〜9 山田合戦・縄釣台(なわつるしだい)の戦い〜

 永正17年(1520年)7月、奥州勢すなわち結城顕頼、岩城由隆の軍勢が軍備を整えつつあるとの情報が入った。よって那須政資は上那須諸将を山田城に 集め、軍議に明け暮れていた。
「奥州勢との戦い、どのように戦うべきか意見あるものは申せ!」
 20歳半ばの那須政資は立派な武将へと成長した。この頃には那須壱岐守政資と名乗るようになっていた。政資の問いかけに最初に答えたのは、大田原資清を 蹴落とし、勢力をのばした大関宗増である。大田原資清を追放した功もあり、大田原の土地の一部も手中に治めるようになっていた。
「奥州勢は大軍勢であります。まともに戦っては勝ち目はありませぬ。ここは、ろう城がよろしいかと。さらに、こちらには地の利がありますれば、隙をみて 討って出て、作戦次第では打ち果たすことも出来まする。」
 それを受けて伊王野資勝が発言した。
「大関殿の意見に賛成です。まずは、ろう城して奥州勢を引き付けておき、奴らが疲弊しきったところで、烏山の資房様が背後から急襲すれば、たまらず、混乱 するでしょう。そこで、城から討って出て、はさみうちにするのです。奴らに敗走されても地の利を活かした戦いをすれば良かろうかと。」
「うむ。他の者はどうか?」
 他の将らも賛成していたので、ろう城策がとられることになった。
 
 8月になると、ついに奥州勢が攻めてきた。彼等は他の那須諸将の城には目もくれず、まっすぐに政資のいる山田城へ向かった。山田城は規模は小さいが自然 の地形を利用した要害である。東側は那珂川に接し崖となっている。また南側には金丸氏の金丸要害があり、そこも複雑な構造をした堅固な城であった。結城顕 頼、岩城常隆の子の由隆は総勢1500の兵を率いて山田城を攻撃した。山田城では那須政資、大関、福原、金丸、稲沢など300の兵が守っており、弓矢で応 戦し防いでいた。
 芦野資豊と伊王野資勝は、奥州から那須への侵攻口である白河口に近いので、自分の城の防備を固めていたが、山田城が攻められているのを知り、討って出 た。しかし、多勢に無勢である。ここは退くべきと判断し、烏山の那須資房と合流しようとした。
 一方、作戦通り、那須資房は烏山を出て、興野式部大輔隆般(たかつら)、千本資次、森田、角田らと共に850の兵で山田城へ向かった。奥州勢は手をこま ねいていたので、別の作戦を考えていた。つまり、烏山城を攻めることである。このまま、山田城攻めを長引かせては、那須資房の軍勢が援軍として来るであろ うから、そうなると、はさみうちになってしまう。そうなる前に、資房勢を烏山へ封じこめておく必要があったのだ。早速、岩城由隆は、山田城攻めは結城顕頼 にまかせ、1000の軍勢を率いて烏山城へ向かった。
 那須資房勢は那珂川沿いに山田城へ向かっていたが、ここで急報が入った。
「お屋形様!政資様からの使者があり、岩城勢1000が烏山へ進軍中とのことです。」
「なに!?まことか?今から烏山へ引き返しては間に合わぬぞ!」
 慌てた資房を制したのは興野隆般であった。あの興野景隆の子である。もともと興野家は那須資房の叔父の那須持隆が興した家であることは前述した。家自体 は小さく、わずかな家臣しかいなかったが、資房には信頼されていた。
「慌てることはございません。奴らが烏山へ向かったのであれば、やはり、那珂川沿いに南下してくるでしょう。我らは山崎辺りで陣をはり、待ち構えれば良い のです。」
 山崎に陣をはっていると、芦野資豊と伊王野資勝が総勢100の兵で合流してきた。

