SCENARIO#12
君は突然目を覚ました。あれは何だったのだろう?記憶がどっと蘇る。それは平凡な村の日常の夢だった。エルフたちが外で狩りをしたり、土を耕したり、薬や食用の木の根を集めたり、料理をしたり家を修理したりしていた。と、突然声がする。声の持ち主に目を向けるとそれが火山島で会ったエルフであることに気づく。
「魔王子イシュトラがついに奈落の口を開き、忌々しい邪悪な軍勢を我々の森に解き放った。彼らはとても強力で、冷酷に支配されているがイシュトラさえ倒せば力をなくして分解するだろう。彼らはまだ大きくない、だからいま対決しなくてはいけないんだ。一の森のエルフが力を貸してくれることになっている。
これでお別れだ。エルデナリンは消えてしまうがお元気で。再びティル・ナン・オグで会う、そのときが少しでも遠い未来であることを祈るよ」
それが魔王子に肉体を奪われたエルフの夢であることを知る。妖精の身体を供物にして、人間がダークウッドと呼んでいる闇の森に奈落の入り口をこじあけた魔王子イシュトラはミッドランドにそのねじくれた姿を現そうとしていた。エルフは魔王子の器になれず粉々になってしまったが、消し飛ばされる前の夢が人々に警告を残したのだ。
賢人が覚えている記憶によれば、かつて魔王子が世界に現れたことが一度だけあってそのときは神々が国ごと海に沈めてしまいことなきを得ている。海底都市アトランテスの伝説は今も文献や伝承に残されているが、人間がイシュトラを追放できなければ神々はまた同じ方法を選ぶことになるかもしれない。
「だが魔王子が現れることを恐れるのではない。魔王子を退ければ今度こそ平穏な世が訪れると考えるが道理」
ウンスイが力強く言う、それは楽観的なのではなくこれまで危難に挑みそれを克服してきた皆に共通する思いであった。世界を凍てつかせる雪の魔女シャリーラ、五色の竜を蘇らせようとした嵐の子マルボルダス、そして奈落を統べる魔王子イシュトラが現れても恐れを克服して挑むことができる者を人は英雄と呼ぶ。
魔王子とは邪悪の三柱である死と腐敗と疫病が、かつて神話の時代に神々と争ったときに軍勢を率いた司令官たちである。王子の上に王がいるわけではなく、イシュトラとシスとマイユールは奈落に君臨する三体の魔王ということだ。
「途方もない話だな」
呆れたような、感心したような声を漏らしているハインツ・シュタインにも恐れや怯みの色はない。傭兵として剣を振るえばそれでいい、そう考えているが今では彼を傭兵だと思っている者はほとんどいないだろう。カスパーの王子から戦神を祀る宝剣フレイムストライクを譲られた戦士がただの傭兵のはずがなかった。
トカゲ兵の帝国から火山島を解放した彼らは軍船で港町ラーヴングラスまで戻ると、川を遡上する筏船で一路ダークウッドを目指す。それで逃げたエルフの身体に追いつけるとは思えないが、陸路よりもはるかに速く魔王子に少しでも先んじることができるかもしれない。頭上には魔法使いたちの使い魔が飛び交う姿が見られ、白い魔女アルガラドのヨタカがゆっくりと下りてくると野馳の娘が伸ばした腕にとまる。
「ご苦労様。いつものオウムくんじゃないんだね」
そう言われて不機嫌になるヨタカの足輪から短い手紙を受け取る。速く、遠く飛ぶうえに夜目も利くすぐれた使い魔だが、平たい顔がどこかぶさいくでそれはそれでニン・ガラも気に入りつつあった。手紙は昔ながらの伝令文字で書かれていて、白の狩人ガルド=ミラが解読用の札を当てると声に出して読み上げる。
「森ノ南、やずとろもノ白キ塔デ助ク、とあるな。魔法使いたちもこちらを助ける算段を巡らせてくれているらしい」
船旅とはいえ火山島からの強行軍であり、旅慣れた彼らにすれば魔法の品々よりも糧食や柴木や火口がよほど必要だった。いずれにせよすべては現地についてからになるだろう。
ダークウッドは木々に覆われて昼なお暗い森の姿からそのように呼ばれていたが、今は混沌に侵されてねじくれた木々の様子が闇そのものを思わせた。森のはるか手前で筏を降りて、大きく迂回して南にある魔法使いの塔を目指す。だが魔王子の復活を前にして塔の主は不在であり、代わりに待っていたのは呪い師の女だった。
「なんだ。思ったよりも皆元気そうだね」
皆を出迎えたベレト・エカリムはダークウッドから氷指山脈まで旅をした間柄であり、ガラやガルドとはそれ以前から親交がある。野馳の娘の世話を引き受けてくれていた白の狩人らに礼を言うと、ベレトは森に入るために入り用な品々を運び出していた。
「使えるものは目一杯使う、人間にできるのはそれさ」
「はい、姐さん」
ガラは一人で野を駆ける以前に呪い師のキャラバンに世話になっていたらしく、彼女がよく使う言葉もベレトの受け売りらしい。人が人に伝える言葉が若い野馳の知恵になっているのならば、それは呪い師が用意した品々以上に人の助けになるのかもしれないと傍らにいたウンスイは首肯する。
「伝えられた言葉が知恵になる、世界を救う力とはそのようなところから始まっているのかも知れぬな」
「あたしに知恵はないけど力とパワーはあるよ!」
頓狂な声をあげているマキに笑顔が向けられるが、本来彼らはそう安穏とできる立場にいるわけではない。彼らが英雄の働きをしなければミッドランドが滅ぶのであり、呑気に楽しんでいられる事態ではないはずだが若い娘たちに悲壮な様子はなく、ベレトに言われた以上に皆が元気で力強く見える。
「魔法使いはかつて世界を魔法で滅ぼしかけた前科があるから自らは動かず他者を助けようとする、ですが元気な者を見れば誰でも助けようとは思いますな」
大仰に言ってのけるサヴァンだが、奇妙な風体をしたこの男も魔法使いではなかったかと周囲の者は首を傾げる。もっとも魔法使いの戒律が常人に分からぬのは今さらのことで、彼らが奇人扱いされるゆえんでもあった。
