魔法都市日記(44

2000年7月頃


 

太陽が沈み、辺り一面が薄暗くなると、神戸港は幻想的で、それでいて気分を高揚させるたたずまいになる。街灯は金色に輝き、港めぐりをする船が汽笛を鳴らしながら岸を離れて行く光景も人の気持ちをかき立てる。

「モザイク」の辺りには手作りの小物類を売る屋台が数多く出ている。その中のひとつに、手作りの鳥や巣、たまごを売っている店があった。木の皮を使って作ってあるのだが、数百種類もいる鳥たちはどれも不思議な魅力があった。



某月某日

FISM20007月3日から8日まで、ポルトガルのリスボンでFISM国際大会が開かれた。この大会はヨーロッパを中心に、3年に一度開かれている。マジック関係の大きなイベントは他にもいくつかあるが、伝統や規模を考慮に入れるとFISMが最大のものだろう。

コンテスト出場者は28カ国、138名であったそうだ。ポルトガルというと、日本から見れば地の果てのような所なのに、日本人のコンテスト出場者だけでも19名、観光客は200名近くいたそうだから、熱心な人が多いのにはあらためて驚いてしまう。(全体では約2,000名の参加者があった)

今回、日本人のコンテスト出場者では、この1年ほど前から様々なコンベンションで優勝している峯村健二氏がFISMでも優勝するのではと期待されていた。グランプリはのがしたものの、マニピュレーション部門では予想どおり見事に1位になった。また、ゼネラル部門に出場したYUMIさん(中島由実)も2位に入った。峯村氏の1位は順当という感じだが、YUMIさんの2位も、コンテストを見た人の話では,、外国の観客に大変うけていたそうで、受賞して当然というくらいすばらしいものであったようだ。私はこのお二人の演技をまだ見たことがないので、ぜひ一度ライブで見たいものだと思っている。今回のFISMの模様はNHKが取材に来ていたそうだから、放映されることを願っている。

私は仕事の都合でFISMには行けなかったが、友人、知人は数多く参加していたので、興味深い話も聞くことができた。ガラショーでは、大きな水槽をステージに持ち込み、そこに飛び込んでカードを当てる演技の途中、水槽が割れるという事故があったそうだ。ステージが水浸しになるだけでなく、客席の前から3列目くらいまで波が押し寄せてきたそうだから、FISMの長い歴史の中でも、最大級の事故かもしれない。ただ、この後の処理がうまく、間を持たせるために誰かが出てきて、今の事故を笑いにしていたそうだ。それがあまりにもうまいので、水槽が割れたのも演出だったのかと思ったそうだ。デビッド・カッパーフィールドも、以前、ドイツで行っていたショーの中で空中を飛んでいるとき落ちるという事故があったそうだが、マジックも大がかりになればなるほど命がけになってくる。

FISMは毎回参加者が2,000名前後になる。それが今回のように6日間も続くとなると運営面でも大変なことはわかるが、食事や交通の便などで、様々な問題もあったようだ。またFISMはマジックのオリンピックにたとえられるくらいのイベントであるため、出場することに意義があると思っているのか、コンテストに出場する人たちのレベルの差も問題になるようだ。いくらコンテストとはいえ、あまりにもひどいものを見せられると観客からもブーイングが起きるし、見ている人も疲れ果ててしまう。国によっては予選があったり、信頼できるマジシャンの推薦で出場しているのだろうが、ある程度レベルを揃えるために、何らかの方法も考えないとまずいのではないだろうか。

また、今回のメインゲストであったデビッド・ブレインは2時間ほど会場には来たそうだが、インタビューを録画して、すぐに帰ってしまったそうだ。そのため、実際には会えなかった人のほうが多いのではないだろうか。どうもこの辺りも不可解である。

今回、インターネットがこれほど普及しているので、日本にいてもオンラインで現地の情報が入ってくるものと期待していたが、ほとんど入ってこないことには少々がっかりした。FISMの公式サイトもそれほど活発ではないし、海外のサイトを探しても、毎日更新しているようなところもあまりなかった。そのような中で、唯一と言っても良いほど毎日、現地からの速報を送ってきてくださったのが「八王子マジックグループ」のサイトである。こちらのグループからはメンバーがコンテストに出場されていることもあり、現地に行っておられた会長の浅井さんも気合いが入っていたのだろう。

毎晩、ホテルから送ってくださる速報が唯一の情報源であったため、私も期間中、このレポートを読ませていただくのが毎日楽しみであった。コンベンションで一日中マジックを見たあとホテルに戻り、それから速報を書き、日本まで送るという作業は、思いのほか大変なことである。その大変なことを連日やっていただいた浅井さんにはあらためてお礼申し上げる。

