第1部 2004年10月05日
第2部 2010年03月03日 (追加 2011.9.28)
第2部 追 補 卑弥呼誕生の地を発見 (追加 2011年10月05日)
年を経るにつれて氏姓(うじかばね)などに関心がおもむく。
宇田川という名の川の存在にも気がいく。
そんな宇田川を発見し、長い間、気にかけていた。
10月はじめ、幸運にもそこを訪れることが出来た。
これは、宇田川紀行である。
環境庁が「名水百選」を選定した昔のこと、
○○湧水群などの名称のなかに、唯一
異例な名前の泉があった。
天の真名井(あめのまない)である。
神話の世界で使われた呼称であり、非常な尊称である。
その泉が実在している。
その天の真名井が水源となり宇田川平野を潤してきたとあった。
え〜っ! である。
調べてみると宇田川が流れていた。
場所は鳥取県西伯郡淀江町。
中国地方の名峰大山の山麓が海に近づいた地域である。
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鳥取県の西のはずれ。 島根県との境に近い。 国引き神話の弓ヶ浜も近い。 |
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大山山麓での仕事を終えて米子空港に向かって帰る途中であった。
時間があったので、長い間の念願であった宇田川平野へ向かった。
この日、大山山麓は激しい雨であった。
山麓から米子方面に降りてきたら雨がやみ始めた。
きれいな田園地帯に入る頃には雨はあがった。
丘陵を背にした小さな集落に向かって登っていった。
集落のなかに入り、あがりきると等高線に沿った小さな道があった。
その小道は手前から先に向かって少し登り坂になっている。
手前にはカシの大木が茂っている。
坂道の先にはちょうど満開の金木犀があり、花が道に落ち積もり黄金色になっていた。
カシの木の後ろには池。 道の反対側は水車で轍の一部が写っている。 中央奥の白いのは案内板で、水源はその右奥となる。 |
その金木犀と手前のカシの大木の間の道路の山側が細長い池になっており、
それが「天の真名井」であった。長さは15メートルくらい。
カシの木から先の 道端は池になっている。
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雨のあとであり水は多少濁っていた。
とはいえ、清冽である。 |
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ニジマスが泳いでいる。 |
道路を挟んで池の反対側は民家である。
「天の真名井」は深山幽谷ではなく、人々の暮らす集落のはずれにあった。
細長い「天の真名井」の泉の上手には細い橋がかかり、その橋の下は洗い場になっている。
向かいの民家からおばさんが出てきて、菜っ葉を洗い始めた。
ちっちゃな橋が架かっている。左手奥が水源。 | 橋の下の洗い場 |
水源はその先である。説明板と石碑が建っている。
注連縄の張られた水源からは勢いよく水が流れ落ちている。
説明文は概容以下のようである。
説明文(要約) |
環境庁指定 「名水百選」 天の真名井(あめのまない)
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池の水はカシの大木のあたりから、道路の下をくぐって反対側から流れ出ていた。
流れ出た水路には水車があった。
おじいさんが杖をついて散歩に現れた。
流れは傾斜を下っていく。 → |
流れに沿って下ってみた。
坂下には上の道と並行する小道があった。
流れはその小道の下をも潜って下流へ流れている。
そこにも2台目の水車が設置されていた。
郵便配達さんがオートバイでやってきた。
水車の上の柿の実が色づいていた | 水車を下って。 配達ごくろうさん |
道の先で集落は終わる。 | 遊歩道があり、コスモスが咲き乱れていた |
池は樹木に囲まれて静謐であり、そこから豊かな水量が流れ出ている気配はない。
しかし、流れ出た水路をみると流れ落ちる水の勢いは凄く、湧水量の豊かさを実感した。
この流れが集落を抜けて宇田川になる。
激しい流となって道の下を潜っていく | 郵便屋さんが去っていった。 |
天の真名井が宇田川となり、宇田川が宇田川平野を潤し、古代の人々の暮らしを成り立たせていた。
宇田川平野(1) | 宇田川平野(2) |
中世の荘園・田染荘を訪れたたときもそうであったが、治水灌漑技術が
未熟な時代は、耕作適地は自然条件に大きく頼っていた。
一部の恵まれた環境でのみ水田・耕作などが可能であった。
深山幽谷からの湧水と違って生活の近場から豊かに湧出する泉。
古代にあっては 一年を通して枯れることのない水源は、貴重なものであり、
人々の暮らしを支える泉として大切にされてきたのであろう。
人々はその恵みを感謝し、天の真名井という特別の尊称をつけたのであろう。
泉のおかげでこの地は早くから開け、そういう名称を許す大きな勢力も誕生した。
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高井谷地区の風景 |
豊饒で美しい宇田川平野。それを造り出す宇田川。
その神聖な水源である「天の真名井」。現地で目にしたものは美しかった。
しかし、旅人としては、もうひとつの妄想にも魅かれてしまう。
それは...
