「琉球国王のルーツをさぐる」を終えましたが、その後もツイッターでしばらく感じたことを呟いてました。 そのツイートをまとめ、また「新事実」なども見つかり、加筆もしてみました。 |
⇒ 第一尚氏王統の滅亡(メモ) へ飛ぶ
⇒ 人骨のDNA分析で「西ヨーロッパ・中央アジア 由来」(南部・玉城「神座原古墓群」) へ飛ぶ
運天港 | 運天港 2000.05.04撮影 |
百曲りと呼ばれた曲折した城壁 →最新の今帰仁城の動画 (2022年2月 沖縄タイムス) 修復中の背後の城壁〜正面の百曲り、正門(平郎門) |
最期の今帰仁城主・攀安知(はんあんち)の気分になって。 背後の海は、交易船が行き来した海。 2013.12.20撮影 ボランティアガイドさんのお勧めで撮って頂いた。 |
この激戦の勝利を、正史『中山世鑑』はこう結んでいる。
『偏ヘニ中山王ノ徳天理ニカナヒ御座ケルニ依テ 天ヨリ與ヘ給ヘヌラントソ人々申令レケル サテコソ琉球國又一統シテ目出度御代ニハ成リテケル』
今帰仁は『おもろさうし』では『みやきせん』と表記されている。
広報なきじん によると昔は今泊や天底にも馬場があったと。
『坑球諸島航海日誌』(1614〜15年)に沖縄の競馬が記されてるが、それ以上は文字資料の少ない沖縄では遡れない。
馬場を造るのは普通の事では無いので、仲原馬場は北山王の今帰仁城時代まで遡れると考えている。
この当時、八重山諸島では ..
フルスト原遺跡 『眼下に宮良湾を望む標高25m前後の石灰岩丘陵上にあります。 指定面積は、12.3ha。 敷地内には、屋敷囲いの石垣や、古墓、御嶽などがあります。』 外敵から村を守るためで、600年程前の集落跡と。 600年前は、海からの侵略の危険がある乱世だったようだ。 |
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今も島には6つの御嶽があり、 島民はそれぞれの御嶽の氏子となっている。 |
第一尚氏の成功は、三代にわたって傑出した人物が輩出したことにある。 ・始祖の佐銘川大主は、肥後佐敷〜伊平屋島〜島尻佐敷と渡琉を実現し、一族の基礎を築いた。 ・二代目の尚思紹は、根拠地・佐敷の地を栄えさせ、富国強兵に努めた。 ・三代目の尚巴志は、按司たちの信望を集め、琉球三山の統一を果たした。 |
尚巴志が滅ぼした大里按司の「島添大里グスク」。 丘陵上の典型的なグスクだ。 |
海に面した斜面には石を貼り付け(貼石状石列)土留めとしている。 この為、海を通る船上からは、丘陵の中腹を囲む石積城壁のように見えただろう。 この地は琉球石灰岩が産出しないため、土の城となった。 |
寒川党の築城ノウハウの源は 肥後芦北の佐敷城なので、それはどんな城か調べた。(熊本県の中世城跡.pdf p273)
(現在の佐敷城跡は近世・加藤清正の築城で、中世の城は「佐敷東の城」。)
「佐敷東の城」は標高161m(下の集落から約155m)の山城。
長い尾根上の約50m間隔の3つの小山の頂上部を切り崩して、下から 本丸、二の丸、三の丸にしていた。尾根に大きな堀切がある。
田名グスク(標高180m)はこの山城に似てるし、佐敷上グスクの郭の造成も似ており、両グスクは寒川党の築城、と考えても違和感は感じられない。
むしろ、田名グスク・佐敷上グスクは寒川党により築城された、まだ大和の影響が強く残ってるグスク、と云えよう。
渡琉時期の推定により、田名グスクは1340年〜1350年頃、佐敷上グスクは1350年〜1370年頃と、三山時代で唯一「築城時期」が特定出来るグスクだ。
