中城湾に面した佐敷を見下ろす。 |
2021年10月12日(火) 佐敷上グスク
台風の風雨のなか、沖縄南部の聖地・佐敷へ向かった。
三山を統一し、琉球王国(第一尚氏)を立てた佐敷按司 尚思紹(しょう ししょう)、尚巴志(しょう はし)親子の拠点だ。
佐敷には第一尚氏一族にまつわる史跡が多い。
ここが聖地として扱われていたのは 第二尚氏時代の久高島行幸おもろでも 明らかだ。
聞得大君(と国王)の道行は、首里城〜与那原〜 佐敷(拝所へ)〜 斎場御嶽(拝所)〜馬天港〜久高島で、前王朝の聖地・佐敷に寄っている。
矢印は上から ・勝連グスク ・中城グスク ・首里城 ・佐敷上グスク |
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私の佐敷(町)のイメージは、一面にサトウキビ畑が続き、その中にシュガーホールという音楽堂がある場所で、それを那覇時代に視察に行ったことがある。
サトウキビ畑のなかの国道331号は、両側にワシントンヤシの並木が続いていて、不思議なのどかな風情が感じられた。
丘陵上の沖縄厚生年金休暇センター(現ユインチホテル南城)の展望レストランからは、穏やかな中城湾と知念半島の崎までが一望され、絶景だった。
今回は、聖地としての佐敷上グスクが目当てで、ここは初めてだった。
幹線道路に 「佐敷上グスク」入口の鳥居が建っている。
鳥居をくぐり、坂を登っていくと、丘の中腹に郭のようなガジュマルの広場がある。
尚思紹・尚巴志が居住していた場所だろう。眼下の海が一望できる。
この一帯が佐敷上グスクのようだ。
広場からの階段を上ると月代宮がある。
沖縄らしくない大鳥居。大和への関わりを象徴? |
坂道の途中から |
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ガジュマルの広場 | クロトンの葉が美しい、月代宮、御嶽への階段 |
第一尚氏は「月しろ」という霊石を祀っていた。
これが月との関係が深い八幡神の霊石で、倭寇の八幡船・八幡神信仰と結びつくのでは、と言われている。
※第一尚氏王統最後の尚徳王が、喜界島の征服(1466年)に当って八幡大菩薩の神威に頼ったことが知られ、「八幡按司」の称号がある。
※第二尚氏王統でも、八幡神由来の巴紋が尚氏の家紋として使用された。
<佐敷の地形>
ここ佐敷は、標高150mあまりの台地と、標高10m以下の海岸低地からなり、台地が円弧上に連続して馬天港を抱く形になっている。
湾を半円上に囲む緑のベルトは、台地と低地の境の崖。 佐敷は、背後を急峻な崖で囲まれている。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ここには佐敷上グスクの他に、 ・尚思紹の父・佐銘川大主ゆかりの場天御嶽や、 ・尚思紹の墓 佐敷ようどれ があり、尚氏の始祖から三代の史跡が残っている。 |
第一尚氏の祖・佐銘川大主(うふぬし)は、伊平屋島(※1)を根拠地として勢力を張っていたが、飢饉による米騒動で島民ともめて島を出たとの伝承がある。
(水稲耕作は多くの人々を計画的に動員しなければならず、水稲は日本本土からもたらされたもので、三山時代に琉球に普及した。)
伊平屋島を出て、運天港から北回りで国頭半島を廻って東海岸に出て良港の地を求めた。
そして三方が山のように囲まれ、馬天浜がある佐敷に着いた。
馬天港は昔、久高島へ行くのに利用したことがある。 (今は久高島行は安座間港) 馬天港の久高島行き定期船: 1999年撮影 |
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そして、佐敷の場天原に屋敷を構え勢力を伸ばした。 その跡が、場天御嶽として残っている。
※1 伊平屋島を訪れたのは2000年5月で、島に水田があるのに驚いた。田名という集落もあった。
本土人のダイビングガイドゆーすけ君は、新米は美味しいですよ。期間が経つと美味しさが無くなり残念ですが、と。
今は保存技術が発達してるので、年中美味しいだろう。 伊平屋島は、沖縄有数の米どころ。
場天御嶽・ヤマトバンタ
佐銘川大主が伊平屋島から移り住んだ住居跡にあったが、1959年のシャーロット台風の大雨による崖崩れと地滑りにより、住居跡一帯が埋没。
場天御嶽、住居跡にあった井戸、御天竺神、ヤマトバンタにあった伊平屋神も一緒に、100mほど離れたイビの森に移転された。
また、地滑りで佐銘川大主の墓の入り口が開いたので、夫妻の骨を「佐敷ようどれ」に移した、と。
(南城市の観光ポータルサイトより) |
伊平屋島遙拝地・伊平屋神 (南城市の観光ポータルサイトより) |
佐敷ようどれ
佐敷按司であった尚巴志の父・尚思紹(1354-1421)とその家族が眠る。
「ようどれ」は夕凪や静かな場所の意味。
本来は直ぐ近くの断崖絶壁にあったが、風雨により損壊したため、第二尚氏王朝だった1764年に現在の場所に移設された。
現在この場所は航空自衛隊の基地内となっているが、参拝は可能と。
(南城市の観光ポータルサイトより) |
佐敷ようどれからの眺望。(南城市の観光ポータルサイトより) |
1.尚思紹・尚巴志は何者か?