コンテストを中心とした詳細なレポートは、田代茂氏がNDMCのサイトで、現在精力的に書いてくださっているので、そちらを参照していただきたい。

蛇足ながら、ポルトガルで思い出したことがある。「トランプ」という言葉はポルトガル語ではあるが、実際には「切り札」のことであり、カード全体を指すときは「トランプ」と言っても通じないらしい。カードを表すには「カルタ」と言うそうだ。ポルトガルのどこかの店に行って、「カルタ」と叫べば本当にカードが出てくるかどうか、一度誰かに試してもらいたかった。

某月某日

映画「マン・オン・ザ・ムーン」を観る。

アンディ・カウフマンという、1975年頃から数年間活躍したアメリカ人のコメディアンがいた。1984年に35歳の若さでガンで亡くなったが、その人の物語である。。

私自身は映画を見るまでアンディ・カウフマンというコメディアンのことはまったく知らなかった。映画を見た限りでは、かなりエキセントリックな芸人であるように思えるが、それは常に「観客の予想を裏切ること」を追求していたからだろう。 観客をエキサイトさせるためには意外性が命だとわかっていた。もし観客を驚かせることができないなら、それは自分の敗北であり、自分自身の存在価値そのものが脅かされるという強迫観念にとり憑かれていたのだろう。同じパターンで観客を笑わせることには耐えられないのはわかるが、しかしいつもそのようなものが作れるとは限らない。新しいものばかりを追い求めると、行き詰まるのは目に見えている。

昨年亡くなった桂枝雀が、「究極のお笑い芸人というのは、その人が舞台に出てきただけで、別に何もおかしなことを言わなくても観客は笑い転げるような人だ」と言っていた。それを目指すことは容易なことではないが、格別おかしなことを言わなくても、その人がそこにいるだけで観客は満足するというレベルにならないと、芸人としては短命に終わってしまうのだろう。

映画としてはそれほどおもしろくもないが、芸について考えるには何かのきっかけになるかもしれない。

某月某日

神戸の六甲アイランドにある神戸ファッション美術館で「テレビゲーム展」が開催されている。

2000年6月15日(木)−8月29日(火)
11:00a.m.-6:00p.m.(金曜日は8:00p.m.まで)
休館日:毎週水曜日
入場料:一般800円、高校生以下600円

1975年に出た「ブレイク・スルー」(通称 「ブロック崩し」)から始まったテレビゲームが、現在1兆円産業にまでなっている。会場ではこの25年間に流行ったゲームが展示されていた。入館料を払って中に入ると、館内のゲームは無料で試してみることができる。

今から約40年前の1960年代初頭、大阪駅の近くにあった「梅田OS劇場」のそばにゲームセンターができた。たぶんセガがやっていたのだと思う。設置されているゲーム機はほとんどすべてがアメリカ直輸入のものであった。コインを入れるだけで好きなレコードがかけられる「ジュークボックス」、金属製の玉を弾く「ピンボールマシーン」、的(まと)をピストルやライフルでねらい撃つ「光線銃」。そのどれも派手なデザインがほどこされ、造りの頑丈さからして日本のものとは全然違うことがわかった。当時はテレビのホームドラマを通じてしか知らなかったアメリカの文化ではあるが、このようなゲーム機に触れるだけでも、小学生であった私にもアメリカのごつさが実感できた。

スペースインベーダー

それから時代は20年ほど飛び、1978年に「スペースインベーダー」が出てきた。これは日本のタイトーというメーカーが作ったゲームなのだが、文字通り日本中を侵略してしまった。喫茶店のテーブルにはこれが埋め込まれ、繁華街を歩くと、数軒ごとにゲームセンターがあるという時代があった。京都の四条河原町近辺は、本当にそんな感じであった。当時から一回100円という設定であったため、小学生から大人までが100円玉を積み上げて、インベーダーに狂っていた。インベーダーが日本中の100円玉を食いつぶし、そのため、日本中で100円玉が不足するという事態にまでなった。日本銀行が慌ててタイトーに事情を聞いたという話まである。"Insert Coin!"の表示が画面に現れると、反射的に100円玉を入れていたのだから、不足するのも無理はない。

今回、昔懐かしいインベーダーも会場には置いてあったが、ハンドルがファミコンやプレステで使用するタイプのものなので、いまいち気分が出ない。20年ぶりにやったので、全然ダメだろうと思ったが、いきなり10面までノーミスでクリアーしてしまい、同伴者に呆れられた。「マジックよりずっとうまい」と、余計な一言まで言われてしまった(汗)。

