〜15 那須資胤の初陣〜
那須資胤は君主として烏山城へ入った。まだ8歳であるがゆえに、那須諸将に守られながら、育っていった。これまで、岩城家と交流があったが、高資が死ぬ
と、佐竹家とも交流を深めた。翌年天文21年(1552年)の11月になると、資胤のいる那須家に安心したかのように、那須資房は息を引き取った。また、
同年、佐竹家の頼みもあり、家臣芦野大和守資泰に白河結城領を荒させたりし、那須家と白河結城家とは再び険悪になっていった。
弘治元年(1555年)、那須高資を謀略によって倒した芳賀高定の次なる目標は、宇都宮城奪還である。またしても謀略により、芳賀高照を討つことに成功
した。しかし、壬生綱房とて非凡なる将であったので、謀略だけでは宇都宮城を奪還することは出来なかった。壬生綱房が死に、綱雄が跡を継ぐと、芳賀高定は
佐竹義昭、北条氏康、那須資胤を味方に引き込んだ上で、宇都宮城を占拠していた壬生氏を攻撃して、弘治3年(1557年)には宇都宮城を奪回する。これら
の功により、高定は宇都宮広綱の後見役として宇都宮家の中で筆頭的な立場になった。もともと、宇都宮家の忠義の臣であったので、芳賀家は芳賀高照の弟であ
る高継に継がせ、芳賀家を本来の血筋に返したのであった。
永禄元年(1558年)、那須資胤は15歳になっていた。佐竹家との交流はさらに深まり、佐竹義篤の弟の義元の娘が大関高増に嫁いだ。また、佐竹義昭の
娘は宇都宮広綱の妻となったので、この頃の那須家、佐竹家、宇都宮家は同盟国とも言えた。佐竹家はかつての自領で今は白河結城領になっている陸奥南郷を攻
め取りたいと考えていたが、北条家とも争っていたので、なかなか手を出せずにいた。しかも、白河結城晴綱は北条家と親交を深め、盟約により、佐竹領である
常陸北辺を荒しまわっていたために、佐竹義昭は那須資胤に対して、白河結城領を荒して欲しいと依頼したのである。那須家は資胤の成長を待つ思いもあり、ま
た、資胤を中心とした那須家づくりに精を出していて、大きな戦は控えていたが、佐竹家の依頼もあり、烏山城にて奥州勢に対する軍議を開いた。
大田原資清は62歳となっており、その影響力はあるものの、一線を退き、大田原家一門のリーダーは資清の長男である31歳の大関高増(たかます)となっ
ていた。また、資清の次男、三男も元気に育っており、次男の孫太郎は福原家へ養子に出し、三男は大田原家を継がせ綱清(つなきよ)とした。福原家へ次男を
養子に出したのは大田原一門を栄えさせようとしたためであった。
伊王野資宗は41歳となり、働き盛りであった。嫡男は6歳になっていた。この嫡男の母は塩谷伯耆守義房の娘であり、塩谷家は川崎城主で宇都宮家の一族で
ある。那須家と宇都宮家は敵であったり味方であったりしているが、塩谷伯耆守義房の娘が資宗に嫁いだのは、那須政資が存命の頃、宇都宮家と親交を深める政
策のひとつであった。
芦野大和守資泰は30歳となり、その妹は那須資胤に嫁ぎ、芦野家も資胤の信頼を厚くしていた。
福原資衝は、なかなか男子が生まれなかったので、那須資胤の弟の九郎を養子とし、自分の娘を嫁がせた。後に資衝には男子が生まれたが、約束を違えず、九
郎には資郡(すけくに)と名付け跡取りとし、後に生まれた男子は金丸家に養子として出した。しかし、資郡にも娘しか生まれなかったので、大田原資清の次男
の孫太郎を養子にして資孝(すけたか)とした。
興野隆致(たかとも)は千本城の変以来、隠居を決め、嫡男の隆徳(たかのり)に家督を継がせた。
奥州勢に対する軍議は資胤による説明の後の、興野隆徳の言葉から始まった。
「お屋形様からのお話の通り、佐竹様からの要請により、白河結城家を混乱させなければならぬ。」
「佐竹様の思惑は、最近、白河結城が佐竹領内を荒すゆえに、佐竹領に集中出来なくさせて欲しいということであるな。」
芦野資泰が発言した。すると大関高増が後を続けた。
「佐竹様の願いでござる。素直に白河へ攻め入りましょう。謀略をもって混乱させることも出来まするが、佐竹様から印象を良くするには攻め入るべきでしょ
う。」
ここで資胤が言った。
「しかし、なるべく兵力は温存したい。佐竹家や宇都宮家と同盟とは言っても、那須家が衰えれば、対等の立場で話をすることも出来ぬ。」
これに対し高増は言った。
「それはもっともなこと。さすが、お屋形様だ。だが、白河へ攻め入るのは形だけでも良いのでござる。攻めては退き、退いては攻め、また、近辺に火をかける
など、荒すだけで充分。那須家に大きな損害を与えないような戦いで良いのでござる。」
伊王野資宗が高増の意見に対して言った。
「わしも高増殿の意見には賛成だ。岩城重隆の娘は佐竹義昭様に嫁いでおるので、岩城が結城を支援することは無い。気掛かりは芦名盛氏だけだ。されど、この
戦によって、芦名の本心もわかるというものだ。」
那須資胤がまとめた。
「よく、わかった。つまり、こちらの兵力を温存する形で攻め入り、万が一、芦名が結城につけば、兵を退く。それでよいな!」
「ははっ!!」
