾げていたがそれも道理だろう。あいまいなものを認識するのが不可知の知で、それは異形や超常現象に慣れた者には日常だが一般的な学問ではそれは「分からないもの」に部類されてしまう。科学であれば不完全な原因からは何も生まれない、だが錬金術は不完全な原因から不完全な結果が生み出される。それを理解せよというのは無体だが知ろうとする彼女の姿勢は立派なものだ。

 吟子と初乃進のやり取りに耳を傾けつつ春信は周囲への警戒を怠らずにいる。建物に入る前から感じられていた不穏な様子はいささかも薄らいだ様子はなく、何も起きていないからと安心できるものではなかった。式神を召喚する春信は危急に即応しても後手を踏むことが多く、鋭敏にならざるを得ない。
 先ほどの吟子の問いは錬金術において原因と結果が必ずしも同じではないことを示している。錬金術の成果は結果を生み出す素体にあり、問題は変異がどのような意味を伴うかであった。水気が木気を歪める様を注視していた春信は灌木がにわかに蠢くのを見て警告する。

「『貪欲』と『暴食』!櫻さん!」
「来るぞ!皆、部屋の外へ!」

 叫ぶと同時に、部屋に踏み込んでいた古志郎が全身から力が抜けたように膝を揺らす。足首まで浸している液体に赤黒い灌木の根が沈んでいて、これまでわずかな養分で永らえていた樹木子が人の生命を直接すすろうと枝を長く伸ばしはじめた。
 足下から這い上がるように伸びてくる毒々しい枝と根に捕われた古志郎の右手に確定武装の刃が現れるが、後手を踏んだ上に懐に飛び込まれた不利は拭えず四肢を縛ろうとする枝を払うのに精一杯になる。これあるをして後方と分けたのだから、助けが来るまで耐えなければならぬ。

「義によってうみうし投入致します!」
「かたじけない!」

 ウナギかドジョウのように灌木の隙き間にすべり込んだ初乃進が古志郎の身を抱えると、常人なら逃げられるはずのない隙き間からにゅるりと抜け出してしまう。にゅるり流体拳の真骨頂だが、より密集した枝木に退路は塞がれて部屋の隅に追い詰められる。

「申し訳ありません。私一人であれば隙き間をにゅるりと抜けることもできましょうが、うみうし力を持たぬ方を連れてはそれもできませんで」
「何の、我々には仲間がいます」
「任せておれい!」

 答える古志郎の視線の向こうで、一角がたくましい肉体に木桶一杯の水を被っている姿が見える。水っぽいモノにはキレイな水で対抗するのだと、頭蓋骨の中にある筋肉で考えた筋肉達磨は水道の水を全身に浴びて突進した。
 一見して意味のない行為に見えるが、廃液が本来害のない枝木を狂わせているのだから洗い流せば一時でも影響を避けることができる。一角の判断は正しいが足首を洗えばそれで充分ではあった。得意のカラクリ十手を握りしめた拳で思いきり殴りつけると、ねじくれた太枝の一本がへし折れるが灌木には痛痒すら感じているようには見えない。

「ぬう、野菜の親戚ふぜいが小癪千万!」
「ではこちらも試してみましょうか」

 なるべく足下を濡らさないように、小さく跳ぶように駆け込んできたのは是清である。先んじた一角の一撃を冷静に見ていた彼は、ごく短い間だが灌木が人間の臭いと体温を見失って反応が遅れたことを見逃していない。捕まれば力を奪われるが、避けて打ち続ければ弱らせることはできるのではないだろうか。

「さてお願いしますよ」「ぎょ」

 腰だめから抜いたコウモリ傘を床ではなく水面に突き立てると、廃液の上を伸びた影が細い一本橋のようにまっすぐ伸びる。灌木の枝は普通の樹よりは低いが異様に育っただけ水面との間にわずかな隙き間はあり、開いた道を一足飛びに駆けると低い姿勢から突き出したコウモリの柄で根元を打ち据える。
 名無しの式神をここまで器用に使いこなす技は流石というしかなく、灌木は一瞬、ゆらいだが倒れはせず伸びた枝が是清の退路を塞ぐように枝を伸ばした。

「樹霊には枝や根が傷つけば嫌がるものもいますが、こいつはそうではないようで。確かに厄介千万ですなあ」

 囲まれながら呑気に冷や汗を流しているが、それで茫然自失はせずに引き戻した影が足下から真上に伸び上がると狭い天井すれすれを越えて灌木の外に逃げる。召喚術と体術をこなす動きは是清の十八番だが、それ以上に一撃を失敗して動じもしない素振りに百戦錬磨を感じさせる。

「どうしたものか。相手が獣であれば頭上の利もありますが草木には上も下もないでしょうね」「ぎょ」

 独り言のように聞こえるがどうやら足下の影に呟いているらしい。式神と自然に会話をしていることが春信などには驚きだが、それで傍観する理由はなく彼自身の式神に呼びかけると霜水晶の数珠を目の前に突き出した。