足を踏み入れて数刻進むだけで、ダークウッドは森ではなく森の偽物のような姿になってしまう。いまだ混沌に汚染されず無事な樹木も見られるが、まるで火か不注意に斧をふるうドワーフの大群のしわざでもあるかのように多くの地域は荒廃してしまっていた。
立ち入ろうとする者を追い返すように、あたりには邪悪な霧が湧きおこって右手に稲妻がひらめく。背の高い松の木が、ツタに絞めつけられてのたうちながら行く手に現れる。森が枯死している、イシュトラの地下要塞への入り口は荒廃する森の中央にあるに違いないが霧の中で方向をあやまたずに進むことができるかいささか心もとなかった。
「本当にこちらでいいんだろうな」
「当たり前だ。狼よりも確かなオレサマの鼻を信じろ」
ハインツがいぶかしげに見下ろしているのは、あろうことかダークウッドのゴブリン(Goblin)である。森に入ってすぐに捕まえた一匹だが、奇妙に偉そうな態度でヒトの庭に勝手に入るとは何ごとだとがなり立てられると毒気を抜かれてしまっていた。
こんな生き物でも道案内ができるかもしれぬと先導させることにしたが、ゴブリンに身を預ける気になれない真っ当な者たちは別の道を探すことになりハインツとサヴァンの酔狂な二人だけが従っていた。
「見ろ。あの赤枝のナントカいう木が目印なんだ」
「ほう、お前さんの鼻は目印を見分けられるのか」
ジャック=マルタン・ブオナパルテ・オトテールと名乗るゴブリンは迷う様子もなく先を歩いているが、それが道を知っているためか単に考えなしのためかは分からない。ここは狼の黒竜王を倒した場所、ここは部下のアントワーヌ・ミシェルの砦があった場所という説明を受けるたびにハインツは辟易するが、サヴァンはゴブリンの英雄譚に感心していちいち相づちを打っていた。
「いやいや、あるいはこの方が魔法使いの仕える英雄になるかもしれぬではありませんか」
「そうだ。オマエはよく分かっているな!」
ゴブリンの案内と魔法使いの言葉をどこまで信じてよいものか、ハインツが皮肉っぽくなるのも無理はないがもともと安全な道があるとは思っておらず、彼はこの頼りない案内を信用することにも決めている。むしろ気の毒なゴブリンを危険に巻き込むのではないか、その方がよほど気がかりだった。
一歩進むごとに枝がぎしぎし、がさがさとうなる音がして樹木の気味悪さはいっこうに減る様子がない。泥沼を渡るような地面はじゅくじゅくとして通りにくい上に空気そのものが胸をしめつけてくるようで、息をするのもつらく感じられる。
「おい、あまり離れすぎるなよ」
マルタンが案内する道は確かにダークウッドの中心へと向かっていたが、それは混沌の影響がより強い場所へ近づくということでもある。不気味だが静謐な雰囲気を邪悪な力が破り、唐突に動きだした灌木の茂みがあたりを取り囲んだ。
こわばった関節を鳴らしながら、こぶだらけの枝を伸ばしたツリー・デビルが非情な爪をゆっくりと振り上げて命ある者を引き裂こうとする。迷わず駆け出したハインツが宝剣フレイムストライクの包みを解きながら強く叫んだ。
「魔法使い!あれを止められるか!」
「あいにく繁茂は使えますが枯らしは禁忌でして」
サヴァンの言葉に舌打ちを返しながら、ハインツは戦の神の波打つ刃を両手で構える。森で木と戦うことは賢い振る舞いとはいえず、避けられる戦いならば避けたいがこの状況ではそうもいかないだろう。
樹人ほどではないが、ツリー・デビルの力も尋常なものではなく振り下ろされる枝を受け止めるだけで身体がきしむような衝撃を受ける。人間めいた姿に見えるが枝は腕でも足でもないから、傷つけても別の枝が平然として襲いかかってくる。背後で呪文を唱えているサヴァンもハインツを守るのがせいぜいで、邪悪な魔法使いでなければ火炎の術も使えなかった。
「生木は火では焼けねえ、煙と塩で追い払うんだ!」
それがゴブリンの声であると知って、逃げずにいたことに感心しながらもハインツは襲いかかる枝を弾くことに専念する。と、唐突に狼煙のような煙があがり、視線だけを向けるとマルタンが枝草を束ねた柴に火をつけて右手には壷のような器を抱えていた。麻縄を結んだ壷を器用に振り回すと、水を入れてどろりとした塩を怪物の足下にぶちまける。
あまり知られていないがゴブリンはオークやトロールとは違って頭がよく、特に手先が器用で道具の扱いに長けていた。邪魔な木を追い払うために煙でいぶして塩をまくなど、それこそ人間かゴブリンでなければ考えつかないことである。明らかにひるんだツリー・デビルが後ずさり、これでも倒すことはできないが逃げるには充分でハインツも偉そうなゴブリンへの評価を少しだけ見直すことにした。
「ゴブリンが賢いんじゃない、ジャック=マルタンが賢いんだ。よく覚えておけ」
「そうだな、少なくとも戦士と魔法使いより賢そうだ」
賢いゴブリンの先導で戦士と魔法使いの二人が奈落の入り口を目指しているころ、他の者たちを導いていたのは屋根のない世界で暮らす狩人と野馳の二人である。アルガラドの使いのヨタカはそのままガラの肩にとまっていたが、この混沌の森では空の上から見ても方角が知れるとは限らなかった。
「どうする?小川に沿って歩くこともできるけど」
「それも手ではあるか」
ねじくれた森はどのような力によってか、姿まで大きく変えていて歩いている最中にも道が変わっているのではないかという不安を起こさせる。楡の古木が数刻後にはツタにくびられた残骸となり、空き地はわき出した泥に沈んでしまう。深い雲と霧が空を覆い、木々の隙間から太陽を探すことも難しければ葉の茂り具合を見ようにも幹そのものがねじ曲げられていた。
