〜17 資胤と高増の不和〜

 小田倉の戦いから3年後の、永禄6年(1563年)。大関高増は小田倉の戦いでの功績の一番は自分だと思っている。しかし、那須資胤は高増に対して不信 感を抱いてしまっていたので、功績の一番は弟の福原資郡だと思っている。それを他の家臣にも吹聴するので、高増は面白くなかった。資胤にしてみれば、兄の 高資が死んだのも大田原資清が背後にいたような気がしてならない。6歳の時に資清に言われた「那須家の将来のためにも、兄上を討ってくださらぬか?」とい う言葉が蘇ってくる。いったい、誰を信用して良いのか、資胤は分からなくなっていた。唯一、信頼していたのは、弟の福原資郡だけである。しかし、資郡は男 子に恵まれず、大田原資清の次男資孝を養子としているので、次代には益々大関高増が増長してくるのは目に見えていた。しかも、最近では、高増に登城を命じ ても、病気と称し、あまり登城しない始末。そこで、資胤は決心して謀略をもって、高増を殺害する決心をする。まず、大関高増の家臣、松本美作守通勝を密か に呼んだ。
「お屋形様。何用でございましょうか?高増様にも内緒とはきな臭いではありませんか?」
「松本。大関高増をどう思う?」
「は!?・・・・。お父上、大田原資清様に優る大器だと家臣の中ではもっぱらの評判です。」
「そうだ。大器ではある。しかし、大器過ぎて、主家である那須家をないがしろにし、那須家にとって替わろうとしている。」
「ま、まさか?そのような・・・。」
「那須家のために高増を註殺するのだ。そのためにおまえを呼んだ。高増の跡、大関家は松本にまかせる。どうだ?悪い話ではなかろう?」
 松本は深く考えこみ、こう答えた。
「わかりました。資胤様の言う通りにします。」

 松本美作守は白旗城へ戻る途中でいろんなことを考えていた。討つべきか討たぬべきか。どちらについても、忠義の臣として言い逃れは出来るであろう。しか し、大関高増とて豪傑の将である。まともに戦っては勝ち目はないことは松本も知っていた。
 白旗城に戻り、大関高増に会うと、迷っていた考えはひとつになった。
「殿。実は、今、お屋形様に呼ばれ、命令を受けて、戻って参りました。」
「お屋形様に?」
「はい。お屋形様の申すには、那須家のために高増様を註殺しろとのことでした。そこで、断わっては、私の命すら危ないと思い、引き受けたふりをして、戻っ て参りました。」
 高増は身を震わせ、怒りをあらわにした。
「罪なくして滅ぼされるは無念。第一、殺される理由がはっきりしない!」
 高増は資胤の宣戦布告と受け取り、ただちに、信頼出来る家臣を集め、軍議を開き、さらに、上那須諸将に声をかけ、伊王野城に集結させた。資胤は上那須諸 将についても小田倉の合戦では非があると言っていたので、軍議は一致団結した決議で終えた。すなわち、資胤に対する謀叛である。

 上那須諸将の同意を得た大関高増は、妻の実家である佐竹家へ相談に出かけた。佐竹義昭は既に隠居し、嫡男の義重が継いでいた。義重に全てを説明すると、 義重はこう言った。
「高増殿のお怒りもっともだ。この上は高増殿に協力するゆえ、大船に乗ったつもりでいなさい。」
 佐竹義重にしてみれば、那須家を乗っ取る良いチャンスと思ったのだ。宇都宮家には自分の妹を宇都宮広綱に嫁かせ、ほぼ手中に治めていたので、那須家を 乗っ取れば、北条など一気に攻め落とせると考えた。
「しかしな、高増殿。このままでは高増殿の那須家に対する謀叛になってしまう。そこで、私の弟の義尚を、亡き那須高資殿の養子として奉じてはいかがか?勝 利の暁には、しかるべき那須家の娘と縁組を行なえば良い。」
「それは良い策でありまする。それなら、この高増、逆臣の汚名を受けずにすみまする。」
「うむ。一族の東義堅を遣わそう!」

 同年3月になると、大関高増は、大田原綱清、佐竹家一族の一族の東義堅と共に烏山へ攻め寄せた。突然のことで那須資胤は驚いたが、出陣し、烏山城近くの 大海で戦った。劣勢の資胤勢は烏山城へ逃げ、ろう城することにした。さすがに難攻不落の烏山城でろう城されては、たいした策も立てられず、大関勢は兵を退 くことになった。いずれにしても、ここで大関・大田原・佐竹対那須資胤という図式が決定したのである。そして、今後の那須諸将の去就が注目された。
 3月23日になると、資胤はふいに下那須諸将と共に、大関高増の白旗城へ仕返しとばかりに攻め寄せた。しかし、白旗城は落ちなかったので、資胤は兵を退 いた。

 下那須諸将は那須資胤の味方になることを誓ったが、上那須ははっきりしない。資胤は大関や大田原以外の上那須諸将に何度も書状を出したが、いずれも家臣 を含め話し合いをしているから待って欲しいとの返答であった。
 大関高増も上那須諸将の懐柔に奔走した。もちろん伊王野城での軍議で味方になってくれる約束はもらっていたが、複雑な絡みもあったのである。

 福原家の当主の資郡は資胤の弟であったが、養子の資孝と福原家は分裂してしまう。資孝は高増の弟なので、福原家は資胤側と高増側に分かれたのである。
 佐久山義隆に対しては、資清の遺言もあり、永禄6年中に福原資孝に攻めさせ、滅ぼしてしまった。伊王野資宗は佐久山家の悲劇を不憫に思い、佐久山家一族 の佐久山左衛門佐信隆を家臣として受け入れ、信隆の一人娘を、11歳の嫡男の伊王野資信に嫁がせた。
 また、伊王野資宗は、父の資直が存命であり、資直の妻、つまり資宗の母が那須政資と大田原資清の娘の間に生まれた子であることもあって、迷っていたが、 資直が資清に「我が子供達を頼む。」と頼まれていたこともあり、隠居の父の願いに従い、大田原一門に味方した。
 芦野資泰は妹が那須資胤に嫁いでいたので、資胤に味方をしたいと思っていたが、地理的な問題で資胤に味方すれば、芦野家も危ないことが分かっていた。そ こで、大関高増は、当時8歳の資泰の嫡男(後の盛泰)に自分の娘を嫁がせることを約束して、芦野家は大関方につくことになった。後に千本資政に嫁いだ娘が 離縁されたので、盛泰の嫁がせた。
 稲沢家は小家であったので、伊王野家と行動を共にすることが多かった。ここでも、伊王野家にならい大田原一門につくことにした。
 金丸義直は資胤側につくことを決めた。しかし、大関高増の娘が大関家家臣である金丸伊予守資満(金丸家の一族)に嫁いでいたので、資満に頼み、金丸家を 動かし、金丸家中でも大関側につく者もいたという。金丸家は混乱に巻き込まれ分裂したのである。それは、大関家でも同じであった。高増に賛同する者が全て では無く、離反し、資胤につく者もいた。
 このような状況の中、再び、戦いは開始されるのである。

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