第一尚氏の居城は、伊平屋島・田名グスク 〜 佐敷上グスク 〜 島添大里グスク 〜 (浦襲グスク) 〜 首里城 と推移した。
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要旨は
・グスク時代(11〜15世紀)の人骨のほとんどに、本土の中世(鎌倉〜室町)人と見られる人骨が出土している。
・今帰仁で発見されたグスク時代の26体の男女人骨のうち、男性は、大柄で屈強な体つきで、これまで発見された沖縄のどの時代の人骨とも違っていた。
⇒「琉球国王のルーツをさぐる」で展開してきた 本土からの渡琉武士の仮説が、人類学から 裏付けられた。
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琉球国王のルーツ探しは中国文献では無理。人を捜すには それにふさわしいツールがある。
今回は、ハードボイルド探偵が、わずかな手がかりから人探しを依頼された時に用いる、人名データベースからの探索だった。
そして、第一尚氏の太祖は 大いなる眠り から醒めた。
第一尚氏王統の滅亡(メモ) 第一尚氏の最後は むごたらしい悲劇で終った。 第二尚氏はそれをひた隠しにしたが、現地(知念半島の村々)ではまだ、第一尚氏の頃のほとぼりが感じられた。(琉球王権の源流 谷川健一 2012) 第一尚氏王統は、尚思紹(1406年)から7代続いた後、クーデターにより 1469年に滅亡する。 7代63年間だった。
第7代尚徳王の世に、臣下 金丸(55歳)が、主君 尚徳王(29歳)を毒殺し、王権を簒奪した。(注1) (謀反人 金丸は第8代尚円王と称し 第二尚氏王統の始祖となった。) ・尚徳王と共に、王妃と、7,8歳を越えた幼い長子 佐敷王子と乳母も殺害された。(注2) ・尚徳王の姉の百十踏揚(ももとふみあがり)と、弟の八幡加那志は 玉城村へ逃げ隠れた。 ・王家の忠臣である百十踏揚の夫・鬼大城(越来賢雄)は金丸軍によって知花城で殺害された。(百十踏揚の最初の夫は阿麻和利) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 歴代王の遺骨は首里の天山陵にあったが、クーデターによる焼き討ち(注3)に遭う前に、旧臣らによって持ち出され遠隔の地に隠された。 ・尚巴志の遺骨は、忠臣(平田之子、屋比久之子)らにより読谷村伊良皆の佐敷森に(第3代尚忠、第4代尚志達と共に)隠され、今もそこに眠っている。 ・尚徳王の父 尚泰久の遺骨は、伊波の乞食墓に隠され、第二尚氏の目から逃れていたが、明治41年に玉城村の当山に改葬された。 ・尚徳王の遺骨は不明。那覇市識名に尚徳王御陵跡があるが、実際は不明。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 クーデター首謀者 金丸は、伊是名島の百姓の出で、妻と幼い弟(後の9代 尚宣威)を連れ首里に流れ来て、27歳で(6代)尚泰久の家人となり、 その後取り立てられ「御物城御鎖側」に任じられた。これは交易で得た宝物庫の管理と、王府の交易業務を担当する「貿易長官」であった。 職掌柄 久米村と最も親しく、彼らに擁立されたという解釈がある。 私は、金丸の若い正室オギヤカ(宇喜也嘉、30歳年下、尚宣威を半年で退位させ13歳の我が子を10代尚真に立てた)の強い影響があると感じている。(注6) 謀反の原因は、畢竟 朝貢貿易がもたらす巨額の利益の配分への按司たちの不満と推察する。 冊封王朝の交代は、手続きし宣言するものだが、李氏朝鮮と違って金丸がそれをしなかったのは「隠したい後ろめたさ」の為だろう。