SCENARIO#8
満月の夜に、母親の住む森の小屋の周囲でオオカミが遠吠えをするなかで生を受けたためであったろうか、嵐の子エーレンは邪悪な心の持ち主だった。或いはそんな単純な理由によるものではなかったのかもしれないが、母親に捨てられたエーレンがダークウッドの森で闇エルフ(DarkElf)たちに育てられ、やがてマルボルダスの名を得たのは確かだ。
満月の女王の祝福を得て育てられたエーレンは闇エルフの社会で邪な生き方のみを教えられると、自分自身に備わっている力をも発見することができた。指を鳴らすだけで植物をしおれさせ枯らせてしまうこともできれば、射るような眼差しで獣を意のままに操ることもできた。闇エルフも彼を励まし、古代の王が用いた奇怪で邪悪な力を伝えんがために彼の力を伸ばしてやろうとした。
古い闇エルフの王、ケリスリオンが残した首飾りを手に入れて彼らが信奉する魔王子マイユールが授ける力を受け継ぐには試練を克服する必要がある。ミッドランドのはずれ、荒れ果てた地にある失われた都ヴァトスには龍をかたどった飾りが五つあるので、それを探し出して揃えなければならない。すべてが揃ったら簡単な呪文を唱えるだけで龍は命を吹き込まれ、闇の首飾りを持つマイユールの僕として仕えるようになる。
マルボルダスの名前を得た彼が五つの龍にまたがって故郷のダークウッドに戻る頃には、闇エルフの強大な軍勢が新しい主人の下に召集されることになるだろう。彼は古代の魔法を伝授されたのちに無秩序界の軍勢を率い、誰も阻むことのできない死と破壊の波となってミッドランドを蹂躙してまわるのだ。
ダークウッドの森のはずれにヤズトロモという名の奇妙な老魔法使いが住んでいる。塔の中にひとり暮らしている変わり者の老人で、ふだんは素朴な魔法を用いたり獣や鳥と話をしたりして暮らしている。ミッドランド全土からおいしい菓子を取り寄せるための金を手に入れるために、魔法の小物を求める者に気前よく売っていることもしばしばだ。
だがヤズトロモは黒いカラスよりも鋭い目でダークウッドを絶えず見張っており、この森に闇エルフの邪な目論見があることに気がついてもいた。彼は魔法使いにだけ知られる方法でアーガイルの白い魔女アルガラドや友人であるラーヴングラスの賢人ニカデマスに急を告げると、アルガラドが知る第四の石板に描かれし者こそミッドランドを救う者であることを確信する。マルボルダスの試みを阻む方法を彼らに伝えることがヤズトロモの役目だった。
「やれやれ、首飾りがいよいよ失われたとあればミッドランドに暗い影を投げかけずにはおるまい。だがダークウッドの邪な影がミッドランドを覆い尽くすには湯が冷めるよりも遥かに長い時間がかかろう。お前さんたちが失われた都ヴァトスに赴いて五匹の龍の封印を手に入れ、先んじてこれを砕くことができればマルボルダスの野望は阻まれることになる」
髭をしごいて呟く、その言葉はヤズトロモではなく彼の遣いから危急の話を聞いたラーヴングラスの賢人アラコール・ニカデマスのものであった。闇の首飾りがマルボルダスに奪われてヴァトスの封印は解き放たれようとしている、だが老魔法使いの言葉は絶望もしていなければ深刻さすら感じさせようとはしない。そのニカデマスの傍らにはダークウッドの遣いであるらしい、背に羽が生えた小さな姿が浮いていた。
首飾りが奪われても彼らにはまだ邪な魔法使いの野望を阻む手段が残されていない訳ではなかった。中立神ロガーンは善と悪の天秤を常に揺らそうとしているが、正義の女神リーブラは世界から善がこぼれ落ちる様をむざむざ見逃そうとはしないだろう。
あいからわずどこか回りくどい、老魔法使いの言葉にニン・ガラや魔人殺しバリィ・ウォーグらは根気よく耳を傾けている。アルガラドのオウムを肩に止まらせた野馳の娘は、軽く腰に手を当てるとニカデマスに合わせたかのようにことさら気楽そうな顔を見せた。いくら深刻になったところで首飾りが手元に戻りはせず、彼らがなすべきことは決まっている。
「まあ幸いこちらに犠牲はなかったんだし、奪われたのが物だけで済んだなら安いものさ。でも失われた都ヴァトス、野馳の間でも聞いたことはある遺跡だけどあの地にそんな封印が隠されてるっていう話は今まで知らなかったね」
「しかし面倒な話だな。首飾りを手に入れてなお五つの封印が必要とは、俺たちではなくマルボルダスにとってずいぶん回りくどい方法だろうに」
魔人殺しの言葉にニカデマスは長い髭を震わせる。バリィの疑問はもっともだがそれはさほど難しい理由ではない。神々であれ魔人であれ人に与える試練とはそういうもので、強大な存在は世界に直接干渉することが難しいからこそ人にそれを代わらせようとする。だが容易に為せる試練では神々も魔人も彼らが望む所業に相応しい者を探すことはできないだろう。
マイユールは自らに代わってミッドランドに災厄をもたらす者を探すために、首飾りを作り出して闇エルフの王子ケリスリオンにこれを与えた。そして力そのものである五つの龍は善の勢力に破壊されぬよう封印を施してヴァトスに隠したのだ。来るべき時にそれを解き放つ者は強い邪悪な心と力の双方を持っていなければならず、マルボルダスはマイユールの試練を受けることによって魔王子の代理者として世界に偉大な混沌と邪悪をもたらす資格があることを示さなければならないのだ。
