青谷(あおや)上寺地(かみじち)遺跡の謎を推理する

                         2019年03月07日       追記:2019年8月13日




  青谷上寺地遺跡から100体を越える大量の弥生人の人骨が出土した。

  しかも、殺傷痕のある人骨も10体以上見つかり、集団間の争いがあったと思われる。
  この遺跡からは、大量の土器の他、鉄製品・装飾品などが出土している。
  半島・大陸との交易拠点(日本海の交易センター)として賑わっていたようだ。
  遺跡は縄文時代から弥生末期まで約800年間続いていた。

  Eテレ: サイエンスZERO 「弥生人DNAで迫る日本人の起源」 2018年12月23日放映に基づき 仮説を考えた。






     現在    当時の想像図




出土した 陶器、中国の貨幣、鉄製品、ガラス製品

   大量の陶器
    中国の貨幣
    鉄製品     ガラス製品







この地の弥生文化・弥生人を解明するため 大規模な遺伝子分析が開始された。


・人骨は放射性炭素年代測定法で2世紀ということが判明した。

・37体の骨(側頭骨、歯)で、ミトコンドリアDNA分析が行われた。 
(ミトコンドリアDNAは母から子へ受け継がれ、母系のルーツが判明する。)

          母系のルーツの結果

その結果、弥生人32人について、 その母系が判明した。
渡来系が31人と圧倒的であり、縄文人は1人だけだった。 (上図・右)
この地の縄文人が、渡来系(母系)の新らたな(交易)集団に入れ替ったことを窺わせる。


更に、DNAの種類が多様で、母系のルーツが東アジア広域であることが分かった。

青谷は大陸との交流の拠点で、多くの人が流動的に動いていた模様であり、
まさに現代の都市の住民の多様さを想起させるものであった。

    楕円内がそこをルーツとする人数






当時の青谷上寺地遺跡は、どのような勢力だったのか?

2世紀の日本海側には、半島・大陸と直接に交易をおこなっている勢力が 少なくとも4つはあった。

互いは交易上のライバル。


@出雲  A伯耆(妻木晩田:淀江港)  B因幡(青谷上寺地)  C丹後(第4代新羅王脱解の出身地)
伯耆・因幡はもともと出雲の勢力下であったが、伯耆(妻木晩田)は2世紀後半に孝霊天皇の説得により大和の傘下に入り、因幡(青谷上寺地)は出雲側に留まったと推測する。


青谷上寺地遺跡の勢力の集落と港は どのような立地だったか?


現在発掘された青谷上寺地遺跡は左図の場所

長尾鼻の西側に位置する。



< 青谷上寺地遺跡の港の、 縄文時代〜弥生時代〜古墳時代 にかけての変遷 >

     縄文時代    弥生時代    古墳時代


弥生時代の立地環境については、素晴らしいCG動画(鳥取県/文化財課)があり、必見である。  →  『動画で知る!青谷上寺地遺跡』


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青谷の集落住民は、何故、交易の集団に入れ替ったのであろうか?

(仮説1)
 半島の(交易に従事していた)集団が、交易拠点を求めて渡来し、青谷の地に根拠地を定めた。

(仮説2)
 国内の(半島・大陸と交易していた)集団の一部が、分かれて青谷の港に移ってきた。

 A: (縄文時代からの)伯耆・淀江の入江が、土砂で埋没し、緊急避難には適さず、そこの交易集団の一部が良港を求めて青谷に移転した。 注ー1
 B:九州地方からの移動 (追記: 2019/3/22)
   神武天皇即位直後より、九州地方の人びとの日本海沿岸への移動が活発化し、〜安来市〜米子市〜...〜若狭にかけて拠点集落がつくられた。 (古代史の復元)


注ー1: 伯耆・妻木晩田勢力の淀江港の変遷  
     日本海を行く航海民は、遥かに見える大山を目指し、次に孝霊山を目指し、その下の淀江の港に到着した。

    縄文時代早期     縄文時代後・晩期     弥生時代     弥生時代以降






青谷上寺地は、大和朝廷が成立し国内が安定してから 半島・大陸との交易で栄えて行った。
半島情勢も、新羅がつくられ、帯方郡が設置されるまでの安定化している時期に当たる。


出土した人骨の年代は2世紀だった。

左の折れ線が、出土した人骨数。

AD110年〜210年の100年間だった。



この表の上に、当時の主要な事柄を載せてみた。






ここ迄で、
・新たな渡来系を含む集団が青谷に渡来し、旧来の縄文住民に変わって、この地に定住した。
・大陸系渡来人(母系)の遺伝子を持っており、放射性炭素年代測定法で2世紀ということが判明した。


      