(注4) 酷いことに宝物や領地、首里城の他に、姓も家紋も乗っ取り 尚氏になりすまし、王統の簒奪は無かったと糊塗し、明に金丸「尚円」の継承を黙認された。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 第一尚氏と第二尚氏の確執は根深く、明治の琉球処分(1879年)で第二尚王朝が無くなってからも、 ・第二尚氏の子孫は、大正末年(首里城正殿を拝殿とする)沖縄神社(県社)創立の際、自分の祖先を神と祀っても第一尚氏を合祀することを拒否した。(注5) ・第一尚氏の子孫は、昭和13年(1938年 尚巴志王500年祭を機に)、佐敷上グスクに 一統をまつる「月しろの宮」を建立し、祭祀を続けている。
肥後から渡琉してその地位を切り開いた第一尚氏の太祖と、謀反によってその地位に就いた第二尚氏の太祖、 両者の格の違いには驚くばかりだ。 第二尚氏の成立経緯は、沖縄のその後に大きな負の影響を及ぼし、現在にまで続いている。 それは無意識に染みついた過度の中国崇拝である。 第一尚氏は「按司襲い」であった。実力で按司たちを支配していた。 明の皇帝から琉球国王として冊封されたが、それは実力を認められ、倭寇活動を行うより朝貢貿易の方がはるかに利益が大きかった為であった。 第二尚氏は「按司襲い」では無く、謀反によって「国王」を簒奪した。簒奪した権威を支えてくれるのは、中国皇帝の認可しか無い。 この為、冊封による「中国の権威への依存心」が強まり、中国こそ権威の源泉・文化の源泉という、中国至上の考えが王国内に広まった。 これが、第二尚氏の背負った(権威を中国に頼り、自立心が希薄な)負の遺産であり、現在の沖縄の知識人の間にも影響を与えている。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 注1:中山世鑑では「29歳にて薨じ給ひける」とだけ記されている。 毒殺説は、富村真演「尚円王考」、村井章介「古琉球」。 正史は「王、暴虐日に甚しく、金丸諌むれど聴かず」と。又金丸はクーデターを知らず、王位就任を固辞したが強い要請で推戴された、と記している。 注2:クーデターは、国王が亡くなり、幼い王子を後継者に立てるため(首里城正殿前の御庭で)群臣を集めた場で挙行された。 「中山世鑑 巻四」によると、 『その場に何処からか白髪の老人が進み出て、先王の尚徳は自暴自棄の者で...民を虐げた暴君であり... 天が悪を善に転じよとの機会なれば、早く世子を殺して、徳のある金丸を立てるべき、と煽動した。群臣一同は頷き、その声は四方の山に響き渡った。 世子は7,8〜10歳で 乳母に抱きかかえられて王妃と共に(城内の聖域「京の内」のなかの)真玉グスクに隠れた。 武士たちはそれを追って、三人を絞殺し 棄てた。』 と記されている。 →正史通りだとすると、当時の人々は『早く世子を殺せ』の扇動で、嬉々として人殺しを容認するような野蛮人になる。それも幼子殺しの。 それとも 群臣の中に誰かに命令された者達が居て、扇動者に呼応して追跡し、聖域内で殺害した、と考えるべきか? 記述からは(いくら隠そうとしても)世子が人前に出て来る機会を狙っての、周到に仕組まれた殺人、という冷酷な意志を感じる。 これは臣下・金丸によって仕組まれた、主君一族抹殺の謀反クーデターに間違いはない。(2022年12月13日) 注3:天山陵の焼き討ちは、琉球王国を建国した尚一族の先祖を抹殺する、許しがたい非道な行為であった。 天山陵は、第一尚氏の関係者と文化保護団体らによる、再三にわたる要請にもかかわらず、文化財には指定されず、私有地となっている。 対照的に、(約500メートル離れた場所の)第二尚氏の陵墓・玉陵は世界遺産に指定されている。 (2022年4月5日) |