「宝を使う者は優れた者でなければならない。で、この場合は封印が宝箱で首飾りが鍵という訳か」
「それなら開けられる前に宝箱を壊せばいいってことだね」
冒険者らしい例え話にニカデマスがゆっくりと頷く。マルボルダスにとって善の者が立ちはだかる危難を乗り越えて龍を手に入れることはマイユールが定めた試練であり、だからこそ彼らはこれに先んじて五つの封印を見つけ出し、龍が解き放たれる前に破壊することで野望を阻むことができるだろう。
失われた都ヴァトスの場所は老魔法使いが知っていたが、いずれにせよ道案内は必要である。腐臭が鼻につくラーヴングラスの汚い黒い川、<歌う橋>の下に据えられている木造りの小屋でニカデマスは鷹揚に笑うと先ほどから傍らを飛んでいた小さなものに声をかけた。
「さあ豆人よ、よもやあれほど教えたヴァトスへの道を忘れてはおらぬだろうな。お前に頼むのは如何にも不安だが、わしにもさほど友人がいる訳ではないからのう。もちろんわしは騒々しすぎるお前を友人だなどと思ってはおらんが、ヤズトロモのカラスを飛ばすよりはお前のほうが道案内にはよほどましだろうて。何しろ黒いカラスは邪な闇に姿を見失ってしまいがちだが、少なくともお前さんの騒々しさはこのやかましい町ですら聞こえなくなることはあるまいからな」
「何度言ったら分かるんだい!あたしは歴としたダークウッドの妖精、豆人なんかと同じにしないでよこの髭爺い!」
堂々と老魔法使いに悪態と罵声を浴びせている、小さな妖精は生意気そうな顔で一同を向くと大仰な仕草でホーリィ・スプリングと彼女の名を名乗った。フェアリー(Fairy)と呼ばれる背に昆虫めいた羽を生やしている種族であり、たいていは森や洞窟に暮らしていて町中に現れることはごく珍しいとされている。ニカデマスが呼んでいた豆人(Minimite)というのはそうしたフェアリーの社会をはぐれて人間の世界で暮らしている連中のことで、妖精ならではの自然や精霊とのつながりを断って気ままに放浪する者を蔑んで呼ぶ名前だった。
ホーリィ・スプリングは当人曰く、ヤズトロモがニカデマスに遣わしたダークウッドの由緒ある妖精族らしい。彼女の先導で向かう失われた都市ヴァトスはラーヴングラスからずっと南にあるアーガイルの国境沿い、長城を更に越えて不毛の荒野を東に向かった先に古い遺跡としての姿を晒していると言われている。
旅は数日以上もかかるものだったが、道中は厳しくこそあれ危難は少なくやがて一行の目に石造りの壁と建物の残骸の姿が入ってくる。失われた都市ヴァトス、古代アウロール時代の都市がここまで見放され荒れるに任された理由はミッドランドに新しい文明が興るに際して、単にこの地が人が居住する地域から遠く離れていたせいに過ぎないと思われていたが、それもまたこの地に眠る封印を人の目から離そうとした者、マイユールの意思によるのかもしれなかった。
魔王子マイユールはシス、イシュトラと並ぶ魔界を統べる王の一つである。トカゲ兵団が崇拝するイシュトラや蛇人をつくり出したシスに比べると自ら俗界に興味を持ち力を及ぼすことを最も好む魔人であるとも伝えられている。人を惑わして過分な力を与え、理性を失った人自らの手で世界を混沌と無秩序に陥れさせようとするマイユールは古来から邪悪な闇エルフにも信奉されていた。マルボルダスがマイユールの力である龍を解き放てば彼は即日のうちに五色の龍と闇エルフの軍勢を率いて飛び立ち、ミッドランドを混沌の闇色に塗り潰そうとするであろう。
「龍は黒檀、銀、水晶、骨、そして金の五色が存在します。なぜこの五色かについては色々な説がありますが、五つの色は魔術と錬金の五つの素であるとも言われているし魔界にある五つの城がこの姿であるとも言われていますな」
「どうも・・・魔法のことはよく分からんな」
善であれ悪であれ魔法めいた存在に近付くことはサヴァンの興味を引くらしいが、さして興味なさそうに首を振っているハインツ・シュタインには理解し難い話でしかない。とはいえ魔王子マイユールの力を望む魔法使いの野心、それを阻むというならば自身も魔法使いであるサヴァンの存在が必要であろうことはハインツも充分理解していた。
嵐の子エーレン、闇のマルボルダスは善の者どもが先んじて龍の封印を見つけるべくヴァトスを訪れようとしていることを知っている筈であり、必ずや妨害を配しているに違いない。であればハインツの役目は剣士としてマルボルダスの妨害を排除することにあるだろう。旅はすでに長く、彼らは自然に自分たちの役割や存在意義を把握している。ハインツが小さく首を振ったところで、視界に入る遺跡の姿が大きくなり妖精がけたたましい声を上げた。
「着いた!着いたよあれがヴァトスの遺跡だ。ダークウッドからラーヴングラスを抜けて妖精がここまで来るなんて大したものだと思わないかい?年寄りの魔法使いはあれこれ言っていたけど妖精は遊ぶとき以外は信用できるのさ」