折口信夫は「琉球国王の出自」で次の説を述べている。
三山時代に、肥後八代郡の麓城に拠り、(南に隣接した)芦北郡の佐敷城も配下に置いた名和氏(南朝方)のなかに、
肥後海賊との関係を保ちつつ、窮迫して南に渡琉した者たちが居て、その子孫から佐敷按司・尚思紹(1354-1421)、尚巴志が現れたと。
八代・佐敷 → 思紹の父、佐銘川大主(うふぬし:大和出身)の根拠地・伊平屋島 → 運天港 → 島尻・佐敷へ (馬天港が根拠港)
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折口の根拠は、佐敷という地名の一致と、 「琉球国由来記」巻13に記される本土に漂着し、帰還した聞得大君をめぐる伝承。
この聞得大君の石厨子を祀る友盛嶽(ともり)という本土的名前と、同名御嶽が琉球列島に広く分布しており、
浦添間切安茶波村の友盛嶽の神名は「大和ヤシロ船頭殿加那志」。ヤシロは八代。
聞得大君の帰還に際して迎えに行った馬天ノロは、「たじよく魚」が馬天の海に来るときは「ヤマトバンタ」にいることになっている。
ヤマトバンタは大和人と縁のある崖で、佐敷尚氏(が大和人であること)に、結びついている。
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佐敷按司の出自が、琉球最初の文字資料「おもろさうし」で分からないかと、『おもろさうしと群雄の世紀 ー三山時代の王たちー』(福寛美)で調べたが、
『第一尚氏が名和氏の残党であったとしても、それをおもろ世界から見てとることは出来ない。』 P280 とあり、残念だった。
かわりに、佐敷按司は、「佐敷意地気按司」、「佐敷大国按司」という美称辞で表現され、
佐敷が、「佐敷苗代」と謡われた、真水が豊富で水稲(二期作?)で栄えた土地だったことがわかった。
第一尚氏の初代・尚思紹は、「苗代大主」と称されていた。
2.第一尚氏の大和名を推理する。
按司の中には、大和名がわかっている按司もいる。
勝連グスクは、在地の阿麻和利が下剋上で城主となる前、茂知附按司が城主で、望月氏という渡琉人であった。
おもろさうしに描かれる按司には、鎌倉武士の装束そのままがある。
さて、第一尚氏の大和名は何であろうか?
折口信夫説の、南北朝時代に肥後芦北の佐敷から渡琉した武士団と考えてみよう。
手掛かりは、第一尚氏の祖とされる佐銘川大主(鮫川大主とも書かれる)の、佐銘川・鮫川が第一尚氏の名前だろうか?