「八葉・秋水(しゅうすい)。金性で木気を断て!」

 最初に古志郎が受けてから皆が一斉に攻めるのではなく状況を見て有効な手段を探していく。初乃進が古志郎を助けて一角が身を守る術を示し、是清が一撃を試したなら春信は別の一撃を試せばよい。召喚術は現れるまで時間がかかるが、それだけ強力な一撃を放つこともできる。
 声に応じて現れた式神が、ゆっくりと回ると背中にずらり並んだ刃が広がりながら扇のように開かれる。五行風水で金は木に勝り、樹霊に対するにこれ以上の力はない。そのまま前転、鬼のかぎ爪のような刃が振り下ろされて何本何十本という枝を一度に切り刻んだ。寸断された枝が落ちていくつもの飛沫が上がる。

「削れば弱まる、弱まれば封じることもできましょう!」

 これだけ刻まれても灌木はまだ蠢いているが、力は大きくても無限ではなく枝木が切り落とされた正面は開けて部屋が広くなる。控えていた者も廃液に足を浸さないよう気を使いながら、灌木を囲うように右に左に広がった。

「ここは俺様に任せときないやいやここは某がこれお主ら嬢ちゃんが困っておるではあーもう皆さん勝手に喋らないでくださーい!」

 真砂子に憑いている三体の鬼は、自我が強まれば宿主を差し置いて現れるが傍から見れば同じ口で同じ人が話しているようにしか見えず奇妙なことこの上ない。それが抑え込まれているのは真砂子の器だけではなく、鬼たちと彼女自身を養うためのエネルギーが膨大ですぐに力尽きてしまうからである。
 これはこれで三体の鬼を一人の巫女が制御しているといえなくもないが、燃料タンクの役目を押しつけられる真砂子にはたまったものではない。ここに来る前にほおばっていたポップコーンはとうに食べ尽くしていたし、さしもの彼女もこの悪臭の中で食事をする気にはなれずにいた。

「では行けますね、海舞狼さん?」
「無論!」

 上衣をはだけると露になった文様から青鬼・海舞狼の意思が流れ出す。完全に制御しているとは言えずとも、三体の鬼を使いこなす術は真砂子ならではだが衣装を開いた折りに懐にしのばせていた焼き饅頭が転がり落ちる。彼女の生命線とあっては仕方がないが、慌てて手を伸ばすとかろうじて掴んだ瞬間、ねじくれて伸びた枝が襲いかかると弾かれた饅頭が廃液に落ちてしまった。

「な!なんてことを、するんですかあーッ!」

 もしも論理回路を認識できる者が、霊力というものを目にできるならばその瞬間の真砂子の霊力は途方もない力になっていた。もともと複数の鬼に取り憑かれることが召喚士の常識ではありえないが、赤鬼・烈火と青鬼・海舞狼が同時に憑依すると一つの依り代から二つの姿が解き放たれてねじくれた灌木へと襲いかかる。

「参ろう!」
「いいいやっほおおおおおおーぅ!」

 一瞬前まで、真砂子がいた空間から海舞狼が跳ぶと青い光が一直線に伸びる。樹木子に到達する瞬間、火のように赤く燃え上がった烈火が何発もの拳を叩き込んだ。無数の枝木を海舞狼がかわしながら烈火が激しい乱打を放つ、まさしく双鬼乱舞というにふさわしい姿である。

「オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラァ!」

 打ち砕かれた枝木がどぼどぼと廃液に落ちる、春信の式神に刻まれた灌木が鬼力変身した真砂子に打ち据えられて大きく力を削られたが、是清が言ったとおり根でも枝でも養分を求める樹木子は刻まれもまだ蠢いているように見えて生命への執着を感じさせた。
 春信の式神は強すぎて一撃を放てば動きが鈍り、突進した真砂子の鬼は灌木の目の前にいる。しぜん、部屋の後ろにいた娘の周囲が空くと、朽ちかけた枝の数本が生命を求めて襲いかかった。

「日下さん!?」
「え?」

 呼びかける声が飛ぶが間に合わない。意識を集中して後ろへの配慮を怠ったことを春信は後悔するが、是清のように式神を操りながら戦うなどできるものではなかった。
 春信の声が警告であることは吟子にも分かったが、荒事に慣れているはずもない彼女が気づいたときにはすでに四本、五本とねじくれた枝が視界に飛び込んでいる。

「間に合・・・」

 一か八か、身を呈するつもりで駆けよろうとした春信だが、袋に入ったままの長柄を無意識に構えた吟子が円を描くように払うと、まっすぐに伸びた枝先が彼女を見失ったように右と左にそれていった。春信の目に、長柄を振った刹那に描かれた論理回路の軌跡がはっきり見える。

「極意と云えど極まることなく絶えることなく・・・」
「日下さん、あなたは」

 剣でもなく槍でもない、見たことのない技だが吟子の集中力が驚くほど高まっているのが分かり、それこそ鬼を宿した巫女にも匹敵する力を感じさせた。灌木の枝はまるで最初から吟子がそこにいないかのように空を切るばかりで近づくこともできず、長柄の軌跡も神速とは言い難いのに防がれることも遮られることもなく枝を打ち据える。
 廃液の水面に描かれる足の流れですら美しく、布に包まれたまま振られる長柄が枝木を断ち切る様が当然のことに思えた。何本もの枝が落ちて、空間が開けたその中心には先ほどと寸分違わぬ構えをした吟子が立っている。

