〜12 大田原資清〜

 22歳で那須を追われ越前永平寺に入った大田原資清(永存)は、運命的な出会いをしていた。ある日、越前福井城主の朝倉孝景が墓参りのため、永平寺に やって来た。多くの僧に出迎えられた朝倉孝景は、僧の中に風格非凡な僧を見つけた。それこそ大田原資清(永存)であった。声をかけ、朝倉孝景は資清の那須 での話などを聞いた。二人はまるで昔からの知り合いのように話していた。
「資清。関東の兵法とは、どんなものだ?」
「ただ進退、時機に応ずるのみでございます。」
「なるほど。では、このわしをどう思う?」
「ご無礼を承知で言わせていただきます。朝倉様は武力を政治の基本としておられますが、これは君主として恥じるべきことでございます。領民あっての朝倉 様、家臣あっての朝倉様です。」
「ハハハハ。確かにそうだ。言ってることは正しい。これより、その言葉を我が戒めとし、より良い君主になろう。資清、礼を申すぞ。」
 朝倉孝景はすっかり資清を気に入り、度々、城へ呼んでは、語りあった。いつの間にか、資清は朝倉家の食客になっており、那須から資清を慕って追ってきた 妻も城下で一緒に住み、男子も授かった。那須の状況は妻の生家の金丸家からの使者や、旧家臣もよく訪れていたので、よく耳に入っていた。

 天文11年(1542年)、金丸家の使者が資房の書状を持参した。
 そこには、大関宗増の横暴、資房と政資の失脚などの状況の他に、資清への謝罪と、那須への復活を望むことが書かれていた。忘れかけていた宗増への恨みが 蘇った。忘れかけていた武士の魂が蘇った。24年も前のことであったが、昨日のことのように覚えていた。当時、22歳の資清は46歳になっていた。当時、 仲の良かった伊王野資直も既に41歳であり、伊王野家の棟梁となり立派な武将になっていた。
 資清は朝倉孝景に相談したのである。
「資清。わしのところにも那須政資殿から書状が参っておる。状況は全てわかっておるつもりじゃ。おまえはどうしたい?」
「私は、孝景様に恩がありまする。出来れば、孝景様のもとで・・・。」
「恩など考えるな!おまえの本心が知りたいのだ。」
「・・・・那須へ戻り、大関宗増を討ち、政資様と那須家を作りなおしたい!」
「うむ、それで良い。そう言うと思ったぞ。いつ言うか待っておった。それでこそ、わしが見込んだ男だ。おまえは永存である前に資清であるのだ。僧である前 に武士なのだ。仇討ちせずして武士とは言えぬからな。それで、いつ出発する?」
「那須では、密かに作戦を練っております。準備が整い次第、使者が参ります。そうなれば、すぐにでも。」
「そうか・・・。では、みやげを渡すゆえ、出発の前は城に寄るのだぞ!」
「何から何まで、有難うございまする!」

 しばらくすると、大田原家旧家臣が資房の使者として来た。
「この度の戦い、公には那須家が加わることは出来ません。大義名分に欠けるからです。しかし、資房様と政資様により、宇都宮家の支援を取りつけておりま す。」
「しかし、何故、宇都宮家が支援してくれるのだ?」
「宇都宮家としても、今、那須家と事を構えたくないようです。かえって、関係を深くしたほうが、結城家攻略に専念出来るというものです。」
「そうか。ならよい。」
 出発する前に約束通り福井城の朝倉孝景を訪ねた。
「孝景様に受けた御恩は終生忘れませぬ。また、越前で学んだことをもって、必ずや大田原資清の名を全国に知らしめましょう。」
「うむ。そうなれば、わしも鼻が高いぞ。必ず、仇討ちを成功させよ。約束じゃぞ。たまには、文もよこせよ。お互いに情勢を報告し合おうではないか。」
「は!落ち着いたら、必ず文出しまする。」
「そこでだ。わしからのみやげを用意した。」
 そう言うと孝景は、資清を城門まで連れていった。そこには、朝倉の兵250が待っていた。
「こ、これは孝景様!?いったい・・・。」
「わしの兵250を貸し与える。那須へ一緒に連れて行くのだ。いずれも精鋭の者。役に立つであろう。事が成就したら、越前へ帰せばよい。」
「もったいない!有難いことです。必ず、宗増を倒し、孝景様からお借りする兵を損なうことなく、お返しいたしまする。」
 資清は泣いていた。朝倉孝景と出会ったことは人生最大の喜びでもあった。そして、別れは最大の悲しみでもある。しかし、打倒宗増は悲願であり、孝景の心 づくしを無駄にしてはならない。必死に涙を拭う資清であった。そして、孝景と資清、那須へ同行する250の兵は盃を交した。勝利を祈ってのことであった。