探索ツールは二つ。
@ローカルデータ: 沖縄固有の地名・姓を集めた沖縄辞書 ... 沖縄辞書に無い姓は、本土の姓(本土から渡ってきた人)と言ってよい。
(私の、沖縄辞書(地名・姓).txtは、Window98にインストールして使っていた2000年前後の古いバージョンである。)
さ行は以下の通り。
さかした 坂下 地名その他 さきえだ 崎枝 地名 姓 さきしま 先島 地名その他 さきはま 崎浜 姓 さきはま 崎濱 姓 さきはら 崎原 姓 さきま 崎間 姓 さきま 佐喜真 姓 さきもとぶ 崎本部 地名その他 さきもと 佐喜本 姓 さきやま 崎山 地名 姓 町 さくがわ 佐久川 姓 |
さくた 佐久田 姓 さくた 作田 姓 さくだ 佐久田 姓 さくはら 佐久原 姓 さくま 佐久真 姓 さくもと 佐久本 姓 さしき 佐敷 地名 町 さしだ さじだ 佐次田 姓 さじ 佐事 姓 さて 佐手 地名その他 さどかわ 佐渡川 姓 さどやま 佐渡山 姓 |
さへん 佐辺 姓 さました 佐真下 地名その他 さむかわ 寒川 地名 町 さわだ 佐和田 地名 姓 ざいしょ 在所 地名その他 ざかび 座嘉比 姓 ざきみ 座喜味 地名 姓 ざは 座覇 姓 ざは 座波 地名 姓 ざまみ 座間味 地名 村 姓 ざやす 座安 地名 姓 ざんぱ 残波 地名その他 |
Aビッグデータ: 日本中の姓名・所在地を集めた 「名字由来net」... 姓を検索すると、その姓が多い土地が見つかる。
「佐敷エリアの出自か?」がチェック出来る。
〜〜〜 @Aにより ↓ チェックすると 〜〜〜
+++ 姓の探索は、中世〜 領主名は変遷しても、土地に根付いた地侍の姓は変らずに今も残っている、との前提に基づく +++
・佐銘川・鮫川は 沖縄辞書には無い。 → 本土から渡ってきた名前
・佐銘川は、名字由来netで登録が無かった。 → 本土にも無い。(実在しない姓) → 佐銘川 の可能性は無い。
・鮫川は、本土では、鹿児島・種子島にわずかの人数。北海道が多いが、北海道の鮫川は寒川が転じた、とのこと。
→ 鹿児島県西之表市(種子島)は、 交易ルート上ではあるが熊本でないので、鮫川の可能性は低い。 |
そこで、寒川姓が 鮫川・佐銘川に転じた、と仮定してみた。
・寒川は、沖縄辞書では、姓は無く、地名の首里寒川町がある。首里寒川町は井泉・寒水川樋川に由来する。
・本土では、全国にあり、熊本県では(佐敷の南に位置する)水俣市が多く、佐敷がある葦北郡芦北町にもある。
芦北町では宮崎、湯浦に見られるが、ここは、佐敷エリアだろうか?
そこで、宮崎・湯浦の位置を確かめることにする。
本土の佐敷 (熊本県葦北郡 芦北町佐敷)
赤矢印は上から ←佐敷城跡 (中世の城は更に東に位置。現在の城跡は加藤清正築城) ←湯浦 ←宮崎 ピンポーン♪ アタリだった。 |
→ 第一尚氏の祖とされる佐銘川大主 の大和名は、佐敷郊外(湯浦・宮崎)出身の、「
寒川 」 姓の武士。
肥後・葦北の「寒川」が → 伊平屋島で「鮫川」に → 本島で鮫川から「佐銘川」に、 と変化した。
また、「野坂の浦」に面した佐敷に、「中城湾」に面した 立地が似てるので、”佐敷” という ”故郷の名” を付けたと思われる。
同じ縮尺で比較。 (7万分の1) |
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大和の佐敷 琉球の佐敷 |
寒川党にとって、この地に来ての一番の喜びは、良港を得られたことだと思う。
伊平屋島は入り込んだ湾が無く、海を拠点として交易に従事する海賊(海商)にとって弱点だった。
ここでやっと 故郷のような良港 を得られた嬉しさから、佐敷の名をつけたと推測する。 (2022.2.15)
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<備 考>
三山時代に寒川氏がこの地を、大和名の「佐敷」と名付けた(1350年以降)が、琉球の文字資料上では、
1623年全巻成立の「おもろさうし」は、ひら仮名の「さしき」。1650年の「中山世鑑 巻三」では「佐鋪按司」と「佐鋪」(さしき)の漢字が当てられている。
同じ読みの「さしき」でも、按司名では「佐敷」より「佐鋪」の方が格調が高そうだ、と忖度したのだろうか?