口やかましいホーリィの案内で、休息すら惜しく強行軍でミッドランドの荒野を踏破した一行は視線の先に連なる高い石造りの壁を見出した。都の内側にある石の塔や屋根が壁の上に突き出している。ゆっくり近付くと、風に運ばれた砂が壁際高く積もり、なかば砂に塞がれた門までは踏み固められた足跡も見えずこの遺跡が長く人の往来を受け入れていなかったことを示していた。失われた都市ヴァトス、目指す都の門は固く閉ざされているが脇にある通用口の戸は分厚いが木で出来ており、たたき壊すこともできそうだった。
「たたき壊すなら任せておけ!」
「火の蛮人の力を見せてやろうか!」
待ってましたとばかり足を踏み出したのは猛女の弓フールフールと火の蛮人ウェイ・ラスローである。ドワーフと蛮人の二人は無骨な棍棒と大振りの剣を構えると迷う素振りもためらう様子もなく力一杯扉にたたきつけた。一撃で激しく歪むが、二撃目が振り下ろされる前にきしむ音がすると扉が内側からゆっくりと開く。思わず跳び下がって構えた二人の前に、カビくさい暗がりから無様な化け物が姿を現した。
化け物の背後に見える通廊は異様に暗く、入り口からわずかに見える床は色々なものの残骸で覆われており腐りかけた食べ物の切れ端やこびりついた毛、灰、牙そして獣の糞などが散らばっている。暗がりに判然としない化け物は目が一つしかない突然変異の奇形の怪物で、部屋の奥に潜みこちらの様子を窺いながら銀色の棒を振りかざしている。日が届かない遺跡の暗闇で、マルボルダスに配された夜の恐怖(NightFear)が獲物を求めて待ち構えているのだ。
化け物が棒を突き出す。無様な、単純に見える化け物が近寄るでなく棒を振り上げるでもなく、その先をウェイとフールフールに向けた姿に言い様のない危険を感じたバリィが剣を抜いて立ちはだかるように踏み出すと、かざされた棒の先から白い光の矢が放たれてまっすぐに伸びてきた。
思わず剣で受けると一撃で鋼が赤く焼けて折れ飛び、すさまじい衝撃が魔人殺しの身体ごと転がすと漏れた光が足下を焦がし砂が溶けて硝子のような光を返している。すかさずウェイとフールフールが武器を構えると仲間を守るように左右に分かれて切り込んだ。剛力を誇る蛮人とドワーフは全力で扉にたたきつけたと同じ勢いで剣と棍棒を振り下ろす。
猛女の弓はこのような野蛮な武器で殴ることを決して潔しとはしていないが、そのようなことを言っている場合ではないだろう。化け物は驚くほどの力で棒を振り上げると大振りの剣と棍棒を弾き、次の光を放とうとする。剣を用いて倒すのは容易ではなく、何度も光を撃たせる訳にはいかない。間をすり抜けるように駆け込んだハインツが身を低くして化け物の懐へとおどり込みながら叫ぶ。
「魔法使い!化け物の気を逸らせ!」
「お任せを!わたくしの髭にかけて!」
剣も構えずに腕甲をした肩からハインツが体当たりをすると、化け物の身体に身を預けるようにそのまま通廊へとなだれ込んだ。すかさずサヴァンが魔法使いらしい奇妙な身振りをして呪文を唱える。暗闇を徘徊する化け物であれば耳でも鼻でも飛び抜けているのではないかと考えた魔法使いの呪文が通廊中に荘厳な、だがけたたましい鐘の音を響き渡らせた。
広くもない暗がりの通廊に耐えがたい騒音が反響すると化け物は棒を落として声なき苦悶の悲鳴を発し、奇形の手で耳を塞ごうとする。すかさずハインツが布に覆われたまま背に担いでいた平剣を横に凪いで、化け物の首に叩きつけると力任せにへし折った。
ごく短いが深刻な争いに、何度も鐘の音が響きながらやがて止んで静かになると、周囲にはそれまで以上の静謐が訪れたように思える。身を起こすと床に転がった棒をしんちょうに拾い上げてハインツが呟いた。
「やれやれ、こちらの到着を呼び鈴で知らせてしまったな」
「なに、招かれずとも無粋な客人になることもありますまい」
どこかおどけた調子で言うサヴァンの言葉に、ハインツもこの男には珍しい愉快な気分になったらしく細い目をいっそう細めてから床に転がった棒を拾い上げる。銀の棒はたいそう強力な魔力を秘めている品に見えるが、表面に小さな円の形が浮き上がっているのが見えてこれを押せば光の矢を放つことができることを悟る。
閉ざされた通廊の奧側の扉に向けて円を押すと、光の矢が放たれて稲妻のようにほとばしり、扉を打ち破るがハインツもただでは済まず後ろに弾かれると全身に激しい衝撃を受けて棒を取り落とした。強力な武器には違いないが人間が使うようには造られておらず、剣士には無用のものでありハインツは悪態をついて棒を投げ捨てると打ち壊された扉から通廊の向こう、ヴァトスの遺跡へと入り込んだ。
失われたヴァトスには一見して生き物がいる姿も気配もなく、化け物の死体が転がる部屋の向かいにある通廊を抜けて扉を潜るとすぐに石壁の中、荒れ果てたヴァトスの広場に出ることができた。古代の遺跡らしく地面にはすき間なく石畳が敷き詰められているが、方々が時間に侵食されてでこぼこした足下には植物すらほとんど生えておらず、歩きやすいとはとても言えそうにない。
ヴァトスは決して大きな遺跡とはいえないが、都と呼ばれるだけの充分な広さは備えている。何の手がかりもない古代の遺跡で果たしてどのように龍の封印を探たものだろうかと、一行が思案に暮れていると思い出したかのようにホーリィが甲高い声を上げた。