注4:
王朝交代については、尚巴志が中山王武寧を攻め滅ぼして、父思紹は武寧の子、と明に詐称したが、これは三山時代の背景があってのこと。
朝貢貿易は北山、南山も認められ大型船も下賜されており、尚巴志が中山王統の継続を装わないと新規参入は困難で、利権が他山に移る可能性があったからだ。
統一王国成立後の金丸時代では、手続きさえすれば(他に対象が無いので)、新しい王朝の冊封が受けられた。高麗から李氏朝鮮への前例もある。
明が琉球に対して、王朝交代を理由に朝貢貿易を禁止することはあり得ない。倭寇時代へ逆行してしまうからだ。
正史が語るように、金丸はクーデターとは無関係で人々から是非王にと推戴されたから、と明に納得してもらい新王朝を開設すればよいだけ。
もっとも、「首謀者のいないクーデター」などは 古今東西 聞いた事がないが(笑) (2022.04.14)
注5:大正14年(1925年)に、首里城跡に、荒廃し解体予定だった正殿を大規模修理し、それを拝殿とした沖縄神社が造営された。
祭神は第二尚氏の始祖金丸尚円王らで、正殿を創建し、琉球王国を建国した(第一尚氏の)始祖尚巴志は祀られていない。何故か異様に感じられる。
注6:オギヤカには謎が多い。20歳のとき50歳の金丸に嫁いだが、(王妃・側室は通常出自が伝わっているが)誰の娘か不明である。
私は金丸に嫁いだ時期から考えて、御物城御鎖側役(貿易長官)であった金丸に、久米村から提供された中国人娘だったのではないかと勘ぐっている。
久米村は金丸を支援するので、手を組んで将来に当たろう、という証かもしれない。
(神人)渡久地十美子著「宇喜也嘉の謎」には、神がかりで聞いたとされる事柄が色々と記されているようだが、入手できていない。
禁忌となっている秘事は文書では出てこなく、秘かに語り継がれて、神人の言葉として現れることがある。
金丸は(オギヤカとの間に子を成した程で)先妻との間に男子が居てもおかしくないが、その男子と糟糠の妻の運命、の悲惨な伝承も語られてると。
(2022.12.05)
2022年4月11日
やっぱ なりすまし は許せない。
しかも朝貢貿易の利益大事に目が眩んでの、国をあげてのなりすましとは驚く。なりすまされた側が可哀そうだ。
琉球王国の国王は、「尚氏」と「なりすまし尚氏」からなるが、第一、第二と番号をつけてるので なりすまし感が欠如してる。
番号でなく、ここは、 寒川尚氏 1代〜7代、 金丸尚氏 1代〜19代、と呼ぶべきだろう。
寒川氏は定着に時間がかかるので、尚氏、金丸尚氏とすべきかな。いずれにしても番号は変だ。
冊封側の中国ならば尚氏だろうが、ここは日本なので実態に合った呼称が基本。
2022年4月18日
金丸の謀反について、その心の内にわけ入ってみよう
私は按司の出身ではなく領地は無い。先代から賜った内間領は一代の功績によるもので、私の死後は 捨扶持を除いて国王に没収されるだろう。
我が子はまだ4歳で、行く末について若いオギヤカから 早く手を打てと 夜毎に迫られている。
地位を利用して久米村と結託して交易の利益を簒奪してたことも 新国王にはそのうち露見するだろう。
これまで有力按司たちには、過分の付け届けを怠ったことはない。
今なら、現国王への不満分子の按司たちを集めたり、長い付き合いの久米村の商人たちの支援が見込まれる。
私も年だし、この際 思い切って...