 250の兵は幾つかに分けて下野を目指した。資清が小山付近に来ると、さらに300の兵が加わった。かつての家臣や一族・郎党、さらには他家に仕えるよ うになっていた旧家臣らも、許しを得て、兵を与えられ参加したのである。24年の恨みを晴らす仇討ちであれば、武士の情けで、資清に味方する者が多かっ た。
 宇都宮に来ると、宇都宮尚綱より300の兵が貸し与えられた。そして、川崎城にて時機を伺うように言われたのである。確かに川崎城に待機するのが地理的 にも都合がよかった。

 時機を待っていたある晩のことである。突然、資清の兄の麟道和尚が訪ねてきた。麟道和尚が住職を務める長興寺は川崎城のすぐ東側に位置しており、川崎城 主の塩谷(しおのや)家の菩提寺でもあった。よって、城の人間には顔見知りである。
「おおー!兄上!元気であったか!?」
「やはり、お主は武士の道を捨て切れなかったようじゃな。わしも見誤ったわい。」
「すまぬ。兄上・・・。兄上には愚弟のため心配をかけてしまった。坊主になってお詫びしたいくらいじゃ!」
「ハハハハハ、すでに坊主頭のくせして良く言うわい!」
「まったくだ!ハハハハハ!」
「すっかり元気なようで安心した。生き生きしておる。これこそが、お主の道じゃな・・・。実は、今日、突然、参ったのには、わけがある。夜陰に紛れて来な ければ行かぬわけがな。」
「なんじゃ、兄上。怪しいことを言う。」
「資清。この度の戦いには那須家としては支援出来ないのは存じておるな?」
「当然じゃ。那須家は、今回は裏方に徹しておる。」
「うむ。しかし、密かに城を抜け出し、手勢を率いて、どうしても合流したいと言う那須の将がおってな。わしを訪ねてきたのじゃ。」
「誰じゃ?金丸殿か?我が妻の生家じゃから・・・。」
「いーや、違う。実はのう、すでに廊下で待たせておる。わしもお主も良く知っておる人物じゃ。幼少の頃は、二人でよく長興寺に遊びに来ては、騒がしくし、 わしを悩ませておったろう。」
「まさか!?」
「分かったようじゃな。お入り下され!」
 襖を開けて入って来たのは、懐かしい伊王野資直であった。24年ぶりの再会であった。
「資清殿!お懐かしゅうございます。この資直。いてもたってもいられず、手勢50を率いて、参陣いたした。是非、仲間に加えて頂きたい。」
「資直殿!久し振りじゃー!」
 資清は大喜びし、資直を抱きしめてしまった。
「あいたた、お離し下され。資清殿。少しは加減して下され。」
「おー、すまぬ。資勝殿もお元気か?」
「父上は隠居したとは言え、まだまだ現役でござる。元気過ぎて、わしも頭を痛めておるわ。」
「ハハハ、良いことじゃ。しかし、本当に良いのか?那須家は公には参陣出来ないと聞いておる。」
「しかた無いであろう。これが武士道だ。しかし、城には父もおるし、子の資宗もおれば安心。また、政資様も見て見ぬふりしてくれるだろう。主力は城に残し ておる。わしは少ない手勢で来ただけだ。」
「そうか、かたじけない。この資清は嬉しいぞ。それに、お主も父になったか。わしもじゃ。互いの子供同士も仲良くなってもらいたいのう。」
「まったくでござる。それにしても、麟道和尚!話が長すぎでござる。忘れられているのかと思いましたぞ!」
「すまぬ、すまぬ。わしも資清と会うのは久し振りじゃからのう。」
 その夜は酒を交しながら、遅くまで話していた。懐かしい話ばかりで、資清は幾分か緊張が解けたようであった。時は同じく天文11年(1542年)の12 月のことである。