「そういえばあたしを遣わしたヤズトロモの爺さんが言ってたよ。マイユールが五つの封印、龍を隠すなら闇エルフの王子ケリスリオンが信じるアル・アンワール・ゲリサンの寺院、スラングの遺構をやはり選ぶだろうってね」
「そういうことは早く言いなさい。さあ、みんな行くわよ!」
自身が妖精であるにも関わらず、ホーリィのいかにも妖精らしい気楽さに呆れたような顔を見せたのは快風のフィアリアだったが、率先して足を進める彼女の態度こそむしろエルフらしいとは言えずホーリィが好奇の目を向けている。使命感の強いフィアリアにとって、マルボルダスに自ら首飾りを渡したことは自責の念となって彼女を苛んではいたが今更それを悔やむ訳にはいかなかった。
彼女は友人であるマキを助けるために首飾りを手放したのだから、いつまでもそれを責める訳にはいかない。それが最善の選択であったことを、フィアリアは疑ってはいない。
それは半ば以上自分を説得するための言葉でしかなかったのかもしれないが、森を出て旅を続けているうちに彼女も人間に染まりつつあるのかもしれずそれはフィアリアにとって悪い感覚ではなかったろう。その彼女は荒れ地のヴァトスを訪れると聞いてエルフらしく植物の種を携えている。植物はエルフの生命の源であり、彼女は彼女と皆を守る森を小さな袋に入れて懐にしまい込んでいた。
ヴァトスの門を守るマルボルダスの化け物を倒してから、一行はいつものように二手に分かれることに決める。龍の封印を探す者たちとそれを狙うであろうマルボルダスを追う者たちである。
こうした場所で大人数が集まりすぎることはかえって探索の妨げになること、封印を探す者をマルボルダスが追い、それを別の者たちが追えば挟み撃ちにできるかもしれないこと、そしてフィアリアであれば野蛮なドワーフや蛮人に近付かないですむことも理由に挙げたに違いない。慣れたものでフールフールやウェイも「高慢ちきなエルフ」に悪態をつきながら豪快に笑っている。
「エルフのにおいがしては闇エルフのにおいが嗅ぎわけにくくなるからな!」
逆なでするようなドワーフの言葉に、ウェイもことさらにぼりぼりと身体をかきむしってみせるとエルフはさも軽蔑したかのように舌を出してみせる。それこそエルフには信じられないような下品な仕草だったが、これも彼らなりの会話であるらしかった。改めてフィアリアは皆に遺跡の奧へと向かい、寺院を探すことを促す。
「よし、全力で突き進むぞ!」
「そうだ!ヴァトスに何が潜もうとも、アーガイルの騎士には怖じ気付くことなど何もない!」
エルフの言葉に答えたのはドワーフや蛮人だけではなく、重い斬馬刀を担ぐマキや些か演出過剰にアーガイルの軍団旗を掲げるエア・トゥーレもそうであった。一見単純で、考えがないように見えなくもないが封印の探索は密かに行うことではなく、例え隠れたとしてもマルボルダスの魔法の目を逃れられるとはとても思えない。
むしろ堂々と動けば魔法使いとて襲撃はかけづらいだろうし、先んじて封印を見つけ出すことができればマルボルダスこそそれを奪うために姿を現さざるを得なくなる道理であり彼らは魔法使いを迎え撃つことができる。首飾りを奪われてもなお、一行は決して絶望的な状況にある訳ではなかった。
アル・アンワール・ゲリサン、影の灰色のささやきとも呼ばれる悪意の神スラングは一面では競争と繁栄を司っている神でもあり、転じて弁論や商売を司る人間の神ともされていた。ヴァトスならずともスラングの寺院はほうぼうの人間の町に構えられていたが、闇エルフやマルボルダスにとって「影の灰色のささやき」はかつてエルフの王国に反旗を翻した王子ケリスリオンが信奉した神を指している。
一部の伝承ではケリスリオンが人間を調べるべくアル・アンワール・ゲリサンの教えを学び、古いエルフの社会はエルフが人間の世俗に近付くことを窘めるとこれと対立した。そしてエルフの対立を利用したのが魔王子であり、マイユールは閉鎖的なエルフ社会に向けられたケリスリオンの憎悪を増幅して彼の信仰すらもアル・アンワール・ゲリサンから魔王子マイユールへとねじ曲げることに成功する。それが最初に生まれた闇エルフ、ケリスリオンの歴史であった。
風と時にさらされた遺跡の方々を歩きながら、ようやくスラングのシンボルが刻まれた石造りの建物跡を見つけるがその半分ほどは崩れて瓦礫と化している。だがそのお陰であるのだろうか、崩れた建物の隅に地下に降りる入り口が開いているのが見えた。人どころか植物や生き物の姿すらない、失われた遺跡の静かすぎる様子に一行はしんちょうに足を踏み入れようとするが、咄嗟にウンスイが前に出ると警告の声を発する。
「待たれよ!娘ども!」
黒衣の僧が緊迫した視線を向けている先、寺院の入り口には細い身体にぼろをまとったおぞましい姿が立っていた。いつの間に現れたのか、闇のマルボルダスが配したに違いないそれは虚ろな目と口がどろりとした粘液に満たされていてごぼごぼと音を立てながら「死(DEATH)」と呟くとかき消えるように姿を消してしまう。
何が起きたのかも分からず、呆気にとられたままエアなどは唖然としているが、マルボルダスの目論見を理解したフィアリアが名状しがたい顔をすると吐き捨てるように首を振った。
