古代新羅について


統一新羅(676年)以前の、古代の新羅については、
どのような成り立ちの国
であるのか、どのような民族の国であるのか、が不明である。
調べた資料を基に 簡単にまとめてみた。

(本稿は、『古代史の復元』 の「新羅について」を基礎にしている。 http://www.geocities.jp/mb1527/N1-04-1siragi.html )


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(1)建国について


新羅の建国はAD145年で、第6代孝安天皇の時代。
初代の王は赫居世王(かくきょせいおう)。重臣は倭人の瓠公(ここう)(※4)
・建国の地は現在の慶州。


この土地には、秦人、穢(わい)人 (注2)、倭人 、在地人(韓人)など、言語・人種が異なる人々が 平和裏に雑居していた。

王を選ぶに際し、『 六村の村長が、卵から生まれた赫居世を推戴して王となし
重臣は、瓠を腰にぶら下げて海を渡ってきたことから瓠公と称された倭人。』 と 三国史記に書かれている。


このことは、代表者が必要になり(※1)、秦人は、万里の長城建設の逃亡者という出自により、(楽浪に対して)王にはなれない伝統があり、
もともと倭の領域であったため、貴種の倭人を推挙して 王となしたと考えられる。(※2)
後世、三国史記(1145年完成)編纂の際に、建国の初代王が倭人では都合悪いので、卵から誕生として 素性を隠したのであろう。


新羅が、異なる民族の連合によって成り立っている影響は大きく、
新羅語は、統一新羅前後に成立したもので、それ以前は 高句麗系言語、倭系言語が基層をなして居た。(※3)


新羅は、建国以前から出雲との係わりが深かった。
出雲の「国引き神話」(BC30年頃と推定)では、新羅は出雲に引き寄せられているし、同じ引き寄せられてる能登よりも 新羅の方が距離的に出雲に近い。
新羅は出雲の植民地だったのか?
倭の大乱(出雲と大和の戦い:178〜184年)の際に、新羅は出雲の要請で味方した為め、大和朝廷の不信を買うこととなった、と云う説は説得力がある。



※1 
後漢書・光武帝紀に、AD44年 建武20年 東夷の韓国人が衆を率いて楽浪郡に詣って内腑した。と記されている。  
→各部族の首長たちが訪れたようで、代表者としての王は見当たらない。
 ここでいう韓は、馬韓・弁韓・辰韓の何れかわからないが、衆を率いてとあるので、秦人、穢人、倭人、韓人などが雑居していた新羅の地の国人と思える。
(この頃、AD57年 建武中元2年 倭の奴国が、楽浪郡経由で洛陽に朝貢し、光武帝から金印を授与されている。) 


※2
新羅の初代王 赫居世(145年即位) について 『新撰姓氏録』 (815年成立)は、鵜草葺不合命の子の 稲飯命 (神武天皇の兄)の後裔と伝えている。 (注1)
私は、AD57年に光武帝の金印を届けに来た使者を、帰途に護衛して、半島の楽浪郡まで送ったのが鵜草葺不合命で、
彼はしばらく半島に留まり、倭人の豪族のもとで稲飯命を成し、その孫か(ひまご・やしゃご)が新羅の初代王 赫居世では、と推測してる。(倭の奴国

注1: 新撰姓氏録・皇別 No.185 氏族名「新良貴(シラキ)」 その始祖は鵜草葺不合命の男子・稲飯命の後裔。そして国王に。


※3
慶州からは、3世紀後半と推定される 「魏率善韓佰長 銅印」が発見されている。新羅国内の韓族の豪族の首長が官爵を受けている。
慶州の北30km程の浦項市から、1966年「晉率善穢佰長 銅印」が出土している。(高句麗系)穢族の豪族の勢力があり、首長が同じ官爵を受けている。
新羅は、言語・人種が異なる豪族が併存し、連合していたことが窺える。

        晉率善穢佰長  銅印        晉率善穢佰長  馬鈕

(この頃 AD239年 卑弥呼は「親魏倭王 金印」を、使節大使は「魏率善中郎将 銀印」、次使は「魏率善校尉 銀印」を受けている。
 魏は、邑君・歸義侯・中カ將・校尉・佰長・都尉などの官爵を臣智に与えてる。)  (金印についてのメモ


