卑弥呼が亡くなった3世紀半ば以降に、前方後円墳・前方後方墳の築造が全国で一斉に始まった。
出現期の古墳の特徴は、そのクニ初めての人工構造物なので、その
クニ全体を見渡せる 眺望絶景の地に築かれることが多い。

墳丘に立ち、そのクニを見渡すことが好きだ。
杉木立などで眺めがきかない場合もあるが、その時は想像力を働かせて古代を想う。







2016年11月5日(土)  手賀沼の前方後方墳 北ノ作2号墳




手賀沼の南岸に、出現期の古い前方後方墳があるとわかって、行って来た。


北ノ作2号墳で、3世紀後半と云われている。 
卑弥呼の箸墓古墳が築造されたすぐ後になる。

グーグルアースで見ると、古代の手賀沼に突き出た小さな舌状台地上であることがわかる。
北ノ作古墳は、南北に入り込んだ谷の東側に位置する。 谷の西側の丘陵は 手賀の丘公園 になっている。

香取鳥見神社は、沼に突出した舌状台地の上に位置する。
絶景の地だそうだ。
(祭神は、ニギハヤヒ命とフツヌシ命)

神社を三方から囲むようにある水田は、
昭和30年代の開拓前は、手賀沼だった。



北ノ作古墳は、昔の広大な手賀沼の中央に位置していた。




水神山古墳は、
全長69mの前方後円墳で、4世紀後半に築造された







この日は、ジャパン・バードフェスティバルの日。
会場地でレンタサイクルを借り、手賀沼の北岸をグルッと東端まで。


北岸から見た 向いの丘陵を。

(北ノ作古墳の丘陵ではないが、こんな感じ。)




手賀曙橋を渡って、正面の丘陵にある古墳に向かった。






北ノ作古墳は、手賀沼を一望できる標高20m程の台地上にある。

左: 手賀曙橋を渡って、正面に、2軒の農家の背後に北ノ作の丘が見える。

右: 丘陵と丘陵の間の道に入って、北ノ作の丘を。 突端は断崖になっている。



丘陵の背後に回って、キツイ坂道を上ると 北ノ作古墳に着く。

      入り口の標識     案内板   後ろは1号墳(方墳)の墳丘




杉木立の中で 薄暗い。

              北ノ作1号墳               北ノ作2号墳



古代では手賀沼が一望できたのだろうが、今は杉木立に邪魔されて、かすかに青い湖面が認められるだけ。 残念だ。



案内板にあった 測量図。 
断崖上で、眺望が良いことがわかる。


←北ノ作1号墳
 ・方墳
 ・3世紀後半
 ・一辺17m








←北ノ作2号墳
 ・前方後方墳
 ・3世紀後半
 ・全長33.5m











古墳を訪れるときは、築造された当時の地形を知る必要がある。 出現期の場合は尚更だ。



で、手賀沼は...と調べたが、家康の江戸入府以降は、手賀沼の歴史は干拓の歴史でもあった。

家康による手賀沼の北を流れる利根川の付け替え。
田沼時代などの干拓の請負工事の歴史。
最後は、戦後 昭和30年代の大規模な干拓。

手賀沼は、昭和30年代に最後の干拓が行われた。

左上が、昭和30年頃の手賀沼











左下が、平成10年頃の、干拓後の手賀沼。
現在の手賀沼




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それ以前の古代ではどうだろうか。
このあたりは、香取の海という、霞ヶ浦、北浦、印旛沼、手賀沼を併せた内海の、西端だった。


東国は、大和に入ったニギハヤヒが、AD45〜55頃に、大阪湾岸の人々を引き連れて開拓を開始した。
印旛沼周辺の開拓が一番古く、次に手賀沼周辺の開拓が行われたと推測している。


その後、成長した 印旛沼、手賀沼周辺のクニの首長は、3世紀後半の古墳時代に入って、それぞれ前方後方墳を築造した。

 古代の房総半島






参考(1) : 千葉県の前方後円墳・前方後方墳の編年表  (「神門5号墳を訪れる」 2015.01から)


参考(2): 東国の前方後円墳を巡る(1)  水神山古墳訪問記 収録




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< 追加 >  

  手賀沼に 52mの 巨大な前方後方墳が存在してる!!   (2016年11月12日)



 


backtotop.gif (3095 バイト) 2016 11月 07日  宇田川 東