〜16 長編 小田倉の戦い〜

 永禄3年(1560年)1月、大田原資清が亡くなった。大関高増には父資清の言葉が耳に残って離れなかった。大きな野心が渦巻き出したのも、この頃で あった。
 関東では上杉景虎(後の謙信)の力が増してきた。関東管領に任じられることが決まっていた景虎は武田家など周辺の武将と争う一方で、関東も平定しなけれ ば関東管領と言えぬと考えていた。その力は上野、下野にも伸び始めていた。下野では佐野家、宇都宮家が恭順の意を示した。那須家は恭順の意を表わさなかっ たので、景虎の同盟の芦名盛氏に背後を揺さぶり身動き出来なくするよう頼んだ。そこで、芦名家は白河結城家も誘い、那須家を攻めることにした。

 16歳の若武者、那須資胤は緊急に軍議を開き、那須諸将の意見を求めた。まず、発言したのは大関高増である。
「攻められる前に攻めるべきだ!那須の地を荒されたくない。2年前に我々は皮籠原で村々に火をつけて荒したから、那須領内に入れれば、仕返しされるぞ。」
 高増の意見に最初に賛成したのは弟の大田原綱清であった。
「私も同感です。敵は多勢に違いありません。地の利では不利かもしれませんが、白河近辺なら調べつくしておりますゆえ、それほど不利とも思えません。」
 すると資胤は考えこんでから言った。
「確かに、那須の地を荒されるのは我慢出来ない。宇都宮家や佐竹家が攻め込んでくることは無いから、守りの兵を減らしてでも、攻めの兵を多くし、白河領内 に侵入すべきであるな。佐竹殿にも援軍を頼むことにしよう。」
 今度は芦野資泰が思い出したように言った。
「待って下さい。佐竹様は、まだ北条との争いが残っているはずです。援軍を出す余裕などありましょうか?」
「なるほど。高増!至急、佐竹殿に援軍を要請するのだ。」
「わかりました。では、すぐに行って参りまする。ごめん!」
 そう言うと、高増は軍議の席を離れ、佐竹義昭のいる太田城へ馬を走らせた。大関高増の妻は佐竹義昭の叔父の娘であったので、佐竹家との折衝役はおおむね 高増に任されていたのだ。

 翌日になって高増が戻った。烏山城には資胤の他に、千本資俊、福原資郡、芦野資泰が残っていた。
「高増。ご苦労であった。佐竹殿は何と申された?」
「はっ!やはり、北条への備えのために兵を割いておるとのことでした。しかし、荒巻駿河守為秀殿が兵1000を率いて応援に来て下さるとのことです。」
「1000か!有難いことだ。」
「はい。荒巻殿は五月女坂の合戦でも佐竹方からの援軍として、我らとともに戦ってくださった勇猛な将です。荒巻殿が来てくれれば百人力、いや千人力で す。」
「そうか。心強い限りだな。」
「それから佐竹義昭様から資胤様への言付けもございます。」
「佐竹殿より?ほー、申してみよ。」
「この度の戦、義昭自らが出陣出来ず申し訳ない。北条勢とのことが決着つき次第、白河結城へ出陣し、きっと討ち果たすゆえ、この度は荒巻駿河守になんなり と申しつけて欲しい。また、せめて策だけでも預けたいので、大関殿に話しておくゆえに、聞いておいて欲しい。以上です。」
「なにからなにまで、かたじけないのう。して、その策とは?」
「白河の西、西郷村の小田倉原にて本陣をはり、奥州勢を待ち受けるのです。そして、その前に夜陰に乗じて、小田倉原の側面に軍勢を伏せておくのです。奥州 勢は多勢とはいっても、小田倉原では、側面から見れば、陣形は伸びておりますゆえ、側面から敵大将の陣へ攻め込むのです。」
「なるほどな。さすがは佐竹殿だ。しかし、定石では皮籠原と言われておるが。」
「皮籠原では白河城に近すぎるのです。いざ、我らが側面から突き、討ち破ったとしても、背後から白河城の兵が襲ってくるのが早すぎてしまうのです。」
「全くもって見事な考えだ。」
「資胤様は那須諸将と共に小田倉原で奥州勢を待ち受けて下さい。わしは荒巻殿と綱清を伴い、前日の夜に出陣し小田倉原側面で待機しておりますゆえ。」