注2: 魏志東夷伝 (わい)によると、
 『は、南は辰韓と、北は高句麗・沃沮と接し、東は大海に面してる。もともと高句麗と同種。星宿を観察することにすぐれる。珠玉を宝物としない。 云々』



時代は下り、6世紀に至っても、この慶尚北道迎日郡(浦項市)には、倭系の在地権力が存在していたことが、
503年建設の最古の新羅碑 『迎日冷水碑』(1989年発見)で明らかになった。http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/geijitsuhi/geijitsureisuihi_gen.htm

迎日冷水碑

碑石は横70センチ、高さ60センチ、幅30センチの台形状。

前面・後面・上面にわたり231文字が刻まれる。



第22代の王・智証麻立干(在位:500年 - 514年)が記されているが、石碑の後面上部に、この石碑を建てたこの地の豪族の首長(村主)の肩書と名前、
副長の肩書と名前が記されているが、その肩書(ユキ、スキ)が新羅には無い倭系のものなので、首長は倭系と思われる

碑文の文章は完全な漢文ではなく、在地系の言語を漢文に置き換えたもの。
後世の朝鮮語とは異なる言語を話す勢力が、この当時も存在していた。


  肩書の、臾支yuki、須支suki は新羅語には無く、日本書紀にペアで現れる語彙。 須支suki は介 の祖語。
  『迎日冷水碑

  村主
  臾支yuki干支
  須支suki壹今智
  『日本書紀』天武5年(676年) 新嘗祭の占いで 

  齋忌 此云踰既yuki
  次 此云須伎suki


日本書紀(天武5年)に 『新嘗(ニヒナメ)祭用の稲を作る国郡の卜定で、ユキとして尾張国の山田郡、(次なる)スキとして丹波国の訶沙郡が占いに当たった』 と現れる。
このペアで使われるユキ、スキやニヒナメは、東南アジアから伝播した稲作儀礼がルーツと云われる大嘗祭と同じの、南方系の古い倭語で、弥生時代まで遡れることも予想される。
新天皇即位の践祚大嘗祭では、神話・呪術面の継承者としての天皇になる儀式(秘儀)が行われる大嘗殿は、ユキ殿、スキ殿から成っている。
 参考:「大嘗祭 −天皇制と日本文化の源流− 」 工藤隆 中公新書 2017.11

(追記)
2019年11月14日〜15日の夕刻から深夜にかけて、皇居で大嘗祭が 悠紀殿、主基殿 にて行われ、126代 令和天皇が誕生した。


大嘗祭は、「海幸山幸神話」同様に南方系ルーツで、日向系(=アマテラス系)の天皇一族の伝統祭祀で、
ユキ、スキの言葉は日向系によって半島の倭人集落に伝えられ 、尊い事柄についての正・副(正・次)の意味で定着したのであろう。
日向のウガヤフキアエズ(鵜草葺不合)命も半島を巡回し、倭人の豪族のもとで稲飯命を産してる。
     (2018/10/03 追記)


新嘗祭(=大嘗祭)は、古事記の「アマテラスの岩戸隠れ」に出てくる。
『スサノオが、アマテラスが営む田の畦を壊し、溝を埋め、その年の収穫物を頂く(新嘗祭の)神殿に糞をまき散らした。
〜(略)〜 アマテラスはスサノオの所業を見て、天の岩屋戸に隠ってしまった。』 と。
新嘗祭は、現在は11月23日に行われる収穫祭で、勤労感謝の日になっている。陛下が皇居でそのための稲の収穫をするお姿も よく知られている。
     (2018/11/14 追記)



※4
瓠公(ここう)は、新羅の建国時に諸王に仕えた謎の重要人物で倭人

三国史記によると、新羅の3王統の始祖の就任の全てに関わっている。
金氏王統では、始祖となる金閼智を発見してる。 とあるので、金閼智は稲飯命の(赫居世と縁戚の)子孫かもしれない。
新羅は、倭人の指導のもとに、建国、王統の継続、を行った証左であろうか?