天の真名井は、その由来通り、高天原にある泉であり、
実は、高井谷は高天原なのであり、
そこで生活しているおばんやお爺いは、実は、八百万(やおよろず)の神サマたちである。
杖をついて散歩しているお爺、天の真名井で野菜を洗っているオバア
郵便を配達に来るおやじ .. みな八百万の神サマたち。と。
「カミサマも今の世の中で暮らすのは大変なんだ〜」と、ぶつぶつ言っている神サマたち。
八百万の神々は今もこの地で隠れて生活している。と、いう
旅人の勝手で自由な楽しい妄想である。
高天原から宇田川は流れ出し、人々の暮らしを支えてきた。
なんか とても楽しく満足した、というのがこの地を訪れた感想である。
淀江町には古代の遺跡と湧水が多い。
吉野ヶ里遺跡より規模が大きいという弥生時代からの集落遺跡がある。
出土した壷には、太陽、4人の人が乗った船、長い梯子をもつ櫓風の建物、高床倉庫のようなもの、
銅鐸をつるした木、鹿が、パノラマ風に描かれ、古代の淀江の港の風景といわれている。
高井谷の隣の中西尾では大型古墳と多くの埴輪が出土した。鹿・鶏・水鳥、家などのほかに
盾を持ち、入墨、ヒゲ、鉢巻をした人の埴輪も出ている。
天の真名井を中心に栄えたクニがあった。
白鳳時代の寺院の遺跡(金堂・塔・中門跡)も見つかっている。
金堂跡からは法隆寺の壁画と並ぶ日本最古の彩色仏教壁画が出土した。
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繁栄していたこの地域は古代史の盲点になっているようである。
いつか天の真名井のクニの姿があきらかになってほしいと願う。
秀峰大山の伏流水がこの地に湧出するのか湧水が多い。
その一つの「本宮の泉」は宇田川のもう一つの水源になっている。
【 追 記 】 Google Earth の衛星写真で 大山と天の真名井を見てみました。起伏は1.5倍に強調してます。(2006.10)
写真 : |
ソニー サイバーショット U10 |
島根県の奥出雲に住む知人から下記内容のメールがあり、写真が送られてきた。 『 淀江の 宇田川神社を訪ねました。 こじんまりと清楚な神社で、かえって神聖さを感じました。 宇田川平野を見下ろす高台にあり、心地よい場所でした。 天の真名井からは、僅か4〜5分の処でした。 現在は、神社の後方に農道が通る環境となっていましたが、 古の神聖な場所であったと実感しました。』 |
天の真名井の近くに、神社がある。
その名は.. 宇田川神社だった。
高台の宇田川神社から見る宇田川平野 | |
宇田川神社(1)
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宇田川神社(2)
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鳥取県神社誌によると、宇田川神社は元正天皇 (第44代女性天皇 715年〜724年)
の時代に勧請され、
伊邪那岐尊、伊邪那美尊、天照皇大御神、須佐之男尊
をはじめ11柱の神が祭られているそうだ。
中央の杉木立の場所が神社 | |
「天の真名井」
を擁するクニの姿について、その後色々と調べていたが、書籍ではわからなかった。
ところが、 「古代史の復元」
というHPで、倭の大乱(178年〜183年)に関する 孝霊天皇
(第7代 147年〜187年)の足跡に、当地が出てきたのだ。
作者の伴
昌広さんに、「天の真名井の名称が認められていた、ということは、孝霊天皇の業績にからんだ可能性があるのでしょうか?」
と、質問してみた。