「やられた・・・あれは死の使者(Messenger)、趣味の悪い魔界の罠の一つよ。使者は死を司る五つの文字をどこかに書き留め、それを全て目にした者の魂が奪われる呪いを用いるの。封印を探す私たちが、その前に使者が残した五つの文字をすべて見つけしまえば魂は奪われてマルボルダスの前に屈服するしかなくなってしまうのよ」
寺院の扉には彼らの任務をあざ笑うかのように血を思わせる色で「D」の文字が書き殴られており、彼らは残り四つの文字を見つけ出す前に五つある封印をすべて見つけ出さなければならない。気後れするフィアリアの耳に快活な声が響いた。
「なんだ、それなら分かりやすい!少なくともあと三文字見つかるまでは好きに探し回っていいってことさ」
敢えて力強く宣言すると、ためらいも迷いもなく血文字が記された扉を押し開けるエアの姿にフィアリアは一瞬、呆気に取られるが傍らではニン・ガラやホーリィが同じように呆れながらも得心したような顔を見せていた。
「確かにそうだね。罠は承知の上でここまで来たんだし今更引き返すわけにもいかないなら、気にしたって仕方がないさ」
「そうそう、何でも見つかればきっと楽しいよー」
ここまで来て逡巡して手をこまねいても事態は何も解決しない、であれば力ずくで危難を突破するしかない。エアに続く一行の姿は猪突としか言いようがないかもしれないが、それが人間らしい無鉄砲な強さでもある。
次々と明かりを灯して足を踏み入れていく一行の様子に、エルフの娘も軽く息をつくと後に続いて寺院の地下へと潜り込んだ。さほど広くもない地下は一本の通路にいくつもの扉がついていて、一番奥は地下の聖堂へと繋がっているらしい。
まっすぐに奧へ進むとまずは一番目立つところからと、祭壇の上蓋を持ち上げるとそこには銀でできた小さな龍の飾りが置かれていた。このちっぽけな品が龍の封印であることを知ると些か拍子抜けしながらも幸先のいい発見に気をよくしてその他の龍も見つけるべく寺院の地下を探し回る。続いて扉を開けると小さな部屋の正面、奧の壁面には白い絵の具でくっきりと記された「H」の文字が大書されているのを見てげんなりさせられる。
野馳であるニン・ガラはこうした崩れかけた建物にも慣れているようで、ほうぼうに並べられた壺や壁に掛けられている布の裏側、落とし戸の下など思い切って探し回るとさして時間もかけずに残る龍の封印、水晶と骨と金を手に入れることができた。だが死の使者の刻印もすでに「D」「E」「T」「H」の四つを見つけ出してしまっており、あと一文字で魔界の罠は完成されてしまう。
ところが最後の一つ、黒檀の龍が野馳の娘にもなかなか見つけることができない。広くもない地下を探し回っているとホーリィが聖堂の奧にもう一つ隠された部屋を発見した。フェアリーならではの視界が壁のすき間をめざとく見分けたのかもしれないが、小さな身体を暗がりの向こうに滑り込ませた妖精が頓狂な声を上げる。
「あちゃー・・・これはやられたね」
後に続いた一行が角灯をかざすとすぐにその言葉の理由を悟る。小さな隠し部屋の壁面には小さな戸が二つ、右と左についており明らかに片方には龍の封印が、片方には死の使者の文字が刻まれているのだろう。正解はどちらか一つ、だが半分の確率で彼らの魂は死の使者の呪いにより魔界へと捧げられてしまう。気楽なホーリィやマキですら躊躇して足を止めたが今度はフィアリアが希望に満ちた決意と確信を顔に浮かべていた。
「大丈夫、ではないけど、これなら何とかなるわ」
「どうする気?」
エルフの娘は隠そうともせず正直に答える。妖精は夢の姿をとって異界に赴くことができる。世界と重なって存在するそこには時間も距離も存在しない、その異界から戸の裏側を覗き見れば彼女だけが戸の向こうを、龍の封印を見分けることができるだろう。もしも封印ではなく五つ目の死の文字を見つけても使者の契約は異界にいる彼女にだけ及ぶのだから、エルフの魂は魔界に捧げられるが封印は残された者の手に入る。
「なにも私は首飾りを奪われた責任とか、そんなものを問うつもりはないわ。でも自ら異界に入れるのは妖精だけで、ここに妖精は二人しかいない。危険は承知よ、でも全員が犠牲になる危険は冒さずに封印が手に入る、これ以上の方法が他にあるのかしらね?」
フィアリアの言葉以上に、これに勝る策を考えることができなければ彼女を止めることはできないだろう。知恵によりたどり着いた勇気を示そうとする、エルフの娘は決然とした、だが恐れの隠せない顔で仲間たちを見渡している。
かつての彼女であればこの状況で恐れなど覚えず、ただ正しいと彼女が信じる道に挑むことができたろうが自分の恐れをフィアリアはむしろ誇りに思うことができる。だが思い切って一つ息を吐いたエルフの娘の背をエアの声が引き留めた。不審そうに、ゆっくりとフィアリアが振り返る。
「止めても無駄よ。それとも他に方法があるというの?」
「止めるつもりなんてないよ。だが右手は邪悪で左手は正義という、だからキミが開けるのは左の戸だ。アーガイルの、いや、ボクの名誉に賭けて誓うよ」
「あなた・・・」