(資料)新羅王の年表・百済王の年表  (「古代史の復元」)


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(2)第4代新羅王 脱解について


・201年 第4代新羅王 脱解が即位した。第8代 孝元天皇の時代。
・脱解(201年〜212年)は、丹波国出身の倭人。  (古代丹波国は丹後、但馬を含む。)
・彼の子の天日槍命は、219年に倭国に戻ってきている。


脱解は、新羅の王族3姓 (朴・昔・金)のうちの昔氏始祖で、新羅の王統が3系統という、普通では考えられない継承方式なのは、
国が、倭人系、韓人系、穢人系、秦人系といった勢力の連合体であり、倭人を王とするも 支える有力勢力が複雑だったゆえだろう。


子の天日槍命は、8種の神宝を携えて倭国に渡来したが、その内容は、
羽太玉一個、足高玉一個、鵜鹿々赤石玉一個、日ノ鏡一面、出石刀子一口、射狭浅太刀一口、出石桙(杵)一枝、熊神籬一具 であり、
特徴的なのは 玉が多く 玉を尊重していることである。

新羅が玉を尊重する伝統は強く異常とも思われる。これは百済には全く無い。建国時の王統の象徴だったのだろうか? 出雲の影響だろうか?


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古代氏族名鑑 『新撰姓氏録』(815年成立)は、京・畿内の1182氏を「皇別」「神別」「諸蕃(渡来人系氏族)」に分けてる。
 諸蕃の氏族は、出自により「漢」163氏、「百済」104氏、「高麗(高句麗)」41氏、「新羅」9氏、「任那」9氏。
 で、「新羅」の9氏は、倭国に戻った天日槍命の子孫が4氏で、残りは5氏と異様に少ない。 新羅系の渡来氏族はほとんど無い。


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(3)高句麗と倭国との戦いの 狭間で


391年 高句麗の広開土王(在位 391〜412年)が即位すると、半島南部へ勢力の拡大を図った。
倭国は半島内の鉄資源などの権益を守るため、これに対抗して半島に進出することになる。
広開土王碑(414年建立)に、”新羅・百済は属民であり朝貢していた。しかし、倭が391年に海を渡り百済・新羅を破り、臣民となしてしまった” と記される。


大国の高句麗、倭国に挟まれて、小国の新羅は舵取りに苦労し、大国に世継ぎを質子として差し出すことになる。

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377年 新羅・奈勿王、高句麗に随伴して中国(前秦)に初の使者を送る。 (この頃、高句麗に従属)
392年 新羅・奈勿王、高句麗に質子を送る。 実聖(次代の王)を  392年〜401年 (高句麗・広開土王に恭順する為)
397年 百済、太子を倭に質子として送る。 阿花王の王子・腆支 397年〜405年  (高句麗の圧迫に対抗して 倭との同盟を強化する為)
402年 新羅・実聖王、倭に質子を送る。  奈勿王の王子・未斯欣 402年〜417年 (倭国と高句麗 の戦の最中、首都を倭軍に落とされた為)
412年 新羅・実聖王、高句麗に質子を送る。 奈勿王の第2王子・卜好 412年〜418年
417年 新羅・訥祇王即位   (倭への質子の未斯欣:  即位には高句麗が関与した。また、即位の冠は金冠ではなく銀冠だった。)
427年頃建設の、『中原高句麗碑』(1979年発見)によると、新羅領内には「新羅土内幢主」が高句麗から派遣され駐在し、新羅は高句麗に従属。 ※(3)−1
       これによると、新羅土内幢主は、新羅国王に衣服を強制貸与「賜寐錦之衣服」したり、新羅兵士を徴募したりしている。


413〜479年 倭の五王の時代。  倭の五王は中国・宋に朝貢し、
478年 宋の順帝は、武(雄略天皇)を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」と認めた。
    倭の上表文には、高句麗はなく、百済は入っていたが既に朝貢しており除かれた。新羅は倭の属国ということが認められた。 ※(3)−2

また、倭の五王時代には、ヒスイ勾玉が大量に半島に輸出される。(冠など威信財の装飾用)


475年 高句麗の急襲により 百済いったん滅亡。 首都を漢城→熊津に移す。 雄略天皇 百済を復興させる(476年) 
5C後半〜6C初頭 半島南西岸・栄山江流域(慕韓の地)に、前方後円墳 13基が造営される。 →雄略天皇が復興・百済支援に派遣し駐留した、九州豪族の各将軍の墓 
5C後半〜6C 熊津に、丹芝里横穴墓群23基が造営される。横穴墓群は半島初で北部九州に集中分布しており、百済に渡った北部九州の倭人の墓  (2019/09/16追加)