森はいくつかの小さな支流に貫かれていて、それをたどればおよその場所は知ることができる。混沌の歪みが川の流れすらも変えるならお手上げだが、筏で遡上した流れであり大きく変わっているとは思えない。冷たい水が薄く地面に霧を広げ、足下を冷やすのが不快ではあるがこの森で不快でない場所を探すほうが難しかった。
ふいに道が開ける。かろうじて差し込んでいる太陽の光がやわらかい芝生にまだら模様をつくり、鳥が木立で陽気にさえずっていた。周囲からは混沌がさしせまっているがこのあたりはまだ木の実も実っているらしい。
皆は短い休息をここでとることに決めると、携行していた食料をかじりしばらく身を休めるがまさしく短い休息でしかなく、いつの間にか周囲に鳥の声が消えていることにウンスイが気づく。
「邪気!」
黒衣の僧が叫ぶとすぐに、近くの水面から流れてきた霧が冷気をともなって手足を凍えさせる。と、霧の中からフォグ・デビルが現れて渦をまきながらするどい爪で襲いかかってきた。ウンスイの声にすかさず身構えたマキはとっさに伏せて一撃を避けていたが、爪だけでなく牙もむき出した怪物はすぐにまたやってくる。
「あたしの力はすべてを貫く!悪・即・斬っ!」
鉄板のような大刀を握って立ち上がるが、斬馬刀は貫くのではなく叩きわる武器ではある。理屈よりも勢いとばかり、戦いの作法をかなぐりすてた構えから力まかせに振り下ろすが、実体のない怪物の身体をすり抜けた刀は地面をむなしくえぐる。フォグ・デビルが容易な存在でないことはすぐに分かった。
実体のない霧を相手にどうするか、考えることをすぐに放棄したマキは大刀を右に左に振りまわす。無意味な行為には違いないが怪物が自分を狙うあいだに他の仲間がなんとかするに違いない、自分のパワーと仲間の力を信じて疑わないのが彼女の流儀だった。
「己が身で仲間を守る、その献身や見事!」
「だが背を守るは一人の役目ではないぞ」
マキを助けるべくウンスイが小さく跳ぶとルーンの棒を突き出すが、これも霧を相手に手ごたえはなくむなしく空を突くだけである。魔法の武器であればと考えたのはガルドも同様で、ラヴィス=カノンの刃を閃かせるがやはり効果はない。
彼らのように戦士の力も魔法の武器もないガラはせめて役に立つ道具はないかと、火のついた松明を振りまわすがそれで霧が払える様子もなかった。怪物の爪がマキの鎖かたびらを削る音が霧中に響き、ガラの口から焦慮の声が漏れる。
「まずいよ、まずいよ何とかならないの!」
「何とかなるさ。皆が時間を稼いでくれた」
魔人殺しバリィ・ウォーグは砂漠の町ヴァトス以来の戦いにこのダークウッドを訪れていた。抜き身のままかざしたカサンドラの剣を斬るではなく掲げたまま意識を集中すると、緑色の輝きがいっそう強くなっている。
その輝きに気がついたフォグ・デビルが牙をむき出して近づこうとするがウンスイやガルドに阻まれる。堪え難いほどの光がゆっくりと動き、身体ごと回転するように左から薙ぐと不快なわめき声をあげる怪物に剣先を返してもう一撃、眉間を正確に貫いて息の根を止める。あたりがにわかに晴れてつかの間の平静が戻った。肩で大きく息をつくと、フォグ・デビルを倒した魔人殺しが振り返りながら剣をしまう。
「そのまま振ればただの武器でしかないが、使う者が力を解き放てばはじめて魔法の武器になる。あんたらなら簡単だと思うがね」
その助言にウンスイとガルドは彼らの武器を握り直すと心を鎮めて意識を集中する。はたしてルーンの棒と短剣ラヴィスがにぶく光り出して、それらが今以上の力を秘めていることが知れた。僧として修練を欠かさぬウンスイと大地に生きるガルドならではだが、バリィは軽くぼやいてみせる。
「やれやれ。けっこう俺は苦労したんだぜ」
「これはかたじけない。拙僧もルーンのこの光は見たことがあったのに、それが己の心であることに気づかぬとはまだまだ修練が足りぬ証拠」
魔人と戦うのに魔法の力は欠かせないが、それは魔法の武器ではなく武器を握る所有者自身が持っている力である。カサンドラの剣はかつての所有者が握っていたとき、鞘にしまわれてなお刀身から光が漏れ出ていたがバリィはそこまで剣に認められてはいなかった。
バリィの言葉にマキはこっそり念じてみるが彼女の斬馬刀は大きな鉄板のままだったし、道具と知恵に頼って生きているガラは魔法なんてよくわからないなと思いながら荷物を担ぎなおす。腰の袋に下げているアンセリカの実がぼんやり光ったことには、野馳の娘は気がつかなかった。
奈落の入り口へ近づくにつれて混沌の汚染はいっそう激しくなり邪悪の気配が重苦しくのしかかる。現界と奈落を繋ぐ門を魔王子が開くと森に暮らしていた生き物たちは早々に逃げ出していたが、この地にはエルフの村や闇エルフの地下帝国も存在していたはずで彼らがどうなったかは今のところ分からなかった。
「ですが少なくとも闇エルフは元気そうですぞ」
「ありがたい話だな」
サヴァンの言葉にハインツが肩をすくめたのは、地下世界を追いやられて逃げている闇エルフの一団に見つけられたためである。邪悪な輩が別の邪悪から逃げるとなれば、人間は門外漢でしかないが彼らにすれば国が滅びて機嫌がよかろうはずもない折りに、けがらわしい人間などに出くわせば腹立ちまぎれに何をしようが咎められるいわれはなかった。
マルタンは自分はニンゲンではなくゴブリンだと更に無関係を決め込んでもよかったが、ここで子分を見捨てれば彼の威厳に少なからぬ傷がつくだろう。いちおう闇エルフやゴブリンにとって、ゴブリンは人間よりも遥かに上等な存在だった。
「奴らが逃げた場所はオレサマが目指す場所だ!」
威勢はよいし発言自体も間違ってはいない。闇エルフが追い出された場所に奈落の入り口が開いたのなら、彼らが逃げてきた場所をたどればそこに目指す場所があるだろう。問題は三人、四人と増えている闇エルフを相手に今この危地を抜け出せるかどうかである。むろん偉そうなマルタンは戦力に数えられていない。