2022年4月20日
「王殺し あるいは 国王弑逆」の世界事例のなかでも、臣下 金丸による「琉球国王の王殺し」は 最も非道なケースといえる。
王殺しは通常、身内による継承がらみがほとんどで、臣下の王殺しには新王朝を開くケースもある。
しかし、王朝を乗っ取って なりすますケースは例をみない。しかも、乗っ取った王統の祖先の陵墓を破壊してまでは。
事実を改竄し、正史では金丸の謀反は無かったとし、尚氏の遺族を弾圧して真実を秘匿し、琉球処分までの410年間世の中を欺いてきた。
勝者編纂の正史教育の為、むごたらしい真相を知る人は今もわずかだ。まさに世界の王殺しのなかでも ギネス級の残虐さだ。
2022年4月22日
「百按司(ももじゃな)墓」遺骨の返還請求訴訟の結果が 4月21日に出た。 返還請求は棄却された。
原告5人のうち2人は、第一尚氏の子孫だった。
「百按司墓」は、 第一尚氏の遺族の墓であると正史「球陽」巻二に伝えられている。 当然、遺骨は「百按司墓」に返還されなければならない。 ← 沖縄タイムス(2022年4月16日) |
私は、遺骨の返還の是非で終らせず、その背後にある、
「ここに遺骨を隠さねばならなかった」第一尚氏一族の、琉球正史から隠されてきた悲劇の実態を
広く知ってほしいと願う。
北山を滅ぼした(1416年)尚巴志は、次男の尚忠(後の第3代王)を北山の監守とし、以降一族の子弟が今帰仁の監守として封じられていた。
金丸の謀反(1469年)で尚徳王が殺害され、遺臣が今帰仁に逃れ、監守の一族と共に、彼らの墓は金丸らの追求から逃れて隠されねばならなかった。
「球陽(1745年)」によると、『墓の中には骨が多数あり、木棺が数個残っていてその中に骨が収めてある。木棺の作りは美しく、そこにみな、
巴の字の金紋を描いてある。やや新しい木棺には、弘治13年9月某日(1500年)と書いてある。
これから推して、尚徳王の遺族は尚真王の時代に老い、
死んでしまったのであろう。』と、「球陽」は言う。
王の遺族のもっとも年少者が、金丸謀反の31年後のこの年に死んだ。
崖の中腹の岩陰に墓が作られ、木棺に遺骨が眠り、「百按司墓」と祀られていたのは、(第二尚氏の追求から逃れる)第一尚氏の遺族の隠された墓だった。
そして第一尚氏一族の悲劇は、現在もまだ続いていることが、今回の一族の遺骨の裁判で知られることになった。
「百按司墓」26体の遺骨は、(2022.2.18付)朝日「今帰仁で発見されたグスク時代の26体の人骨」(本土の中世人と見られる人骨)と同じ遺骨か?
もし同じなら
百按司墓の26体の男女の遺骨は、(沖縄の在地人の骨格と違って)本土の中世人の男女の遺骨となる。
百按司墓は第一尚氏の墓なので、第一尚氏は 本土の中世人となり ⇒ (南北朝時代に)肥後佐敷から渡ってきた寒川武士団 の仮説が裏付けられる。
2022年4月25日
沖縄2紙の「百按司墓」訴訟の報道 は対照的で、琉球の歴史を今に引きずっている感がする。
・百按司墓について ⇒ 新報は「風葬墓」、タイムスは第一尚氏の一族らをまつる「百按司墓」
・原告について ⇒ 新報は、「子孫に当たる住民ら」、で「第一尚氏」という言葉は社説には一語も出さない。
タイムスは、「判決は、原告の一部を第一尚氏の子孫と認めた」、と第一尚氏を出している。
琉球新報は第二尚氏の尚順(最後の国王・尚泰の四男)の創設で、(始祖金丸の謀反に由来する)第一尚氏の子孫の事は、今でも意図的に隠したがるようだ。
・琉球新報社説(2022.04.23) https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-1506159.html
・沖縄タイムス社説(2022.04.23) https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/947367
2022年5月21日
ビッグニュースが飛び込んできた。
沖縄南部・玉城富里「神座原古墓群」の78体の人骨で、石厨子にあった人骨3体のミトコンドリアDNA分析を行ったところ、 1体からは沖縄を含む日本、1体からは西ヨーロッパ・中央アジア、1体からは朝鮮半島 に由来するミトコンドリアDNAが検出された。 この3体は、琉球王朝前期(1400〜1600年代)の男性の遺骨と。 |
このニュースには正直 驚いた。
@この南部の地は、第一尚氏一族が、金丸の謀反(1469年)により逃げ、隠れ住んだ地。
玉城富里は、殺害された尚徳王の姉の百十踏揚の墓があり、近くの當山には弟の八幡加那志の墓がある。
石厨子の3人は、第一尚氏(尚徳王)と親しく関係していた外国人だろう。
Aこの時代(6代尚泰久、7代尚徳王)は、万国津梁の鐘を造り、マラッカ王国に使者を派遣して交易を始める(1463)等、交易を更に拡大させた時代。
西ヨーロッパ・中央アジア由来の人物は、イスラム系のマラッカ王国から来て、交易のために王家に仕えていたマラッカ人の可能性が高い。
彼は何故、(殺害された尚徳王の遺族と共に)南部に逃げたか?