その後、
2019年3月2日、父系のルーツが解明できる核DNA分析の中間報告会が開催された。

今回は渡来系31人のうち、保存状態の良い6人についてY染色体のDNAを解析した。
その結果Y染色体が抽出できた4人中3人は縄文系で、渡来系は1人だった。

母親が大陸にルーツを持つ渡来系、父親が日本在来の縄文系だった。


まだ途中段階で不確かだと断った上で
「父系の遺伝子は縄文系に近いグループ」 に多くが位置付けられる
との説明があった。

篠田謙一氏(国立科学博物館)




実は、私はこの報告の結果で がぜん興味を覚えたのだった。

それ迄は、この時代は 半島は倭の領域であり、列島は大和朝廷により統一されており、集団で来る渡来人となると (後の渤海あたりの)沿海州あたりからで、
青谷の地で現地人を追いやって住み着いても、大和や在地の勢力に駆逐されるであろうし、殺傷痕はその(異民族間)戦いの跡で、彼らは去ったのだろう、と考えていた。

従って、父親は大陸系でなく縄文系、ということに驚き、急に関心を抱いたのだった。




これはどういうことなのか? 推理することにした。


縄文人の父親と 大陸ルーツの渡来人母親ということは、

仮説(1)
半島に住んでいた倭人交易集団が、倭国の統一を知り商機と捉え、半島人の妻たちを伴って集団で海を渡って青谷上寺地の港に渡来し、集落を乗っ取って住み着いた。
その後も一定期間、半島の出身集落から 嫁とり を行っていたことも考えられる。

縄文以来、日本海での半島との行き来は盛んで、交易していた丹後の倭人が第4代新羅王になったり、瓠(ひさご)を腰に下げ渡った倭人が新羅建国の相談役になったりしてる。
また、倭国から渡った倭人が、一族を率いて戻ってきた例もある。(219年頃、第4代新羅王 脱解(丹後出身の倭人)の子・天日槍命)
交易集団だけでなく、倭国に渡ってきた製鉄集団もまた、半島南部の倭人集団で、同様に大陸系妻子を伴ない渡来したのかもしれない。


仮説(2)
青谷上寺地の縄文人たちが、半島・大陸と交易を開始し、取引関係を良好に保つため、相手先集落の半島系女性を妻として娶っていった。


仮説(3)
青谷上寺地の在地縄文人は、半島・大陸との交易で、鉄・装飾品などの他に半島系女性をも輸入していた。
機織り、海女(注)、農作業などの需要が 倭国内にあったのかもしれない。
彼女たちの一部が 現地縄文人の妻となって残った。
  (注)青谷・長尾鼻の「夏泊の海女」は江戸以降の伝統で、この時代の潜水漁業は不明。


仮説(4)
寒冷化に伴う飢饉の179年に、『倭人が兵船百余隻で新羅の海岸地方の民家を略奪』(新羅本紀 第2代南解王 11年)とあるが、
その倭人は青谷上寺地の縄文人で、その際に女性も連れ帰った。



に、母系の大陸ルーツが広範囲に渡っている、ということは、

・母系ルーツが広いということは、半島の特定のエリアからの女性達では無い。
・様々なルーツを有する女性が集まって(集められて?)いる、半島の邑と交易しており、そこから青谷の港に渡来したのではないだろうか?
 つまり、女性は生口として取引されていて、倭国内には 鉄とともに渡来人女性の需要があったのではないか?
(仮説1)+(仮説3)が現在の情報からは有力視される。

 もしかすると弥生中期以降の渡来人は、もっぱら大陸系の女性たちだった可能性も考えられる。
 (男性を渡来させ、居住させる動機が見当たらないので)





殺傷痕については


仮説(1)
半島・大陸との交易上のトラブルで、ライバル勢力との争いがあった。交易路の排他的独占を狙った為に生じたトラブルか?
交易集団と云っても、状況によっては略奪を行う海賊集団だった。船団は武装し、財宝を積んだ船団を襲ったり、襲われたりし、互いに争いと和平を繰り返してきたのかも。
両隣に位置する 伯耆・妻木晩田、 丹後のどちらかの勢力との争いか?


