ニギハヤヒによる東国の開拓 と 初期の前方後円墳・前方後方墳




スサノオ、オオクニヌシ、ニギハヤヒ といった出雲系の神々は 国土の開拓に尽くし、開拓神として祀られるようになった。




大和に入ったニギハヤヒ(饒速日)は、次に大規模な東国の開拓に乗り出した。

ニギハヤヒが率いた 32人の従者(神)ら    (古代史の復元から)



ニギハヤヒが率いた 25部の物部(軍団)の出自地は 次のように推定されている。 (古代史の復元から)









  弥生時代の東国は、房総半島の付け根部分に、霞ケ浦・北浦と 手賀沼・印旛沼 を含む広大な 「香取の海」 があった。

  香取の海は、西端が手賀沼となって残り、南端が印旛沼となって残っている。
  そして、その湖の周辺地域 (下図の赤い円のエリア) が 当時の開拓の中心地であった。





  現在の地形







(1)開拓前  (縄文時代 〜 AD45年頃)


東国には、縄文人の集落が点々として存在していた。
縄文末期は、文化は発達し、無いのは 鉄と稲作だけ、となっていた。
彼らは、航海を得意とし、 集落間や遠方との交易ネットワークや 情報伝達ルートを、発達させていた。



(2)開拓の開始 (AD45〜 )


ニギハヤヒ は、縄文の集落と平和的に接触し、説得して、彼らと一緒に開拓を行い、ヒノモト連合に加入させた、と考えられる。
縄文人は、情報で知っていた稲作を、ニギハヤヒの実際の説得を経由し、受け入れていった。
こうして 各地に 稲作が進み、クニが成長して行った。

ニギハヤヒは、伝承によると かなり精力的に関東地域をまわっている。
「古代史の復元」で辿ってみる。



@AD45〜55年頃  

・ニギハヤヒが、大阪湾岸地方の豪族たちを 東日本各地(福島県以南)に派遣し、大規模な東国の開拓を行った。
(ニギハヤヒ自身は関東地方中心に活躍した。)


印旛沼周辺の開拓 (印西市 小林の鳥見神社、中根の鳥見神社、、大森の鳥見神社が中心) が記録される。

・ニギハヤヒ率いる 25の物部のなかの、鳥見(トミ)物部〔北九州遠賀町鳥見山〕・ 赤間物部宗像市赤間〕 が香取海の沿岸(印旛沼周辺)の開拓に従事した。
・印西市鳥見神社記録
 「大和国鳥見白庭山に宮居した饒速日命は,土地の豪族長髄彦の妹御炊屋姫を妃とし,宇摩志麻治を産んだ。
 その後東征し,印旛沼,手賀沼,利根川に囲まれた土地に土着した部下が,祭神の三神を産土神として祭り,鳥見神社とした。


・ニギハヤヒは、約10年程かけて関東地方一帯を開拓し、大和に戻った。 (関東での滞在地は鹿島神宮の地と推定される。)



印旛沼と手賀沼 周辺の

@鳥見神社のエリア


A宗像神社のエリア










AAD55年頃以降


天穂日命が、出雲族27人の部族と地元部族と協力して開拓を開始し、鎮守として 鷲宮神社 (埼玉県久喜市) が創建される。(社伝)
 (注:天穂日命は素盞嗚尊と日向津姫の二男・ 長男は忍穂耳命)

ニギハヤヒ一行に追随して開拓に来た可能性が大きい。



BAD90年頃以降?


AD83年に、神武天皇が大和に入って即位した。
神武天皇の時代、四国(阿波)を開拓した 天富命忌部一族天日鷲命の孫達)を従えて、黒潮に乗って 房総安房に上陸し、安房(南房総)の開拓を開始する。
安房神社(千葉)創建伝承  天富命の終焉の地は「遠見岬神社」。
その後、房総半島は忌部一族によって 開拓される。

 ( 天富命は、 ニギハヤヒの大和入りに従った 32人の神の一人・天太玉命 (忌部の祖)の孫。  )



CAD101年 


第2代綏靖天皇元年 神八井耳命 (神武天皇の長男で祭祀を担当。綏靖天皇の兄。多族の祖神)が 飽富神社(千葉県袖ケ浦市) を創祀 と伝えられている。
上総国の開拓はこれに伴ってからか?







(3)開拓の進行 (1世紀の終わり 〜 3世紀中頃)




(4)前方後円墳をシンボルとする首長連合のクニに成長 (3世紀後半〜)



AD249年に卑弥呼が亡くなると、卑弥呼を祀る巨大な前方後円墳・箸墓古墳が築造された。
この後、各地の首長は前方後円墳を共通のシンボルとして採用し、全国のクニグニに前方後円墳が広まっていった。

この時期(3世紀後半)、 東国で築造された前方後円墳は、毛野国の郷見神社古墳と、上総国の神門5号墳(38m)の二つがある。
また、前方後方墳は房総半島に3つ造られた。


前方後円墳・前方後方墳には
@交通路の掌握を任務とした首長が、(周囲に農耕地などが無い場所での)政治的な立地で築いた古墳
A開拓を進め、生産力をあげた在地の首長が、クニを見渡す場所に立地した古墳  などがある。


3世紀後半の関東では、@の前方後円墳と後方墳が各一つ。Aの前方後方墳が2つある。(下図)      






4世紀以降になると、東海道・海路の目印ともなる前方後円墳が、交通の要衝地に築造された。

上の地図のルートでは、〜焼津〜鎌倉〜逗子 に至り、長柄桜山の丘陵上の前方後円墳 の麓を、古墳の向きに沿って進み、横須賀の長浦湾に出る。
そこから海路を、対岸の富津岬を目指し 走水を渡ると、弁天山古墳や内裏塚古墳 が出迎えてくれる。
その後海岸沿いに北上し、上総国の国府に至る。




< 参 考 >
 東国の前方後方墳を巡る(2) 前方後方墳 北ノ作2号墳 (3C後半)

 東日本最古の前方後円墳 神門5号墳を訪れる (3C後半)


                                                                                       2014年12月23日了