〜10 川井合戦〜
奥州勢を追い返した那須家であったが、安心は出来なかった。那須政資は軍議を開き、諸将の意見を求めた。
「こちらから攻めるべきだ。弱体化した奥州勢を攻め滅ぼす絶好の機会じゃ。」
と大関宗増は言う。しかし、
「奥州勢を攻め滅ぼすことが出来たとしても、こちらも無傷ではいられまい。それこそ、宇都宮忠綱につけこまれる。那須の地に誘い込んで討つのだ。」
と伊王野資勝は反論した。意見は二つにわかれたまま結論は出なかった。
しかし、翌年、つまり大永元年(1521年)になると、ある情報を入手した。これは一大事と、那須諸将が烏山城へ集まり、資房のもとで軍議を開いた。
まずは芦野資豊が口を開いた。
「それがし、那須の最北を守っておりますれば、白河方面の情勢をつぶさに調べておりました。すると、今度は岩城家が中心となり、那須攻めを計画していると
のことです。しかも、岩城、結城だけが敵ではございません。岩城常隆は宇都宮や小田にも頻繁に使者を送っており、昨年を凌ぐ兵力で押し寄せること確実で
す。」
「まことか?それは?」
資房が聞くと、伊王野資勝がつけ加えた。
「まことでござります。わしも芦野殿に情報を聞き、配下の者に探らせましたが間違いありませぬ。」
ここで大関宗増が進言した。
「それが本当であれば、山田城では持ちこたえること難しいであろう。」
「その通りじゃ・・・。あのような小さい城ではな。政資は烏山に入れ。」
「さすれば、敵は烏山を攻めることになりましょう。では、はさみうちにしてはいかがです?」
これは上川井出雲守安則の提案であった。
「それは良い!具体的には?」
「は!資房様には我が上川井城に入ってもらい、上川井、川井、熊田勢で守りまする。そして、敵が烏山城を攻撃したら、その背後をつきまする。」
上川井出雲守の案が通り、準備を進めた。
同年11月、岩城勢、結城勢が北から那須の地に侵攻した。また、宇都宮勢、小田勢も西から侵攻した。岩城勢は宇都宮などの援軍も含め3000の大軍と
なっていた。昨年、落とせなかった山田城を落とした奥州勢は勢いのまま、那須資房が500の兵で守る上川井城へ向かった。宇都宮勢、小田勢も上川井城へ向
かったのである。そう、那須家の作戦は読まれていたのだ。だが、ろう城の策も万全であったので慌てることはなかった。
10日間たっても上川井城は落城しなかった。しかし、大軍を目の前にして、上川井出雲守安則は資房に勧めて、夜中に城を全軍で抜け出し烏山城に入った。
岩城常隆は、資房の500の兵と政資の700の兵で守る烏山城を攻めたが、落ちなかった。そこで、緊急に軍議を開くことになった。
「岩城殿。これ以上、戦を長引かせるのは本意ではない。兵糧にも限りがある。上川井城でさえも10日以上かかったのだ。難攻不落の烏山城を落とすのには
数ヵ月、いや、1年かかるやもしれぬ。」
「宇都宮殿。よくわかっておる。しかし、ここで退けば、岩城家の面目は丸つぶれじゃ。」
「そうだ。結城家としても、先年の資永様の件もあれば、退いては笑い者になってしまう!」
そこで、宇都宮方の壬生家の軍師である壬生徳雪斎が進言した。
「それでは、こうしてはいかがでござろうか?もともと、那須資永様が殺されたのは、大田原家の策でありました。その大田原の資清はすでに追放されておりま
す。そこに妥協点を求めて和睦して下さい。岩城様も、資永様の件があって、結城家を支援したのが、那須との戦いの始まりであったはずですので、面目は保た
れるでしょう。」
壬生徳雪斎の進言が受け入れられ、さらに、岩城常隆の娘が那須政資へ嫁ぐことになり、その後、那須家と岩城家が争うことはなくなったのである。
その後の那須家はしばらくは平穏が続いた。那須政資と岩城常隆の娘の間には男子も誕生し、めでたい限りであった。山田城は修築し、那須政資は引き続き住
んでいた。那須資房と政資の子の高資は烏山城にいた。大関宗増は相変わらず、でかい態度で過ごしていた。また、宗増は政資の子の高資の養育係もしていたの
で、大関家の前途は明るかった。
宇都宮家では、忠綱が31歳の若さで亡くなってしまった。かわって叔父の興綱(成綱の弟)が家督を継いだが、ほどなくして子の尚綱に家督を譲ってしま
う。
この頃は、本格的な戦国時代とは言えなかった。織田信長が数年で誕生するといった時代で、これから本格的な戦国の世に突入するのである。
奥州勢と和睦した那須家にとって、油断ならない相手は宇都宮家であった。那須家の血を受け継いでいるはずの忠綱でさえ、上川井合戦では那須家の敵となっ
た。今の宇都宮家は那須家との血縁は相当薄いのである。
享禄4年(1531年)、不安は的中し、宇都宮家は小田家と共に那須へ兵を進めた。那須資房も近隣の将を集めて出陣し、氏家付近で争った。2日間にわ
たって激しい戦闘がくり広げられたが、勝敗はつかなかった。しかし、宇都宮方の氏家領は戦いのなかで、村々は焼かれ、焼け野原になってしまい、宇都宮家に
してみれば手痛い戦いであった。
前
ページへ
次
ページへ
トッ
プ・ページへ戻る