BSで友枝昭世さん(前シテ・後シテ)の能「三輪」を見ていたら、”地に敷いて” が、漢詩では 鋪の字になっており、漢文表現なのだ、と納得した。(2021.12.04)
山影門に入って推せども出でず
月光地に鋪いて掃へども又生ず
表現では 北山王、南山王、中山王を、中国表現の 山北王、山南王、(中山はどうしてか中山王?)を使う人がおり、違和感を覚える。 (2022.03.06)
<参 考>
「野坂の浦」は万葉集に、「葦北の 野坂の浦ゆ 船出して 水島に行かむ 浪立つなゆめ」
とあり、景勝地なのだろう。
これは奈良時代の皇族・長田王が筑紫に遣わされて、水島(八代)に渡るときの歌で、歌碑がたてられている。
<感 想>
※葦北郡芦北町は、昔(2006年)研修事業で、県の(芦北地域振興局)普及指導員の女性が、芦北の特産です、と言って「葉付きのサラダたまねぎ」
を持ってこられ、見るからに美味しそうな生で食べられるタマネギ、とで印象に残ったのが 唯一の係わりだった(笑)
※九州農政局が熊本市内にあるので、昔局長を務めた知人Aさんに、”県内に寒川という姓はありましたか”、と聞いたら、
”寒川..居ましたね”、とのことだった。ひとまず 一安心した。
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(メ モ)
「沖縄辞書」は今の人には分からないだろう。
初期のPC(Window98)の漢字変換辞書には沖縄固有の姓・地名は入って無かった。
これだと仕事が出来ないので、事務所PCには沖縄辞書がインストールされていた。自分用PCにはダウンロードしてインストールした。
”びん”と入力して”保栄茂”が出てくればインストールOKだった。今は標準で入ってるので ”びん”を試してみよう。
3.始祖・佐銘川大主(生没年不詳)は、何時 琉球に渡ったのだろうか?
肥後佐敷の寒川姓の武士団(寒川党)は、何時 琉球に渡ったのだろうか?
折口信夫の説に従って当時の状況を検討する。
※佐銘川大主(?年-?年 ?歳) 仮に、1310年頃 肥後佐敷で誕生し、1344年頃 伊平屋島に渡り、1350年頃島尻佐敷に移り、1375年頃没した(65歳)、と考えてみる。 ※尚思紹(1354年-1421年 67歳) ※尚巴志(1372年-1439年 67歳) 14世紀代に、新たな交易路「肥後高瀬〜薩摩〜琉球〜福建」ルート(南島路)が利用される。 (南朝系倭寇、菊池水軍) 南島路が活況を呈し、海商や倭寇的な勢力が沖縄島に蝟集するようになると、そうした外来者の刺激を受けて沖縄の在地社会も変貌した |
< 主な出来事 >
1310年頃 肥後佐敷で佐銘川大主(寒川某)が誕生。(仮説)
1333年:鎌倉幕府 滅亡
1334年:建武の中興の功績により、名和長年の長子・義高が肥後八代荘の地頭職に任じられる。
1337年:後醍醐天皇が吉野に遷り、南北朝時代が始まる。 (1339年:天皇没す)
1342年:征西将軍宮・懐良(かねよし)親王 九州上陸(薩摩山川津〜谷山入城)
1343年:この頃 名和義高の義子顕長・顕興以下、懐良親王に供奉して八代に入る。手勢300余人。
1344年頃 佐銘川大主(寒川党)は佐敷を出航し、琉球・伊平屋島に渡る。(仮説)
伊平屋島には、「屋蔵大主」が佐銘川大主の父親という伝承が残っている。
八つの蔵を持っているので「八蔵大主」とも言われ、海商・肥後海賊との繋がりがある島の有力者と思われる。
佐銘川大主は、伊平屋島に渡った当初、屋蔵大主を頼ったので、そのような伝承が生じたと推察する。
1348年:懐良親王 菊池武光の肥後国隈府城に入城。
1350年以降、南朝方の倭寇活動が始まる。(南朝方は戦の恩賞として与える土地が無い為、また、征西府維持の為、交易で得た銭を財源とした。)
1350年2月、倭寇が大挙して半島南部を襲う (高麗史)
1350年:察度(さっと)が中山王に即位。
1350年頃 佐銘川大主(寒川党)は伊平屋島を出て、島尻・佐敷に移る。(仮説)
この頃、中城湾の対岸・勝連半島の按司は本土出身の望月氏(望月党)と思われる。
1354年:尚思紹が佐敷で誕生。
1358年:名和一族(義高の子・顕興)が八代に移住・土着。 古麓城が拠点。