「妖精には魔法が見えますから隠れるのは無理ですな」
「もう見つかってるのに隠れても意味はない!」
先んじて切り込んだハインツは一人で全員を相手にするつもりでいるが、闇エルフも心得たもので戦士を相手にしてひとところにはまとまらず散開して短い弓を構えようとする。弓で狙われてはひとたまりもなく、すかさずサヴァンが踊るような手振りを始める。
「ぼやき、もとい、<ぼやけ>!」
魔法使いの術はハインツではなく、彼が握る宝剣フレイムストライクの姿をかげろうのように歪ませた。守ったところで相手が狙いもつけず矢の雨を降らせれば意味がなく、いっそ振りまわす武器を見えにくくすれば避けるのも難しくなるだろう。
「気が利くな!魔法使い!」
熟達した戦士は一人で数人を相手どるが、残された魔法使いとゴブリンは無防備に近くなる。献身的にマルタンが魔法使いの前に立っているがあまり役に立つとは思えず、それでも何とかなるかと思えたのは新たな闇エルフが五人六人と現れるまでだった。
「おやこれは困りましたな」
「オレサマは寛大だから逃げても怒らないぞ」
逃げるなら突破するしかなく、その突破しようとする先から次のエルフが現れる。これは無理かもしれないと思えた矢先、ダークウッドにときの声が響くといくつもの足音がなだれ込んだ。
「アーガイルの騎士団が介入する!闇の妖精よ、国を追われてあえて人に挑むつもりか!」
剣士の扮装をした若い娘、エア・トゥーレを先頭にしてウンスイやガルドといった見知った顔が駆け込んでくる。伝令一人で騎士団とは多分にはったりだがハインツらにとって援軍には違いなく、勢いよくとびあがったマキが大上段から斬馬刀を振り下ろして地面を穿つとそれが合図の銅鑼であるかのように双方が武器を止める。
「逃げるならあたしのパワーも力任せとは限らないよ」
マキの言葉は彼女なりに逃げるなら追わないと言いたいらしい。闇エルフたちも国を追い出されてここで多勢を相手に犠牲を出す理由はなく、不承不承といったていで姿を消すと周囲は鎮まったが魔王子の邪悪な気配だけは消えるどころかいっそう強くなっていた。
ヴァトスの戦いの後、騎士団と親しくしていたエアをアーガイルが伝令として遣わしたのは奈落に挑む者への助けを運ぶためだったが、最たる助けは彼女がもってきたものではなく連れて来た者である。
「森を一日で滅ぼす者は、森が千年で育つことを知らない。エルデナリンの声を聞いた者もそうでない者も、今ここにいてくれることを心から感謝するわ」
エアが引く馬の背から舞うように下りたのはヴァトスに残ったエルフの娘、フィアリアである。夢に見た一の森のエルフとは彼女に違いなく、魔人と戦うのに妖精の力は欠かせなかった。
これで人間が奈落に赴いて魔王子と対決する方法が決まる。魔法の力を携える者はこのままダークウッドを進み、そうでない者はフィアリアが夢の世界へと導いて異世界でイシュトラと対峙する。空と地面が地図では同じ場所にあるように、それぞれは離れずに進みフィアリアが彼らを仲介する。イシュトラはそれぞれの世界に番人を用意しているだろうが、生き延びた者は魔王子と戦うことができるだろう。エアが口を開く。
「アルガラドからの伝言だよ。アンガロックとモルフェウスがキミたちを待ち受けている。でも目的は魔王子を奈落に追い返すこと、それを忘れないで」
奈落の底にうごめくものを相手にして、人間が何度も戦って無事でいられるはずがない。英雄は生きて帰ってくるからこそ英雄であり、戦うことが最上の決断とは限らない。はたしてダークウッドに立ちこめていた霧が薄らぐと、彼らの目の前に二本の太い象牙の柱が両脇に立つ入り口が現れた。イシュトラの準備はできた、彼に挑む人間はこの門をくぐれということらしい。
人間の姿に驚いて夜の空に飛び去るコウモリの音を耳に、深呼吸をして、ゆっくり吐き出すと象牙の門をくぐる。柱のあいだを通ったとたん、そこは現実と異なる世界が重なっている場所であることが感覚で理解できた。
先へ延びるトンネルを用心ぶかく進む。現実の地下要塞を歩く道を選んだのは魔法の武器を携える白の狩人ガルド、黒衣の僧ウンスイ、魔人殺しバリィの三人だが彼らを先導しながら周囲を窺っているのはガラである。現実の世界だからこそ野馳の嗅覚が役に立つだろうと、彼女はあえてフィアリアの夢の世界には入らず地下迷宮の床を踏んでいた。
「この通路もイシュトラの力なのかな?」
「いや、おそらく闇エルフの地下帝国をそのまま使っているのだろう」
壁の表面をさわりながらガルドが答える。いくら魔王子の力でも、わざわざ建てた壁や床を古びさせるとは思えなかった。自分たちの帝国を追い出された闇エルフはこれで著しく力を衰えさせることになるだろうが、邪悪にとって他の邪悪はどうでもよいということらしい。
彼らは侵入したが最後、怪物どもの軍勢に襲われるかと覚悟していたが通路は静かなものでただ重苦しい空気だけが立ちこめている。ウンスイは彼が生まれ育った東方の風習を思い浮かべながら、自分が考える邪悪と魔王子のそれが異なる点を考えていた。東にある八幡の国では将軍と将軍が戦い、たとえ一方が邪悪であったとしても主君と戦士は互いを決して裏切らない。
「闇エルフの逃亡とこの静けさ。つまり魔王子の番人は敵も味方も見境なしの輩ということであろうな」
「なるほどね。逆にいえばそいつら以外に護衛も番人も誰もいないということか」
バリィの言葉にウンスイがうなずきを返す。それだけ恐るべき相手がいると思えば心楽しくはなれないが、少なくとも尽きることのない兵士や魔物の群れに襲われる心配はないらしい。