503年 新羅 迎日冷水碑が建立。

458年〜479年 半島最大の古墳 慶州・皇南大塚が築造される。



時期をへだてて2基の円墳を築造したもので 全長114m・高さ22.6m。

先に造られた南墳が訥祇王。(在位 417年〜458年)

後からの北墳が慈悲王(在位 458年〜479年)との新説が出され、これを採用する。

(旧説は、南墳・訥祇王で 北墳・王妃)





(この頃 430年 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)築造。 墳丘長:525m・高さ39.3m)



特筆すべきは、南墳(訥祇王)からは銀冠が。 北墳(慈悲王)からは 77点ものヒスイ勾玉がさがった美しい金冠が出土してる。





王冠は高句麗の影響を受けた形態。

訥祇王が銀冠とは奇異だが、高句麗王が金冠で、支配下の訥祇王は金冠を許されなかったのだろう。 ※(3)−1


慈悲王時代は倭国の支配下で金冠であり、大量の翡翠勾玉が倭国からもたらされたのだろう。 ※(3)−2


高句麗系の王冠に、倭系の勾玉の飾りは、両国の影響の象徴のようだ。



翡翠は糸魚川周辺が原産地であり、それによる翡翠勾玉は、半島では百済・伽耶は稀で、慶州の地に集中して出土している。
一方、高句麗や穢は、珠玉を宝物としない。(注2: 魏志東夷伝 穢)
従って、慶州の地が建国以前から倭人・倭国と係わりがあり、勾玉が呪術的なシンボルであり、更に王家(倭系王統)の象徴だったように思われる。


倭国においても、「出雲国造神賀詞」奏上の時、朝廷への奉納品は、『 碧玉製勾玉44個、赤メノウ製勾玉8個、水晶製勾玉16個、白馬1頭、白鳥2羽など』 と決められていた。
勾玉は、アマテラスの”八坂の勾玉”以来の王統を象徴し、天皇の神威を保持し、増強するに欠かせないものだった。


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(4)多民族国家から 統一国家へ。 共通言語・新羅語を成立させる。


新羅は、人質外交の屈辱を反省したのか、大国からの支配を脱するため、中央集権化へ向けて制度改革を実施し、国内の統一化と国力の充実をはかった。
     ・
     ・
521年 新羅は(百済に随伴し)初めて南朝の陳に朝貢する。 ※注3:梁職貢図
528年 新羅に仏教伝来(高句麗から: 国家鎮護の宗教)

562年 新羅は任那を滅ぼす。
     ・
660年 新羅は唐と結び 百済を滅ぼす
663年 唐・新羅連合軍は、大和朝廷と百済の遺臣を白村江で敗北させる。
668年 唐・新羅連合軍は、高句麗を滅ぼす
670年 新羅は高句麗遺民(剣牟岑 ケンボウシン)と結び、対唐戦争へ転換。 対唐戦争 671年6月 〜 676年11月
676年 新羅は唐を排除し、半島初の統一国家を成立させる (統一新羅時代)



※注3:梁職貢図
 2011年に発見された張庚による『諸番職貢圖巻』(張庚模本 梁職貢図: 526〜539年頃作成)には斯羅国(新羅)について次の記述がある。


  斯羅國は元は東夷の辰韓の小国。 魏の時代では新羅といい、劉宋の時代には斯羅というが同一の国である。
  或るとき韓に属し、あるときは倭に属したため国王は使者を派遣できなかった。 普通二年(521年)に募秦王(法興王)が百済に随伴して初めて朝貢した。
  斯羅国には健年城という城があり、習俗は高麗(高句麗)と類似し文字はなく木を刻んで範とした(木簡)。  百済の通訳で梁と会話を行った。






(5)おわりに


古代新羅は、倭国の領域内で建国された 倭人を王と戴く 複数民族による小規模な自治領だった。
その後、(倭の支配から離脱し)自立国家へ向けて努力を重ねてきた。
国力・武力に弱く、従って工作員の派遣・調略・謀略などを得意として 大国間を渡ってきた。