「昔、インベーダーに狂っていたのですか?」と突っ込まれたが、そんなことはない(汗)。やるといっても、100円玉を積み上げるようなことはなく、100円玉2,3枚で十分であった。これは、100円玉1枚で、ほとんどエンドレスに近い状態で遊べたからであり、インベーダー大会があれば、出たら大抵優勝していたなんて、口が裂けても言えない(汗)。

会場では「テレビゲームにおける文法」というテーマで、平林久和氏による講演がビデオで流れていた。私にはゲームよりもこの話のほうがおもしろく、聞き入ってしまった。

中でもファミコンで人気のあった「スーパー・マリオ・ブラザーズ」がなぜあれほど人気があったのか、その秘密についての話は興味深く聞くことが出来た。

「スーパー・マリオ・ブラザーズ」は、動きなどはなるべくリアルでありながら、現実には起こり得ない動き、例えば放物線運動の最中に空中で後戻りすることなど現実にはできないが、あのゲームの中ではそれも可能である。「ウソ」をまぜながら、ウソをウソと感じさせないような演出、つまりは「虚構の中の現実、現実の中の虚構」(マリオの制作者・宮本茂氏の言葉)を巧みに混ぜることで、ゲームをしている人は画面の中の人物に感情移入してしまうのだろう。ウソの部分があからさまであったり、稚拙であると人はすぐに飽きてしまう。

某月某日

和歌山に行った折り、和歌山県立近代美術館にも寄ってきた。印象派の中でも風景画で有名なアルフレッド・シスレーの絵画展をやっていたが、常設の展示物も優れた作品が多く、楽しませてもらった。以前ここで版画家の山本容子さんの特別展もあったようで、会場では山本さんの版画や、山本さんデザインのアクセサリーも販売されていた。アクセサリーを紹介したパンフレットは千五百円だが、小さな版画が付くと一万円になる。この版画は、おそらく世界で一番小さな版画ではないかと思うほど小さなものであった。縦が4ミリ、横が3ミリ程度。これを指輪の台に付けると、版画のルビーが乗った指輪が完成する。この指輪は2、3万円で販売されていた。

拡大した版画のルビー

版画のルビーなんて何の価値もないと思うかも知れないが、価値がないというのなら本物のルビーにしろ、ダイヤにしろおなじことだ。

信濃なる 千曲の川のさざれ石(し)も 君し踏みてば玉と拾はむ

と万葉集に詠われているように、何に価値を見いだすかは、すべてその人の心が決めることである。河原の小石でさえ、好きな人が踏んだものであれば当人にとってはどんな宝石よりも大切な宝物になる。紙に刷られた豆粒よりも小さい版画であっても、本物のルビーよりも山本さんの版画のほうがずっと素敵だと思う人がいても全然不思議ではないだろう。

版画のルビー版画のルビー拡大拡大した版画のルビー
中央の小さな点のように見えるものが版画。
拡大したものが見たい方は、中央の点をクリック。

某月某日

正午のテレビ番組、タモリが司会をしている「笑っていいとも!」に、俳優の山本耕史が出ていた。私自身はこの人が誰なのか全然知らないのだが、タモリとの対談の中で、突然カードマジックを始めた。やったのは「スリー・カード・アクロス」と呼ばれる種類のものである。これには様々なバリエーションがある。彼がやっていたのは封筒を使わないタイプのものであった。

タモリに一組のトランプを渡して、10枚あるトランプの山を二つ作ってもらう。その山のうち、ひとつをタモリが持ち、もうひとつを山本耕史が持つ。山本耕史がトランプに一枚ずつ息を付きかけると消えて行き、3枚消した時点でトランプを数えると、確かに7枚しかない。タモリがしっかり握っていたトランプを数えてもらうと13枚になっていた。無事、3枚のトランプが見えない状態で、タモリの手の中に飛び移っていた。

これを見ただけで、この人にはマジックの才能はあると思った。マジシャンに不可欠な才能として、繊細さとふてぶてしさが重要な要素なのだが、彼はそのバランスがよい。本気でやればプロとしても十分やって行けるだろう。番組の中では、普段使っていないトランプで演じたからだろうが、フォールスカウントを何度か失敗していた。しかし、あのような失敗も見ている観客は何の不自然さも感じないだろう。彼が失敗したことも気が付いていないはずだ。