1361年:懐良(かねよし)親王&菊池武光の南朝軍が大宰府に入る。九州が南朝(征西府)の支配下になる。
1366年:高麗から幕府に倭寇の禁止を求める使者が訪れる。
1367年:征西府&菊池水軍・松浦党などが高麗遠征。 軍船100艘、兵3000人 で明の水軍と戦う。(南朝方の軍糧確保が目的)
(菊池水軍は50艘の関船(軍船)を有していた。これは3本の帆柱で40コの櫓の船だった。)
当時は、元寇(1274、1281年)でモンゴル&高麗兵に蹂躙された記憶が生々しく、侵攻は統制がとれ、復讐の感情もあり士気は高かった。
侵略先は、収穫を終えて満杯になった国の倉庫群で、過酷な徴税で苦しんでいた現地人の手引きや収奪参加もあったという。
1368年:紅巾の乱の朱元璋が元を滅ぼし明を建国、洪武帝と称す。
1369年:中国沿岸部で倭寇が猖獗をきわめた為、
洪武帝は使節・楊載を派遣して「日本国王良懐」(懐良親王)に倭寇の鎮圧を求めたが、懐良親王は内容が無礼な為拒否。
(海賊を放置するなら明軍を派遣し海賊を滅ぼし国王を捕える、との高圧的内容で、使節団17名中5名を殺し、楊載を3か月拘留。)
明国は日本との交渉に失敗し、矛先を沖縄島に向けることになる。
1370年:再度 洪武帝は大宰府の懐良親王に使節を派遣。懐良親王は(戦費調達のために)入貢すると返事し、捕虜70余人を送還。
1371年:懐良親王は明に朝貢。明は懐良親王を「日本国王良懐」として冊封。
1371年:明は海禁令を出し、自由な交易を禁止。
1972年:洪武帝は日本国王(懐良親王)の朝貢に応じて冊封使節を送る(5月)が、大宰府が北朝に陥ち、冊封を伝達出来なかった。
1372年:南朝・征西府(懐良親王)は、今川了俊の九州探題勢に敗れ、10年余り支配していた大宰府を撤退。 九州南朝勢力の退潮。
南朝方のなかには、幕府の力の及ばない琉球諸島に根拠地を移す者も生じる。
1372年:明は使節・楊載を派遣して琉球を招諭し、「朝貢貿易」が開始されることになる。(中山王察度)。 →琉球の倭寇を朝貢貿易体制に組込む狙い。
交易品 中国産陶磁器 X 馬(琉球各地)、硫黄(琉球・硫黄鳥島)、日本刀(菊池城下? 肥後菊池の同田貫、ナイフの肥後守はそれにあやかって?)
朝貢初期から、硫黄や馬、刀などの軍需物質が交易品で、朝貢以前からそれらの流通・供給ルートが出来ていた。各地の按司たちが交易を担っていた。
1372年:明は倭寇対策として、浙江・福建沿海の9ヶ所の衛に命じて,海舟660艘を建造する。
後に琉球に下賜されることになる大型船は、この海軍衛所の所属船。
1373年:尚巴志が佐敷で誕生。
1374年:中山王・察度(さっと)が明に初の朝貢を行う。 馬、硫黄など。
1374年:明は市舶司(泉州・明州・広州)を廃止し,海禁を厳格化し倭寇に備える。
1375年頃 佐銘川大主は没する。(仮説)
1375年:明から刑部侍郎・李浩が派遣され,陶器約7万・鉄釜約1000をもって馬の購入を命じられる。
翌年、馬40匹・硫黄5000斤(約3t、1斤は約600g)を購入して帰る。
1379年:大規模倭寇が高麗慶尚南道晋州を襲う(騎馬700,歩兵2000人)。 当時の倭寇は軍馬を軍船に乗せていた。
1380年:南山王・承察度(しょうさっと)が明に初の朝貢を行う。
1383年:北山王・帕尼芝(はにじ)が明に初の朝貢を行う。
1383年:(琉球内で三国が相争っていることが報告され)洪武帝は使者を派遣して、三山各国に対し停戦を求める命令を下した。
1384年:明から内官・梁泯が派遣され、琉球の市で 983頭の馬を買付ける。 (琉球各地で交易用の馬の飼育が盛んになってる。)
明は建国初期は、馬の生産地(北部・済州島)がまだ元の影響下にあった為、軍馬不足に陥っていた。
その為、琉球など南部の周辺諸国から軍馬を調達した。琉球馬は小型だが軍務に耐えられた。
1384年:明は倭寇・海賊対策として、沿岸に城塞を建設する。
→ 築城技術が琉球に伝わり、高く積まれた石垣・アーチ門を特徴とするグスクが、琉球石灰岩を使って造営されるようになる。
1385年:中山王、南山王に明の大型船が下賜される。