意見はまとまった。早速、兵をまとめ、出陣したのである。これは資胤の初陣でもあった。
資胤率いる那須勢が白河の皮籠原(かわごはら)まで来ると、白河結城の兵に発見された。最初は敵も少数であったので、優勢であった。那須勢は、そこら中
に火をかけ荒しまわった。そのうち、白河結城勢が増え、互角の戦いとなってきた。すでに当初の目的は達成したと思えた、その時、芦名勢が到着したのであ
る。もちろん、結城への援軍としてである。途端に那須勢は劣勢となり、先陣の大関高増は討たれる寸前を、那須資胤の弟の資郡(すけくに。資経とも。)に救
われるほどであった。
那須勢は兵力温存のためにも、すぐさま兵を退き、那須領へと戻って行った。結城、芦名連合軍も「何かの策か?」と思い、深追いは止めたので、那須勢はた
いした損害もなく、帰ってこれたのである。いずれにしても、負け戦ではあったが、佐竹家の信頼を得ることは出来たのである。
この5年前、川中島で上杉謙信と武田信玄が戦った。また、那須資胤の皮籠原の戦いの頃は、毛利元就が厳島の戦いで陶晴賢を破り、斎藤道三が子の義龍に殺
され、木下藤吉郎が織田信長に仕えた頃であった。
永禄3年(1560年)になると、桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を破った。その前年、常陸の結城晴朝は、古河公方の足利義氏の孤立化を恐れて、関宿
城にいた。晴朝の留守を狙って、常陸の小田城主の小田氏治は結城城を攻めたが、留守を預かる小山高朝に反撃され退いてしまった。ゆえに、翌年の永禄3年1
月に、佐竹義昭の勧めもあり、再び攻めた。佐竹義昭は同盟諸国にも呼びかけ、那須資胤、宇都宮広綱も援軍として参加したが、結局、結城城は落城しなかっ
た。
この結城城攻略中に、那須家では惜しまれつつも息を引き取ろうとしていた人物がいた。あの大田原資清である。結城城攻めは主に下那須の将で行なってお
り、上那須の将は白河結城家への備えとして、防備を固めていたので、資清の危篤の際には、子供達が集まることが出来た。1月のことであった。
資清がいよいよ危ないと知って、上那須の将達は各自お見舞いに参じた。疲れさせてもいけないと将達は日を別にして訪問した。伊王野資勝・資直父子も隠居
したとはいえ存命であったので、二人で見舞うと、資清は涙を流して喜んだ。特に親友であり、弟とも思える資直には、昔の話を語り合ったり、那須家のことや
息子達のことを頼んでいた。(余談だが、資直の嫡男の資宗には3人の男子がいた。嫡男資信、次男直久、三男直清である。名前から判断すれば、資宗を含める
と資直の頃の武将たちの名が一文字づつ3人に入っている。資宗の「宗」は大関宗増の「宗」。宗増は資宗の元服の際に烏帽子親にでもなっていたのか。直久の
「久」は幼くして殺害された那須資久の「久」。直清の「清」は大田原資清の「清」。「直」はもちろん資直の「直」である。資直の様々な思いが込められてい
るように思えてしかたない。)
1月17日になると、資清も寿命が間近であることを悟ったのか、3人の子供達を呼んだ。
「高増、資孝、資清。この父の命、そう長くはない。これからのこと、3人で力を合わせ、大田原一門を繁栄させるのじゃ。この父の恩人であり、友とも言える
朝倉孝景様の書状によれば、上杉、武田、今川、毛利など数国を領有し、勢力を増しておるとのことじゃ。関東では、小領主がしのぎを削っている状態ゆえ、い
ずれ、大勢力が下野の地にも侵入してくるであろう。その前に大田原一門の勢力を増やしておかねばならぬ。少しづつでよい。近隣の小領主を飲み込んでしま
え。情けは身を滅ぼす。」
「同じ那須の将の地を奪いとれと言うのですか?」
大関高増が聞くと、
「そうじゃ。それが生き残るための道じゃ。それから、綱清、おまえは朝倉孝景様に書状を出し、畿内の情報を仕入れ、兄達にも教えるのじゃ。孝景様には綱清
の話をしておる。また、孝景様とて老齢ゆえ、いつ亡くなるか分からぬから、嫡子である義景様でも構わぬ。それも伝えておる。」
「父上のお言葉、しかと承りました!」
綱清が答えた。すると、高増が父に聞いた。
「父上。まずは誰を攻めるべきでしょうか?」
「自分で考えよ。わしは何も言うまい。ただ、大田原と隣接する佐久山には早めに対処するのじゃ。隣接してるだけでなく、佐久山義隆は恐るべき逸材じゃ。だ
からこそ、娘を嫁がせたのじゃ。しかし、いずれ、おまえたちの脅威となるだろう。それから、伊王野家には手を出すな。伊王野資直殿は親友であり恩人じゃ。
伊王野殿とも協力して事を進めるのじゃ。伊王野殿にも頼んであるから心配は無い。うっ!」
「父上!しっかり!、しっかり、なさいませ!」
「この資清もここまでのようじゃ・・・。よいな?大田原一門を頼むぞ。よいな・・・・。」
ここに大田原資清は激動の人生に幕を閉じた。享年64歳であった。(大田原系図には75歳とあるが、諸説により64歳とした。没年は変わらず。)
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