 川崎城には900の兵が集まっていた。城主塩谷伯耆守孝綱は兵の多さに驚く始末。資清は、その間にも、旧家臣に命じて、大和久村で兵馬や兵糧を集めてい て、準備に余念はなかった。そこで、時機を待っていた資清に朗報が入る。大関宗増は白旗城に戻り、子の増次は従者だけを連れ、狩りに出かけたというのだ。
 早速、兵を率いて、大田原資清は大関増次が狩りをしているという金丸山へ向かった。十数名の従者だけを伴った大関増次が何も知らずに狩りをしていた。
「資清殿。あれが宗増の子、増次だ。」
 草むらに身を隠しながら、伊王野資直が資清に教えた。資清はまず驚かせようと、密かに兵を囲ませた。そして、おもむろに増次に見えるように出た。
「どうじゃ?獲物の成果は?しかし、そのようなへっぴり腰ではのう?」
「なんだ?おまえは!?このわしが大関増次と知ってのことか!」
「若君!あれは・・・、大田原資清にござりまするぞ!」
「なにー?おまえが資清か?父上に滅ぼされたと聞いていたが、生きていたのか。しっぽを巻いて逃げていたというわけか?ハハハハハ。しかし、今さら何しに 来た!負け犬めが!」
「いつまで、そのへらず口がたたけるかな?」
 資清が右手を挙げると、隠れていた兵たちが姿を現わした。
「な!?なんじゃ、これは!?」
「増次!そちに恨みは無いが、貴様には悪い評判しか聞かぬ!よって宗増ともども成敗いたす!」
 増次らも必死に応戦したが、結果は目に見えていた。追われるまま、石井沢まで逃げ、小屋に増次と一人の家臣が逃げ込んだ。他の従者はすでに討たれてい た。
「もうよい・・・。この増次、あきらめた。皆、よう戦った・・・。自害して果てよう。だが、わしの首を奴らに渡すでないぞ。すぐ、小屋に火をかけよ!」
 小屋を囲んでいた資清たちであったが、燃える小屋を前にどうしようも無かった。火が消えつつあるのを見て、家臣が小屋を探すと、首のない死体と、首のあ る死体があった。増次の首は無かったのである。小屋の周囲を探させたが無かった。ふと、首のある死体の腹が異様に膨れているのに気付いた資清は、家臣に腹 を確かめさせた。すると、腹からは増次の首が出て来たのである。
「敵ながら、あっぱれじゃ。手厚く葬ってやるのだ・・・。」
 宗増がどのような悪逆な臣であっても、忠義に厚い家臣がいることが資清には良くわかった。この時、宗増を襲う時は、家臣の命は助けようと心に決めたので ある。

 白旗城の大関宗増は何も知らずにいた。
「殿!城が囲まれておりまする!」
「なにー!?どこの軍勢じゃ!?」
「そ、それが・・・・。」
「よい!」
 そう言って外を見ると、かつて見た旗がそこにはあった。
「あの旗印は!大田原!!資清が生きておったか!?」
「大関宗増!もはや逃げ道はないぞ!増次とて石井沢で自害して果てた!」
 大軍に囲まれた宗増は腹を決めた。
「資清の策に負けたのじゃ。」
 潔い宗増であった。家臣の命を助けるためにも自ら和睦を求めたのである。
 宗増を捕えた資清は次に福原資澄(資安)の片府田城を囲んだ。資澄も宗増が捕えられたと知ると、さしたる抵抗もしないまま、城を開けて降伏したのであ る。
 ここに大田原資清が24年ぶりに那須の地に復活したのであった。天文11年12月のことであった。

 翌年の天文12年(1543年)になると、大田原資清は那須家への忠義を示す。宇都宮方であった塩原の宇都野城主の山本伊勢守資宗を攻め滅ぼしたので あった。城主も討ち死にとなる悲惨な戦いであったが、城主の弟は命を助けられ獄山の別当となった。

 大関宗増と福原資澄の処遇については那須政資とも相談し決めた。大関宗増は隠居とし、跡継ぎが既にいなかったので、資清の嫡男に跡を継がせ、名を大関高 増とした。福原資澄は仏門に入り高野山へと去って行き、福原家は資澄の弟の資衝(すけひら)が継ぐことになった。
 大田原家は復活したと共に、大関家も手に入れ、大田原一族としては、那須本家に次ぐ勢力となったのである。もちろん、大関家を継いだ大関高増にしてみれ ば、宗増の息のかかった家臣に囲まれ、苦労は耐えなかったが、反抗する家臣らを謀略によって誅することによって、徐々に大関家を一つにしていった。高増も 資清に劣らぬ大器であった。
 伊王野家では伊王野左衛門尉資直の時代になっていた。子の資宗は22歳となり、非凡なる才能を発揮しており、資直はこの時から早めに資宗に家督を譲るこ とを考えていたのであった。

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