返信では、『 天の真名井 が聖なる地として活用されたのは、倭の大乱後の、孝霊天皇の娘の倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)が、 「大物主の女(卑弥呼)」 になる儀式をしたとき(187年)と推定しています。 それは、大山山頂から冬至の日に太陽が昇るのを見ることのできる位置とおもわれます。 天の真名井 はそれに近い位置にあります。 この地から移っていったのが現在の大神山神社と推定しています。推定ばかりなので、現地調査による調査が必要です。 倭迹迹日百襲姫が大物主の女になる儀式は、倭迹迹日百襲姫(天照大神)と大物主神(ニギハヤヒ)との結婚を意味していますので、 「高天原の天の真名井で、アマテラスとスサノオが誓約し和解した。」 という伝承と一致します。 』 ということでした。 なお、卑弥呼になる儀式は、大和(三輪山麓)と、吉備と、当地での3箇所で行われた、と推定されていました。 |
シュリーマンの例ではありませんが、神話伝承が極力真実を伝えていると仮定して、神社を探索して歩き、
神社伝承を元に古代史を復元している伴さんの方法論に、私は共鳴しています。
孝霊天皇は、即位前と後とで伯耆国を二回訪れている。
最初(171年)は、孝霊山の東の高杉神社の地に滞在し、妻木晩田の勢力と平和的に決着をつけている。
天の真名井がある宇田川平野にあったクニとは、妻木晩田の朝妻姫の親のクニではなかったか?
淀江の港があり、豊かな水田もあるこの地が大勢力にふさわしいのではないか?、と思うようになった。
大和と出雲の争い(倭の大乱)の終結の儀式に、天の真名井が使われた。
国内統一のシンボル・卑弥呼の誕生に、天の真名井が使われた。
... 「天の真名井と宇田川」
紀行も、思わぬ歴史の奥に入り込んでいったものだ。
ところが、この紀行ページは更なる歴史の奥底に導いてくれた。
古代史の復元によると、「スサノオが、恋人の
イナダヒメ を豪族ヤマタノオロチにさらわれ、
オロチを殺して彼女の奪回を計ったことが、この国の統一の始まりのキッカケとなった。」、という。
スサノオのその時の行動経路は古代史の復元の「ヤマタノオロチ関連伝承の詳細」に詳しい。
イナダ姫の住んでいた土地は、現在の島根県仁多郡奥出雲町の佐白で、
両親の屋敷跡や、二人が結婚式を挙げた佐白・八重垣神社地など、伝承地も数多い。
実は、その佐白に住む宇田川さんが、再び古代への関心を取り持ってくれた私の縁結びさんである。
氏の「奥出雲だより」から
・ 2009.09.13:
なぜかオロチ神話伝承が集中する、奥出雲佐白
・ 2010.06.27:
ヤマタノオロチ・神話古道探索
・ 2010.06.28:
スサノオ・稲田姫の結婚式
半島からのボートピープルの子のスサノオが、イナダヒメの為、地元の嫌われ者の豪族を倒し、請われて地域のリーダーとなった。 有力豪族でなく、地盤・権力もなく、信望だけで指導者になったため、統治方法も平等な話し合い方式ー 車座会議である 縁結び会議でコンセンサスを得ながら進めていった。 そして、この会議体・共同体への参加を周辺に進め、出雲圏を拡大していった。 |
伴 昌広さんの見方は説得力があった。
私の古代史の関心は、歴史の始まりに近い時から、列島内では統一国家や統一権威が成立していた、という幸運さはどうしてか? だった。
例えば、国と国との戦い(王と王との戦い)は列島内では無かった。
ミカドという権威のもとで、その軍事部門の統領を争う武将同士の戦はあったが、誰もミカドを倒して国王になろうとはしない。
一方半島では、昔も今も、国と国とが半島内で争っている。