後世、 三国史記(1145年完成) を編纂する際に古代新羅を、(最盛期の新羅のような)統一した国が 初めから存在したかのように
見せるため、また高句麗より古い建国と記すなど、多くの改ざんを行って歴史の美化をはかった。







 【後 記』

 古代新羅の有様はどのようなものなのか? という関心でこのメモを纏めた。

 関心があったのは 半島で話されていた新羅語とは どのような言語だったのか? だ。
 言語の知識は無いので、半島に繰り広げられた歴史を、一枚一枚ベールを剥がすように遡っていき、そこに何が見えるか? に興味があった。

 民族の吹き溜まりー 半島の東南部は、やはり人種・言語が異なる複数の民族が雑居していた。
 新羅発祥の地・慶州は、倭人の有力者を、他民族の族長達が推戴しクニの王となし、勢力を拡大した、と云うことが判明した。
 古代新羅の言語は、そこに住んでいる 倭人・穢人・秦人・在地人の言葉であった。

 政治制度・共同体の信仰祭祀などに係る(上部構造)言語は、当時は倭系の言葉が使われていたと思われる。  ※5
 後世・統一新羅前後に、中央集権の国家形成のために統一新羅語(標準語)に変わったが、基層には、倭系言語・穢系言語が残存していることが判明した。
  
 今迄、倭国と同じ言葉が半島に見つかると、それは半島から由来したもの、と、一つ覚えのように無批判的に受け入れていたが、
 今は、ちょっと待て、その言葉は倭国から新羅に伝わり、朝鮮語の基層をなす倭系の祖語なのでは?、とチェックを入れる必要性を示している。
 コペルニクス的転換だが、避けては通れないことだろう。
                                             ( 2018/4/22 )

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 ※5
  ペアで使われる倭人社会のユキ、スキの肩書は、倭人がクニの王となってからは、他民族でも使われたかもしれない。
  後の新羅語に、ユキ・スキが無いのは、それがローカル(在地)の言葉に留まり、中央で使用されなかったのが理由だろう。
  迎日冷水碑の豪族は、倭人系が最有力だが、その影響を受けた穢族系も排除できない。     (2018/10/10)

  倭人社会のユキ・スキの肩書は、倭系王統内では、ユキは寐錦王(むきんおう)、補佐のスキは葛文王(かつぶんおう)に変化し、使われた。
          (2018/12/15)

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 【追 記』

@
 4世紀〜7世紀後半(統一新羅成立)まで、半島は戦乱が絶えなかった。渡来人はこの時期に、戦乱を逃れて列島に移り住んでいる。
 新撰姓氏録では、漢・163氏、百済・104氏、高句麗・41氏、新羅・9氏、任那・9氏 の渡来氏族が記録されている。

 国の滅亡によって逃げてきた、百済、高句麗、任那 出自の氏族は理解できる。  参考:高麗の若光について (2018/8/14)
 圧倒的に多い漢(大陸)出自の氏族は、中国の戦乱を避けて半島に渡来した氏族だったが、半島より列島の方が安全だ、とで倭国に渡来した。
 半島からの渡来者ではなく、半島を見捨てた大陸からの渡来者、が実態。 歴史的視点では半島は仮住まいの場所だった。
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  漢系の渡来氏族では、
  ・秦氏の祖「弓月君」(秦始皇帝三世孫・孝武王の後裔)が380年(応神14年) 辰韓から(新羅の妨害があったが)127県の民(18,670人)を引連れ渡来した。
  ・倭漢氏の祖「阿知使主」(後漢の霊帝の子孫で、帯方郡に移住していた)が、386年に17県の民を引き連れ渡来した。


A
 統一新羅前後、列島は 扶桑という特別な美称で呼ばれていたことがわかった。
 2011年西安で出土した百済の将軍の墓誌(678年作)に、列島を「扶桑」と記していた。
 扶桑は大陸の人達からの特別な美称で、憧れがあるからであろう。

※扶桑樹は 東海の海上に茂る巨大な神木で、9000年に一度実をつける 神仙の樹。
 その神樹から太陽が生まれ、それを烏が背負って 天空を運んでいく という中国の説話がある。
                                              ( 2018/4/28 )


                     2018年4月17日     宇田川東



  参 考  弥生人DNAで明らかになった日本人と 半島人の起源 ー朝鮮半島に渡った縄文人ー  (2018/12/29)


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