AD57年 倭奴国 (倭国の極南界なり →日向 ) が後漢に朝貢。 金印を受ける。
古代史の復元によると、
中国正史(後漢書倭伝)に初めて登場する 金印を受けた倭奴国は、通説と異なり、神武天皇の出身地
「日向」 である。
金印の文字は 「漢委奴国王」 で、 「倭」ではなく「委」。 |
「後漢書倭伝」 には 「魏志倭人伝」には見られない重要な記事がある。
『建武中元2年、倭奴国 奏貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬を以てす。』
倭国の極南界というと 北九州ではなく 日向( 古代日向は 薩摩・大隅を含む ※1 )になる。
大夫が、倭奴国は倭国の極南界に位置する、と対面して光武帝に奏上したのだから この事実は重たい。
倭奴国は、「倭の奴国」と分かち読みされるのが通説ですが、間違っています。
倭奴国は、彌奴国、姐奴国、蘇奴国、華奴蘇奴国、鬼奴国、烏奴国、狗奴国などと同じ表記法で、「倭の奴国」ではなく「倭の国」のことです。
また、「倭奴国」と「奴国」は、別々の国です。 (追記:2023年12月21日)
※1:702年 日向の国の南部から「薩摩」を設置
713年 日向の国の南部から「大隈」を設置
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「後漢書倭伝」で金印を受けた日向の 倭奴国の国王 は、ムカツヒメ(日向津姫)で、神武天皇は彼女の孫になる。
ムカツヒメの墓は串間の「王の山」(※2)であり、ここからは、中国にも数少ない超大型の玉璧(径33cm)が出土している。
玉璧は中国王侯の印とされるもので、特別な諸侯にしか与えられない。
後漢の初代皇帝は、金印だけでなく璧まで与えており、倭奴国王を破格の扱いで、大変重要視していたことになる。
王の山 出土の玉壁(国宝) 直径33cm 厚さ 6mm、重さ1600g 。 前2世紀ごろのもの。 この玉璧は、南越王の玉璧とパターンが酷似しているが、 より大きく、渦巻き文の内側にもう一つ獣文が入って、格上と考えられる。 また、満城漢墓出土の中山王の玉壁ともパターンが酷似している。 |
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広州 南越王漢墓出土玉壁 直径25cm | 河北省満城県 中山王劉勝と妻の墓から出土 |
※2 王の山 追記:2023年10月2日
「1818年(文政元年)2月、宮崎県那珂郡今町(穂佐ケ原あたりまで今町)に住む農民佐吉が、自分の畑の字「王之山」を耕す時、
ここから石で作った棺おけが出てきた。開けてみると宝物の古い球や鉄製品が三十余り出た。」
王の山古墓の場所は不明だった。
最近(2023年7月17日)、堀晄氏が推定地付近(佐吉の墓、王子谷等)を探訪し情報をFBにあげたので、氏の許可を得て写真を掲載する。
また、例によって古代史の復元にも評価してもらった。
(2023年7月20日) 王の山の墓は玉壁以外にも鉄器が30点ほどあったそうです。この鉄器は鉄剣ではないかと推測しています。 当時の鉄器は農機具か鉄鏃が多かったようですが,農機具は農作業に用いるためには墓に副葬されることはほとんどなく, 鉄鏃は戦闘の利器でこれも墓には副葬されることはあまりありません。 鉄剣のみがステイタスシンボルとされているので副葬されやすいと考えられます。 30点すべて鉄剣とは限りませんが,他の鉄製品が考えにくいために,ほとんどは鉄剣ではないかと推定します。 30本ほどの鉄剣を副葬する墓など聞いたことがありません。 この王の山の墓は相当な有力者の墓であることは間違いないでしょう。 古代史の復元では埋葬者は日向津姫=倭奴国王と推定しています。これほどの有力者は他に考えられません。 |
堀晄氏によると、 この場所には高速道路建設が予定されているそうです。 石棺は持ち去ることが出来ないので、そのうち「王の山古墳」 の情報が出てくることと思われます。 |
伊都国の中心地・細石神社 奴国の丘歴史公園 金印が発見された志賀島 |
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独立していた伊都国は、後漢の支援を受けた日向により その後 倭国連合に加盟する。
後漢の洛陽に行った大夫とは、ムカツヒメの次男・日子穂々出見尊 で、彼が北九州を平和統一した。
金印は、本拠地の日向ではなく、海外交易の出先拠点の伊都国内に置かれていた。
玉璧も、日向の本拠地からムカツヒメが亡くなった地に運ばれ、一緒に埋葬されたと思われる。
83年に倭国が統一された後、145年に新羅が建国されたとき慶州は倭の地であった。
新羅の始祖伝承では 王は卵から生まれ、倭人の瓠公を重臣にしたと。
卵は出自を隠すためで、地域を束ねる王を平和的に擁立する場合、貴種でないと都合が悪いので、当地にいた貴種の倭人が選ばれた。
新羅の初代王 赫居世 について 『新撰姓氏録』 は、鵜草葺不合命の子の 稲飯命 (神武天皇の兄)の(子孫)と伝えている。
私は、初代の新羅王は、57年に半島を経て後漢の洛陽に朝貢に行った ムカツヒメの2番目の皇子・日子穂々出見尊 の孫かと感じる。
金印と璧を持ち帰った日子穂々出見が、旅の往復途中か、その後の半島巡回でもうけた子供の後裔なら、だれでも納得する候補だ。
新羅の初代王赫居世が、倭と深いつながりのある人物ということは、
その時代に「侵入した倭人が、赫居世王(と瓠公)の説得に応じて撤退した」、で明らかだ。
大和朝廷と繋がりがある王ということで倭人は安心・納得したのだろう。
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AD57年、日向の日向津姫の皇子・日子穂々出見尊は、半島経由で (出先機関の楽浪郡にではなく) 遥かな後漢の都・洛陽に朝貢した。
光武帝が下賜した金印・璧は封印され、漢の役人が携え倭奴国(日向)で開封され、女王に渡された。
漢から派遣された役人は復命書@を書き、朝廷の記録庫に収められた。
魏から邪馬台国・卑弥呼への使者の記録 A240年梯儁、B247年張政 も魏の記録庫に収められた。
後世、陳寿は魏志倭人伝を編集する際に、後漢の復命書@と魏のそれABを参照し、
同じ女王国迄なので、日向までの行程と、大和までの行程を混同し、前者の行程と風俗を採用してしまった。
以上は「古代史の復元」の仮説だ。
邪馬台国を述べる人々は、行程について北九州のクニから 「南」へを、それは書き間違えで「東」だ、と勝手に変えて 大和到達にしている。
何故「南へ」と間違えたか、の説明では...古代史の復元の見解は面白い。
倭奴国が 北九州のクニなのか、日向の西倭の女王国なのか、で古代史の見方がガラッと変わる。
神話伝承の助けを借りなければ 違いは永遠に不明だろう。
想像を逞しくすると、
来朝した後漢の使者を護衛して半島・楽浪郡まで送ったのは、長旅を終え任務を全うした日子穂々出見尊でなく
今度は代わって弟の鵜草葺不合命で、
彼はしばらく半島に留まり、そこで稲飯命を成し、その孫かひまご・やしゃごが新羅の初代王
赫居世、と。
これだと「新撰姓氏録」の記載にも合致するなぁ(笑)
《 参考 》
・魏志倭人伝のクニの風俗について
・金印についてのメモ
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