武力至上は世界の共通事項だが、話し合いや和を持って尊し、のウェットな風土が列島内にはある。
この起源も不思議だった。
明治維新の江戸城攻撃も、話し合いでチャラになった。
潜在意識のなかに話し合い至上の遺伝子が伝えられているようだ。
そういう国の成り立ちを遡っていく古代史紀行に、興味を持っている。
今は、広瀬和雄の「前方後円墳の世界」(岩波新書)を片手に、関東の前方後円墳をめぐっている。
各地の首長ネットワークを追っている旅だ。
地域と時間を遡る旅も楽しい。
(
参考書から抜き出した個人歴史年表を片手に、本を読んだり、現地へ行ったりしています。
→ 私の歴史年表 )
2011年9月28日記
<追 補> 2011年10月05日
奈良の纒向遺跡で、卑弥呼が祭事を行った宮殿とみられる建物跡が、昨年9月に見つかった。 「古代史の復元」の伴さんの見解では、三輪山から冬至 (一陽来復の冬至が古代の新年) の日に、 朝日が昇るのが見える地点が、卑弥呼が聖なる祭事を行なった場所、と述べている。 |
そこで、1800年近い地球自転の時間補正を無視して、全くアバウトであるが、
現在の冬至の日の出ラインを纒向の地図に落としてみた。
12月22日の日の出は、真北から東回りで118度だった。
地図に落として驚いた。 指摘通りだった。
卑弥呼の宮殿の他、後の時代の他田坐天照御魂神社も 当然ライン上に位置していた。
矢印が冬至の日に三輪山頂から朝日が射すライン (この線を延長すると、唐古・鍵遺跡の鍵地域を通過する。) |
夏至の日の6月22日は、太陽は三輪山の60度の方角から昇る。
これを見ることが出来る地点上には、大神神社があった。
さて、天の真名井 か
宇田川神社が、倭迹迹日百襲姫が卑弥呼になる儀式を行った場所なのか?
と、(三輪山に見立てた)大山から朝日が昇る冬至の日のラインを同じように落としてみた。
結果は残念ながら違っていた。
矢印が、冬至の日に大山山頂から朝日が射すライン |
そこで、朝日の射すライン上に何か見つかるか、地図をチェックしてみた。
・
・
・
そこには 三輪神社
という名の神社が在った。
この三輪神社から、大山はどのように望めるのか、やはり気になった。
そこで Google Earth
で三輪神社の上からのイメージを落としてみた。(高度61フィート)
冬至の日に、正面の大山の山頂から太陽が昇る。 |
出雲と大和の和解の象徴・卑弥呼になる儀式は、冬至の日に大山から太陽が昇るのが眺められる特別に作られた祭場で行われた。
そして、祭場は後に移されて 大神山神社となり、祭場跡は後に 三輪神社となった、と推定する。
出雲、大和を始めとする参列者は、地元の天の真名井を擁するクニに宿泊した。
倭迹迹日百襲姫は天の真名井で禊をして祭場に向かった、または、祭場で天の真名井から運ばれた水で祭事を執りおこなった。
こうして誕生した卑弥呼の願いと役割は、争いの終結と平和な世の中の維持で、その思いは達成されることになった。
私の
天の真名井 とそれを擁するクニを探る長い旅は、こうして終わりを迎えた。
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<最後に>