明は、倭寇活動を、管理朝貢貿易体制に封じ込む為必死で、大型朝貢船を賜与(記録では30隻に及ぶ)。朝貢業務を行う中国人も下賜した。
明初に琉球が使った朝貢船は全て贈与されたものだった。この朝貢貿易の莫大な利益に各按司は目を瞠り 涎を垂らしたことだろう。
1387年:明はこの頃、倭寇・海賊対策として島嶼・沿岸部住民の移住政策を実施。
1392年:倭寇の来襲で疲弊した高麗が滅びる。倭寇対策で功績を上げた将軍・李成桂が李氏朝鮮を建国。
1392年:足利義満は南北朝合一を行う。
1392年:明から閩人(びんじん:現・福建省の中国人)の職能集団が下賜される。(唐営の久米三十六姓)
1402年:尚巴志は(尚思紹の跡を継いで)佐敷按司に。
同年、有力な按司ー 大里按司を襲い滅ぼす。
→ 佐敷按司・尚巴志は、沖縄島の「倭寇船団の棟梁」になった。
大里按司は 「おもろさうし」で唯一、挽歌が捧げられるという特別な存在で、そこから、
『三つ巴紋が大里に出て来るのは、大里按司が三つ巴紋に象徴される八幡大菩薩の幟旗を掲げた倭寇の船団を掌握する者だったからではないか』と。
また大里は、九州から輸入の日本刀・刀身を、赤木の柄と 鮫皮の外装に整え、琉球刀として輸出していた産地だった。と推測されてる。 <追記1>
1404年:中山王・武寧(ぶねい)が明から初の冊封を受ける。「琉球国中山王」として。
1404年:明は足利義満を「日本国王源道義」として冊封し、日本との間で勘合貿易が始まる。
1405年:永楽帝による鄭和の南海遠征(第1次 〜1407年) 以降、第7次まで派遣。
1406年:尚巴志は中山王・武寧を襲い滅ぼす。 父である尚思紹を中山王につかせる。 中山王・第一尚氏王統のはじまり。
中山の首都を、浦襲(浦添)から首里に移す。
1414年:将軍足利義持、尚思紹へ「りうきう国よのぬしへ」の文書送る(『運歩色葉集』)
1416年:尚巴志は北山王・攀安知(はんあんち)を襲い滅ぼす。 その領土であった奄美群島南部(沖永良部島以南)を領土に組入れる。
今帰仁按司(北山王)が領有していた琉球唯一の硫黄産地・硫黄鳥島を手に入れ、最大の交易品・硫黄を確保した。
1419年:対馬,朝鮮の襲撃を受ける(応永の外寇)。
1419年:尚巴志は 暹羅(せんら、シャム:現在のタイ)との交流を開始
1439年没するまで、毎年のように計18回はシャムに使者を派遣している。
1420年:尚思紹から将軍足利義持に書状出す。
1421年:尚思紹は没する。 翌22年 尚巴志は中山王に即位。
1425年:尚巴志は20,000斤(約12t)もの大量の硫黄を明に献上。
産地・硫黄鳥島が中山王の直轄地になったことが窺われる。
1428年:明は使節・柴山を遣わし、尚巴志を「琉球国中山王」に封じる。
巴志は寒川姓を捨て、中山王「尚」姓を名乗る。
1428年:尚巴志は パレンバン(現在のインドネシア)との交流を開始
1439年に没するまでに 3回使者を派遣している。
1429年:尚巴志は南山王・他魯毎(たろまい)を滅ぼして三山時代に終止符。 琉球王国(第一尚氏)の誕生。
1430年:尚巴志は ジャワ(現在のインドネシア)との交流を開始
1439年に没するまでに 2回使者を派遣している。
1436年:足利義教,尚巴志に進上物の礼状送る。
1439年:足利義教,尚巴志に進上物の礼状送る。
1439年:尚巴志は没する。
※倭寇船団の棟梁が三山を征服して初代の琉球国王となり、その倭寇を朝貢貿易の優遇により取り込もうとする明の思惑が一致し、
両者のウィン・ウィン関係で その後、琉球は「大交易時代」へと進んでいく。
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<追記 1>
大里按司が倭寇船団を掌握する者、ということは、大里按司は大和から渡琉してきた武士ということになる。
「名字由来net」で大里姓を検索すると、沖縄県:約350人、熊本県:約200人で、熊本県内では(玉名市の隣)玉名郡南関町が一番多い。
玉名市は、南朝方・菊池氏の本拠地で、交易南島路(肥後高瀬(玉名市)〜薩摩〜琉球〜福建ルート)の拠点で、菊池水軍の根拠地である。
