第一尚氏の成功は、三代にわたって傑出した人物が輩出したことにあるが、根拠地・佐敷の地が(おもろさうしに称賛されるように)
 見事な美田が広がり、(二期作?にもよる)豊かなコメの生産力が背後にあるから、と考えられる。
 それには、台風被害を避ける早生栽培のノウハウ、鉄製農具の普及、現地の人心掌握、が無ければ実現不可能で、肥後佐敷から来た寒川武士団が、
 一朝一夕に出来ることではない。最初の上陸地・伊平屋島での 6〜8年に渡る経験があってのことに相違ない。

 と、言う事で 伊平屋島での寒川党の状況を推察してみることにした。





1.伊平屋島の印象と思い出

伊平屋島は、本島の最北端にあり、沖縄の離島では珍しい 山が連なり、水が豊富で、水田があり、お米が採れる小さな島です。
北からタンナ岳(236m)〜後岳(231m)〜朝岳(218m)〜腰岳(227m)〜賀陽山(294m)〜阿波岳(212m)と200m級の山が続いています。
田名集落、前泊集落、我喜屋集落、島尻集落、野甫集落があり、人口は約1400人。


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私は2000年5月4日〜7日の間、ダイビングで訪れ、4日間 海と島を楽しんで すっかり伊平屋島が好きになりました。
島をぐるっと一周して、念頭平松〜クマヤ洞窟(注1)〜久葉山&灯台〜西海岸〜米崎ビーチ〜野甫島などを見てまわりました。
島を廻って一番驚いたのは水田が広がり、稲作が盛んで、お米も美味しいと聞いた事です。

私は車で移動中で水田の写真を撮れませんでした。

この写真は「てるたまキング」からです。
https://www.okinawa41.go.jp/reports/7091


稲作は、今はサトウキビに転作され、減少とのことです。
 山の麓に田んぼの広がる風景



私は、ダイビングサービスがある南の島尻集落に滞在しました。
忘れられないのは、ショップでのバーベキューでした。(この店は、ご主人は漁師で船長、ガイドは本土人のゆーすけ君でした。)
この日、高校生の息子さんが沖にサザエ採りに行き、籠いっぱいにサザエ(沖縄のサザエは小さい)を採ってきました。

 海べりのダイビングサービス

 ショップ内部(マスターとガイドのゆーすけ君)

 海に臨んだ バーベキュー会場  ショップ下の浜辺。(干潮)

バーベキューは肉や野菜もありますが、サザエ好きの私はサザエを食べまくりました。が、10個近くなるとさすがに満腹で、結局1ダースほどを食べました。
”サザエは好きなだけ食べて殻はどんどん海辺に捨ててください。ヤドカリの巣になります”、とご主人。 最高に贅沢で満腹したサザエ日和でした。



島尻集落は美しいカーブを描く阿波岳の下で、石積みの垣根や、神アシャギや鳥居と神社など、琉球の伝統と大和の影響が混ざり合っていました。

 南部の島尻地区。(阿波岳のカーブが美しい)

 集落内は、ガジュマルと石垣が 昔の沖縄の風景を残している。

 古くからの習俗の神アシャギ  大和の影響か? クバが茂る鳥居と神社(島尻神社)



※注1: クマヤ洞窟 は『奇岩三題』の三題目で印象を記しています。



2.佐銘川大主(寒川党)が来た当時は?

1340年代当時の人口は見当もつきませんが、今の人口1400人の 1/4 程度だったかも、と仮定してみます。
すると人口は350人ほど、70〜80戸程度。
我喜屋地区に唯一の集落があり水田で稲作を行っており、他地域では、漁労を中心とした小さな集落がポツリ、ポツリと点在していたのでしょう。




3.伊平屋島の伝承では?

幾つかの伝承で細かな差異はありますが、共通するのは、土豪と思われる登場人物は、屋蔵大主とその子の佐銘川大主(鮫川大主)の二人だけです。
屋蔵大主は我喜屋に屋蔵墓があり、この地を領地として水田稲作をし、訪れる海商とも交易を行い 財をなしていたことがわかります。
佐銘川大主は屋蔵大主の子では無く、肥後佐敷から渡琉してきた寒川党とわかってます。島に来た当初は屋蔵大主に世話になったから親子の伝承になったのでしょう。

佐銘川大主(寒川党)は、田名地区に入植し、水田を開墾して稲作を始めたと推察できます。そして、稲作と船で交易に出かけて勢力を拡大していったのでしょう。
水田は、自然発生的な古いタイプの水田(注2)で、水源近くには大和の影響の鳥居と神社が鎮座しています。これは我喜屋でも同じです。

