高麗(こま)の若光の移動について(メモ)
・716年5月 甲斐,伊豆,相模,上総,下総,常陸,下野の 高麗人 1,799人を 武蔵国に遷し 高麗郡を置く 。 という記録。 ・高麗の若光ら一行は、大磯から出発して道なき原野を、北極星を目印に北上し(高麗神社の地に)到達した、という伝承。 この2つの 建郡にかかわる事柄について考えてみた。 |
A選ばれた入植地は、 北武蔵の豪族の地と 南武蔵の豪族の地 の中間地点で、両者の影響力の薄い未開拓地。 背後は銅が産出された秩父であり、それらを考慮して中央政権がこの地を適地と定めた。 B716年 大磯から出発した一行は、相模国府、武蔵国府の役人の管理の下、 完成していた東山道武蔵路を北上し、その後西に折れて目的地に進んだ。 新郡建設は国の事業で、移動中の食料などは国府から支給されたと考えられる。 若光は高麗王の姓を賜っているので、丁重に扱われたであろう。 ・左図の高麗神社のあたりが、高麗の若光の居住地 ※東山道武蔵路は、南北の直線で便宜的に描いたが、 実際は中途の川越付近から北へは 緩やかに北西に向かっている。 |
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目的地 高麗神社の地は、出発地 大磯(高麗山)高来神社からは 北極星が輝く真北にあたる。
そこに東山道武蔵路を北上した記憶が合わさって、北極星を目印に進んだ という伝承が生まれたのであろう。
高麗神社
高麗川の台地上に位置しており、若光が亡くなり、その霊を祀ったのが創建の由来。
中央の左から右へ高麗川が流れている。 その上のこんもりした台地上に神社がある |
高麗川にかかる出世橋を渡り |
台地に上がって 一の鳥居に到着 |
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二の鳥居 | 社殿 入り口 | 社 殿 |
※2016年に、高麗郡建郡1300年の記念式典が行われた。
2018年9月14日 宇田川東
【 追 記 】 2018.9.29
高麗の若光について、二つのメモを書き纏めてきたが まだ腑に落ちないことがあった。
それは、若光の入植地と その背後にある意味だった。 短いメモを書き、パズルの最後のピースを埋めた。
→ 高麗の若光による 高麗郡 建郡の意味について
関連: 高麗の若光について
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