 同年3月になって、芦名勢が動いた報が伝わると、その日の夜には作戦通り、大関高増、大田原綱清、荒巻駿河守為秀は小田倉原側面に兵1100を隠した。 翌日の朝早くから那須資胤は興野隆徳、池沢左近、滝田、川井、金枝といった下那須の将と烏山城を出発して小田倉原へ出陣した。下那須諸将の千本資俊などは 準備が遅れていて、資胤と同行は出来なかったが、芦野資泰、福原資郡、伊王野資宗、佐久山義隆、金丸下総守義直、稲沢といった上那須の将は途中で合流し、 那須勢は兵600で本陣を固めていた。
 結城晴綱は兵500で城を出て小田倉原へ向かい、芦名盛氏・盛興父子も兵2500で小田倉原へ向かった。結城勢は佐竹を警戒し、白河城の守りを固めてい たので、大部隊ではなかった。主力は芦名勢である。奥州勢は合わせて3000の大軍であった。
 那須資胤勢を見つけると、芦名盛氏は声高らかに叫び、命令を下した。
「見よ!那須の若僧がおる!今ごろ、烏山城で震えておると思っていたが、小田倉原まで出張ってくるとは、良い度胸じゃ!芦名家の恐ろしさを思い知らせてや れ!松本備前!兵1000を率いて、資胤の命、奪って参れ!」
 芦名勢の松本備前が那須の本陣に怒涛の勢いで押し寄せた。されど、那須勢とて歴戦の勇者が揃っている。必死に戦い、互角のまま戦況は進んだ。そこへ、さ らに芦名勢500と結城勢500も突っ込んでくると、那須勢も劣勢となってしまった。資胤も自ら必死になって戦っていた。
「くそっ!高増はどうしたのだ!何故、動かぬ!?」
「兄上!まさか、高増の謀略では!?始めから、佐竹殿と組んでいたのでは!?」
「信じたくはないが、高増の父の資清も謀略が得意であった。ありえない話ではない!」
 那須資胤は弟の福原資郡と共に防戦一方であった。そのうち、圧倒的な兵力の差もあり、資胤も負傷する有様である。
「兄上!大丈夫ですかー!?」
「おのれ!高増!本当に裏切るのか!?資郡よ。わしはここで自害する。おまえは烏山へ戻り、わしの跡を継いでくれ。」
「何を言いますか!?自害などと簡単に言ってはなりませぬ!」
「佐竹殿も裏切っているのなら、北条でも上杉でもよい。力を貸してもらい、那須家を再興するのだ。」
「兄上がここで自害すれば味方の士気は一気に落ち、総崩れは目に見えております。この資郡とて無事に逃げられるかどうか。ですから、自害はおやめくださ い!」
 と、その時である。ついに大関高増、大田原綱清、荒巻為秀の1100の兵が動いた。劣勢であった那須勢は息を吹き返し、那須資胤の近辺にいた下那須三輪 村の野武士50人は必死に矢で応戦し、その中の17歳の岡源三郎が、芦名勢の会津武者奉行佐瀬源兵衛の嫡男の源七郎の馬を射殺し、落馬した佐瀬源七郎を、 岡源三郎の叔父である藤右衛門が走り寄り、首を取ってしまった。さらに勢いづいた那須勢であった。次第に奥州勢は後退し始め、それを見た芦名盛氏は叫ん だ。
「何をしておるかー!退くでない!奥州武士の底力を見せてやるのだ!」
 そこでさらに、盛氏は無傷の1500の兵を率いて、那須本陣へ向かおうとした。しかし、那須方面から土煙が見えた。
「ん?あれは・・・・?」
 遅れていた千本資俊などの軍勢が兵100にて猛進して来るではないか。
「殿をお守りするのじゃー!関東武士の意地を見せよー!」
「オー!」
 千本勢の声が響き渡る。芦名盛氏は千本の軍勢が100には見えず、もっと大部隊に見えた。
「なんたることじゃ!那須勢はまだこんなにいるのか。これは、たまらん。皆の者!退けー!」
 芦名本陣から退却を指示するホラ貝が吹き鳴らされた。芦名勢も結城勢も退却したのである。那須勢は皮籠原付近まで奥州勢を追い回し、ついに奥州勢は逃げ 去って行ったのである。