某月某日

「ムトベパーム」でよく知られている六人部慶彦(むとべ よしひこ)君が拙宅まで遊びに来てくれた。うちに来るのは高校生の時以来だそうだから、ざっと20年ぶりくらいになるのだろうか。彼が中学2年のとき、偶然阪神百貨店のマジックコーナーで知り合い、どこか見込みがあると感じたからかも知れないが、高校を卒業するくらいまでは毎週のように会って、何かを見せていた。当時は私が一番マジックに狂っていた頃だから、会うたびに本で読んだものや、購入したネタを見せていたのだろう。

20年も前のこととなると、さすがに私の記憶もあやしくなっていたので、今回、その辺りを確認することができた。おもしろい話も色々でたのだが、オフレコすれすれの話も多いので書くのにも気を使う。まあ今となっては笑い話として済んでしまうことも多いので、紹介しても許してくれるだろう。

『夢のクロースアップマジック劇場』(松田道弘編、社会思想社発行)には私や六人部君のマジックが紹介されている。そこにも載っているので知っている人も多いと思うが、あの「ムトベパーム」が生まれた経緯は興味深いものがあるので紹介しておこう。

六人部君が大学受験を間近に控えた高校3年のとき、彼が家に帰ると、家の中からマジック関係の本や道具が一切合切、全部消えてしまっていたそうだ。もうすぐ大学入試があるのに、受験勉強もせずマジックばかりやっている息子に業を煮やしたご両親が、入試が終わるまで本や道具類を物置の中に封印してしまわれた。私など、息子を悪の道に引きずり込むとんでもないヤツと思われていたに違いない(汗)。そのとき、六人部君のポケットにはかろうじてハーフダラーが一枚だけ残っており、それを使って何かできないかと思案しているときにできたのが、あの「ムトベパーム」である。

本や道具類は封印されたとは言え、それでも何とかして週末には私と会ったり、スライディーニとデビッド・ロスのレクチャーには出席していた。そのときの苦労話は聞くも涙の物語なのだが、今となってはそれも笑い話になってしまう。その話は、また機会があれば紹介できるかも知れない。何にせよ、どんなに縛ろうと思ったところで、子供はやりたいことがあれば何としてもやってしまうものだ。幸い現役で歯学部に受かってくれて、今は大阪大学の歯学部で先生をやっている。無事にまっとうな道を歩んでくれて、私もうれしい(汗)。

また、当時は夜中の1時過ぎに六人部君からよくうちに電話がかかってきた。夜中に男二人が1、2時間、平気でしゃべっていたが、そのときの会話を全部記録していたというという話を先日初めて聞いて、驚いてしまった(汗)。私もクレイジーであったが、さすがにクレイジーさにかけては二人とも甲乙つけがたい。

私は1980年初頭から1990年代半ばまでの十数年間、マニアの前でマジックを見せるのが面倒になった時期がある。決してマジックそのものが嫌になったわけではなく、マニアを驚かせることに飽きてしまったのが一番の理由なのだが、最近の数年は、六人部君がそのような状態であるようだ。彼の場合、海外にまで名前が知られるくらい有名になってしまったので、様々なプレッシャーもあったのだろうが、それもそのうち吹っ切れるだろうと思っている。私の場合はマニアの前ではほとんどやらなくなったが、生徒や一般の人にはよく見せているので、実際には当時より、今の方がずっと楽しい。アマチュアとしてマジックとどう関わってゆくか、それを一度自分の中で整理しておくことは悪いことではない。六人部君も焦らず、気軽にマジックとつき合って行って欲しいものだと思っている。

うちに来る数日前、六人部君からメールが届き、私に次のものを見せて欲しいと添えてあった。 全部、「魔法都市案内」で紹介したものばかりである。

ブレイドランナー/ナイフスルーナプキン(ダロー)/Vanished or Gone/シュウマイトリック(小川心平)/ポラロイドの予言(プー博士)/スポンジウサギ/サイドウォークシャフル/サイドウォークシャフルのバリエーション(マイケル・アマー)/フライドポテト(テンヨー)/Walking on air/モンゴリアンクロック/ミラクル(ペンスルーザミラー)/カードアンダーザグラス/パーフェクトウォッチ/謎の物体(スライム系)

昔は会えば毎回何点か見せていたが、最近はこんなもの全部覚えていられるはずもないので、だいぶパスさせてもらった。覚えていないと言うと、「アルツハイマーじゃないんですか?」と言われてしまった。昔なら、これくらい楽勝で全部やっていたが、さすがにサイドウォークシャッフルとそのバリエーションと言われても無理だ。

 

ムトベパーム

六人部君には記念に、「手の甲を貫通するコイン」をやってもらったので、そのときの写真を紹介しておこう。上のものが「ムトベパーム」をしている状態なのだが、知らないで見たら信じられないと思う。

追加(2000/8/10):「ムトベパーム」関して。

マジェイア


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