仮説(2)
倭の大乱(大和と出雲の争い:178〜184年)の際、出雲側に与したため、大和の孝霊天皇と妻木晩田の勢力の連合に攻められ、降伏した。
大乱は和平が成立し、卑弥呼の共立で終了したので、青谷は滅びることはなかった。 が、殺傷痕はその時の争いによるもの。
大乱後、大陸交易は(大和により)制限・禁止され、大陸との交流拠点としての機能は失われ、青谷は衰退していったのだろう。


仮説(3)
隠岐の島の勢力とトラブルを生じ、激しく攻め込まれ略奪された(※1)。 出雲の調停により和平した。
この大事件は、「因幡の白兎 ※2」の話として、調停した出雲が時代を遡って建国神話に取り入れた。

※1:弥生の集落は、環濠集落のように防衛された例が多い。
   繁栄していた青谷も当然強固な防衛施設を備えていたが、陸地側からの侵入への備えであった。
   海側の備えは手薄で、そこに隠岐の海洋集団からの侵入を許した原因があったと考える。

※2:古事記では、因幡の白兎が隠岐の島からワニザメを並べさせた先は「気多の前(崎)」とあるが、それは長尾鼻との説がある。
   青谷上寺地遺跡は長尾鼻の西の根元にある。 この地が、ワニザメに襲われ身ぐるみ剥がされた地になっている。
   ワニとウサギはもともと仲が良かったので、隠岐の島の勢力は交易でのパートナーだったのかもしれない。

※3:「襲われた白兎=青谷の集落」の傍証として、古事記の次の記述がある。
    ”そこでオオナムチは兎に教えて、『 すぐに河口に行って真水で身体を洗い、河口近くに生えているガマの穂を採って敷き散らし、
    その上に寝ころべば、おまえの肌は治ってもとのようになる 』 と言った。”

   襲われた地は、「海に面して、河口があり、(アシ、)ガマが生えている」地(集落)である。
   『動画で知る!青谷上寺地遺跡』 2:30以降に、全くその通りで、葦が繁茂(ガマも当然混入)してる集落景観が出てくる。



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殺傷痕の原因である、仮説(1)、(2)、(3)を 順序立てると、

両隣のライバル交易集団との小競り合いは 期間を通じて生じていたと思われる。
青谷に居付いた初期の、隠岐の島勢力とのトラブルは、出雲の助力で立ち直ったが、倭の大乱後、出雲の勢力だった青谷は衰退していった。

殺傷痕のある人骨は、2世紀初めなら隠岐との争い(因幡の白兎)、2世紀後半なら倭の大乱 によるものと推察する。







青谷上寺地が滅んだのは、戦争で滅ぼされたのではなく、交易ルートが細って衰退した為と推定する。
外洋出口が狭まり過ぎ、急流で出入り困難となるなど、港が機能しなくなったのかもしれないし、
大陸交易が制限・禁止された為かもしれないし、交易ルートが瀬戸内海ルートに移って行った為かもしれない。
                                                  (2019年03月12日)





《 追 記 》  新たに 倭の大乱の詳細で判明したことは..      2019年3月19日


・青谷上寺地では、倭の大乱での戦闘は行われていない。 (因幡・伯耆は、大和の孝霊天皇とは戦っていない。)

・青谷上寺地は、隠岐の黄魃鬼(コウバツキ)という鬼(略奪集団)に襲撃・略奪された。 これが「因幡の白兎」の元となった事件。


倭の大乱は、「古代史の復元」が 神社伝承などを基に 詳細を復元していた。 
大乱直前の171年に、孝霊天皇(まだ即位前)が派遣された伯耆遠征のルート(※1)は、
大和・庵戸宮〜琵琶湖を経由〜敦賀気比宮〜日本海岸を西に〜因幡・霊石山〜(因幡・青谷)〜隠岐(黄魃鬼の退治)〜伯耆・日吉津上陸 だった。

 ※1 孝霊天皇伯耆遠征の 「楽楽福命伯耆国派遣」の項 

日野郡史

楽楽福神社由緒

霊石山伝承




(1)
 このとき、孝霊天皇は、地域に出没する鬼(略奪集団)は退治しているがクニとは争っていない。
 従って、因幡・青谷との戦いは、この時もそれ以降も無かった。

(2)
 この頃、隠岐の黄魃鬼(コウバツキ)が因幡を略奪しており、孝霊天皇は隠岐に渡り征伐している。
 青谷の邑を襲ったのは、この鬼(略奪集団)だった可能性が高い。時期は、171年の直前(167〜169年頃)
 深刻な被害を受けたこの大事件が「因幡の白兎」の話に転化したのだろう。
 出土する状況も、(孝霊天皇率いる)軍隊による戦闘の結果というより、略奪集団による結果 に思われる。
 それにしても 青、白、黄 とカラフルな事件だ。

 (追記: 2019/5/30)
 「青谷上寺地遺跡のひとびと」(鳥取県教育委員会)によると、殺傷痕を伴う人骨について、
 『男性ばかりでなく女性の骨もありました。さらに、10歳程度の子供まで犠牲になっていることがわかりました。』 とある。
  非戦闘員が含まれているので、これは略奪集団(隠岐の黄魃鬼)によるものとしか考えられない。


最終報告書で、殺傷痕のある人骨の年代分析が、より正確に167〜169年頃 と示されると有難いのだが..