ふいに、石造りの地下通路が動きだすと床が大きく盛り上がって足下をぐらつかせる。ひび割れた地面の裂け目から水がしみ出して流れていき、大きな岩が崩れ落ちてくるがさいわい侵入者には届かない。崩れた頭上には穴があいている。しかし、こうしたことは大したものではない。問題はその穴から光ではなく闇が漏れ出してきておぞましいアンガロックが入ってきたことだ。
アンガロックは奈落が産み落とした怪物で、もとはイシュトラではなく魔王子シスのペットである。外見は巨大なヘビに似て両側に間隔をおいて四本ずつ足がはえている。足はクモのように太くて毛むくじゃらで、それを使って驚くほど速く走り遠くとぶことができた。
アンガロックは武器となるようなものはなにも持たない。どんな鎧状のものも、爪も、牙すらもない。それらは必要ではない。存在そのものが有害なアンガロックは近づいただけで獲物の魔力を奪い取ることができる。つまり魔法の道具を持つ者がいたとすれば力を吸い取られてしまうのだが、アンガロックの力はそれだけではなく生き物の生命すらも奪うのだ。
「ねえ?何か、変だ・・・」
ガラは奇妙な様子に気がつくが、気がついたということはもう手遅れだった。ひざから落ちるとまぶたまで重くなってくるが、それが眠りではなく緩慢な死に近づいていることがわかる。
「いかん!逃げるぞ!」
ガルドが小柄な娘を担ぐといっさんに駆け出す。白い魔女の伝言があったとはいえ、彼らの目的は魔王子を倒すことであり何よりこの生き物は危険にすぎた。ガラの顔色はわずかの間に青を通りすぎて白くなっており、逃げることに迷いはなくウンスイとバリィもすでに駆け出している。
だがアンガロックは速く八本の足で器用に追いかけてくる。天井がなければ頭上から落ちかかられていたに違いなく、それだけは幸運だったがこのまま何も犠牲なく逃げることはどうやら無理のようだった。ガルドはもう一度叫ぶと娘の身を黒衣の僧に預け、自分は立ち止まると短剣ラヴィス=カノンの刀身に仲間を守ろうとする心のすべてを込めて解き放つ。
(仕方が、ない。あとは、頼んだ・・・!)
ガラが目覚めたときそこはまだ奈落の入り口で、見上げている視界にはひび割れた石造りの天井を背にした白い狩人の顔が映っていた。まだ指先すら自分では動かせないが、血が通っている感覚は伝わってきて少しずつ意識も記憶もはっきりする。あるだけのアンセリカの実を使って失われた力は戻ってきたが、動くにはまだもう少し時間が必要だった。
「皆は先に進みおったよ」
穏やかな表情でガルドが笑う。ガラは救われた礼と謝罪を一度ずつ言うが、彼女を助けたのは白の狩人の手で力を失っている鉄のかたまりである。解放された魔力は膨大な力となり、呑み込んだアンガロックはあまり強い善に辟易したのか、それでも飽食すると天井の穴に引き上げて本来の主人がいるだろう奈落の奥へ奥へと帰ってしまう。アンガロックの飼い主はあくまでシスであってイシュトラがどうなろうと知ったことではない。
野馳の娘と白い狩人には逃げる力も戦う力もない。だが仲間が一人も欠けることなく魔王子を打ち倒して戻ることを彼らは疑っておらず、ガルドは彼の手にある仲間の命を救った短剣を誇らしげに握っていた。
妖精が導くことのできる夢の世界は、現実の世界と重なっていて夢の世界を移動すればイシュトラの地下迷宮にある肉体も移動している。実際に歩いているが意識は夢の世界にあるから、夢遊病者のように思えるが妖精の世界にいる者は現実世界でその姿は見えなくなる。むろん、夢の世界にいる者にも現実の世界は見えないから妖精の案内が必要だった。
「本当は一の森と契約をしたエルフはダークウッドと関わることができないのよ。これは善の戒律じゃなくて森に共通の決まりごとなの」
フィアリアが先導する夢の世界は生き物の臓物のようにも見えて、あるいはあまりにも無機質な水晶の通路にも見える。それは彼女のせいではなく、魔王子の地下迷宮に重なる世界が禍々しい姿をしているのは仕方がないことだろう。
夢の世界は魔力をそのまま扱うことができるから、魔法的な存在に直接干渉することができる。魔法の武器を持たない者もこの世界であればイシュトラと戦うことができるが、実体は現実の世界にあるから傷を負えば肉体は無事なまま存在そのものが削れてしまう。いわば魔力が生命力の代わりでもあるのだ。
「夢ですからその気になれば好きな姿も好きな力も持てますぞ。ですが現実味のない夢はしょせん現実味のない力しか振るうことができんのです」
「ようするに、いつも通りがいいってことだね」
サヴァンの説明をマキが要約してみせる。彼女が担いでいる斬馬刀は夢の世界の力だが、その重さも威力も彼女はよく知っていて形のある力として描き出すことができた。この世界では彼女の斬馬刀は魔法の武器となって敵を穿つことができるが、仮に刀が折れればそれは刀を模した彼女の魔力が折れることになる。
「どのみち戦士の剣が折れれば戦士も生きていまい」
この世界でハインツは彼が長年なじんだ平剣ではなくフレイムストライクの波打つ刃を手にしている。力とは技術や腕力ではなく、経験や記憶でもなく、揺るがぬ強い意志のことであればカスパーの王子に託された戦神の剣こそ彼の力の象徴だった。
邪悪な気配に満ちた通路を進んでいるのはサヴァンとマキ、ハインツとマルタンであり彼らを導くフィアリアは現実と夢をつなぐために力のほとんどを割かねばならず姿が見られない。延々と洞窟が続いている、そこには何も見えないが確実に何かがいて、切り開けない、息のつまりそうな闇のとばりに包み込まれた邪悪な力がうごめいていた。
「いるぞ!いるぞ!ニンゲンには見えないのか!」
ゴブリンが妖精のはしくれであるという説はゴブリンからも妖精からも否定されているが、人間よりも嗅覚が鋭いマルタンは確実にその気配を察している。はたして目を向けるもおぞましい悪夢を探してみると、そこには邪悪の士官であるモルフェウスが無様な姿で横たわっていた。