幼げな顔に力強い笑みを浮かべている、エアの意図をフィアリアは理解した。エルフの娘が危難を引き受けるのであれば、アーガイルの騎士は自分がその道を示すことでもたらされる結末を彼女の責任として引き受けようというのだ。
それが間違いであれば耐え難い後悔に駆られるのは道を指し示したエアであり、失敗すればただ自分が傷つくだけの無意味な決断を彼女は負うつもりでいる。それは名誉、誇り、あるいは見栄でしかないのかもしれない。だがなんて人間らしい考え方をするのだろうとフィアリアは思い、呆れたように首を振りながらも心の底から感謝してみせる。
意を決して無言で頷き、エアが指し示す左の戸に視線を向けるとエルフの娘は軽く目を閉じて不意にその姿が消える。人間が夢の世界と呼ぶ異界は現実の世界と重なっているが厳格な時間も距離も存在しない。二つの小さな戸は夢の世界では太陽と月を示す二つの門に見えており、これを押し開けば彼女はそこにあるものを見出すことができるだろう。一つだけ幸いなことは、仮に魂を奪われても肉体は夢の存在ではないから彼女の亡骸は友人たちのもとに帰ることができることだった。
(埋葬くらいはしてもらえるかしら?闇エルフじゃあるまいし、エルフは人間の神を信じないというのにね)
苦笑気味に呟きながら、フィアリアは奇妙な確信を持って太陽を示す左の門を押し開ける。本来、幸運や偶然をエルフやドワーフは当てにせず、厳格な事実からもたらされる最も正しい道を選ぶことを尊しとする。人間に比べて遥かに長命の生き物は不確定で曖昧な存在を許容せず、どれほど時間をかけてもただ一つの結論を知ろうとするのだ。
思いつきか勢いで決めたに違いないエアの決断にフィアリアが従うなどエルフにとって正気の沙汰ではないが、彼女が選ぶべき門はこれしかなかった。善なる者の加護は目に見えず、だが必ず存在している。
それは長い時間に感じられたが、実際には数回息を吸って吐く程度の時が過ぎただけだった。消えたときと同じく唐突に、小さな黒檀の龍を手に、ごく当然のように異界から覚めたエルフの娘は皆の前に姿を現している。黒檀、銀、水晶、骨、金。これでマルボルダスが求める五つの龍は彼女らの手元に渡ったことになり、邪な魔法使いがマイユールの力を得ようとするならばこの封印を力ずくでも奪わなければならないだろう。誇らしげに封印を握るエルフの娘は、今更のように安堵して見えるエアに妖精の笑みを向けてみせた。
† † †
ミッドランドの情勢である。アーガイルの先王ソーステインはカスパーのターグ男爵の謀略にかかり、だまし討ちに会って命を落とすが国は白い魔女アルガラドと剣士シグルドソンの手によって辛うじて守られている。
だがそのカスパーも近年では海を西へ渡ったロクスの火山島から訪れるトカゲ兵団の脅威にさらされており、絶え間のない襲撃から陥落の危難にあってこれに対抗するためにターグ男爵は闇エルフの力を借りようとした。
魔王子マイユールの僕が欲している、闇エルフの王子ケリスリオンが手にしていた闇の首飾りを彼らは求めており、これに手を貸して首飾りを探し出すためにターグの雇い入れた傭兵がテュテュフとカサンドラである。
そして闇エルフを率いるのは嵐の子エーレン、マルボルダスその人であり彼が首飾りを手に入れれば魔王子の力を借りて封印された五色の龍を蘇らせることができる。そうなれば魔法使いは龍と闇エルフを率いて早晩ミッドランドを滅ぼすであろう。マルボルダスにとってはアーガイルもカスパーも、闇エルフの一族の行く末すらも知ったことではなく彼は彼自身を生み出したミッドランドを邪悪と混沌に塗りつぶすことしか望んではいない。
アル・アンワール・ゲリサン、スラングの地下遺構を出た一行は五つの封印とそれを持つフィアリアらを囲んでヴァトスの広場へと集まっていた。厚く垂れ込める雲に覆われた薄暗く頼りない空の下で、ヴァトスの広場はかつて演説や集会に使われていたらしい三方を石壁と回廊に囲われており、その奧は一段高く演壇がしつらえてある場所だった。寺院や祭壇めいても見えるが実際にここで国の行事を行う際には犠牲式が行われていたこともある。その風習は今でもミッドランドに残されていて豊穣や収穫の祭りが寺院ではなくこうした広場で行われることも珍しいことではなかった。
ここで龍の封印を破壊すべく試み、現れるであろうマルボルダスを迎え撃つ。それが彼らの算段である。
「古代の演壇か。客はいないが舞台には丁度いいな」
魔人殺しが冗談めかして言う。一段高い演壇とその周辺にはフィアリアとマキがいてウンスイやバリィ、サヴァンらがそれを囲むように立っており他の面々は下の広場にいてそれは階に立つ神官を守る戦士の姿を思わせたかもしれない。
演壇の上にはアルガラドに預かった立方体を中心にして五つの龍が並べられている。立方体は中立の力、平衡を象徴する道具であり邪な封印を打ち消すべく先程から甲高い音を響かせていた。このまま立方体の力が増せば封印を砕くことができるかもしれない、マルボルダスの野望を阻むために彼らは構えていたが五つの龍が遂に集まったことは邪悪な魔法使いの望みでもあるのだ。
突然、邪な気配があふれかえると広場の中央に底のない黒い穴が現れて、その向こうには純粋な邪悪が渦巻いている。ハイダナの寺院に赴いた者であればその感覚を思い出していたに違いない。