大里按司は、菊池出身の菊池水軍とも関係のあった大里氏と考えられる。九州(菊池)から日本刀・刀身を輸入し琉球刀に仕立てた、説も納得。
更に、勝連按司だった望月氏も、玉名市の菊池川下流に望月姓があるのでそこ出身かと思われる。
鎌倉武士の装束がおもろで謡われた知花按司は、大和名を「立花」姓と大胆に仮定すると、熊本中心に菊地、玉名、八代にその姓が見出だせる。
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→ 鮫川大主(寒川党)が、1340年前後に肥後佐敷を出て伊平屋島に渡り、その後 島尻佐敷に移った、と考えることは可能である。
ただ、名和氏の配下の者だったかについては 確証は無い。
→ 折口信夫は、肥後国葦北の「佐敷」を出た名和の支流は正平(1346〜)・応永(1394〜)の間に渡琉して佐敷に住み着いた、としている。
つまり1346年〜1394年の間に佐敷を根拠地にした、と。
私は仮説で1350年頃としており、折口説を裏付ける結果になった。
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⇒ コラム 伊平屋島と第一尚氏 (2021.12.12追加)
⇒ その後の「琉球国王のルーツをさぐる」: 第一尚氏王統の滅亡 (2022.01.12追加)
<後 記> 中国と朝鮮では王朝が交替。日本では南北朝の動乱。この激動の時代に、東シナ海の交易の根拠地を求め、故郷を旅立った武士たちがいた。 新天地で永住を覚悟し、その地を「佐敷」と呼び、勢力を拡大していった第一尚氏がそうであった。 今は「佐敷ようどれ」に(佐銘川大主、尚思紹は)静かに眠っている。 佐敷の史跡を訪れてから、長年気になっていた彼らのルーツについて、推論をまとめてみた。 おもろさうしでは、国王のことを「聞え按司襲い」「鳴響(とよ)む按司襲い」など、「按司襲い」という異様な言葉を使っているのに驚かされた。 美称辞の「襲い」が付くことで、勢力争いが激しかった世の中であったことが想起される。 三山時代は、交易の権益をめぐっての按司間での争いが激しかったのだろう。 (2021/10/31) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 渡琉してきた倭寇的な武士団は、在地社会に刺激を与え変化を促したが、触媒の働き、存在であって、その後在地社会に吸収されてしまった。 勝連按司の望月氏が在地の阿麻和利に滅ぼされ、第一尚氏が在地の第2尚氏に滅ぼされた、は典型である。 このことは、縄文人の核DNA分析で初めて分かった、『琉球の集団の方が、本土の集団より縄文人の遺伝要素を多く残す』でも明らかだ。 琉球は、本土からの渡琉人により遺伝要素が本土化した事実は無い。渡琉人は少数であり、彼らは在地人に吸収された。 (2021/11/09) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 「三山と三山王」と後世『中山世鑑』に記録されたが、実態は比較的大きな三つの勢力とその首領の按司のことで、王とは言い難い存在だった。 しかし、倭寇勢力を朝貢貿易体制に組込むためには、皇帝と臣下の王、という形式が必要で、明は勢力のある按司を王として扱い冊封した。 冊封は、王国としての認知ではなく、倭寇封じ込め策の一環だった。琉球王国は明によって、倭寇懐柔のために造られた国だった。(2021/11/16) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 折口信夫の推察力には恐ろしさを感じる。しかし、この仮説には最後のピースが欠けている。 大和の佐敷に、『昔ここの武士たちが琉球に渡って行った。』という伝承とか、『琉球から寺社に先祖を供養して欲しいと寄進があった。』 という記録が残っていれば、仮説は完成する。そういったミッシング・リンクが発見されることを願う。 (2021.11.22) |
トップに戻る | 2021年1月12日 宇田川 東 |
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