それは桁はずれにふくれあがった化け物で、ミッドランドすべての種族の悪夢の源である。その体は定まった形を持っておらず、大小のいまわしい生き物がうごめいている。と、モルフェウスの一部がちぎれて悪夢の怪物が差しむけられた。ちぎれた怪物はそれぞれが不完全なハーピーや鉤爪獣、悪霊といった姿をして牙やかぎ爪をむき出している。
「夢でもあたしの正義が任されたあー!」
「三人を相手に三体か、侮ってくれるものだな」
当然のように先頭を駆け出したマキが大刀を鉤爪獣に振り上げる。毛むくじゃらの獣には四本の腕が生えていてそれぞれに鎌のような巨大なかぎ爪がついていた。頭上できいきいわめいているハーピーにはハインツが、悪霊にはサヴァンが向かうがマルタンはモルフェルスの悪夢に囚われて身動きがとれず、役に立たないのかもしれないがあるいは彼がモルフェウス本体の相手をしているといえなくもなかった。
怪物どもはどれも非力な生き物ではないが、魔王子の地下迷宮に挑む英雄には恐れるほどの相手でもない。ハインツは頭上の敵を器用に避けながら切り落とし、マキは力任せのかぎ爪を受け止めると斬馬刀で両断する。サヴァンも常は見られない魔力のかたまりで悪霊を貫いてしまった。
手下をかんたんに倒されてしまったモルフェウスだがそれで悪夢が覚める様子はなく、今度は自ら動き出すと寄り集まった図体でのしかかろうとする。動きは鈍重だが力はどうしようもなく強く、相手を呑み込んで悪夢の一部にしてしまおうというのだ。
流れる土砂のように地を這うモルフェウスにマキが斬馬刀の一撃を振り下ろすと不快な破片が飛び散る。いくら無謀無策の彼女もこの化け物に呑み込まれてやろうとは思わず、すぐに離れると入れ替わりにハインツが駆け込んで宝剣が竜巻のように振りまわされた。
「眠れ!そして二度と目覚めるな」
無様な悪夢のかたまりが飛び散る様もまた悪夢にちがいないが、それでも魔王子イシュトラが夢の世界に配した番人は抵抗もできずずたずたに切り刻まれていく。容易ならぬ相手のはずであり、未だ脳裏に警告は鳴り響いているがモルフェウスの力が次第に弱まっていることは間違いない。遠くから呼びかけるような、小さな声に構わず今こそ悪夢の源を滅ぼすのだ。囚われていたマルタンすら弱まった悪夢から解放されて、ここぞとばかり復讐するかのように勇ましい声をあげる。
「おめーら!刻んですりつぶしちまえ!」
「駄目よ!聞こえて!モルフェウスを殺しては!」
フィアリアの警告を閉ざしていたのはモルフェウス自身である。もはや怪物はなんの抵抗もせずに切り刻まれていたが、悪夢の源を殺すことはその夢を見ている者を殺すことに等しい。自分の夢に手をかけたマルタンは一声叫んでからけいれんすると、倒れてそのまま動かなくなってしまう。魔力のほとんどを消し飛ばされたゴブリンはしばらく意識すら戻りそうになかった。
モルフェウスの寄り集まった体はばらばらになり、悪夢の断片をつなぎとめていた結び目は一時的に破壊される。それはいずれまた寄り集まって、世界は悪夢から逃れられないが多くの者はしばらく穏やかに眠れることになるだろう。怪物はゴブリン一匹だけしか道連れにできなかった悔しさに吠え声をあげるとそのまま消えてしまう。
「やれやれ、ひどい夢でした」
サヴァンがおどけて言うが、彼らは傷ついた自分たちの姿に愕然とする。マルタンは言うに及ばず、怪物と激しく打ち合ったマキも斬馬刀が受けたと同じ数だけ身体のあちこちが削れて消し飛ばされていた。夢の中の姿であり、現実の肉体には傷ひとつないが生命は確実に失われてすぐに治るものではない。
このまま置いていけるものではなく、サヴァンがマキとマルタンを守りフィアリアが連れて行くのはハインツ一人だけにするしかなかった。魔法使いの戒律が云々という話を聞いたばかりではあったが、比較的ましな状態で残ることにサヴァンは未練がないのかと聞かれると
「あなたはもう魔法のなんたるかを知っている筈。わたくしの出る幕はありませんがこちらの方々にはまだまだわたくしの助けが必要なようでして」
そう言いながら穏やかな夢に灯した魔法使いの灯りがゴブリンとマホウ剣士を照らし、光よりもむしろあたたかさに安らいだ者たちは夢の世界に落ちる。傷ついた夢が命を削るのであれば、安らぎの夢はそれを癒すことができた。
目の前の風景がねじくれたりふくれあがったりしている。歩いているうちに光景はふたたび変化して、どこまでが現実でどこからが夢なのか分からなくなる。魔王子の力がますます強くなって世界が歪められ、あふれ出た邪な魔力が世界の境目を曖昧にしているのだ。
不自然な光で満ちた人工的な建物の谷間を金属の怪物が走り回っている世界、伝説の邪悪な生き物たちが、ある土地の支配権をかけて争っている世界、サーベルと魔法の棒を持った肌の白い者たちが素朴な赤銅色の人々に襲いかかっている世界。それらはどれもミッドランドの姿ではないか、あるいは遠い過去か未来のものに違いないが快いものはひとつもなかった。
「世界があまり歪んでねじれた裏側が表とつながっているわ。これ以上は私も保たなくなると思う、そうなれば後はあなたたちしかいないけれど、魔王子の前には三人がたどりつくことができた。それは悪くないわ」
夢の世界を導いたエルフの声は途切れがちで、魔力が維持できなくなりつつある。イシュトラの地下迷宮は現実の世界すらもねじれて上も下もわからなくなるが、ふいにあたたかみのある小さな空間が浮かび、ハインツとウンスイ、バリィの三人にフィアリアの姿を借りた肥沃の女神ガラナの言葉が流れ込んでくる。
奈落の底で絶大な力と永遠の命を持つ魔王子にとって神々も妖精も取るに足りぬ存在でしかないが、ここまでたどり着いた三人の人間をイシュトラはむしろ恐れている。神話の戦いで「時間」が解き放たれて以来、ミッドランドにあるものはすべてが変化を避けられなくなったがそれは成長して衰退し再生する力でもあった。