<私はこう考える。>
・金丸の謀反は、開明派(第一尚氏)と保守派(金丸尚氏)の抗争だった、と。
第一尚氏は、沖縄島の倭寇の棟梁であり、交易を求めて渡琉してきた気風も残っており、国際的な交易の拡大に積極的だった。
・尚巴志は、東南アジアとの交流(1419年暹羅(せんら、シャム:現在のタイ)、1428年パレンバン(現在のインドネシア))を開始した。
・その後、万国津梁の鐘を造り、尚徳王は奄美を支配し北方交易を拡大し、マラッカ王国に使者を派遣して南方交易を始めた(1463年)。
若い国王尚徳は、祖父・尚巴志に倣って 更なる交易の拡大を志向していたのだろう。
第二尚氏の祖・金丸は農民の出身であり、事務官僚として出世を遂げ、久米村と密接な関係にあった。
久米村の商人は、中国との朝貢貿易が主体で、王国の交易網が華僑ネットワーク外に拡大することは、利益が脅かされることで反対だった。
(奄美、)マラッカ、更にマラッカの西方などへの交易拡大は、ライバルの新出現となり、これは阻止せねばならなかった。
(西ヨーロッパ・中央アジア由来の)マラッカ人は、久米村の中国商人とは対立した ライバルとなる立場に居た。
従って、金丸クーデターに際して、王の顧問として身の危険を感じ、第一尚氏と行動を共にしたものと推察する。
もう一体の朝鮮半島系の人物も同じだろう。第一尚氏は、交易の為に外国人顧問を重用する開けた王政だったようだ。
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想像を逞しくすると、石厨子にあった人骨3体は、マラッカ人、元高麗人、博多商人 の交易顧問だったかも。
尚徳王は、国際的な中継港として繁栄していたマラッカ王国の情報を彼(マラッカ人顧問)から聞き、マラッカ王国のイスラム・ネットワークを利用した
西方イスラム諸国との交易を、具体的に検討していたのかもしれない。
(マラッカ王国は1511年 ポルトガルによって滅ぼされた。)
海洋性気質の尚徳王と、島の農民気質の金丸とは、「リスクを伴う広い世界への夢」と、「久米村と組んだ既存利益重視」という考えの違いが大きすぎた。
正史では尚徳王を悪者扱いにしているが、それは金丸正史に都合よく事実を曲げたものだ。
今回のDNAの結果の新事実について、沖縄の歴史学者の見解を聞いてみたい。
疑問(5/23)
大交易時代と称されているが、それは第一尚氏の尚巴志、尚忠、尚徳が目指したもので、金丸の謀反により 志半ばで阻止されてしまった、のだろうか?
金丸と久米村にとっては、冊封下での明との朝貢貿易の促進が最重要であり、それ以外の交易先の拡大などは関心は薄かった、と思える。
大交易時代と云われる内容を拾いだした。(出典:琉球王国交流史・デジタルアーカイブ →「歴史年表」)
2代 尚巴志 在位(1422〜1439 18年)
・1419年 シャムへ使者を派遣 その後、毎年のように18回派遣。
・1428年 パレンバンへ使者を派遣。 3回使者を派遣
・1430年 ジャワへ使者を派遣。 2回使者を派遣
3代 尚忠 在位(1440〜1444 5年)
・1440年 ジャワへ使者を派遣 毎年のように4回派遣
4代 尚思達 在位(1445〜1449 5年) 使者派遣無し
5代 尚金福 在位(1450〜1453 4年) 使者派遣無し
6代 尚泰久 在位(1454〜1460 7年) 使者派遣無し 金丸が貿易長官として王を補佐した時代。
7代 尚徳 在位(1461〜1469 9年)
・1463年 マラッカへ使者を派遣 計5回
・1463年 スマトラへ使者を派遣 計3回
・1464年 シャムへ使者を派遣 計3回
※その後、第2尚氏時代に新たに交易開始したのは、3代尚真の時代にパタニ、スンダへの使者派遣。
@これを見ると、東南アジアとの交易拡大の基礎を築いたのは第1尚氏であったことが明白だ。