 岩城勢が縄釣台まで来た時、目に入った資房勢に岩城由隆は驚いた。対岸に資房の軍勢がいるのだ。しかし予定外のことではあったが、岩城家の有力家臣の志 賀備中守、白土淡路守は慌てず、判断した。
「志賀殿。いかがする。」
「うむ。兵は我らと変わらぬ数だな。だが、このまま突っ込んでも、奴らに地の利がある。罠があるかもしれぬ。」
「確かに・・・。」
「見よ!白土殿!あそこに白旗がある!資房はあそこにいるのだ!」
「おー、確かに白旗だ。そうか!では、あの白旗目指して全軍を進め、資房の首をとってしまえば、奴らは総くずれ。我らも兵力温存出来る!」
「殿、お下知を!」
 かくして、岩城勢は大声をあげながら全軍で川を渡り、資房の陣へと迫った。

 資房は大慌てであった。岩城勢の突撃により、味方は大混乱であった。資房勢は横に広がった陣形であったために、3つに分断されてしまい、不利な戦況に なってしまった。
「もはや、これまでか!敵に首をとられたとあっては、先祖に申し訳が立たぬ!この上は潔く切腹して果てよう!」
「お待ち下され!何を考えておられるのか?我が兵は必死に戦っておりまする。死ぬのは最後の一人になってからにしてもらいたい。」
 興野隆般がまたもや制した。そして、伊王野資勝を探して言った。
「伊王野殿!今の状況を変えなければ負け戦でござる。聞けば、伊王野殿の家臣には強弓(つよゆみ)の者が多いという。その者たちに、岩城勢の中の名のある 武将と思われる奴を射殺して欲しい。」
「なるほど、心得た!鮎瀬(あゆがせ)!鮎瀬源蔵はおるかー!?」
「はっ!ここに!」
「強弓の者を数人引き連れて、岩城勢中の立派な鎧、兜をまとった武将を討て!首はとるな。とにかく数多く討ちとれ!」
「はっ!」
 鮎瀬源蔵と数人の者は、他の伊王野家の兵や興野家の兵に守られながら、強弓を討ち続けた。普通の弓では貫通しないような鎧でも、強弓であれば貫通させる ことが出来る。
 那須資房は、
「無駄なことはするな!」
 と、あきらめていたが、興野隆般が勇気づけていた。
 鮎瀬源蔵が次々と矢を放ち、とある岩城家中の武将1名を射殺した途端に岩城勢が混乱しだしたのがわかる。岩城由隆でも討ちとったかと思ったが、そうでは なく、岩城家の有力家臣の白土淡路守を射殺したのであった。たちまち白土勢が混乱し逃げ出してしまった。志賀備中守は混乱を制しようと必死であったが、白 土勢は混乱したままである。そのうち、混乱に乗じて那須勢が志賀備中守に迫り、激しく剣を交えた。鮎瀬源蔵は那須の武将と岩城の武将が戦っているのを見 て、矢を放った。矢は見事に志賀備中守に突き刺さった。この隙に那須の武将が志賀を討ち取ったのである。白土と志賀の死により岩城勢は総くずれである。
 この機を逃す那須勢ではない。一気に追い立て、岩城勢は佐竹領に逃げ込む者もいれば、霧深き山に逃げ込み、追われるまま崖から転落して命を落とす者も多 く、地獄絵図のようであった。もちろん、那須の兵は地元であるので地理に詳しい。よって、崖から落ちる者などいなかったのである。
 志賀備中守と白土淡路守の討死、岩城勢敗走の情報は山田城を囲む結城勢にも伝わり、急速に戦意を失った。ここぞとばかり、那須政資は、金丸、稲沢の兵ら と共に城外へ討って出たことにより、結城勢も敗走してしまって、ここに那須家の勝利が確定したのである。
 軍功一番は何と言っても興野隆般であったことは言うまでもない。また、那須家はこの戦いによって、上那須と下那須の絆を固め、真に那須家をひとつにし た。

前 ページへ
次 ページへ
トッ プ・ページへ戻る