黒い穴から悪の権化そのものといった男の顔が現れると、その姿はゆっくりと、次第にせり上がってついに一行と同じ高さになる。男は周囲にいる者たちをそれがとるに足りぬ存在であるかのようにじろりと見渡してから「わしの探している龍をよこせ」と言う。それこそ嵐の子エーレン、闇の魔法使いマルボルダスだ。
有無を言わさずウェイとフールフールが駆け寄ると大剣が振り上げられ大弓が引き絞られるが、広場いっぱいに耳をつんざく雷鳴が響き渡ると耐え難い轟音が蛮人とドワーフ女の耳を打ち、床にも壁にもひびが入るほどの音にまっすぐ立っていることもできなくなる。転がってのたうち回る二人の姿を見ようともせずマルボルダスは演壇の上にある龍の封印へと目を向けた。
「わしが求める物は奪うべき物だ。汚らわしい善が守る、その手を払いのけて踏みつけることに意味がある。封印が解かれてただ龍が蘇れば良いのではなく、首飾りが一度は善の手に渡りながらもぎ取られたように、わしの龍も貴様らから奪い取ることで絶望が生み出されてすばらしい邪悪として目覚めることになるだろう。だからわしはヴァトスに貴様らが来ることを止めはしなかったし、貴様らに封印を集めさせもした。一人や二人は死ぬかと思っていたが、これから死ぬのなら同じことだ」
魔法使いを囲う雷鳴が今度は雷光を伴おうとしている。ふらふらと立ち上がったウェイが大剣を、ハインツが平剣を、エアが幅広の剣を構えて俊速に跳ぶと先んじて襲いかかるが骨ばった指先が向けられるのが一瞬早い。黒い雷が走り、剣士たちは咄嗟にとびすさるが雷は階にまっすぐに飛ぶと演壇を守るように立っていたバリィの胸を打ち魔人殺しが地に転がる。
倒れる仲間を背に再び打ちかかる剣にマルボルダスは呪われた剣を抜くと自信たっぷりに対峙した。剣には人を麻痺させる力があり三人を相手にして一歩も引こうとはしない。
「今こそ!成敗する、いざっ!」
「命を燃やせ!力と技を尽くせ!」
「ぬおおおおおっ!」
エアとハインツ、ウェイが同時に切りかかり、背後にガラがおどり込むと懐に忍ばせていた投げ短剣を至近距離から投げつける。これで倒そうとは思ってもいないが、少しでも気をそらすことができればいいだろう。いかに魔法使いとはいえ、いくつもの武器に襲われてすべてを防ぐことができる筈はないしおそろしい呪文を遮ることもできるかもしれない。
マルボルダスは大振りに凪ぎ払われるハインツの平剣を避けて、投げつけられた短剣を見えない盾で弾いてしまう。ガラは手近な石を拾うと懐に握っていた石投げ器で振り回し、円盤のように投げつけた。
「使えるもんは目一杯使う!」
だが邪な魔法使いはこれすらも呪われた剣で弾き、正面から捨て身の勢いでエアが切り込むがマルボルダスの顔にはまだ余裕も笑みも消えてはいない。魔法使いは奥の手とばかり左手をかざすと放たれる黒い雷が剣士を刺し貫いた、ように見えたが剣士の幻覚がかき消えると視界の隅には会心の表情でホーリィ・スプリングが小さな姿を浮かべている。
「へっへー、引っかかった!」
「幻覚か!妖精!」
欺かれたと悟った魔法使いが怒りに叫んだ瞬間、背後から突き立てられた幅広の剣が脇腹から闇のマルボルダスを貫いていた。広場を囲う壁に絶叫が響くと黒い煙のような筋が魔法使いの身体から伸びて宙に立ちのぼる。剣が渾身の力で突き刺さって吹き出る血のかわりに黒い筋が幾本も幾本も溢れ出ると、周囲には断末魔の絶叫と雷鳴が轟いて長く尾を引くがやがてそれも力が弱っていき、細く小さくなっていく。
彼が信奉する邪悪と混沌の名を呼びながら天を仰ぐように両手を広げ、右手からこぼれ落ちた呪われた剣が地に落ち、遂に命の灯火が消えたマルボルダスの亡骸がゆっくりと傾ぐと床に倒れる。とどめの一撃を刺した剣を手に握ったままで、エアは全身の力が抜けたかのように放心した顔で呟いた。
「倒した・・・倒した、のか?」
次の瞬間、頭上いっぱいの空を黒い煙が覆うと頼りなかった陽光すら遮って周囲がにわかに暗くなる。それまで以上に耐え難い雷鳴が広場に轟いて、邪悪な骸から溢れだした混沌が演壇に置かれた五つの封印に呼び掛ける。その声は紛れもなくマルボルダス、死した魔法使いのそれであった。
「よもや、よもや妖精ごときがわしの野望を阻もうとは思わなんだ。だがわしの死は満月に捧げられたわしの黒い魂を解き放ちそれは五つの封印に捧げられるだろう。主なき龍がせめてミッドランドを劫掠して世界に邪悪と混沌をもたらすことをわしは望む。嵐の子エーレンを生み出したミッドランドよ!奈落を象徴する五つの力が貴様らを滅ぼす様を見るがよい!」
倒れた骸が灰のように崩れて骨だけが残るが、空を覆う黒雲はますます厚くなって消え去ることがなく演壇に置かれた五つの封印は黒い魂に共鳴して細かく振るえはじめている。平衡の立方体が邪悪を抑えるべく輝きを増すが強すぎる力にひびが入っており長くは保ちそうにない。立方体が壊れれば封印も割れて、ヴァトスに解き放たれた龍が人々を喰い尽くすべくミッドランドへと飛び立つであろう。