 那須資胤は負傷のせいもあり弱気になっていたが、高増に対する不信感を抑えることは出来ず、資郡に高増を呼ぶように言った。
「兄上。まずは怪我の手当を先に・・・。」
「よい!すぐ高増を呼ぶのだー!」
 大関高増が現われると、資胤は聞いた。
「高増!貴様はわしを殺す気か!?貴様が動くのが遅れたせいで、わしはこのざまだ!」
 すると高増は唖然として言った。
「遅れた?何を言われます?遅れたのは資俊殿でしょう。わしは那須家の勝利のために時機を待って動いたまでのことです。充分、奥州勢を引き付けてから動か なければ、作戦も無意味ですぞ。」
「時機を待っただと!?このわしが討たれるのを待ったのであろう!わしが生きておるので驚いたのではないか?どうだ!?」
「どうだと申されましても・・・。この度の戦、褒められるならともかく、怒られるようなことは何ひとつしておりませぬ。那須家の被害も必要最小限で、奥州 勢を追っ払いましたから、目的は達成され、那須家の勝利です。」
「奥州勢を追撃しなかったのは何故だ!?」
「それは無理にござりまする。芦名盛氏の本隊は無傷でありましたから、深追いは危険でした。」
「ううむ・・・・。」
 大関高増の言葉ももっともなことであったので、資胤は言葉に詰まってしまった。そこへ、荒巻為秀が凱旋してきた。
「資胤様!この度の戦の勝利おめでとうござりまする。我が殿もお喜びなさるでしょう。ん!?なんと!?怪我しているではありませぬか?早く手当を!」
 佐竹家の臣、荒巻為秀の手前であるので、内輪もめを見せたくない資胤は、荒巻に礼を述べると、退却の命令を出した。

 この小田倉の戦いは、那須家にとっては、奥州勢を追っ払い、勝利と言えた。芦名盛氏にとっても、上杉景虎からの依頼通り、那須勢を封じ込めたので、勝利 と言えた。お互いに得るものはあったのか?芦名は上杉の信頼を得た。那須はというと、資胤と高増の間に亀裂が入り始めただけであった。

 同年8月になると、佐竹義昭が本格的に奥州攻めに乗り出した。上杉景虎の関東進出のため、北条氏康は佐竹に構っていられなくなったので、一時、手を引い た。そこで、佐竹はかつての自領である陸奥の南郷を奪還する決意をしたのである。
 佐竹義昭は8月7日に結城晴綱の属城である寺山城を攻めた。佐竹方には約束通り、那須資胤以下那須諸将が味方し、結城方には芦名盛氏が味方した。佐竹方 優勢であったが、寺山城はなかなか落ちなかった。9月23日になると、那須資胤のもとへ、古河公方足利義氏から書状が届いた。その書状には、
「上杉が上州に攻め込んでいるので、佐竹家と結城家の争いをやめるように説得して欲しい。」
 と書かれていた。上杉景虎の関東侵入の目的は、まず、この頃すでに上杉憲政より私的に譲られていた関東管領職を朝廷に認めさせるためであるが、大義名分 は里見家からの救援要請で北条家を討つことにあった。北条家の庇護の下で存続していた古河公方としては、もともと白河結城家は北条方として佐竹家と争って いたので、北条と佐竹の争いを停戦させ、北条家が上杉景虎の侵攻に専念出来るようにしたかったのである。もっとも、古河公方足利義氏の行動の背後には北条 氏康がいたのは言うまでもない。
 那須資胤にしてみても、小田倉の戦いで疲弊した那須家であったので、戦は好まぬところであったので、佐竹義昭への仲介の労を惜しまなかった。また、10 月になると、足利義氏は芦名家にも同様の書状を出し、結城家を説得させた。争いは11月初旬には終わり、和睦となり、佐竹家は寺山城を入手することで兵を 退いた。佐竹義昭としては、ここで、上杉よりも北条寄りの態度を見せることによって、北条家を油断させることが出来るとも考えていた。11月16日になる と、那須資胤に北条氏康から仲介の礼を述べる書状が届き、北条家とよしみを通ずることも出来、メリットのある仲介役と言えよう。

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