上の黄色楕円
 寒川党が入植・開墾したと思われる 田名エリア



下の黄色楕円
 屋蔵大主の根拠地の我喜屋エリア



そして、集落の背後にある後岳の頂上部(標高180m)に 田名グスクを築城し、そこを住居としています。
また、沿岸部の岩礁・ヤヘー岩上に石積みをして砦(ヤヘーグスク)にしています。
(グスクについては、資料『伊平屋島内のグスクに見られる石積みの形態と構造について』を参照。)

  鳥居と田名神社と、背後はグスクのある後岳(資料から)    田名グスクの南東側の石積み(資料から)


田名グスクの縄張り(資料)は大和の山城の縄張りで、山城は在地社会には無い発想で、渡琉してきた武士団によって築かれたものに間違いはないでしょう。
佐銘川大主が屋蔵大主の子とすると、労力をかけてこのグスクをここに築造する意味が分かりません。
田名グスクは、”ここは寒川党の領地”との縄張り宣言です。渡琉してくる後続武士団にグスクを誇示し、縄張りを認識させ、無用な争いを回避したことでしょう。


田名グスクに係る文献史料は皆無とのこと。

伝承では(注3)、中国からの戦に備えるために日本本土の人が築いたとあり、
完成を見ずに伊是名島に渡り伊是名グスクを築いたとされている。


実際は、完成を見ずして、本島・佐敷に移ったからでしょう。


田名グスクからは、カムィヤキや中国産青磁の破片が出土してる。
 ヤヘー岩に築かれたヤヘーグスク(干潮時にのみ渡れる)



※注2: 自然発生的な古いタイプの水田は、国東半島・田染荘 小崎 の西叡山の麓の水田が思い出される。

※注3: この伝承が語る 「中国からの戦いに備える」、とは、倭寇の根拠地を滅ぼしに来る中国の軍船との戦いであり、
 私には、伊平屋島の位置が本島の北部であり、大和からの海商・倭寇の入口にあたるため、その方面からの脅威に対する備えと思えます。






伝承では、佐銘川大主は飢饉の年に住民の反乱にあい、伊平屋を去った、と言われてます。
そうなのか、ここは狭く発展性が無く、やはり本島でなければ、と見切りをつけて転進したのか、は定かではなく、両者だったのかもしれません。

いづれにしても、伊平屋島で琉球に合った水田稲作のノウハウを学んだことが、本島・佐敷で生かされた、と考えるのは自然でしょう。
おもろさうしに称賛された佐敷の美田は、寒川党が(伊平屋島の経験技術で)荒地を開拓して作り上げたものでしょう。
佐敷・馬天原にあった佐銘川大主の住居・ヤマトバンタには、伊平屋島を遙拝する伊平屋神の拝所がありました。
このことからも、佐銘川大主にとって、伊平屋島での根拠地づくり(6〜8年)が如何に重要な経験だったか、が見て取れます。

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ざっと調べた限りでは、三山時代の本島の農業は、畑作によるアワ、ムギが中心で、水田稲作は適地が少なく、限られた場所だけだったようです。
その代表は、北山エリアの羽地や島尻の佐敷で、そこの按司は 経済力のある有力按司(羽地按司、佐敷按司)になりました。
王朝時代に入り灌漑が進むと、宜野湾や金武のような、現在の田芋の生産地が稲作に入ったと推測できます。   (2021.12.25追加)


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寒川党は、(折口説のように)肥後海賊と深い関係があり、彼らの情報・人脈を基に計画と準備がなされ、伊平屋島に渡琉したのでしょう。
「屋蔵大主」も肥後海賊と関係がある人物で、寒川党の入植・交易を事前に了解しており、現地で便宜を図った、と推察しています。 (2022.1.18追加)

※屋蔵大主(八蔵大主)の姓をチェックしてみました。
@やくら、やぐら という地名・姓は沖縄辞書には無い。→ 大和名かも知れない。
Aビッグデータで検索すると → 屋蔵・八蔵という姓は登録なし。→ 実在しない姓。
B似た姓が変化したのかも。と、類似名を調べる。
 矢蔵 という姓は登録なし。 
 家蔵 は全国10人ほどで石川県に見られる。
 屋倉 という姓は登録なし
 八倉 全国380人ほど 九州・沖縄には無し
 矢倉 全国5000人ほど 熊本は10人ほどで(佐敷の北に隣接する)八代市に見られる。
 家倉 全国230人ほど 九州・沖縄無し
⇒「屋蔵大主」の出自は謎です。八代の矢倉姓が出自なら(佐敷の隣で)興味深いですが、現在は人数が少なく..どうでしょうか?
  加えて、母親がその矢倉の出だったら、屋蔵大主は佐銘川大主の叔父(または祖父)で ほぼ伝承通り になるのですが..(笑)
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資料: 伊平屋村のPR動画
    おさんぽ伊平屋

本編: 『佐敷から 琉球国王のルーツをさぐる
雑感: その後の『佐敷から 琉球国王のルーツをさぐる』について



backtotop.gif (3095 バイト) 2021年12月12日  宇田川 東