「魔王子は十の力を十しか出すことができず、傷つけばそれは九になり八になる。だが人は一の力で生まれてもそれが二や三に育つうえに集まれば互いの力を増すこともできる。
イシュトラの番人は力を奪う怪物でした。彼らはそれだけ力への信仰が強いが、そういうものたちは自分より強い者に勝つことができる人間という存在を決して理解できないでしょう」
善の神々の助けはここまでであり、後は彼らと彼らの仲間が託したものを信じるしかない。小さな善が消え去るとそこに世界と奈落をつなぐ門があり、落雷のような音とともに魔王子イシュトラが現れた。周囲を取り囲むただれた空気が波のように揺れると、それは山羊の頭を持ったワニの姿をして、二本の足で立っており体の表面には暗緑色の炎がちらちらと踊っている。
善の神々に助言をされたとおり、魔王子には人間をあざ笑うほどの余裕はないがその力が強大であることは変わらない。イシュトラの象徴である炎を鞭や剣のように握りしめ、全身から腐臭をただよわせながら邪悪なよろこびに金切り声を発している。
(人間よ!お前たちはそんなつまらぬ力でイシュトラを倒せると思ったか。我が兄弟の中で誰よりも偉大になるイシュトラを人間が止められると思ったのか)
人間、と呼ぶ言葉の響きに魔王子が人間を虫と同じ程度にしか見ていないことが分かるが、今やその虫に自らが脅かされていることもイシュトラは認めている。解放された「時間」の影響を避けるために魔王子は彼自身の時間を止めなければならず、成長も衰えもないが傷を受ければ癒すこともできない。そして力が弱まれば世界にとどまることができず奈落に落ちてしまうのだ。
「つまらぬ力だけじゃないんだ。俺たちの石板は四枚あるらしいからな」
バリィ・ウォーグは今や彼の手になじんだカサンドラの魔剣から漏れる緑色の光をなびかせるようにして切りかかる。横なぎに刃を払い、開いた空間に飛び込みながら打ち下ろす技はかつての所有者を打ち倒したそれである。剣士にとって敵はただ敵ではなく互いに争い、超克することを繰り返して彼らの技を磨くものであった。
炎の鞭をかいくぐった一撃が分厚い鱗を削り、それで倒すことはできないが人間が魔王子を傷つけたことにイシュトラは激怒する。蟻に咬まれても痛痒は感じないが咬まれた傷跡は決してふさがらない。
「為すことを為せば語ることはない、そう思っていたが言葉で語らねば伝わらぬこともある。ともに戦いながら傷つき残った若者たち、彼らに伝える言葉を拙僧は持ち帰らねばならぬ!」
言葉は道具に過ぎないが、それを使うことで人は人に伝えるべきことを伝えることができる。戦いに赴くことができなかった仲間たちの思いを背負う、とは心だけの問題ではなく、彼らであればどうするかと知恵を尽くすことによって自分一人だけの力を超えることだった。
「使えるものは目一杯使う、であったな!」
黒衣の僧が身軽に跳びまわりながらイシュトラの炎を捌き、機会を見て周囲に転がった瓦礫を投げつける。この程度で魔王子を惑わせるはずもなく、厚い皮膚を傷つけることもないが騒々しく跳びまわって捕まえられぬウンスイがイシュトラには煩わしい。
生意気な黒衣の人間を黙らせるべく、炎の剣の一撃が壁も天井も砕いて巨大な瓦礫が落ちかかるが、ウンスイが欲していたのは自分が投げる瓦礫ではなくこの巨大な瓦礫だった。八幡に伝わるハッソウの技で跳び、倒れかかる霹靂の上を駆けながら頭上にとびあがるとルーンの一撃を打ち込む。山羊の鼻面に切っ先が突き立ち、血のかわりに炎が吹きあがった。
「そして、こいつが力とパワーというやつだ!」
バリィが切り開き、ウンスイが動きを止めたところにハインツが正面から飛び込むとフレイムストライクの刃を袈裟斬りに振り下ろす。魔法の武器でなければ魔王子を傷つけることはできぬ、イシュトラはそう考えていたが戦神テラクに捧げられた武器が魔王子を傷つけられぬはずがない、ハインツはそう信じていたし心から信じればそれは信仰と祝福になる。現実と夢の境がない、この場所で魔力とはハインツの心からの思いそのものであり守るべきものを守るために人から人へ託された剣が彼の力だった。
「戦神テラクよ!俺たちの戦いを照覧あれ!」
「地獄に戻りな!お前さんがいた世界だ!」
「往生せい!」
かつて神々の戦いで傷つき追放されても魔王子は滅びることがなく、人間がこれを殺すことなどできるはずがない。世界が悪夢から逃れられないように世界から邪悪が消えることもないが、力と知恵と技を尽くした仲間たちが四枚の石板を掲げることによって、邪悪に対抗することはできる。
イシュトラは彼の成長できぬ心の中で、人間ごときが自分を傷つけることができた理由を決して理解できないし、この世界にとどまるだけの力を失ってもう一度奈落に追放されるしかない。その傷はいつか癒えて世界は再び邪悪に脅かされるかもしれないが、ほんの700年ほど魔王子は傷をなめていなければならないだろう。
ねじれて歪んでいた世界は元に戻り、魔王子の地下迷宮がその主の姿とともに崩れるようにかき消えると周囲にはダークウッドの森だけが残っている。この世には奇跡の治療薬はなく、森はあいかわらず前と同じように枯死のままだが、ヴァトスの一の森がそうであるようにいずれこの地にも新しい草木が生えて新鮮な緑におおわれることを皆は知っていた。
ここしばらく、森とミッドランドは安全なのだ。
† † †