「心の嗜みがすなわち、型となれば弧が残ります」

 滑るように踏み込んだ吟子は足下に波ひとつ立たず灌木が遮ることもせずに、振り上げられた「刃」がまるで最初から割かれていた筋目を割くように振り下ろされると断ち切られた幹から取り外されたように赤いかたまりが転げ落ちた。掌に乗るくらいのそれをゆっくりと拾い上げる、その動きすら美しく彼女が明研に推された理由を春信は理解する。
 灌木はそれで力を失うと入り組んだ枯れ枝を支えることもできずにぼろぼろと崩れ落ちる。それまで打ち合っていた一角が最後の太枝をへし折り、古志郎と初乃進が解放されると樹木子は幹ごと折れて廃液に倒れてしまう。

「やれやれ、片付けと掃除が大変そうだわい」
「時間はありますから、資料は集めておきましょうか」

 いくつかの文献や記録が束ねられて、開いた数枚には樹木子が生まれた原因となった廃液や元となる研究が記されていた。真砂子が見つけたとおり研究の目的は人造生命の創造にあるが、記述はホムンクルスの更に先にある存在にも言及されている。より専門的な解読は後にゆだねるとして、初乃進が彼なりの知識で説明してみせた。

「自我と自制を持つガルガンチュア創成は不完全だが確立しつつある、それは自律と自戒を得てパンタグリュエルに到る、とありますな」
「ガルガンチュアとはあの西洋女子が連れている従者のことだったか?だが明石研究所の前身がこんな研究を行っていたとは儂も知らなんだわ」

 初乃進の言葉に、一角はたくましいあごを手でさすっている。筋肉を信奉する彼は力が安直な暴力に用いられるのではなく、理性を持ち鍛えることで強くなることを知っていたからこの記述には賛同できた。強い力を嫌うのではなく、もっと強い心で律したときに肉体も精神も美しい人間が出来上がるのだと思っている。

「これ、使いますかあ?」
「え、あの、ありがとうございます」

 差し出された籠を受け取ると、吟子が拾ったかたまりを収めて蓋をする。真砂子が残念そうにしているのは籠に入れていた饅頭のいくつかが転げて駄目になったせいで、自業自得ではあるが不平を言う胃袋を抑えるのは容易ではなかった。かたまりをニュル石と呼ぶかはともかく、西欧では賢者の石として知られている錬金術の素体である。
 紹介されて任務のことも依頼のことも聞かされてはいたが、吟子はやや呆然としたままで自分が技を振るったときの言行すらよく覚えていない。安全とはいえない任務だから、護身の用意をしてあとは現地の指示に従うようにと言われていたがそもそも自分のしたことが正しいのかどうかも分からない。

「先ほどの技、直心影流薙刀術ではありませんか」

 戸惑っている吟子にやや遠慮がちに声をかけたのは古志郎である。知られている薙刀術の流派は決して多いものではなく、古志郎が聞いた話では撃剣会にめっぽう強い女流の薙刀使いがいてその流派が直心柳影流または直心影流と呼ばれていた。撃剣会とは相撲のように興行を行う剣術士の集団で、軍や警察に指南する者もおり古志郎が見たのも士官学校の武道場でのものである。

「流派は存じません。ですが、母が薙刀を嗜んでおりましたのでその姿はよく覚えています」

 吟子の母親はまだ幼かった彼女を養子に出した後で出奔したらしく、彼女の薙刀は曖昧な記憶に残っている母の姿を模したものでしかない。その後の行方は知れないが、無頼としか言いようがない境遇には変わらず幼い吟子が置いていかれたことも無理はなかったろう。

「母は私を置いて薙刀の道を選んだそうですが、それを恨んだことはありません。ただ、興味はありましたから女学院に進学させて頂けることになったときに薙刀に触れてみようとは思いました」

 だがそう言ってほどいた袋の中にしまわれていたのは薙刀ではなく竹でできた長柄だった。つまり彼女は袋のまま竹光で灌木を斬ったのであり古志郎も春信も感服するしかない。

 論理回路とは不可知の力を引き出す技術と理論を称したものである。それがどのように生まれ、作られたとしても接続した異界から「現象」を引き出す門のような役割を果たすことができる。折れぬ武器を掌中に生み出すのが古志郎の確定武装であれば、吟子のそれは技が描く軌跡そのものが武器になるということだろう。
 それを知らない者や見えない者にとっては脅威であり畏怖の対象でしかない。だが不可知の知を認識してそれで恐怖や畏怖から解放されるだろうか、自分の技に戸惑っている吟子を見て春信は首を傾げてしまう。知らぬことが恐ろしいなら、それに携われば彼女自身が人に恐れられることにもなる。古志郎が人を関わらせることを快く思っていない理由、今更のように春信はそれを感じていた。

...TO BE CONTIUNUED.
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