伴さんから、三輪神社に関する返信がありました。 2011.10.05 冬至の日に、大山山頂から太陽が昇る姿が見られる場所に、卑弥呼誕生の儀式を行った場所があるはず、とは思っていましたが、 その場所を特定することはなかなか出来ませんでした。 このたび、その位置を特定し、古代史の復元の裏付けをとっていただきました。 驚きとともに感謝しています。 三輪山神社ですが、鳥取県神社誌で早速確認させていただきました。 崇神7年(AD249年)卑弥呼没の前年に、三輪山から勧請されたそうです。 卑弥呼誕生の儀式は187年と予想していますので、儀式から62年後に勧請されたことになります。 ただ、この神社の当初の位置は、現在位置から東南方向へ7町(約800m)程の位置にある三輪山の東麓だったそうです。 この位置でも、冬至の日に山頂からの日の出を見ることができます。 しかしながら、25000分の1の地図で確認しても、この位置に山が認められません。 ちょうどその位置に米子道路が通っていますので、この工事で破壊されたのかもしれません。 ー以下略ー |
その後もしばらく、ツイッターで感じたことを呟いてました。それをまとめてみました。
日本書紀に何故 卑弥呼が書かれなかったのか? の理由。 (その後の 「天の真名井」 と 「卑弥呼」 について )
< 最後へ の 追 記 >
2014年9月23日
伴昌広さんからメールが来た。
「 本日、倭の大乱に関して内容を更新しましたが、その中で、 発見された三輪神社と
このページへのリンクを掲載しました 」 という内容だった。
14.09.23 和平交渉 (追加) 和平交渉、百襲姫、卑弥呼就任 → 「邪馬台国女王卑弥呼の誕生」 の項目
読んでみたところ、「 三輪神社の一帯 (佐陀・中間・小波・平岡地区) は、昔は
大和村 と云われていて、古くから大和との係わりを示している」、と。
現在、淀江公民館大和分館 、市立大和保育園、、大和郵便局、そして公園運動広場が「大和」の名前を残している、と。
2017年8月17日
今年(2017年)春、淀江の三輪神社の「 狼神事 」を取材したツイートが目に留まった。
三輪神社の写真や、三輪神社の周囲から見る大山の写真があった。
三輪神社 本殿 |
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春の狼神事の祭礼の一行。 大山が見守っている。 |
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「 狼神事 」は、
大和三輪山の大神神社から、二頭のオオカミが春祭り(4/19)に遣わされ、秋祭り(10/19)に再び大神神社へ帰る とされる神事とのこと。
何故オオカミなのだろうか?
オオガミ(大神)サマだと畏れ多いので オオカミサンにしたのだろうか?
オオガミさまが大和三輪山から二柱で来られるのなら、三輪山の主と その妻・卑弥呼だろう。
この地に来られるのは、ここが結婚の儀式を挙げた地だから、 などと想像してしまう。
三輪神社は、戦災などで記録が失われてしまい、神事の由来などもわからないそうだ。
※写真は、ツイッター @wolfmuzzle1さんのツイート(2017年4月23日)から。
※この「狼神事」は、その後 ブログに多くの写真でまとめられ、鄙びた村落の のどかな 「オオカミサン」行列の風景が心にしみる。
狼神事に触発され、三輪神社について 考えてみた。 → 淀江の三輪神社(考) (2017年08月21日)
戻 る | 2004.10.10 初出 2011.10.05 第2部追補 2014.09.23 最後への追記 2017.08.17 淀江の三輪神社 宇田川 東 |
リンク | 名水大全: 国内の「名水」に関するポータルサイト | |
ある地点での太陽の出る方角を知る | 海上保安庁海洋情報部の『日・月出没計算』サービス | |
古代史の復元 | 神話伝承が極力真実を伝えていると仮定し、探索した伝承を元に古代史を復元 |