魔王子が世界から追放されても、ミッドランドは祝賀の宴を開くではなく傷ついた世界を立て直すことに忙しかった。人々を呆然とさせたのはアーガイルの白い魔女アルガラドが出奔していたことで、王城の中庭にある彼女の庭園は使い魔の鳥たちとともに姿を消していた。剣士シグルドソンも見当たらず、人々は困惑したが白い魔女の求めでアーガイルの難題を解決してまわっていた勇者が新しい王に選ばれると、彼を中心に新しい国がつくられることになる。
「いいんじゃないか。アーガイルが強くなりすぎるのも他の国には不満だろうさ」
魔人殺しバリィ・ウォーグは冒険が終われば別の冒険に出るだけであり、悪名高い監獄島の主人が迷宮探検競技に送り込む戦士を探しているという噂を聞いて船を探している。彼が魔剣を手に入れたときに逃亡した大剣の男が、いずれ彼を狙うかもしれずそれがなくとも城や陣営での生活に彼がなじめるとも思えなかった。
ラーヴングラスの港にはいくつもの船が並んでいるが漁船や商船もあれば出自の分からぬ船も多く、海賊はなりをひそめてもいなくなったわけではない。航海に出る者には祈りと祝福が欠かせないが、今魔人殺しからそれを受けているのは黒衣の僧である。
「まあ、たまには坊さんも祝福される側になってくれ」
「かたじけない。作法は違えど祈りは皆に等しい」
「おーい、そろそろ船が出るよー」
別の船を待っているバリィに見送られて、黒衣の僧ウンスイは遠く東方に出る船に乗ろうとしている。彼の故郷では将軍と将軍の争いが未だ収まってはおらず、国を救う者の手が必要になるだろう。
同行を主張したマキは彼女がまだ見たことのない鬼が暮らす地に心をときめかせているが、今かの国に必要なものは決して折れぬ正義である。あるいはこの小柄な娘が本当の戦士だけに認められる称号、サムライの名を得ることができるかもしれぬではないか。
ミッドランドの復興はアーガイルの新王とカスパーの王子テラクが中心になって進められる。カスパーは女王ペリエルが健在だがいずれ王子が新王につくことも間違いなく、戦乱であまり傷ついた国や城を修復した後に戴冠式が行われるだろう。そのとき、新しく設けられる騎士団の長をフレイムストライクを持つ戦士にゆだねることを王子は熱望しているといわれていた。
「あまり柄ではないが、テラクに仕えるならそれも悪くはないか」
それが戦いの神の名か、ハインツと友誼を結んだ王子の名であるかは当人にしか分からない。カスパーは先のトカゲ兵団との戦いで戦士どころか壮健な男のほとんどが死んでおり、女と老人と子供しかいないから騎士団の再建は相当な難事である。ミッドランドを救ったフレイムストライクの英雄がいれば心強かった。
そうした英雄譚に語られることもなく、式典で栄誉を授けられることもない魔法使いはそれが魔法使いのあるべき姿として、すでに彼が仕える新しい主に従い国を離れていた。白い魔女アルガラドがそうであったように魔法使いは人に好かれても嫌われてもいいが、尊敬されたり崇められてはいけない。手品や花火を見せる楽しげで怪しいおじさん、それが善の魔法使いの理想である。
「そうして魔法使いは自分が助けた者が英雄になったときに心からの満足を得るのです」
「よくワカランが英雄というのは悪くない。オレサマに任せておけ」
その後、道化のような奇妙な男を連れた大げさな名前のゴブリンの物語がミッドランドの巷間で子供たちを楽しませることになるのだが、それはもう少し先の話である。ジャック=マルタン・ブオナパルテ・オトテールはたぶんミッドランドに暮らしているどのゴブリンよりも有名なゴブリンになるという、彼のささやかな夢を叶えることができるだろう。
そうして国を出奔せず、国に仕えもせず彼らが属していた世界での暮らしに帰る者たちもいる。狩人や野馳にとって空は天井であり国境は存在せずミッドランドが彼らの家だった。
「叔父さん、姐さんからアンセリカの苗を三本もらえたよ。でもヴァトスの砂漠でこれが根づくのかな?」
「オアシスはエルフが世話をしている。人間よりもよほど草木の扱いには長けておろう、それよりも・・・」
叔父さんの呼び名はやめないかと白の狩人ガルド=ミラは不平とも苦笑ともつかない口調で言うが、ニン・ガラは聞いたふうもなく風を切るヨタカの軌跡を追っている。人前から姿を消したアルガラドは彼女を守る剣士と世界のどこかで暮らしているらしく、ヨタカと、ときどきはオウムがガラのもとを訪れては他愛のない織布や飾り帯の知識を交わしているようだ。おそらくはそれが白い魔女でなくなったアルガラドの望みなのだろう。
ヴァトスの砂漠や汚染されたダークウッドはエルフがもとの森に戻すべく長い長い努力の一歩を始めたばかりである。話によればダークウッドはもっとややこしい事態になっていて、エルフだけではなく隣接する石の町のドワーフや本来の居住権を主張する闇エルフまでやってくると自分たちのテリトリーを作って復興に取り組んでいるらしい。滞れば他の二者に何を言われるか分かったものではなく、種族のプライドにかけて三者三様の町がこの地に生まれるかもしれなかった。
野馳の娘が伸ばした腕からヨタカが飛び立つ。ぶさいくな鳥は一声鳴いてから周囲をくるりと旋回して高く高く浮き上がると、ミッドランドを見守る空へとその身を移す。それを見送る者たちは神々のいる世界へ飛び立つことができないが、彼らが暮らしている地を見守るのではなく自らの手で守るのは彼らがすべき役目だった。
むろん、それは容易なことではないが彼らは危難を克服するために必要な四枚の石板に刻まれた言葉を持っている。守るべきものを守るための力、人から人に伝えるための知恵、競うことを繰り返して磨かれる技、そして足りぬものを補い一人では実現できぬ場所にたどり着くための仲間である。
もう一度ヨタカが鳴いて、その姿はまたたく間に空の遠くへと消えてしまった。
...EPISODE END
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