〜13 五月女坂(さおとめざか)の戦い〜

 大田原資清が那須に劇的な復活を遂げた一ヵ月前のこと、宇都宮家では、宇都宮尚綱によって芳賀高経が謀殺された。これも宇都宮家を守るためではあった が、芳賀高経の子の高照は家臣に守られ、白河結城家に逃れ、身を寄せていた。成長するとともに父の仇討ちを考えるようになり、那須家にも働きかけた。
 この頃、天文18年(1549年)、那須家では資房は病気がちであり、政資は3年前の7月に亡くなっていた。名実共に26歳の那須高資が君主であった。 高資は大関宗増に育てられたせいもあり、守るよりも攻めるのを好んでいた。当然、その矛先は予てからの考えのように、宇都宮家に向けられた。大田原資清は 宇都宮家には大関宗増征伐の際に恩義があるので、良しとしなかったが、高資は聞こうとはしなかった。高資は芳賀高照から頼られたことで、宇都宮家を討つ大 義名分を得たために、同年9月27日、ついに宇都宮家に対して兵を挙げたのである。
 48歳の伊王野左衛門尉資直の正室は亡き政資の娘であった。宇都宮家と結ぼうとした政資への忠義もあり、高資に従って宇都宮家を攻めるわけには行かな かったので、政資の死とともに隠居をし、子の資宗に家督を譲ったのである。

 那須修理大夫高資は喜連川五月女坂に出陣し、宇都宮尚綱と戦った。那須勢は那須高資、芳賀高照、大田原備前守資清、大田原山城守綱清、大関右衛門佐高 増、福原民部大輔資衝(すけひら)、佐久山義隆、芦野日向守資豊、芦野大和守資泰、伊王野下野守資宗、千本常陸介資俊、金枝近江守義隆、興野隆致(たかと も)、稲沢俊吉ら300余騎と岩城重隆と佐竹方の荒巻為秀の援軍。宇都宮勢は大軍2000余騎。那須高資は五月女坂の北の柴薬師山に陣を張り、宇都宮尚綱 は五月女坂の南の小山に陣を張って、軍兵を指揮していた。
 那須と宇都宮は激しく争ったが、圧倒的な兵力に物を言わせた宇都宮軍に対して有利に運ぶことは出来なかった。まだ、午前中は互角であったが、午後になる と、さすがの那須勢も疲れが見え始め、劣勢となった。尚綱は勝利を確信し始めた。自軍の兵が疲れたら退かせ、無傷の兵を送りだし、那須勢を苦しめた。
 状況を打破するためにも伊王野資宗は手勢を率いて、小山を越えて尚綱の陣営に肉薄した。
「よいか!尚綱の首さえ獲れば、敵方は総くずれになろう!」
 尚綱は守りを固めたが、那須方の伊王野勢の鮎瀬(あゆがせ)弥五郎実光を始めとして、黒羽(くろう)筑後、同太左衛門、薄葉備中父子、小白井玄蕃、秋庭 助右衛門、小滝勘兵衛などが奮闘し、宇都宮勢が劣勢となった。
「弥五郎!あの馬上の立派な武将こそ、宇都宮尚綱である。矢を放つのだ!」
 資宗の命を受けたのは、縄釣台の戦いで、那須資房の命を救った鮎瀬源蔵の子である弥五郎であった。鮎瀬弥五郎は数人の兵を伴い、松山から敵の背後に回り 込み、馬上から指揮している宇都宮尚綱の姿を確認した。鮎瀬弥五郎は宇都宮尚綱を狙い、見事、弓矢で射殺し、首をも手に入れてしまった。宇都宮尚綱は37 歳という若さで世を去ったのである。鮎瀬弥五郎は大声で名乗った。
「宇都宮尚綱討ち取ったりー!那須勢、伊王野家家臣、鮎瀬弥五郎実光が討ち取ったりー!」
 尚綱の討ち死ににより、宇都宮勢は総くずれし、士気も衰え、宇都宮城へ退却し始めた。これを知った那須高資は、宇都宮勢を追い立てた、宇都宮家を滅ぼす 勢いであった。敵の大将尚綱の旗まで奪い奪ってしまった。宇都宮家にとっては屈辱である。宇都宮勢の満川忠親と横田5兄弟が必死にくいとめ、身体には何十 本の矢が刺さったが、那須勢を突破させなかった。満川忠親と横田5兄弟は立ったまま息絶えていたが、すでに逃げ切られたと思った高資は深追いは避け、戻 り、伊王野資宗と鮎瀬弥五郎を賞賛した。

 高資は、弥五郎の殊勲を賞して、名を豊前と給い、感状に太刀一口と銭十貫文を添えて授け、資宗は、弥五郎の秩禄を増した。後、弥五郎は尚綱討ち死にの場 所に永楽十貫文を充てて五輪塔を建立し、その霊を弔った。その場所は現在も弥五郎坂として地名に名を留めている。
 宇都宮勢は宇都宮城へ退却しようとしたが、この混乱の中で、壬生綱房と弟の徳雪斎に乗っ取られてしまう。もともと宇都宮方の壬生家は、尚綱が出陣するの で、後詰めの兵として宇都宮城に入城したのだが、裏切ったのである。実はこれも芳賀高照の策であった。高照は仇討ちのために、那須高資と壬生綱房を利用し たのである。芳賀高定は尚綱の幼な子、6歳の加賀寿丸を保護し、なんとか飛山城へ逃げ戻った。

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