中国文献と考古学的事実と科学的年代測定をもってしても、神話伝承の助けを借りなければ、古代に何があったのか? の姿は見えてこない。
今回はまさにその典型例だった。
                            (2019年3月19日)






《 追 記 2 》 遺伝子分析の結果に従うと、青谷の集団は 何処から来たのか?        2019年8月13日


 「交雑する人類」 第10章 ゲノムに現れた不平等 (デイビッド・ライク)を読んでいて、
 外から侵入した民族に支配された地域では、そこの住民の遺伝子は、女性は現地のDNAを保つが、男性は支配者のDNAが優勢になる、とあった。




縄文人の男性と 大陸ルーツの女性」という遺伝子から導き出される 出身地域は、何処だろう?


列島内の、北九州〜出雲〜伯耆〜因幡〜丹後 の海岸線(集落)では、女性のルーツは縄文人となり、日本列島は除外される。
     

大陸ルーツの女性の居住地は、朝鮮半島になる。
     

朝鮮半島に、 縄文人の男性が大陸人の女性を妻にしている地域が在ることになる。  ※2
 そこは何処だろう?
     

最も可能性が高いのは「新羅(慶州)の地」 ※1
ここは、倭人が支配者になっており、支配層・倭人男性のDNAは現地人より優勢になる、という「ゲノムに現れた不平等」構造が考えられる。
(倭人は、倭人の妻だけでなく、現地人女性にも多くの遺伝子を残している、ということ。)

     

青谷上寺地の港に渡来し、集落を乗っ取って住み着いたのは、新羅の地から来た倭人集団
これが、今回のDNA分析の結果に合致する仮説である。 



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※2
青谷上寺地遺跡の人骨のDNA分析により、朝鮮半島に倭人の集落があったことが、明らかにされた。
今迄、半島出土の倭系遺物により そう推定はされていたが、今回の結果は確たる傍証であり、意義深い。
 (2019年9月9日 追記)





交易品としての翡翠勾玉なのか?

半島の出身地で大切にしていた一族の宝だったのか?


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※1
慶州の地は出雲の植民地として、半島に進出した倭人が治めていた。
この地は勾玉などが出土し、国引き神話のとおり出雲の影響を受けていた。
更に、日向のウガヤフキアエズ命の影響も及び、倭の領土となっている。
後になると、倭人を王としたクニ(新羅)をつくり、大和朝廷の自治領となり、更に独立国へ向かい、大和朝廷に対立するようになる。
この仮説解明のために、新羅人、新羅王家の(Y染色体)父系ルーツ遺伝子の分析が望まれる。
  <参考>古代新羅について


朝鮮半島は、5000年前頃 無人であり、日本列島の縄文人が渡海して先住民として住み着いた。そして今の韓国に相当する地域に広がった。
2000年前頃、北方のツングース系民族が南下し、縄文集落を滅ぼし、縄文男子を殺害し縄文女性と交雑して、入替った。 
しかし、半島南部の海岸線には、侵略の影響を受けなかった倭人集落(男性、女性とも縄文人DNA)が残り、
半島東南部(今の慶州の地)は、複数民族が混在して残っていた。

  <参考>朝鮮半島に渡った縄文人



               (2019年8月13日)




  【 後 記 】
  ミトコンドリアDNA分析だけの限界を感じた。 また、遺伝子分析にはサンプルの条件・数などが結果を左右する危惧をも抱いた。
  青谷上寺地遺跡の研究はまだ途上なので、今後 新しい発見・仮説も登場するであろう。 楽しみである。  (2019年03月07日)

  倭の大乱は、欠史八代の孝霊天皇の御代の出来事で、文献史学ではお手上げで、「古代史の復元」の神話伝承の助けを借りなければ内容は掴めない。
  大規模な遺伝子分析の結果から始まって、神話伝承の力で推理を終えた。 何かヘンな気持ちも残るが 充実感はあった。   (2019年3月19日)

  古代DNA革命は、ミトコンドリアから、今や全ゲノムを対象とするゲノムワイド関連解析にまで至っている。
  青谷上寺地の謎解明も、当地資料だけでは不十分で、日本海の向こうの朝鮮半島などの古代DNA資料との比較が必要だ。
  古代半島人のDNA資料が採取・公開されることで 新しい古代史が開けるだろう。     (2019年8月16日)



                     2019年03月12日 了     宇田川東


 (注) 本稿で使用している紀年は、「古代史の復元」に基づいてる。

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