すかさずサヴァンが懐から炭を取り出して演壇に不可思議な図柄を描き込むと、封印に流れ込む黒い煙が見えない壁に阻まれて周囲をぐるぐると回り出す。だがその様はたき火を恐れるオオカミの群れがこれを囲いながらも決して逃げ去ることがないように、黒い煙は周囲を巡りながら弱まる気配がない。おどけたように首を振るサヴァンの様子が、この魔法使いらしくもなく深刻なものに見える。
「これは駄目ですな。どうやらわたくしの力では時間稼ぎしかできそうにない」
「否!時間稼ぎは無意味ではあるまい」
演壇には砕けかけた立方体を囲う五つの龍が乗せられている。ウンスイは意識を集中して経文を読み上げると、片手を祈るようにかざし片手に握り締めたルーンの棒に全ての気を込めて飛び上がると真上から図柄の中心へと突き立てた。強い力が円く弾けて黒い煙を更に弾き飛ばし、演壇の周囲がごく小さく開けると光が差し込んでくる。
魔法使いも黒衣の僧も自ら封印を破壊することができずとも、仲間のために舞台を支え時間を稼ぐことはできる。マルボルダスの闇はすべてを呑み込んで黒檀、銀、水晶、骨そして金の五つの龍を解き放とうとしているがサヴァンとウンスイの力が壁となってそれを阻んでいる。彼らが力を尽くしている間に、演壇にいる者が封印を破壊することができれば来るべき破滅を避けることができるだろう。
「よし!あたしが任されたぁー!」
何を思ったか、マキは巨大な斬馬刀をおもむろに振り上げると五つの龍が囲う彼女の立方体に向けて力一杯振り下ろした。アルガラドから預かった平衡の立方体は邪悪を許さず天秤の揺れを戻そうとしていたが封印の力に押されてひびが入っていた、そこに振り下ろされた力に耐えることができず乾いた音を立てると砕け散ってしまう。
血迷ったとしか思えない、衝動のままに行ったかに見える行為だが彼女は大変な間違いをした訳ではなかった。周囲を巡る邪悪が一層強く集まる様子を見て、唐突にフィアリアはすべての真実に気付く。
「そう、そうよ!平衡は中立、中立は邪悪を押し止めようとはするけど決して対抗する力ではない。邪な龍の封印を破壊しようとする者が中立の力に頼るなんておかしいもの、難しく考える必要はなかったのよ。ここは演壇で私たちは魔王子を信奉するものどもの邪な企てを阻もうとしている。龍が邪な魔界の力であるならば、善なる者は中立に頼らず、自らが信じる世界を律する力を用いればいい」
フィアリアはエルフが信奉する古き神エリリア、植物の女神ガラナへと祈る。懐に忍ばせていた植物の種を演壇に撒くと水の神ハイダナと風の神パンガラが祝福を与えて太陽の神グランタンカが繁茂させる。世界に生まれでる力、それは精霊であって伸び盛る力はまさしく龍にも似ていた。
黒檀、銀、水晶、骨そして金の五龍に向かって、風と水と太陽の祝福を得た植物の根が伸びてこれを絡め取ろうとする。黒い煙を割ってサヴァンやウンスイが開いた頭上から差し込んでくる光が降り注ぐと急速に伸びた植物はそのまま樹になって演壇ごと根の下に埋もれてしまった。五つの龍はヴァトスに植えられた菩提樹に組み伏せられて、広がる枝と茂る葉がマルボルダスの黒い煙を吹き払ってゆく。
「古き神エリリアの子フィアリアが祈る!ヴァトスの樹はやがて森となり、この地に再び一の森を生み出すであろう!」
幹は更に伸びて根が太くなり、ぱきぱきと音がすると遂に五つの龍は砕かれて虚しく存在を終えた断末魔の声を響かせる。マルボルダスが望んだ力、魔王子マイユールの邪悪と混沌は引き裂かれて五つの龍が封じられていたヴァトスは今や最初の菩提樹が茂る地と化している。これこそ失われた都に生まれる新しい生命に相応しいと、黒雲が消えて陽光に満たされた遺跡の都市でエリリアの子は古い神官であるかのように、ゆっくりと両手を広げて皆に祝福の笑みを向けた。
† † †
嵐の子エーレン、邪なマルボルダスは倒れて魔王子マイユールの力である五つの龍は祝福されたエリリアの力によって砕かれる。ミッドランドを覆っていた黒雲の一つは吹き払われて闇エルフの一族は彼らを導くべき主を失いしばらくは身を潜めるしかないだろう。
崩れた灰すらも吹き飛んで黒い滲みだけと化したマルボルダスの骸の跡には首飾りが残されていたが、力を及ぼす相手を失ったことを理解したマイユールは魔界と現界の鍵となる首飾りに繋がる力を塞いでしまい、今やそれはただの安っぽい宝石でしかない。エリリアの子、フィアリアはそれを拾い上げるが首飾りからはかつて彼女が覚えたような脅威を微塵も感じることはなかった。
「こんな邪悪に比べれば、蛮人やドワーフの下品さはよほどましに見えるわね?」
おどけて言う言葉はいつものエルフ娘のそれである。高慢ちきなエルフの物言いを莫迦にしたように蛮人はぼりぼりと身体をかきむしってドワーフはげっぷをしてみせる。心底嫌そうな顔をしてみせるフィアリアだが、その目からだけは笑みを消すことができなかった。身の軽い動作でくるりと振り向いて、ヴァトスの菩提樹に背を向ける。
あるいは遠い未来、エルフが帰る地はヴァトスになるかもしれない。だがそれは遥か先のことであり今は人間が住まうミッドランドを旅するべく彼らは失われた都の遺跡を後にした。
...EPISODE END
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