・シャム、パレンバン、ジャワ、マラッカ、スマトラとの交易を行っている。
A6代尚泰久を補佐していた貿易長官・金丸は、交易拡大には背を向けている。久米村との関係を優先してることが見てとれる。
B4代、5代、6代と東南アジア諸国への使者派遣は無かったのが、7代の尚徳王でまた、マラッカ、スマトラ、シャムへと活発に再開された。
久米村と、久米村と組んだ金丸にとって、これは早いうちに阻止しなければ、と危機感を抱いたのだろう。
感想(5/24)
最近の歴史は、文献・考古学資料・神話伝承に加えて、DNA解明による「吃驚する発見」が加わって、一段と興味深い。
今回の人骨のDNA分析での新事実は、王室には忠実な外国人ブレーンが居た、ということで、尚徳王のイメージが変化した。
金丸正史での暴虐な王とは異なり、顧問団を擁し、世界を相手に交易する琉球を築こうとした英明な国王、という面が、判明したことは喜ばしい。
志半ばで殺害されたが、IFと想像すると、遥かなイスラム圏からの文物・ムスリム商人も多く集まる、世界に大きく開かれた琉球の姿が見られたはず、と残念だ。
2022年5月25日
神座原古墓群の石厨子に納められていた3人の人骨については、何らかの伝承があったハズ、だ。 また、神座原というフツーではない名称は、何かいわくがあることを暗示してる。 「土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム(DJM)」にDNA鑑定を依頼したのは、その伝承の真偽を確かめる為だったのでは? と考えた。 どんな伝承が伝わっているのだろう? |
第二尚氏の時代は、王国の海外中継ぎ貿易ではなく、 王権の安定化をめざした国内中心・朝貢貿易中心の時代だった。 |
『琉球国王尚氏は、1470年からおよそ400年にわたり琉球を治めました。』
これ↑は 国王を弑逆した謀反人・金丸尚氏からの治世で、史実とは異なる嘘である。
琉球王国の成立は、尚氏(第一尚氏)の1429年から が正解で、教科書にも記載されてる。
あまりに初歩的なミスであり、恣意的にそう記した、としか感じられない。
< エピソード: 尚円王金丸のアザ >
クーデターで金丸の王位就任を推挙した人物に、泊村の住人・安里大親(アサトウフヤー)が居る。
彼は、金丸の足に金のアザがあり、容貌が常人とは異なり偉人相なので推挙した、と語る。
クーデター後、金丸により安里村の地頭職に取り立てられた。
私見 第一尚氏と第二尚氏の違い 第一尚氏 海商たちが築いた王国。 交易の拡大が彼らの存在基盤なので、アジアの架け橋といわれる中継貿易により、第一尚氏は王国の繁栄を招いた。 自主・独立心が旺盛。中国との冊封関係も、朝貢貿易の利益の為の手段でしかなく、沖縄島の「按司襲い」の権威が存在基盤となっている。 第二尚氏 王国ではなく、国王一家の維持・繁栄が目的だった。(玉陵には、金丸と妻オギヤカの血を引く者のみが許される、と記した石碑がある。) 農民出身の気風で、久米村と手を組んだ朝貢貿易に戻り、東南アジアとの中継貿易は姿を消していく。 クーデターにより王権を簒奪したため、その影響が第二尚氏の体質を規定した。 @クーデターで奪った権力は、クーデターにより失う恐れがあった。 その為、内政中心で中央集権化を進めることになった。 A謀反で得た王位で権威が全く無いので、王の権威を中国からの冊封とその儀式に頼り、中国の権威を必要以上に美化しそれに倣う国風になった。 これは、クーデターの後ろ盾となった久米村にも好都合だった。 B王権簒奪を隠蔽するため、第一尚氏を完全に抹殺する必要があり、彼らを迫害し続け、歴史から抹殺しようと企てた。 その影響は今も残り、天山陵の史的価値の無視、沖縄神社創立の内容、百按司墓の報道姿勢、琉球展などに見られる。 |
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